箸墓伝承 倭迹迹日百襲姫命 (やまととひももそひめのみこと) 人はこれをヒミコの墓と言います。 全長272mの前方後円墳 |
8月2日 前回訪ねる事が出来なかった箸墓をめざして、JR巻向駅を下車して歩き始めました。梅雨が明け大変暑くなりそうでした。三輪山を背景とした箸墓の佇まいは、心に染み込む風景といえます。 |
「日本書紀」崇神天皇10年9月の条 時に大神恥じて、忽ちに人の形となりたまふ。其の妻(みめ)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)でむ」とのたまふ。よりて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、御諸山(みもろのやま)に登ります。ここに倭迹迹日百襲姫命仰ぎ見て、悔いて急居。則ち箸に陰を撞きて薨(かむさ)りましぬ。すなわち大市(おおち)に葬(はぶ)りまつる。故、時人、其の墓を號(なづ)けて、箸墓(はしのはか)と謂ふ。この墓は、日は人作り、夜は神作る。故、大阪山の石を運びて造る。すなわち山より墓に至るまでに、人民(おおみたから)相踵ぎて、たごしにて運ぶ。時人歌して曰く、 大阪に 継ぎ登れる 石群を たごしに越さば 越してかむかも (二上山へ戻ります。) (當麻寺へ戻ります。) |
内田康夫著 箸墓幻想 の書き出しは下記のようになっています。 寒波が去って高気圧が上空を覆うと、奈良盆地は霞立つ。ふだんは雄々しく見える三輪山の姿も、山裾の辺りはレースを纏ったように、やわらかく煙っていた。 箸墓古墳の黒々とした小山のような木々の群生を手前に配して、三輪山を仰ぐこの風景が、長井明美はことのはか好きだ。じっと佇んで目を閉じると、箸墓の主である。「女性」の死を悼んでおいおいと哭き叫ぶ女たちの声が聴こえてきそうな気がする。 「・・・倭迹迹日百襲姫命は7代考霊天皇の皇女で、10代崇神天皇の伯母。いま言ったように三輪山の大物主神の神託によって、崇神天皇の治世を補佐した。つまり神がかりしたシャーマンだったわけだな」・・・・「崇神は『ハツクニシラス』と評価されたことからも判るとおり、実在した最初の天皇だといわれている。その伯母が倭迹迹日百襲姫命で、これだけの規模の墓を造るということは、要するに大和朝廷成立以前に、勢力の強い王族や女王が存在したと考えられる。」・・・・・ |
「箸墓幻想」ではこの古墳をヒミコの墓とは断言していませんが、「日本史探訪」の中で、林屋辰三郎氏は上の伝承を踏まえ、「三輪王朝が、いかにして亡きヒミコの宗教的な権威を受け継ぐかという苦心の作で、やはり箸墓は伝承どうり、ヤマトトトモモソヒメの墓であるとしていいと思います。」ヒミコに比定されているヤマトトトモモソヒメは、いわゆる葛城王朝系の巫女王(ふじょおう)で、ヒミコの持っていた祭祀権を葛城王朝系に代わって三輪王朝系が把握したのではないか?としています。 ”ヤマタイ国はどこ?”の論争は最近ではスッカリ畿内説が有力になっているようです。 明石散人(「東洲斎写楽はもういない」などの作家)などは高橋克彦との歴史対談のなかで断言しています。 |
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大和三山登頂成功へ |