令和元年10月22日 妙法院・三十三間堂 |
久方ぶりの、「三十三間堂」でした。中央の「中尊」を中心に各500体(国宝)、合計1001体がご本尊です。この「十一面千手観音菩薩」をお詣りして思わず安堵感を持てました。 「千体観音堂」は正式には「蓮華王院(れんげおういん)といい、長寛2年(1164)鳥部山麓(現・阿弥陀ケ峯))の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が寄進しました。・・・ 梅原猛氏の「京都発見二 路地遊行」で「三十三間堂」を再勉強しています。 「後白河上皇と三十三間堂」 日本の歴史に登場する幾多の中で、後白河法皇ほど複雑な人を私は知らない。彼は、鳥羽天皇と待賢門院璋子(しょうし)との間に第四皇子として生まれたが、皇位継承の望みがないことを良いことにせて遊興に耽った。その彼に思いも掛けず天皇の位が転がり込んできたが、それは父の鳥羽上皇と兄の崇徳上皇(実は白河法皇と璋子の間の子)との対立のためであった。鳥羽上皇が死ぬと、崇徳上皇と後白河天皇との間に戦いが起こった。これが保元(ほうげん)の乱である。この戦いは、平清盛や源義朝を味方にした後白河天皇側の勝利に終わった。さらにこの三年後、平治の乱が起こり、平清盛は源義朝を滅ぼし、後白河の皇位を安泰にしたが、それと同時に平氏の全盛時代を迎えることになった。 保元の乱後、既に退位していた後白河は、現在の三十三間堂即ち蓮華王院のあった法住寺殿に移住され、そこを根拠地として様々な寺院を建てられた。蓮華王院はそれらの寺院の一つであり、観音堂である。「三十三間」堂とは尺貫法における一間ではなく、柱と柱の間の数が三十三もある細く長大な御堂という意で、当時から「三十三間の御堂」と呼ばれた。その後白河の三十三間堂は鳥羽上皇が、清盛の父の平忠盛に命じて造営させた得長寿院に始まる。後白河上皇の三十三間堂、即ち蓮華王院の本尊が千手観音であるのに対し、得長寿院も、蓮華王院と同じように長大な建物であったのであろう。・・・ |