岡田 英弘氏 「皇帝たちの中国」 |
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2014年12月12日 岡田英弘氏の中国の歴史についての諸説は一部、本当なのか?という点もあるのですが、大変勉強になる歴史記述と言えます。まず「皇帝たちの中国」の最初の部分をセレクトします。 中国の歴史は皇帝の歴史 中国に君臨した皇帝たちの肖像をたどっていくと、中国とはどんな国であるか、中国人とはどんな人々であるかという問題に行き着くことになる。 なぜなら、いわゆる中国の歴史とは、皇帝の歴史そのものだからである。近代以前には、「中国」という「国家」があったわけではもなく、「中国人」という「国民」があったわけでもない。言い換えれば、「中国」という国家が先にあって、それを治めたのが皇帝だったのではないということになる。先にあったのは皇帝である。 皇帝の支配が直接及ぶ範囲を「天下」といった。この「天下」とは、具体的には、皇帝を中心に展開した都市のネットワークをさすものであり、各地にみぐらされた商業都市網の経営が、すなわち皇帝制度の本質なのである。 現代のわれわれの意識では、国民が国家を構成することになっているが、こうした考え方は、世界史のうえで、ごく最近になって発生した、新しいものにすぎない。18世紀末の二つの革命、アメリカ独立とフランス革命がきっかけになって、「国家」は「国民」のものだという「国民国家」の観念が、十九世紀に世界中にひろまった。多くの人々が、この国民国家の観念を、近代以前の「皇帝の天下」にあてはめて、それを「中国人=チャイニーズ」という国民が構成する「中国=チャイナ」という国家だったかのようにみなしているわけである。 現代われわれが「中国」と呼ぶこの世界は、西暦紀元前221年、秦の始皇帝がみずから「皇帝」と名乗ったときに誕生した。「秦」が「支那」、つまり「チャイナ」の語源である。この意味で、中国史は、前221年から始まる。俗に「中国四千年」というが、これは20世紀になってから、中国人が言い出してことで、現実には何の根拠もない。 1911年、中国人が満州人の清朝に対して反乱を起こした辛亥革命のとき、革命派はこの年を黄帝即位紀元4609年とした。黄帝は暦を創ったとされる神である。 これは明らかに、日本の神武紀元(西暦前660年)を、神話上の初代の神武天皇の即位の年とする)のまねだったが、この黄帝紀元が「中国四千年」という俗説のもとになった。もちろんこれは神話である。現実の中国の歴史は、西暦2000年まででも2220年間しかない。秦の始皇帝の統一以前には、皇帝はまだいないのだから、中国もなく、したがって中国人もいなかった、と考えなくてはならない。 秦の始皇帝が、はじめて皇帝という名称も用い、皇帝制度を創り出した。・・・・ その後、始皇帝が創り出した皇帝制度を大きく発展させ、天下の統一を事実上回復して、中国文明を方向ずけるには、前漢の第七代皇帝、武帝の登場を待たねばならなかった。・・・ まったく意味の違う中国とローマの「皇帝」 中国文明には、もっとも基本的な要素が3つある。皇帝と、都市と、漢字である。このなかで、最重要の要素はもちろん皇帝なのだが、この、皇帝という言葉自体が誤解を招きやすいので、ここでひとこと説明しておきたい。 日本のヨーロッパ史学界では、「古代ローマ帝国」や「ローマ帝国」という言葉を何気なく使っているが、ここに用語の混同があり、世界史の複雑な問題を含んでいるのである。 厳密に言うと、古代ローマには「皇帝」はいなかった。したがって、古代ローマを「帝国」と呼んでも、それは「皇帝が統治する国家」という意味ではない。 古代ローマの初代「皇帝」として君臨したのはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の甥のガイウス・オクタウィウス(伯父の養子になってガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと改名)だが、彼の正式な称号は「アウグストゥス」であって。「インペラートル」(英語のエンペラーの語源)ではなかった。 「アウグストゥス」とは、内戦に勝ち残ってローマ市を制圧した将軍に対して、元老院が捧げる称号である。・・・つまり「アウグストゥス」の本質は「元老院の筆頭議員」であって、元老院があってひじめて「アウグストゥス」が存在するのである。これにひきかえ中国には、ローマの元老院にあたる機関が存在したことはない。この点で、それ自体が中国世界の中心である「皇帝」は、ローマの「アウグストゥス」とは、まったく性質が異なるのである。 それにもかかわらず、十九世紀の日本の学者が「アウグストゥス」を「皇帝」と訳したのは、先祖代々慣れしたんできた中国史の枠組みでヨーロッパ史を理解しようとしたための誤訳だった。 では、中国の皇帝とは何か。これについて詳しく述べていくことになる。 皇帝の「皇」という字は、火偏をつけると「煌煌」の「煌」になるのでわかるように、きらきらと光り輝くという意味がある。 いっぽうの「帝」という字は、下に「口」を加えれば、「敵」「嫡」「適」などの旁(つくり)となる。 「帝」のもともとの意味はこれらの字と同じで、「対等の相手」という意味を持つ。このことからわかるように、「帝」の本来の意味は「配偶者」である。 では「帝」が配偶者だとすると、相手は誰になるのだろうか。ここで、中国世界の成り立ちに触れる話になってくる。 秦の天下統一以前の時代にも、すでにたくさんの都市が中原地帯に点在していた。中原地帯とは、中国文明の発祥の地である黄河中流域・下流域をさす。 この中原地域に点々と現れた古い都市には、一つの共通の特徴があった。どの都市も土で固めた城壁をめぐらし、城門にはそれぞれに頑丈な扉がついていた。いわゆる城郭都市だったわけである。・・・・・つまり「國」は、今の日本語では「くに」と読むが、本来の意味は城壁に囲まれた空間、すなわち城郭都市をさしたのである。・・・ 神話では、天の神が、その妻である大地母神をはらませ、大地母神は、都市の王家の始祖を産む。この大地母神の「配偶者」である天の神が、しなわち「帝」である。天から雨が降って、大地を潤してそこに生命が生まれるという発想である。・・・・・ ・・・これに対して秦王は答えた。「『泰皇(たいこう)』の『泰』』を取り去り、『皇』を着け、これにいにしえの『帝』という称号を取り合わせて、『皇帝』という称号にしよう。・・・ここにはじめて、「皇帝」という新しい称号が誕生したのである。・・・ この後、 第1章では 前漢の武帝ー皇帝とともに生まれた「中国」 第2章では 唐の太宗李世民ー非中国人を皇帝に迎えた「第2の中国」 第3章では 元の世祖フビライ・ハーンーモンゴル帝国が支配した元朝 第4章では 明の太祖洪武帝朱元璋ー庶民出身の皇帝が建てた最後の漢人王朝 第5章では 清の世祖康熙帝ー満州人の征服王朝「清帝国」 と話は進んでいきます。いずれも後世に大きな影響と与えた皇帝です。現在の中華人民共和国の共産党政府が参考にしているであろう帝国支配の指導者なのではないでしょうか? |
2015年1月15日 改めて、岡田英弘氏の「皇帝たちの中国」を再読しながら、まとめていきます。まず、カバーの見開きです。 18世紀までの歴史を理解するのに、なによりもじゃまになるのが、「国家」という観念である。現代のわれわれは、「国家」という観念に慣れきっていて、国家の無かった時代など、想像もできない。 ところが実は、国家などというものは、19世紀になって世界中に広まった観念だ。18世紀末のアメリカ独立とフランス革命までは、地球上のどこにも国家はなかった。 ここのところがよくわかっていないと、つい、「中国」という国家があって、「中国人」という「国民」が中国を構成していて、その中国を皇帝が治めていた、というとんでもない誤解をしがちである。 ほんとうは、話が逆だ。皇帝が先にあって、その皇帝が営利事業を営む範囲が「天下」で、皇帝が経営する都市に所属する人々が「民」だった。それが19世紀の国民国家の時代になって、「天下」は「中国」という国家、「民」は「中国人」という国民、と解釈され直した。ここから誤解がはじまったのである。 第一章 前漢の武帝 皇帝とともに生まれた「中国」 皇帝は中国最大の「資本家」 皇帝とは財閥の会長的立場だったのでしょうか?戦後、日本では財閥が解体され、財閥の観念が分かりずらくなっていますが、韓国の10大財閥、今はあまり言わなくなっていますが、中国の人民公社、国営企業(公司)的考え方といったものと考えられます。 皇帝は多くの商業都市のネットワークの支配者である。 かって「国」と呼ばれていた都市が、皇帝制度のもとでは「県」となった。「県」の本字の「縣」は、、「系」や「繋」と同じ意味で、この「縣」の下に「心」をつけると「懸」になり、「系」に人偏をつけると「係」になる。このことからわかるように、「県」はもともと「紐でつないで下げる」という意味を持つ。 つまり「県」は、直轄という意味で、皇帝に直属する都市をさした。いくつかの県を統括する軍管区が「郡」である。「郡」は「軍」と同じ意味で、常備軍のことである。郡の長官を太守と言い、皇帝が派遣した駐留部隊の司令官で、かれらが地方の県の監督と治安の維持にあたっていた。秦の始皇帝は天下に三十六の郡を置いた。これを郡・県制度といい、始皇帝が確立した皇帝制度の骨格となる。・・・ 朝礼と朝貢の意義 皇帝制度を維持するために重要な意味をもっていたのが朝礼だった。 朝礼は本来満月の夜の明け方、すなわち陰暦の毎月16日の早朝に行われた。満月の夜に地方から都市へと商人たちが集まってきた。市場の門が開く前の夜明けに、朝礼が行われたのだった。 群臣は夜明け前に宮城の中に「朝廷」に集まります。朝廷とは「朝礼」の行われる「庭」というわけです。 この朝礼に参加した外国の使節の手みやげが「貢」で、参加することが「朝貢」というわけです。 外国の君主にとってみれば、皇帝に朝貢したからといって、皇帝の臣下になったわけではなかった。まして中国の支配権を受け入れたわけでもなかった。朝貢は国家と国家の間の関係ではなく、個人としての君主が個人としての皇帝に対する友好の表明であり、皇帝が朝貢を受け入れるのは、同盟関係の承認にすぎなかった。現在の中国はそこを曲解し、「外国の朝貢は、中国への臣属の表現」と解釈している。 これは曲解というものではなく、意識的な言い分で、東シナ海、南シナ海で起きている中国の領土拡張意識の元といえます。 漢字を使いこなせない中国人 中国文明の三つ目の要素は漢字である。 ・・・日本人は長い間にわたって、漢字を使いこなすための工夫を凝らしてきたからである。7世紀の建国の直後から、日本人は訓点の方式や、万葉仮名、カタカナ、ひらがななど、表音文字の開発に力を入れ、漢文をヤマトコトバでよみ下すことに努力して、どの漢字にも何通りもの音と訓をあてて読んできた。そのおかげで、日本人は、同じ漢字を書いても、それに異なった読み方のルビをふることによって、その意味や発音を簡単につかむことができる。 ところが、中国人は不幸のことにそういう立場にはない。漢字は中国で生まれたものだが、意外なことに、中国語で漢字を使うのは非常に難しいのである。 ・・・漢字についている音は、いわば、その文字の名前である。・・・漢字は微妙なニュアンスを表すことができない。・・・ 秦の始皇帝のめざした、漢字の意味の統一のほうは、どういうテキストを基準として公認するかを決めればよかった。・・・このため始皇帝は、民間の哲学書や歴史書を没収して焼き捨て、漢字を学びたい者は役人に弟子入りして秦の法令をテキストにすることにした。紀元前213年の事件で、これがいわゆる「焚書」である。 ・・・毛沢東が漢字を廃止して、ローマ字を使用するよう提案し、中国語のローマ字綴りが開発されたが漢字の廃止は実行く可能だった。中国の統一を保つことが難しくなるためのようです。 武帝が即位した時代 漢の武帝は西暦紀元前156年に生まれた。本名は徹(てつ)という。父は漢の高祖劉邦の孫の景帝で、母は王美人(おうびじん)。美人というのは女官のランクで、皇后ではなかった。父の景帝には、薄皇后が産んだ長男の榮がいて、武帝は次男だった。 前149年、第三次ポエニ戦争、第四次マケドニア戦争(〜148) 前146年 ギリシャ、ローマの属州になる。 前141年、景帝が崩ずる/武帝が即位する(16歳)・・・・・前87年、武帝が崩ずる。皇太子、昭帝(8歳)が即位する。 長い在位がもたらすもの 父景帝の後を継いで紀元前141年に即位したとき、武帝は16歳であった。以後、71歳で紀元前87年に亡くなるまでの在位は、実に54年間にわたった。この長い在位期間もまた、武帝が皇帝の権力を思う存分にふるった要因になった。 立憲君主制の昭和天皇が実際に超憲法的な決断を下したのは、二・二六事件と終戦の時の2回だけだったが、そうでない君主は恐ろしい権力をもつ。武帝はまさにその典型ともいえる皇帝となりました。 四方に打って出た武帝の積極政策 ・・・太皇太后が紀元前135年になくなると、武帝はいよいよ指導力を発揮し、辺境のあらゆる方面に向かって大規模な軍事行動を展開した。それと同時に、軍事費をまかなうために全面的な経済統制を行った。・・・西北方には匈奴の遊牧帝国があって、それぞれの方面の貿易の利権を独占していた。・・・ 武帝が最初に取り組んだ相手は、モンゴル高原の匈奴だった。匈奴は史上最初の遊牧帝国で、漢とはほぼ同時に建国し、それ以来ずっと、漢に対して軍事力の優勢を誇っていた。・・・ 漢軍は前108年、陸海から進んで王険城を占領し、朝鮮王国を滅ぼし、その地に楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡、真番郡の4郡をおいた。楽浪郡の司令部は朝鮮県(大同江の南岸、平譲の対岸)にあり、半島の西北部を管理した。玄菟郡は、遼陽から白頭山の北麓を迂回して日本海に出る通路を守った。臨屯郡は半島の東岸に沿って細長く南北に伸びた。・・・真番郡の司令部は韓半島の南端の今の釜山付近にあり、日本列島への入り口をおさえていたようである。 このときをもって、韓半島を縦断して日本列島に達する貿易ルートは、完全に漢が握ることになった。・・・倭の邪馬台国の女王卑弥呼が、魏の皇帝と交渉を行った窓口も、帯方郡である。倭人たちは、この交渉の過程で「郡」という言葉を覚えたのだった。この「郡」が、日本語の「くに」の語源である。 武帝は最晩年、皇太子 弗陵(ふつりょう)の母、鉤弋(こうよく)夫人を自殺させた。これについて側近からその理由を問われると以下のように答えたとされる。 「お前ら頭の悪いもににはわからぬ。昔から、政治が乱れるのは、君主が若くてその母が元気だったからだ。夫を亡くした女が実権を握れば、思い上がってろくなことはせず、誰にも頭をおさえられなくなる。だから先に除かないわけにはゆかないのだ」 しばらくして武帝は臨終の床で、8歳の弗陵を皇太子に立てました。昭帝です。西暦紀元前87年、71歳でした。 |
第二章 唐の太宗李世民 非中国人を皇帝に迎えた「第二の中国」 遊牧民出身の皇帝 唐の太宗李世民は、6世紀末に生まれ、7世紀の半ばまで生きた人である。この時代、中国は300年もの長きにわたった南北分裂のあと、一度は隋によって再統一されていたが、その統一も30年足らずで崩壊し、中国は大混乱におちいっていた。この混乱に乗じて立ち上がったのが、太宗の父の。唐の高祖李淵(りえん)である。太宗は実力で父に代わって皇帝となり、中国の統一を再建した。太宗はまた、北アジアから中央アジアにかけて、唐の勢力をめざましく伸ばした。そういう業績のために、もっとも偉大な皇帝の一人とされる。 太宗が高く評価されるのは、政治的な成功にとどまらない。太宗はむしろ、名君として後世に有名である。・・・ ではなぜ、理想的な名君といわれるのか。一つには、太宗は、唐朝300年の歴代皇帝のなかでもっとも初期の君主だったため、時代を経るにしたがって神格化されていったからである。 太宗についても、資料にあからさまに書いてない事実がある。 それは太宗が鮮卑という、中国人(漢人)でない種族出身の皇帝だったことである。それでは、中国人でない皇帝が、なぜ中国に出現したのか。 秦の始皇帝・漢の武帝の時代に、皇帝制度が最初に確立してから、隋、唐の時代に再建されるまでの間に、中国世界には、想像を絶する大きな変化があった。その変化が、鮮卑出身の皇帝が出現する原因になったのである。 626年7月2日、「李世民」後の「太宗光武帝」はクーデターを起こし、兄の「皇太子李建成」と弟の「斉王李元吉」を殺し、父の「高祖李淵」を隠居させます。これがいわゆる禅譲の実態です。(玄武門の変) 遊牧帝国の君主を兼ねた中国皇帝 項で トルコ帝国との関係が記載さてています。その後の「トルコ」(漢字では「突厥」のはずです)という国との関連に注目していきます。 太宗が即位したときは、まだ唐朝は中国を完全に統一したわけではなかった。長安の北方、今の内モンゴル自治区西部の黄河の湾曲部の南には、梁師都(りょうしと)という地元出身の軍閥が居て、梁国皇帝と自称していたが、実質はトルコ帝国の手先だった。 太宗は628年、軍隊を派遣して梁師都を滅ぼした。これで中国は統一は完成した。 これまで唐の皇帝はトルコのカガンに対して「臣」と称し、貢ぎ物を贈っていた。630年、ついに太宗は唐軍をモンゴル高原に送って、最後のカガンを捕えて連れ帰った。これがトルコ第一帝国の滅亡である。 ここにおいて、北アジアの遊牧部族長たちは、太宗を自分たちのカガンに選挙し、「テングリ・カガン」(天可汗)という称号を捧げた。・・・ ・・・その五十二年後、682年になって、東トルコは再び団結して、唐の高宗から独立し、モンゴル高原にトルコ第二帝国をつくった。このトルコ第二帝国の時代になると、トルコ語をルーン文字と呼ばれるアルファベットで書き表した碑文が、はじめて登場する。・・・ ちなみに645年は日本では「大化の改新」です。 次の チベットが歴史に登場する の項 唐の太宗の時代になって、チベットがはじめて歴史に登場する。チベットは唐代史料では、漢字で「吐蕃(とばん)」と書く。 後世のチベットの伝承によると、ソンツェンガンボ王は、トンミ・サンポータという人を派遣して、文字を学ばせ、サンポータがインド文字を改良してチベット文字をつくったことになっている。実際、635年から後、毎年の記録が残っており、この王の治世からチベット語がチベット文字で書かれるようになったことは確かである。・・・ 高句麗遠征の失敗と日本の建国 の項 唐の太宗のもう一つの失敗は、645年の高句麗遠征だった。・・・ 太宗の次の高宗の時代になって660年、海上から韓半島に上陸し百済王国を滅ぼし、背後から高句麗を攻撃、668年高句麗は滅びた。韓半島が唐の支配下に入ったことで、日本列島の倭人たちを驚かし、これがきっかけとなって、天智天皇が最初の天皇として即位して、日本国を建国することになった。 則天武后と安・史の乱 の項 唐の太宗は、649年、53歳で亡くなり、皇太子が即位して皇帝となった。これが第三代の高宗である。 気が弱かった高宗にかわり、皇后の武氏(則天武后)が権力をふるい、高宗が亡くなった683年後は独裁となり、690年正式に即位して聖神(せいしん)皇帝と名乗り、国号を唐から周と改めた、 女で皇帝になったのは、中国では「則天武后」ただ一人です。 トルコ人の女シャマンから生まれた安禄山は北方辺境の三つの郡の節度使となり力を附け、756年、幽州(北京)で大燕(だいえん)皇帝の位につき、唐の長安(西安)を陥落させた。 その後200年ほど、五代・十国の時代となり、北宋(ほくそう)が天下を再統一してのは、979年です。 |
第三章 元の世祖フビライ・ハーン モンゴル帝国が支配した元朝 昔、井上靖氏の 「蒼き狼」を読み、大きな大陸を走る”蒼き狼”の偉大さに感激したものです。 モンゴル帝国と元朝は同一ではない の項 元の世祖フビライ・ハーンはモンゴル人で、1215年9月23日に生まれ、1260年、46歳で即位し、1294年2月18日、80歳で亡くなった。 ここで一つ、ことわっておくことがある。モンゴル帝国というと、元朝のことだと思う人が多い。しかし、これは誤解である。 モンゴル帝国は、フビライ・ハーンの祖父のチンギス・ハーンが北アジア、中央アジアを征服して建国したもので、伯父のオゴデイ・ハーンの時代にヨーロッパまでひろがった。モンゴル帝国の内部には、チンギス家の分家がたくさん並び立っていたが、そのなかでも帝国の東部を支配したのがフビライ家で、そのフビライ家の、いわば屋号が「太元」であり、こらが元朝である。そういうわけだから、モンゴル帝国全体を元朝と呼んではいけない。 チンギス・ハーンは、1206年の春、モンゴル国の東部のケンテイ山中で、北アジアの遊牧部族の代表たちの大会議でハーンに推戴されてから、1227年の秋、今の寧夏(ねいか)回族(かいぞく)自治区にあった西夏(せいか)王国をほろぼして、現地で亡くなるまで、戦争に明けくれた21年の在位の間に、東は華北の黄河の北岸から、西はアフガニスタンを越えてパキスタンのインダス河までの広大な地域を征服した。 チンギス・ハーンの孫のフビライ・ハーンと、フビライ・ハーンの子孫の元朝皇帝たちが支配したのは、モンゴル帝国の東部だけである。元朝の支配がどこまで及んだかを少し詳しく述べると、まず、アルタイ山脈から東のモンゴル高原、今の新疆ウイグル自治区の東部、チベット高原、大興安嶺山脈の東の満州、韓半島、それから中国、そのころまでタイ族の王国だった今の雲南省までが、元朝の支配圏にはいった。インドシナ半島では、ヴェトナム北部と、今のヴェトナム中部にあったチェンパー王国も、一時は元朝に征服された。 また元朝の支配圏の西方には、チャガタイ家の領地があり、今の新疆ウイグル自治区の天山山脈の南北にわたっていた。チャガタイ家は、チンギス・ハーンの次男チャガタイの子孫である。さらに西方の、今のカザフスタンの草原は、チンギス・ハーンの長男ジョチの子孫の領地であり、俗にキプチャク・ハーン国と呼ばれている。ジョチ家は左右両翼に分かれる。右翼は「白いオルド」(アク・オルドゥ)と呼ばれて、ヴォルガ河に遊牧し、ロシアとウクライナの町々と、コーカサス山脈の北までを支配していた。ロシア人は「白いオルド」を、「黄金のオルド」(ゾロタヤ・オルダ)と呼んだ。「オルド」というのはモンゴル語で、遊牧君主が移動式の宮殿として使う大テントのことである。 ジョチ家の左翼は「青いオルド」(キョク・オルドゥ)と呼ばれて、はじめはカザフスタンのスィル・ダリヤ河の北に遊牧していたが、のちに15世紀の末に南下して、今のウズベキスタンを支配下に入れた。そのジョチ家の領地の南方の、アフガニスタン、イラン高原、コーカサス山脈の南のアゼルバイジャン、イラクのユーフラテス河までの地域は、フビライの弟フレグのイル・ハーン家の領地だった。 チンギス・ハーンの子孫たちは、アジアから東ヨーロッパにかけて広く散らばり、各地に多くの政権を立て、東方の中国世界と西方の地中海世界を結びつけた。東西の交流がこれまでになく盛んになったことによって、歴史の流れが変わり、世界は、13世紀はじめモンゴル帝国の出現を境に、新しい時代に入った。そうした新しい時代の扉を開けてのが、チンギス・ハーンその人だった。 モンゴルという人々は、唐の太宗が第一次トルコ帝国を倒した630年のあと、はじめて漢文の記録の現れる。この時代のモンゴルは、まだ小さな部族で、現在のロシア領シベリアと満州北部の黒竜江省の境を流れるアルグン河の南にいた。・・・ 婚姻関係の絆が帝国の礎 の項 チンギス・ハーンにはたくさんの妻があった。主なハトン(皇后)は4人あり、それぞれ自分のオルド(移動宮殿)に住んでいた。オルドは高さが20メートルほどの、サーカスの大テントのような形をし、そのなかに数千人が座れる広さがある。それぞれのオルドには、数千のゲル(円形の国立家屋)がついており、ハトンの従者が住んでいた。つまり大規模な移動都市である。またオルドには、専属の軍隊と、人々に食料を供給するための家畜の群れもついていた。・・・ 4人のハトンのうち、男の子を生んだのは、フンギラト氏族のポルテと、メルキト部族のフランだけである。ポルテはチンギス・ハーンの最初の妻で、ジョチ、チャガタイ、オドデイ、トルイの4人の息子を産んだ。フランはコルゲンという息子を産んだ。・・・ チンギス・ハーン家の後継者争い の項 長男のジョチには、今のカザフスタンの草原を与えた。ジョチ家が率いたモンゴル人たちの子孫は、ロシア連邦のタタルスタン共和国のタタル人、カザフスタンのカザフ人、ウズベキスタンのウズベキ人になった。これらの人びとは、今ではトルコ語に近縁の言葉を話すので、トルコ人だと誤解されているが、もともとはモンゴル人である。 次男のチャガタイには、今の新疆ウイグル自治区の天山山脈の北から、カザフスタン東南部のバルハシ湖の南を通って、西はスィル・ダリヤ河に至るまでを与えた。 三男のオゴタイには、新疆ウイグル自治区の北部のジュンガル盆地に流れて、カザフスタンの東部のアラ・コル胡に流れ込むエメール河(額敏河 エミンガ)のほとりを与えた。 四男のトルイは、モンゴル高原のチンギス・ハーンの本拠地で、父のもとに暮らしていた。そのため、チンギス・ハーンが1227年に亡くなったとき、トルイは、父の遺産の4つの大オルドの財産を、そっくり引き継ぐことになった。 チンギス・ハーンの死後は、オゴデイ・ハーンが継ぐことになる。 ヨーロッパの征服計画とロシアの支配 の項 オゴデイ・ハーンのヨーロッパ征服計画は、1236年の春から実行に移された。・・・1241年4月9日、レグニツァでぽオーランド王とドイツ騎士修道会の連合軍を粉砕した。ついでハンガリーを蹂躙し、今のオーストリアの首都ウィーン南方に位置するウィーナー・ノイシュタットにまで達した。たまたま、オゴデイ・ハーンが亡くなったという知らせが前線にとどいたので、モンゴル軍はウィーナー・ノイシュタットの前面から引き揚げた。・・・ フビライ・ハーンの出現 の項 4年間の兄弟の戦いの末、1264年フビライが勝利を得、フビライは、モンゴル帝国の筆頭ハーンとなりました。 モンゴル帝国のハーンと元朝の皇帝を兼ねる の項 フビライは、自分の所領全体の呼び名として、1271年に「天元」という国号を採用した。「大元」とは、「天」意味する。これが「元朝」の名前の由来である。このときまで、国号は、王朝の創立者にゆかりのある地名を採用するものだった。・・・ こうして成立した元朝は、決して秦や漢のような中国式の王朝ではなく、北魏のような、遊牧民が中国に入って建てた、いわゆる「征服王朝」でもなかった。元朝の本拠地はあくまでモンゴル高原であり、元朝の歴史の皇帝は、在位中、北京より南の中国には、決して足を踏み入れなかった。 その北京の地に、フビライ・ハーンは、大都(だいと)という都市を新たに建設した。これは、のちの明朝・清朝の時代の北京の市街を含んで、東と北に広がる広大な町で、トルコ語でハーンバリク(ハーンの町)と呼ばれた。 しかしこの大都は、厳密でいうと、元朝の首都ではない。・・・ フビライ・ハーンは、1268年、南宋に対する作戦を再開した。・・・ 以下に「元の世祖フビライ・ハーン関連年表」でフビライの治世を整理しておきたい。 1215 9月23日、フビライが生まれる 1215年 マグナ=カルタの公布(英) 1218 祖父チンギス・ハーンが中央アジア遠征に出発する 1221 承久の乱(日) 後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱 1229 伯父オゴディ・ハーンの即位 1234 モンゴルが金を滅ぼす 1241 オゴディ・ハーンの死/皇后トレゲネが摂政する モンゴル軍、レグニツァでドイツ・ポーランド軍を撃破 1251 兄モンケ・ハーンの即位 1253 フビライが京兆の分地を受ける/大理に入城する 1256 フビライが開平府城を建設する 1258 モンゴルが南宋遠征を開始する 1260 開平府でフビライ・ハーンの即位(46歳)/中書省を置く 1270 尚書省を置く/高麗の西京(平譲)を直轄領とする 1271 国号を大元とする マルコ・ポールの東方旅行(〜1295) 1274 日本遠征が失敗する(文永の役) 1281 皇后チャブイの死/日本遠征が失敗する(弘安の役) 1292 ジャワ遠征を命ずる/皇孫カマラを晋王とする 1294 2月18日、フビライ・セチェン・ハーンの死(80歳)/皇孫テムル・オルジェイトの即位 大元は2回にわたり日本を攻めました。 この南宋に対する作戦として、フビライ・ハーンのモンゴル軍は、2回にわたり日本に遠征している。 1274年の、第1回の日本遠征(文永の役)には、高麗王国の情勢がからんでいる。・・・それでフビライ・ハーンは、南宋に対する作戦の一環として、日本列島を占領して、背後から南宋を突こうと考え、1274年、モンゴル・高麗連合軍を送って日本を攻め、北九州に上陸を試みたが、失敗に終わった。 1281年の、第二回の日本遠征(弘安の役)も、南宋に対する作戦と関係がある。1279年に南宋の残党の掃討作戦が完了したので、フビライ・ハーンは、旧南宋の水軍を五島列島に回航させ、これを中核部隊として、再び北九州に上陸作戦を試みたのが、またも失敗した。 フビライ・ハーンがはじめた元朝は、1276年から92年間、中国を支配したあと、1368年になって中国を失って、モンゴル高原に引き揚げた。しかしその後も、フビライ家はモンゴル高原に生き残り、266年後の1634年になって、満州人に征服された。 |
第四章 明の太祖洪武帝朱元璋 庶民出身の皇帝が建てた最後の漢人王朝 「正統」の系譜へのアンチテーゼ の項 紀元前221年、秦の始皇帝が「天下」をはじめて統一して、みずから皇帝と名乗ったのが、中国の歴史のはじまりだった。中国の歴史は、とりもなおさず皇帝の歴史である。 皇帝の権力が受け継がれるのに、もっとも大切なのは「正統」の理論だった。 中国でもどこでも、どんなに強大であっても。実力だけでは支配されない。被支配者は、支配者にくらべて、圧倒的多数なものだ。その被支配者が、支配者に協力しなければ、支配というものは成り立たない。そこで被支配者に、支配を受けうることを同意させるだけの、十分な法的根拠が必要だった。その根拠こそが、天命の「正統」である。そして、この「正統」を伝えることが、「伝統」という言葉の本来の意味である。 「正統」を受け継ぐ手続きは、世襲が原則である。司馬遷の「史記」を見ると、神話時代の「五帝」のうち、最初に天下に君臨した「天子」は黄帝で、その次の四人の「帝」は、みな黄帝の子孫である。それだけではない、夏・殷・周・秦の王たちも、すべて「五帝」のどれかの子孫だということになったいる。だから秦の始皇帝も、「天命」を受けた「正統」の天子だということで、問題はない。 「正統」ではない皇帝が2人存在しています。1人は、「漢の高祖劉邦」、もう一人がこの項の人物「明朝の太祖光武帝 朱元璋」です。 更に、現在の中華人民共和国には皇帝が居らず、人民主権の共和国ということになっていますが、あくまで共産党独裁制度で、共和国が誕生してから実質的一般選挙はおこなわれていません。共産党(中国共産党中央委員会総書記 現在は習近平氏)=皇帝 なのではないでしょうか。被支配者の協力を得るために、反日政策を進め、自分の正統性を印象図けるための対日戦争勝利記念日等を計画するわけでしょう。歴史は正直です。 朱元璋の出身の低さは漢の高祖どころではなかった。彼は、乞食坊主から身を起こして、皇帝までのぼりつめた。前王朝の皇帝の側近でもなければ、中国の外から入ってきた征服者でもない。皇帝へのアンチテーゼとして、後漢の時代から、中国の裏社会に脈々と息づいてきた宗教秘密結社の出身である。そういう点で、朱元璋は中国の皇帝のなかで、もっとも異色な人物といえる。 「明の太祖洪武帝朱元璋関連年表」 1328 朱元璋が濠州鐘離県(安徽省鳳陽県)に生まれる 1351 紅巾の乱が起こる 1356 朱元璋が集慶路を取り、これを応天府と改める/韓林児が朱元璋を呉国公に封じ、江南行中書省承相に拝する(29歳) 白蓮教徒の反乱の中心になった白蓮教教主 韓山童の息子が韓林児です) 1361 正月、朱元璋が韓林児を応天府に迎えて慶賀の礼を行う 1364 朱元璋を呉王に進封する(37歳) 1368 朱元璋が応天で皇帝の位に即き、国を大明と号し、洪武と改元する(41)/応天を南京、開封を北京とする 1392年 皇太子標(長子)の死/高麗の李成桂が王昌を廃し自ら王となる 1393年 高麗に国号を朝鮮と賜う 1398年 太祖(洪武帝)の死(71歳)/皇太孫(建文帝)の即位 明の太祖洪武帝の即位 の項 1368年陰暦正月、朱元璋は南京で天地を祭り、皇帝の位についた。みずから「大明皇帝」と名乗り、年号を洪武とした。これが明の太祖洪武帝である。こうして明朝を建国したとき、朱元璋は41歳だった。 「大明皇帝」という称号には、2つの意味がある。まず、「大明」は、太陽のことである。第2に、「大明皇帝」は、韓林児の称号だった「小明王・大宋皇帝」に対して、一段上だという意味を含んでいる。こうして、天の意味だった「大元」に対して、太陽の意味の「大明」が出現したわけである。 ・・・洪武帝が元朝をどう思っていたかを示す、面白いエピソードがある。李文忠からの戦勝報告が南京にとどいた。戦勝報告のことだから、敵のモンゴル人について見下した表現が多かった。これを読んだ洪武帝は、宰相に向かって言った。 「元朝が中国を支配した百年の間、わしとお前らの父母は、みな元朝のおかげで生きてこれられたのだ。何でこんな思い上がった言い方をするのか。すぐ書き直せ」・・・洪武帝は普通に考えられるような反モンゴル、漢族第一の民族主義者ではなかったことがわかる。 宿願のモンゴル進攻は新しい「正統」の条件 の項 フビライ・ハーンがモンゴル帝国の宗主であり、中国皇帝でもあり、チベット仏教の最高施主であったため、中国だけの皇帝では皇帝の資格が十分ではなくたってしまっていた故に、モンゴルに進攻する必要があった。しかし、この進攻の失敗によって洪武帝はモンゴル帝国黄帝になる夢は破れてしまった。 その当時の元朝と明朝の勢力地図を見ると、華北・華中・華南は明朝の支配下にはいったが、雲南省は元朝が支配していた。雲南省は、フビライ・ハーンの孫のカマラの時代から、梁王という称号をもつフビライ家の皇族が代々領地にしていた王国だった。今でも雲南省にはイスラム教徒が多い。1949年に蒋介石の中国国民党に従って、雲南省出身のイスラム教徒が多数、大陸から台湾に亡命してきた。・・・ モンゴル帝国から独立した朝鮮王国の建国 の項 元朝のフビライ家は高麗国王家と深くつながっていた。高麗王家は代々フビライ家の皇女を妃にもらっていた。明の光武帝と同御時代高麗国王は、モンゴル語の本名をバヤン・テムルといい、韓半島の正史である「高麗史」では、恭愍王(きょうびんおう)と呼ばれる。・・・ ・・・1369年に洪武帝の使者が高麗に到着して、明朝の建国を通告すると恭愍王はただちに光武帝を新しい皇帝として承認した。 ・・・1392年、李成桂はついにみずから高麗国王の玉座につき、明の光武帝にこのことを報告した。 洪武帝あh、「国号はどうあらためるのか、すみやかに知らせよ」と返事をした。そこで高麗のほうでは、「朝鮮」と「和寧」という二通り国号候補を準備して、洪武帝に選択を請うた。洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろばされた王国の名前である「朝鮮」を選んだ。「和寧」は、李成桂の故郷である双城(栄興)の雅名だったが、同時に北元の本拠地であるカラコルムのことでもあったからである。 洪武帝の「文化大革命」−大粛清にはじまり の項 洪武帝は、社会の最下層の貧民、それも乞食坊主から出発して、白蓮教の秘密結社の内部の階段を一歩一歩のぼりつめ、41歳でついに皇帝になった。皇帝にはなったが、即位当時の光武帝には、あまり行動の自由がなかった。洪武帝は、もともと郭子興(かくしこう)組の組員の一人だった。南京を占領して自前の政権をつくってからも、洪武帝を取り巻く側近は、全員が同じ組の出身の兄弟分だった。そういうわけで、皇帝と臣下といっても、実際にはたいして格のちがいがなく、みんな「貴様」、「おれ」の間柄だったからである。・・・ 1378年、諸王(洪武帝の年上の3人の息子は、秦王、晋王、燕王に封じられていた)が20代に入ったのを機に、洪武帝はいよいよ行動を起こした。秦王と晋王は、はじめて自分たちの領地におもむき、翌1379年、各自の護衛を率いて南京に帰ってくる。青海省の征伐に行っていた養子の沐英(ぼくえい)も、大軍を率いて南京に凱旋してくる。こうして、紅巾系でない、洪武帝直系の軍隊の南京集結は完了した。・・・ 翌1379年、中書左丞相(じょうそう)の胡惟庸(こいよう)も謀判の罪で逮捕され、ただちに死刑に処せられた。皇太子の指揮する皇帝軍は、南京城内の紅巾軍系の軍隊を襲撃して、1万5千人を虐殺した。この事件を「胡惟庸の獄」という。 ここで岡田氏は毛沢東による「文化大革命」との相似性を指摘します。以下その部分です。 この胡惟庸の獄は、1966年に毛沢東が発動した「無産階級文化大革命」とよく似ている。毛沢東は、中国共産党中央委員会主席の地位にあり、皇帝にひとしい権威をもっていたが、それは名前だけで、実際には、自分が1958年に発動した大躍進政策に失敗の責任を取らされて、実権はすべて、毛沢東同様古い党員の、国家主席劉少奇や、党中央委員会総書記ケ小平、北京市長彭真(ほうしん)らに奪われていて、何一つ自分の意思は通らなかった。巻き返しをはかった毛沢東は、人民解放軍総司令の林彪元帥と手を結んだ。林彪は、1965年の年末、広州市からの自分の直系の軍隊を呼び寄せて北京に入れ、翌1966年4月、人民日報社を占拠した。人民日報社のすぐ隣は、党の幹部たちが住む中南海である。これは、人民解放軍が党に銃口を突き付たことを意味した。こうして中国を震撼した文化大革命がはじまり、劉少奇を頂点とする中国共産党の組織は、毛沢東の煽動した紅衛兵と、工場労働者の奪権闘争によって、完全に破壊さらされたのである。・・・ ウィキペディアによれば、「第十一期3中全会」で正式に発表された文化大革命の死者は40万人、被害者は1億人ですとされていますが、死者は1000万人、大躍進政策による餓死者を含めれば5000万人〜7000万人ともいわれています。 |
第五章 清の聖祖康熙帝(こうきてい) 満州人の征服王朝「清帝国」 清朝は中国王朝ではない の項 清の聖祖康熙帝は、満州人で、1654年5月四日、北京で生まれ、1722年12月20日に69歳で亡くなった。 康熙帝は、史上最高の名君とたたえられるが、その風貌を伝える第一級の資料がある。康熙帝の宮廷に仕えたイエズス会の宣教師、ジョアキム「・ブーヴェ神父は、フランス王ルイ14世に献上した「康熙帝伝」のなかで、次のように描写していた。 「・・・・・中国の伝統的な学問だけではない。康熙帝はヨーロッパ科学にも強い興味をいだき、天文学、数学、幾何学、解剖学、化学など、多方面の分野において、宣教師たちに進講させ、自らも熱心に学習し、観測機器、測量器械を集めて、その操作に熱中した。こらが17世紀の、しかも極東の、これも狩猟民の出身の君主なのだから、いかに超人的な天才であったかが知られるというものである。」 ところで、清朝は中国王朝ではなく、清帝国は中華帝国ではない。 1912年2月12日、清の宣統帝が退位して、帝国の統治権を、袁世凱が代表する中華民国に譲った。宣統帝は「ラスト・エンペラー」すなわち最後の皇帝となった。これで、秦の始皇帝にはじまった、中国の皇帝制度は終わりを告げた。 1894年〜1895年の日清戦争は、日本と清朝との戦争であった。以下にこの理由について多くの部分を抜粋します。 なぜ、清朝は中国ではないと言えるか? まず第一に、清朝の皇帝は満州人である。中国人(漢人)ではない。 第二に、清朝は1636年、中国の瀋陽で建国したのであって、中国に入って支配したのは1644年がらのことである。それから268年間、清朝はたしかに中国を支配したが、中国だけを支配したのではない。 清朝の皇帝は、清帝国を構成する五大種族に対して、それぞれ別々の資格で君臨していた。 まず、清朝の皇帝は、満州人に対しては、満州人の「八旗(はっき)」と呼ばれる8部族の部族長会議の議長だった。 モンゴル人に対しては、チンギス・ハーン以来の遊牧民の大ハーンだった。 漢人に対しては、洪武帝以来の明朝の帝国の地位を引き継いで、かられの皇帝として支配した。 チベット人に対しては、元の世祖フビライ・ハーン以来の、チベット仏教の最高の保護者、大施主だった。 東トルキスタンに対しては、「最後の遊牧帝国」ジューンガルの支配権を引き継いで、オアシス都市のトルコ語を話すイスラム教徒を支配していた。 これらの五大種族は、それぞれ別の、独自の法典をもっていた。漢人は、清朝皇帝の使用人である官僚を通して統治されていたが、他の4つの種族には、官僚制度の管理は及ばず、原則として自治を認められていた。漢人が中国以外の辺境に立ち入ることは、厳重に制限されていた。・・・ 清帝国の第一公用語は、もちろん満州語だった。満州語は、シベリアのエヴェンキ語に近縁のトゥングース系で、モンゴル語やトルコ語に似た言葉なので、アルタイ語の一派と考えられている。満州文字は、縦書きのモンゴル文字のアルファベットに手を加えて読みやすくしたものである。 第二公用語は、モンゴル語だった。そして第三公用語が、漢文だった。清朝時代には、あらゆるゆる公式文書は、この3つの言葉で書くのがきまりだった。皇帝の称号や、年号も、この三通りの言葉で併記された。 たとえば、清の聖祖康熙帝の年号も、満州語では「エルヘ・タイフィン」、モンゴル語では「エンケ・アムグラン」、漢文では「康熙」といった。どれもみな同じ「平和」という意味である。 これが清帝国の実情だった。それなのに、どうして清朝は中國王朝であり、清帝国は中華帝国だったという誤解がはびこっているのか。 こうした誤解には、いくつかの原因がある。 まず第一に「国民国家」という新しい観念が、19世紀に世界中に広まったために、現代のわれわれが、それ以前の世界のほんとうの姿を思い描けなくなってしまってうること、ここに原因がある。 「国家」という言葉は現在の問題点、「いわゆるイスラム国」でも指摘されていることで、興味深いことがらです。 われわれは、「国家」という言葉を気安く使いすぎる。実は国家という政治制度は、18世紀の末まで、世界中どこんいも存在しなかった。あったのは、君主制と、自治都市だけだった。・・・ ・・・国民国家の時代に生まれ育ったわれわれには、国家というものがまだなかった時代のことを正しく理解することがむずかしい。つい、18世紀以前の歴史に国民国家の観念を当てはめて。「古代国家」とか、「都市国家」とか、まちがった使い方をしたくなる。それに、清帝国に限らず、おやそ帝国というものは、国家以前の政治形態であって、「皇帝が統治する国家」ではない。ここのところをまちがえないようおにしたい。 清帝国が中華帝国だったという誤解には第二の原因がある。それは、二十世紀の中国人の政治的な宣伝である。 ・・・こういう大漢族主義の立場から歴史を解釈すると、清朝は中国王朝であり、清帝国は中華帝国だった、と言い張ることになる。これが現代の中華民国(台湾)と、中華人民共和国(大陸)の政治的な立場だが、もちろんこれは、歴史のとんでもない曲解だ。 さらに第三の原因が加わる。ヨーロッパ人やアメリカ人は、海路を通って清帝国に入ったために、かれらが直接見聞できたのは、清帝国の支配圏のなかでも、中国の部分だけだった。そのため、清帝国すなわち中国(チャイナ)だと誤解しやすかった。・・・中国人はみな満州風の服装をしている。漢人風ではない。この時代のヨーロッパでは、中国といえば、清朝、中国人といえば満州人のことだったのである。・・・ ・・・清帝国は中国ではなかったが、満州人の清朝皇帝が中国の皇帝を兼任した間、清朝は東アジアん広大な勢力圏をつくりあげた。それはモンゴル人の元朝の勢力圏をはるかに越える規模のものだった。その範囲が、モンゴル国をのぞいて、現在の中華人民共和国の領土になっている。その意味で、満州人の清朝が、現代の中国の原型なのだが、その清朝の発展の基礎を築いた皇帝こそ、聖祖康熙帝だった。 満州人の独立王朝建国 の項 清の聖祖康熙帝は、北京の紫禁城内の景仁宮という宮殿で生まれた。父は世祖順治帝で、康熙帝はその三男だった。母はとう(人偏に冬、パソコンに文字登録がありません)氏といい、順治帝のめかけで、先祖は今の遼寧省の明領の撫順城に住んでいた。漢化した満州人の家系の出だった。とう氏は、清朝以前から女直人の名家だった。漢人ではない。 女直人は、東北アジアの狩猟民で、満州語では「ジュシェン」、モンゴル語では「ジュルチェト」と呼ばれた。「女直」は、この「ジュシェン」の音訳で、韓半島の史料では「女真(じょしん)」と書かれる。 ・・・太宗ホンタイジは、結局、明との講和を取り付けられないまま、1643年に52歳で亡くなった。太宗のモンゴル人の第二皇后から生まれた九男のフリンが、6歳で即位した。これが清の世祖順治帝である。 ちょうどそのとき、明のほうで大事件が起こった。 1628年、明の陝西省で大飢饉が起こり、貧民の反乱が勃発、山西省、河北省、河南省、四川省、安徽省、湖北省に広がり、明軍は統制できず、李自成が1644年、北京を落城させ、明の最後の皇帝・崇禎帝(すうていてい)を自殺の追い込み、太祖洪武帝が建てた明朝は、276年でほろびました。 満州化する中国人 の項 順治帝が北京の玉座にあったころの中国は、決して平穏ではなかった。北京は満州人が占領したが、華中・華南の各地には、まだ明朝の残党がいて、清朝の支配に抵抗をつづけていた。これらを平定したのは、主として呉三桂ら、明から投降した漢人の将軍たちの力だった。その過程で、有名な辮髪の強制が行われた。・・・「髪を留めれば頭を留めない。頭を留めれば髪を留めない」という当時のことわざが残っている。 その結果、20世紀のはじめにいたるまで、辮髪は中国人の特徴ということになった。しかし、この習俗は、もともと漢人のものではない。清朝が漢人を満州化したのである。・・・ また、いわゆるチャイナ・ドレスは、実は中国服ではない。漢語で「旗袍(チーパオ)」と呼ばれるのでわかるとおり、チャイナ・ドレスは旗人、すなわち満州人の婦人服であり、満州服である。・・・清朝の時代には、満州人は特権階級であり、漢人が満州人の服装をすることは禁止されていたので、漢人の女性たちは満州服にあこがれながら、着ることができなかった。・・・20世紀になってはじめて漢人に満州服が許されたことで、着れることができるようになったのが、チャイナ・ドレスの起源です。 八旗の旗人 の項 北京には、もとは二重の城壁があった。中華人民共和国になってから、城壁はすべて取り払われて、幅の広い道路になったが、その内側は、もとの城内で、だいたい天壇公園から北が外城、北京中央駅の線から北が内城と呼ばれた。内城の真ん中に、紫禁城が南北に伸びている。今は跡形もないけれども紫禁城の周囲には、もとは皇城という紅い色の城壁があった。紫禁城には皇帝の一家が住む宮殿群があり、皇城には皇帝の使用人たちが住んでいた。いま中国共産党の高級幹部が住んでいる中南海(ちゅうなんかい)も、皇城の一部だった。 北京の外城は、漢人の居住区域だった。それに対して、北側の内城には、満州人たちが住んでいた。内城の市街は、紫禁城・皇城で東西に分かれ、東西の市街はそれぞれ4つずつの区画に仕切られて、それらの区域は、それぞれ満州人の「八旗」の一つの兵営になっていた。 八旗というのは、満州人の部族組織である。部族には、それぞれ軍旗があった。軍旗の色は、黄色、白色、紅色、藍色の4色で、これに縁取りのあるものと、縁取りのないものの区別があって、すべて8種類の軍旗になる・・・・ 清の聖祖康熙帝関連年表 1654 康熙帝が北京の紫禁城の景仁宮に生まれる 1661 父順治帝の死/康熙帝の即位(8歳)/4内大臣が輔政する(ソニン、スクサハ、エビルン、オボーイ) 1667 ソニンの死/康熙帝が親政する(14歳)/スクサハを殺す 1669 オボーイを逮捕する/エビルンを追放する 1673 三藩の乱が起こる(「三藩」とは、明朝の残党の平定に功績があった漢人の将軍たちが子飼い軍隊を率いて駐屯していた、雲南省・平西王・呉三桂、広東省・平南王・尚可喜、福建省・靖南王・王継茂のこと。「藩」とは垣根という意味で、北京の清朝皇帝を守る垣根という意味。) 1683 台湾を伐ち鄭氏を降す 1688 名誉革命(英)/元禄時代(〜1703、日) 1689 米大陸で英仏植民地戦争(〜1697)/ロシアとネルチンスク条約(ヤブロノヴィ山脈から東は清朝の勢力圏、西はロシアの勢力圏ときまり、ロシアはアムール河本流の渓谷から閉め出された)を結ぶ 1707 大ブリテン王国の成立(英) 1716 享保の改革(日) 1720 清軍がラサに入りダライ・ラマ7世を立てる 1722 康熙帝の死(69歳) 名君康熙帝が残したもの の項 ・・・康熙帝は、中国をしっかり支配下におき、全モンゴル人を臣従させ、チベット仏教を保護下においた。これはまさに、元朝の勢力圏の孫の高宗乾隆帝がジューガル帝国を倒して征服した新疆が加わって、清帝国の最盛期が到来するのが、その基礎をおいたのは康熙帝だった。 20世紀の中華民国、中華人民共和国の時代の「中国」のイメージは、清帝国を国民国家と読み替えたものである。そういう意味で、康熙帝は、史上最高の名君だっただけではなく、現代中国の原型を創った人でもあったのである。 |
作者近況の欄です9。 |