真夏の高野山へ ジジ連3人で 塔頭宿坊(持明院)に泊まり お山の清涼な気を十分に味わってきました。 平成27年8月10日、11日 10月21日、紅葉の高野山へ |
霊場 高野山 高野山は弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の弘仁7年(816)真言密教の根本道場として定められ、 国の平和を祈り国民に安らかな生活への道を伝え、併せて末徒の修禅観法のため、また自らの入定 の地とする崇高な目的をもって開創せられた。 海抜900メートルの高峰上にある総面積百十余ヘクタール(三十三万坪)の一大盆地である。 山の姿は四仏四菩薩を象徴したといわれる内八葉・外八葉の峰々に囲まれ、さながら八葉蓮台の形 をなしている。 この山は開創以来壱千百九十余年に亘って、一般庶民の強い信仰と支持を集め、宗派にとらわれず、 あらゆる階層の人々の心の憩いの場として、或は魂の安息所として発展し、今日の如き一大仏都をな すに至ったのである。・・・ (総本山金剛峯寺パンフより) |
高野山とは 三十歳前後の頃、一人で高野山を訪ねた淡い記憶があります。南海電車で極楽橋駅まで、そこからはケーブル線で 高野山駅(標高863m、高低差328m)まで登ったのでしょう。定かな記憶はありません。また、戦国武将を中心とした 数多くの墓石の多さに驚かされたのは、今回と大した違いはないようです。 車の助手席に乗せてもらい、800mを越える高地に運ばれ、金剛峯寺と一体となった人々の生活がある町を体感する ことで、新しい興味が湧いてきました。 古代ギリシャ、ローマの始まりは都市国家でした。平地に国家を築くためには、城塞を堅固にすることで為政者と市民の 安全をはかりました。城塞の建設よりも簡単な方法は攻めるのが難しい高地に町を造ることだったことでしょう。 イタリア旅行の折、ローマから南イタリアのマテーラへ行く途中、車窓から山上に作られた都市が遠望されました。 (その折の写真A B C ) キリスト教が国教となってからは教会が都市の中心となりましたし、 マテーラはその典型的な都市です。 山上に寺院を造り、市民の生活を保障する町を造るためには、多くの人手、技術と巨額の資金が必要となります。 空海と同時代の最澄が開創した比叡山は諸寺は山上に塔頭などは山麓にあります。 高野山は山上に宗教都市を築き上げたのです。そのエネルギーはどこから生まれてきたのでしょう?高野聖も大きな 力となっていたことが想像されます。 弘法大師空海の偉大さを再認識する必要があります。梅原猛氏の「最澄と空海」を再読中です。 追加のページを考えています。 |
背景は壇上伽藍のもみじです。 |
![]() 蟠龍庭の秋。 |
2015年10月21日 毎月21日は、「弘法さん」の縁日でした。8月に訪れた折の10倍のヒトヒトと言っても過言ではありません。トラピックスでのバスのお詣りですが、10時過ぎに駐車場に着いた時には、多くの大型バスが駐車場を占領していました。前回は外人の姿が目立っていましたが、さすがに今日は日本人だらけとなっていました。外人が減っているわけではありません、それだけ多いお客さんが来ていたのです。 高野山は秋真っ盛り、素晴らしいお詣りとなりました。今回は、持参した望遠レンズでの写真を中心とページとすることとしました。 10時23分、バス停から「奥之院」への道をとります。この道は前回は通っていません。 10時54分、織田信長公の墓所前に着きました。 この日のトラピックスのバスは2台でています。従って、お仲間は、ほぼ90人です。その一団を案内してくれるのガイドは1人です。その1人がホント達者な方でした。 「弘法大師御廟」を遠望します。 ガイドの十二分の解説を聞き、奥之院をお詣りし、寺域を帰る道々の紅葉1 紅葉2 昼食は塔頭「赤松院」での精進料理です。 「東根院・赤松院の門1」 「東根院・赤松院の門2」 「赤松院」の宝物は「徳川家の位牌」ということで、御開帳してくれました。 広間での「精進料理」 広間の床の間 床の間の置物1(寺宝 左甚五郎作) 床の間の置物2 食事後は「総本山 金剛峯寺」へ。 「大主殿」屋根A 「大主殿」屋根B 「大主殿」屋根C 「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」の紅葉A) B) C) D) E) 「霊宝館」を鑑賞しました。「霊宝館」前では見事な紅葉を観賞出来ました。 霊宝館前の木々A 霊宝館前の紅葉B 霊宝館の向かいの「壇上伽藍」へ向かいます。「中門」から入ります。中門の新しい名物「金剛力士像」を望遠レンズで撮影します。 阿像 阿像の胸部にはトンボがとまっています。 吽像 吽像の胸部にはセミがとまっています。 朱色の見上げる「根本大塔」は「壇上伽藍」のハイライトです。 根本大塔A 根本大塔B 根本大塔C 根本大塔D 根本大塔E 紅葉に囲まれた「金堂」その先には根本大塔が見えています。 不動堂前の木々は見事に朱色に染まっています。 そしてグラデーションの木々も 16時過ぎ、金剛峯寺前の集合場所に戻りました。 高野山開創1200年記念大法会もまもなく終了です。 今年は2回目のお詣りでした。弘法大師空海についての再検討と真言密教についても勉強をさせていただきました。 |
作者近況の欄です9. |
![]() クリックするとお山の雰囲気が強く匂います。 |
2015年8月10日 今年のお盆を控え、7日は西国33ヵ所観音霊場32番観音正寺、33番谷汲山華厳寺をお詣りし、西国観音霊場の満願を果たし、10日、11日は高野山金剛峯寺をお詣りし、ご先祖を偲ぶとともに、京都に住む我が一家眷属の健康を祈願することが出来ました。 開創1200年紀にあたる今年、「高野山へお詣りに」とのジジ連幹事の篠原氏の提案にもちろん大賛成、このお山に自家のお墓を持つ岩崎氏は「丁度盆前の墓掃除が出来る」と大賛成ということで、10日、11日の高野山への旅が決まりました。ジジ連メンバーのあと二人はお盆の予定があるとのことで、残念ながら不参加でした。 宿坊「持明院」への予約など、全て篠原氏が手配してくれ、さらに、車での往復も篠原氏が受け持ってくれました。ホント有難いことです。 7時15分、篠原氏が家の前まで来てくれました。約束の7時には道路の渋滞のためチョット遅れたのですが、この道路の渋滞は枚方を抜けるまで続いていました。 9時28分、PLの塔の横を抜けます。 10時丁度、橋本市へのトンネルに入ります。 10時30分、371号線を橋本市市街へ走ります。 10時39分、紀ノ川を渡り、高野山へは27キロ地点を抜けます。 11時13分、高野山までは7.5キロ地点です。 11時21分、海抜が600mあたりにまで登ってきました。(ちなみに、高野山は海抜800m以上です) 11時31分、高野山金剛峯寺前に着きました。 この後、車ではイチニ分の持明院を目指しましたが、カーナビに騙され、お墓の掃除後、持明院の道路に面した駐車場前で待っていてくれたI氏にたどりついてのはナント12時を過ぎた時間となっていました。なんと、30分近くウロウロしていたことになります。 宿坊「持明院」へのアプローチ、持明院と彫られた立派な石柱が迎えてくれました。 チェックイン時間は15時とされていましたが、部屋は整理できているということで、部屋に入り、一休みすることができました。 庭の緑が長時間の乗車を癒してくれます。 池には鯉の姿も見えています。 「高野山町全体図」 「奥之院詳細図」 12時23分、奥之院への出発です。岩崎氏、篠原氏 篠原氏、小生 岩崎氏の勧めで、胡麻豆腐の濱田屋さんに寄ります。 1つ300円の山葵胡麻豆腐を2つ頼みます。 岩崎氏 篠原氏 翌日の為にお土産の予約をする岩崎氏 一口でいえば、美味、「濃い味」は間違いありません。 満足げに暖簾を分ける篠原氏。 結局、嫁さんへのお土産にしました。 「奥之院」へ 国の史跡・世界遺産。空海の御廟と灯籠堂がある。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び、その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。戦国大名の6割以上の墓所がある。奥之院の入り口は一の橋と中の橋の二か所あるが、正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約2kmの道のりとなっている。(以上 ウィキペィアから) 奥之院への道、宿坊「遍照光院」 13時1分、「刈萱堂」篠原氏、岩崎氏 岩崎氏、篠原氏 篠原氏、小生 宿坊「地蔵院」 宿坊準別格本山「恵光院」 それぞれ由緒のある宿坊です。ちなみに高野山には51の宿坊があるようで、我々が訪れた「小坂坊 持明院」もその一つです。 13時10分、奥之院近くに来ました。 一輪の蓮花が迎えてくれます。 13時12分、奥之院入り口、「一ノ橋」へ。 岩崎氏、篠原氏 篠原氏、小生 「一ノ橋」を渡り、奥之院墓所に入ります。 「奥州仙台伊達家墓所」 「司馬遼太郎文学碑」 「司馬遼太郎文学碑」前の我々3ジジ 今回、重い三脚を持参しました。 「薩摩島津家墓所」 「山口毛利家墓所」 「森中将忠政墓所」(戦国武将、信濃国川中島藩主、後美作国津山藩初代藩主、父は信長の家臣、森可成の6男、森蘭丸の弟ということになる) 「岡山津山森家墓所」 「竹田信玄勝頼墓所の解説板」 「竹田信玄勝頼墓所」 篠原氏、岩崎氏 ジジ連の3人 薩摩島津家初代家久2代光久、綱久墓所」 「石田三成墓所」 「信州高遠内藤家墓所」 「伊勢桑名城主本田忠勝墓所」 「棺掛桜」 (棺掛桜の由緒は?不思議な話ではあります) 「安芸浅野家墓所」 「芭蕉句碑」 「伊予松山松平(久松)家墓所」 「加賀前田家二代利長墓所」 「法然上人圓光大師墓所」 「結城秀康(家康次男)石廊」 「豊臣家墓所の案内」 「豊臣家墓所」1 「豊臣家墓所」2(中心は秀吉の石塔) 「織田信長墓所」 「信長墓所」の3ジジ 14時4分、「御廟橋」に着きました。岩崎氏、篠原氏 岩崎氏、小生 御廟橋の解説です。 ここからは本当の奥之院、弘法大師空海御廟の霊域に入ります。もちろん写真撮影は禁止、話す言葉も注意が必要です。 石段を登り、「灯籠堂」(高野山第二世真然大徳(しんぜんだいとく)によって建立され、治安3年(1023年)に藤原道長によって、ほぼ現在に近い大きさになったと伝えられています。堂内には消えずの火として祈親(きしん)上人が献じた祈親燈(きしんとう)、白河上皇が献じた白河燈、祈親上人のすすめで貧しいお照が大切な黒髪を切って献じた貧女の一燈(いっとう)、昭和の時代にある宮様と首相の手によって献じられた昭和燈が燃え続け、その他たくさんの方々の願いが込められた燈籠が奉納されています。)、「弘法大師御廟」(大師信仰の中心聖地であり、現在でも肉身をこの世にとどめ、深い禅定に入られており、わたしたちへ救いの手を差し伸べていらっしゃるという入定信仰を持つお大師さまの御廟所です)をお詣りし、御廟地下への階段を下り、御簾の向こうの大師図に礼拝、大数珠、三鈷杵に触れます。 14時24分、「御廟橋」を渡り、霊域を抜けます。各種の「水掛地蔵」が並んでいます。 岩崎氏が水掛け 小生が水掛け 篠原氏が水掛け 「地蔵尊1」 「地蔵尊2」 水掛地蔵前の岩崎氏 「親鸞聖人墓参道碑」 「親鸞聖人碑」 「東日本大震災物故者慰霊碑」 「岩崎家墓所」 岩崎氏 篠原氏、小生 「紀州徳川家二代光貞、三代綱教、四代頼職、六代宗貞墓所」 「弘法大師坐像」 「播州姫路酒井家墓所」 「弘法大師腰かけ石?」 「紀州徳川氏第7代宗将墓所」 一休みの篠原氏 岩崎氏 「肥前国城主鍋島家墓所入口」 「紀州初代藩主徳川頼宣墓所」 「弘法大師尊像」 「高野山町石道の碑」 「刈萱堂」の隣宿坊「密厳院」 宿坊「不動院」、「山科宮家御菩提所」 高野山の奥之院記帳所で御朱印をいただきました。 四国八十八ヵ所観音霊場納経帖への御朱印 西国三十三ヵ所観音霊場納経帖への満願御礼参りの御朱印 15時40分、宿坊持明院へ戻りました。岩崎氏、篠原氏 1 2 「五族之墓菩提所」(昭和五十一年に建立されたもので、「五族協和」の理想を掲げた満洲国の建設に尊い命を捧げた人々の慰霊碑が、日本、朝鮮、漢、満洲、蒙古の順に五基並んでいます。)の碑 学生達が多く泊まっていると聞きましたので、5時からの入浴時間を早められるかと確認したところ、OKが出ました。早速、汗を流すことが出来ました。 ここで、宿坊「小坂坊持明院」について 以下、持明院の小詞「持明院の縁起」です。 鳥羽天皇の保安年間に持明房真誉大徳の開祖でその字を取って寺名とし、特に持流一派の本山として約一千年、法灯師資連綿として今日に至っております。本尊は延命地蔵菩薩で古来より竹田家、土屋家、京極家、木村家の大壇主を始め壇信各家祖先の霊牌を祈願しております。現在の建物は明治43年祝融の災(火事のこと)以後のもので、境内6600u(二千坪)堂宇十数棟に及び数々の貴重な仏像仏画を収蔵しております。 宿坊「持明院」の写真集 部屋の窓からお庭、道路向こうの「摩尼宝塔」(この塔は大戦中、ビルマ国(現ミャンマー)から贈られた釈迦如来を本尊として二百万英霊を供養し、併せて大戦以来の当院とミャンマーとの絶え間ないかかわりを通じ、アジアの親善と世界平和を祈念するものです。摩尼宝塔(まにほうとう)の摩尼とは宝珠(ほうしゅ)という意味で、 真善美(しんぜんび)の価値を実現する理想菩提心(りそうぼだいしん)の象徴です。 人間の本来具有する菩提心の宝珠を磨き出し、この世に真の価値を創造することが大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の教えであり、宝珠を拝み成就の徳をいただくのが密教の信仰であるのです。) 夜の散策の折にお詣りしました。何故にここにタイ、ミャンマー関係の展示があるのか疑問でした。 窓からのお庭を見おろします。 大広間の襖絵1 襖絵2 18時、精進料理の夕食です。皆で乾杯です。 この日の精進料理 一人で飲んだ日本酒は3本、少し飲みすぎました。 20時05分、夜の散策に出かけました。 篠原氏、岩崎氏 |
![]() 根本中堂内部は大日如来を中心にした立体曼荼羅の世界です。 |
8月11日 翌朝5時6分、日が昇り始めています。 霧が上がりきれていません。 風情あるお庭がいくつもあります。 3つの部屋には 「お市の方」、「浅井長政」の掛け軸が飾られています。 「お市の方」の部屋 「お市の方」 「浅井長政」の部屋 「浅井長政」 奇怪な形状の「高野槇」飾り物 2階の大広間の篠原氏 高野山の屏風前の大寅の置物 6時30分からは「朝のお勤め」に参加しました。やはり多くの外国からの方々が興味有り気に参加され、御焼香にも参加されていました。お勤めは35分間、読経の始めは「般若心経」でした。その後の「お教」は判りません。 朝食は、7時15分から、もちろん、肉気はありません。 ご飯とは別に、「茶がゆ」がついていました。 8時40分、昨日行けなかった「総本山金剛峯寺」その他の伽藍へのお詣りに出かけました。岩崎氏、篠原氏 篠原氏、小生 散策ルートを地図で確認。 朝、高野山町を歩いている方々の多くは、他の観光地と同じで、外人でした。 8時47分、門の向こうに一輪のハスが見える宿坊「蓮花院(れんげいん)」に入らせてもらいました。「大賀ハス」(2000年以上前の古代ハス)で有名なところでした。 「大賀ハス」です。 「大賀ハス」のアップです。 「総本山金剛峯寺」へ 国の史跡・世界遺産。主殿等の建物は和歌山県指定有形文化財。高野山真言宗の総本山で座主の住寺。金剛峯寺は元は高野山全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは明治2年(1869年)に青厳寺と興山寺の2つの寺院が合併したもの。旧青厳寺(剃髪寺)は文禄2年((1593年)、豊臣秀吉の建立、文久3年(1863年)、再建。歴史天皇の位牌や高野山真言宗管長の位牌をまつっている。・・・(ウィキペィアより) 8時52分、金剛峯寺の手前まできました。 「総本山 金剛峰寺」の紹介版です。 8時53分金剛峯寺。篠原氏、岩崎氏 金剛峯寺門に入ります。 門から金剛峯寺大主殿を撮ります。 本尊と結んでいる綱を持つ岩崎氏 篠原氏 大主殿の本玄関 大主殿内の廊下 廊下から一部室内が 小さいけれど風雅のある「枯山水石庭」 石庭とは違った木々が特色のお庭 「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」 順路に従って辿っていくと、ご接待のお茶を頂くことになりました。赤い絨毯の敷かれた新別殿大広間で頂戴します。弘法大師、曼荼羅、般若心経が置かれた正面 彫り物の般若心経 大広間の後方 「真然大徳廟」の案内 「真然大徳廟」 巨大なお釜、なべ、おくどさんが並ぶ台所 金堂前の空間に不思議なものが立っていました。 「森林のいのちの塔」の説明 9時34分、「金剛峯寺」のお詣りを終え、多数の建物が待つ「壇上伽藍」へ向かいます。 「壇上伽藍」へは500mです。 「高野山の草創」についての案内、この地は海抜820m、弘法大師がこの地に堂塔を創りはじめたのが、弘仁7年(816年)で、開創1200年紀ということでしょう。 「壇上伽藍」へ (壇上伽藍の建物配置図) 9時38分、「壇上伽藍」に登りました。 手前から「東塔」、「大会堂」、「根本中堂」A。 B 岩崎氏 C 篠原氏 「東塔」 「三昧堂」 「大会堂」 「愛染堂」 「不動堂」 「不動明王坐像」(平安時代 重文 「古寺をめぐる」から) 「根本大塔」 大塔の内部は立体曼荼羅を出現させています。写真の中心は「大日如来坐像」 主に輝く、華麗な大塔の内陣には、本尊の胎蔵界大日如来坐像を中心に、阿シュク・宝生・阿弥陀・釈迦の金剛界4仏が祀られている。16本の柱には堂本印象(どうもといんしょう)の筆のよる十六大菩薩像が描かれ、曼荼羅世界をあらわす。本尊の胎蔵界大日如来像は江戸時代の作という。(以上 古寺を巡る9 高野山から)(堂本印象の筆と思われる襖絵1 2 金堂回廊から撮影できたもの) 「根本大塔」をバックに篠原氏、岩崎氏 木の向こうは「孔雀堂」、「准胝堂」 壇上伽藍の中心である「金堂」 「三鈷の松」の後ろは御影堂 「御影堂」 「准胝堂」 「孔雀堂」 「孔雀明王像」快慶作 重文 (写真は「古寺を巡る」からです。) 「西塔」 「西塔」の説明板 大杉をパックにする篠原氏。岩崎氏 「六角経堂」 壇上伽藍には高野山の地主神(丹生都比売神社と高野明神社)をお祀りしています。 「『不断経』読経中の金堂」 「不断経」を聴きながら周囲を動画で 「金堂」回廊から「三鈷の松」、「御影堂」、「准胝堂」、「孔雀堂」 「金堂」前の篠原氏 「中門」の金剛力士には正面の阿吽像とは別に裏側に特異な金剛力士が治められています。 阿像A 阿像B 吽像A 吽像B 仏師松本明慶氏(「増長天が槍を持っているのは、邪悪なものから守るため」。その象徴として、胸の甲冑にトンボをあしらった。「トンボは前にしか飛ばない。決して退却しないぞ、という強い意志を示したかったんです」 広目天像の胸には、セミをとまらせた。広目天は、広く見渡すのが役目だ。どこまでも声が届くセミによって存在感を示し、「すべてを見ている」ことを表現した。いずれも、伝統的な四天王像にはなかった。) 「大門」 高野山全体の総門。1705年再建。国の重要文化財・世界遺産。(ウィキペィアより) 10時46分、「大門」へたどり着きました。 「大門」正面 「大門」、岩崎氏、篠原氏 「女人堂」、「徳川家霊台」へはいったん持明院へ戻り、車で行くこととしました。 道の左手に「蓮池」がありました、蓮池A 蓮池B 蓮池C 蓮池D 11時5分、面白い坊さんの像(篠原氏の希望で撮影しました。) 11時7分、金剛峯寺前まで戻ってきました。 11時32分、持明院へ戻りました。 持明院とのお別れです。 「徳川家霊台」 国の史跡および重要文化財・世界遺産。寛永20年(1643年)。徳川家光の建立。家康と秀忠の霊廟。(ウィキペィアより) 11時46分、「徳川家霊台」の説明板 石段を上がり門をくぐります。 「霊屋全景」 「家康霊屋」A 「家康霊屋」B 「家康霊屋」C 「家康霊屋」D 「家康霊屋」E 「秀忠霊屋」 「女人堂」 女人禁制の時代は女性はここまでしか入れなかったとされている。古くは高野山の街道の入口にそれぞれあったが、今は一つしか残っていない。大日如来を祀る。(ウィキペィアより) 11時58分、「女人堂」へ着きました。 「女人堂」の説明板 「女人堂」 「お竹地蔵尊」 お竹地蔵の説明板 高野山はかっては女人禁制でした。その入場を停止するを知らせる石塔といえます。 「高野山全図」で、昨日今日の思い出を振り返ります。高野山へは7つの道があったようです。 |
![]() クリックすると境内の雰囲気を今一度 |
丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ また にうつひめじんじゃ)へ 12時22分、山を下ります。途中、不思議な道を通ります。先の車で行く岩崎氏はもちろんカーナビに依存しています。間道と思われる道を過ぎると、「紀伊高原カントリークラブ」というゴルフ場前に出ました。正直、ここまで来てようやくホッとしました。この道を下れば、「「丹生都比売神社」に着くはずです・ 12時55分、神社の駐車場の地図で、これまでの道(ゴルフ場からの)、以外の道を確認しました。 「丹生都比売神社」の鳥居へ歩いていきます。 神社境内略図です。 朱塗りの見事な鳥居。 鳥居から拝殿を通して。 鳥居にて篠原氏、岩崎氏 新しく見事な朱塗りの拝殿 拝殿へ 向かう両氏 拝殿から本殿を 撮りにくい本殿を懸命に写真にA B C D 「千木」は 新しい朱塗りの門、拝殿、本殿を完成させた修復工事には「高野山金剛峰寺」の多大な援助があった ことを証明する寄付金の一覧 A B 筆頭の寄付者に島氏の名前が記されています。「島精機」というニット機器メーカーです。革新的なニット機を造っています。(?) 参考に改修前の本殿です。(「古寺を巡る」から) 13時9分、帰りがけに境内の佇まいを撮影 10分強のお詣りでしたが、大変印象に残るお詣りでした。 紀伊国一ノ宮という名神でありながら、地理上の問題か?ウィークデイのためか?我々以外の参拝者は2組でした。今回無理をいって参拝をお願いしました。連れてきてくれた、岩崎氏、篠原氏に感謝しています。 祭神は4柱 第一殿 丹生都比売大神(丹生明神) 古来の地主神 第二殿 高野御子大神((狩場明神) 高野山開創と関係する神さま 第三殿 大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ) 通称「気比明神」 敦賀市の気比神社からの勧請と伝えられています。 第四殿 市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ) 通称「厳島明神」 広島県廿日市市からの勧請と伝えられています。 別名 天野大社 本殿の様式 一間社春日造 和歌山県北東部、高野山北西の天野盆地に鎮座する。空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くから高野山と深い関係にある神社です。 全国中に「丹」のつく多くの神社があります。「丹」すなわち「朱砂」(辰砂;朱色の硫化水銀)との関係が指摘されています。「丹生」と名の付く土地・神社は、水銀の採掘に携わった氏族(丹生氏)と深い関係があったとされています。 丹生一族が水銀採掘で一大勢力を築いたが、その枯渇に際して天野や三谷で帰農、丹生都比売神社も水神信仰に変化したとも言われています。(ウィキペィアから) 13時29分、橋本市へ戻ってきました。 3人で昼食の後、それぞれの方向に車を走らせ、篠原氏に送られた小生は4時過ぎには家についていました。有難うございました。 |
作者近況の欄です9. |