明日香 5 (見瀬丸山古墳と飛鳥京跡調査現地説明会) |
奈良県立橿原考古学研究所・飛鳥京跡第151次調査 現地説明会配布パンフテットの明日香村航空写真です。 (正面下、石舞台古墳・中央部、飛鳥京・左上緑色の部分、甘樫丘) |
背景は欽明天皇陵お堀から、東方、飛鳥を望んでいます。 |
3月13日、飛鳥京の発掘現地説明会が有るとの新聞発表で出かけてみました。天気は上々。いよいよ春だな・・・と感じられる陽気となりました。 予てから、見瀬丸山古墳を訪ねたいと思っていましたので、橿原神宮前駅からは南に下り、古墳を訪ねながら、石舞台付近の現地まで歩いて行くこととしました。 |
見瀬丸山古墳 全長約310m、前方部幅約210m、高さ約15m、後円部径約150m、高さ約21m の前方後円墳で、奈良県下では最大、全国でも6番目の規模を誇っています。 こんもりとした木の生い茂る後円部のみが宮内庁の陵墓参考地で、他の部分は指定されていない為、侵食が進んでいます。残念です! 古墳北側から、後円部を望みます。ポイント後は南側からの姿です。 |
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軽の地 古代軽の地域は、見瀬町を中心に、石川町、大軽町、五条野町、近鉄線の西では西池尻町にかけての一円であったようです。 軽にあった皇居は、軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)、軽境原宮(かるのさかいはらのみや)、軽島豊明宮(かるのしまとよあきらのみや)の3つです。 万葉集では軽の地名は、軽の池、軽の市、軽の路、軽の社の4つが登場します。 軽の池の 浦廻(うらみ)行き廻(み)る 鴨すらに 玉藻(たまも)の上に ひとり寝なくに (巻3・三九〇) 軽の池を泳ぎまわる鴨でさえ、ひとり寝はしないのに・・・紀皇女(天武天皇の娘)の歌。 今回、池を探してみましたが、見当たりませんでした。住宅地の中に埋没してしまっているようです。 |
飛鳥飛鳥浄御原宮 今回の現地説明会は飛鳥京跡第151次調査報告です。飛鳥京跡は明日香村岡にある宮殿跡です。この付近は、下層からT期、U期、V期の遺構があり、T期は舒明の飛鳥岡本宮(630〜)、U期は皇極の飛鳥板蓋宮(643〜)、V期は斉明、天智の後飛鳥岡本宮(656〜)と天武・持統の飛鳥浄御原宮(672〜694)と考えられています。研究所では1979〜80年に今回発掘調査した地域の直ぐ南部分を発掘し内郭南門と内郭前殿の調査をし、その部分は現在埋め戻されています。 今回の調査では、石組溝、石敷広場、池状遺構、塀をみつけています。すべて、V期の物と推定されています。石敷広場を持った大きな宮殿とその横にある憩いの施設と思われる池の存在は立派な王権の存在を印象づけます。 第152次発掘現場は第151次発掘現場から300m北に位置しています。ここからは大きな石組の溝(メインの排水を兼ねた水道?)と掘立柱塀跡が出土しています。これも、持統の時期のものと考えられています。151、152次発掘調査は飛鳥浄御原宮の全体像の一部を示しているのでしょう。(以上、現地説明会資料を参考にしています。) 写真左下は正殿跡、右下は池跡、中央は石敷広場と考えられています。写真上部の庭木風部分は埋め戻された内郭南門と前殿部分です。 ポイント後は152次調査地です。 |
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島荘遺跡(しまのしょういせき) 島荘には『日本書紀』や『万葉集』の記述から、蘇我馬子の「飛鳥河の傍の家」、草壁皇子の「嶋宮」が存在したとされており、蘇我馬子の邸宅には池をもつ庭園jがあったことが知られています。 蘇我本宗家の滅亡後、邸宅のあった嶋の地は官の没収となったようで、壬申の乱の直前には天武天皇が吉野宮に行く途中で立ち寄っています。(現地説明会資料参考) 写真、黄色線は馬子邸宅跡(7世紀前半)、水色線は嶋宮の建物跡(7世紀後半)と推定されています。 |
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島荘遺跡を後に、橘寺を西に、定林寺跡・天武持統天皇陵・欽明天皇陵をめぐり、今度は、見瀬丸山古墳を西から訪ねながら橿原神宮前駅へ戻ってきました。欽明天皇陵のお池の水の色に春の訪れ近しの感がしました。 10時から3時、距離では、10キロ以上は歩いていると思います。チョット疲れました。 |