多武峰万葉旅行

 

多武の山

ふさたをり 多武の山霧 しげみかも 細川の瀬に 波のわける (9・1704)

 

倉梯川

梯立の 倉梯川の 石の橋は 男ざかりに わが渡りし 石の橋は(7・1283 柿本人麻呂歌集)

 

多武峰・鎌足

  天皇、鏡王女に賜へる御歌1首

妹が家も 継ぎ見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを (2・91)

  鏡王女、和へ奉れる1首

秋山の 樹の下隠り ゆく水の われこそ益さめ 御念よりは    (2・92)

  内大臣藤原郷、鏡王女を嫂ひし時、鏡王女、内大臣に贈れる歌1首

くしげ 覆ふを あけて行か 君が名はあれ わが名し惜しも(2・93)

  内大臣藤原郷、鏡王女に報へ贈れる歌1首

くしげ みむろの山の さなかづら 寝ずはふひに ありかつましし(2・94)

  天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、春山萬花の艶、秋山の千葉の彩を(あらそ)はしめ給ひし時、
額田王、歌以ちてあ
(ことわ)れる歌

冬こもり 春さり来れば 鳴かさりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 

山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木葉を見ては 

もみちを 取りてやしのふ 青きをば 置きて歎く そこし恨めし 秋山われは(1・16)

  内大臣藤原郷、采女安見児を娶りし時作れる歌1首

われはもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすとふ 安見児得たり  (2・95)

 

鏡王女(かかみのおおき 生年未詳〜天武12年(?〜683)

舒明天皇の皇女または皇孫とする説と、鏡王のむすめで額田王の姉であろうとする説があります。
天智天皇、天皇より歌を賜り、これに答える。(2・91、92)。また内大臣藤原郷(鎌足)に
(つまど)われ、歌を贈答しています。(2・93,94)。
初め天智に召され、のち鎌足の室となったか?『興福寺縁起』によれば不比等の母。
天武12年(683)7月5日、薨ず(紀)。その前日、天武天皇の見舞いをうけています。

(鏡女王(鏡王女)千人万首から)