作者近況の欄です9。 |
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再構成です。 新しくページを開き、これからの近況を伝えてゆきます。 令和2年4月30日 |
旅の思い出をページにまとめます。 「歴史散歩 万葉の旅」から 「種々の旅の思い出を写真を中心に」 嫁さんとの旅 |
「歴史散歩 万葉の旅」から 種々の旅思い出を写真を中心に 高校時代からの仲間と |
「歴史散歩 万葉の旅」から 種々の旅思い出を写真を中心に 再就職先の仲間達と |
読後感をまとめました。 順不同です。 日記帳部分での部分もあります。 |
美術館を訪ねました。 美術本も含めます。 順は不動です。 |
「歴史散歩万葉の旅」 の原点であるページを まとめています。 古いぺージではありますが? 奈良を歩き、「万葉の旅」を続けます。 |
種々の旅思い出を写真を中心に |
作者近況の欄です。10 新しくページを開き、これからの近況を伝えてゆきます。 令和2年4月30日 |
作者近況の欄です。 18年10月までの分です。 |
作者近況の欄です5. |
令和元年 10月26日、27日 旭日町中学同窓会 写真集 |
2020年(令和2年)2月3日 令和2年は既に、1ヵ月過ぎています。 昨年の年末、31日は娘夫婦とマゴッチで「皆生温泉」で年を越し、元日は「出雲大社」で初詣をしてまいりました。また、26日には学卒後始めてお世話になった会社の仲間との新年会のため、お江戸への日帰りの旅をしてきました。別ページで写真を紹介して行きます。 |
2019年11月27日 10月22日には、嫁さんの「運転免許返納」を実施するために京都市内へ出かけたついでに、久しぶりに「三十三間堂」を訪ねました。久しぶりに、その見事さに感動しました。また、11月24日、お歳暮のために、京都高島屋へ出かけたついでに、紅葉を求めて、「金戒光明寺」、「真如堂」、「法然院」を訪れ、これまた、感動をおぼえました。これらの写真を中心にページをまとめてみます。 |
2019年11月11日 このページの更新作業の間隔がのびのびになっています。歳のせいか?気力の落ち込みのせいと思われます。申し訳ないことです。 昨日は令和誕生に伴う皇室の大行事、天皇陛下、皇后陛下の国民へのお披露目、パレードが行われました。3時からのテレビ放映を感動をもって鑑賞することとなりました。 前回の更新から約、一か月、ページにまとめたいと思われる事柄がいくつか生じました。「松本へ」、「三十三間堂」、「興福寺・中金堂」、「正倉院展」など、自分の記憶に残したい部分をページにしたいと思っています。 |
2019年10月16日 本当に久しぶりのページアップです。 歳のせいか?気力の問題です。 13日夜、「日本ラグビーチーム」が8強入りを掛けて「スコットランド」との熾烈な戦いを 昨日、今日、15日、16日は高校時代からの友人達(9人)と行っている東北地方への旅行が台風19号のために中止されたことによります。 信じられないほどの大雨のため多くの河川の堤防が破壊され、多くの家屋が流されて、多くの100名を超す犠牲者が出てしまっています。 北信州にある「千曲川」が氾濫し、その大量の水が北陸新幹線の車両を襲い、12両編成の新幹線が10両、水没させてしまいました。信州から参加する予定だった仲間の足が無くなってしまったわけです。 そんなことから、私の不在をチャンスと嫁さんが予定していた「免許証返納」手続きに同行することとなりました。 JR京都駅近くの免許証発行所での処理が終わり、前日に考えていた「三十三間堂」への道「七条通り」を東に向かいました。 「三十三間堂」へのお詣りは大変有意義でした。別ページの作成を決めました。 |
2019年8月10日 「立山黒部アルペンルートへの旅」は楽しみながら作成中です。 門田隆将氏の「新聞という病」を購入し、早々と完読しました。氏が産経新聞に連載している『新聞に喝!』と、月刊『正論』に寄稿した原稿をベースにした、論評集です。特に、朝日新聞、毎日新聞などに対ししての厳しい論評が目につきます。その中で目についた部分を取り抱いてみます。 時期だけに 「終戦記念日 ”悪”は常に日本」 終戦記念日の新聞を読むと、毎年、あることを思う。 一体、「いつ戦争が始まるか」ということである。2017年もそうだった。 〈嫌な流れ止めねば あの時代と似た空気〉(毎日) 〈誰が戦争を止めるのか 終戦の日に考える〉(東京) 〈72年目の8月15日 色あせぬ歴史の教訓〉(朝日)・・・・ 「私たちは、戦争をしたい人たちとペンで戦っている」。そこには新聞特有のそんな自己陶酔がる。それは、刻々と変わる内外の情勢に対して、平和を守るための「現実的対応」を懸命にとろうとする現実的平和主義者たとを勝手に「戦争に向かう人たち」と決めつける傲慢さに支えられたものにほかならない。 現実を見ようとせず、自己陶酔した視野狭窄の中にいる新聞のことを考えさせてくれる日ーそれが終戦記念日である。。だが、彼らの視点からたとえ欠落してはいても、日本の礎になった戦没者たちの無念だけは、私たち後世の日本人は決して忘れまい。(2017年8月27日) 「天皇制」を否定したい新聞 平成から令和にかけて洪水のような皇室報道の中で、朝日新聞の2019年4月25日付「天声人語」には、言葉を失った。・・・・・ そんな書き出しで始まる天声人語は、安吾の言葉に託す形で、国民が自分たちでは何も言えず、権威の行動と価値観に身をゆだねてきたのは、自らを欺く行為に等しいと説く。 そして天皇が元首でなくなり、象徴となった今もその精神構造を〈引きずって〉いると指摘するのである。 また天皇の第二次大戦の戦地への訪問を勝手に、〈日本の加害の歴史を忘れないようにという試みだったのだろう〉と類推し、その上で、〈おまかせ民主主義」という言葉がある。投票にも行かず政治家や官僚に従うことを指す。同じようにすごく大事なことを、「象徴の務め」にまかせて、考えるのを怠ってこなかったか。天皇制という、民主主義とはやや異質な仕組みを介して▼世襲に由来する権威を何となくありがたがり、ときに、よりどころにする。そんな姿勢を少しずつ変えていく時期が、来ているのではないか〉 と国民を糾弾してのけた。ああ、ここまで書くのか、と私は思った。 平成の間、天皇皇后両殿下は確かに先の大戦の激戦の地を訪ね歩き、深く頭をたれられた。国民は、そこで命を落とした人々の無念を思い、追悼のお気持ちをその背中から感じとったものである。・・・・・ 国民の安寧と幸せを祈る務めを果たされてきた天皇。伝統と秩序を重んじる日本人は、その天皇制を二千年の長さにわたって守り抜き、いつの間にか、日本は、”世界最古の国”となった。 だが、朝日は「もうありがたがるな」というのだ。考えてみれば、元号の典拠を「漢籍」ではなく、初めて「和書」に求めたことに対しても、最も異を唱えたのが朝日だった。ひたすら中国に寄り添ってきた新聞らしいと、納得する向きも少なくあるまい。 逆に私は朝日に問いたいと思う。それほど日本がお嫌いなら、なぜいつまでも日本にいるのですか、と。 |
2019年7月25日 やはり、一か月近い期間を於いてのアップとなりました。この間に、14日は「阪急トラピックスの丹波篠山市への旅」でかけました。お土産付きの旅で帰りには桃を1ケース、などが含まれておりました、また、食事ではお酒の飲み放題でした。 最近、バスツアーの旅の場合は、京都駅の発着を選んでいます。家の近くのバス停から京都駅八条口へ直通で行ける便利さを選択しています。 8時、京都アバンティ前から出発しました。添乗員さんの話では、当日、関西各地から同じコースをとるトラピックスバスは7台ということでした。 9時15分、「めんたいパーク神戸三田」へ到着。内部を参観します。明太の原料、「タラ」の説明です。1) 2) ガラスの向こうで「めんたいこ」を生産しています。 試食を頂戴してからお土産用の「めんたいこ」を購入しました。 10時5分、「神戸フルーツフラワーパーク」に到着。1) 2) 11時10分、早い昼食です。7台のパスのお客のため食堂は超満員です。メニューです。お目当ては「三田牛すき焼き」です。 12時20分、「篠山城」へ着きました。 お城の周辺への散策を諦めて、「篠山城大書院」の鑑賞としました。 お濠の向こうに「篠山城大書院」が見えています。 「篠山城大書院」玄関口 大書院1) 2) 3) 4) 5) 「篠山城の歴史」 パンフレットより 篠山城は、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、慶長14年(1609)豊臣氏の居城である大阪城の包囲と、豊臣氏ゆかりの西日本の諸大名を抑える拠点とするために篠山盆地に築いた城です。築城工事は西日本の15カ国20諸侯の大名に夫役を命じた天下普請が行われ、縄張り奉行の藤堂高虎(三重県津城主)、普請奉行の池田輝政(兵庫県姫路城主)らが指揮を執り、突貫工事によりわあうか1年足らずで完成しました。ただし、天主閣は家康の命令で築かれませんでした。 初代城主として家康の実子である松平康重が八上城から移り、松平三家8代と青山6代といずれも徳川譜代の有力大名に引き継がれ、260年余の幕藩体制のもと、、篠山藩5万石の政治・経済・文化の拠点として役割を果たしてきました。・・・・・ 13時55分、「龍穏寺」下の駐車場所に着き、皆でお寺に向かいます。 見事な緑のお山を歩きます。 本堂に着きます。 下山の折りに通った「玉寶山門」です。 住職が不在のため、詳しい説明は聞けませんでした。 14時50分、(日本最古の天満宮)「生身(いくみ)天満宮」に到着しました。 「厳島神社」鳥居 「稲荷神社」鳥居 天満宮への階段を歩きます。 「生身天満宮」1) 2) 3) 15時5分、見事な紫陽花を鑑賞し、岐路につきました。 15時55分には「男山八幡宮」の山を眺める位置まで帰り着きました。 4時過ぎには八条口駐車場に到着、雨が降ってきましたし、土産物が多すぎるので、丁度出発のバスがあったので、すぐに帰宅することとしました。 昨日、梅雨が終わり、28日、29日の「立山黒部アルペンルート」への旅が待たれることとなりました。 |
2019年6月30日 28日、29日は大阪での「G20大阪サミット」で、大変な警備が行われ、一応、無事に終わることができたようです。昨日の午後3時ころ、総括として、安倍首相が話をしましたが、お疲れの様子はその顔に表れていました。ホント、お疲れ様と言いたい。マスコミは決して誉め言葉は言っていません。 明日からは私の生れ月の7月です。嫁さんと2回、旅の予定を組んでいます。14日は「丹波篠山への日帰りバスツアー」、28日、29日は「立山黒田アルペンルート」で、信州に生まれながら、「黒部ダム」を覗き見たみたことがありませんでした。お天気次第ですが、楽しみです。 八幡和朗氏の「「レーダー照射、徴用工判決、慰安婦問題だけでない 捏造だらけの 韓国紙」を読みました。今年2月10日に発刊されたもので、現在の韓国との問題点を十分に説明しています。 この中での忘れてはならない一部を紹介しておきます。 「日韓の歴史認識で、絶対に譲ってはいけないポイントは」の部分です。 @ 古代の半島南部より日本列島が先進地域で民度も高かったことは、「魏志倭人伝」などでの記述にもあり疑う余地がない。 A 天皇家も稲作も弥生人も半島から来たのではない。新羅王が日本人だったことがあると正史にも書いてあるが、逆は伝承すらない。稲作や弥生人は中国江南地方から来た。 B 半島の日本支配は『日本書紀』だけでなく中国の史書や好太王碑で確認できる。新羅(韓国のルーツ)は日本固有の領土であった任那と友好国・百済を侵略したのであって、現在の韓国は百済の継承国家ではない。 C 王仁博士や秦氏のように日本に大陸文明をもたらした帰化人は、すべて百済や新羅の人でなく、漢族である。 D モンゴル来襲は高麗がけしかけ主力でもあったのだから、元・高麗寇と呼ぶべきで、半島人が日本を侵略したことないなどと言うべきでない。 E 秀吉が死んだ頃の慶長の役では、日本軍が優勢で展開しており、秀吉の死で中止しなけらば日本に有利なアジアの国際秩序ができていただろう。 F 朝鮮通信使は、日本への一種の朝貢使節であって、対等の交流というのは、戦後に韓国人が広めたデマである。 G 日本統治下で言語を奪ったとされるが、書き言葉としての韓国語は李朝時代には成立しておらず、日本統治下で日本人がつくり与えたといっても過言ではない。 H 日韓併合をしたことは申し訳ないが、原因は朝鮮側に多くあるし、半島は大国の争いの犠牲になったのでなく、日清・日露戦争など大国のいがみ合いの原因をつくった。 I 南北分断は、アメリカ・ソ連・中国など連合国の話し合いによるものであって、日本にはいっさい責任はない。 ・・・・ 「在日の人こそ、韓国の非常識にブレーキを」で、「日本人として生きる、あるいは日本で生きることについいての前向きの気持ちを正々堂々と語ってくれれば、冷え切った日韓関係への貢献は極めて大きいものなrぅと思います」 と主張しているのは、ごくまじめな主張です。 「足立康吏・小川榮太郎氏 宣戦布告」(これは28年3月に発刊されたもの)では、 「二重国籍と議員の国籍履歴」の中で 足立 国家への忠誠という点で、一つ付言しておきますと、いちおう日本維新の会では2016年に「公職に係る二重国籍禁止法案」で、国会議員に立候補する場合、「選挙公報に国籍の得喪の履歴を明記すること」を義務づける法案を出しています。 つまるところ、蓮舫氏の二重国籍が放置されたままになったのは、規制がなかったからです。公職選挙法では、重国籍に関する規定はなく、日本国籍を所有していればいいことになっています。 加えて、誰がどんな国籍履歴を持っているかも、まったくわからない。ネットでは、デマも含めて、国会議員の国籍に関する噂がたくさんでていますよね。 ‥‥・もちろん、デマは行きすぎだけれども、僕は国益に奉ずる国会議員は、その人物がどういう国籍の履歴を持っているか、選挙時にきちんと明記すべきだと思います。それを延々言い続けているのに、実現しないのです。自民党もだらしない。 ・・・・・ 本を読み、ネットでの情報収集を続けます。 |
2019年6月13日 「門田隆将氏」オウム死刑囚 井上嘉浩 すべての罪はわが身にあり 魂の遍歴」を読み終わりました。平成30年(2018)7月6日、26日にオウム事件の死刑囚13名の死刑執行された後での刊行でした。1月18日に高橋受刑者の無期懲役判決が確定し、一連の刑事裁判が終了したこと、翌年の改元が決定している時期を考慮していると思われます。 平成6年(1994)6月27日、故郷である松本で「松本サリン事件」の発生。兄貴の家族が住む実家から東へ徒歩で10分分の地点でのサリン散布で、その時の風向きが幸運にも逆であったため、我が家には実害がなかっただけでした。実際には大きな被害(死者8名、負傷者多数)が発生していました。特に、河野氏は大変な被害を受けてしまいました。夫人が意識不明の重症となっているにもかかわらず、警察が容疑者としての取り調べを始めたことを知ったマスコミの報道によって、河野氏に対する疑惑を拡散させてしまいました。 平成7年(1995)3月20日の「地下鉄サリン事件」(死者13名、負傷者6,300名)では、後遺症に悩まされた会社の仲間が居りました。 オウム事件年表です。 昭和30年(1955)松本智津夫(麻原彰晃)生まれる。 昭和56年(1981)阿含宗に入信。 昭和57年(1982)薬事法違反で逮捕される。 昭和59年(1984)阿含宗を脱会 「オウム神仙の会」発足 昭和60年(1985)井上嘉浩、洛南高校に進学 阿含宗に入信 昭和62年(1987)「オウム真理教」に改称 昭和63年(1988)井上嘉浩 オウムのニューヨーク支部でデモンストレーション 大学を中退しオウム真理教に出家 「成就」し、「大師」に、大阪支部を経て、福岡支部長に 信者の真島照之が修行中に死亡、死体隠蔽を図る 平成元年(1989)信者の田口修二リンチ殺害事件 東京都から「宗教法人オウム真理教」の認証を得る 井上嘉浩、破戒により4日間、炎天下で断水断食の懲罰 「サンデー毎日」がオウム批判記事の連載開始 「坂本堤弁護士一家殺害事件」 平成2年(1990)「真理党」を結成、衆院選に25人が立候補し、全員落選 生物兵器として「ポツリヌス菌」の製造実験開始 熊本県警が国土利用計画法違反などの容疑で教団を強制捜査 平成4年(1992)東京総本部(東京都港区)設立 平成5年(1993)東京亀戸で「炭疽菌散布事件」 少量のサリン生成に成功、第七サティアン内にサリンプラントを建設 平成6年(1994)信者・落田耕太郎リンチ殺害事件 滝本太郎弁護士サリン殺害未遂事件 松本サリン事件(6月) 信者の冨田俊男リンチ殺害事件 水野昇VX襲撃事件、浜口忠仁VX使用殺害事件 平成7年(1995)「読売新聞」「上九一色村でサリン残留物検出」をスクープ 永岡弘之VX襲撃事件 2月目黒公証人役場の假谷清志事務長の拉致監禁致死事件 3月 井上嘉浩、17日付けで「正悟師」に昇進。翌18日、「リムジン謀議」 3月20日「地下鉄サリン事件} 3月30日 國松孝次・警察庁長官狙撃事件 4月18日井上嘉浩指名手配 4月23日教団幹部村井秀夫が東京本部前で刺殺される 5月新宿駅で青酸ガス事件(3件) 5月16日 麻原彰晃 上九一色村の教団施設で逮捕 10月東京地裁が宗教法人としてのオウム真理教に解散命令 12月、井上嘉浩、オウム真理教を脱会、「サマナや信者へ」のメッセージを発表 平成8年(1996)3月21日井上嘉浩、初公判 4月24日松本智津夫初公判 9月20日松本智津夫第9回公判に井上嘉浩が出廷、リムジン謀議を証言 平成9年(1997)1月 破壊活動防止法に基づく解散請求を、公安審査委員会が棄却 平成12年2月「オウム真理教」から「アレフ」に改称 6月6日 東京地裁、一審で井上嘉浩に無期懲役判決 平成16年5月28日、東京高裁、二審で井上嘉浩の一審判決を破棄、死刑判決 平成18年9月15日 最高裁が松本智津夫の特別抗告を破却、死刑が確定 平成19年1月「『生きて罪を償う』井上嘉浩さんを死刑から守る会」発足 上祐史浩が「ひかりの輪」を設立。アレフ分裂 平成21年12月10日 最高裁、井上嘉浩の上告棄却、死刑確定 平成30年7月、オウム事件死刑囚13人死刑執行(松本智津夫 63歳、早川喜代秀 68歳、豊田亭 65歳、林泰男 60歳、 岡崎一明 57歳、遠藤誠一 56歳、中川知正 55歳、横山真人 54歳、広瀬健一 54歳、新実智光 54歳、土谷正実 53歳、端本悟 51歳、井上嘉浩 48歳) 詐欺師といってもいい男に騙され、多くの人々を殺し、傷つけた。「オウム真理教・麻原彰晃」の指示に従ってサリン事件、松本サリン事件などをを起こし死刑判決を受け、死刑を執行された彼らはどんな人たちだったのか全く解らないことです。 彼らの大半は有名大学を卒業、もしくは、中退していて、決して常識不足の人たちではありません。その彼らが麻原彰晃の指示を天(神)からの言葉のように従うようになってしまったのは何故か? 昭和63年、信者の真島照之さんが修行中に死亡、信者の田口修二さんがリンチで殺害されます。翌、平成元年には「坂本弁護士一家殺害事件」があり、また、オウムに対する週刊誌の問題記事が連載されたとき、「宗教法人オウム真理教」の認証を得るのです。 平成元年から平成6年まで、数々のオウムによる犯罪事件が発生しますが、警察の捜査は遅々として進まなかったのは、何故なのでしょうか。 平成9年、破壊活動防止法に基づく解散請求を、公安審査委員会が棄却。平成12年2月「オウム真理教」から「アレフ」に改称が何故ゆるされたのか? 「ああ言えば上祐」で知られた「オウムの広告塔」の上祐史浩はなぜ殺人容疑で起訴されなかったのか?偽証などで懲役3年の刑で済まされたのか?そして、「アレフ」という新興宗教を設立できたのか? 平成12年、6月6日、「東京地裁、一審で井上嘉浩に無期懲役判決」が平成16年5月28日「東京高裁、二審で井上嘉浩の一審判決を破棄、死刑判決」 、平成21年12月10日 「最高裁、井上嘉浩の上告棄却、死刑確定」 この経過についてはこの本を読み進める段階で感じられるようになりました。 わが国で、2度と起こってほしくない正真正銘の「テロ」であったことを忘れないことが重要なのでしょう。 |
2019年6月9日 最近、歳をとみに感ずるようになりました。このページを造る意欲が減りつつあることが証明しています。 6月1日、は高校同期会関西支部の恒例の同期会でした。会場も最近は恒例となっている「グアンヴィア大阪」、夕方6時からでした。 午後1時頃に家を出て、床屋により、大阪に着いたらどこか目ぼしいところを探索しよう考えていました。散髪をすまし松井山手駅のホームで電車を待っている時に、携帯を取り出そうとしたところ、家に忘れて来たことに気づきました。もちろん、家に逆戻りです。片道20分の道を戻り、駅には再度歩くことは断念してバスに乗ることとしました。そんなことから、市内の散策は近間、御堂筋を歩き平野町まで、堺筋を折り返してJR大阪駅に戻るコースを考えました。昔、会社の近辺の散策と言ってよいでしょう。 JR北新地駅へは16時過ぎ、御堂筋を南に向け歩き始めました。近辺の地図 1) 2) 3) 御堂筋は建物の高さ制限があり、超高層の建物はありませんでした。MUFG(三菱フィナンシャルグループ)ビルの後方に超高層ビルが建っています。 「平野町3丁目交差点」 「野村証券ビル」はかっては「東海銀行ビル」でした。 懐かしい「TKビル」です。 「ビフテキのスエヒロ」が残っていました。 平野町と堺筋の交差点老舗時計店です。 「三越デパート」の後に垂れられた高層ビル「The Kitahama Plaza ザ・キタハマ・プラザ」。 新築されている「大阪証券取引所」 堂島川の水晶橋です。 水晶橋 本当に久しぶりの散策でした。 |
2019年(令和元年)5月15日 昨夜は、年に数回開いている市内に住むお友達との飲み会でした。種々の情報交換をした後、2時間にわたるカラオケで十分にリラックスすることが出来ました。覚えたいと思っていた中島美嘉さんの「雪の華」を実際に試してみることができました。 以下、「読めば読むほど『』古事記』75の神社と神様の物語」の紹介です。 西暦712年に成立した『古事記』によればー。 天と地の始まりに立ち現れる最初の神は、アメノミナカヌシ神(天之御中主神)という。この神は、みずからが中心となって全体をとりまとめる神だ。 次に立ち現れる神は、高天原(天上界)創造神新・タカミムスヒノ神(高御産巣日霊神)と地上界の創造神・カムムスヒノ神(神産巣日神)で、どちらも万物の生産・生成をつかさどる神だ。 四番目に立ち現れるのは、生きとし生けるものに生命を吹き込むウマシアシカビヒコジノ神(宇麻志阿斯訶備比古遅神)という。・・・ 五番目に立ち現れる神は、天上界の永遠を守るというアメノトコタチノ神(天之常立神)。以上の5柱(いつはしら)の神々は「別天(ことあま)つ神」といい、天上界にいる神の中でも「特別な神」であり、いずれも性別のない単独の神(独り神)であり、姿を見せない。 六番目、七番目に立ち現れる神は・・・クニノトコタチノ神(国之常立神)、・・・トヨクモノノ神(豊雲野神)である。この二柱も独り神で、姿を見せない神である。・・・ 次に男女一対の神が五組、つごう十柱の神々が立ち現れるのだが、最後に立ち現れる一対が、男神のイザナキノ神(伊邪那岐神)と女神のイザナミノ神(伊邪那美神)である。・・・ ・・・そのイザナキとイザナミを祭神とする主な神社には「多賀大社」のほか、兵庫県の「伊弉諾(いざなき)神宮、埼玉県の「三峯神社」などがある。・・・ イザナキとイザナミを祭る神社 「多賀大社(多賀神社)」 祭神は、伊邪那岐大神・ 伊邪那美大神と表記されているが、「大神」は神の敬称、すなわち敬意を表わす言い方であり、『古事記』に登場するイザナキ神・イザナミノ神と同一神である。・・・ 古事記、日本書紀に書かれた神々が現在の神社の祭神となっており、その他にもそれ以後の物語から生まれた種々の神社の祭神となってきています。その辺に歴史の面白さが潜んでいるのでしょう。別ページで解き明かしてゆきます。 |
2019年5月12日 今日は30度以上になるという予報が出ています。久しぶりにこのページの更新ができました。先月1日、2日に東京へ旅したページをようやく完成させることが出来たためです。「東京への旅」 の完成は 「琵琶湖周航の旅」 よりも遅れてしまいました。というより、「琵琶湖周航の旅」は、東京、信州で旅の写真を待っていてれるであろうお仲間を選択したことによります。早速、皆さんからメールを頂戴することが出来ました。 「琵琶湖周航の旅」での、今年の「さくら」記憶集を以下に。 1) さくら+お濠+お城 2) さくら+お濠+櫓 3) さくら+お濠+白鳥 4) さくら+彦根城 5) さくら+琵琶湖 6) さくら+さくら+琵琶湖 他にも途中で止まってしまっている読後感のページ「五木寛之 百寺巡礼」があり、由良弥生氏の「読めば読むほど『古事記』75の神社と神様の物語」がありますが、ヤフーでのページの改装作業も進める必要もあるところから、何時になるやら?心配になります。 |
2019年4月11日、12日 高校時代からの仲間8人で 「琵琶湖周航の旅」 彦根城・長浜・竹生島(法厳寺)・さくらの海津大崎へ 5月4日完成です。 |
2019年4月26日 「平成」もあと4日間となり、「令和」へと続くこととなりました。「琵琶湖周航の旅」を一生懸命に、また、楽しみながら完成を目指しています。 家の庭に「オオデマリ」が見事に咲きました。1) 2) 3) 玄関前にには「シンビジューム」も1) 2) 3) 1日、東京へ行く為の新幹線乗車まえに駅の書店で購入した「『古事記』75の神社と神様の物語」を読み終わりそうですが、思いのほか面白い思いをしています。 本書に登場する主立った神々と、その神々を祭る全国の神社を紹介しながら『古事記』を読んでいくというものです。神社といえば、ひっそり佇む神社もあれば、威風堂々と鎮座する神社もあります。そこに共通するのは「気」というか「気配」というか、「不思議な運気」ではないでしょうか。・・・ ごもっともです!!!!! |
2019年4月14日 11日、12日は無事に「琵琶湖周航の旅」を終えることができました。いつものように8名(松本から6年、東京から1名、私)、お酒と頂戴し、喧々諤々の会話を楽しみ、カラオケで締めるといったコースをたどりました。12日は桜満開の「竹生島」、「梅津大崎のおお花見」の旅を終えることができました。 |
2019年4月7日 1日、東京へ行く新幹線の中で新年号の発表が新幹線内のテロップが流れるのを今か今かと待っていました。11時半頃からずっと待っていたのですが、発表されたのはほぼ、1時間後のでした。 「令和」は万葉集の言葉から取り出さた二文字ということでした。考えを提案した人物が中西進氏ということで、早速所持している氏の万葉集ブックサイズ本4巻を取り出し探してみました。目当ては(1)巻第五の部分に発見されました。 梅花の歌三十二首并せて序 天平二年正月十三日に、帥(そち)の老(おきな)の宅(いえ)に集まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春の令月(れいげつ)もそて、気淑(きよく)風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きゃうぜん)の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)らす。・・・ |
2019年4月4日 1日、2日の東京行きは、自分の手違いで散々な目にあってしまいました。参加時間に、30分、1時間の遅刻でした。1日。2日共に携帯で連絡し、慌ててタクシーで開場まで行くことになりました。なんとも酷いもので、歳は取りたくないとはこのことでよう。 ともに友人たちとな歓談でしたから、お詫びだけですみました。共に、幹事さんには大変ご迷惑をお掛けしました。ごめんなさい!!!!! これから「増上寺」の写真を中心にページにアップしたいと思っています。 |
2019年4月1日、2日 2年ぶりに東京へ |
6つのキーワードで読み解く 西洋絵画の謎 千足伸行氏 治療中 |
須磨寺 2018年10月7日 「プラド美術館展を鑑賞した後、 須磨寺をお詣りしました。 |
ベラスケスと プラド美術館の名画 2018年01月7日 |
箱根・鎌倉への旅 2018年10月12日、13日 トラピックスで嫁さんと久しぶりの旅 |
中学校同級会で松本へ そして、木曽路へ 2018年10月20日、21日 |
大塚国際美術館 鑑賞に 2018年10月23日 トラピックスでのバスの旅 |
高校時代からの仲間8人で 広島県宮島・江田島へ そして呉・尾道 そして、私だけ原爆ドームへ 2018年11月6日、7日、8日 |
2019年3月23日 4月は「旅」が2件あります。まず、一番目は4月1日は(エープリルフール)は2年ぶりに東京です。 大学時代のゼミの会(互喜会)が4月2日に開かれるという連絡をもらったことから、前から上京を催促されていた、新入社員の時からの親友達からの要求を1日に設定することができたからです。 1日は夕方から6人で宴会、その後、仲間を含めて友の家に泊まることになっています。 翌日は11時半から練馬での飲み会です。昨年は欠席していますが、今年は全員の参加との連絡が入っています。よっかった!!! 1日は夕方までの時間を利用して、「増上寺」、「築地本願寺」をお詣りしようと思っています。20日の記事にも触れていますが、最近、浄土宗、浄土真宗に興味がひかれおり、最近読み続けている五木寛之氏の「百寺巡礼」の中にこの2寺を見つけたからです。 大学時代、新入社員時代、転勤で東京で住むこととなた時代など、10年ほど東京に住んでいましたが、不思議にこの2寺にお詣りしていませんでした。 「増上寺」は正式には「三縁山広度院増上寺(さんねんざんこうどいんぞうじょうじ)」という名前で、「三縁山」という山号は、「親縁・近縁(ごんえん)・増上縁を明かす」という唐の僧、善導(ぜんどう)の教えにもとずいといるといわれています。善導は、浄土教を大成した人物として知られ、その教えは日本における浄土宗の開祖、法然に大きな影響を与えました。もちろん、増上寺は浄土宗の寺です。(「百寺巡礼」からの引用) 「築地本願寺」は不思議な建物で、東京に住んだ時にはバスなどに乗っている際、車窓から眺めたことがあり、不思議さに驚いていました。築地本願寺はのちろん真宗、西本願寺派のお寺です。・・・「倶會一処(くえいつしょ)」と書かれた石塔をみつけた。・・・これは「ともに浄土にまみえん」という意味で、すべての人は身分の貴賎なく、また善人、悪人の区別もなく、死んだのちは光にあふれた浄土に迎えられるのだという、浄土真宗の思想にもとづく表現です。・・・ 11日、12日は、高校時代からの仲間8人での最近は春・秋に行われる恒例の会です。今年は、「琵琶湖周航の歌」に因んで、滋賀県に行くこととなりました。「彦根城」、「長浜曳山まつり」、「竹生島・西国33か所30番札所 法厳寺」、「梅津大橋お花見」を回る計画です。宿泊は「長浜ロイヤルホテル」、夕方の宴会は「住茂登(すみもと)」が予約されています。 |
2019年3月20日 「梅原猛の『歎異抄』入門」を再読しました。 「歎異抄」は教団内でも密書の状態にあったようです。東本願寺の僧であり宗教改革者でもあった「清沢満之」が『歎異抄』に注目し、それを熱愛し称揚して以来、宗門の人たちばかりでなく、広く一般の人にも知られるようになりました。・・・今では、東本願寺ばかりか、西本願寺を含め、真宗学者の中で、『歎異抄』について触れない者などいないまでになりました。 ・・・この『歎異抄』の著者は言うまでもなく唯円であって親鸞その人ではない。この書には始めから終わりまで、親鸞というきわめて異常な言行をする宗教家が登場するが、それはあくまで著者たる唯円から見た親鸞の姿であり、唯円を通じて語られた親鸞の言葉です。 親鸞の「教行信証」、唯円の「歎異抄」などほとんどすべて、漢字で書かれています。以下は現代語訳での記述を使用します。 歎異抄 序言 そっとおろかな私の考えをめぐらして、およそ親鸞聖人が生きていらっしゃった昔と、おなくなりになったいまを比較してむると、いまは先師親鸞聖人が口ずからお伝えになった信仰と異なった教えがはびこっている。・・・ わが宗門は念仏易行の一門であるが、易行の門といえども、前世の縁で結ばれた、すぐれた師匠の導きによらなかったなら、その門に入ることはできない。よくよく自分勝手に悟ったと思い上がり、正しい他力の宗旨を乱してはならない。 それゆえ、私の耳の底にいまでもありありと残っている、故親鸞聖人がお話のありさまの一端をここに書きとどめて、ただわれらと同じ心にて念仏される人々の不審を晴らしたいと思うのみである。 第一条 ・・・阿弥陀さまの本来の願いは、この罪み深く、心にさまざまな煩悩を抱くわれらのごとき衆生をたすけようとするためだからであります。 それゆえ、この阿弥陀さまの本願を信ずるためには、他の善をなす必要は毛頭ありません。ただ念仏しればいいのです。念仏以上の善はほかにありませんから。また、あなたがかってなしたであろう悪行や、いま現にこれからするであろう悪行を恐れる必要はありません。この阿弥陀さまの本願を妨げる以上の悪はありませんから。 第二条 ・・・私は、ただ念仏すれば、阿弥陀さまにたすけられて必ず極楽往生ができるという、あの法然聖人のおっしゃいましたお言葉を、ばか正直に信じている以外に、別の理由を、ばか正直に信じている以外に、別の理由は何もないのであります。・・・ 第三条 善人ですら極楽浄土へ行くことができる、まして悪人は、極楽浄土へ行くのは当然ではないか、私はそう思いますが、世間の人は常にその反対のことをいいます。悪人ですら極楽へ行くことができる。まして善人は、極楽へ行くのは当然ではないかと。 世間の人のほううが一応理屈が通っているように見えますが、この説は、本願他力の教えの趣旨に反しています。・・・ 第四条 仏教には聖道門(しょうどうもん)と浄土門の違いはありますが、仏教の根本である慈悲についても、聖道門と浄土門には違いがあります。・・・ 第五条 親鸞は、なくなった父母の追善供養のためだといって念仏をしたことは一度もございません。・・・ 第六条 もっぱら他力の念仏を行っている仲間の中で、あいつはおれの弟子だ、おまえの弟子だとかいって弟子の取り合いしてけんか口論しることがあるということですが、とんでもないことです。私は弟子を一人も持っていません。・・・ 第七条 念仏というのは、いかなる障害によっても妨げにならない自由の境地に遊ぶことになります。・・・ 第八条 念仏は、これを唱える行者のためには、善でもなく業でもないにであります。行というのは、自分の力ですることですが、念仏は自分のはからいではなく、阿弥陀さまのお召しによってさせられるのですから、行ではないというのです。・・・ ・・・・・ 第十五条 煩悩を一ぱいに備えている身のままに、すでに仏さまと同じような悟りに入ること、このことはとんでもないことであります。 この肉体を持った身のままに仏になることは、空海が伝えたあの真言密教の教えの根本であり、身体と口と心にさまざまな行を積んだ結果としては初めて到達する悟りの位であります。・・・ ・・・・・ 第十八条 仏法の方で、たくさん寄付をすれば大きな仏になり、少し寄付をすれば小さな仏になることができるということ、このことは奇妙きてれつ、不合理きわまる説であります。・・・ 後序 右にあげた第十一条から第十八までのことは、みんな信心が異なることのために起こるものでありましょうか。親鸞聖人は生前つぎのようなお話をされましt。法然聖人がまだ生きておられるころ、そのお弟子が多数いらっしゃったが、法然上人の同じ信心を持っていられるお弟子は少なかったので、親鸞聖人と相弟子の人々の間で一つの論争が起こりました。その論争の理由は、「私、善信の信心も、法然聖人の信心も一つのものであって、変わらないものだ」と親鸞聖人が仰せられたところ、勢観房とか念仏房とかいう法然聖人のそうそうたる高弟たちが、「おまえはとんでもないことをいう。あの才能がすぐれていらっしゃる法然聖人の信仰が、おまえのようなおろかな男の信心となんで一つであろうか」・・・ ・・・法然聖人が仰せられるには、「この源空の信心も阿弥陀さまから賜った信心である。善信坊の信心も阿弥陀さまから賜った信心である。だから、その信心は全く同じであり、変りがない。別の信心を持っている人は、私が行くであろう浄土へは決して行かれないであろう」といわれました。・・・ 附録 後鳥羽院のときであった。法然聖人が他力本願念仏宗を興された。・・・ 一。法然聖人、及び御弟子七人が流罪。また、御弟子四人が死刑に処せられた。聖人は土佐国の番多(はた)といろころへ流され、その罪によって藤井元彦と改名された。時に年七十六歳であった。そのとき親鸞は越後の流され、その罪によって藤井善信と改名された。時に年三十五歳であった。・・・ 奥書 この聖なる教えの書は、わが念仏の一門の大切な聖書であるが、前世から善根のない者には、むやみに見せてはいけないのである。釈蓮如(御判) 右期聖教者 為当流大事聖教也。於無宿善機、無左右不可許之者也。 釈 蓮如(花押) (みぎこのしやうげろうは、たうりうだいじのしやうげうとなすなり。しゆくぜんのきなきにおいては、さうなくこれをゆるすべからずのものなり しゃく れんにょ)) 久しぶりにパソコンの入力をしてみました。指の動きが悪くなっているのを感じます。 |
2019年3月5日 このページの改装は徐々に行い、ヤフーページが終了する3月末までには出来るだけ新しいページを充実していこうとは思っていますがさてどうなるものでしょうか? バタバタしている間に、私の古代史耽溺の生みの親「梅原猛氏」が、今年、1月14日、亡くなってしまいました。お生まれは1925年ですから90歳を超えており、「ご苦労様でした」ということしか言えません。 本来、哲学者であった梅原氏が日本の古代史研究に衝撃を与えたのは、1972年に発表した「隠された十字架」(法隆寺は聖徳太子の怨霊をお祀りするためのものである)でした。そして、翌年には、人麻呂の悲劇を謳った「水底の歌・上下巻 柿本人麻呂論」、「黄泉の王 私見・高松塚」などであり、その時期には新本を懸命に購入し読みふけったことを思い出します。 その後も、「塔」、「聖徳太子 4巻」、「飛鳥とは何か」、「仏像のこころ」、「歎異抄入門」、「法然の哀しみ 上下」、「親鸞の告白」、「海女と天皇」、「古代幻視」そして「京都発見 ぜん9巻」で、これらは全て今も手元にあります、ときどき気が向いた折に取り出し再読しています。 現時点では、ヒョンナことから(五木寛之氏の「百寺巡礼」の国内分を全部読み、100寺の特色を知り始めたこと)から、再度、「親鸞の告白」、『「歎異抄」入門』再読し始めたことによります。 次にまとめたいと思っているのは、上に述べた「五木寛之の百寺巡礼」の100寺の特色です。別ページを開きたいと思っています。 |
2019年3月4日 昨日、今日で12月3日の「昨年の紅葉狩り」、今年の元旦の「初詣」の写真をこのページに完成させました。 |
2019年3月1日 今年も速くも、2か月を過ぎてしまいました。3月末の「ヤフー isacha666」でのページ配信停止が迫ってくる中、これからお世話になる「さくらインターネット」さんからの数々のアドバイスによってようやく「作者近況の欄です。9」のアップが順調になってきました。 「歴史散歩万葉の旅改訂版」をそのまま移動しようとしたところ、ヤフーさんのページが混じってしまい、「悪意あるユーザーによって・・・保護されない通信」という表示が示され、ページのアップが出来なかったのです。「作者近況の欄です。9」として分離する方法で一応アップが可能となりました。 これから今までの膨大なページを移動する必要かあります。スタミナが続くかどうか心配です。 「作者近況の欄です。9」のURLです。 https://indigobear6.sakura.ne.jp/kinkyou9.htm https://indigobear6.sakura.ne.jp/2013_12_12_fumisanga |
2019年2月26日 新しいページの作成はようやく成功するようになってきました。 広島県宮島・江田島へそして呉・尾道 中学校同級会で松本へ そして、木曽路へ 箱根・鎌倉への旅 など、完成することができました。ただ、FTPでのデータアップでは苦戦していることは確かで、これからも苦労しそうです。 |
2019年2月22日 ページの引っ越しには苦戦しています。新しいページの為の資料が旧のページの分が含まれており、これが新しいべーじへの移行を邪魔しているようです。 時間がかかります。 |
2019年2月14日 苦戦しています。一応、ページのありがとうございました。アップは成功したようですが、「INDEX」、「geositiesno 作者近況の欄です」。のページに進入することが出来なくなっています。 |
2019年2月9日 昨日、新しいページを作ることが出来るようになりました。過去のページを現在のページに移動するのには、これからも作業が必要になるようです。 |
2019年2月8日 ヤフーでのホームページが4月から停止されることとなり、その連絡があってから、ヤフーから勧められた「さくらインターネット」への引っ越し作業を続けてきたのですが、苦心の末、今日ようやく「レンタルサーバ」へのページのアップロードと新しいページへの侵入が可能となりました。 ヤフーに残っているページの移動作業は続けてゆく必要があるようです。 |
2019年元旦 新年の朝、例年の通りテレビで富士山の御来光を拝みました。 1) 2) 3) 好天に恵まれ、朝から初詣に出かけました。まず、去年の縁起物の矢を近所の鎮守さん「大住(月読隼人)神社」(毎年10月14日には 『大住隼人舞』が奉納されます)へお返し、今年の恵方(東北東)を考え、久しぶりに宇治の「平等院鳳凰堂」・「宇治上神社」へお詣りに行くこととしました。 JRでJR木津駅を経由してJR宇治駅へ向かいました。12時半には宇治駅に到着し、「平等院」へ向かいました。 目的地の地図です。 12時40分、「平等院」前に到着しました。 何年かぶりの「平等院鳳凰堂」です。(お詣りの後テレビで平等院の池の水を新工夫できれいな水になっていることを知りました) 「鳳凰堂」と池を一周して、撮影していきます。 1) 2) 3)阿弥陀如来のお顔です。 ( 4 ) 5) 6) 7) 8) 9) 「ミュージアム鳳凰館」はゆっくりと鑑賞しました。充実した展示品(鳳凰堂内部の「雲中供養菩薩像」の半数の展示)があり、満足な鑑賞でした。 宇治川に掛かる「宇治橋」まで戻りました。 橋の手前には「紫式部像」が置かれています。 式部像です。 「源氏物語・宇治十条」の解説版です。 宇治川を渡り、「宇治上神社」に向かいました。 「宇治上神社」へ 宇治上神社でお詣りしました。神社は国宝です。 宇治川を渡り、帰りは京阪電車で樟葉駅に戻ります。樟葉駅からはバスです。 |
2018年12月3日 昨日は「今年最後の紅葉狩り」へ嫁さんと出かけました。お天気は絶好、お昼は汗が流れるほどの気温となりました。 前日、現在の京都市内のお薦めの地点をパソコンで調べ、山科の「毘沙門堂門跡」と「北野天満宮」の「御土居の紅葉」を鑑賞に出かけました。 結果は大当たりでした。素晴らしい今年の紅葉を堪能しました。 ここで、「毘沙門堂門跡」と「北野天満宮御土居」のもみじを紹介しておきます。 「毘沙門堂門跡」 9時過ぎにJR山科駅から門跡へ向かいます。 1) お寺全図です。 2) 毘沙門堂解説版です。 3) 登り口の景色です。 オリンパスカメラです。 4) 薬医門です。 5) 寝殿口です。 6) 本殿門 7) 晩翠園(ばんすいえん) 8) 晩翠園 9) 手水鉢 10) 高台弁才天 毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつで、高い寺格と鄙びた山寺の風情を伝える古刹です。(京都の他の門跡寺院は、妙法院、三千院、青蓮院、曼殊院です) ご本尊に京の七福神のひとつ毘沙門天を祀ることからこの名があるようです。 創建は大宝3年(703)文武天皇の勅願で僧行基によって開かれました。当初は出雲路(上京区9にあったことから「護法山出雲寺」といいましたが、寛文5年(1665)、山科安朱の地に再建され後西天皇の皇子が入寺してから門跡寺院となりました。 寺の中には、かずかずの文化財が置かれています。もちろん、撮影は止められています。 「宸殿襖絵」 宸殿内部の障壁画116面は、すべて狩野探幽の養子で駿河台派の始祖狩野益信の作。どの角度から見ても、鑑賞者が中心となるという逆遠近法の手法がとられています。 「板戸の衝立」 円山応挙の作、迫力のある大きな鯉が泳いでいます。鯉の目を見てゆっくりと歩くと・・・ 「天井龍」 狩野永淑主信の作。 などさすが門跡寺院の雰囲気を持っています。 北野天満宮へ着いたのは12時をチョット過ぎていました。お昼を頂こうと思っていると、ちょうど「京とうふ藤野」が目に入りました。まえに一度寄ったことがありました。久しぶりに覗くと、店員さんが満席ではあるけれと、間もなく席が空くとのアドバイスがあり、待つことにしました。5分もたたない時間で、2回の席に案内されました。 お昼のセット1 セット2 セット3 もちろんビールを一杯。 「北野天満宮」の「御土居とは」 藤野に張られていた天満宮のマップ 天満宮大鳥居 北野天満宮本殿 「御土井堤」から本殿を 「紙屋川」沿いは「史跡御土井・もみじ苑」です。 もみじ真っ盛り1 もみじ真っ盛り2 もみじ真っさかり3 14時過ぎ、宮の境内で「猿回し」の披露が行われていました。大変見事なお猿さん、猿回し女子でした。最後に求められた1、000円のチップは惜しくはなりませんでした。 十分満足しての帰宅となりました。 |
2018年前半までのページです。 |
ジジ連・今年の「カニカニの旅」 昨年は「千年亭」 今年は兄弟店「三朝温泉 清流荘」へ 平成30年1月16日、17日 |
「オルセー美術館展8月14日」・「北斎展11月19日」・ 「エルミタージュ美術館展11月28日」 「奈良県立考古学研究所付属博物館 11月16日 黒塚古墳のすべて」など 2017年の旅 |
2017年11月16日・17日 高校時代からの友人8人で 秋の吉野山を訪ねました。 16日は我が国初代神武天皇をお祀りする「橿原神宮」 そして御廟所である「神武天皇陵」 「橿原考古学研究所付属博物館」で「黒塚古墳のすべて」を学習 吉野を代表する宿坊「竹林院群芳園」に泊まり 17日には吉野に馴染み深い歴史上の人物に迫りました。 景色の中には3日の下見分も含まれています。 吉野の旅のしおりです。 |
2017年11月16日・17日 高校時代からの友人8人で 秋の吉野山を訪ねました。 16日は我が国初代神武天皇をお祀りする「橿原神宮」 そして御廟所である「神武天皇陵」 「橿原考古学研究所付属博物館」で「黒塚古墳のすべて」を学習 吉野を代表するお宿「竹林院群芳園」に泊まり 17日には吉野に馴染み深い歴史上の人物に迫りました。 参加メンバーを中心にして |
オルセー美術館 志宝のリマスターアート展 〜高精彩技術が織りなす美と感動〜 ー国立オルセー美術館公式認定ー 2017年8月14日 |
谷瀬の吊り橋・十二滝 そして、瀞峡を探訪します。 2017年7月31日 |
2017年6月15日、16日 春の京都 「山ばな平八茶屋」へ泊り 鞍馬寺・貴船神社・上賀茂神社・下鴨神社を訪ねました。 |
2017年6月15日、16日 春の京都 「山ばな平八茶屋」へ泊り 鞍馬寺・貴船神社・上賀茂神社・下鴨神社を訪ねました。 |
平成28年11月の紅葉旅をまとめて 11月20日 「伊藤若冲展 相国寺承天閣美術館」にて 11月23日 「近江・美濃 永源寺・鶏足寺・多良峡 の紅葉めぐり」 阪急トラピックス バスの旅 |
平成28年10月のイベントをまとめて 10月2日、城陽市 「水度神社例大祭」御旅所からのお神輿還幸祭 10月9日、「リゾートビユーふるさと」で行く「大糸線」の旅 10月29日、30日 中学の同級会で松本へ、友と安曇野へ |
「絶景と感動の島旅 塩風薫る小豆島」への旅。 久しぶりに嫁さんとトラピックスの2日間のバス旅です。 2016年7月9日、10日 |
舞洲 ゆり園とアジサイ展 2016年6月24日 |
2016年2月14日、15日 カニカニバスで鳥取・はわい温泉「千年亭」へ JTBかに食べ放題100分・飲み放題 |
秋の北陸、金沢・福井へ 「兼六園」・「金沢城跡」・「永平寺」 で秋も味わいました。 越前海岸でカニカニパーティ 2015年11月10日・11日 |
秋の北陸、金沢・福井へ 「兼六園」・「金沢城跡」・「永平寺」 で秋も味わいました。 越前海岸でカニカニパーティ 2015年11月10日・11日 人物編 |
真夏の高野山へ ジジ連3人で 塔頭宿坊(持明院)に泊まり お山の清涼な気を十分に味わってきました。 平成27年8月10日、11日 10月21日、紅葉の高野山へ |
大阪城梅林 1 2015年2月19日 |
春の京都 さくらを愛で、京料理を満喫する 高校時代からの友人達8人での 楽しい旅です。 2015年4月7日、8日作者近況の欄です9。 |
社研会、春の京都への旅 平成27年4月7日、8日 「平安神宮の八重枝垂れ桜、青蓮院、知恩院、円山公園、八坂神社 そして、祇園を歩き「菊之井」で京都の味を楽しみました。 カラオケで2次会、グランヴィアでの3次会。 翌、8日、伏見稲荷大社、昼は「鳥せい」での打ち上げでした。 そして、この秋の旅は金沢と決まりました。 このページは写真転送用のもので、本ページは別に作ります。 |
参道ことわざみち |
以下、古いものをアップしていきます。 |
真夏の高野山へ ジジ連3人で 塔頭宿坊(持明院)に泊まり お山の清涼な気を十分に味わってきました。 平成27年8月10日、11日 10月21日、紅葉の高野山へ |
秋の北陸、金沢・福井へ 「兼六園」・「金沢城跡」・「永平寺」 で秋も味わいました。 越前海岸でカニカニパーティ 2015年11月10日・11日 |
秋の北陸、金沢・福井へ 「兼六園」・「金沢城跡」・「永平寺」 で秋も味わいました。 越前海岸でカニカニパーティ 2015年11月10日・11日 人物編 |
「絶景と感動の島旅 塩風薫る小豆島」への旅。 久しぶりに嫁さんとトラピックスの2日間のバス旅です。 2016年7月9日、10日 |
熊野古道・歩きの旅 [第1回] 語り部と行く!「中辺路(なかへち)編」 2013年3月23日 [第 2 回] 語 り 部 と 行 く! 「中辺路(なかへち)編」 2013年4月22日 [第3回] 語り部と行く! 「中辺路(なかへち)編」 2013年5月10日 [第4回] 語り部と行く! 「中辺路(なかへち)編」 2013年6月12日 [第5回] 語り部と行く! 「中辺路(なかへち)編」 |
西国三十三ヶ所、観音様を御参りする旅 |
番外・イタリア10日間の旅 完成 2009年11月1から10日ま |
日光へ行ってきました。 2008年9月9日〜11日 |
真言密教と弘法大師空海 |
京橋会ジジ連の旅 伊豆半島へのドライブ旅行 2014年6月8日、9日 |
桜の時期に京都を訪ねることが出来ました。 5月20日に予定されている仲間との旅の下見ですが、 その時は恐らく桜は終わっているでしょう。 「きぬかけの路」 「金閣寺」・「龍安寺」・「仁和寺」 そして翌日、「酒処伏見・寺田屋・十石舟」を。 下見では、「大覚寺」から嵐山まで歩きました。 |
明治維新からの半島との歴史 呉善花(O Sonfa)さんの本の読後感 |
空海の寺 大原・来迎院 |
高校時代からの友人達と 信州・白馬へ 2013年10月30日・31日 |
古代歴史散歩 饒速日(ニギハヤヒ)は? |
2010年の「もみじ」を味わう旅2 11月29日 銀閣寺・法然院・南禅寺を歩き、東福寺の「もみじ」を味わいます。 11月30日 比叡山延暦寺・(坂本)滋賀院門跡と慈眼堂 |
紀泉高原ハイキング ハイキング登山と中山渓のお花見 2010年4月3日 |
2010年6月4日 中ノ島バラ園 |
塩野 七生さん 「ローマ人の物語」 をまとめてみました。 |
息子夫婦から「母の日、父の日」に贈られた 「一休.com」の「ワンランク上の感動体験」を 「建仁寺祇園丸山」で経験してきました。 2014年10月22日 |
岡田 英弘氏 「皇帝たちの中国」 |
2009秋 佐紀・佐保路への旅 |
阿騎の道 (大宇陀への道) |
阿騎の道2 忍坂(おつさか)街道 |
コンスタンティヌスの凱旋門 (パッチワークの凱旋門) |