二上山万葉旅行

 

  叡福寺(聖徳太子墓)・・・推古帝30年(622年)2月22日薨、斑鳩宮に。   三骨(太子、穴穂部間人皇后、妃膳皇女)1廟(円墳)

 

 大阪越

     穴虫越、竹ノ内越。

     當岐麻道

     本、難波の宮に坐しし時、大嘗(おほにへ)に坐して、豊明(とよのあかり)()す時に、大神酒に(うら)げて、大御寝したまひき。茲に其の弟墨江中王、天皇を取りまつらむとして、大殿に火を著けたりき。・・・

 

大阪を 吾が越え来れば 二上に 黄葉(もみちば) 時雨降りつつ (10・2185)

 

二上山

 大津皇子、石川郎女に贈れる御歌1首

あしひきの 山の雫に 妹待つと 吾立ち()れぬ 山の雫に (2・107) 

 石川郎女 和は奉れる歌1首

吾を待つと 君が沾れけむ あしひきの 山の雫に ならましものを (2・108)

 大津皇子 窃に石川郎女に婚ひし時、津守連通其事を占へ露はしつ

 皇子の御作歌1首

大船の 津守の占に 告らむとは 正しに知り 我が2人宿し (2・109)

 

 日並(ひなみし)皇子尊、石川郎女に贈り賜る御歌1首 郎女 字を大名児といふ

大名児(おほなこ)を 彼方(をちかた)野辺(のべ)に 刈る草の 束の間も 吾忘れめや   (2・110) 

 

 《朱鳥(あかみどり)元年 (698年)9月》

 大津皇子 窃かに伊勢神宮へ下りて上り来ませる時、大伯(おおく)皇女(ひめみこ)御作歌(つくうりませるうた)2首

わが背子を 大和へ遣ると 夜ふけて (あかとき)露に 吾が立ちぬれし (2・105)

二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかに君が ひとり越ゆらむ(2・106)

 

 大津皇子の被死(つみなは)えましし時、磐余の池の(つつみ)にて涕を流して御作歌1首

百伝 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見て 雲隠りなむ  (3・416)

  右は 藤原宮、朱鳥元年冬10月

 大津皇子薨給ひし後 大来皇女、伊勢の斎宮より京に上りし時 御作歌2首

神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君のあらなく(2・163)

見まく欲 我がする君も あらなく なにしか来けむ 馬疲るるに(2・164)

 

 大津皇子の(みかばね)を 葛城の二上山に(うつし)葬り(はふり)し時、大来皇女哀傷して御作歌2首

現身(うつそみ)の 人なる我や 明日よりは 二上山を 兄弟(いろせ)と我が見 (2・165)

磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在るりといわなくに

(2・166)

 右の1首は、今案ずるに、屍を移す歌に在似ず 蓋し疑ふらくは、伊勢神宮やり京に還りし時、路上に花をみて、感傷哀咽して、この歌を作りたまひしか