「吉野の旅」のしおりです。


よきひと吉野  平成29年11月16日、17日

応神天皇(15代)の吉野行幸は省かれるとして、雄略天皇(21代)2年10月の吉野行幸から、聖武天皇(45代)の天平8年(736年)6月の吉野行幸までを万葉の時代における吉野行幸としたら、その約280年の間にどれだけの万葉人が吉野を訪れたであろう。もちろんその実数など分る者もいないけれど、万葉の著名歌人が数多く吉野に赴き、数多くの名歌を歌いあげた。

 天皇では天武・文武代行天皇がいる。不思議なことに、在位中31回の行幸を試みた

持統天皇は、集中、吉野の歌を残していない。

      天皇、吉野宮に幸(いま)す時の御製歌(おほみうた)

    よき人の よしとよく見て よしと言ひし 

      吉野よく見よ よき人よく見(巻一・二七)

 この天皇は天武天皇である。むかしのよいひとが、よいところだといってよく見てよいといった吉野をよく見なさい、いまよいひとがよく見ているからーと語呂あわせを楽しみながら、それ以上の強い暗示を与えている歌である。それは左註の記事によってうかがい知れる。

 天武8年(679年、なお書記の干支では庚辰《17番、えたつ、こうしん》)万葉集では己卯((16番、つちのとう、きぼう))となっていて、1年のくい違いがある)5月5日、天武は吉野宮に行幸し、皇后および草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴の6皇子を召して天神地祇の前に、たがいに助けあい相争わざることを盟約させたと書記に記載されるからだ。世にいう「吉野の盟約」と、この歌とを結びつけて考えたくなるシチュエーションになっているといえるだろう。

 「よき人」(原文・淑人)は立派なひと、君子のことといわれるが、『毛詩』に、「淑人君子」とあり、これら漢籍などから影響という指摘は見逃せないところだ。しかし具体的にいかなる君子を天武が想定していたかとなると、にわかに答えは用意できない。一般的、抽象的表現といえるかもしれないが、吉野盟約とかかわらせてみる限り、誰か具体的なものがほしくなる。わたくしには、それが神武天皇を指すように思えてならない。天武にとって吉野は、天武朝発祥の地であり、聖地であった。一方神武にとっても、八咫烏の誘導によってはじめて進出した国は吉野であり、神武建国伝承の重要なキー・ステーションとなっている。神武東征を天武東遷の投影とみるとき、天武は、想像上の人物にせよ常に神武を意識していたのではないか。したがって、わたくしの場合第五句の「よき人」(原文・良人)は、天武自身を指し、むかしもいまも立派なひとがよいといっているのだから、聖地吉野をよく見なさい、つまりは一心同体たれーといった解釈がある。

 題詞にある吉野宮は、集中「吉野離宮(よしののとつみや)」、「秋津の宮」とも呼ばれ、「滝のみやこ」も具体的には吉野宮のことであった。

 地名吉野(み吉野)は、「吉野の国」をもあわせ、水の宮所吉野宮を中心とした一帯の山河を総称したものである。

 著名人の絶唱―川の歌

 吉野宮を訪れ、吉野を歌った万葉歌人は錚々たる顔ぶれである。皇子では弓削皇子、湯原王がいる。

 古(いにしへ)に 恋ふる鳥かも ゆずるはの 御井の上より 鳴き渡り行く 

(巻二・一一一)    吉野行幸のとき、弓削皇子が額田王に贈った歌である。・・・

 著名人の絶唱―山の歌

 吉野川にせり出した喜佐谷西側の山が象山(きさやま)だ。

  み吉野の 象山(さきやま)のまの 木末(こぬれ)には ここだも騒く 鳥の声も (巻六・九二四)

  人麻呂と並び称せられる山部人麿の絶唱である。み吉野の象山の谷間の梢には、こんなにもたくさん鳴き騒ぐ声だー。集中屈指の自然賛歌のひとつとして評価されているうたでもあるが、これも本来吉野離宮賛歌なのである。・・・

  滝の上の 三船の山は 恐(かしこ)けど 思ひ忘るる 時も日もなし (巻・六・九一四)

  車持千年の歌である。「滝の上の 三船の山」は、まさに現在の景観ともぴったりと符合する。・・・

  ・・・み吉野の 秋津の宮は 神(かむ)からか 貴(たふと)あるらむ 国からか 見が欲しららむ 山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ 定めけらしも (巻・六・九〇七)

 養老7年(723年)元正天皇の吉野行幸に際して、傘金村が歌った典型的な吉野離宮賛歌である。

柴橋上流の吉野川右岸に残る巨大な数々の岩場に驚嘆し、いにしえの吉野川の滔々樽たる流水に思いをまぐらせたら、悠久の吉野宮滝から立ち去ることにしよう。・・・

以上は 私のページ「歴史散歩万葉の旅」の起点となった「万葉の道」(巻の三 奈良編)

からの抜粋です。

11月17日     

吉野山散策

「竹林院」

宗派=修験道 ご本尊=不動明王・蔵王権現・役行者の三尊一体

弘仁9年(818)に空海が入山した際、道場を構えて椿山寺と号したことに始まるという。南北朝合一後、後小松天皇より竹林院の号を賜り、金峯律寺4院のひとつとなり、満堂派に属した。縁起16年(916)に三好清行の弟である善行が当寺で剃髪して日蔵上人(道賢)になったという。

 寺宝の紙本墨書慶長19年五山衆詩文稿は重要文化財に指定され、奈良国立博物館に寄託。通称を糸目屏風という。第二十三代院主の尊祐は桃山時代に大弓法師と呼ばれ、弓道竹林流の開祖である。池泉回遊式庭園の郡芳園は當麻寺中之坊・慈光院と肩を並べる大和三名園。第二十一代院主の祐尊が大峯山の景観をうつして築いたことに始まり、秀吉の吉野山観桜のおり千利休が桃山風に改め、細川幽斎がさらに手を加えたという歴史をもつ。

「吉水神社」

元は金峯山寺の僧房・吉水院だった神社。源義経が隠れ住み、後醍醐天皇の行在所、豊臣秀吉の花見の本陣となった歴史があり、書院(重文)で資料が公開されています

 後醍醐天皇の玉座、義経・静御前の潜居の間などがあります。

「金峯山寺」

宗派=金峯山修験本宗(総本山) 本尊=金剛蔵王大権現

役行者を開基とする。金峯山とは蔵王堂のある吉野山の麓、吉野川六田柳の渡しから大峯山寺のある山上ヶ岳の少し南、化粧の宿まで続く一連の峰を指す総称で、奈良時代からその名がある。役行者が金峯山を本拠地として修験道に励み、山岳信仰を世に広めたと伝えられるため、当山は修験道の聖地として古くから崇拝された。醍醐寺を開いた当山派修験の祖、理源大師聖宝(りげんだいししょうぼう)(832〜909)が金峯山に入って以来、その弟子貞崇(じょうすう)など多くの修験僧が入山。御岳精進への関心が高まり、宇多天皇、藤原道長、頼道の参詣をはじめとする皇室、貴族の御岳詣は白河上皇の世に絶頂を迎えた。永承4年(1049)に興福寺僧が金峯山寺検校となってからは興福寺に所属し、慶長19年(1614)の徳川家康の命により、天台系の日光輪王寺宮の支配に入った。明治の神仏分離令により金峯山一山の修験寺院はすべて廃され、金峯山寺の山上蔵王堂(山上ヶ岳)は当地の地主神金峯神社の奥の院、山下蔵王堂(吉野山)は金峯神社の口の宮と定められた。

 その後、吉野山四ヶ院が寺院に復興するにあわせて、明治19年(1886)には山上・山下の蔵王堂の寺院への復帰が許され、明治22年には金峯山寺の寺号も取り戻すに至った。しかし、復興した金峯山寺は山下蔵王堂が中心とされ、山上蔵王堂は先に復興した四ヶ院と洞川の1寺を加えた5ヶ寺が護持院となって、大峯山本堂として今日に至っている。さらに金峯山寺は昭和23年(1948)に天台宗から離れて大峯修験宗を立て、昭和27年以後は金峯山修験本宗と改称して総本山となっている。

建築では、天正20年(1592)頃に再建された蔵王堂、延元3年(1338)頃に建立された仁王門が国宝、北側参道に立つ銅(かね)の鳥居(室町時代)が重要文化財。

彫刻では、釈迦如来・観音菩薩・弥勒菩薩を本地とする蔵王堂本尊の木造金剛蔵王大権現三躯(く)(秘仏)(桃山時代)、もと安禅寺の本尊であった木造金剛蔵王権現立像(鎌倉時代)、鎌倉時代の木造童子立像2躯、実城寺(南朝行宮)の本尊である木造釈迦如来坐像(平安時代)などの重要文化財をはじめとする多くの仏像が祀られている。

寺宝も数多く、平安時代の金銀鍍金双鳥宝相華文軽箱、近藤経箱台付2箱、経巻9紙、経軸2本はいずれも国宝。

 7月7日に行われる蓮華会が「蛙飛び行事」の通称で広く知られている。金峯山寺は、平成16年7月「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界文化遺産に登録された。

 
黒塚古墳

黒塚古墳は3世紀末に造られたと言われています。前方後円墳の初期といえます。

同時期の建設と思われる、箸墓古墳(箸中山古墳・宮内庁では 太市墓)は第7代孝霊天皇 迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめのみこと)とされています。手白香皇女衾田陵(西殿塚古墳)(手白髪皇女は賢仁天皇の皇女であり継体天皇の皇后。欽明天皇の母

崇神天皇陵(山辺道匂岡上陵)正式には行灯山古墳

景行天皇陵(山辺道上陵)正式には渋谷向山古墳  などが近くにあります。

年表的に見ると(中国に残る資料から)

57年  奴国王、後漢へ朝貢。

107年 倭国王、後漢へ朝貢。    (唐古・鍵遺跡)     

239年 倭の女王卑弥呼、魏へ朝貢。 (邪馬台国)(纏向遺跡?)   

266年 倭の女王、西晋へ朝貢。   (葛城王朝)

369年 任那日本府成立?      (三輪王朝)

372年 中国から高句麗へ仏教伝わる。

421年 倭王讃(仁徳天皇)、宋へ朝貢  (大古墳全盛 河内王朝)

478年 倭王武(雄略天皇)、宋へ朝貢

祭祀の際の神器としては「銅鐸」から「銅鏡」への変化は王朝の変化を示していとの指摘があります。

古代出雲歴史博物館には出雲地域が銅鐸文明であったことを証明する銅鐸が多く展示されています。




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