十二
山背・恭仁京
山背
とく来ても 見てましものを 山背の 高の槻群 散りにけるかも (3・277 黒人)
布当の歌
久邇の新京を讃むる歌2首並びに短歌 (以下 田辺福麻呂)
現つ神 わが大王の 天の下 八島の中に 国はしも 多くはあれども 里はしも 多にあれども 山並の 宜しき国と 川次の
立ち会ふ郷と 山城の 鹿背山のまに 宮柱 太敷きまつり 高知らず 布当の宮は 河近み 瀬の音ぞ清き
山近み 鳥が音とよむ 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼びとよめ 春されば 岡辺も繁に 巌には 花さき撓り
あな何怜 布当の原 いと貴と 大宮処 諾しこそ わが大王は
君の随 聞かし給ひて さす竹の 大宮ここと 定めけらしも (6・1050)
反歌2首
三日の原 布当の野辺を 清みこそ 大宮処 定めけらしも (6・1051)
山高く 川の瀬清し 百世まで 神しみ行かむ 大宮ところ (6・1052)
みかの原の歌
春日悲傷三香原荒墟作歌1首並びに短歌 (以下 田辺福麻呂)
三香の原 久邇の京は 山高み 河の瀬清み 住みよしと 人はいへども 在りよしと 吾は念へど 古りにし 里にしあれば 国見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり
愛しけやし 斯くありけるか 三室つく 鹿背山の際に 咲く花の 色めづらしく
百鳥の 声なつかしく 在りが欲し 住みよき里の 荒るらく惜しも (6・1059)
三香の原 久邇の京は 荒れにけり 大宮人の 遷ろひぬれば (6・1060)
咲く花の 色はかはらず 百敷城の 大宮人ぞ 立ちかはりぬる(6・1061)
久邇京の歌
(天平16年2月、安積皇子薨、家持の歌)
かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしきかも 吾王皇子の命の 萬代に 食したまはまし 大日本 久邇の京は
うち靡く 春さりぬれば 山辺には 花咲き撓り 川瀬には 年魚子さ走り いや日けに 栄ゆる時に 逆言の 柱言とかも
白妙に 舎人装ひて 和豆香山 御輿立たして 久方の 天知らしぬれ
こひまろび 沾ち泣けども せむすべもなし (3・475)
反歌
吾王 天知らさむと 思はねば 凡にぞ見ける 和豆香杣山 (3・476)
あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬる如き 吾王かも (3・477)
安積皇子の墓
天平16年閏1月11日聖武天皇の難波行幸のとき、安積皇子(あさかのみこ)は中途から脚気の為恭仁京に還られ13日年17歳で亡くなられたという(続紀)。
この歌はその2月3日皇子の死を悼んだ家持の挽歌である。安積皇子は聖武天皇と夫人犬飼広刀自との間の子で、神亀5年(728)異腹の兄基王の亡くなった年に生まれた。
男皇子はただ一人だから当然皇太子になるべきだが、天平10年(738)阿倍内親王(光明皇后の子)の立太子をみたのは、藤原氏の優位確保の理由があったのだろう。
恭仁京における家持は、皇子に期待する所が多かったらしく、たびたび皇子と宴をともにし親密の度を加えていた。
藤原氏にしてみれば皇太子の地位の安泰のためには抹殺すべき存在であったかも知れない。悲しい運命の人にはちがいはない。
墓所は瓶原から北東に和束川の清流に沿ってさかのばること5キロ、和束町大字白栖k小字勘定、和束川北岸の丘陵地にある。(藤原仲麻呂の暗殺説もある。)
|