初瀬安騎野万葉旅行

 

  隠口(こもりく)のはつせ

 

忍坂(おつさか)の山

隠口の 長谷の山 青幡の 忍坂の山は 走出の 宜しき山の 出立の (くは)しき山ぞ (あたら)しき山の 荒れまく惜しも    (13・3331)

 

  墨坂と吉隠(よなばり)

住坂

  柿本朝臣人麻呂の妻の歌1首

君が家に 吾住坂の 家道をも 吾は忘れじ 命死なずと   (4・504)

吉隠(よなばり)

但馬皇女薨じ給ひし後、穂積皇子、冬の日雪降るに 遥に御墓を望み、悲傷流涕して御作歌1首

()る雪は あわには降りそ 吉隠の 猪養(いがひ)の岡の 寒からまくに (2・203)

 

吾が門の 浅茅色づく 吉隠の 浪柴の野の もみち散るらし  (10・2190)

 

鏡王女押坂墓

秋山の 樹の下隠り 逝く水の われこそ益さめ 御思ひよりは (2・92)

「忍坂の鏡王女墓の付近は、大和でもめずらしい静寂の山ぶところだ。木の葉隠れにゆく細流の音は、内にひそめた恋ごころの深さを、いまに語ってやまないし、墓上の松籟もまた、千古にひびく人間慕情をつたえつづけている。」

 

初瀬

隠口の 泊瀬の山の 山の際に いさよふ雲は 妹にかもあらむ  (3・428人麻呂)

 

泊瀬路

隠口の 豊泊瀬路は 常滑の (かしこ)き道ぞ 恋ふらくはゆめ  (11・2511)

泊瀬川

泊瀬川 白木綿(しらゆうふ)花に 落ちたぎつ 瀬を(さや)けみと 見に来し吾を  (7・1107)

泊瀬川 まがるる水脈(みを)の 瀬を早み 井堤越(いでこ)す浪の 音の清けく  (7・1108)

 

  阿騎野(あきの) 

 

菟田(うだ)吾城(あき)

即日(そのひ)、菟田の吾城に到りたまひき。大伴連馬来田(まくた)黄書(きぶみ)造大伴、吉野の宮より追ひ至りき。この時、屯田司(みたのつかさ)の舎人土師(はじ)連馬手、(みくるま)に従ふ者の(をしもの)を供へき。甘羅(かむら)の村を過ぐるに、猟者(かりひと)20余人あり。大伴朴本(えのもと)連大国、猟者の(ひとのかみ)たり。すなわち悉に喚びて従駕(みとも)せしめき。また美濃の王を()ししに、すなはち参赴(まゐむ)きて従ひき。湯沐()の米を運ぶ伊勢の国の(においうま)50匹、菟田の郡家(こほり)(ほとり)に遇ふ。仍りて皆米を棄てて歩者(かちびと)を乗らしめき。大野に到りて日暮れき。山暗くしてすすもこと能はず・・・・(紀)(672年6月24日)

 

   軽皇子の阿騎野に宿りませる時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌

やすみしし 吾大王 高照す 日の皇子 (かむ)ながら 神さびせすと 太敷かす (みやこ)を置きて 隠口の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を (いわ)が根 さへ櫛おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎の大野に 旗薄 しのをおし()べ 草枕 旅宿りせす 古思ひて 

   短歌

阿騎の野に 宿る旅人 うち靡き ()も寝らめやも 古おもふに

真草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみじば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡(かたぶ)きぬ

日竝(ひなみし)の 皇子の尊の 馬()めて 御猟(みかり)立たしし 時は来向ふ

                  (1・45、46、47、48、49)