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作者近況の欄です |
2009年8月31日で、ソネット版の「歴史散歩万葉の旅」は終了し、ヤフー版「歴史散歩万葉の旅 改訂版」および「歴史散歩京都の旅」となりました。「作者近況」は「歴史散歩万葉の旅改訂版」のみ継続して発信していきます。 |
歴史散歩万葉の旅 改訂版 ホームへ |
西国三十三ヶ所、観音様をお参りする旅 |
四国八十八ヶ所お遍路・バスの旅 |
「ローマ人の物語」を読みました。 |
歴史散歩番外・イタリア紀行 |
三つの都の物語 「ローマ人の物語」以外の塩野七生さんの著作を読み、整理しています。 三都とはローマ・フィレンツェ・ヴェネツァアとなります。 ボチボチと作成中です。 |
2009年7月11日、12日、小豆島へ |
十字軍物語 |
「神戸の休日」、紫陽花、神戸港、新神戸ロープウェー、ハーブ園を満喫。 |
「宮島・錦帯橋・萩・青海島・秋吉台・秋芳洞の旅」 |
信州の鎌倉 塩田平 別所温泉への旅 2011年5月13日、14日 |
さぬきの金刀比羅宮をお参りする旅 |
乗鞍高原の風景を楽しむ |
松本城と北アルプスそして安曇野 |
寧楽の中心を散策します |
ふるさと講座 「1500年前、京田辺は日本の首都だった!」 12月3日・「三島・今城塚古墳見学の旅」 |
南信州の旅(木曽 奈良井宿・伊那 駒ケ岳千畳敷へ) 2012年5月25日、26日 |
ジジ連、南紀白浜温泉への旅 2012年6月6日、7日 |
天橋立・舟屋の里伊根・舞鶴自然文化圏の紫陽花をたずねて 2012年6月14日 |
伊豆半島を楽しんできました。 2012年7月10日、11日 |
「鈴虫寺」・「大河内山荘庭園」そして「五山送り火」を鑑賞してきました。 2012年8月16日 |
志摩賢島・鳥羽・伊勢神宮(美術館・徴古館)へ 浜島温泉「ニュー浜島・花の館 椿」の特別料理を堪能しました。 2012年9月5日、6日 |
古代出雲の面影を味わいたくて 出雲大社へのお詣りと 古代出雲歴史博物館を訪ねます。 そして、美保関灯台、美保神社、水木しげる記念館も 2012年11月1日、2日 |
高校時代からの友人達と 京都・大原、「三千院門跡」・「寂光院」 夕餉の席は、銀閣寺道「草喰 なかひがし」 奈良・西ノ京、「薬師寺」・「唐招提寺」を散策し、 締めは、「霧下そば かえる庵」でのお蕎麦、もちろんお酒も 2012年11月16日、17日 |
空海の寺 大原・来迎院 2012年11月16日 |
真冬の飛騨高山・白川郷 そして富山・金沢へ 2013年1月28日、29日 |
高校時代からの友人達と 初夏の鎌倉を訪ねる旅 2013年5月13日、14日 |
京都と東京 高校関西同期会 &会社同窓会 &高校関西同窓会 少しだけ写真で 2013年5月18日・26日・6月2日 |
古代歴史散歩 饒速日(ニギハヤヒ)は? 一応、書き終えました。 |
高校時代からの友人達と 深まる秋の信州・白馬を訪ねる旅 2013年10月30日・31日 11月13日、一応出来ました。 |
明治維新からの半島との歴史 呉善花さんの本の読後感 これからも続けます。 |
桜の時期に京都を訪ねることが出来ました。 5月20日に予定されている仲間との旅の下見ですが、 その時は恐らく桜は終わっているでしょう。 「きぬかけの路」 「金閣寺」・「龍安寺」・「仁和寺」 そして翌日、「酒処伏見・寺田屋・十石舟」を。 下見では、「大覚寺」から嵐山まで歩きました。 2014年5月20日、21日 |
京橋会ジジ連の旅 伊豆半島へのドライブ旅行 2014年6月8日、9日 |
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信州 大峰高原 七色大カエデを鑑賞してきました。 2014年10月25日、26日 |
高校時代からの仲間7人で 昨年、式年遷宮が行われた「お伊勢さん」へ ついでに伊勢の海の幸を味わいます。 2014年11月18日、19日 |
岡田 英弘氏 「皇帝たちの中国」 2月26日完結 |
2015年2月19日 大阪城梅林 1 2015年3月12日 大阪城梅林 2 |
春の京都 さくらを愛で、京料理を満喫する 高校時代からの友人達8人での 楽しい旅です。 2015年4月7日、8日 4日の下見写真を含め |
2015年4月、5月 家の花々 Exilim EX-ZR500 を中心に Nikonの一眼でも対比します。 5月9日アップしました。 |
愉快な仲間・ジジ連5人組 香川・ホテルレオマの森 金比羅宮の奥宮へ 2015年6月5日・6日 |
西国三十三ヶ所、観音様をお参りする旅 6月15日、播州清水寺、中山寺へ 7月14日、竹生島宝厳寺、長命寺へ 8月7日、観音正寺、谷汲山華厳寺へ 満願となりました。 |
真夏の高野山へ ジジ連3人で 塔頭宿坊(持明院)に泊まり お山の清涼な気を十分に味わってきました。 平成27年8月10日、11日 10月21日、紅葉のお山へ 嫁さんとバスの旅 |
真言密教と弘法大師空海 一応まとめました。難しい!!! |
秋の北陸、金沢・福井へ 「兼六園」・「金沢城跡」・「永平寺」 で秋も味わいました。 越前海岸でカニカニパーティ 2015年11月10日・11日 |
2016年春 京都の旅 高山寺・神護寺・仁和寺・菊乃井本店 西本願寺・角屋・京都水族館・美々卯 高校時代からの仲間8人で 春の京都を楽しみました。 2016年4月11日、12日 |
1分間英語で 京都を 案内する 広瀬直子 加工中 |
相国寺・承天閣美術館 「いのちの賛歌 森田りえ子展」 2016年5月23日 |
舞洲 ゆり園とアジサイ展 2016年6月24日 |
「絶景と感動の島旅 塩風薫る小豆島」への旅。 久しぶりに嫁さんとトラピックスの2日間のバス旅です。 2016年7月9日、10日 |
2016年10月のイベントをまとめて 10月2日、城陽市 「水度神社例大祭」御旅所からのお神輿還幸祭 10月9日、「リゾートビユーふるさと」で行く「大糸線」の旅 10月29日、30日 中学の同級会で松本へ、友と安曇野へ |
平成28年11月の紅葉旅をまとめて 11月20日 「伊藤若冲展 相国寺承天閣美術館」にて 11月23日 「近江・美濃 永源寺・鶏足寺・多良峡 の紅葉めぐり」 阪急トラピックス バスの旅 |
四国松山・道後温泉へ 2017年4月24日、25日 子規記念館・松山城をメインにまとめてみました。 |
2017年6月15日、16日 春の京都 「山ばな平八茶屋」へ泊り 鞍馬寺・貴船神社・上賀茂神社・下鴨神社を訪ねました。 仲間の写真集です。 旅の模様は別ページで。 |
2017年6月15日、16日 春の京都 「山ばな平八茶屋」へ泊り 鞍馬寺・貴船神社・上賀茂神社・下鴨神社を訪ねました。 風景編 |
谷瀬の吊り橋・十二滝 そして、瀞峡を探訪します。 2017年7月31日 |
2017年11月16日・17日 高校時代からの友人8人で 秋の吉野山を訪ねました。 16日は我が国初代神武天皇をお祀りする「橿原神宮」 そして御廟所である「神武天皇陵」 「橿原考古学研究所付属博物館」で「黒塚古墳のすべて」を学習 吉野を代表するお宿「竹林院群芳園」に泊まり 17日には吉野に馴染み深い歴史上の人物に迫りました。 |
2017年11月16日・17日 高校時代からの友人8人で 秋の吉野山を訪ねました。 16日は我が国初代神武天皇をお祀りする「橿原神宮」 そして御廟所である「神武天皇陵」 「橿原考古学研究所付属博物館」で「黒塚古墳のすべて」を学習 吉野を代表する宿坊「竹林院群芳園」に泊まり 17日には吉野に馴染み深い歴史上の人物に迫りました。 景色の中には3日の下見分も含まれています。 |
ジジ連・今年の「カニカニの旅」 昨年は「千年亭」 今年は兄弟店「三朝温泉 清流荘」へ 平成30年1月16日、17日 |
2018年4月19日、20日 高校時代からの友人達8人で 「小豆島」を訪ねました。 19日は新岡山港からフェリーで土庄港へ渡り 「岬の分教場」・「小豆島オリーブ園」などを巡りホテルへ 20日は「エンジェルロード」・「寒霞渓」などを巡りました。 ジャンボタクシー運転手さんのお陰で種々の島の興味ある場所、 話を聞くことが出来ました。 |
2018年10月7日 須磨寺 「プラド美術館展を鑑賞した後、 須磨寺をお詣りしました。 |
2018年10月27日 苦労しています。ヤフーさんのgeocitiesが来年3月末で使用できなくなるとのお知らせが入り、ヤフーさんの指示ニ従って新しいプロバイダー(さくらインターネットさん)と契約を結び、移動の準備を始めたところ、新しいftpには接続できたのですが、前のヤフーさんのページのはログイン出来なくなってしまいました。何回か試み、パスワードを変更などして再度試みていますが、まだ、不明な状態が続いています。 20日、21日は、中学同級会で信州・松本へ。(20日は雨模様でしたが、21日は快晴、開田高原、奈良井宿を案内してもらい、感激、特に焼岳の全貌を拝むことができました。) 23日は嫁さんと徳島県の「大塚国際美術館」で陶版画による世界の名画を堪能してきました。別ページを作っていきます。 |
2018年10月17日 「ベラクルスと絵画の栄光 プラド美術館展」が今月14日までということで6日に行ってきました。プラド美術館展の纏めは別ページでのアップを考えていますが、とりあえず、夕方のテレビで見て面白そうと思いお詣りに行こうと思っていた「須磨寺」を纏めてみました。 |
2018年10月6日 今週はパソコンのことで大わらわです。ホームページ「歴史散歩万葉の旅」・「京都の旅」・「作者近況の欄です」はヤフーのサーバーを利用させていいたたいていました。ところが、来年2月末をもってサービス停止、他社利用を勧めてきました。とりあえず紹介されているサーバー会社と契約を結び、試験的に移動を試みたのですが、上手くいきません。急に悩み多い日々となってしまいました。試みは進行中です。 |
2018年10月1日 前回のページの更新が八朔であったことをこのページを開けて判りました。なんとも、面目ないことです。並外れた今年の猛暑、神戸の大地震以後の久し振りの関西での大地震、21号台風の目がもろ京田辺市を通過した伊勢湾台風以来の強風、昨日24号の台風の通過など、本当に様々なことが起きてしまったことを理由をする分けにはいきません。ただ、ヘタレていたからです。 今朝、ゆったりした気分でパソコンを起動出来たのは、67歳から務めている朝の仕事(7時から10時まで)がお店の改装のため今日から約2か月間休みになるからです。チャンスとばかりに嫁さんのとの2泊以上の旅行を考えていたのですが、マゴッチの保育園への向かえと夕飯を大事な仕事と考える嫁さんの考え方で1泊の旅行となりました。 嫁さんとは10月12日は箱根へ1泊旅行、23日大塚美術館へ日帰り、20日は松本へ中学の同級会、11月6日は高校からの友人8名(9名)と広島、江田島、宮島への旅が決まっています。 |
2018年8月1日 八朔。7月の猛暑、29日日曜日午前3時、摩訶不思議な台風12号、三重県に上陸して、私どもが済む京田辺市を台風の中心が通りすぎて行きました。 瞬間風速、28Mの強風が吹く時にはテレビで現状把握に努めていました。 恥ずかしながら、約2か月、この欄をアップ出来ませんでした。1週間ほどは、腰痛に悩まされていましたし。猛暑の中では、パソコンでの作業の意欲が出ず、「ローマ人の物語」の再々読に耽っていました。文庫本ですので、寝ながらの読書が可能であることが主原因といえます。「第12巻、ユリウス・カエサル ルビコン以降」、カエサルによるローマ政体の改善を懸命に図っている時です。 並行して、アマゾンの本の紹介で、購入した「英語対話でで読む日本のしきたり」、「1分間英語で日本のことを話す」を、横目で覗いたりしています。 「日本のしきたりの英訳」に興味が惹かれています。 「正月」・the New Year's 「大晦日」・New Year's Eve 「元日」・New Year's Day 「門松」・gate pines 「しめ縄」・a holy rope decoration などなど、これから読み進めます。 |
2018年6月8日 やはり今月も新規アップに1ヵ月過ぎてしまいました。面目ないことです。 5月19日には高校時代の同期関西支部の集まりが、恒例どうり行われ、関西からの参加が3名だけであったにもかかわらず、松本その他からのメンバーが8人参加してくれ、11名での円卓での宴会となりました。それそれ、言いたいことが言える楽しい会でした。来年も継続してこの会が開かれることを祈るばかりです。 |
2018年5月9日 今日、ようやく「小豆島への旅」をアップしました。 |
2018年5月21日 井沢元彦氏の「逆説の日本史 23 明治揺籃篇」を読みました。8月 氏はこの巻の第一章として「近現代史を考察するための序論」として「近現代史を歪める人々ー日本を蝕(むしば)み続ける【バカトップ】問題」?として現在の歴史学者の問題点を教えてくれています。また第二章では「大日本帝国の構築T 琉球処分と初期日本外交ー朱子学という亡国の【毒酒】」で、沖縄がなぜ日本国になれたのかを教えてくれています。 しかし、今回は私がもともと知りたいと思っていた、明治維新での廃物希釈問題 「第三章 大日本帝国の構築U 廃仏毀釈と宗教の整備ー(平和ボケ)ニッポンを(内教)でたて直す」 をまず読み始めました。 我々が中学、高校で習った江戸時代の三大改革は「享保の改革 徳川吉宗」、「寛政の改革 松平定信」、「天保の改革 水野忠邦」の評価はその後どのようになっているのでしょうか? 家康が始めた朱子学による影響は、田沼意次による政治改革が悪政とされ、その改革と正反対の施策を行い幕府を窮地に陥れた松平定信が名君とされていること。また、幕末の島津斉彬や勝海舟が日本にとってもっとも的確な道をとろうとしたのに、生命を狙われた例があったようです。 1868年(慶応4年)4月、維新政府は神祇官(じんぎかん)は全国の神社にいた神仏混淆信仰に基づく別当・社僧など僧形の神官に還俗を命じました。また、太政官が神仏分離令(神仏判然令)を発して、権現など仏教語を神号とする神社の神号変更、仏像を神体とすることの禁止、を全国に布教した。・・ これが明治維新における廃仏毀釈運動の始まりです。 京都の南部、奈良との県境に住む私としては、以下の部分を引用したいと思います。 古都奈良にも吹き荒れた「廃仏毀釈」の嵐 では奈良県はどうだろうか。 奈良と言えば今でも古寺探訪の中心地であり多くの古寺が悠久の昔から、そのまま残されているというイメージを抱く人が多いだろう。東大寺、興福寺、法隆寺、薬師寺など、日本の古寺を代表する伽藍が今も多くの参拝客を集めており廃仏毀釈など本当にあったのかという気がするかもしれない。 だがそれは早計というものだ。たとえば今の奈良県天理市には内山永久寺という大寺院があった。「永久」とは年号で、同じく年号を寺号に用いた比叡山延暦寺、東叡山寛永寺などと同じく勅願(天皇の発願)によって建立された寺だ。廃仏毀釈直前までは同じ奈良県にある興福寺や薬師寺並の規模を持った寺だったはずだが、いまは跡形も無い。 永久寺は、12世紀の永久年間に鳥羽上皇の勅願によって建てられたのだが、開創に尽力した興福寺の塔頭寺院的性格を持ちながらも、神仏混淆の風潮の中で近くの石上神宮の神宮寺とされ大いに栄えた。本尊は阿弥陀如来で本堂前には多くの堂宇が並んでおり、「大和名所図絵」にも載っていた。・・・ ・・・こうした永久寺の惨状を知れば、多くの人は「奈良の郊外にある永久寺に比べて、都心の興福寺はよく無事にい残ったな」と思うかもしれない。しかし、そらはじつは誤解だ。永久寺ほどでは無いにしても、興福寺も廃仏毀釈によって大きな被害を受けている。・・・ 興福寺五重塔さえスクラップして売り払おうとした狂気 ・・・奈良ホテルは現在もある建物だが、かってそこは興福寺の境内にあった。また、奈良県庁あるいは裁判所などとあるのは、廃仏毀釈によって廃物させられた寺院の一部がそうした政府の建物に改造されたということだ。・・・ 春日社と一体化していた興福寺では、寺僧はこぞって還俗し、新神司などという称号を賜って春日社への神勤めとなった。かくて、興福寺は無住となるし、なお、明治4年(1871)には寺領は没収されてしまった。ここに、堂塔は荒廃する。中金堂は県庁舎、食堂は寧楽(なら)学校舎として利用されることとなった。したがって、中金堂本尊の釈迦如来坐像や食堂本尊の千手観音立像などの諸仏は、それぞれ北円堂、南円堂にところせましと押し込められた。/猿沢池畔より見上げる五重塔は、古都奈良の風景随一たるものであるが、その五重塔が売られ取り壊されようとしたという話もこのころのことであった。 この五重塔は公開入札で売りに出され50円で落札されたのだが、買い取った町衆は塔を「スクラップ」としてしか評価していなかった。・・・ |
2018年5月2日 またまたまた、1ヶ月のご無沙汰でした。4月19日、20日の高校時代からの仲間との「小豆島への旅」での私の大失態の故でもあります。19日夜の宴会で「飲み放題」を選択したのが大間違いの始まりでした。仲間の2人には特に迷惑を掛けてしまいました。 本人は宴会の終了頃からの記憶はありません。仲間の一人は、私もカラオケの歌を歌ったようです。記憶が戻ったのは深夜のホテルの通路を歩き、部屋に入るためにロビーの係りの人に部屋のカギを開けてもらっている頃からです。 翌朝になって病院まで付いて行ってくれた二人の仲間に話を聞いた時に始めて前夜「救急車」で病院に運ばれ、治療を受けていたということでした。治療中の一部は朧気ながら記憶には残っています。 後頭部には大きな絆創膏が貼られていました。朝食時には帽子を被って摂ることになりましたが、さすがに食欲はありませんでした。これにからんでですが、今一つ、バックに入れていたジャンボタクシーの運賃の封筒の私の紛失騒ぎで、友人の一人が改めてバックをあらため、簡単に発見してくれたことで、ことが収まりました。 20日の私はもちろんフラフラの状態で、案内役は変わってもらいました。せっかく予約して楽しみにしていた「野の花」の昼食の味も定かならず、もちろん、ノンアルコールビールでの乾杯となってしまいました。 頭部の大きな絆創膏を付け、帰り道の20日夕方、いつも腰の痛みで厄介になっている整形外科へ寄ることになりました。救急病院の地域外への紹介状を持たされていたことに依ります。 大きな絆創膏は小さなものに替えてもらい、21日、23日、26日、28日と傷のチェックを受け、今日も13時に治療の予約を入れてもらっています。その間、嫁さんに病院から預かっていた絆創膏と消毒剤を付け替えてもらったとき、7本のホッチギスが付いていることが初めてわかりました。 痛みがほとんどなくたった状態ですので、今日は、抜糸ということになると思っています。 また、傷を負った折、紛失していたメガネの片方のレンズの修復と近距離用メガネが出来上がり、昨日受け取ることが出来、ページの更新も可能となりました。「小豆島の旅」のページも始められます。 |
2018年4月3日 またまた、1ヶ月のご無沙汰です。3月18日、19日は嫁さんと「和倉温泉」を楽しんできましたので、その模様、写真もアップしようとは思っていましたが、何故か更新の意欲が湧きませんでした。この間の政治情勢、特に「森友事件と財務省の文書書き換え事件」を伝える新聞、テレビなどマスコミの報道に嫌気が咲いていたためと思っています。 この時期に丁度、塩野七生氏の「ギリシャ人の物語 V」が図書館で借りられ、読み始めることが出来、更に、政治について考えさせられました。 民主政の雄、民主政と称する体制を世界文化の中に誕生させた都市国家アテネの凋落、それに続くスパルタ、テーベの凋落によって「都市国家ギリシャの終焉」なってしまう歴史の不思議さです。そしてその後は、王政のマケドニアによるギリシャ全土、さらに、アレキサンドロス(アレキサンダー大王)によるペルシャ、エジプトへの進出です。 民主制の弱点が露呈されている現在の世界の、特に我が国の政治情勢の危うさを崇関しています。 今月19日、20日は、高校時代からの仲間8人での「小豆島への旅」です。信州、東京からの仲間を案内する役を仰せつかっていますので、何かとせわしなさを感じてはいます。 「和倉温泉への旅」も簡単にアップしたいとは思っています。 |
2018年3月1日 ページの更新が出来ずに、1ヵ月過ぎてしましました。面目のないことです。今年の2月はホント寒かったですね!!!今日は春の嵐が吹き抜けていますが、気温は春めいてきたのは明白です。 2月23日は、京都国立近代美術館で開かれている「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」の鑑賞に出かけました。 8時過ぎに家を出て、9時半過ぎには美術館前に到着しました。9時40分、平安神宮の大鳥居前に着きました。 「京都国立近代美術館」です。向かいの京都市立美術館で開催されていた展示会には何回も来たことがありますが、この会場に入場するのは初めてのことです。9時半開場ということで、入場券を購入するための行列ができていました、 展示会が開かれている3階のロビーからは朱塗りの鳥居と正面の市立美術館が望まれます。 ここから見ると朱鳥居の巨大さに驚きます。 会場は朝から大変なお客様です。もちこん、音声ガイドを借ります。 この展示会の主眼はゴッホとヨーロッパのその時代の日本の江戸時代の浮世絵への憧れを知らせることです。 パンフレットから、 「出会って夢見た!ファン・ゴッホの日本」 1880年にファン・ゴッホが移ったパリでは、ジャポニスム(日本趣味)が最盛期を迎えていました。ファン・ゴッホは画商ビングの店で大量の浮世絵を見て、その鮮やかな色彩や作品としての質の高さに魅せられます。 また南仏アルルを理想郷としての日本を重ね合わせ、明かり陽光のもとで数々の傑作を生みだしました。 本展では、浮世絵の模写、構図や色彩などの表現様式、理想像としての日本のイメージの反映など、さまざまな角度からふゃん・ゴッホ作品における日本の影響を探りまず。ファン・ゴッホが抱いた<日本>という夢の軌跡をぜひご覧ください。 解説のとおり、開場には多くの浮世絵が展示されていました。 ゴッホと言えば、自画像です。 1) 「灰色のフェルト帽の自画像」1888年 2) 「イーゼルに向かう自画像」1888年 3) 「耳を傷つけた自画像」 「アイリスのあるアルルの風景」1888年 「アルルの跳ね橋(ラングロウの橋)」1888年 「夾竹桃と本のある静物」1888年 「種まく人」1888年 「ケシと蝶々」 「林の中」 浮世絵を背景にした作品3点 A) B) 「花魁」渓斎英泉による C) 「たんぎー爺さん」1887年 4回にアルルの「黄色い家」の寝室が再現されていました。 この部屋に置かれた自画像 12時10分外に出ると、外人向けと思われる観光バスが通りました。 ここで昨年の「北斎展」を参考に A) B) C) D) |
2018年2月1日 今年は、ホントに寒いですね。いつの間にか、2月になってしましました。正月の初詣は、今年の恵方が、南南東であるところから「春日大社」へお詣りへ行きました。久しぶりのおみくじは、珍しく「大吉」でした。もちろん喜んで持ち帰りました。 お詣りの後、久しぶりに「東大寺大仏様」をお詣りしました。改めて、大仏様の偉大さにビックリです。 後、「東大寺ミュージアム」も観賞することとしました。それから早くも1ヵ月経ちました。 |
2018年1月12日 更新をしていない間に年が変わってしまいました。寒さでパソコンの前に座る時間が減少すると、メールの確認、情報収集などでページの更新は疎かになってしまします。 来週16日、17日は近年恒例となっている、カニ食べ放題の旅が決まっています。昨年、一昨年は、はわい温泉「清流千年亭」でしたが、今年は久しぶりに、三朝温泉「清流荘」で、ジジ連、4人組での旅です。14日までは低温が続きそうですが、16日、17日は少し緩んで大雪にはならないようです。楽しみです!!! 美術関係、二条城散策などのページはボチボチ進めていきます。 |
2017年12月23日 8月以降、「オルセー美術館展」・「北斎展」・「エルミタージュ美術館展」・「奈良県立考古学研究所付属博物館 黒塚古墳のすべて」など、美術、歴史について勉強させていただきました。平成30年の年賀状も完成し、時間が取れる時が来たことから、これらをまとめてアップしたいと思います。 ここで、8月18日のこのページを再掲します。 14日はマゴッチ達がママの故郷、鳥取へ行っているため、時間が十分に取れるからです。先日から気になっていた「京都大丸 大丸ミュージアム」で催されている「オルセー美術館 志宝のリマスターアート展 〜高精彩技術が織りなす美と感動〜」を鑑賞に出かけました。 以下、頂いたパンフレットの記載です。 ミレー、モネ、ルノアール、ゴッホ・・・ これがオルセーの代表作!日本未公開作品を含めた印象派オールスター作品も一挙に展示! 芸術の都パリに、1986年オルセー駅の駅舎を再利用して開館したオルセー美術館。セーヌ川を挟んで、世界三大美術館であるルーブル美術館の対岸に位置するこの美術館では、19世紀中頃から、第一次世界大戦以前までのフランス美術を中心とする多彩な作品が展示され、特にその中でも印象派コレクションは世界的な評価を得ています。本展では世界最先端の技術を用いて、オルセー美術館の代表作品を復元したリマスターアート60点を一堂に展示し、その真価に迫るものです。 ルネッサンス依頼最大の変革期と位置付けられる19世紀パリの美術の変容を9つのテーマに分けて辿(たど)り、その代表作をリマスターアートで体感していただけます。また、リマスターアートだからこそ可能となる共作や連作の一堂展示や日本ではなかなか見られない名画の数々を、映像コーナーや詳細な解説と共に、原画に迫るリアリティーでご覧いただけます。 立体質感再現と1億画素以上の高精細画像による最先端技術リマスターアート! 絵の具の盛り上がり、絵筆のタッチまでをも忠実再現! オルセー美術館で、作品1点ごとに学芸員と細密な打ち合わせを行いながら、億単位画素の最高水準機材で絵画を記録。約3年の歳月をかけて限りなく原画に忠実な再現を実現し、世界で唯一オルセー美術館の公認を得たものが、このリマスターアートです。 また名画は、貴重であるが故に、これまで限られた場所や、限られた証明条件でしか見ることが許されませんでしたが、流マスターアートでは、自由な好条件の基で御覧頂くことができます。 2時間以上、解説テープを聞きながら鑑賞しました。面白かった!!!!! |
2017年12月13日 早くも厳寒の時機到来!!!12日の朝、6時は寒風を加えると、体感温度は氷点下10度。この寒さはホント久しぶりでした。 友人達8人での「吉野山への旅」、人物編、風景編をようやくアップできました。撮りためてある「オルセー美術館展」、「二条城」、「エルミタージュ美術展」などのページも追い追いアップしたいと思っています。 7日には、ジジ連京橋会5人の内の4人で、忘年会を難波の「旧松竹座」建物の地下にある「たちばな」で昼食、その後、バーで2次会のカラオケ大会を楽しみました。今年の年末でこのお店(市)を閉めることになるママの話を聞き、ママの絶妙な「ひばり」の聴き、歌い、すっかりこのお店のフアンになったのですが、店じまいは残念至極です。いずれにしても、幹事Sさんに感謝!!!感謝!!!!!です。来年1月16日、17日「三朝温泉」への「カニ食べの旅」は楽しみです。 |
2017年12月1日 平成29年もあと1ヵ月となりました。速いものです。歳をとるごとに一日の時間が短くなるなるのは当たり前の感覚ですが、実際の時間が短くなるわけではないことは百も承知のことがらです。 10月28日、29日は恒例になっている松本での中学校の同級会への参加、11月3日は嫁さんと吉野への下見の旅、16日、17日は高校からの友人達8人での本番の吉野の旅、19日は名古屋の知人と会社の後輩と阿倍野アルカスで開かれている「北斎展」(最終日であったため、超満員の賑わいで十分鑑賞することが出来ませんでした)、21日はお歳暮の為京都市内へ出たついでに「二条城」へ、22日は会社の先輩が夫婦で京都への旅のついでの夕食会、28日は嫁さんと久しぶりに神戸へ、兵庫県県立美術館での「エルミタージュ美術館展」の鑑賞に出かけました。鑑賞後神戸港を散策、中華街で特別ランチを頂戴してきました。なんとも忙しい一ヵ月とはなりました。ページのまとめを急がなくてはなりません。まずは、「吉野への旅」に取り掛かります。 |
2017年11月8日 秋の佇まいが進んでいます。3日には、「16日、17日に予定されている友人達との、吉野への旅」の下見の為に、嫁さんと「橿原神宮」「神武天皇陵」「奈良県立考古学研究所付属博物館」「吉野山」を巡ってきました。博物館では「黒塚古墳のすべて」という特別展が開かれており、多くの本物の見事な銅鏡、鉄、青銅剣が展示有れており、4世紀、5世紀の文明度が示されています。今年の同志社大学公開講座で受講した「考古学からみた日本の古代国家成立」での「生産の画期としての5世紀」の内容に沿うものがあります。「竹林院群芳園」では女将にお目にかかり、当日のボランティアガイドを勧められ予約のファックスを送っていただきました。 以下、写真です。 1) 「橿原神宮」 2) 「神武天皇陵」への道 3) 「奈良県立考古学研究所付属博物館」 4)「上千本の紅葉」 5) 「竹林院群芳園」門前 6) 「もみじ紅葉のグラデーション」 7) 「吉水神社」 8) 「金峯山寺 蔵王堂」 本番が楽しみです。 |
2017年10月24日 注目の衆議院選挙が終わりました。特大の台風襲来ということで、選挙そのものが出来るのかどうか?心配でした。あの嵐のなかでの投票率が50数パーセントですから、立派なものです。結果は自民・公明の与党の勝利に終わり、純左派は立憲民主・共産となりました。不思議な2,3の新聞は結果が出たあと{様々な民意を尊重しろ」という社説その他を出したようですが、日本の総選挙はなんの障害もない環境での選挙で結果であり、これこそ民主主義の極致、民意ではないでしょうか。やはり違憲である自衛隊をちゃんとした存在にする改憲提案をすることが出来る足場は整ったのではのではないでしょうか。北朝鮮そして中国の脅威は軍事的なもので、実力ある自衛権を持たなけらば解決不可能なことがらのはずです。 この週末は信州松本での中学同級会です。またまた、台風襲来の心配が出てしまいました。 |
2017年10月13日 前期(紀元前429年から413年までの17年間) ペリクレスの死を境にしてアテネは衆愚政治の時代に突入して行ったとは、ギリシャ史では支配的な見方になって久しい。 大軍で攻めこんできたペルシアを完膚なきまでに撃破しアテネに黄金時代への道を開くことになる。テミス手クレスが活躍したには紀元前480年。 その路線を受け継いで、「形は民主政でも実際に統治するのはただ一人」と言われようが意に介さず、アテネに政治的安定と経済的繁栄をもたらしてに留まらず、文化も花咲かせてアテネに文字どおりの黄金時代を与えたペリクレス下の三十年。 この、いずれもが「民主政」で機能していた歳月の合計が、50年になる。 この50年後は「衆愚政」を経てペロポネソス戦役に敗北する紀元前404年までの25年間。 つまり、アテネは、50年かけて築きあげてきた繁栄を、その半分の25年で台無しにしてしまうことになる。 都市国家としてのアテネは、その後も82年間にわたって存続する。だがそれは、後世に生きるわれわれがかぎりない讃嘆の想いを抱かずにいられない。アテネらしいアテネではなくなっていた。 では、そのアテネ衰退の主犯とされている、衆愚政治とは何であったのか。 「デモクラツィア」(demokratia)ーー「民主(衆)政治」 「デマゴジア」(demagogia)ーー「衆愚政治」 いずれもギリシャ人の発明になる言葉だが、一見するだけならば別物の政体のように見える。だが、この二つともが「衆」(demos)が主役であることにご注意を。 なぜ衆愚制に? 都市国家アテネの主権者は、「市民」という名の民衆である。だからこそ、主権在民になる。最高決定権は「民」(demo)にある点では、民主政治も衆愚政治もまったく変わらない。 つまり、悪い政治の見本とされている衆愚政治といでも、民主政治が存在しなかった国では生まれようがないということになる。 「デモクラシー」が銀貨の表面ならば、 「デマゴジー」は裏面なのだ。 ひっくり返しただけで様相が一変してします。裏面なのである。 「民主政」も「衆愚政」も、銀で鋳造されているということならば同じの、銀貨の表裏でしかない。 ペリクレスが生きていた時代のアテネ人は賢かったが、彼が死んだとたんにバカに一変した、などということはありえないのだから。 しかし、ペリクレス以後のアテネが衆愚政に突入したのは、歴史上の事実である。 なぜそのようになってしまったのか、の疑問の解明には、もう一つの要因があるように思う。 政体がどのように変わろうと、王政、貴族政、民主政、共産政と変わろうと、今日に至るまで人類は、指導者を必要としない政体を発明していない。 この事実が示すように、民主政でも衆愚政でも、リーダーは存在する。ただし、性質はちがう。 民主制のリーダーーー民衆に自信を持たせることができる人。 衆愚政のリーダーーー民衆が心の奥底に持っている漠とした将来への不安を、煽るのが実に巧みな人。 前者が「誘導する人」ならば、後者は「扇動する人」になる。 前者は、プラス面に光を当てながらリードしていくタイプだが、後者となると、マイナス面をあばき出すことで不安を煽るタイプのリーダーになる。ゆえに扇動者とは何も、政治家とはかぎらない。 今日ならば、デモの指導者もマスコミもウェブも、自覚していようがいまいがには関係なく、立派に「デマゴーグ」(扇動者)になりうる。・・・・・・ |
2017年10月6日 4日(水)には「同志社大学公開講座」の秋のシリーズが始まりました。1時過ぎに家を出て、2時前には教室に到着していました。熱心なお仲間は既に席についていました。講義の開始は2時55分となっています。 今回の講座は「文化・社会の大変化」という題目が付いており、今回は「考古学からみた日本の古代国家成立」ということで、講義は始まりました。先生は京都府立大学文学部教授 菱田哲郎さんです。 講義の始めに「日本の古代国家はいつできた?」という大命題を氏は、7世紀、5世紀、3世紀という「七五三」論争があることを認めたうえで、氏としては5世紀がその時期であるとして、その線で話をしてくれることになりました。 5世紀(400年代)は、文献的にも種々の資料は出ており、この分野の書物は多く読み進んできています。考古学の分野からの今回の講座は興味あるものとなりました。続いて纏めを進めていきます。 |
2017年9月20日 塩野七生さんの「ギリシャ人の物語 T 民主制のはじまり」を読みました。 「ローマ人の物語」 ・ 「ローマ亡き後の地中海世界」 ・ 「十字軍物語」 などの大作に続くものです。読後感の整理をしたいと思っています。 並行して、佐々淳行氏の「私を通りすぎた政治家たち」、少々古い本ですが「彼らが日本を滅ぼす」・「ほんとに 彼らが日本を滅ぼす」を読み始めています。 現時点の世界情勢、東アジア情勢、北朝鮮問題、日本のとんでもない情勢を「危機管理の本当の専門家」として、すでに、正確に指摘しています。二三日前から安倍首相の意向として、衆議院解散、来月22日には衆議院総選挙投票の目が出てきました。野党、新聞、テレビは「大義無き解散総選挙」と言い始めていますが、緊迫する東アジア情勢から鑑みた、自衛隊の違憲状態解消など、もっとも大事な争点はあると考えられます。 |
2017年9月17日 前回の更新から、1か月過ぎてしましました。その間は、例年とは異なる蒸し暑さに、ヘタレていたのでしょう。暑さばかりでなく、このところのこの国のヘタレ加減、マスメディアのいい加減さにゲンナリしていたのです。 9月8日に計画していた「琵琶湖テラス」へのバスの旅が、ケーブルカーの故障のため中止された機会をとらえ、建設以来訪れ得なかった「アベノハルカス」へ出かけてみました。 地上300mからの大阪全市の景観は見事なものでした。以下に写真で紹介します。 10時25分、16階までのエラベーター内からの景観です。 16階の300mまで到達するエレベーター前には相当な列が出来ていると覚悟していましたが、全くチケット待ち時間は取られず、エレベーターに乗ることが出来ました。快適、しかも高速です。 60階、「天井回廊」地上288mのです。 パンフレットに載せられた天井回廊からの全方位景観図です。 東方の説明図。 「二上山」が 「生駒山」が 北方の説明図。 大阪駅、京都方面です。 「四天王寺」が 「大阪城」が 「天王寺公園」が 西方の説明図。 北西方面には「通天閣」が 「海遊館」・「天保山」方面 「南方の景観1」 南方の景観2 「長居陸上競技場」が 夜間の通連閣方面。 オルセー美術館展の写真は次回に。 |
2017年8月18日 お盆が過ぎました。さっきまで、凄いかみなり、豪雨!!!!!!京都南山城南部地域に大雨注意報が発令されていましたが、今、9時50分はすっかり晴れています。 14日はマゴッチ達がママの故郷、鳥取へ行っているため、時間が十分に取れるからです。先日から気になっていた「京都大丸 大丸ミュージアム」で催されている「オルセー美術館 志宝のリマスターアート展 〜高精彩技術が織りなす美と感動〜」を鑑賞に出かけました。 以下、頂いたパンフレットの記載です。 ミレー、モネ、ルノアール、ゴッホ・・・ これがオルセーの代表作!日本未公開作品を含めた印象派オールスター作品も一挙に展示! 芸術の都パリに、1986年オルセー駅の駅舎を再利用して開館したオルセー美術館。セーヌ川を挟んで、世界三大美術館であるルーブル美術館の対岸に位置するこの美術館では、19世紀中頃から、第一次世界大戦以前までのフランス美術を中心とする多彩な作品が展示され、特にその中でも印象派コレクションは世界的な評価を得ています。本展では世界最先端の技術を用いて、オルセー美術館の代表作品を復元したリマスターアート60点を一堂に展示し、その真価に迫るものです。 ルネッサンス依頼最大の変革期と位置付けられる19世紀パリの美術の変容を9つのテーマに分けて辿(たど)り、その代表作をリマスターアートで体感していただけます。また、リマスターアートだからこそ可能となる共作や連作の一堂展示や日本ではなかなか見られない名画の数々を、映像コーナーや詳細な解説と共に、原画に迫るリアリティーでご覧いただけます。 立体質感再現と1億画素以上の高精細画像による最先端技術リマスターアート! 絵の具の盛り上がり、絵筆のタッチまでをも忠実再現! オルセー美術館で、作品1点ごとに学芸員と細密な打ち合わせを行いながら、億単位画素の最高水準機材で絵画を記録。約3年の歳月をかけて限りなく原画に忠実な再現を実現し、世界で唯一オルセー美術館の公認を得たものが、このリマスターアートです。 また名画は、貴重であるが故に、これまで限られた場所や、限られた証明条件でしか見ることが許されませんでしたが、流マスターアートでは、自由な好条件の基で御覧頂くことができます。 2時間以上、解説テープを聞きながら鑑賞しました。面白かった!!!!! 「瀞峡探訪の旅」は楽しみながら作成中です。また、オルセーリマスターアート美術展も別ページで楽しみたいと思っています。 |
2017年7月22日 16日は嫁さんが7月生まれの息子の嫁、4歳となるマゴッチ、そして私、3人の誕生祝いを準備する為に京都市内へ出かけました。 17日は祇園祭の山鉾巡行であり、その宵宮、さらに、日曜日ということで、大変んなヒトヒトでした。嫁さんが大丸京都店で商品選定をしている時、私は久しぶりに「山鉾巡り」をしました。あちこちで団扇を配ってくれたいます。 頂戴した表面。 裏面は鉾山の出発点です。 烏丸通と四条通の交差点から直ぐ西には「函谷鉾(かんこぼこ)」(「くじ取らずの鉾」で「長刀鉾」についで2番目に巡行します)(応仁の乱の以前に起源をもちます。鉾の名前は斉の孟嘗君が家来に鶏の鳴き声を真似させ関門を開かせた故事によります)が置かれています。 1) 2) 室町通りへ右折します。そこには「菊水鉾」(町内に古くからあった「菊水井」にちなんで名ずけられた)が置かれています。1) 2) その北には「山伏山」が1) 2) 「新町通」には「放下鉾(ほうかほこ)」(真木の中ほどの「天王座」に「放下僧」の象を祀るのに由来する) 1) 2) 「四条通」北には「郭巨山」 「四条傘鉾」 「西洞院通」には「蟷螂山(とうろうやま)」 1) 2) 3) 「四条通」西側には 「伯牙山(はくがやま)」 「綾傘鉾」1) 2) 「綾小路通」には「大船鉾」が居ります。 「高辻通」には「岩戸山」が。1) 2) 3) 4) 見事な山です。 最後に「長刀鉾」に寄ったあと、嫁さんが買い物をしている大丸百貨店へ。 店に入ると、「鉾・山」のミニチュアが展示されていました。 昼食は京都駅ビルにある伊勢丹の10階、「こけこっこ」へ。14時になっていましたが、10人ほどのお客さんが待っていました。時間的に空き席が出る時間と考え、待つこととしました。15分ほどで席が空きました。 窓から京都タワーが望めます。空模様は怪しくなっています。 「鳥炭火焼き とろろご飯」(塩味)(チリメン山椒ご飯・とろろ汁・浅漬けサラダ・京漬物・お味噌汁)(約1300円) 生ビール お酒 (京都 玉乃光酒造 純米吟醸 酒魂) つまみに「鳥皮ポン酢和え」も 大変美味しく頂きました。20日の誕生日の前祝でした。 15時半、松井山手駅までの直行バス停へ向かうと、京都駅八条口駅前道路は強烈な雨が降っていました。14時発のバスを待っている間に、雨がやんでくれました。松井山手近くは降っておらず、家に帰るとすぐに大住ケ丘も降り始めました。ラッキーでした。 今年は本当に暑い!!!!! 体力維持は大変そうです。なにせ、後期高齢者になりましたからね! 31日は、嫁さんとバスツアー「瀞峡への旅」です。 |
2017年7月14日 昨日は1年半ぶりに人間ドックにいってきました。終わりの先生の話では、「問題点は無かった」ということで、一安心といったところです。肺活量では「前回の数字より良かった」と言った褒め言葉さえ頂きました。 |
2017年7月8日 九州地方の大雨の報道がテレビを賑わせています。被害にあった方々にはお見舞いの言葉のみで勘弁してもらうよりほかにありません。「線状なんとやら」と称する気象の状況はなんとも酷い被害を及ぼすものです。熊本地震では地震で巨大な崖崩れが、また今回は大雨で巨大な崖崩れが発生してしまいました。6月の高校時代からの友人達との「京都の旅」をようやくまとめました。今月20日は誕生日でついに「後期高齢者」の仲間いりです。 |
2017年6月21日 14日、「同志社大学公開講座」代3回「東アジア各地の青銅器文化のはじまり」と題する小林青樹先生(奈良大学の先生)のお話を聞いてきました。第1回、第2回の内容とは全く視点が違う内容で、最初はチョット戸惑いまいましたが、日本の弥生中期・後期・古墳時代の北九州、出雲、吉備、大和の歴史につながっていると思うと興味が深まりました。次回は10月ですが「考古学からみた日本の古代国家成立」という表題です。楽しみです。 高校時代からの仲間8人での6月15日、「京都の旅」(鞍馬寺・貴船神社・上賀茂神社・下鴨神社)、お宿「山ばな平八茶屋」、翌日の打ち上げ反省会「葵匠」を無事に終えることが出来ました。お酒と料理を心から愛する仲間との会話は本当に楽しいものでした。皆様に感謝!!!感謝!!!!!です。 恒例になっている私のチョンボは皆さまにお許しいただきました。有り難うございます。 |
2017年6月3日 31日には「同志社大学公開講座」第2回目が開かれました。講師は同志社大学歴史資料館准教授 若林邦彦先生で、表題は「縄文から弥生へーいつ、どにょうにして?−」というものでした。 1.縄文文化から弥生文化への変化 (本格的水稲農耕社会への変化) 農具や水路・水田「畦畔(あぜ)」の出現・土器の変化 2.その変化は、放射性炭素年代法の変化と導入による年代判定の変化[500年遡る?!〕したことから議論が分かれることとなった。 3.稲作を中心とした弥生文化への変化をもたらした主因が朝鮮半島からの多数の入植によるものか、それとも縄文人が主体的に変化したのか?は「土器様式・文化・人間集団」面から大阪平野などの検証で、縄文時代からの村が村単位で時間をかけながら次々に変化しているようすが明らかにされてきているようです。 4.移行期は「縄文人V.S。弥生人」の2分法では説明できないのではないか?ただ、土器は明瞭に変化している。それは、食事の内容が変化したことがしゅいんであろう。 その前には、28日は「京都の旅」の下見、27日は高校の関西支部同期会へ参加していました。結構忙しかったのです。 27日の同期会参加の前に「中之島公園・バラ園」を見学し、その後「大阪市立 東洋陶磁器美術館」を鑑賞しました。 27日の「バラ園」写真 A) B) C) D) E) F) G) H) 「東洋陶磁器美術館」では特別展として「ヘレンド」でした。 「ハンガリーの名窯 ヘレンド」とは パンフレットでは 1826年、ハンガリー南西部の小さな村ヘレンドで、磁器の生産が始まりました。先行のマイセン窯やウィーン窯なでの傑作に学んで高い水準に達したヘレンド窯は、ほどなくして「オーストリア帝室・ハンガリー王国御用達窯」として認められるまでになります。 1851年のロンドン万国博覧会では、ヴィクトリア女王からディナーセットの注文を受けたのを機に、一躍その名をヨーロッパ中心に広めました。その後もヘレンド窯は、東洋磁器に学んだ独自の様式を生み出して常に最高のものを目指した。ヘレンド磁器は、ヨーロッパの多くの王侯貴族や新興富裕層に愛され、名実共にハンガリー芸術を代表する存在となり、今日に至っています。 本展では、ブタペスト国立工芸美術館、ヘレンド磁器美術館、ハンガリー国立博物館などが所蔵する約230点の作品により、ヘレンド窯190年の歴史とその魅力をご紹介します。 繊細な絵が描かれています。東洋、中国様式また「伊万里様式」、「京都様式」など様々な特色ある作品も多くみられますした。作品は「ブタペスト国立工芸美術館」、「ヘレンド磁器美術館」から貸し出されたものです・ 撮影可能なセットが置かれていました。 「ヴィクトリア シリーズ6人用ディナーセッティング」解説版」 A) B) C) |
2017年5月19日 昨日、17日は久しぶりに同志社大学京田辺キャンパスへ行ってきました。「2017年度同志社大学公開講座」へ参加する為です。14時までには着きたいと思い、家を12時半過ぎに出発しました。 13時15分、京田辺市の市役所・体育館・プールなどがある地点を通過します。 13時35分、同志社女子大横に、 40分には同志社大学正門前に到着しました。久しぶりなので、構内にある「筒木の宮(綴喜の宮)」後の碑を訪ねました。 14時前には、会場の教室前に着きました。既に沢山のお仲間が揃っています。受付時には講座資料を350円支払い受け取り、開場に入室しました。今回の講座の為の会場の正面、壇上のスクリーンです。14時30分頃には会場に400人程が揃いました。14時40分、講座が始まりました。 講座資料の表には今年の代表題「文化・社会の大変化」が記されています。 第一回の今回は、工藤雄一郎先生(国立歴史民俗博物館准教授)で千葉からの出張とのことでした。話は大変面白いものでした。 工藤先生の演題は「縄文時代の始まり ー10万年に一度の環境激変に生きてきた人々ー」 このところ、歴史といえば「21世紀研究会」編の種々の本を読み進めています。「民族の世界地図」・「新・民族の世界地図」・「地名の世界地図」・「イスラームの世界地図」などなどですが、あくまでその歴史は人類が有史と考えられる時期からです。 でも、今回の話始めは以下の文章から始まります。 <10万年周期の気候変動> 現在は地質学的には第四紀と呼ばれる時期であり、約250年前から現在まで続く、第四紀は「氷河時代」であり、「人類の時代」でもある。 地球の過去は80万年間の歴史をみると、地球の環境には大きく異なる2つの時期があることがわかる、ひとつは「氷期」と言われる寒冷な時期、もう一つは「間氷期」と言われる温暖な時期である。地球の気候はおおよそ10万年の周期で寒冷な「氷期」と温暖な「間氷期」との間で変化している。約1万年間の短い「間氷期」の後、約9万年かけて徐々に寒冷化し、その後再び急激に温暖化して1万年ほど温かい時期が続く、という周期的な変化を繰り返しているのである。・・・ この周期的変化を「ミランコヴィッチ・サイクル」というのので、地球の「公転軌道の離心率」の大小に依存しているとされるものです。 現在は温暖な時期がすでに1万年以上続いており、これまでの地球の歴史をみると、そろそろこの温暖期も終わりに徐々に再び氷期へと向かっていくのだろう。ということです。 ホモ・サピエンス(現生人類)が20万年前にある理科で誕生し、10万年前以降にアフリカから世界各国へ拡販を開始した。 地球環境史で見ていくと、 旧石器時代は「アイス・エイジ」(8万年前〜1万5千円前))、「マンモス・エイジ」、「ストーン・エイジ」(4万〜6千年前)とも呼ばれているようです。氷期、間氷期は人類にとってそれなりの生活をすることが出来るが、問題は大きな変動がある時期の生存環境と言えるということです。 縄文時代草成期(約16000〜11000年前)と縄文時代早期(約11000〜7000年前)が、10万年周期の環境の変化のちょうど変換点にあたるのである。 縄文時代草創期のはじまる頃(約 15000年前)の海岸線は現在よりもマイナス80m〜100mに、縄文時代早期の始まり頃(約11000年前)にはマイナス40〜50m程度にあったと推定される。 1万〜1万2000年前の氷期の終了に伴う動植物相の変化によって、「土器が出現」したことを、日本考古学では重視していますが、それは、発掘される土器の年代設定によります。最近の年代測定進歩によって、1999年以降、日本の初期縄文土器の年代測定は、12000年前から16500年前へと繰り上げられました。これは「加速器質量分析計」、「年輪年代法」の<暦年較正>の採用などによるもので、いまだに確定にはいっていないようです。 講演の最後は先輩研究者に忖度した、結論を先延ばした結論を笑いながら話すことで終わりました。 16時45分、同志社大学正門前をでました。 |
2017年5月16日 楽しみながら作ってきた「道後温泉への旅」をようやくアップしました。 |
2017年4月30日 24日、25日は嫁さんと「道後温泉」へ行ってきました。「湯快リゾート道後・彩朝楽」への旅は往復のバスが設定されています。私の休み、マゴッチのお迎えなどの都合がベストの日程が24日・25日だったわけです。 大昔に、出張のついでに、道後温泉、松山城を訪れた記憶があります。今回はもちろん、観光ということで、十分に楽しんできました。温泉はもちろんのこと、「松山市立子規博物館」・「道後温泉本館」・「道後ハイカラ通り」そして「松山城」を訪ねました。特に、「松山城」はその縄張りの立派さに感心しました。平城である松本城を見慣れている信州人にとって、お城の縄張りを味わえる、このお城は大変味わい深いものでした。 ページはゆっくりと楽しんで作っていきます。 春です。嫁さんが丹精している花々を撮影してみました。今年の「大手毬」は特に立派にさきました。 4月20日 大手毬1 大手毬2 シンビジューム1 シンビジューム2 4月23日 大手毬 4月27日 大手毬1 大手毬2 寄植え シンビジューム1 シンビジューム2 |
2017年4月5日 3月31日、4月1日の東京は雨も降り、大変な寒さでした。夕方5時に「銀座7丁目のビヤホールライオン」で同期入社の5人が集まり、喧々諤々、いつものペースでした。寮の同室、2段ベットの上下2段に2年暮らした兄弟みたいな友、同じ寮の友、マージャン、お酒でのお付き合いの友達5人組の話題は千差万別いつの間にか8時に。8時過ぎの銀座4丁目。その後、喫茶店で続き、次回の再会を約束しました。 4月1日、珍しく池袋にホテルを取り、ゼミ仲間の集まりは11時半、練馬の「Laむめい狼 練馬店」での開催されます。朝、時間が取れそうなので、学生時代の下宿、豊島区雑司ヶ谷を訪ねてみることとしました。 「雑司ヶ谷通り」の商店街はもちろん変わっていますが、道沿いに立派なアパートが増えている程度で、なんと、50年前に通った銭湯が残っていたのです。さすがに、やはり通った「貸本屋」は無くなっていました。あの頃、司馬遼太郎の「国盗り物語」などを借りてきて読んだものです。 このあたりと目を付けた通りを曲がると、なんとありました!!!!! 50年の歳月、大家さんも住んでいないようですが、建物が残っていたのです。 表札もちゃんと残っています。 学生時代、学校へも、アルバイトの為に「雑司ヶ谷墓地」を通り、池袋へ出るのももちろん歩きでした。地域の地図です。 ホテルへの帰り道に「鬼子母神堂」に寄ることとしました。途中、「大鳥神社」、 解説版。 「鬼子母神堂」への入口。 「鬼子母神堂」1 「鬼子母神堂」2 「鬼子母神堂」3 朝の御勤め最中で、読経の声が聞こえていました。本堂へのお詣り道です。 「La むめい狼」での料理は和洋が混じったなかなかのものでした。お酒もビール、お酒、ワイン、焼酎飲み放題。会費も5000ポッキリ。来年もこの会場(先生の家が近所であることが理由)となりそうです。始めてのお店で、地図の上下を間違えたため、お店に着いたのは11時半を少し回っていました。 15時東武池袋線練馬駅駅の地下鉄。 16時の新幹線で東京をあとに、京都へ戻りました。 |
2017年3月28日 高校生7名、引率の28歳の先生1人が県の高校体育協会主催の春山登山訓練の安全講習中に雪崩の為亡くなってしまいました。なんとも悲しい事故です。雪崩注意報発令中の事故です。ニュースでは高校生以下の冬山登山訓練は禁止する旨の通達が昨年出ているようで、名称を春山登山訓練と題しての実行のようです。そんなことで事故に会ってしまった方々の無念を実感します。 このところ、日本人の安全に対する油断の風潮が蔓延していることが心配です。日本の近海にロケット弾を撃ち込み、日本のアメリカ軍基地が目標だと報道しているなど、噴火しそうな北朝鮮の状態、それに対応してのアメリカ国務長官が来日して首相、外務大臣と会談している最中に政治は「いわゆる森友学園問題」に明け暮れ、政治家もマスコミも、自国の安全安心には目も向けない事態が続いています。 首相夫人が100万円を小学校建設に寄付したとしても、そのこと自体は良いことで、褒められることで、批判されることではありません。もちろん、罪に問われることではありません。国有地の譲渡問題にしても、国が処分したかった土地を後腐れのない方法で処分したということで、東京の豊洲問題の土壌汚染問題の経過を見れば分ることではないでしょうか。 なんとも訳が分からないこの国の状態が心配です。 今週金曜日は久しぶりに東京へ行ってきます。31日夜は学卒後始めて入った会社の同期連中と5人での「バカ話会」、4月1日は、これまた大学のゼミの先生と同期17人の集まりです。毎年4月初めには開催されていますが、私は2014年以来の参加となります。 4月は24、25日に嫁さんと道後温泉へ行く計画が出来ました。マゴッチのお世話、私の休日の都合が良く、「湯快リゾートの道後彩朝楽」の予約が取れたからです。京都駅から道後温泉まではバスの旅となります。風情ある道後温泉周辺の散策が楽しみです。 21世紀研究会編の本をボチボチと読み進めています。「民族の世界地図」を読み終わり「新・民族の世界地図」へ入っています。 「「民族の世界地図」の裏表紙の解説「チェチェン人は、なぜロシアに抵抗するのか。その原因は、ビザンチン帝国を復興させようとしたエカテリーナ女帝の「ギリシャ計画」にあった。また、エジプトのサダト大統領は、なぜ1981年に暗殺されたのか。その謎を解く鍵は、イスラム歴に隠されえていた。世界の民族の成立、行動様式を民族地図の中でとらえ直してみると、これまでとはまったく違う世界が浮かび上がってきた! なるほど、なるほど!!!大変面白く、参考となる記述が続いています。 |
2017年3月8日 ダン・ブラウン氏の「インフェルノ」を読みました。なんとも読みにくい小説でした。3日ほどで読みきったのは、舞台がイタリア、フィレンツェとヴェネッチアの教会、宮殿であり、そこに保持されている見事な世界遺産についての記述があったからです。 ダンテの「神曲」をテーマに地球の全人類の行く末(このまま地球上の人口増加が続けば地球は破滅の危機が訪れる。それを回避する方法は?チョット怖い!!!)を考えさせられる小説となっています。物語を読みながら、「イタリアへの旅」を思い出しました。 |
2017年3月1日 今年も2か月が過ぎてしまいました。年寄りには日にちが過ぎるのが本当に速い!!!!!外に出て日々仕事に明け暮れた時は、仕事に関することで毎日頭を悩ませていたことを思い出します。そんなことで、翌日が来てほしくないと思うときもありました。それゆえに毎日が簡単には過ぎてはいかなかったと思われます。 図書館から21世紀研究会編「イスラームの世界地図」を借り、読んでみました。もちろん、トランプ大統領の大統領令によるイスラム世界からの移民流入の制限措置、現にヨーロッパを中心としてイスラム国のテロが継続している現状を鑑みてのことです。 大変興味深い記述が多く、目から鱗と言ってよい読後感でした。早速、ブックオフでの購入を計画し、チェックしたところ、このシリーズの本が沢山ありました。そこで、「法律の世界地図」、「常識の世界地図」、「民族の世界地図」、「新・民族の世界地図」、「人名の世界地図」、「地名の世界地図」、「武器の世界地図」を購入し、まず、「イスラームの世界地図」を再読し、「法律の世界地図」を読み進めています。「法律の世界地図」の中には「イスラーム世界の罪と罰の考え方」との項があり、もちろん、まずこの項を読み進めています。 イスラーム教について最も大きな疑問は「7世紀初め(610年)にムハンマドにより開かれたイスラーム教が何故こんなにも早く世界中に広まったのか」というものです。 特にその初期についてはどのような形でイスラーム教を広めることができたのか?というてんです。 この点でヴィキペディアで以下の記載があります。 イスラム教はこうして発足したが、結集した軍隊を解散してしまえば、群衆は元の民に戻ってしまい、イスラム教が存続するかも分らなかった。しかし、軍に給与を払うほどの財源はマディーナにはなく、そのため、軍隊を維持するには、敵とそこからの略奪品を求めて、常に戦い続けるしかなかったのである。こうして、常に常に新たな敵を求めて、イスラム教徒による征服戦争は以後も、続けられた。 まずは、近隣の東ローマ領となっていたシリアに侵攻したが、当時東ローマとササン朝・ベルシャは上述の大戦争のため、共に廟幣しており、さらには、シリア住人は単性論が多く、これはキリスト教では異端であり、迫害の対象であった。一方、やってきたイスラム教徒は住民に歓迎され、東ローマ軍は多少の抵抗をしたものの、十年もしないうちに降伏し、こうしてイスラム教徒はシリアとエジプトの肥沃な領土を手に入れた。 ほぼ同時期に、ササン朝に対しても事を起こす。この帝国は当時、戦争による病弊に加えて、皇帝不在がその直前まで続いており、極度の混乱状態にあった。そのため、イスラム教のアラビア人による略奪と制服は、自然発生的に行われていたが、その略奪隊を組織するため、ハリードがイラクに派遣された。彼は複数の街を征服した後、シリア戦線に去ってしまい、残されたイスラム軍は統制を欠き、進軍は停滞し、各所で敗戦を重ね、ササン朝が勝利するかに見えた。 イスラーム教のその後について更に進めていきます。 |
2017年2月24日 ほゞ、一ヵ月ぶりの更新です。19日、20日はジジ連恒例となっている、「はわい温泉千年亭」での「カニ食べ放題、お酒飲み放題の旅」に行っていきました。大変楽しい旅でしたが、驚いたことは、夕食の食べ放題会場が満席、翌日のお昼の日帰りツアー客の多さでした。大型バス2台が着いていたのです。 バスは梅田の駐車場を8時50分出発。 10時20分、「加西SA]に入ります。4人の写真です。皆、そこそこ良い顔をしています。 10時55分、鳥取県に入っています。思いのほか、道の両側の雪は、それほど多くはありません。一週間前には大雪で、車の大渋滞のニュースが流れていたのですが。11時20分、鳥取市がと近づきました。 鳥取砂丘会館へ。駐車場は大型バスが並んでします。「カニカニツアー」の人気のほどが分ります。長さん、辻さんです。 食事後、篠ちゃんと砂丘に登りました。 砂丘A 砂丘B 砂丘C 砂丘D 篠ちゃんA 篠ちゃんB 篠ちゃんC 15時には「千年亭」へ到着。見事なお花が迎えてくれます。 部屋の床の間のシックなお花。 食事は通常のセットメニューと「焼きガニ」、「カニすき」食べ放題、お酒、ビール、焼酎飲み放題です。4人で食事です。 今年のカニは全体的のは昨年に比べ小ぶりでした。また、カニの追加は野菜を含めた一皿づつの追加となりました。 百分の飲み食べ放題は十分満足がいくものでした。あと、カラオケルームへ。今年は4人の貸し切り状態。またまた、満足!!!満足!!!!! 翌日は前日に比して、冷たい強風が吹いています。寒々とした東条湖には水鳥が食事の為に集まってきています。 日本酒を飲みすぎた私は、メガネの紛失騒ぎを起こしてしまい。3人に大変迷惑をかけてしまいました。ごめんなさい!!!!! |
2017年1月21日 アメリカ第45代大統領トランプ氏がアメリカでは20日午前中、日本では21日未明に即位しました。もちろんテレビ報道はこれ一色です。読売テレビの「ウェーク・アップ」はいつものように辛坊治郎氏がMCとして、解り易い構成になっていました。「アメリカ・ファースト」をお題目とした世界の唯一の超々大国として、らしくない方向にアメリアが向かいそうな心配があります。戦後、「オンブニダッコ」状態であった日本は真剣に自立の方向を確かめなくてはならないでしょう。 こんな時、今の安倍首相は新年早々、フィリピン・インドネシア・オーストラリア・ヴェトナムを歴訪し、アジアでの日本の地固めを進めています。頼りになる指導者といえるでしょう。 19日には幹事S氏が、梅田・新阪急ホテル17階「有馬」で、お値打ち価格でのジジ連の新年会を設定してくれました。 少し早く家を出たため、京橋から反対方向への環状線に乗り、トランプタワーとは大きな違いはありますが、アベノ・ハルカス・タワーを見上げ、大阪駅に着きました。全員が集合時間より早く集まることとなりました。 梅田にあるホテルが協力して数軒でお値打ちランチ(2,500円)を提供してくれています。その企画を読売新聞の広告で知り、13時半で予約してくれたのです。「有馬」は日本料理・しゃぶしゃぶ・鉄板焼きのお店です。 17階からの景観です。 お席からはJR大阪駅が見下ろせます。 お料理1)先付け・お造り 2) 煮物(風呂吹き大根・海老艶煮)・小鉢(蟹なます・甘海老なます和え等) 3) 鮭陶板焼き 4) 小鍋 国産牛しゃぶしゃぶ 5) 炊き込みご飯 6)デザート 苺のパルフェ・水まんじゅう(+500円) 後はもちろんシダックスでカラオケを2時間楽しみました。お仲間に、感謝!!!感謝!!!!!です。 |
2017年1月16日 寒い日が続いています。15日(日)は目が覚めると家の周りは真っ白になっていました。京都市内は十何センチの積雪で、いつものとおり金閣寺の雪景色をテレビが放映していました。 |
2017年1月5日 穏やかなお正月の天気です。元旦は朝からお屠蘇をいただき、家から今年の恵方(北北西)に当たる「石清水八幡宮」へ初詣に出かけました。バスを降りてから山頂のお宮さんまでは坂道を歩いて登ります(11時29分)。前夜、大晦日からのお酒の量が多かったためか?極端な息切れが起こってしまいました。幸い、嫁さんがスローペースであったため、無事に山頂まで到達することが出来ました(11時45分)。 「石清水八幡宮」の俯瞰図です。 三の鳥居をくぐり、 「南総門」前へ 朱塗りが見事な御本殿前には多くのお詣りの人が溢れています。 御本殿の彫り物 お詣りをすませ、右手から御本殿を廻ります。 正面左の入口です。 欄間の象の彫り物は江戸初期の建物に多くあるものです。 「日光への旅」を参照してください。 「神楽殿」では、巫女さんが「八幡御神矢(はちまんごしんや)」の「清め祓い」の舞をしています。」 降り口には伏見の酒造の樽が置かれています。 12時30分頃には下山して、京阪電車に乗り、樟葉へ向かいました。 帰宅後、前年にお預かりしたご近所の「月読神社」へお返しとお詣り、今年の「御神矢」をいただいてきました。 |
2016年12月31日 2016年、平成28年も今日で終ましです。歳を取るごとに年々一年が速く過ぎていきます。今年は様々な事件が起こり、驚くことが多い事柄ばかりと言ってもよいようです。 ただ、私たちが住むこの国、日本は大きく変化しなくてはならないはずなのに、その気配はありません。その最たるものが、憲法改正議論の停滞です。米国を始めとしたイギリス、フランス、オランダ等と戦った太平洋戦争の敗戦から70年、占領軍であった米国の統治のもとで制定された現在の日本国憲法は意味不明な文言があります。その最たるものが、第9条、です。 朝鮮戦争が勃発し、無防備な日本にも再軍備の必要を痛感した米国が警察予備隊と称する軍隊を作るよう指導したことから始まります。その後、自衛隊と名称変更をし、その戦力は明らかに軍隊となりました。ところが、第9条の「戦力は保持しない、」という文言とは完全に異なったものになっています。 この現象に対して、この国の、マスコミ、いわゆる文化人、芸能人、大学教授、学者は「改憲反対」を主張し、日本の世論を指導しています。その最たるものが昨年あった「改憲反対」・「集団的自衛権改定反対」の大騒動でした。 安倍首相を筆頭とする自民党が進めなければならないことの第一番は「改憲」ではないでしょうか。2016年最後の日にこんな寝言を言っています。 来年の「恵方」は北北西とのことで、明日元旦は、その方向にある「石清水八幡宮」へ初詣にお詣りに行きます。 |
2016年12月23日 天皇誕生日です。今年は天皇陛下が高齢のため、象徴天皇としての国事が完全には出来かねる恐れが出てきていることを心配され御譲位をほのめかされたことから、天皇制の議論も再燃しています。イギリスの女王も国事の皇族への分担強化のニュースも報道されました。 今年一年を振り返ってみると、日本はもちろん、地球全体としても「えー!!!こんなことが!!!!!」といったニュースが溢れ、先々が心配になります。年賀状を作成中ですが、挨拶の言葉「謹んで初春のお慶びを申し上げます」が恥ずかしくなります。 |
2016年12月11日 「11月の紅葉の旅」をアップしてホットしたためにこの項への書き込みを忘れていました。この項では今まで触れていませんでしたが、月に20日ほど、朝7時から10時まで、仕事に出ています。もちろん、体を動かす、時には12,3キロのカートンを持ち上げる作業です。作業するお店まで、約20分掛けて歩きます。12月ですから家を出るときは真っ暗な日が続いています。そんなことですが、その為かどうか、歳の関係か、多少疲れは感じますが、体を動かす作業を続けているためか、体調は好調です。二日酔いなどは感じたことはありません。8日夕刻は、町内のお友達と2人で忘年会、その後2時間、カラオケで楽しんできていましたが。 一昨日は嫁さんが腹痛を起こし、一日寝込んでいました。昨日、息子から嫁さんに入った電話で、いつもお世話している3歳のマゴッチがやはり腹痛、嘔吐の症状が出てお医者に連れて行ったと伝えてきたというこおとでした。 昨日、土曜日は、朝から夕方までそのマゴッチは家でお預かりしていましたが、本人は珍しくおとなしく、嫁さんもマゴッチがいる間は体調不良は忘れたようにマゴッチと対応していたのに感心してしましました。 私にはこれらの症状は無く、ページへの書き込みが可能となっています。ボチボチ年賀状の準備が必要になってきました。 |
2016年12月2日 今年も早くもあと1ヵ月となりました。「歳を取るごとにその速さを感じる」という言葉はのは言い古されていますが、その通りなのですから仕方がありません。 松本の友人から、地方紙に学友、親友の訃報が載っているとのメールがありました。また、昨日、高校同期会の事務局からもメールが入りました。松本近辺に住まいしておれば、病床を見舞い、亡くなる瞬間も立ち会いたかったほどの友であったことは間違いありません。残念です!!!遠くから後生を祈ることしか出来ない不甲斐なさを痛感しています。 2013年の2月17日、この友との最後の経緯を以下の記事この欄に載せていました。合掌。 2013年2月24日 信州・松本・浅間温泉・ホテル小柳での「13回卒、古希記念の集い」から1週間経ちました。大変楽しい旅でしたので、少し疲れが出て、3日ほどは体調がすぐれませんでした。本当は、2日間の飲みすぎが原因と思われます。その間も、集いでの写真を縮小処理をした上、各位へのメール発送は進めていました。ようやくこの旅をまとめる意欲が湧いてきたようです。 16日は、名古屋13:00の「しなの号」に乗車した。 名古屋駅には少し早めに着いたため、いつも利用している「ホームのきしめん屋さん」に寄り、お酒ときしめんを食している時、お店の人に「お土産」を手渡す「奇特な人」と顔を合わせます。驚いたことに大阪から参加するA氏でした。 14時10分、「木曽川」の流れと、遠くに「御嶽山」が見渡せる地点を過ぎます。 14時20分、下りのしなの号では必ずアナウンスがある「寝覚ノ床」を通過します。 14時55分、塩尻駅に着きました。 松本駅へは後、7〜8分です。 駅からは「浅間温泉」まで、バスに乗車するつもりで歩いて行くと、東京に在住しているH氏がよい時間のバスの便がないとして、タクシーを利用する為に引き返してくるのに出くわします。グッドタイミングとして、同乗することとします。 浅間温泉「ホテル小柳」さんは、同期のM氏が社長であるため、13回の集まりはちょくちょく行われていますが、私は始めての宿泊となります。さっそく、温泉を楽しみ、ロビーで、後から来る方々を待ちながら、撮影します。 ロビー ロビー横のお庭 ロビーの「長篠の戦の屏風」 などを楽しみます。 18時からは30名での集いとなりました。飲み、話し、歌う、いつもの集いです。皆さん、古希を迎えることができた歓びを心の底に感じていることと思われました。飲み、話しに夢中で、最後のご飯は食べきれませんでしたが、 メニューと その特徴的な御飯です。 これで終わればよいものを、松本の仲間と更に松本まで繰り出して飲んでしまいました。 翌朝7時、モーニングコールで起こされ、宿泊した仲間4人が待つ朝食会場へ。そんな状態でも、朝ごはんはチャント頂戴しました。食事後はゆっくりと朝の温泉を楽しみ、9時半にホテルをチェック・アウトします。初めての宴会と宿泊でしたが、お宿は大変よい雰囲気で、温泉も、お料理も文句のつけようのないものでした。感謝!!!感謝!!!!!です。 11時の友人T氏との約束を考え、松本駅まで歩くこととしました。 9時40分、ホテル小柳をでます。 浅間温泉の地図があります。 10時丁度、小中学校の頃は遊びに行った記憶がある、昔懐かしい「護国神社」境内に入ります。55年ぶりと言ってよいでしょう。近くに昔通った中学校があります。 御由緒を確認します。 少し下ると「信州大学付属病院」前を通ります。 10時35分、実家の前の「開智小学校」の撮影、 3分ほど歩き、雪景色の「国宝松本城」を撮影します。 45分には女鳥羽川を渡り、 約束時間ギリギリの10時55分、松本駅に着きました。 T氏とは、東京での4年間の学生時代に、3ヶ月程は同室で暮らし、その後も、バイト、食事、お酒、遊びを、常に、共にした仲。実家の関係で信州に帰って、金融機関への道を歩みましたが、就職してから2年ほどは誘われて「八方尾根」、「栂池」などへ、スキーにいってことを思い出します。その後には、1度やはり学生時代のバイト仲間と新宿で飲み会をもようしましただけですので、どうしてもこの時期に会っておきたかった”友”と言えます。 お互いのそんな気持ちが、学生時代とその後のお互いの生活などの会話を切らすことが出来ず、時を忘れ、話し、飲むことになってしまいました。2人でお酒15本はやはり飲みすぎでした。よく京都まで帰って来たものと不思議な気持ちです。でも、本当に楽しい時間でした。 |
2016年11月25日 10月分のイベントをようやくまとめました。 11月23日「勤労感謝の日」に嫁さんと今年の紅葉狩りのバスツアーに行ってきました。トラピックスの「永源寺・鶏足寺・多良峡 3つの紅葉 名所めぐり」、心配されていたお天気が、以外によく、楽しい時間を過ごしてくることが出来ました。写真の整理を始めます。 |
2016年11月1日 10月のイベントが終わりました。ホッとしています。中学の同級会では、新しい女性メンバーの参加があり、また、会場の設定もあり、話題ごとに爆笑の渦の中に嵌りました。心から楽しい時間をもつことが出来ました。出来れば来年もとの思いも湧いてきます。「来年の事を言えば鬼が笑う」ということでしょう。 悔いが残る一事は、友人が亡くなって一周忌として、その友人からの贈り物の小銭入れを無くしてしまったことです。入れておくポケットを間違ってしまいました。残念!!! 10月のイベントをまとめてページを作ります。 |
2016年10月26日 10月8日、9日は高校卒業55周年記念式典、安曇野への特別列車の旅を楽しんできました。久しぶりに会った級友たちとの顔合わせ、会話は最後の機会と思い、皆さんとの懇談をしてきました。 「水度神社のお祭り」、「安曇野への特別列車の旅」を別ベージで整理します。 29日、30日は今月2度目の松本への旅です。恒例の中学の同級会です。30日は「安曇野ドライブの旅」が計画されています。 |
2016年10月4日 2日、木津川の向こう岸、城陽市にある「水度神社」のお祭りの最終日にあたり、小学5年生のマゴッチが「お神輿」を引くということで、嫁さんと参加することとしました。例大祭は9月30日、10月1日、2日の3日間です。熱心な大人の方々のご努力で、子供達を含めて、ご苦労はありますが、お祭りを皆で楽しんでいる姿は見物する私たちも楽しませてくれます。 「水度神社」そしてやはり城陽市にある「水主神社」の祭神を調べてみると面白いことが見つかったため、別ページを作ってみます。 水度神社(みとじんじゃ) 天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)(元は天照御魂神 天火明命))・高御産霊神(たかみむすびのかみ)・小童豊玉姫命(わたつみとよたまひめのみこと) 水主神社(みずしじんじゃ) については以下です。 祭神 天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊、天香語山命、天村雲命、天忍男命、建額赤命、建筒草命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山脊大國魂命 配祀 大縫命、小縫命 摂社 樺井月神社 月讀命 水主直がその祖玉勝山代根子命を山背大国魂命神、始祖火明命を天照御魂神として祀ったとされる。 これに旧事本紀の天孫本紀の系譜の神々を加えたのが祭神となっている。 両神社共に「物部氏」に強いつながりが見られます。 |
2016年9月28日 関西の地名には思いもよらない読み方の地名漢字があります。 日下、飛鳥、春日などがその好例ですが、これについて、神一行氏の「消された大王饒速日」になるほどという記事がありました。この本は、再々読ですが、不思議なことに初めてその点に気づきました。いい加減なものです。 生駒山の西側にある東大阪市に「日下(くさか)」という地名があります。この地は神武天皇が東征の折に「河内潟」から東を眺めると「草香」の地が「お日様が出てくる方角」であることから「日下(ひのした)の草香」という呼びならわしから出たものであるようです。 「ひのもと」「日下」はもともと太陽が出るところの意味から、国号の「日本(ひのもと)(にっぽん)」の元になったのではないかともいわれています。 「飛鳥(とぶとり)の明日香」、「春日(はるのひ)の滓鹿(かすが)」地名につけられた枕詞が地名の呼び名に転化したもののようです。 来月の8日、9日は、高校卒業55周年ということで、29日、30日は、中学の同級会で、松本へ行ってきます。共に人生最後の顔合わせとなる方々が多いことと覚悟しています。でも、心から楽しんきます。 |
2016年9月20日 台風16号が和歌山県の南部を通過中です。烈しい雨ですが、地形上から家に影響が出することは考えられません。しかし、風の強さはチョット心配になります。 「ローマ人の物語11 終わりの始まり」に 5賢帝の最後の哲人皇帝の呼び名で有名な「マルクス・アウレリウス」における治世時代(紀元161年〜)におけるキリスト教徒に対する興味深い記述があります。 キリスト教に関係した、この時代の「生の声」を三つ紹介したい。 第一は、皇帝マルクスの見た、首都ローマ長官ルスティスの人物像。 第二は、このルスティクスがキリスト教の伝道師ルスティクスという人物だが、ストア派の哲学者として知られていただけではなく、ローマ時代のエリート責務であった公生活も充分に果し、二度もの執政官就任に加え、ローマ政府の要職に一つであった首都ローマの長官も務めている。首都長官の職務には、司法もふくまれていた。 この人物を皇帝マルクスは、『自省録』の冒頭で、自分に影響を与えて人の一人であったとして、次のように書いている。その全文を訳す。 「ルスティクスからわたしは、次にことを教えられた。 自分自身の性格に対しては常に警戒を怠らず、誤った方向に向かいそうに感じられたらただちに矯正する勇気をもつこと。詭弁を弄することならば巧みなソフィストたちと、同じ道を行かないこと。学問のための学問や、また反対に大向こうをうならせるだけを目的にした弁論からは、無縁でいること。他者の賞讃を得ようとするあまりに、わざと質素を装ったり、反対にわざと豪華をひけらかしたりしてはならないこと。レトリックや詩的表現や言葉の洗練さに、溺れてはならないこと。・・・書物は、読み流してはならない。表面的な理解だけでまんぞくしていては、読んだことにならないのだ。饒舌な書物は、それだけで警戒の要があること。・・・また、エピクテトッスの存在をわたしに教えてくれたのも彼である。この哲学者の著作を彼は、自分の蔵書の中から持ってこさせて、わたしに贈ってくれた」・・・ このユスティクスは開放奴隷であり、また彼が首都長官であったとき、伝道者ユスティヌス(アリストテレス学派、プラトン学派を経験しキリスト教ととなった典型的な知識人)を取り調べた折の尋問画面。 ルスティクス「お前自身は、いつもどのような生活を送っているのか?」 ユスティヌス「汚れなしの、誰であろうと質問するに違いない生活はを送っています」 「どの教理を、実践しているのか?」 「あらゆる教理を学んできた結果に到達したのが、キリスト教の教理が説く真実です。それも、教会によって偽物であり異端と断じられたものまで学んだ末に、たどり着いた信念です」 「そのお前の信念というのには、何によって到達したのかね?」 「わたしが、自分自身で納得できたことによって」 「その納得とは?」 キリストの神に対するわれわれ信徒の崇拝の念は、世界はだだ一人の神によって創造され、その真美の子であるイエス、キリストは、人類の救済と人類に真の知識を与えるために、神によって地上に、つまり人間たちの間に、つかわされたことに発しています。 だが、これらのわたしの説明は、イエスの神性の前には何の意味も持たないと思う。なぜなら、われわれにとって最も重要なことは、理解ではなく信ずることですから。神の子の降臨を予言した、預言者たちの言葉を信ずることなのです。あなたも知っているように、歴史上では幾度も、預言者たちは救世主の到来を予告してきたのです」 ルスティクスは話題を変えた。だが、ユスティヌスは、その矛先をやんわりとかわす。 「お前たちは、どこで会っているのかね?」 「皆が会いたいと思い、会うことも可能な場所で。あなたは、キリスト教徒な皆、全員がいつもあらかじめ決められた場所に集まるとでも思っているのですか?」 「わたしが知りたいのは、お前とお前の同志たちが、ローマのどこでも会っているのかということだ」 「わたしがローマに滞在している間は、・・・いつもミルティズスの浴場の上の部屋に住んでいます。・・・この部屋に、わたしは誰でも迎え入れます。・・・」 「お前は、自分がキリスト教徒であることを認めるのか?」 「はい、わたしはキリスト教徒です」 ・・・ わたしはお前に、教えを捨てるように勧めるが、もしもお前がそれを拒絶したならば、待っているのは死刑であることをしっているのだろうね?」 「知っています。でもわたしは、教えを捨てないで死ねば、必ず救済が待っていることも知っているのです。」 首都長官ルクティクスは、死刑判決を言い渡した。 われわれローマ人の神々に犠牲を捧げることを拒否した者に対して、ローマ法(トライアヌス法)により、鞭で打たれた後で斬首刑に処す」 同じに捉われた4人と共に、処刑されました。 紀元312年、ローマ帝国西方の「正帝」コンスタンティヌス帝と東方の「正帝」リキニウス帝がミラノで会い、その首脳会談ノコミュニケのような感じで公表されたのが、有名な「ミラノ勅令」です。これによって、キリスト教は、実態はいまだに諸神混在の状態ではありますが、宗教の一つとしてローマ帝国によって公式に認められました。 「ミラノ勅令」には以下のことが明記されています。 「今日以降、信ずる宗教がキリスト教であろうと他のどの宗教であろうと変わりなく、各人は自身が良しとする宗教を信じ、それに伴う祭儀に参加する完全な自由を認められる。それがどの神であろうと、その至高の存在が、帝国に住む人のすべてを恩恵と慈愛によって和解と融和に導いてくれることを願いつつ」 その後のヨーロッパ全土は、キリスト教に染まり、7、8世紀に誕生し広まったイスラム教が中東を染めてゆく、その後、そして現在の対立(戦争の原因)を考えると、ローマ人(ギリシャ哲学の恩恵?)の偉さ?が際立ってきます。 |
2016年9月11日 今、フジテレビの報道2001年で、豊洲市場移転にかかわる問題で、多くのコメンテーターが井戸端会議のような議論にならない議論を戦わせているのを見てあきれ果てています。こんどは、汚染物質が市場の建物に影響がでないよう、遮蔽の為の盛り土をしているとの話は、建物の外側のみで、実際の建物の下は、10センチ厚さのセメントが貼ってあるだけで、盛り土の”も”の字もしていないということが判明したというものです。 建物の専門家、猪瀬元東京都知事、元地方の知事2名、元都議会議員の現衆議院議員、外交コメンテーター、経済コメンテーターなどが、「わいわいと」責任の擦り付け合いの議論を繰り広げているのです。現在の日本の縮図をみるようであきれ果てました。 その前に、昨日、北朝鮮が小型で威力が強い原爆(水爆?)の実験成功の報道です。先日は潜水艦からのミサイル発射成功の報道です。この脅威は生半可なものではありません。なにせ、ナンバ2を機関砲で処刑する国の責任者が健在なのですから。 「ローマ人の物語\ 賢帝の世紀」の中で以下のような記述があるので参考にしたくなりました。 ローマ皇帝の責務は、「安全」と「食」の保証である。だが、安全の保障のほうが先決する。人々は、安全さえ保障されれば、自分たちで自分たちが必要とする食の生産はできるのだ。それをできる状態にすることが、統治者の責任であった。なぜなら、「食」の保障は個人の努力でも成るが、「安全」の保障は個人の努力を超える課題だからである。戦争は可能なかぎり避ける方針で一貫したハドリアヌスが、防衛体制の確立には人一倍の努力を惜しまなかったのは、この一事を踏まえたうえでの防衛の必要を熟知していたからである。そのためには「ブリタニア人の間をほっつき歩き、辺境の地をさ迷い、スキュティアの酷寒に肌をさされ」ようと、耐えるしかなかった。まったく、一般の人から見れば、「皇帝にはなりたくないものよ」であったのだ。 2000年後の民主主義国は進歩の「し」の字の進歩も無いようです。 |
2016年9月1日 猛暑に見舞われた今年の8月が終わり、9月に入ってしまいました。暑い部屋での更新は気力が極度に低下し、なかなか新しいページをアップ出来ません。 この間は主に、読書に明け暮れていました。特に、「ローマ人の物語」の再々読を進めています。益々ローマ帝国の凄まじい歴史の面白さを痛感します。これから徐々に紹介していきたいと思っています。 |
8月13日 お盆です。地球の反対側、ブラジルではオリンピック真っ盛りです。柔道、水泳、男子体操が前半戦に組まれていたため、日本の選手達の活躍が目立ち、毎日、毎日、メダル獲得の報道で、日本全体が沸き返っています。良いことです!!!!! 嫁さんとの「小豆島への旅」をまとめました。 |
7月22日 一昨日20日、ジジイの歳も74歳となりました。ページの更新もなかなか進まないのはその歳のせいもあり、暑さのせいでもあります。9日、10日は嫁さんと「小豆島への旅」を楽しんできましたがそのまとめも遅れています。14日には、万年幹事のS氏のお世話で、ジジ連5人の暑気払い「グランヴィア大阪」でのお昼ヴァイキング、(レストランバー アブ)を楽しみ、その後は「シダックス」でのカラオケ、3時間、満足!!!満足!!!!! |
6月30日 前回の更新から一ヵ月が過ぎています。加齢の故でしょうが、暑さからくる体調不足からか、入力の意欲が涌いてこないからです。さらに、今回の英国のEC脱退報などで、脱力感が生じた故かと思います。丁度、「ローマ人の物語」を再々読に入ったところで、紀元前800年前後に始まるギリシャのポリスの政体に於ける政治の問題点を少しも勉強していない現在の世界の政治家達のお粗末さにあきれ果てている故です。 先日、24日に、嫁さんと『ビール工場見学に六甲有馬ロープウェイ空中散歩 舞洲「あじさい展」とゆり園』のクラブルーリズムバスツアーに参加してきました。ゆり園散策の折は大雨に会いましたが、それなりに楽しい1日でした。 簡単に別ページを作ってみました。 |
5月26日 嫁さんが希望していた「いのち賛歌 森田りえ子展」に23日、ようやく行くことが出来ました。展覧会場は「相国寺 承天閣美術館」です。京都御所、同志社大学のすぐ上(北)にある「相国寺」は何回も訪ねる機会はあったのですが、不思議にスル―してきてしまっていました。勿体ないことをしてきてしまっていました。 「金閣寺方丈杉戸絵奉納10周年記念 いのち賛歌 森田りえ子展」 「いのち賛歌 森田りえ子展 きのう今日・・・そしてたおやかに 時代をつむぐ」(パンフレット裏面)は素晴らしいものでした。「金閣寺方丈杉戸絵(杉板岩彩)」の杉戸に描かれた見事な色彩の花々、「光の入江」(四曲一双屏風)の巨大さと香港の夜景の見事さにびっくりさせられました。 嫁さんがカタログを購入してきましたので、別ページで記録してみます。 10時の開館から2時間ほど森田氏の絵画を堪能し、相国寺の「法堂」、「方丈」、「浴室」を訪ねました。これらも別ページとしていきます。 |
2016年5月10日 以前から中国の戸籍に「都市戸口(戸籍)」と「農村戸口(戸籍)」があることに疑問を持っていました。この疑問について、邱海涛氏の「中国大崩壊の真実」にその記述がありました。「資本主義の温床として警戒された農民」の項で記されています。 城鎮化の成否については後述するが、ここでは、もうすこし農村戸口の真相について掘り下げてみよう。なぜ毛沢東は中国に2つのタイプの国民をつくりあげたのだろうか。これにはいろいろな説がある。新中国成立後、食料不足に苦しみ、農村から都市への人的移動を制限するために設けられた制度だという説もあれば、近代化が立ち遅れる状況の中で社会主義国家を急速に建設するためには、安い労働を大量に備蓄する必要があったという説もある。どの説にも一理あるだろう。 ここで「城鎮化」とは、現在の都市部以外の地域(農村地域)を都市開発を行っていくということと思われるが、この部分の記述に意味不明な言い方がある。 城鎮化とは、李克強の経済成長戦略のもっとも重要な目玉政策の一つであり、改革開放が行き詰まる中での窮地脱出策として練り上がられた、壮大な計画だといわれている。核となるには、農民を都市部に移住させることである。(?)日本語でいう「都市化」のことだ。 筆者は次に2点を原因どして挙げています。 1つ目は、中国共産党はプロレタリア(労働者階級)が中国革命の唯一のリーダーシップであることを主張しており、農民階級は私利私欲の塊で、労働者階級と同じ社会主義の道を歩むことが期待できず、資本主義の温床になることを懸念していた。 2つ目は、毛沢東が世界大戦の開戦のために軍事力を備えるためだった、というものです。農村部の若者たちは、入隊中は、運転、電気、機械、料理など、いろいろな技術を勉強できることができ、除隊後の仕事の目途が付くということです。 政府の法規、法令によれば、中国の都会は「特大都会」「大都会」「中等都会」「「小都会」という4つのタイプに分けられる。・・・都市でも上のランクへ行けば行くほど、移住のハードルが高くなる。そこではポイント制をとっており、「高学歴」「安定した収入」「就業年数」「年金・医療保険金納付の年数」「マイホーム」「優秀な人材」などの条件をクリアすると、ポイントが得られる。そして、ポイントが増えると、最終的な希望する都会の戸籍を獲得することができる、という複雑な難関の多い仕組みになっている。 「宗族文化」という経済発展の原動力 中国の経済発展のエネルギー源となっている2つ目は、「宗族文化」である。決定的な要素ではないが、大きくかかわっていると筆者は思う。 「宗族」とは、一言で言えば、1つの血脈(同じ先祖)で結ばれる大家族のことであり、ここでは一族意識や一族のルールがすべての家族メンバーを固く結束させている。宗族文化は中国の歴史や文化、社会の仕組みの源流であり、中国人を理解するうえで欠かせない重要な手掛かりとなる。・・・ 村には「祠堂」と呼ばれる大きな廟のような建物があり、ここは日頃、宗族の人たちが活動する場所で、真の意味での一族の「家」である。族長は、宗族の長老または人望のある人から選ばれ、祭祀などの行事の指揮や、宗族内部の紛争の際の調停などにあたった。 この点を踏まえ次の章で面白く、興味深い記述があります。 汚職が増えるほどGDPが上がる中国 いま、中国では「腐敗一掃」の嵐が吹き荒れている最中だが、筆者は逆説的に、中国では汚職が横行すればするほどGDPが上がり、富裕層の人口が増えると考えている。 中国で「汚職多発地帯」といわれるのは、次のような分野の人たちだ。中央と地方の役人を含む国家公務員、政府関連の協会・団体、大学や大病院などの準公務員、民間大手不動産開発会社の経営者、資本投機に長じる富豪、特権を持つ御用学者、政府関係者と強いてコネを持つ外資企業の中国人顧問、軍の高級幹部などである。 これらの人口は1億人近い。決してすべてが汚職をしているわけではないが、一人で汚職して巨大な不法蓄財を成せば、その経済効果は必ず30人以上に普及していくのである。まず、自分の家族、次に親類、それから同郷人、さらにその親類縁者や同じ出身地域の人脈に富の配分を広げていくといった形である。権力で大金を集め、また金をばら撒いてさらに権力の増大を図ろうとする。・・・ 中国人の爆買いが出来るわけの一端を知る思いです。 中国を理解することで非常に重要なポイント、3原則は @ 多党制は認めない。 A 国防軍はつくらない。 B 三権分立は真似しない。 「多党制は認めない」とは、一党独裁を堅持する意味するもので、結党の自由を禁止し、選挙で国家の指導者を選ばせないというこどである。 「国防軍はつくらない」とは、軍は党の軍隊であり、党の指揮を受け、その命令は絶対に遵守しなくてはならない。政府軍として党の組織と対立するものになってはならない、ということである。 以上の2点は、「絶対にあってはならない」ことが強調される。しかし、3点目はすこしニュアンスの違いがある。中国語では「我門(人偏に門)絶不照搬西方国家的社会制度」(「われわれは西側国家の社会制度をそのまま中国に受け入れるべきではない」 中華人民共和国とはあくまで共産党という政党のものであり、その上級幹部の示威による政治が行われ、最終的には最下級に近い幹部公務員である「処長」が現実の処置を決めている国であるようです。 今一つ、「周永康(しゅうえいこう)(ヂョウ・ヨンカン)」事件についての記述が興味深いものです。 生まれは、1942年。1964年、共産党入党。1966年、北京石油学園卒業。1996年、CNPC(中国石油天然気集団)総経理となる。 1998年、朱鎔基内閣の折、国土資源部長(大臣)に就任。2000年、四川省党委員会書記。2002年、党中央政治局委員に選出され、中央書記処書記に就任。公安部長兼党委書記に就任。2003年、温家宝政権で警視総監、武装警察部隊第一政治委員、国務委員などを兼務。政法部門(情報、治安、司法、検察、公安など)の羅幹に次ぐ第2位の地位にあった。2007年、第17期中全会で中央政治局常務委員に昇進し、政法部門のトップに立つ。 「周永康事件が中国人に与えた衝撃」の項 2014年7月29日、中央政治局元常務委員、中央政法委書記(中国司法・警察のトップ)の周永康が党中央規律検査委員会によって立件、捜査されることが決定された。罪名は収賄、職権乱用、機密漏洩、巨額の富の不正取得、貫通という5つであった。 その権限の強さから、一族には巨額の秘密資金が流入したことは明らかです。 2015年4月3日に起訴され、6月11日に周永康に対する判決がでました。習近平の暗殺を企てたとの話もあったことから、死刑判決は必至と予測されていましたが、判決は無期懲役と予想外の軽い刑でした。もちろん、罪状の明細は明らかにされません。 習近平は江沢民、曽慶紅らの黒幕への追求を「大虎狩り」と考え、その黒幕をえぐり出すために、周永康と裏取引して犯罪情報を提供させる代わりに死刑を適用せず、親族たちにも寛大な処分で済ませるという保証を与えたといわれています。 知れば知るほど、不思議な国です。 さらに「公共情婦」という言葉が出ています。中国の腐敗役人のセックスパターンの一つで、世界的に類を見ない特徴としています。政治同盟を結成する手段として、一人の女性と関係を持つことです。「李薇(りび)」という美人と関係があったとされる高級役人は、周永康、杜世成(とせいせい 元青島市長)、李嘉廷(りかてい 元雲南省長)、陳同海(元中国石油化工集団公司社長)、劉志華(元北京市長)、黄松有(元最高法院副院長)、・・・などが挙げられています。開いた口が塞がりません。 邱海涛(きゅうかいとう) 1955年中国上海生まれ、上海外国語大学日本語科卒業。 1985年に来日し、慶應義塾大学および東京外国語大学で学んだ後、日本企業で十年間 勤務する。現在、中国と日本の間で出版や映像プロデューサーとして幅広く活動中。 |
2016年4月29日 今月中に仕上げたいと考えていた「11日、12日の京都春の旅」をまとめてみました。 |
2016年4月23日 結構忙しい今週でした。息子が仕事の関係で、大地震に襲われた熊本へ出張しているため、マゴッチ梨心の保育園へのお迎えなどお世話が毎日続きました。19日には「京都の旅」の折にK会長から戴いた「京都鉄道博物館」のプレオープンの招待券を使い、嫁さんと見学してきました。ついでに嫁さんが京都水族館は未経験なこと、また、12日の友人たちとの訪問が時間に追われる経験であったことを思い再度水族館を訪れました。 この時期は庭に嫁さんがお世話してきた花々が咲きそろいます。 「大手毬」 「シンヴィジューム1」 「シンヴィジューム2」 「シンヴィジューム3」 いずれも花だけを大きく撮ってみました。 |
2016年4月17日 熊本地方の断層帯による大地震が起きています。日本中断層帯が存在する日本はどこで直下型地震が起こるかはわかりません。今回も熊本県というあまり下馬評には載っていなかった地域での大地震は自然の騙し討ちの観を強く感じます。専門家はその存在、危険性は指摘してきたと言いますし、直前予測はほゞ無理ということのようです。 地震の直前、11日、12日は高校時代からの仲間8人による「春の京都の旅」を無事に終えることができました。11日午後1時、グランヴィアを都ジャンボタクシーで出発、栂尾山高山寺、高雄山神護寺にお詣りし、16時過ぎからは、御室桜が満開の仁和寺を訪ねることができました。夜の宴会は昨年と同じ「菊乃井本店」をこの会のK会長がおさえてくれました。お料理は味も、量も十分の満足を得ることができました。 12日は9時にホテルを出発、「西本願寺」、旧京都島原「輪違屋」、「角屋もてなし文化美術館」、色気の違う「京都水族館」を見学、12時半からは京都伊勢丹にある「うどん好きの美々卯」で、直会打ち上げ、反省会の飲み会。案内役としては、みんなの評価が気になるところでが、次回のこの秋の目的地を「出雲大社」を中心とした山陰地方という案が出て、この地に住む高校時代からの仲間I氏にアドヴァイスを求める繋ぎ役を頂戴することになりました。 仲間たちと私の映った写真はページにアップし、仲間たちのみに紹介することができました。「今年の春の桜シリーズ」はこれからの作成になります。楽しんで作っていきます。 |
2016年4月10日 マゴッチ達の年度代わりの時期のため、なにかと忙しい4月の第1週でした。明日、明後日は高校時代からの友人たちとの旅(京都へお迎えする旅です)です。その下見を考え、6日に京都市内を歩き回り、「東本願寺 名勝渉成園(枳殻邸)」の桜を楽しんできました。写真を整理して紹介したいと考えています。いずれにしても、明日、明後日の天気は良さそうです。 |
2016年3月21日 広瀬直子氏の「1分間英語で京都を案内する」を手に入れ勉強し始めました。長年京都に住みながら、京都の有り様を英語で説明することはありませんでした。このページを埋めながら記憶ページを作ろうかと考えました。 第一章 京都のきほん 京都のきほん The Basics A cify of tradition and advanced industry 伝統と先端産業の街 古都 An Old Capital A capital of 1,000 years. 千年の都 京都は8世紀に日本の首都になりました。歴代の天皇は、19世紀まで京都にすんでいました。 Kyoto is a sister city of many historical cities around the world ,such as Paris, Florence, Cologne, Prague, Boston, and Xian.. 京都は、パリ、フィレンツェ、ケルン、プラハ、ボストン、と 西安などの姉妹都市です。 碁盤の目 Grid Pattern A grid pattern surrounded by mountains. 山に囲まれた碁盤の目 京都は日本の本州の中西部に位置しています。・・・kyoto is located in the west-central part of mainland Japan. grid pattern 碁盤の目 mainland 本州 Changu’an 長安 今は Xian 西安 歩き方 How to Get Around The best way to discover the beauty of Kyoto is by walking. 京都の美しさを発見するには歩くのが一番です。 京都への訪問者の多くにとっては、町の南方に位置する京都駅がスタート地点になります。 Located in the south part the city ,Kyoto Station is the starting point for many visitors to Kyoto. 盆地の気候 Climate in a "Basin" Muggy summers and cilly winters. 夏は蒸し暑く、冬は底冷えがする 京都の春と秋はとても快適で楽しめますが、夏と冬は不快なこともあります。 Spring and fall in Kyoto are very pleasant and enjyoyable,but summrer and winter can be uncomfortable. muggy 蒸し暑い basin 盆地 A degrees Celsius 摂氏A度 chilly to your bones 底冷えがする humid 多湿の damp じめじめした、湿っぽい bone 骨 神社仏閣 Shrines and Temples There are more than 2,000 shrines and temples 2,000を超える寺社がある 京都には、約400の神社と約1,700の仏教の寺院があり、ともに大小さまざまです。 Kyoto has about 400 Shinto shrines and about 1,700 Buddhist temples,both small and large. 6世紀以来、日本では神道と仏教が共存してきました。そのため、日本全国に神社と寺院の両方があるんです。 Since the 6th century , Shinto and Buddhism have been coexisting in Japan. That's why you see both of these througuhout the country. coexist 共存する どんな宗教の人であっても男女ともにこういった場所で観光を楽しめます。通常、厳しい服装制限はありません。 People of any religious background can enjoy sigheseeing at the shrines and templed,and there is usually no strict dress code. 仏像の種類 The Types of Buddhist Statues There are four types of Buddhist statues. 4種類の仏像がある 京都を観光すると、たくさんの仏像を見ることになります。宗教的な像ですが、芸術品でもあり、そのいくつかが国宝または重要文化財に指定されています。 When you are sight-seeing in Kyoto,you will see many Buddist statues.These religious statues are also works of art and some of them have receives National Treasure or Important Chltlural Assert designation. 仏像は主に4種類に分けることができます。如来、菩薩、明王、天部です。如来は一番有名な像で、主に釈迦をモデルにしています。菩薩は、悟りを求める修行者です。 There are roughly four types of Buddhist statues: nyorai,bosatu,myo-o and tenb. Nyorai is the most famous,and is mainly modeled after Buddha. Bosatsu is a trainee who seeks to be enlightened. enlightened 悟る 怒った顔で、炎を背負っているのは明王です。天部は仏教を守護する神々で、如来や菩薩を守ります。 Myo-o is the one with the angry fase and fire. Tenbu is guardian of Buddhisim and protects the nyorai and bosatsu. trainee 修行者 enlightened/enlighten 悟った 悟る National Treasure 国宝 Important Caltural Asset 重要文化財 It's okay to visit Buddhist temples and enjoy the statues as works of art.you don't have to pray. うなぎの寝床 Beds for Eels Traditional merchant buildings in Kyoto. 京都の商家の伝統的な建築 町屋とは、京都の街の中で見れれる伝統的な木造建築様式のことです。住人が同じ建築物で、日常生活と商売の両方を営むことができるような間取りになっています。 Machiya is a traditional wooden architecture style that can be seen in centeal Kyoto. The machiya layout allows people to live their daily lives and operate their businessees in the same building. lattice 格子 courtyard 中庭 芸妓さんと舞妓さん Geisya Female performers of the traditional arts. 伝統芸の女性パフォーマー 芸者は伝統的な女性エンターティナーです。舞台や宴会でおどりや音楽といった古典芸能を披露します。京都の祇園では芸者を見かけることができるかもしれません。 The geisha are traditionl female entertainers. They perform classical arts like dance and music in shows and in banquets. You might see geisha in the Gion district of Kyoto. 芸者は見習いとして訓練を開始します。京都では見習いは「舞妓」と呼ばれています。 The geisha start out as a trainee. In kyoto,the trainee are called maiko. 旅館 Ryokan Inns Enjoy traditional accommodatin styles. 昔ながらの宿泊を堪能しよう 京都には、幅広い宿泊の選択肢があります。一番人気があるのは、あそらく旅館です。京都の高級旅館での宿泊は、多くの日本人と外国人の憧れです。 In Kyoto, you have a wide selection for accommodation styles, but the ryokan is perhaps the most popular choise.Many Japanese and foreigners dream of staying at Kyoto's classy ryokan. classy high-end 高級 お茶屋と料亭 Ochaya and Traditional Fine Restaurants. Some do not accept first-time customers. 一見(いちげん)さんお断りの店も 京都には、非常に多くの飲食店があります。おいしい和食や国際色豊かな料理が、京都の各地で手頃な価格で食べられます。 You will find a great variety of restaurants and bars in Kyoto. There are good Japanese and International foods at reasonable prices all across town. 芸妓が客をもてなすお茶屋と、高級料亭のいくつかは、「一見さんお断り」をルールとしています。 Kyoto's ochaya,where geisha entertain guests,and some high-end restaurants have the rule that they do not accept first-time customers. ならわし The Customs of Kyoto There are some customs that are typical of Kyoro. 京都に典型的なならわしも 京都のならわしの多くは、日本全国のものと同じです。でも、特に宗教的なならわしで、京都に典型的なものがあります。 Many customs in Kyoto are the same as in the rest of Japan. But there are some customs, the religious ones in particular, that are more typical in Kyoto than in other areas. たとえば、地蔵盆と呼ばれる仏教行事。 For example, there is a Buddhist event called Jizo-bon. pray 祈る 別ページで続けていきます。 |
2016年3月19日 明日が春のお彼岸で、「暑さ寒さも彼岸まで」の諺通りとなりそうな気配で、今日は暖かい雨の日です。 世の中は中東の紛争というより、経済面で中国の後退の影響が大きく、昨年12月にアメリカが金利ゼロ政策を止めた経済政策が分解する気配が濃厚です。石油をはじめとする資源価格の下落は、資源輸出がその国の経済を支える国々に大きな打撃を与えており、世界的な経済後退の不安を与えています。 伊沢元彦氏の「逆説のニッポン歴史観 日本をダメにした戦後民主主義の正体」は1997年〜2000年までの「SAPIO」で述べられてきたものです。昨年は2015年、その後の15年は日本にとってどのようなものlであったのでしょう。昨年の安保議論における政治家、学者、学生の主張、それを利用する新聞、テレビの姿に唖然とするものがあります。 「あとがき」、「文庫版に際してのあとがき」をまとめのかわりにします。 ・・・今の日本がおかしくなってきた根本的な理由は、やはり昭和20年の敗戦に遡ることができるだろう。これは、中でも少し述べたが、戦前は「滅私奉公」といい、人間の「私」というものを認めず、、「公」のみを優先した世界であった。そして、国民はそれに奉仕させられ、親兄弟、息子、娘を戦争で失った挙げ句、(中には自分の命を失った人もいるが)、あれは全部間違いだったということになった。 これでは反動が起こらないほうが不思議である。その結果、戦後は「公」というものも、できるだけ蔑ろにし、バカにする風潮が育った。その結果が今の日本の社会のあらゆるほころびに現れている。 それがいちばんに現れているのが、軍事問題だろう。 軍隊というのは、確かに戦前のように国民を塗炭の苦しみに追い込む要素も持っている。しかし、もしそれだけならば、日本よりも民主的と常にマスコミや知識人が称揚する国のほとんどすべてが、今なお軍隊制度を維持するのあ、hはいったいどうしてだろう。それは近代国家において軍隊というものはは、国民の安全を守るためになくてはならないものだという基本的な思想があるからだ。ところがこの思想を無視し、軽視しあるいは罵倒することが正しいという概念が、戦後のマスコミに支配的だった。そしてそれは(意図した人ももちろんいただどうが)、国民を洗脳するという結果になってしまった。 最近のある大学生との対話のことを話したい。 私がこの本に書いてあるようなことを、大学主催の講演会で話したところ、若い女性が猛然と反発して、反論を述べてきた。そこで2時間ほど相手をしたのだが、その時私が言ったのは、突き詰めればこういうことである。 「君は軍隊を、まるで悪魔のようにいうけれども、例えば地下的サリン事件のようなテロ行為が起こった場合、現行の警察では対応できないよ。あの時も、自衛隊の化学防護隊が出撃したからこそ、地下鉄のサリンを除去することができたわけだ。普段から毒ガス戦や最近戦争に対して研究をしておく機関がなければ、ああいった有事には対応できないのだけれども」 これに対して、その彼女(20代前半)は、何と答えたおと思いますか? 「サリンは自衛隊の仕業ですから」 と、言ったのである。 私は驚き呆れて、言葉を失った。この人は自分で、民主主義とか基本的人権とかを口にしながら、民主主義の基本がまったくわかっていないのだ。自衛隊がサリン事件の黒幕であったなどというこことは、なんの証拠もない話である。・・・ 今でも社会党の後援者たる社民党という政党の人たちがよく言うことだが、例えばサリン事件騒ぎの時に、「自衛隊がいなかったらどうなったのか」ということに対して、絶対に反論しないのである。といか、反論できないというのが正確なところだ。・・・「自衛隊なんて人殺し集団だから、そんなことを考えるのは悪人だ」という発想である。 ・・・私がこういう人たちに言いたいのは。いいかげんに目を覚ましなさいとういうことだ。 例えば朝日新聞なら朝日新聞、共同通信なら共同通信の、過去に言ったことを調べてみれば、あるいは平和的、良心的といわれる政治家、特に「ハト派」などと呼ばれる政治家やいわゆる「進歩的文化人」と言われる人たちが何を言っていたか、その痕跡を調べてみれば、彼らがいかにいいかげんで、民主主義や基本的人権の、まさに基本がわかっていないかということが、白日のもとに明らかになるはずだ。 それなのに、まだ日本ではそういった言論や報道機関や知識人の言うことを信用して、世の中をみている愚かな人たちがいる。こうなるともう、「あなたたちはだまされるのが好きなんですか」とるら言いたくなる。日本の真の改革を妨げているのも、結局これである。この20世紀最後の年の日本で、多くの人は「このままではいけない、変わらなければならない」と思っているはずだ。しかし現実は、政治家も官僚もすべて、そして国民も、「現状を維持する」ということに熱中している。・・・・・ ・・・戦後数十年間、日本には「憲法改正」という言葉は実質的に存在しなかった。それは常に「憲法改革」と呼ばれてきた。ここのところに気が付いてほしい。要するに、憲法「改正」を「改悪」と呼ぶのは、現状維持を続けようという保守的で退廃的な精神のなせるわざである。軍事問題について、日本人が臆病になるのもわからないではないが、これを家庭や個人の問題として考えてみればわかるように、自分の身や家族を守るのは、やはり自分であり、これなりの手段を講じなければならない。平和憲法を念仏のように唱えていれば守れるというものでもない。・・・戦前は軍事が主流で外交が付録であった。戦後は外交中心で、軍事は付け足しになっている。これはどちらも誤りである。いろいろな要素をバランスよく組み合わせてそして価値を守っていくというのが、本当の意味での大人の社会である。今や、ずっと子どもだった日本人は大人になることを求められている時代なのかも知れない。 2000年9月1日 文庫版に際しての「あとがき」 −情緒的平和主義の敗北ー していた。 あらためて読み返してむるとほんの数年前のことなのに、「隔世の感」がある。 やはり日本の言論界(あるいは世論)にとって最も大きな曲がり角は2002年の9月17日、小泉総理の訪朝に対し金正日総書記が「やっぱり拉致をやっていた」と認めたことだろう。 この「9・11」ならぬ「9・17」が、日本を大きく変え、今も変えつつある。おそらく後世の人間は(まだ在任中なのに失礼だが)小泉純一郎という政治家をあまり効のあった人間とは認めないと思う。しかし、この「9・17」だけは不朽の功績といっていい。これで「北朝鮮」という「虚構の帝国」は崩壊への第一歩を確実に踏み出した。 この「9・17」の意味は、やはり北朝鮮は犯罪国家であり、日本の中で北朝鮮という国を好意的に紹介したり、端的に言えば「北朝鮮は拉致などしていない。そんなことを言うのは右翼か軍国主義者の大ウソツキだ」と罵倒していた人間たちが、まさに本物の大ウソツキであることを白日のもとにさらしたこどだろう。 しかし、この反応は本当は遅すぎた。なぜなら、こうした「ウソがバレタ」のは今が初めてではないからだ。 かって新聞記者、キャスター、大学教授、弁護士、高校教師といった人々の中に、「ソビエト連邦は労働者の天国で貧困もなければ飢餓もない。労働者の天国である」と叫んでいた連中がいた。こうした連中は、たとえば第二次世界大戦中にポーランドで軍の将校が大量虐殺された事件(カティンの森の大虐殺)も、ヨーロッパの学会では「ソビエト軍の仕業だ」と定説になっていたにもかかわらず、「ソビエトがそんなことをするはずがない。あれはナチスドイツがわったんだ」と決めつけていた。朝鮮戦争は「北朝鮮による侵略」と堂々と主張していた。大学でもそう教えていたのである。だがソビエトは、その圧政を嫌う民衆によって中から打倒され、ロシア共和国となった。 すると、この連中は自らの過ちを認めるどころか、今度は中国を、カンボジアを、北朝鮮を、「地上の楽園だ」と賞賛し始めた。・・・ ・・・最近私が、かって北朝鮮のNO2(朝鮮労働党書記・労働党書記)で、この体制を見限って韓国に亡命した黄長Y(ファンジョンヨブ)にあなたはなぜ母国を捨てたのか」と聞いたところ、氏は苦渋の表情で「金体制が国民』200万人を餓死させたからだ。」と答えた。・・・ ・・・こうした独裁国家に何の条件も付けずにタレ流し的な援助をして、結果的にこういう悪魔の政権を延命させてしまったのは、「平和主義者」だからである。「そんなことはすべきではない」という正論を、彼らは何といって封じたか「戦前の日本のやったことへの反省が足りない」「過ちは絶対に繰り返してはならない」「友好親善こそが平和の道だ」−その結果が、200万人の餓死である。・・・ ・・・北朝鮮を絶対に援助するなというのではない。たとえば本当に餓死寸前の人々を救うために、日本人が現地までいき「日の丸」をつけた大釜でカユを炊き、それを直接人々の手に渡すのなら大いに結構。それなら本当に人道的援助だし、「日本の援助」だというこtろも明確になるから、金体制の延命にはつながらない。とにかく「平和、平和」と叫んで、反戦歌を歌えば真の平和が来るなら、誰も苦労はしないのである。 2004年11月12日 |
2016年3月11日 東日本大震災、大津波、原発事故から満5年の日です。まもなく、その時間が近づいています。この5年の経過をテレビで放映しようとしていますが、どのチャンネルもほぼ同じパターンでの代わり映えのない報道です。犠牲者、相変わらず避難所に住んでいる方々に本当に寄り添っての報道とは思えません。 それよりも地震により破壊されたと信じさせらている原発は実は、津波によるものであり、津波の危険性を既に認知していた東電はその危険性についての資料を明確に隠ぺいしていたことが先日明らかにされました。2011年の時の東電の上層部が強制起訴されたのはある面、当然のことと思えます。その辺の議論が深まる可能性があるからです。しかがし、その後のこの事柄についての報道はさっぱり無くなっています。 いま、ひょうんなことから伊沢元彦氏の「逆説のニッポン歴史観」を読み進んでいます。『SAPIO』に1997年4月23日号〜2000年5月10日号に連載されたものです。昨年の安保論争がいかに奇怪なものであるか?なぜまだ続いているのか?唖然とするだけです。読みきりしだいまとめようと思っています。 |
2016年2月28日 「中世ヨーロッパに歴史・イスラム世界」を加工中ですが、その関連の本を読み増やしています。その中で塩野七生氏の「レパントの海戦」の中に注目を引く部分があり、ここにとり出して見ました。 「レパントの海戦」(トルコ海軍とヴェネツッア・スペイン・ヴァチカン連合軍の海戦)のレパントでの決選前の状況です。 1572年10月7日 陣形が成って全船が船首をそろえて並ぶ艦隊の前を総司令官ドン・ホアンの乗った小型の快速艇が通過する。26歳の若者にしてみれば、最後の点検のためというよりも、戦士たちへの激励の気持ちが強かった。・・・・ ドン・ホアンは、ヴェニエルの船の前まできたとき、怒声を浴びせられる仲でもあったヴェネツィアの老将の姿を認め、イタリア語で叫んだ。「なんのために闘われる?」鎧はつけていたがかぶとはつけていないヴェニエルは、大石弓を左手にかかえ、白髪を海風になびかせながら、これも大声で答えた。「必要だからです。殿下。それ以外はなにもない!」 全艦隊を一巡し終わったドン・ホアンは、それまでは各船にひるがえっていた国旗や貴族達の紋章旗を、すべて降ろさせた。ドン・ホアンの旗艦の帆柱高く、聖別された同盟旗が舞上がる。空色のダマスコ絹の地には、銀糸で模様が縫いとりされており、中央には磔刑のキリスト像がおかれ、そのキリストの足許には、神聖同盟の主要参加国であるスペイン王国と法王庁とヴェネツィア共和国の紋章が、縫いとりされているものだった。総司令官の旗艦の帆柱高くひるがえるこの大軍旗は、戦線のどこにいても見ることができた。・・・各々の占める立場や課されるた任務に関係なく、いっせいにその場にひざまずいて神に祈りをささげた。 これは、十字軍なのであった。主キリストの名誉をかけて闘う、戦いなのであった。この瞬間、おそらく、反動宗教改革の最も純粋な要素が、ひとつに結晶した感じであったろう。全員の心の中では、それまでのあらゆつ想いは消え、残ったのは、無心に敵に向かう気持ちだけだった。・・・ 準備はすべて終わったのだ。キリスト教側では、9万の男たちが、戦いの合図を待ちかまえていた。 一方、この時刻には、イスラム艦隊のほうも準備が完了していた。 こちらも、半月を思わせる弓型陣型である。ギリシャからもシリアからも、エジプトからも北アフリカからも参加しているのだが、すべてはトルコ領なのだから、各国別の軍旗はない。いずれも赤地、白地、緑地に、白、赤、白の半月をしるした旗印だけである。その他には、海賊たちの旗印が見えるだけだった。 総司令官アリ・パシャの旗艦の帆柱高く、白の絹地にコーランの一章を金糸で縫い取りした大軍旗がはためいている。この機会のために、聖地メッカからわざわざ取り寄せた聖旗で、次の一章を読むことができた。 「神と預言者マホメットに捧げるこの偉業に参加する信者たちに、神の吉兆と誇りを贈る」イスラム教徒にとっても、聖戦なのだ。十字と半月が激突する、聖戦なのであった。 1571年10月7日・昼 正午を少しまわったかと思われる時刻、アリ・パシャの旗艦から砲音がひびきわたった。ただちに、ドン・ホアンの船からも、砲音が返される。戦闘開始の合図だった。・・・・ 戦闘はキリスト教側の勝利におわります。連合艦隊の戦果について以下のように記しています。 捕獲した敵側のガレー軍船ー117席 捕獲した敵側の小型船ー20隻 イスラム側の戦死者ー約8000人(最高司令官アリ・バシャ、イエニチェリ軍団の団長、レスボス、その他の総督たちなどなど・・・ 解放されたキリスト教徒の奴隷ー役15000人 キリスト教側の戦死者ー7500人 負傷者数ー約8000人 戦死者と戦傷者の参加国別は スペイン 戦死者2000人 戦傷者2200人 法王庁 戦死者800人 戦勝者1000人 ヴェネツィア 戦死者4836人 戦勝者 4584人 艦長クラスの犠牲者は18名、その全員がヴェネツィア共和国民であった。 「歴史」とは「戦争の歴史」と言えるでしょう。「ローマ人の物語」を読むことからヨーロッパ、中近東の歴史の探求に目覚め、読み進めてきましたが、この事実は間違いがないようです。 キリスト教とは? イエス・キリストが始めたユダヤ教からの独立運動がその後に、どのように変化して、その後のキリスト教が世界に広められたのか?その点、釈迦が始めた仏教が大きく変化して今の仏教があることは日本人であるならその変化を知っています。ともに、大きく変化しています。 イスラム教についてはキリスト教よりも更に浅い知識であることは確かです。伊沢元彦氏の「世界の[宗教と戦争]講座」のなかのイスラム教徒の「6つの信」、「5つの行」を解説してくれる部分があります。 イスラム教徒には、6つの信(しん)、5つの行(ぎょう)というものがあります。イスラム教徒である以上、信じなければならない6つのことと、行わなければならない5つの行です。信のことを「イマーン」といいます。そして行を「イバーダート」と言います。 「6つの信」 1) アッラーという神がいることを信じなさい。世界の創造主である、唯一の神さまがいることを信じなさいということです。 2) マクラ、天使。 神さまではないけれど神様の使徒である、人間とは違う存在、超越的な力を持った人たちがいることを信じなさい。 3) [コーラン(聖典)]原語では、正しくは「クルアーン」と言うようです。アッラーの言葉を伝えたものを信じること。 4) 「ナビー」、預言者のこと。預言者は正しい、預言者を信じること。ムハンマドは預言者で偉大な人間ですが、あくまで人間であって神ではありません。 5) アーヒラ 来世です。イスラム教にも最後の審判はありますが、イスラムの信仰と戒律を守れば天国に行けると信じること。さらに、殉教、イスラム教の教えを守るために死ねば、やはり、天国に行けると信じること。このへんは、戦国時代の一向宗を思い出しますし、現在の中東における自爆テロに恐怖を覚えます。 6) カダル 天命。 世界に起きる諸現象は、人災、天災を含めてすべては神、アッラーの意思に沿ったものであることを信じなさい。 「5つの行」 1) シャハーダ 信仰告白。「アッラーは唯一の神でありムハンマドはその使徒である」ということ、神を信じていることをあるごとに人に宣言しなさい、ということです。信仰を告白することで死刑になるのであれば、それは殉教ということ、天国に行けるということ。 2) サラート 礼拝。 礼拝は必ずメッカに向いて行う。 3) サウム 断食。 断食をやる月は、第9月のことで、「ラマザーン」です。太陽暦と太陰暦の関係で、1年に11日ずつずれていくことから、第9月は年々ずれていきます。 4) ザカート 喜捨ということ。 5) ハッジ 巡礼のこと。カーバ神殿のあるメッカに、生涯のうち一度でいいからお詣りすること。 宗教というものの原点を忠実に語ってくれるのかイスラム教なのでしょうか? |
2016年2月23日 先週の日曜日、14日、ジジ連の5人は鳥取、「はわい温泉千年亭」でのカニカニ食べ放題の旅に出ました。幹事のS氏が5年ほど前に設定してくれた旅と同じ、メニューということで、JTBの商品を選択してくれました。カニの食べ放題、飲み放題ということです。 9時に梅田の駐車場から出発、12時半頃、鳥取砂丘の「砂丘会館」で到着、昼食を摂りました。前回と同様です。夕食を考え、ラーメンを昼飯としました。 14時過ぎには「千年亭」に到着、もちろん、お目当ての一つ、ゆっくりと、温泉に浸かります。その後は、5人での久しぶり「駄弁りあい」いつも間にか、18時過ぎ、カニカニ食べ放題、飲み放題の席に着きます。 席には、「ゆでカニ足」、「カニ刺しを含めた船盛り」、「カニの甲羅みそ」、「カニ珍味」、「天ぷら」が乗っており、「茶わん蒸し」もその後に運ばれてきました。 食べ放題のメニュー、「焼きカニのお皿」、「カニすき鍋」の為の大皿が置かれています。 まずは、皆で乾杯。私は飲み放題のお燗付のお酒を自分で取り寄せ、楽しみながら、料理を貪ることとしました。準備されていた種々のお料理を食べた後、「カニすき」での食べ放題に挑戦します。注文のお皿の数が増えるたびに、盛られたカニさんの量が増えて行ったことは、千年亭さんの志を感じました。私たちは、その志を無にしないだけの貪欲さを発揮し、完食、もちろん、雑炊も完食!!!!! 皆々、満足!!!満足!!!!! 気分を良くし、チョット席料は高いと思いながら繰り込みました。二十数人組、と6名組?の先客があり、それぞれ盛り上がっていました。6人組?は高知県からのメンバーで、カラオケ同好会とのこと、流石にお上手な方々でした。 翌日は、予報通り大雪!!!外に出ることは不可能!!11時からの大衆演芸「三匹のこぶ座」をお昼の弁当とともに、楽しみました。最後の勇壮な太鼓ショウです。 翌16日夕方、松本の兄から88歳の姉の訃報の電話があり、18日の葬儀が本葬ということで、18日は松本日帰りとなりました。この姉は親子に近い歳の差があったことから、子供の頃は本当にお世話になったものです。 |
2016年2月11日 昔で言えば、「紀元節」です。初代天皇である神武天皇が即位した日として、明治6年(1873年)に制定され、昭和23年(1948年)、GHQの指示で廃止されましたが、昭和42年(1963年)「建国記念の日」として、国民の祝日として復活したものです。 この「建国記念の日」について、我々戦後教育で育った者は、我々を指導してくれた先生方のほとんどがこの日に疑問を持った方々であったためか、疑問の記念日でした。 「明治維新」はその後の日本を作り上げた見事な点は多くありましたが、「廃仏毀釈(神仏分離)」政策を始めとして、天皇をいたずらに祀り上げる政策をとるという疑問な政策を強行しました。先の戦争に続く道です。 神仏を融合させた日本独特の宗教観(一神教とは無縁の世界)を無くしてしまう方向に、根拠の薄い天皇陵の制定によってその後の日本の歴史研究の足を引っ張る宮内庁を作り上げてしまったことです。 どこの国にもある「建国記念の日」を我々国民が素直に祝える明瞭な説明、日本の2000年以上続く「万世一系の天皇」(君臨すれど統治せず)の素晴らしさを知らしめる活動を積極的にすべきではないでしょうか。この日はこの出発点であるという共通意識を育てることです。 いま一つ、「ゲス」という言葉です。「ゲスの極み乙女」と称するバンドのリーダーが不倫騒動を巻き起こし、この「ゲス」という言葉が目立つ今日この頃です。「下衆の極み」、「下種の極み」とは、「この上なく下劣で品性が卑しいさま、人として最低であるさま、これ より低劣な者は他にいるまいというほど品位を欠いている様子などを意味する語」ということ。 この「ゲス」と言いたくなる方々のニュースの多さに悲しくなる日々です。特に、ヴェッキーは珍しく好感が持てるタレントであっただけに、残念です。 もちろん「ゲスの極み乙女」の川谷何某、京都3区選出の宮崎何某という国会議員、13歳の少年を虐殺して少年法の隠れ蓑により高々10年の懲役刑を受けた19歳の少年、DV故に離婚された元妻を傷つけ、元妻の母親を殺害した北海道の何某、そして、最たるものが球界の番長と恐れられ、それを履き違えて理解していた清原氏の惨憺たる姿、ゲス、下衆、下種、悲しい!!!悲しい!!!!! |
2016年2月7日 今日も寒い!!!更に寒さを助長しているのは、北朝鮮の人工衛星打ち上げ成功と称する弾道ミサイル発射です。アメリカからの報道では、人工衛星と称するものが宇宙圏内への投入されたようだとのことで、北朝鮮の発表が真実に近いことを裏附けています。核実験に続く弾道ミサイルの発射は日本、韓国、そしてなによりも米国にとって大きな、大きな誤算と言えそうです。無法国家を好き勝手にさせてきた責任はやはり、米国といえます。なにせ、中国、ロシアの反対を力で跳ね返しうるのは米国だけで、実質交戦権のない我が国や休戦中にもかかわらず親北勢力が強い韓国にはその力はありません。 その米国は次期大統領の予備選挙戦に入りました。その初戦であるアイオワ州の民主党、共和党の党員選挙での結果はどちらも訳のわからないものでした。中国に追いつかれそうだとはいえ現在まではこの地球上での最強国である米国の次期大統領候補が訳の分からない主張を繰り返すだけなのをみさせられると更に、寒さを感じてしまいます。 来週の日、月曜日、14日、15日は恒例の”ジジ連”5人の旅です。常任幹事のS氏が設定してくれた行き先は鳥取「はわい温泉 千年亭」、2010年13日、14日に訪れた同じ行先、夕食はカニの食べ放題という同じメニュー。とにかく、温泉に浸かり、たらふく食べ、飲み、仲間たちと馬鹿話が出来ることは嬉しいことです。 |
2016年1月26日 東アジアは凍えています。日本、朝鮮半島はもちろんのこと、亜熱帯と思われている台湾までが凍えているとの報道があります。低温が原因で何十人かの死者が出ているとのことです。水爆実験が成功との派手な報道をしている北朝鮮、アメリカへの核攻撃も可能との脅しもしてるようですが、この低温による貧しい国民への影響については一切報道はありません。 今年は明けてから25日ですが、様々な良くない兆候が続いています。原油相場が100ドルから20数ドルへ大幅下落していることは世界経済の大幅な縮小の原因ともなりかねないことであり、昨年末に景気好調を理由に、金融引き締め策に転じたアメリカでさえ、株式市場は下落が続いており、対円ドル相場も下落、円高が進みつつあります。これは日本株にとって不意を突かれた悪材料となっています。中国経済の悪化は、ほぼ、織り込んでいたと思われますが、アメリカのこの不意打ちの対応は苦労しそうです。 図書館から借り出した伊沢元彦氏の「逆説の世界史 @ 古代エジプトと中華帝国の興廃」を読みました。この中で「そうだったのか」と納得する記述を整理してみました。 人類の3大発明といえば「紙の発明」、「羅針盤」、「活版印刷」と言われていますが、その中で情報伝達の面で最も重要なものは「活版印刷」としています。特に、ヨーロッパの中世社会のローマ・カトリックからプロテスタントへの改革運動の成功はこの「活版印刷」の発明に負うことが多い、としています。 16世紀に、この運動に成功した人物がドイツの「マルティン・ルター」、フランス人の「ジャン・カルヴァン」として知られています。 彼らの前に、14世紀、イギリス人の「ジャン・ウィクリフ」、チェコの「ヤン・フス」が彼らと同じ運動をしたことで、カトリック教会の弾圧を受け、ウィクリフは死後に遺体の尊厳を傷つけられ、フスは火炙りの刑で命を失ないます。 その後に、活版印刷利用によって多くの人が読むことが出来る聖書が出版されたことで、カトリック教会の欺瞞性が知れるようになったと考えています。 ローマ・カトリック教会は「ラテン語訳聖書」を利用していました。イタリア語、フランス語、スペイン語はラテン語から変化していきましたが、聖書のみはラテン語が利用されていました。 ・・・中世において聖書というものは、ラテン語が読み書き出来る少数の人間しか直接アクセスすることが出来ないものだったのだ。一般民衆はその聖書が読める教会の聖職者、司教や司祭の説教を通してキリスト教の内容を知る他はなかったのだ。だから逆に、カトリック教会は本来聖書に書かれていない教義に反することが自由に言えた。免罪符というのもそうである。これを買えば罪が許されるなどということは、聖書のどこをひっくり返しても出てこない。教会がそれを言っているだけである。つまり端的に言えば「嘘」だ。しかしその嘘はばれない。なぜならば一般の人は聖書の中身を知らないわけだから。 ところが、そのうちラテン語の読める知識人の中から、教会の言っていることは嘘であり、ごまかしであり、おかしいと抗議する人が出て北。これが文字通りプロテスタント(抗議する人々)となったのである。・・・ 紀元前3000年から2000年のエジプトの文明(精密な技術で完成したピラミッドなど)が後世に伝わらなかった理由を伊沢氏は「ピラミッドの造り方などというものは、あるいはその本当の意味で建造目的というものは、文書に残してしまうと、それが他人に悪用される可能性があったということであろう。 ピラミッドをファラオの魂の再生装置として定義するなら、それは単なる人間ではなく、偉大な力を持つファラオの再生を可能にするものであるから、ファラオにとっては、その情報を他の人間に公開すべきものではない。ということになる。つまり、秘匿すべきものであるということになったしまうのである。」 ファラオにとって秘密にすべきものは文字にされなかったことが、その理由か?としています。 |
2016年1月14日 年明けから冬らしくない気候が続いていましたが、昨日あたりから平年並みの気温に戻り、冬らしい気候になるようです。スキー場はホッとしていることと思います。年末に信州白馬へスキーに出かけた娘家族はゴンドラを上がったコースでの滑走のようでした。もちろん、多くのスキーヤーはより雪の多いスキー場へへ移動しているようでした。 年末から「中世ヨーロッパの歴史」、「イスラム世界」のまとめページに挑戦していますが、その資料として塩野七生氏の「ローマ亡き後の地中海世界」を再読しています。 7世紀に生まれたイスラム教が急激に周辺国に広まり、8世紀から9世紀にかけての地中海へのイスラム勢力(サラセン人)伸張、イタリア半島、シチリア島などへの海賊を中心とした侵略はキリスト教を中心とした人々に多くの悲劇を生んでいます。ヨーロッパからの十字軍の派遣はその後のことです。 国軍を保持していなかった平安時代末期、平氏が政権を握ってから、1600年の関ヶ原の戦い、大阪城落城までの間は日本も覇権をめぐる物騒な時期でしたが、宗教に係わりがある戦い以外は一般商人、農民の命を奪うことは多くなく、もちろん、奴隷が生まれませんでした。 それに引き替え中部アジア、中東、ヨーロッパ、北アフリカの全土はモンゴル軍、イスラム(サラセン)軍、十字軍、などの進攻による戦乱により多くの人命が失われ、多くの奴隷が生じました。その違いはその後の日本人のメンタリティーを作って来たようです。 |
2016年1月4日 好天気の3ヶ日が過ぎました。昼の好天の為に朝の冷え込みはきつく冬らしいお正月の天気といえます。 元旦は昼頃に近くのお宮さん「天津月読神社」への初詣、神矢を頂きに出かけました。驚きました!!!神社の外まで列ができたいます。 神社の位置は 11時55分 11時58分 12時28分 12時40分 娘夫婦一家は年末から信州の白馬へ、息子夫婦とマゴッチ2人は鳥取のジジババの所へ、行ってしまい昨日3日に娘夫婦とマゴッチの美緒とともにようやく新年の祝宴が開けました。 今朝の新聞にはスンニ派主導のサウジアラビアでシーア派の高位聖職者が処刑されたとの記事が載っています。シーア派主力のイランではデモが起きているようで、中近東での火種が更に増えていくようです。丁度「イスラム世界」の西暦1000年頃を読んでいる中には、イランの過去の姿「ペルシャ」、マホメットの生地「アラビア半島」とはその頃から仲が悪かったことが書かれています。 |
12月28日 あと4日で今年、未年が終わり、申年が始まります。朝のテレビでは来年の主役、猿さんが大活躍しています。 最近の読書は昔買ってなかなか読み進めなかった堀越孝一氏「中世ヨーロッパの歴史」と前島信次氏「世界の歴史8 イスラム世界」を併読しています。「中世ヨーロッパの歴史」はほぼ、流し読みを終えましたが、歴史書ではなく、漫談を聴いているような感じでのものでした。「イスラム世界」はイスラム世界ではなく、ササン朝ペルシャの章から始まっています。 興味深い点を歴史年表を中心にして別ページで紹介していきたいと考えています。「中世ヨーロッパの歴史」の巻末の年表は西暦476年の西ローマ帝国の滅亡から始まっています。作者はこの事象からヨーロッパの中世は始まったと考えているのでしょう。 |
12月22日 今年もあと10日、このページの更新期間が開いてしまいました。年末のゆえに忙しいという身分ではありませんが、年賀状の準備その他でウロウロをしていただけです。昨日は前年の時期には遅れましたが人間ドック診断を受けてきました。胃カメラを前年通りに飲みましたが、この診療は決して快適なものではありません。検査後の診断は昨日の時点での問題指摘はありませんでした。追って、書面での連絡があるでしょう。 明日、明後日までには年賀状を完成したいものです。 |
12月6日 3日、ジジ連5人組みの忘年会は、ウメ地下3番街の「はまぐり庵」で、珍しいハマグリ料理を中心とした料理での会食となりました。幹事のS氏のお蔭です。その後は、もちろんカラオケでした。楽しい時間をありがとう、と仲間に!!! 「ローマ世界の終焉 3 」に入っています。その初めに西ローマ帝国の終焉についての記述があります。 西ゴート族の族長オドアケルは、ローマ帝国の歴史に幕を引いた人物として歴史に名を残すことになるが、同時に、ローマ史は紀元476年で終わったのではなく、1453年のコンスタンティノープルの陥落で終わるとする説の生みの親にもなった。 面白いのは、西ローマ帝国の崩壊後のヨーロッパの国々の誕生です。 ブリタニア・「帝国以後(ポスト・インペリウム)」 アラリックによるローマ劫掠(ごうりゃく)によって帝国の財布が空になったことから、紀元410年、時の西ローマ帝国皇帝ホノリウスはローマ帝国軍、3個軍団に撤退命令を出します。駐留は360年に及んでいました。 残されたローマ化していたケルト系のブリタニア人は、北部のスコット族、ドイツ北部から海を渡ってくるサクソン族と、今のデンマークからのアングロ族に圧迫され、海を渡り、ガリアの北西部に移り住みます。その地は、ブリゥターニュと呼ばれています。ブリタニアは、アングロ族が住むという意味の「イングランド」と呼ばれるようになります。 ガリア・「帝国以降」 ゲルマン系の蛮族の共食い状態を経て、その一つのフランク族が、ブルグンド族、西ゴート族をピレネー山脈の南に追い払い、フランク族の住む地「フランス」と呼ぶ時代に入っていきます。 異教徒であったフランク族王・クロードヴィックは493年ブルグンド族の王の娘を妻に迎えるにあたり、カトリック派のキリスト教徒になることで、この地に住む多数派の旧ローマ人との共生が進みます。 ヒスパニア・「帝国以後」 北西部に住みついたスヴェビ族、ピレネー山脈にこもるバスク族を除けばイベリア半島の大部分は、西ゴート族の支配下に入ります。 ヒスパニアはガリアより200年最早く属州化しています。そして、トライアヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウスとローマ帝国全盛時代の5賢帝の内3賢帝が出ています。それほどにローマ帝国とは運命共同体ではありましたが、西ゴート族に支配されるようになってしまったのです。ちなみに、西ゴート族はキリスト教徒ではありましたが、カトリックではなくアリウス派で、その後の火種は残されました。 北アフリカ・「帝国以後」 西ゴート族に押し出されるように、ジブラルタル海峡を渡り北アフリカに渡ったヴァンダル族はドナートゥス派のキリスト教徒と組み、ローマ帝国支配を破ります。そして、他地域では生じなかった難民が多数発生します。 紀元613年、アラビア半島で預言者マホメットが布教を始めます。その後の100年の間はイスラム勢の伸長によりビザンチン帝国は領土を奪われていきます。 紀元636年、シリアがイスラム化。 紀元642年、エジプトがイスラム化。 紀元650年、アラブ人、小アジアに進攻。 紀元670年、北アフリカがイスラム化。 紀元698年、北アフリカのカルタゴがイスラムの前に陥落。 8世紀に入ると、イスラムの勢力は中東から北アフリカ、イベリア半島までをおおう大勢力のなっています。 以後の旧西ローマ帝国領の変化を追っていきます。 |
11月30日 今年も11月末となってしまいました。あと、師走を残すのみです。ようやく、高校時代からの友人達8名での「秋の北陸、金沢・福井への旅」をまとめてみました。「金沢城公園」、「兼六園」、「永平寺」のは紅葉の真っ盛り、北陸新幹線への初乗りを望むメンバーの発案から出発したこの旅ですが、カニカニ満喫の食、北陸の味酒、100万石の歴史そしてこの紅葉、大変お得な旅でした。 旅のページでの残りは、紅葉の高野山です。早速取り掛かる必要があります。「紅葉のお山へ」をアップしました。 何を思ったか?先日から、塩野七生氏の「ローマ人の物語 ローマ世界の終焉」を読み始めています。 4世紀半ばからフン族の侵入に押され、東ゴート族、西ゴート族がローマ帝国領内に侵入します。所謂、ゲルマン民族の大移動です。この後の西ローマ帝国の滅亡を招くものですが、現在問題になっているEU諸国への大量難民との相似性が気になります。ヨーロッパの歴史の原点ではあります その一部、「ローマ人と蛮族」の部分です。 ローマ帝国にとっては最後の1世紀なる紀元5世紀とは、ゲルマン系非ゲルマン系の別なく「蛮族」(barbarus)の重要度が一段と増した時代である。だが、「バルバルス」と総称される蛮族にも3種あった。 第1種、少なくともローマ軍で軍務に就いていた父親の代からローマ帝国との関係が始まり、おそらく父に与えられたローマ市民権と父親を通じて得たローマとの人間関係を活用して、ローマ帝国の内部でキャリアを重ねた蛮族出身者。移民第二世代という言い方をすれば、蛮族第二世代というところか。 第2種、自らの出身部族を離れずにその同胞を統率する部族長でありつづけながら、ローマ帝国とは「同盟部族」の関係で結ばれるケース。同族部族とは、当時は盛んに使われていた「フェデラートゥス」(foederatus)というラテン語の直訳である。 この同盟関係は、ローマ側は帝国領内に彼ら蛮族の居住地域を与え、蛮族側はローマ軍と共闘して、侵入してくる別の蛮族を撃退する、という約束で成り立っている。一種の傭兵関係だから、ローマ側は給料を払う。蛮族側は、居留地と給料を保障される代わりに、ローマ側の他の地域への進攻や略奪はしない、というわけだ。・・・・ 最後の第3種に分類される蛮族だが、彼らにとってのローマ帝国は進攻し略奪する対象でしかない。ゆえにローマとの関係は実に薄い。しかし、侵攻してきて略奪しそれらを持って引き揚げてくれる間はまだ救いがあったが、侵攻してきて荒らしまわった後でも居坐るように変わってからは、ローマ側にとっては大変にむずかしい存在になる。遠くアジアから西進してきたフン族に押し出されたからだが、フン族もまたこの三種に属し、しかも非ゲルマンの蛮族であった。・・・ 宗教上では、第一種は、三位一体派となったカトリック派のキリスト教徒が多く、第二種はアリウス派のキリスト教徒で、ニケーア公会議以降は「異端」と断じられ、第三種はゲルマンであれアジア系であれ「異教徒」であることで共通していました。 4世紀末ころのドナウ河を越えてローマ帝国に侵入しようとしている蛮族は、ブリタニア(イギリス)へはアングロ、サクソンが、ガリア(ドイツ・フランス)へはフランク、ヴァンダル、ブルグンドが、イリリウム(オーストリア、スロベニア、ハンガリー、チェコ)へは東ゴート、フン。 その後のヨーロッパはどうなっていったのでしょうか?追跡はすすめなければ!!! |
2015年11月20日 18日は所要があり、京都市内へでることになりました。「京都国立博物館 琳派展」が今月の23日までとなっていましたので、所要の前に博物館を訪ねることとしました。9時半開館と言うことで、8時過ぎには家を出発、京阪電車七条駅で電車を降り、博物館には9時過ぎには到着しました。雨模様で、決して良い日和ではないにもかかわらず、多数のお客さんが、開館をまっていました。その為か、開館時間が15分繰り上がり、9時15分には入場を始めてくれました。それでも実際に入場できたのは、9時半過ぎでした。観賞後、ロビーでの雰囲気。 博物館を後にしたのは、12時になっていました。 「京を彩る 琳派」と称する今回の展示会は、「琳派誕生400年記念」として開かれています。 「琳派」と耳にして、皆さんが思い浮かべるのはどのようなイメージでしょうか。金地を背景に虚空を駆ける風神雷神の姿でしょうか。それとも、一面に草花が咲き競う楽園のような景色でしょうか。 琳派誕生400年を記念する本展覧会では、7つの章を設けて、琳派の系譜とその魅力を紹介していきます。 パンフレットの始めに書かれているコメントです。 今回も音声ガイドを借り、その解説を聞きながら、展示品の内容を味わうことができました。 重文、国宝の展示物は 「薙刀直志シ刀 無名(名物 骨喰藤四朗)」 「本阿弥光悦作・黒楽茶碗 銘 雨雲」 「俵屋宗達筆 平家納経 表紙・見返絵」 「俵屋宗達筆 蓮池水禽図」 「伝俵屋宗達筆・烏丸光広賛 蔦の細道図屏風」 「俵屋宗達筆 唐獅子図杉戸絵」 「尾形光琳筆 太公望図屏風」 「風神雷神図屏風」の展示は尾形光琳図は展示されていませんでした。日にちの関係で、残念ではありました。 「俵屋宗達 風神雷神図屏風・酒井抱一 風神雷神図屏風・酒井抱一 夏秋草図屏風」 「尾形光琳筆 三十六歌仙図屏風」 「尾形光琳作 八橋蒔絵螺硯箱」 「尾形光琳画 秋草文様小袖」 「尾形乾山作 銹絵染付金銀白彩松波文蓋物」 「深江芦舟筆 蔦の細道図屏風」 |
2015年11月14日 10日、11日の北陸地方への旅は、気の置けない高校時代からの友人達8人での旅であったため、本当に楽しい旅、お酒の飲み過ぎの旅となりました。驚いたことは、金沢駅、金沢城跡、兼六園、そして、永平寺がヒトヒトヒト、人が溢れていたことです。また、この地域も丁度、紅葉の時期、「高野山」、「北信州・生島足島神社・北向観音・前山寺」も、そうであったため、3か所の紅葉を楽しむことができました。これからページを整理していきます。 |
2015年11月6日 好天に恵まれ、マゴッチの梨央、梨心の七五三のお祝いが出来ました。一昨日には鳥取のおじいちゃん、おばあちゃんが鳥取の美味しい地酒と新鮮なお魚を持って、お祝いに駆け付けたくれました。その夕べは皆で本当の前夜祭、マゴッチの為ではなく大人の楽しい時を過ごすことができました。 着飾った二人とお母さんが主役で、二人のお宮参り、梨央の満3歳児の七五三でお詣りしている京都伏見の「御香宮」でのお祓いを受けました。お祝いの御膳として、これも恒例になってしまった「梅の花」で、お豆腐を中心とした美味しいお料理を楽しむことが出来ました。 御膳は「しあわせ膳」、湯葉が主役の以下の献立でした。特に絶品は「海老真丈の湯葉包み揚げ」。 「卯の花煮生野菜添え」 「茶椀蒸し」 「手桶湯葉」 「湯葉豆腐とたぐり湯葉のお造り」 「湯葉の小袖寿司」 「ふく福豆富 二色あん掛け(野菜あんと麻婆あん)」 「豆腐の溶岩焼き」 「海老真丈の湯葉包み揚げ」 「湯葉吸物」 「季節の飯物」 「香の物」 『デザート」 ホント湯葉尽くしでした。 先月24、25日の松本への帰郷、中学の同級会への参加は年間のスケジュールとして参加できる喜びは換えるものがないほどのものです。参加のメンバーはほぼ固まってはいますが、東京からのメンバー、地のメンバーとの一年ぶり再会は、一年、いや60数年が無い、あの時を再現してくれるようです。来年参加できるかは定かではないことです。 25日は幹事さんのご厚意で、北信へのドライブへ連れて行ってくれました。何枚かの写真で紹介します。 24日の松本城1 松本城2 この時のお堀の紅葉 実家の前に引っ越してきている「重要文化財旧開智学校」 25日、8人が2台の車に乗り、8時過ぎにホテルを出発し、松本市の北東のトンネルを抜け、「塩田平」へ向かいます。 4年前に高校時代の仲間との「塩田平」への旅を参考に。 http://www.geocities.jp/isacha666/2011_5_13_siodadairanotabi.htm 9時20分、「生島足島(いくしまたるしま)神社」へ着きました。 朱色の門、拝殿、本殿などがこの神社の力を感じさせます。 朱色の門 朱色の丸橋と碑 やはり朱色の社殿 9時40分、別所温泉「北向山北向観音」へ到着。 「本殿」 北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です。北向観音様は北向に建立され 千手観音様を御本尊として現世利益を願い、また善光寺様は南向きに建立され阿弥陀様を御本尊として未来往生を願います。 「温泉薬師瑠璃殿」 この温泉薬師は伝説には行基菩薩の創建、慈覚大師の再建といわれますが、以前の薬師堂の位置は今の「大師湯」の西隣りであったようです。 「愛染かつら」 樹齢1200年の老木で天長の昔、常楽寺の火坑出現の観世音菩薩が影向(ようごう=神仏が一時姿を現すこと)した霊木といわれています。 「安楽寺」(鎌倉時代の安楽寺は北条氏の庇護を得て栄えたが、室町時代以降衰退し、古い建物は八角三重塔を残すのみである。室町時代、天正8年(1580年)頃、高山順京(こうざんじゅんきょう)によって再興され、以後曹洞宗寺院となっている。)へ。 安楽寺本堂 本堂内の佇まい 国宝八角三重塔3景 1) 2) 3) 平成23年には、約60年ぶりに屋根(柿葺 こけらぶき)の全面葺き替え、及び約90年ぶりに相輪(塔頭部)の補修が行われました。 10時45分、「真言宗智山派 獨股山前山寺(どっこさんぜんさんじ)」に着きました。 「本堂」 「三重塔」(未完成の完成の搭)(重文) 「庫裏」で「くりおはぎ 前山寺に代々伝わる手作りのくるみおはぎ。香り高い鬼ぐるみで作ったタレでいただく。向付は、「梅のしそ巻き」と香の物 」を頂きました。幹事のA氏は予約なしに良く食べられたと自画自賛。 「庫裏」から庫裏のお庭と塩田平を眺められます。 庫裏前の風情ある紅葉の景 帰りに現在の季節感を味わえました。 お昼は「鹿教湯温泉」で、10割蕎麦を食し、松本駅まで送ってもらいました。幹事さんにはお礼の申しようがありません、 |
2015年11月4日 先月21日の「開創1200年の高野山」へ嫁さんとバスで、24日は中学校の同級会で松本へ、25日は幹事さんのご厚意で、北信、塩田平、北向観音へ仲間と行くことができました。このページへのアップはなかなか進まないでいます。 まず、「高野山への旅」の写真の取り扱いは、「8月10日、11日 真夏の高野山へ」のアップを考えて、今回持参した望遠レンズで撮った紅葉の写真を中心にしたそのページへアップとしたいと考えています。 |
2015年10月23日 21日は、弘法大師さんの縁日でした。開創1200年の最中でもあり、大変な賑わいでした。詳細は、後日に、松本から戻った後となります。 |
2015年10月19日 10日ぶりの、更新です。季節は良くなり、パソコンの前に座ることには抵抗がなくなっています。日程調整のすえ、21日には、嫁さんと「高野山開創1200年記念大法会 歴史的御開帳めぐりと阪急交通社限定・特別開帳」のバスツアーに参加することになっています。 8月10日、11日にはジジ連3人で宿坊泊まりの高野山参詣をしています。この旅行の際、嫁さんが高野山について大変興味を持っていることに気が付いたので、秋の記念大法会のこの時期に再度、お山を参詣することとしました。お天気も良いようですから楽しみです。 週末の24日、25日は定例の中学の同級会で松本へ帰ります。今年の紅葉はどうなのか?こちらも楽しみです。 |
2015年9月30日 今年は、先日、松本の義兄から頂戴した「500mm F8 Refrex」の望遠レンズを使ったSONYカメラでの撮影がどのようになるか?が楽しみです。念のため、ニコンの通常、望遠、カシオのHS、それと三脚を持っていくことになります。 お天気が良いように!!!!!と祈念しています。 21日には、嫁さんと高野山へのバスツアー、24日、25日は、例年の通り、松本へ中学校の同級会に出かけます。 「真言密教と弘法大師空海」のページはいよいよ力が入ってきています。 |
2015年9月20日 いつの間にか秋です。このシルバーウィークは日本中が秋空となるようです。この晴天は「10月10日スポーツの日」の近辺のお天気とそっくりです。気候に関しては今年は少し前倒しなのでしょうか? その連休前の19日、「集団的自衛権使用をを可能にする安全保障法制」が参院で可決、成立しました。 この国は、国の安全保障に関することで何故こんなに大騒ぎになるのでしょうか?不思議でなりません。こんな大騒ぎではなく、真摯にこの国の安全について考えたいものです。 弘法大師空海の密教について考えています。ページの進み具合は遅々としています。 |
2015年9月5日 9月に入り、子供たちも2学期が始まり、お客さんも減少していると想像し、京都市美術館で開催されている「ルーブル美術館展 日常を描くー風俗画にみるヨーロッパ絵画の神髄」を鑑賞に出かけました。昼頃からは雨との予報が出ていますし、やはり、早い方がゆっくりと鑑賞できると考え、8時前には家を出発しました。 9時11分、美術館手前の「琵琶湖疏水」を渡り、 正面に平安神宮の朱色の大鳥居を見ながら、 右手にある「京都市美術館」へ入ります。 「ルーブル展の大きな幡が下げられています」 もちろんまだお客さんはまばらでしたが、帰るころは満員の混雑でした。 今回の「ルーブル美術館展」の目玉がフェルメールの「天文学者」ということで、全体に小粒な絵画の展示でしたが、それでも、十分に満足させられる展示内容でした。流石、ルーブルと言わざるをえません。 「今回のポスター」 「フェルメール 天文学者 1668年」(光の使い方にフェルメールの特色が) 「ティツィアーノ 鏡の前の女 1515年頃」(当時の美人の特徴をすべて描き出している) 「クエンティン・マセイス 両替商とその妻 1514年」 「フランソワ・ブーシェ オダリスク 1745年(?)」(画家の妻か娼婦か) 「レンブラント 聖家族または指物師の家族 1640年」(キリストの家族を指物師の家族に化体させています) 「ジャン・メオン・シャルダン 猿の画家 1740年頃(当時の画家を風刺している?) ジャン=バスト・バディスト・グルーズ 割れた水瓶 1771年(割れた水瓶のような少女の現実?」 以上はポスターに載せられている油絵ですが、これらは全て有料で貸しだされている解説レコーダーに載せれれています。2時間以上の鑑賞で、若干の疲れを感じて、美術館を後にします。 11時42分、日蓮宗「本山 妙傳寺(日蓮上人御分骨之道場)」 の横を通ります。 11時50分、「鴨川二条橋詰め」につきます。 雨の為少し水流が濁っています。 雨が降り出していますが、2冊目の西国観音霊場納経帖の空きの19番「革堂行願寺」を目指して歩いていると、「がんこ寿司の高瀬川二条苑」を見つけました。時間も時間ですので、「お昼」をすることにしました。 メニューの中に「マツタケの土瓶蒸し」、時期柄から初物を食したくなり、セットメニューに土瓶蒸しを追加しました。生ビールとお酒を2本飲み、お土産に「さば寿司」を持ち帰るとチョット高めのお御勘定なりました。 見事なお庭を観賞しながらの食事ですから、良しとすべきかもしれません。 14時、雨の中を「革堂(こうどう)行願寺」をお詣り(写真に雨が写っています)し、帰路に着きました。やや、お疲れ!!! |
2015年8月31日 「西国三十三ヵ所観音霊場への旅」と1「冊の納経帖の満願を記念するページ」の完成が間近になっています。続いて「高野山への旅の追加部分」、「弘法大師空海の密教とは?」という部分も構想が出来つつあります。 また、9月3日には京都市美術館で開かれている「ルーブル美術館展」へ嫁さんと行こうと考えています。日にち設定は、相変わらずマゴッチのお世話が必要な日か否かに懸っています。 |
2015年8月23日 高野山への旅をアップしました。弘法大師空海の凄さを今一度感じさせてくれるページを考えていますが、とりあえず、西国観音霊場三十三ヵ所の満願のページを完成させることが先決です。 台風15号の接近が心配されていますが、気候は秋に向かっているようです。 |
2015年8月13日 今日からお盆に入ります。 10日、11日は「高野山」へ行ってきました。宿坊に泊まるのは初めての経験で、通常のホテルへの宿泊とはもちろん違っていますが、昔、旅籠へ泊ることを考えれば、待遇は格段に良くなっているのでしょう。朝6時半からの「朝のお勤め」は新鮮でした。 この有難い経験は、計画し、行き帰りの車を運転してくれた幹事のS氏、また、高野山にお墓を持っている同行のI氏の案内のお蔭と感謝!!!感謝!!!!!です。 ページは観音正寺、華厳寺の前に仕上げる予定です。 ここで、旅の途中で話に出た「真言宗の各派」について 京都の「東寺」を始め、いくつかある真言宗のお寺は空海の教えを忠実に守っている「古義真言宗」で、これに対して「新義真言宗」は京都東山七条にある「智積院」を総本山とする智山派、大和長谷寺を総本山とする豊山派、新義真言宗発祥の地である根来寺を総本山とする派の3派があります。 |
2015年8月9日 今年はホント、猛暑です。ヘロヘロの毎日ですが、7日は「西国33ヵ所観音霊場の旅」の一応の最終章、「32番観音正寺」、「33番谷汲山華厳寺」の2ヶ寺のお詣りを済ませてきました。 前にも書いていますが、20年(平成7年6月10日青岸渡寺の御記帳)がかりで、1冊の納経帖への御記帳が完了したわけです。まずは、ホッとしています。2冊目の満願まではまだしばらく時間がかかりそうです。 先日、長命寺へのお詣りの折には、さんざんに「観音正寺」への歩いてのお詣りのシンドさを強調され、今日の先達さんからもこの日の暑さから、その点を強調されました。その為か、37名のお仲間のなかで、表参道の石段を歩いて上がる勇気あるお仲間は私を含め、5名でした。その中で、差のない2番手(意識して先頭を譲りました)での石段完歩、汗は滝のように流れでていました。 石段の手すりに、33枚のことわざが書かれた木札が下げられています。シンドイ石段の登りですので、2つ3つを読むのが精一杯でした。本堂でその冊子を販売していましたので、喜んでお土産としました。 その序文を紹介します。 観音正寺 ことわざの道 先人はたくさんの名言、名句を残し後世の人々に言い伝え、現在の我々に希望と反省を与えてくれています。3歳の子供が理解できても、80歳になる老人がなかなか実行できないのがこの本に挙げられている容易で解りやすい言葉です。この言葉は自分の心を豊かにし、人々に希望と安らぎを与えてくれます。また、この言葉は観音様の慈悲の心を実践できる言葉でもあります。ですから、この本をいつも携帯し子供達や友人に言い伝え、菩薩の行を実践し、また自分の生きる糧としていただいたならば幸いです。 山主 合掌 1、人の一生に厄年はない 躍進の「やく」と考えよ ・・・・・・・ 33、昨日より今日 今日より明日 すべてはページで。 詳しいページを早く仕上げたいのですが、明日、明後日はジジ連のお仲間と「高野山」へのお詣りです。 |
2015年7月27日 先週の月曜日、20日は不肖私の73歳の誕生日でした。19日には恒例の娘夫婦と小学4年生になった孫の美緒ちゃん、息子夫婦と孫の5歳梨央ちゃん、やはり2歳誕生月の梨心ちゃんを含め9人での大誕生会が開かれました。お酒は、父の品プレゼントとして息子夫婦が贈ってくれた、あの「獺祭(だっさい)」の1升瓶でした。宴会で残った「獺祭」は3日間ほど私の晩酌となってくれました。 ところで昨日今日、「滋賀県で県名を変えるべきかどうか」のアンケート調査の結果、「滋賀県で良しとする」回答が多く、無事、「滋賀県の県名が継続されることになった」というニュースが報道されていました。 ところで、「滋賀県」という県名はなぜ決まったかの疑問が湧きます。これは他の県名でも同じ疑問が生じていることです。それぞれの都道府県で、その住人がその名称に不満を持っていることが十分に感じられるからです。 これについて、先日から読んでいる谷川彰英氏の「知らなかった!都道府県名の由来」が答えを出してくれています。 「現在の滋賀県は旧近江国を県域として明治5年(1873)9月28日に成立した。・・・「滋賀県」としたのは、大津の地が古来「滋賀郡」だが、この「滋賀郡」というのはやはり近江国では筆頭ともいうべき由来を持つ郡名である。・・・ 現在は「滋賀」と書いているが、これ以外にも「志賀」「志我」「斯我」など多様である。いずれも「シガ」と読んでいる。・・・ ということでの「滋賀県」の県名の由来は判明しました。 記述ではさらに、滋賀県の『安曇川」、長野県の「安曇野市」など、過って、古来の海洋民族「安曇族」が住んだところで、ルーツは「安曇族が活躍した北九州の「志賀島」から来た名称とも考えられる。として、滋賀郡の名称のルーツを想像しています。面白い!!! |
2015年7月24日 梅雨明けが発表されたとたんに、大雨がふりました。昨日まではその後遺症で、豪雨が残っていました。今日は、本当の梅雨明けの天気となってくれました。 14日にお詣りできた「30番札所宝願寺」、「31番札所長命寺」のページをアップしました。 8月7日の「32番観音正寺」、「33番華厳寺」のお詣りにより、20年の期間待った満願を果たすことができそうです。 |
2015年7月15日 13日、お中元の手配で、何時ものように京都高島屋へ出向きました。猛烈な暑さでしたが、四条通は「祇園祭」に突入しています。山鉾巡行は17日ですが、既に御祭りは佳境に入っているのです。 四条通は車道を減らし、歩道を広くしています。歩く者にとっては確かに良き改善と思われるのですが、車にとっては大変なことになっています。 車道を一部減らしています。 長刀鉾の位置に来ました。 縁起物を売っています。確か「ちまき」だったと思います。 後援会社の提灯が並んでします。 毎年山鉾巡行の先頭を切る「長刀鉾」です。 昨日、14日、西国33ヵ所観音霊場30番竹生島宝厳寺(ほうがんじ)、31番長命寺へのお詣りをしてきました。琵琶湖に浮かぶ竹生島へは船で30分懸りますし、長命寺はちょっと不便な場所にあるため、阪急トラピックスさんの旅を利用しています。ページはゆっくりと整えていきます。来月、7日の32番観音正寺、33番華厳寺のお詣りで、20年懸った1冊の納経帖は満願となります。 |
2015年7月5日 前回の更新から半月です。この間、6月24日、運転免許の更新に行ってきました。70歳以上での高齢者免許更新はもちろん始めてのものです。既に近くの運転免許教習所での研修は受けており、修了証書も頂戴しています。従って、新たな教習は無く、あっという間に終了しました。 帰るバスの時間を確認したところ、40分ほどバスがきません。以前も歩いたことがありますが、今一度乗車可能な駅まで歩くこととしました。川を渡り、東へ歩けば近鉄のどこかの駅に着くはずです。10時過ぎに運転試験場を出発。 10時20分、「オヤ!!!」と思わず声が出る神社に出会いました。「羽束師坐高御産日神社(はつかしにますたかみむすひじんじゃ)」です。 道沿いの碑 派束師川の道標 鳥居 拝殿 本殿 今回は、京都市伏見区羽束師を代表する神社として、羽束師神社(はつかしじんじゃ 羽束師坐高産日神社)を採り上げます。 京都在住の方なら、羽束師という地名を知らなくても、京都府運転免許試験場がある地域といえば、ほとんどの人がご存知かと思います。羽束師神社は、運転免許試験場から直線で約六百メートル北、西羽束師川に沿った所にある神社で、遠くからでも鎮守の森が望まれ、地域のシンボルとして広く親まれています。それ程広い社域ではありませんが、京都市内でも最古の神社の一つとされ、歴史的にも注目すべき神社です。 周辺が今のように開発されなければ、大変由緒ある神社であり、より威厳のある風景となっていたと思われます。 10時40分、「桂川」を渡ります。 桂川上流を眺めます。 10時50分、「田中神社」が目に入りました。 拝殿 神社由緒です。 11時14分、オヤ、この景色は伏見に入ったのかな? 昨年春に2度訪れ、舟で回った思い出の景色です。 A) B) C) D) E) F) 11時26分、「寺田屋」前を過ぎます。 「竜馬通り」 11時35分、「伏見大手通り」に行きつきました。 1時間半の暑い中での歩き旅でしたが、伏見近辺の地理が頭に入り、由緒ある神社にもめぐり合うことができました。 7月14日は、西国33ヵ所観音霊場巡り 「三十番宝厳寺」、「三十一番長命寺」へのバス旅です。天気が心配です。また、8月は「三十二番観音正寺」、「三十三番谷汲山華厳寺」を巡り、一応の満願打ち止めを目指します。 |
2015年6月17日 いつの間にか、更新の間隔が半月を越えてしましました。その間、5日、6日は愉快な仲間、ジジ連5人での香川県、「ホテルレオマの森」、「金比羅さん」への旅が出来ました。永久幹事Sさんのお世話で楽しんできました。7日、8日は間もなく2歳になるマゴッチ梨心ちゃんの発熱で、なかなか更新が出来ず、ページ作りが遅れてしまいました。 15日には「西国33か所観音霊場」、「第35番・播州清水寺」、「第24番・中山寺」へのお詣りに行ってきました。 JR西日本の人身事故によりダイヤが乱れ、相野駅からのバスに接続できず、タクシーのお世話になることになりました。この時期ですから、清水寺での紫陽花が楽しみでしたが、標高が高いためか?境内の紫陽花畑は全く咲いていませんでした。一方、中山寺では見事な紫陽花を愛でることが出来ました。 2冊の納経帳への記帳をお願いしていますが、1冊目はあと「第30番・宝厳寺」、「第32番・観音正寺」、「第33番・華厳寺」を残すのみとなりました。この3寺へはバスツアーで8月までには完結したいと思っています。 今、旅のページを懸命に作っています。 |
2015年5月31日 ホント速い!!!今日で、5月は終わりです。齢を取ると・・・と言う言い草はそれこそホントみたい!!!!! 23日土曜日に高校の関西同期会がグランヴィア大阪であり、いつもは2テーブル以上の参加者がいるのですが、今年は1つの円テーブルにおさまる9人の参加でした。しかも、男子だけ。そんな環境は、話好きなメンバーにとってはうってつけ、話が弾むのは当然のことでした。昨年、奥方を突然亡くした話をしたいとして、三重から参加してくれたメンバーの話から話は進みました。 そんなことから、ワインを飲み過ぎ、2次会をカフェでした後、家まで帰るまでの記憶は飛んでいました。 翌日から4日間ほど、下痢が続きました。ワインの飲み過ぎが原因なのか、マゴッチの風邪を貰ったためかは定かではありません。息子も同じような症状で苦しんでいました。大いに体力低下を招いてしまったようです。パソコンの前に座ることさえシンドイ状態が続きました。 家のアプローチのサツキが咲き始めました。 サツキ17日、 サツキ18日、 今年の暑さは並大抵ではないため、いちにちで蕾が花に。 近くに置かれていた細い茎に丸い球がついていた鉢がありました。球がはじけて花が着き始めました。アリウムというユリ(ネギ)科の花でした。 アリウム1 アリウム2 ちゃんと咲けば丸い球のようになるみたいですが。 シンシアリー氏の2冊、「沖縄の不都合な真実」についての本は再読中です。なかなかまとまってくれません。 |
2015年5月18日 「大阪都構想」が実現できませんでした。大変残念なことです。大阪府と大阪市との目に余る二重行政を無くすことを目指した都構想が出発点であったように思うのですが、いつのまにか国政の「維新の党」の出現により、本来の目的が不透明になり、田舎芝居となってしまったことが、最大の原因なのではないでしょうか?地方創生の旗印はどうなったのでしょうか?東京一極集中を考えると、大阪も立派な地方なのに!!!維新に対抗するためなんと、自民、民社、公明、共産、社民が一つ旗のもとに結集する姿は、自己保身の亡者の集まりとしか思えなくなります。憤りよりも寂しさを感じるのは私だけではないと思うのですが。 「西国三十三か所観音霊場 14番札所 園城寺(三井寺)」をまとめました。 残りは「中山寺」、「播州清水寺」、「竹生島宝厳寺」、「観音正寺」、「谷汲山華厳寺」の5寺となりました。 |
2015年5月9日 「家の花々」をアップしました。嫁さん丹精の花々の最盛期の姿をカメラに収めることと、カメラによって色相が違うことを確認するためです。 次は、西国観音霊場14番札所、「園城寺(三井寺)」に作成に入ります。シンシアリー氏の2冊の本は読みかえしています。詳細は後日となります。 |
2015年5月5日 「子供の日」です。恒例の報道で、子供の数が相変わらず減少傾向が続いているというということを知らせています。ではどうする必要があるのかという報道は相変わらず有りません。折角の「子供の日」なのですが。 子供を産み、育てるということはその家族に経済上の安心感が必要なことは言うまでもありません。40年前の自分を考えればその通りです。正社員が極度に減少し、非正規社員が増加したための経済上の理由が最も大きな要素であることを考えると、国の一層の経済政策が解決策の大きな要素となると思うのですが。 3日、マゴッチ達がお母さんの生家に帰っていることの空白と、好天に恵まれ、念願であった「西国33ヵ所観音霊場第14番札所 園城寺(三井寺)」へお詣りに行ってきました。13番札所の「石山寺」へは3回ほど行っていますが、「三井寺」は始めてのことです。 京阪電鉄三井寺駅からお寺に向かう道の横には川が流れています。そこに「閘門(こうもん)」を見つけた時はビックリしました。アッ!!!これは琵琶湖疎水(京都疎水)の滋賀県側の入水場?!!!!!嬉しい発見でした。 ページは別に作りますが、これが、大津第一トンネル入り口です。 読後感を整理しなければならない本が増えています。「佐藤優氏・宮崎正弘氏の対談集」の一部、印象に残った部分のみ、以下にとり出してみます。シンシアリー氏の本はより詳しく、また、評判に惹かれて購入した「沖縄の不都合な真実」についても触れたいと考えています。 精神力は外からやってくるものではない − 佐藤 宮崎さんのおっしゃる通り、重要なのは精神力の回復です。戦力や国力というのは、精神力と物質力を掛け合わせたものです。精神力がゼロだったら、どんなに物質力を極大にしてもゼロになってしまいます。 かって右翼、保守派の人たちは、何々が怖いぞという形で外部からの脅威を煽ることで精神力が強化できると考えた。 しかし、それは精神力とは関係がありません。精神力は外からやってくるものではありません。 最後に残るのは「真正保守」だけ − 宮崎 精神力の内在世については、70年安保のときを振り返ってみればよくわかります。 全共闘や全学連に対する反発力で、右派、保守派の運動も瞬間的に大きくなる。反共運動というものは、基本的にそういう性格があります。 ところが一旦、嵐が過ぎ去ると、保守派は「真正保守」「体制保守」「生活保守」の三つに分裂してしまいました。 体制保守というのは要するに自民党支持。敵戦力が弱くなり、左翼が縮んでしまったら、もう自分たちはコミットすらしない。生活保守というのは、自分たちの日々の生活さえ守れたらいい。もし、石を投げられて家の窓を割られたら、誰がやったんだ、あの全共闘が悪いと、こういう心情的反発をする人たちです。結局、残るものは何かと言ったら、真正保守しかありません。つまり、思想です。私は、これを「真正保守」というより、「思想保守」と言い換えたい。 日本人とは何なのかを、まず考えること − 佐藤 宮崎さんからお叱りを受けるかもしれませんが、私は憲法改正に反対です。 現行憲法に問題があることは間違いありませんが、まずやらなければならないことは国体論についてきちんと考え、われわれの見えないところにある憲法とは何なのかを突き詰めることです。 いま、憲法改正を唱えている人たちは、「日本人とは、何なのか?」という根本の議論がないところで、戦争が起きたらどういうふうにして国際法的に対処すればいいかという皮相的な論理の合わせる形で憲法を構築しようとしているようにしか見えません。しかも自民党ですら、「国民投票であなたが憲法を作ることができます」などと言っています。これはとんでもない間違いで、わが国の憲法というのは、基本において「欽定憲法」なのです。ですから憲法というものは構築するものではなくて、発見するものなのです。 そもそも、なぜ天皇が必要なのかという議論をする時点で、もうおかしくなっています。私は尊王思想を持っています。なぜかと聞かれても、よく説明できません。大事なことは、そういう感覚を持てるかどうかだと思います。たとえはロシアの怖さというのは、日本ではあまり紹介されていませんが、「ルスコスチ」という特有のロシア人性を持っていることです。それがエリートにはある。また大衆の側でも、エリートがそういうのもを持って本当に動いているか、自分たちのことを本当に考えて働いている政治家かどうかということを見抜く力があります。その関係が維持されている限りにおいて、ロシアは崩れません。 ロシア VS チェチェンの歴史的背景 − 佐藤 ユーラシア主義のもとでは、ロシア正教とイスラムは兄弟宗教という考え方です。 正教から見ると、カトリシズムのほうがずうっと遠い。プーチンが大統領時代に強調しましたが、イスラムには外来のイスラムと土着のイスラムがある。スーフィズムは土着で、ワッハビズムは外来である。キリスト教にも土着のキリスト教と外来のキリスト教がある。ロシア正教は土着、カトリシズムは外来。だから外来のキリスト教よりは、土着のイスラムのほうがロシア正教に近いというのがロシア人の感覚です。 では、なぜチェチェンで戦うのかという疑問が出てきますが、チェチェンの中であくまでもロシアと戦っていくと主張しているのは、コーカサス戦争のときの一度、中東に出た人たちの末裔で、その人たちはハンバリー派、すなわちワッハビズム系です。 チェチェンのことで日本人あまり知られていないことに、「血の掟」というものであります。彼らは7代前までの父親の名前はもちろん、どこで生まれ、どこで死んだかということを覚えている。仮殺された場合は、誰に殺されて、誰に仇討ちをしないといけないかということを記憶しています。 コーカサス地域では、1760年から1864,5年ぐらいまで約100年以上にわたってコーカサス戦争が展開されました。その結果、チェチェンはロシアによって平定され、おそらく9割ぐらいのチェチェン人が殺されています。 そのロシアの支配を潔しとせず、オスマン帝国に逃げたチェチェン人たちがいて、多くはトルコ、ヨルダン、サウジアラビアなどに移り住んでいます。トルコのチェチェン人はチュルケス人も含めてですが、約150万人いる。さらにアラブのチェチェン人が約100万人といわれています。それに比べると、ロシア本国のチェチェン人は100万人しかいません。・・・ 私がモスクワにいた当時、在留邦人はモスクワに1600人ぐらいいたと思いますが、在留ヨルダン人が5000人いました。全員、チェチェン人で、マフィアです。チェチェン紛争が起きて、チェチェンの傭兵などを捕えると、みんながヨルダンのパスポートを持っている。ヨルダンの領事担当はロシア政府と接触して、本国に帰還させたりしないといけない。ですからチェチェンに関する情報は、ヨルダン大使館に行くというと山ほど手に入りました。 がんばれ、真正保守 − 佐藤 これは左翼や市民派の連中にも言っていることですが、中途半端な立場で地方参政権を求めるような外国人の申し出は突き返しなさい、と。帰化要件の緩和を言うのは構いません。 もし日本人になりたいというのなら、肌の色は違っていてもいい。たとえば鈴木宗男さんの秘書をやっていたコンゴ民主共和国のムルアカさんは、日本に帰化しています。黒人でも、日本人であってもまったく構わない。 ところが中途半端な立場にいながら、税金を払っているのに参政権がないのはおかしいという議論は違います。国家というものは、ゲームのルールという観点からわかりやすくなくてはいけない。中途半端はダメです。 その点で言えば、私は皇統を女帝・女系などと分けて議論する必要はないと考えています。 どうしてかというと、結局、女帝論が出てくる根っこにあるのは人権の思想です。女帝を認めないということは、ジェンダーの観点から見て人権侵害だという素朴な議論だと思います。神々の世界と人間の世界を入り口で分けて、それらの世界には一切触らないというのが正しい。 この前、竹田恒泰さんが『正論』で暫定的な護憲論を展開していました。まず、憲法第一条の象徴天皇は変えないほうがいい、と。象徴であることで、ありとあらゆるものを押し込むことができる。国家元首にしてしまうと、間口が狭くなる。さらに『古事記』や『日本書記』を誰も読んでいない状況で、若い国会議員たちが憲法改正をしても、よいものが生まれる保証がない。だから憲法改正反対だと言っていますが、あれはレトリックでも何でもなく、本当のことだと思うし、私も全面的に賛成です。 やはり、国体論をきちんとやらなければいけません。日本の国家を強化したいと思っている右翼、保守派の人たちが、結果として足元から日本の国家を崩すようなことをやっているとしたら、これが一番の悲劇です。・・・ 特異な経歴を持つ、佐藤優氏の舌鋒はともすれば激しすぎることはありますが、ロシアを中心とした情報、その分析には感心することが多くあります。我々が生きてきた戦後70年を再度勉強し直し、我々の孫達の生きる日本がどうあるべきかを考えなければならないようです。 |
2015年4月25日 漸く、7日、8日の仲間達との、京都の桜、京料理を堪能する旅をアップすることが出来ました。 その間、図書館から借り出した、シンシアリー氏の「恥韓論(扶桑社新書)」を読み、この本と、その続編「黒韓史」をアマゾンに注文しました。その後、図書館からは「佐藤優氏・宮崎正弘氏の対談集 ロシア・中国・北朝鮮 猛毒国家に囲まれた日本」を読み進め、また、「佐藤優氏・手嶋龍一氏の対談 動乱のインテリジェンス」を借り出しています。後日、まとめをアップしたいと思っています。さらに、同じ京田辺市に住む友達との飲み会を22日に行う等、結構時間をやりくりしています。 |
2015年4月13日 8人での京都の桜と京料理を楽しむ会が終わり、昨日、友人達への写真をページにしてアップしました。各人からは受領のメールが届き、ひと安心したところです。 次には、桜、京料理の写真整理をし、普通の形でページをアップする作業が待っています。腰の痛みは徐々に治まって来ており、パソコン作業が楽になりました。 |
2015年4月5日 腰痛に悩まされている間に、桜の花も最盛期を過ぎつつあります。 7日、8日と高校時代の友人たち8人での京都の桜とミシュラン三ツ星の「菊乃井本店」のお料理を楽しむ会が迫っていることも考え、生まれて始めて整形外科医の診療を受診し、大量の薬を頂戴してきました。その甲斐あってか?座った状態から立ち上がる時の激痛(この点でも若干の改善があります)が残っているだけの状態まで改善しています。そこで、ようやくページ更新が可能となりました。 今年の桜は全体的に1週間程度の早まっていますし、天気の具合は今一の予報ですが、「花より団子」と考えてもらえばきっと楽しい時となることは間違いないと信じています。 8日は、多くある京都の神社仏閣のなかで、なぜか、外国人には最も人気があるという「伏見稲荷大社」を訪ね、お昼は、伏見の酒造が経営する「鳥せい」で反省会をすることとしています。心配なのはお天気だけですね!!!!! |
2015年3月22日 珍しく昨日から腰痛が始まってしまい、折角大阪梅林の満開の梅を紹介するページを作る作業が苦しくなってしまいました。それでも、チョットだけでもと以下の部分を追加し、休憩に入らざるを得なくなっています。 撮ってきた梅の花の写真を整理するために梅の木の名称を確認したいと思い、「大阪城公園 梅林で見られるウメの品種一覧(2006.2月調査)をチェックしました。その品数の多さに仰天、なんと約100種なのです。 さらに疑問が湧いたのは、なぜ、これほど多くの品種の名称があるのか?という疑問です。 ウィキペディアによると、「梅の種類は300以上あり、野梅系、紅梅系、豊後系の3種の系統に分類される」とのことなのです。 豊後(ぶんご):淡紅色の花で一重と八重がある、大実品種、観賞用としても植えられる 白加賀(しろかが):白花、大実品種、繊維分が少ない 古城 (こじろ) :白花、大実、梅酒やジュース向きとされる。 などの説明があります。また梅の英語名は「Japanese apricot 」(近縁種のアンズを意味するものではなく、スモモ亜種としての名称。) 英名として「Chinese Plam」も挙げられているそうです。 20種の名前と写真をセットする作業は結構時間を食ってしまいます。「大阪城梅林2」です。 |
2015年3月13日 ジジ連京橋会の再度の集まりを幹事のS氏が設定してくれました。一つは、先日途中で調子を崩してしまったI氏のその後の復調を確認すること、いま一つは、先日は嫁さんと友人夫婦での沖縄旅行の土産話をT氏から聞くこと、そして、カラオケです。 折角の機会なので、満開が予想される「大阪城梅林」の探索を実行しました。本当は、新規に購入したデジカメの調子を確かめたかったのが主目的だったかもしれません。 3つの目的は充分に果たすことが出来ました。 2月21日のこの欄で触れたようにオリンパスのシャッター速度がどうしても不満なので、「シャッター速度が満足できる機種」ということで、ネットでチェックしたところ、カシオの「Exilim EX」シリーズが目に入りました。そこで、「EX−ZR500」をアマゾンに発注し入手していたのです。(3月1日に発注、2日には商品到着、その後にフィルターフィルム、充電器、バッテリーも購入)) 昨日は好天気、梅は満開、その梅を求めて多くの方々が梅林に押し寄せていました。もちろん、周りからは外国語が多く聞こえてきましたが、さすがに絶好の日和をもとめての日本人も敗けてはいませんでした。 2,3写真を紹介し、本番のページを早目にまとめます。カメラのシャッター速度は満足いくものでした。また、風景の撮影は問題なさそうです。 1) 梅林を俯瞰する高台から 2) 満開の梅の花を楽しむ方々 3) 大阪城と見事な紅梅 |
2015年3月6日 昨日、駐韓アメリカ大使が刃物で襲われ、後遺症が心配される80針も縫う重傷を負われました。犯人は過去に駐韓日本大使を襲撃する過去があり、北朝鮮との関連も明らかな人物であったようです。そんな人物が簡単に、「国の顔である大使」に近づき、犯行が可能な国は存在するのでしょうか?昔は開戦の理由にもなるほどの重大事件です。先日の産経新聞社前支社長の裁判所前での不法な抗議行為に対する警察の対応の不思議さにも共通するものがあります。本当に大事にしなくてはならない事柄を忘れてしまっている様子は昨年のフェリーの沈没事件に示されています。 母国アメリカはこれに対してどのような行動にでるのでようか? 偶然ですが、ちょうど、櫻井よしこ氏の「ニッポンの懸案」という小学館新書の対談集を読んでいました。 まず、洪(ホン・ヒョン)氏(元駐日韓国大使館公使・現桜美林大学客員教授)との対談の中で 櫻井 遡及法というのは、新しく法律をつくり、それを過去に遡って適用するものですね。これは国際法では認められていません。 洪 あり得ないことです。これを行ったのが、金泳三大統領と金大中大統領。日本ではもっとも「民主的」政治家だと言われた彼らが、憲法を破壊する法律をつくったのです。 特に問題なには、彼らが遡及法によって過去に「民主化運動」をした人々の名誉を回復させてたことです。「民主化運動」というと良いものに聞こえますが、核心部は「革命運動」のことです。しなわち、遡及法によって北側の対南工作を無罪にしたのです。日本人の原敕晁(ただあき)さんを拉致したことで知られる辛光洙(しんぐぁんす)も堂々たる革命家なのです。 櫻井 辛光洙は日本人の原敕晁さんを北朝鮮に拉致し、彼のパスポートを利用して身分を偽り、何度も韓国に入っていたわけですね。韓国に入ったと時に韓国の情報部に逮捕され、死刑囚となりました。ですが、刑務所にいた辛光洙を金大中大統領が釈放しました。その後、北朝鮮に帰った辛光洙は英雄として大事にされています。 洪 1989年には、日本の国会議員たち百数十人も辛光洙など在日韓国人政治犯の釈放を求める嘆願書を韓国大統領に送りましたね。 櫻井 菅直人氏や元法務大臣千葉景子氏など、後の民主党の人々が署名しました。 洪 つまり、韓国で行われた冷戦は、日本国内でも同時に行われていたわけです。最近も、北のスパイだった在日の早稲田大学客員教授の有罪判決が無罪になった例があります。・・・この人はその後、1991年に「汎民連」の海外本部共同事務局次長になり、2013年のソウル高裁での再審で無罪になったのです。・・・この汎民連というのは北朝鮮の団体「祖国統一汎民族連合」のことで、この名は金正日がつけたものです。 大使は「民族和解協力汎国民協議会主催の朝食講演会」に参加している最中のことのようですが、この協議会は「祖国統一汎民族連合」との関連はないのでしょうか? |
2015年2月21日 19日、ジジ連京橋会が久しぶりに開かれました。11時に京橋駅宝くじ売り場前に集まり、「大阪城梅林」へ向かいました。梅林は時期としてはチョット早かったかもしれません、でも、最近の観光地はどこもそうですが、外人の方々が多く、寒さの中でも盛況であることは歓迎すべきことなのでしょうか? 残念ながら、梅の最盛シーズンにはチョット早かったようです。 1) 大阪城梅林入り口 2) お城と梅 @ 3) お城と梅 A 4) 大阪城を遠くからアップしてみました。 写真集として別ページを作ります。 今回のカメラはニコンの一眼レフではなく、オリンパスの24倍ズーム付きデジタルを主として使用しました。パソコンへの移動後の風景写真はまあまあですが、花などの近接撮影時点での焦点があいにくいこと、撮影後の機内処理に時間が掛かることなど、不満があります。価格が1万円少しですからしょうがないか?十二、三年前(2003年)に最初に購入したチャンとしたデジカメは、オリンパスの10倍ズームで、4万円台だったと記憶しており、十分の品質を備えていました。その後、キャノンの一眼レフ、ニコンの一眼レフを使用していますが、シャッター速度が速く、瞬時に撮影可能なことが最大の特色と言えるでしょう。過去のことを言えば、26歳頃、キャノンのFT(FTB?)という一眼レフのはしりを入手したことがカメラとの出会いだったと思います。 大阪城梅林では、ソニーの小型サイバーショットも人物撮影では一部使用しました。 園内のお休み処で一杯、熱燗をいただき、さらに園内を楽しみました。 お昼は4人の希望で、「ギョウザ」で「ビール」をということで、京橋王将へ。ギョウザその他をつまみに中ジョッキを2杯のみ、ボチボチ、カラオケへと気分が向きかけた折、お仲間のI氏が不調になり、救急車を呼ぶことになりました。皆で救急車に同乗して病院へ。I氏の娘さんが病院へ駆けつけてくましたので、我々は病院を後にしました。 I氏は翌日まで検査入院となりましたが、20日、お昼頃に帰宅した旨の電話をもらい、安堵しました。お互いよき齢なのを忘れないようにしなければなりません。反省です!!!!! |
2015年2月11日 国の祝祭日の中で数少ないもともとの日にちが祝日となる「建国記念の日」2月11日が今日です。この大切な日の日本人の認識率は他国に比べ際立って少ない20%以下であるとの報道があります。こんな事でよいのか、本当に疑問が置きます。「日本に生まれてよかったか?」とのアンケートでは、「良かった」との回答が高率になっているのにもかかわらずそんなことですから、さらに疑問です。 先の大戦前までは「紀元節」として大切な祝日であったと聞いています。敗戦後、GHQの指示で、廃止され、1967年に復活し「建国記念の日」が設定されました。日本の天皇制との関係から、天皇制廃止を考える方々の「「日本の正確な起源などわかっていないのに建国記念など定められない」との意見から「建国の日」の意義を知らせない教育、「知らせない自由を持つメディア」のため認識度の低さなのではないでしょうか。 日本書記では、日本国を統一したカムヤマトイワレビコノミコトとは、初代天皇になった神武天皇であると書かれています。イワレビノミコト(神武天皇?)は、現在の建国記念の日にあたる、辛酉元旦(現在の暦に直すと紀元前660年2月11日)に、大和の橿原〔かしはら〕の宮で即位したとされ、そこから2月11日を「建国記念の日」に定めたという説もあります。しかし、歴史学上では神武天皇は実在の人物ではなく「神話」として位置づけられているようです。 という日が、「建国の日」が2月11日ですが、歴史が浅い国ならいざ知らず、万世一系の天皇家を持つ国の明確な日にちの設定は難しいのは当たり前のことです。神話的な記述であろうと「日本書紀」という日本最初の歴史書の記述を教えてこなかった戦後の初等教育の不備は明らかなのではないでしょうか。 「佐世保の事件」、「名古屋大生事件」、「奈良の小学生殺人事件」など、意味不明な事件が目立ちます。傍目で見れば、「羨ましい家庭の子女である」ことをもう一度考え直すべきではないでしょうか。世の中はもちろんですが、むしろ、親、家族の責任と思われるのですが。 |
2015年2月4日 後藤氏の悲劇が伝えられるまでは、なにも言うことは出来ませんでした。日本人として「万に一つ」でも生還の可能性がある段階では神様仏様にお祈りするよりしかたがないと思うのは日本人の習性でしょう。 今朝の報道で、ヨルダン軍のパイロットがやはり無残な方法で殺害されていたと知りました。しかも人質交換交渉の始まる前に。 この報道は、ISIL(IS,ISIS)の日本語訳が「イスラム国」としていることの間違いを完全な誤訳であることを示しています。そして、パイロット殺害はISが国ではなく、完全なテロ集団であることを自ら示していることです。テロ集団から日本人がシンパであると誤認されることで日本人の安全が守られていたなどと言う方が発言することを報道する報道機関があることが不思議でなりません。 アンジェリーナ・ジョリー監督の作品の中の日本人軍曹?によるアメリカ軍人捕虜に対する虐待が撮りあげられ、その中に、日本人が食人の性癖を持つとの表現があるとのことです。今の若い人は知らないでしょうが、かって日本の映画にも、「陸軍残酷物語」などの軍隊内での新兵に対する暴行を題材とする表現がありました。日本には食人性癖は全くありません。現在読み進めてる中国史の中には多くの実例が紹介されています。彼女の作品の中にその実例を持つ国の隠れた示唆があったことが懸念されます。 また、「アメリカの一部の州の教科書に隣の国の主張する20万人のいわゆる「従軍慰安婦」の存在を認め、さらに日本の天皇を冒涜する記事さえ記載されているが」との国会での質問があったようです。なんとも悲しい記事、報道が続きます。 |
2015年1月27日 湯川氏が殺害され、湯川氏を救えるのではないかと、シリア入りした後藤氏に対しては、ヨルダンに収監中の死刑囚との交換をISIS(IS)は要求してきました。今朝の報道では、空爆中に撃墜され捉えられているヨルダン軍パイロットと複数同士の交換が模索されているもようです。殺害された湯川氏のお父さんの記者会見での談話(国の努力に感謝し、後藤氏の無事の帰国を願うもの)は感銘を受けました。後藤氏の無事帰還を祈るばかりです。 市立図書館から借り出してきた、黄文雄氏の「中国が世界地図から消える日」(狡猾な中国ネズミは沈み行く船から逃げ出し始めた)を読みました。 強烈な本名ほどの内容ではありませんが、様々な中国の問題点、矛盾を繰り返し記しています。 中華人民共和国という「帝国」の皇帝は中央政治局常務委員会という7人の集団体制であり、この皇帝が十何億の民を支配しています。ただ、現在は習近平氏が中国共産党中央委員会総書記、党中央軍事委員会主席、中華人民共和国主席としての権限を保持しています。 習氏は政府官僚の腐敗の摘発と称する党内の粛清によって権限強化を行っています。この作業は人民解放軍の上層部まで手が伸びており、多くの将官が自殺しているようです。 太りまくった政府官僚は海外への資産移動と海外移住を進めており、その他の人民も中国型カタストロフィーを恐れ、海外への逃避が益々増えていきます。アメリカ、オーストラリア、ヨーロッパ、アフリカへの中国人移動は目に見えるほど増加しており、各国の政治に影響力を増しているようです。 本の最後の部分で、以下の警告を記しています。『21世紀後半から人類が抱えることになる最大の歴史的課題は、いかにして「華禍」の浸透を防止するかという1点のフォーカスされることにさえなろう。』 |
2015年1月23日 「ISIS イスラム国」による日本人2人の運命が決まると言われてきた午後2時を過ぎました。どうなるのか?心配です。現在のイラク、シリアにまたがる「ISIS」または「ISIL」はアメリカ・ジョージ・ブッシュ大統領のイラク戦争が産んだ「最悪の落とし子」であることは間違いないでしょう。チャンと整理しておいて欲しかったものです。 また、フランスのテロリストによる銃撃事件は、これこそ宗教対立の極致でしょう。世界は益々、混とんとしてしてきています。「憲法9条があれば大丈夫!!!」などと言っている日本人の呑気さ加減に呆れ果てます。 「皇帝たちの中国」を別ページで整理しています。ボチボチの作業です。 |
2015年1月13日 「倭国」の続きです。 「日本人というアイデンティテイを作る」 の項で こうし天智天皇の改革は、現実の政治上の統合にとどまらない。文化上の統合も愁眉の急である。これまでのように、倭人と華僑が雑多な集団を成して、相互に関係なしに日本列島の各地に散在しているような状況では、とても唐帝国にも、統一新羅にも対抗できない。新たに倭人と華僑を打って一丸とする、日本人というアイデンティティを作りださなければならない。そのためには、まず歴史の統合が必要であり、言語の統合が必要である。しかも唐とも新羅とも関係ない、まったく独自の歴史であり、言語でなければならない。そこで強引に作りだされたのが、『日本書紀』であり、日本語である。・・・ 「新しく作りだされた日本語」の項で 人は不思議におもわれないのだろうか。『日本書紀』や『古事記』の歌謡や『万葉集』、さらに下っては『古今和歌集』や『源氏物語』の言語には、ほとんどまったくと言ってよいほど、漢語の借用語が現れない。これはなんとも異常ではかいか。・・・ ・・・ところが、『記』、『紀』、『万葉』の、奈良朝の日本語と称されるものは、語彙の面ではきわめて純粋で、中国語の影響は無に等しい。これは不自然である。奈良朝の日本語なるものは、7世紀以前の倭人の言語そのままではあり得ない。・・・ ・・・新しい国語の創造を担当したのは、これまで倭国の政治、経済の実務にたずさわってきた華僑である。かれらの共通語は、朝鮮半島の土着民の中国語である。それが自分たちの言語を基礎として、単語を倭人の土語で置き換えて、日本語が作り出された。日本語の統辞法が韓国語に似ていながら、語彙の上ではほとんどまったく共通のものがないのはこのてめであり、また日本語に漢語が皆無に近いのもこれが原因である。日本語はこうして作られた、人工的な言語であった。倭人の言葉とは、おそらく非常に違っているのであろう。 『万葉集』の歌人のなかで、確かにその歌の作者と認めれれる最古の人は舒明天皇で、天智・天武兄弟の父である。この人の時代から、多くの歌人が輩出するが、そのうちの大きな部分がいわゆる帰化人であることが知られている。これを従来は、外国人がいかに速やかに固有の日本文化に同化したかを示すものだと考えがちだったが、事実はまさにその反対だっただろう。すなわち固有の日本文化というものはなかった。日本の建国運動を推進した華僑たちこそが、新しい日本文化を作りだしたのであった。すべては7世紀の国際環境の産物である。(東アジアからの孤児となった日本列島) こうした倭国の時代は終わり、日本の時代が始まった。いまから千三百年の昔のことである。 現在のドイツ語が純粋にゲルマン系の語彙を使い、単語はフランス語の言い換え、統辞法はラテン語をなぞったもの、トルコ語は古代トルコ語を基礎として、足りない部分はフランス語から、韓国ではそれまで公用語だった日本語の表現を直訳して韓国語に足りない部分を補ったので、戦前の朝鮮語よりもいっそう日本語に似てきている、日本語も英語の借用語や英語直訳の表現が多くなっている、などの例をあげて民族国家の公用語発生の経緯を説明しています。 まもなく、マゴッチを保育園まで迎えに行きます。 |
2015年1月12日 フランスの国情に比べ、穏やかな正月の雰囲気が続いています。 今朝、最近はご無沙汰している枕元にあったディビット・セイン氏の『「ごちそうさま」を英語で言えますがか?』の中の「ごはんを食べるとき」の「いただきます」を Let's eat! と英訳してあるのを見、寝ぼけた考えが浮かびました。孫たちに教える「いただきます」はこんな英語で表せることがらなのか?別の適切な英訳はないものか?との疑問が湧いてしまいました。「いただきます」という日本語は、万物を神として崇め感謝する日本人特有の感謝の気持ちを端的に表す言葉であると思っていますが、別の言葉は?としてネットで調べてみました。 ベストアンサーは以下でした。 さて本題ですが、これらの日本語の表現はこの「日本の生活文化に支えられた表現」であるからして、英語にはそれなりの表現はないといってしまう可能性を含んでいるわけです。 しかし、その状況ではどんな表現をこちらでは使うかと言う事と話は別です。 この辺にはNative Americanと言われるネイティブがすんでいるわけですが、ここの部族では、いただきます、ご馳走様でした、と言う日本語と同じフィーリングを持った表現をして食事をします。 では、普通のアメリカ人であればどういう表現をするか、と言うと、「さぁ、食べましょう」「食べますよ」「作ってくれてありがとう」「たくさん食べました」と言うフィーリングを出した表現はします。 つまり、社交辞令的な挨拶じみた「いただきます」「ご馳走様でした」のように「言わなくては礼儀に恥じる」と言う内面フィーリングは文化的に100%同じものはないわけです。 しかし、同じ礼儀としてのフィーリングを表現する言い方はあります。 つまり、英語にもそう言わなくては「礼儀に恥じる」マナー的な表現はあると言う事にもなります。 私が言おうとする事がお分かりでしょうか。 言葉とはフィーリングを表す道具なのですね。 ですから、「同じような場面で使う表現」と「礼儀に沿った表現」と言う違うフィーリングに基づいた表現は英語にもちゃんとあるのです。・・・ ・・・と言う事でどっちのフィーリングをこれらの日本語の表現で出そうとしていっているのかによって、英語の表現も変わって来ると言う事になるのですね。 ここで多くの英文の実例を挙げています。 また、おいしくなかったけど「ご馳走様でした」と言う人間的表現はしますね。 英語でもまったく同じ人間的表現をするのです。 それが、マナーとして生きてくるわけです。 ですから、英語には、この表現がない、のではなく、生活道具として英語を見るとこのようにいろいろな表現をしていることがお分かりですね。 言葉は難しい!!!日本語、漢字でもその語源と現在の日本語での解釈、認識が大きく違うことを今、岡田氏の本で痛感しています。 倭国が当時の東アジアの孤児になるという、未曽有の危機に直面したとき、どのような状況が生まれたのでしょうか? 「日本」という国号の使用 の項での記載です。 日本列島の安全そのものが脅威を受けるようになったので、中大兄皇子は都を近江の大津に移して防備を固め、668年に大津で即位式を挙げた。これが天智天皇である。それとともに、我が国で最初の成文法典である『近江令』22巻を制定し、670年には、これまた最初の全土にわたる戸籍である『庚午年籍』を作った。成文法といい、戸籍といい、これまでの畿内の倭国に枠を越えた、より大きな統一国家が作られつつあったことの証拠であり、白村江の敗戦がいかに大きな衝撃であったことを物語っている。 ところでこの『近江令』で、「日本」という国号がはじめて採用されたものらしい。・・・ ・・・ところが朝鮮半島の新羅国の記録では、この同じ670年の年末、陰暦12月に「倭国が号を日本と更めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いので、もって名としたという」と伝えられている。・・・ 「日本書紀」は、大海人皇子=天武天皇の治世の時代にその編纂が始められたもので、天智天皇の業績には冷淡であったことが想像されるとしています。大変興味深い指摘です。 |
2015年1月7日 平成27年となり、初めての更新となりました。前年の更新から10日以上開いてしまったわけです。その間、現役でなくなった者にとっては年末、年始はあまり関係のないことかもしれませんが、昔からの癖がなおらず、落ちついて入力作業ができませんでした。意気地の無いものです。近年、欠かしたことのない初詣も嫁さんの風邪がはっきりしない為、近くの鎮守さん(大住隼人神社)へのお詣りでお茶を濁してしまっています。 その間、岡田英弘氏の「倭国 東アジア世界のなかで」を読み進めました。大陸・半島の地理、人名はなかなか簡単には頭に入ってくれません。 倭国の歴史は「日本書紀」が表されるまでは、現在の中国大陸、朝鮮半島の歴史書の中から推理するほかはありません。前221年「秦の始皇帝」が中国を統一し、明確な国という概念が現れたことから東アジアの歴史は始まったといえるようです。 前207年、秦が滅亡し、前202年漢の高祖が皇帝となります。前108年、漢の武帝が「楽浪・臨屯・玄兎・真番」の4郡を朝鮮半島に置きます。半島との明確な係わりが現れます。この時点では倭国との関連は現れていません。 西暦37年後漢の光武帝が中国を統一します。後漢の時代に「倭の奴国王の使が漢に朝貢し漢李奴国王の金印を授けられる」という倭国との関連が現れます。 220年、曹丕(そうひ、文帝)が魏朝を建てます。239年、魏が卑弥呼を親魏倭王とします。245年魏が詔して倭の難升米に黄幡を賜いま。魏志東夷伝倭人の章での記載です。 300年、八王の乱。304年、五胡十六国の乱など中国北部では戦乱が続きます。さらに現在の北朝鮮、中国東北部には高句麗が勢力を増します。 342年、高句麗人仇台(きゅうだい)が帯方に拠って百済王を称します。345年前燕が高句麗を攻めて南蘇城を攻略。百済の初見。 365年、このころ仁徳天皇が倭国大王となり河内王朝を建てる。367年、百済の使者が倭国に至る。倭国が百済に使いを出す。百済王世子貴須が倭王に七支刀を贈る。 396年、高句麗の広開土王が自ら百済を討ちこれを降す。397年、倭軍が百済・新羅に入る 百済の阿花王が直支を倭国に質とする。 400年、高句麗軍が任那加羅に至り新羅王が自ら高句麗に入朝する。 407年 高句麗軍が百済・倭を破る。 このころ河内王朝初代の倭国大王仁徳天皇の死。 412年 高句麗の広開土王の死、 413年 高句麗・倭国の使が東晋に至る。 倭王倭讃(履中天皇)を東晋に遣わす。 438年 倭王珍(反正天皇)が使を宋に遣わし使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓6国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称する。 439年 北魏が華北を統一する(南北朝のはじまり) 443年 倭王済(允恭天皇)が使を宋に遣わす。 462年 百済の王子斯麻(武寧王)が筑紫の各羅島で生まれる。 倭王世子興(安寧天皇)が宋より安東将軍・倭国王の号を受ける。 478年 倭王武(雄略天皇)が書を宋に送る。 491年 このころ河内王朝が断絶し、顕宗天皇が播磨王朝を建てる。 523年 武烈天皇の死(播磨王朝の断絶) 継体天皇が越前王朝を建てる。 532年 新羅が金菅国(金海)を滅ぼす。 新羅の真興王の即位(新羅が歴史時代に入る) 562年 新羅が大加羅(高霊)を滅ぼす(任那の滅亡) 589年 隋が陳を滅ぼして中国を統一する。 600年 倭王多利思比弧が使を隋に遣わす。 608年 倭王多利思比弧が使を隋に遣わす。 609年 隋が裴世清(はいせいせい)を倭国に遣わす。倭国に至る。 610年 倭王が使を隋に遣わす。 618年 隋の滅亡。 628年 唐が中国を統一する。 629年 舒明天皇の即位(倭国の歴史時代のはじまり) 641年 舒明天皇の死。 642年 皇極天皇の即位。 645年 皇極天皇が退位、孝徳天皇の即位。 654年 孝徳天皇の死。皇極上皇(斉明天皇)の復位。 661年 新羅の武烈王が死。文武王の即位。百済・倭が白村江で唐・新羅に敗れる。 667年 中大兄が都を大津に移す。 668年 唐が高句麗を滅ぼす、 天智天皇(中大兄)の即位(日本の建国) 『近江令』の制定 天皇号の初見。 670年 倭国が名を改めて日本と号する。 『庚午年籍』を作る。 672年 壬申の乱 673年 天武天皇の即位。 676年 唐が朝鮮から撤退する。 以上、「倭国」の末尾に置かれた岡田氏独自の年表ですが、本文では @ 「魏志倭人伝」での「邪馬台国」は記載されている里程を考えれば、畿内としか考えれれない。 A 365年 仁徳天皇が「河内王朝」を建てたこと。 B 523年 継体天皇が「越前王朝」を建てたこと。この王朝が現在の天皇家へ繋がっていることは確かなようです。 C 『日本書紀』は720年に完成したものでわが国で最古の史書です。 D史書の編纂というものは編纂というものが建国事業の一部であるから、出来たものの伝承は、選択のひどくかたよった、強く歪曲されたものの集まりとなる可能性が高い。 E あの『隋書』の記録のおかげで、史実性が疑わしい推古天皇と聖徳太子のあと、『日本書紀』は舒明天皇が倭国の王位に即いた、と言っています。 F 『日本書紀』の語るところによると、6世紀から7世紀にかけて、倭国では王位をめぐる紛争が終始繰り返された。 ・・・660年、唐・新羅連合軍が百済国を滅ぼし、百済の義慈王は唐に連れ去られる。百済び残存勢力からの援助の要請に応じて、皇極=斉明天皇をはじめとする倭国の宮廷は北九州に移り、百済の復興に努力するが、皇極=斉明天皇はそこで死ぬ。中大兄皇子は北九州に踏みとどまって百済の残存勢力の援助を続けるが、そのかいもなく、663年、百済・倭国の連合軍は、錦江の下流の白村江で唐・新羅の連合軍に粉砕され、百済はまったく滅亡して、倭国は半島の足場を失い、大陸から断絶して、当時の東アジア世界の孤児にあるという、未曽有の危機に直面する。 中大兄皇子=天智天皇はこの重大な危機にどのように対応したのか?を日を改めてアップします。 |
2014年12月26日 今年、平成26年、西暦2014年も後5日になってしまいました。午年は斯く言う生まれ年で、生れ年を含め7回目の午年ということになります。昔の人々から考えると想像もできないくらいの歳になっており、私ばかりではなく多くの人がそれ以上の歳を重ねた方々が多いことに、呆れ返っているでしょう。 11月28日のこの欄でふれたように、昨年7月31日に生まれた梨心ちゃんが保育所の空きが出来たことから11月から通園が始まりました。姉の梨央ちゃんは同じ保育園に行っており、お母さんが6時過ぎに迎えに来てくれるまで待ってくれのるに十分な成長をしていますが、梨心ちゃんには一寸可哀想かなとの考えから、嫁さんと私で4時半に迎えに行き、家で夕食を摂ってもらうこととしました。 お母さんが梨央ちゃんとともに家に着いたとの連絡があって家に送っていくまでの時間はジジババにとって楽しい時間になりました。そんなことから梨心ちゃんは自然に懐いてくれるようになってきています。年寄りの喜びはこんなところでしょう。 岡田英弘氏の「皇帝たちの中国」は読み続けていきますが、昨日、今年最後の図書館へ行った折に、黄文雄氏の「世界が憧れる 天皇のいる日本」という本をみつけ、読み始めています。 帯布には以下の記載があります。 外国人が羨み、尊崇してきた「万世一系」の凄さ! 日本 世界最古の国は、中国でもギリシャでもない。天皇がいる日本である!中華の皇帝も羨望し理想とした、万邦無比の皇統の奇跡とは。 前書き部分には 本書は主に4つの議論にしぼり、4章に分けて天皇をとりあげている。その主な主眼は次のとおりである。 @ まず外国からの天皇観をしょうかいした。・・・ A 他国では不可能であった「万世一系」が、なぜ日本では可能だったのか。そして、それが日本にどのような作用を及ぼしたか。・・・ B 天皇と他国の元首とはどこが異なっているのか。・・・ C 天皇と日本人について。歴史的に見えも、天皇は日本人にとって「無私」としての公的で超越的な存在である。その一方で、日本人と天皇のつながりは、他国の国家元首と国民の関係に比べて、極めて強い。なぜ天皇は日本人にとって特別な存在なのか、その秘密を探る。・・・ |
2014年12月18日 ジジ連・忘年会「大江戸温泉物語・箕面温泉ホテル・スパーガーデン」へ行ってきました。15日、16日のことです。 15日、朝8時半過ぎ、仲間3人(住吉・香里園・交野在住)が家の前まで迎えに来てくれ、近所のT氏の家に向かいます。 9時過ぎには、T氏の車に乗り換え、いつもの5人が箕面への「近場の旅」に出かけました。前回は、6月8日、9日「伊豆半島への旅」でした。この時は、遠かった!!!仲間のひとりに、運転の負担をかけてしまったことを検めて反省しました。お互い、年寄りなのです!!!!! 近年開通した高速道を通れば、短時間で大阪の都市部を抜けることが出来ますが、時間調整の意味もあり、交通渋滞を覚悟しての都市部横断となりました。月曜の朝ともなれば、もちろん、その渋滞は半端なのもではありません、京田辺市、出発時点でのナビの予定所要時間は1時間少しでしたが、着いてみれば時間は11時半頃となっていました。 高台に建つ、箕面温泉ホテルからの大阪、神戸方面の景色 A B C D です。 幹事S氏の計画は、昼食後、13時からの「箕面座」での大衆演劇の観覧です。良い席を確保するため、早めに席を確保します。ジジ連の旅では過去に「はわい温泉・千年亭」での観覧があります。良き思い出になっています。 今月の公演は「座長 橘 炎鷹(えんおう)」の「劇団 炎舞」によるお芝居と舞踏ショーでした。お芝居は多少ではなく多大にズッコケでしたが、舞踏ショーに於ける、座長 炎鷹の色っぽさと時折目みせるハッチャメさが我々を楽しませてくれました。良かった!!!「追っかけ老ギャル」の存在が面白かった??? 大衆演劇を観覧した後、部屋に帰り、17時からの夕食に備え、持ち込みのお酒をチョットだけ味わいます。17時からのバイキング会場にはすでに行列が出来ています。入場すると、座席は指定されていませんでしたが、係の方が、丁寧に席に案内してくれ、快く食事に入ることが出来ました。 会食の始めの頃はゆったりとした感じでの会場でしたが、その内に、超満員の盛況、月曜日の夜とは思えないものでした。しかも外国語も飛び交っていました?? 飲み放題が無かったこの日は、お酒よりも食べ物を重視する席となり、好物の「ローストビーフ」をメインに食し、話を盛り上げることになりました。品数のあり、味もそこそこ。結構なものでした。一つ、「イカの塩辛」が絶品で、翌日お土産を2つも購入することになりました。 20時30分からの歌謡ショーまでの間、カラオケ設備が備えられた無料一般会場でのジジ連の競演となりました。1人、中年女性が仲間に入ってくれ、我々の耳に新しい、しかも上手な歌を聞かせてくれました。 「成田ヨウスケ」の歌謡ショーは盛り上がりました。思わずコブシを上にあげ、歌に合わせて突き上げることさえしてしまいました。結構疲れた!!!ここでも「追っかけ労ギャル」が出現、しかも、10人以上、びっくり!!!楽しませてもらいました。 歌謡ショーの後、ゆっくりと温泉を楽しみ、残りのお酒を片づけながらの何時もの会話、早めの就寝となりました。 16日は朝から雨、「箕面大滝」への散策を諦めることとなり、7時半からの朝食をホントゆっくりと頂戴することとしました。 老人なんだから、そんなに食べて大丈夫?????と笑われる朝昼両方の私のメニュー、 朝の分、 昼の分 後が心配になる分量です。恥ずかしい!!!!! 10時過ぎにホテルを出て、交野のT氏、次に私を自宅に届けてくれました。面白いメニューを作ってくれた幹事S氏、大阪住吉から遠路回り道をしてくれた I氏、車を出してくれ、往復運転をしてくれたT氏に、感謝!!!感謝!!!!!です。良き仲間達です。 |
2014年12月12日 岡田英弘氏の中国の歴史についての諸説は一部、本当なのか?という点もあるのですが、大変勉強になる歴史記述と言えます。まず「皇帝たちの中国」の最初の部分をセレクトします。全体の読後感は別ページにまとめたいと考えています。 中国の歴史は皇帝の歴史 中国に君臨した皇帝たちの肖像をたどっていくと、中国とはどんな国であるか、中国人とはどんな人々であるかという問題に行き着くことになる。 なぜなら、いわゆる中国の歴史とは、皇帝の歴史そのものだからである。近代以前には、「中国」という「国家」があったわけではもなく、「中国人」という「国民」があったわけでもない。言い換えれば、「中国」という国家が先にあって、それを治めたのが皇帝だったのではないということになる。先にあったのは皇帝である。 皇帝の支配が直接及ぶ範囲を「天下」といった。この「天下」とは、具体的には、皇帝を中心に展開した都市のネットワークをさすものであり、各地にみぐらされた商業都市網の経営が、すなわち皇帝制度の本質なのである。 現代のわれわれの意識では、国民が国家を構成することになっているが、こうした考え方は、世界史のうえで、ごく最近になって発生した、新しいものにすぎない。18世紀末の二つの革命、アメリカ独立とフランス革命がきっかけになって、「国家」は「国民」のものだという「国民国家」の観念が、十九世紀に世界中にひろまった。多くの人々が、この国民国家の観念を、近代以前の「皇帝の天下」にあてはめて、それを「中国人=チャイニーズ」という国民が構成する「中国=チャイナ」という国家だったかのようにみなしているわけである。 現代われわれが「中国」と呼ぶこの世界は、西暦紀元前221年、秦の始皇帝がみずから「皇帝」と名乗ったときに誕生した。「秦」が「支那」、つまり「チャイナ」の語源である。この意味で、中国史は、前221年から始まる。俗に「中国四千年」というが、これは20世紀になってから、中国人が言い出してことで、現実には何の根拠もない。 1911年、中国人が満州人の清朝に対して反乱を起こした辛亥革命のとき、革命派はこの年を黄帝即位紀元4609年とした。黄帝は暦を創ったとされる神である。 これは明らかに、日本の神武紀元(西暦前660年)を、神話上の初代の神武天皇の即位の年とする)のまねだったが、この黄帝紀元が「中国四千年」という俗説のもとになった。もちろんこれは神話である。現実の中国の歴史は、西暦2000年まででも2220年間しかない。秦の始皇帝の統一以前には、皇帝はまだいないのだから、中国もなく、したがって中国人もいなかった、と考えなくてはならない。 秦の始皇帝が、はじめて皇帝という名称も用い、皇帝制度を創り出した。・・・・ その後、始皇帝が創り出した皇帝制度を大きく発展させ、天下の統一を事実上回復して、中国文明を方向ずけるには、前漢の第七代皇帝、武帝の登場を待たねばならなかった。・・・ まったく意味の違う中国とローマの「皇帝」 中国文明には、もっとも基本的な要素が3つある。皇帝と、都市と、漢字である。このなかで、最重要の要素はもちろん皇帝なのだが、この、皇帝という言葉自体が誤解を招きやすいので、ここでひとこと説明しておきたい。 日本のヨーロッパ史学界では、「古代ローマ帝国」や「ローマ帝国」という言葉を何気なく使っているが、ここに用語の混同があり、世界史の複雑な問題を含んでいるのである。 厳密に言うと、古代ローマには「皇帝」はいなかった。したがって、古代ローマを「帝国」と呼んでも、それは「皇帝が統治する国家」という意味ではない。 古代ローマの初代「皇帝」として君臨したのはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の甥のガイウス・オクタウィウス(伯父の養子になってガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアズスと改名)だが、彼の正式な称号は「アウグストゥス」であって。「インペラートル」(英語のエンペラーの語源)ではなかった。 「アウグストゥス」とは、内戦に勝ち残ってローマ市を制圧した将軍に対して、元老院が捧げる称号である。・・・つまり「アウグストゥス」の本質は「元老院の筆頭議員」であって、元老院があってひじめて「アウグストゥス」が存在するのである。これにひきかえ中国には、ローマの元老院にあたる機関が存在したことはない。この点で、それ自体が中国世界の中心である「皇帝」は、ローマの「アウグストゥス」とは、まったく性質が異なるのである。 それにもかかわらず、十九世紀の日本の学者が「アウグストゥス」を「皇帝」と訳したのは、先祖代々慣れしたんできた中国史の枠組みでヨーロッパ史を理解しようとしたための誤訳だった。 では、中国の皇帝とは何か。これについて詳しく述べていくことになる。 皇帝の「皇」という字は、火偏をつけると「煌煌」の「煌」になるのでわかるように、きらきらと光り輝くという意味がある。 いっぽうの「帝」という字は、下に「口」を加えれば、「敵」「嫡」「適」などの旁(つくり)となる。 後日、続きます。 「帝」のもともとの意味はこれらの字と同じで、「対等の相手」という意味を持つ。このことからわかるように、「帝」の本来の意味は「配偶者」である。 では「帝」が配偶者だとすると、相手は誰になるのだろうか。ここで、中国世界の成り立ちに触れる話になってくる。 秦の天下統一以前の時代にも、すでにたくさんの都市が中原地帯に点在していた。中原地帯とは、中国文明の発祥の地である黄河中流域・下流域をさす。 この中原地域に点々と現れた古い都市には、一つの共通の特徴があった。どの都市も土で固めた城壁をめぐらし、城門にはそれぞれに頑丈な扉がついていた。いわゆる城郭都市だったわけである。・・・・・つまり「國」は、今の日本語では「くに」と読むが、本来の意味は城壁に囲まれた空間、すなわち城郭都市をさしたのである。・・・ 神話では、天の神が、その妻である大地母神をはらませ、大地母神は、都市の王家の始祖を産む。この大地母神の「配偶者」である天の神が、しなわち「帝」である。天から雨が降って、大地を潤してそこに生命が生まれるという発想である。・・・・・ ・・・これに対して秦王は答えた。「『泰皇(たいこう)』の『泰』』を取り去り、『皇』を着け、これにいにしえの『帝』という称号を取り合わせて、『皇帝』という称号にしよう。・・・ここにはじめて、「皇帝」という新しい称号が誕生したのである。・・・ この後、 第1章では 前漢の武帝ー皇帝とともに生まれた「中国」 第2章では 唐の太宗李世民ー非中国人を皇帝に迎えた「第2の中国」 第3章では 元の世祖フビライ・ハーンーモンゴル帝国が支配した元朝 第4章では 明の太祖洪武帝朱元璋ー庶民出身の皇帝が建てた最後の漢人王朝 第5章では 清の世祖康熙帝ー満州人の征服王朝「清帝国」 と話は進んでいきます。いずれも後世に大きな影響と与えた皇帝です。現在の中華人民共和国の共産党政府が参考にしているであろう帝国支配の指導者なのではないでしょうか? |
2014年12月8日 「お伊勢さんへの旅」を一応、アップしました。 選挙戦が中盤戦に入っています。地域のせいでしょうか、選挙カーがほとんど入らず、幸いに静かでなものです。大手新聞社は選挙前調査の報道をしています。全紙が自民党・公明党の政権与党が300議席を超えるという予想報道です。争点はアベノミックスによる経済問題ばかりでは無いはずで、日本の将来を考える基となる「現憲法をどう考えるか?」、「日本の安全保障は?」、「原子力発電は?」、「少子化問題の根本解決法は?」、「公的年金の将来は?」、「選挙制度は?」などの各候補者の考え方の詳細を知りたいものですが、基本の各政党本体が、夫々チャンとした考えを示していないせいか?新聞誌上での、アンケートの答えに無回答など曖昧な回答をする候補者多いことはこまったものです。我々、老人はいろいろと言うことはないかもしれませんが、このような風潮を作ってきたのは我々の年代であったことは、真に反省が必要です。 図書館から借り出してきた、岡田英弘氏の「皇帝たちの中国」を読み、興味が湧いたことから、恥ずかしながら、ブックオフで「皇帝たちの中国」(再読します)、「この厄介な国、中国」、「中国文明の歴史」、「倭国」を購入し、読み進めています。まもなく読後感を記したいと思っています。 来週、15日、16日はジジ連の忘年会です。楽しみです。 |
2014年11月28日 今年の11月も、後2日、3日後はいわゆる”師走”です。当たり前のことですが、歳をとるほど日々の経過が速くなります。息子の2番目のマゴッチ、梨心ちゃんが今月から保育園に行けることとなり、ママも旧職に復帰出来ることとなったことから自然にジジババの出番が増えました。毎日4時半に迎えに行き、我が家で夕食を摂らせることになります。嫁さんと嬉しい悲鳴をあげていますが、益々、日々の経過が速くなることでしょう。 「お伊勢参りの旅」のページを作り始めました。楽しんでの作業ですので、時間が掛かることでしょう。 |
2014年11月21日 高校時代からの友人7人での「お伊勢参りの旅」を存分に楽しんで帰ってきました。詳細は別ページに編集しますが、伊勢の海の豊穣さを充分に確認した「相差民宿 なか川」さんの 「鳥羽の海 三世代海女中川さんの母娘」 「真珠の耳飾り海女」 「華麗に潜るむすめ海女さん」 を紹介しておきます。 |
2014年11月11日 1月25日、26日、信州松本での中学同級会へ行ってきました。26日は同級会の幹事さんが企画、案内してくれた安曇野ドライブ散策に参加してきました。幹事さんがどうしても連れて行きたいと案内してくれた「大峰高原 七色大カエデ」は見事でした。感謝!!!感謝!!!!!です。お昼は、信濃常盤にある「おらほの味 しみず」へも連れて行ってくれました。気持ちの良いお店でした。 来週、18日、19日は、高校時代からの仲間8人での「お伊勢参り」です。春の旅の打ち上げの場「伏見の鳥せい」での合意から生まれた旅です。18日は午後に鳥羽駅に集合、「鳥羽水族館」へ案内し、ジャンボタクシーで鳥羽の海岸線をドライブし、相差の民宿「なか川」での宴会(鳥羽の海の幸を堪能したい!!!お酒の飲み過ぎには注意!!!!!)、宿泊は「ホテル アルティア鳥羽」です。 26日は、お伊勢さん、「外宮」、「内宮」をお詣りします。「神宮徴古館」が休館とのことで、「神宮美術館」のみを訪ねます。楽しみです。 話は変わります。日本のマスコミには各種の問題があり、最近多くが指摘れされています。ただ、日本は「これでいいのか?」と思うほどの自由があります。中国は共産党一党独裁で、自由なマスコミは事実上ありません。10月3日のこの欄で触れています。また、韓国の状態についても反日報道には多くの疑問があります。 室谷克実氏の「悪韓論」の始めに韓国のマスコミ各社の特徴が書かれています。 ・・・朝鮮日報、東亜日報、中央日報ーこれが三大新聞であり、いずれも「保守系紙」と呼ばれている。ここで言う「保守系」とはアンチ北朝鮮の意味だ。 朝鮮日報が韓国最大の発行部数で、230万部程度、同紙は最も「保守的」とされ、しばしば親北系・左翼の標的になっている。その反面、貧富の格差、汚職、外国人差別、性犯罪、売買旬など、いわば「悪辣な思考と行動、風習、風俗」の追及に最も厳しい。私が引用した記事事件数も朝鮮日報が飛びぬけて多い。 東亜日報は、落ち着いた記事が多い。社内外の論客が執筆する「オピニオン」欄には、時として鋭い視点が光る。しかし、その社説は無事安逸型、つまり綺麗事が目立つ。 中央日報は、サムづくりスン財閥の総帥・李建熙(イゴンヒ)の義弟一族が支配していて、「サムスンの機関紙」と揶揄される記事が載る。・・・ 「左翼系」の筆頭は、ハンギョレ新聞だ。独自ネタが多いが、「労働者のため」の立場を強調したいがためなのか、針小棒大の記事が少なくない感じがする。韓国版の「しんぶん赤旗」のような存在だ。・・・首都ソウルにはこの他に、京郷新聞、韓国日報、ソウル新聞、文化日報されに毎日経済新聞、韓国経済新聞などが本社を構えている。・・・聯合ニュースは株式構成からすれば事実上の国営といえるが、旧共産圏のような、「大本営発表の垂れ流し機関」ではない。むしろ、斜に構えたところがある通信社だ。 地上波テレビ3局のうち、国営のKBSと半国営のMBCは盧武鉉大統領時代には、左翼政権に隷属する攻撃的な紅衛兵のような役割を担った。・・・強きに阿る国民性を象徴するマスコミなのかもしれない。私には、KBS,MBCともに信頼できない。・・・ ・・・ハンギョレ新聞は、朝鮮日報を「親日新聞」と攻撃するが、私から見れば朝鮮日報の「反日」も、かなり重度の病気だ。新聞、放送、通信とも、いずれも「反日」であり、事があればブレーキが利かない「反日紙面づくり競争」を展開する。 おおまかなところになるが、韓国紙の「自国自賛」の記事には、嘘と言った方がいいような未確認情報がベースになっていりことがある。しかし、自国についてネガティブな報道は、政府や他紙のチェックもあるから、あくまでも「それなりに」だが、信じられる部分が多いと私はこれまでの経験から感じている。・・・ 最近の産経新聞前支社長の起訴、出国停止の措置とそれにともなう韓国マスコミの報道も注視したい。 |
2014年11月1日 秋の3日連休、観光には絶好の季節ですが、残念ながら3日間とも雨の予報。残念がっている方々が多いと思います。息子夫婦は2人んマゴッチを連れて、嫁さんの里、鳥取へ。そんなことから時間が出来、ページの更新が2日連続でできることとなりました。 10月19日の「昭和天皇実録」の続きの整理をしてみます。 お好きな人、お嫌いな人項では の続きです。 半藤 これは成人されてからの昭和天皇の御性格も表していると思いますね。裏切りをする二心を持つものが嫌いだというのは、なるほどと思います。『昭和天皇独白録』などに出てくる松岡洋介に対する嫌悪感というのは、松岡はスターリンに騙されているのではないか、国家にたいする不忠、つまり「二心」に対する不信感ですからね。ご幼少の頃から、潔癖なところがあったんですね。・・・ 軍部の横暴に立ち向かわれた瞬間 大元帥として最高指揮権を持っていたのになぜ軍部を抑えられなかったのか ・・・磯田 ここまで何度も治安維持法について御懸念を漏らされていたのは驚きですね。 保阪 同時進行的に起こった張作霖事件の調査が終わるのは、昭和4年の事です。 半藤 陛下は、一連の治安維持法改正の問題で田中首相へ不信感をすでに持っていた、と考えられる。そこに張作霖爆殺事件の真相を隠そうとしたことが重なり、あの有名な田中首相の叱責につながったのでしょう。それにしても、今『「実録』の戦前部分を読んで、我が国は軍事国家だったんだなあと、しみじみわかりましたよ。・・・ 天皇のお考えは「機関説」である 憲法に忠実な君主であろうとする天皇を追い詰めてゆく臣下たち 統帥部への不信と怒り 保阪 さて、いよいよ日米開戦ですが、私も今読んでみて、この辺りも従来言われている説とさほどかわりはありませんね。 半藤 昭和16年の7月から12月までに御前会議が4回開かれますが、ほとんど新しい話は書かれていませんね。でも天皇の慎重さはしっかりと描かれている。御前会議の前日の9月5日の夜の6時5分に参謀総長の杉山元と軍令部総長の永野修身の二人を呼んで、「明日は御前会議だが大丈夫か」と御下問する。(参謀総長より陸海軍において研究の結果、南方作戦は約五箇月にて終了の見込みである旨を奉答するも。天皇は納得されず)(昭和16年9月5日) そして杉山元に対して支那事変勃発の時に陸相だったお前は、すぐに終わるといったが、いまだに終わっていないぞ、と続けます。(支那の奥地が広大であること等につき釈明するや、天皇は支那の奥地広しというも、太平洋はさらに広し、作戦終了見込みを約五箇月とする根拠如何と論難され、強き御言葉を以て参謀総長を御叱責になる) と、有名なくだりがそのまま記されています。ここでも天皇はお怒りになっていますな。・・・ 軍部独裁の起源は長州にあり ・・・磯部 南方作戦をやっている時にソ連が攻めて来たらどうするのだと聞くと、統帥部は冬季作戦だからまず攻めてこないだろうと答えている。日露戦争をいつやったのか覚えていないんでしょうかね。あれは真冬の2月ですよ。こんないい加減な答弁はありません。天皇は納得なんかされないんですけど、だからといってやめさせることもできない。この頃、軍部にとって天皇とは、最高司令官ではなく、神殿の壁のようなものなんです。壁に向かって好きのことを言っているだけで、反応は考えていない。・・・ ・・・磯田 戦時中も特筆すべき部分はありませんか。 半藤 ほとんど「小倉日記」から写しているだけですかな。一つだけどうしても話をしたいのは昭和17年のミッドウェー海戦の記述です。(我が方の損害は航空母艦1隻喪失、航空母艦・巡洋艦各1隻大破であることを報告する)(昭和17年6月10日)と大元帥閣下に嘘の報告をしていたことがそのまま書かれている。実際は航空母艦4隻が沈んでいるんです。・・・ 11月号に続きます。 |
2014年10月31日 今年の10月も最終日となりました。22日は14日に記載したとおり、建仁寺祇園丸山のランチを賞味してきました。一応、ページにまとめてみました。 25日、26日は、松本旭町中学校の同級会参加の為、松本へ行ってきました。12名の参加は常連のメンバーとなっています。今年は特に、本当に話が弾み、2次会へは全員が移動するほどでした。翌日は安曇野へのドライブへ6名(東京からのメンバーは2名、私、幹事さん2名)が行ってきました。これまた楽しい1日で、もちろん、美味しいお蕎麦を頂戴しました。チョット紹介のページの作ります。 |
2014年10月19日 台風19号が過ぎ去ったあと、秋晴れの好天気が続いています。今日もその通りですが、良いのは、天気ばかり、世の中はホント、難しい問題ばかり。 エボラ出血熱の世界的伝播の警告報道、いわゆる”イスラム国”への日本人参加問題、国内では、相変わらずの「政治と金」の問題で、先日の女性を活用すべしとの考えて行われた内閣改造での目玉女性閣僚が震源地となっている問題、その他種々の問題ありの状態です。 『文芸春秋』の10月、11月号で、「昭和天皇実録」の内容の概要を、半藤一利氏、保阪正康氏、磯田道史氏が読みながらの鼎談形態で記事にしているものです。全部で1万2千ページの大作のようですので、この3氏と言えども短時間で読み切っているとは思えません、拾い読みとなっていると思います。その拾い読みの拾い紹介となります。 まず、磯田氏の発言です。 まず申し上げたいのは、『実録』の公表に立ち会えたことに、私は歴史学者として震えるほどの感動を覚えます。 実録のような帝の一代史の叙述は、中国の漢の時代、司馬遷が『史記』で、天子(皇帝)の記録を「紀」としたものが古い。古代中国で皇帝がおかくれになれば、「実録」として編纂する伝統が生まれ、その制度が、梁・隋で確立されていき、東アジア全域にひろがりました。王朝が滅んだ時は、次の王朝が、この実録をもとに「唐書」とか「明史」といった「正史」を作る。一千年以上にわたって、朝鮮でもヴェトナムでも、中国の文化圏にあった東アジアの国々では、このような文化が成立してきました。沖縄でも琉球王国が『球陽』という実録に近いものを編んでいます。 しかし、これらの国々では王朝が倒れ、いまや日本においてのみ、古代から東アジアが共有してきた連綿たる歴史叙述の伝統が受け継がれているのです。・・・ 今、最初のところをばらばら見ていたら、昭和天皇のご幼少期の手紙が全文いんようされているんですね。これは画期的なことです。天皇が九歳、まだ迪宮(みちのみや)と呼ばれていた頃の記述です。天皇はこの時、沼津御用邸に、弟宮である淳宮(あつのみや)(後の秩父宮)、光宮(てるのみや)(後の高松宮)と一緒にいます。そこから、父である皇太子嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)と母の節子妃(後の貞明皇后)に手紙を出しています。・・・・ お好きな人、お嫌いな人の項では |
2014年10月14日 連日のページ更新です。台風19号は現在、東北地方の太平洋上を北上しています。JR西日本・近畿エリアのすべてのが電車が昨日16時から運休となりました。そして、台風は大阪湾に再々上陸し、コースとしては、私どもの住む京田辺市を通過していったようですが、激しい雨のほかは、ほとんど影響はありませんでした。幸いでした!!!私的に言えば、息子夫婦が「母の日・父の日の贈り物」としてプレゼントしてくれた「一休 祇園丸山 お食事券」によるランチを14日から22日へ変更をしたくらいのものです 。 先週8日水曜日は皆既月食でした。家の窓からその模様を写してみました。オート撮影の限界をしめすような映像ですが雰囲気だけは伝えられるかもしれません。。 18時35分 欠け始め 1 2 3 19時21分70%程度 4 5 20時30分皆既状態からの復活 6 7 |
2014年10月3日 御嶽山が水蒸気噴火。9月27日、土曜日、11時過ぎに起きてしまいました。一昨日、昨日からの雨を予測し、消防、自衛隊、警察が組織する救援隊が懸命の作業の結果、一応、居場所がはっきりしていた方々を降ろした結果、犠牲者が確定しました。しかし、未だに不明を申し出る方々が多くいることを考慮すると、更に犠牲者が増える心配があります。 紅葉のはしり、晴天の土曜日ということで、山頂まで登山する方々が、600人以上いたとの発表があり、不明者、犠牲者が増える可能性は十分にあり、本当に心配です。信州の県歌「信濃の国」の一節に、「信濃の国は十州に 境つらぬる国にして 聳ゆる山はいやたか高く 流るる川はいや遠し 松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さわに 万足わわぬ事ぞなし 四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳 浅間は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり ・・・」があり、信州人にとっては、御嶽山でこのような惨事が起こるとは思っていませんでした。名古屋から松本へ”しなの”で行く折、晴天の時には噴煙が見れることがありますが、大きな噴火の心配はしていませんでした。この10月の25日には、中学の同級会参加の為、松本に行くことになっており、すでに切符の手配も済んでいます。これからの”おんたけ”の動向が気にかかります。 2014年9月26日、記載の続きをします。「マスコミ」の項です。3ヵ国のマスコミの実情を確認したいからです。 マスコミ 日・中・台のマスコミの特徴 黄氏 台湾では日本と違って、「マスコミは人を騙すもの」というのが、私も含めた台湾人一般の印象なんですね。中国語でいえば「都是騙人的」、つまり人をあざむき、人をたぶらかすもの、これがマスコミなんだというのが多くの人たちの感じ方だといっていいと思います。そしてもう一つ、マスコミは政府を代弁するもの、かっての「国民党政府の殺し屋」と同じだという印象が強くあります。・・・私の見るところでは、本格的にマスコミを作れない、マスコミのパワーを利用できないというのが、台湾人の弱いところです。 呉氏 アジアのなかでは、台湾が最も言論の自由のある国とみなされているというのは意外ですね。初耳で驚きました。言論の自由を政治権力との関係でいえば、日本が一番言論の自由のある国なのは明らかなことでしょう。これなのに、なぜ台湾が日本より自由があるとみなされるのは、こういうことだと思うんです。日本は多様性に富んでいながらも同質性の強い国ですから、国内に支配的な言論が生み出されると、それが多少の異論があってもことさらば反対をせずに大勢に同調していこうとする傾向があります。・・・それに対して台湾は同質性がずっと弱いですから、さらに対中国、対日本、、独立の是非をめぐって国論がそれぞれ二分していることもあって、さまざまな主張がそのまま出てきます。それで外から見れば、台湾が一番言論の自由のある国に見えてくると、事実は、そういうことじゃないんですか。(不思議なことです) 韓国も日本と同じに同質性の強い国ですが、言論事情は日本とはまったく異なります。韓国の場合、対日とか対米とか、対外的な問題について言論では、きわめて挙国一致が起きやすいんです。反対意見をいおうものなら愛国心がない、売国奴だとすら非難されるので、多くの人が口を閉ざして自分の意見を語ろうとしないという事情があります。韓国の民族主義は、身内正義の民族主義です。ですから、外国の味方をする者は不正義となってしまう。そういう身勝手な愛国主義・民族主義が、実際的に自由な言論を抑圧しているんです。・・・ 石氏 台湾や韓国と違って、中国の言論は自由以前の問題なんですね。そもそも中国には正しい意味でのマスコミがないんです。ようするに、マスとしての大衆のコミュニケーションの手段というものがないんです。 中国のマスコミは政府の宣伝道具にすぎません。中国には新聞もテレビもラジオもありますが、すべてが中国共産党の宣伝道具なんですね。ですから中国の報道機関は、正しい意味でマスコミと呼ぶわけにはいきません。中国は自ら「宣伝戦線」といっています。新聞もテレビもラジオも、中国共産党のために働くことがその役割なんです。・・・ 活字メディアの台湾と映像メディアの韓国 台湾の政治記者で本当のことは1パーセントしかない 中・韓・台マスコミのいうことはどこまで信じられるか 石氏 黄さんもいわれたように、中国で歴史的に作り上げられた世界観がいったん身に付いたら、そこからなかなか脱することができません。中国人はよくいいますよ、「自分は政府のいうことを信じない、『人民日報』を信じない」と。でもね、案外、信じているんですよ。・・・ 日本のマスメディアをどう見るか 黄氏・・・そういう流れのなかで、日本のマスメディアには言論の自由があるといえるのか、公正な報道がなされるといえるのかという疑問をもつようになったんです。それから段々とわかってきたことは、日本のマスメディアは反日を歓迎しているんだということです。・・・日本の反日の砦は、どうやら大学とマスメディアのようだということが80年代か徐々に見えるようになってきて、90年代からさらにはっきり感じられるようになりました。 呉氏 ・・・それで私は敗戦後遺症だというんですが、そういう特殊なコンプレックスから抜けられないまま、今なお中国や韓国に対してはいいたいことをズバリいわない、いわないことがいいんだ、語らないのがいいんだ、相手が謝れというんなら謝っておくのがいいんだ、そういうふうになっているんだと思うんです。・・・石氏 私は88年の来日ですが、お二人と同じように、日本に来て日本のマスコミの姿勢を知って感激しました。これほど自由にものをいうのが日本のマスコミなんだと。堂々と政権批判をするし、どんな権力がある者に対しても、おかしなことについて厳しく批判する。これが自由世界のマスコミというものなんだ、素晴らしいなと思いました。 それが、しだいに変だなと感じるようになっていったのもお二人と同じです。その第一はまず中国報道ですね。NHKをはじめとするテレビや大新聞の中国報道が、実におかしいんです。もちろん、中国みたいにすべてが嘘だというわけでも、嘘の材料を使って報道をしているわけでもないんです。大部分は事実ですよ。問題は、事実の選択に明らかな一つの傾向があるということです。そこがすごく陰湿だと感じるようになりました。日本のマスメディアは、とくに「朝日新聞」ですが、中国報道に関しては意図的に中国に潜在している諸問題を避けて、しかも中国の良い面をクローズアップして、それを大きく報道するんですね。中国共産党を賛美したい、中国共産党の肩をもちたいという政治的な意図が見え見えなんです。テレビではとうにNHKに中国賛美が目立ちます。・・・ 日本のマスメディアを監督・指導している中国 黄 中国には日本のマスメディアに対する、管理、監督、現場指導の機構や人員があります。日本のマスメディアに対しては、24時間体制で、専門家がそれぞれのマスメディアを監督しているんです。気に食わない番組が出たらすぐに乗りこんで行って、こういう報道をしてはいけないと現場を指導し、公開謝罪をさせるか、裏のほうでこういうことはしないと約束させるということをやっています。・・・ お笑い番組が氾濫する日本のテレビを批判する 呉 たしかに最近はお笑い番組だらけで、どこもかしこも似たようなものばかりで個性がないですね。・・・笑いが健康にいいといわれますが、それは良質の笑いということか、小気味のよいすっきりとした笑いでしょう。低次元の笑いとなると、これは精神的にいいわけがない。・・・ 韓国の親日言論・親北言論の現状 黄 歴史的なことでいいますと、どこの国のジャーナリストにも、自由な言論のために命をかけて闘った時代があるわけです。台湾のジャーナリストもそうでしたが、今は命とまではいわないにしても、あらゆる権力を使っての訴訟が起こされるわけです。李登輝ですら、ちょっとひとこといっただけでも、訴訟を起こされて、何千万元だかの罰金をとられました。まだまだ大変なんですね。・・・ 呉 韓国の場合は、起訴までいかなくても、ちょっとしたひとことでも、訴えが起きると身柄を拘束しての取り調べがおこなわれるのが通例です。こういうやり方が、ずいぶん自由な言論を抑圧していると思います。最も危ないのは、いうまでもなく日本統治時代を評価する言論なんです。これが、正式な学者の学会向けの専門的な研究論文ですと、なんとか大丈夫なんですが、書籍や雑誌に載せる評論でこれをやると、いかなる研究者でも社会的な撲殺を受けることを覚悟するしかなくなります。裁判沙汰になるのはもちろんですが、韓国の場合は社会的に売国奴の烙印を押された上に、社会的な身分を剥奪され、非難轟々のなかでどこかへ身を隠すしかなくなってしまうんですね。言論の自由で韓国特有の問題がもう一つあります。それは、自分勝手にいいたい放題にものをいうことを、言論の自由だと思い込んでいる人があまりにも多いということです。・・・ 金銭をもらって記事を書く中国・韓国のマスコミ 黄 中国のジャーナリストは、ほとんど党の文宣部がコントロールしているんですが、私が台湾の企業家から聞いた話ですが、中国ではジャーナリストをお金で買えるそうなんです。企業が中国のどこかに商品を売り込みたいといったときに、ジャーナリストに頼むと、テレビでも新聞でも、こういう内容なら相場は5000元だとか、1万元だとか、そういって提灯記事を書いていれくれるんだそうです。そういうことが実際にあるんでしょうか。 石 おっしゃる通りのことが実際にあります。ジャーナリストの最大の仕事は共産党の宣伝をすることです。これをやらなければ、ジャーナリストの身分を剥奪されますからね。・・・日本では信じられないことでしょうが、『人民日報』に載っている記事の三分の一は共産党の宣伝で、三分の一はお金をと取って載せている記事で、残りの三分の一がまあ普通の記事なんですね。そういう構造いますから、ジャーナリストたちは、この利権を手放してなるものかと、一所懸命に中国共産党のご機嫌をとる記事を書くわけです。彼らの利権の根拠は中国共産党の独裁政権にあるわけですからね。・・・ 中国・台湾・韓国で育った方々の忌憚のないお話は、”日本に育ったいわゆる、専門家・コメンテーター”の口にしないことがら、真実を含んでおり、面白く読ませていただきました。その後、『日本人は中韓との「絶交の覚悟」を持ちなさい』を読ませてもらっています。 |
2014年9月26日 図書館で、「黄文雄氏/呉善花氏/石平氏」の3人が連名の筆者になっている「黄文雄(台湾)が呉全花(韓国)、石平(中国)に直撃 日本人は 中国人・韓国人と根本的に違う」という本が目に入りました。 この3人はそれぞれ生国から離れ、日本に帰化した日本人ですが、もちろん、生国についての情報は確かであり、特に、黄文雄氏は日本、中国、朝鮮半島の歴史に深い造詣を持っています。この本は、夫々がメインとなる3冊の本の1冊です。この1冊は黄文雄氏がメインとなって「教育、道徳、食事、夢、マスコミ」について夫々が話ををしています。 教育 黄氏 日本、台湾、韓国、中国の近代教育システムは、いずれも明治期日本の教育システムをルーツとしています。この教育システムを取り入れた最初は中国の清朝(1616〜1912)末期です。韓国でも李朝(1392〜1910)末期に取り入れていって日本統治時代に本格的なものとなります。 台湾の教育制度も同じ流れにありますが、台湾の教育制度を確立したのは伊沢修二という人物です。・・・伊沢修二が手がけた台湾の教育制度には2つの特徴があります。1つは実業教育の採用です。商業、工業、農業などについて教育ですね。中国の儒教的な教育の伝統には、そういう実業教育はまったくありませんでした。 もう一つが国民教育です。つまり、我々は共通の国土・自然・文化・言語という環境のなかで暮らしてきた歴史をもつ国民である。このことを各分野にわたって総合的に学んでいくのが国民教育ですね。・・・ 呉氏 韓国では戦後すぐに公用文はハングル専用という政策が取られます。学校教育では、漢字を廃止したハングル専用教育が68年からはじまります。それで70年の春からは、教科書から漢字が完全になくなります。以後、いくらか揺り戻しがあって、わずかな基本漢字だけ教えるようにしますが、実際には使う機会がほとんどないので、漢字文化は基本的に消えて行っていまったんです。ハングルは日本の仮名よりも徹底した表音文字で、15世紀半ばに創られましたが、実際的にほとんど使われないままの状態にありました。ですから、近代以前の朝鮮の文献は9割がた漢文で書かれえたものです。公文書はすべてが漢文です。しかし、一般の国民は漢文を教わる機会なんてほとんどなく、ずっと韓国語(じつは朝鮮語ではないですか?)を使って生活してきたわけです。ですから、漢文が読めるのは一部の専門知識人だけでした。・・・ハングル専用というのは、漢字を用いずに仮名だけで表記するのと同じことですから、「厳寒」は日本語ならば「げんかん」と書くしかなくなります。そうすると「厳寒」も「玄関」も区別がつかなくなります。・・・ 石氏 歴史教育は中国の教育のなかで、とても大きなウエイトを占めています。毛沢東時代の歴史教育の特徴は、毛沢東的階級闘争史観ですね。近代以前の農民一揆の世界をことさらにクローズアップして、毛沢東中国の歴史がまるで農民一揆によって作られたかのような、そういう歴史観からすべてが闘争の歴史だったというように教えられました。 日本の戦後教育への苦言 黄氏 日本の戦後教育には、苦言を呈したいことがいっぱいあります。一つは、伝統文化、伝統精神、伝統的価値観を否定するような教育はやめてもらいたいということです。そこでは愛国教育が否定されているわけですが、愛国教育とまではいかなくとも、せめて亡国教育はやめるべきだと忠告します。 もう一つは、国家否定の教育です。最近では、国民、国民といって国家にとじこもっている時代ではない、21世紀はコスモポリタン、世界市民の時代だといった主張がよくされます。世界市民というのは、たしかに理想かもしれません。しかし、現実にはあり得ない存在です。現にある国家のなかで生きているのに、国家を無視、否定するような教育はやるべきではないといいたいのですね。・・・呉氏 ・・・天皇家といえば伊勢神宮、そこでは皇室の先祖神として天照大神が祀られている、これはいったいどういうことですか、と聞いてみますと、ほとんどがはじめて聞いたというんですね。 以降、第二章 道徳、第三章 食事、第四章 夢、第五章 マスコミ という項目をたてていますが、マスコミの項を考えてみます。 |
2014年9月17日 「文芸春秋」10月号を買い、読んでいます。「昭和天皇実録「の衝撃 いま明かされる歴史の真実 塩野七生「従軍慰安婦」朝日新聞の”告白”を越えて という内容案内にひかれたからです。 ずっとイタリアに住んでいる塩野七生氏が、「朝日新聞の誤報問題」をどのように見ているのか知りたいと思ったからです。日本人のこの事件に対して反応よりも、外国人、特にヨーロッパ人の反応はどのようなもので、どのような問題があるのかを記してくれると思ったからです。 書き出しの部分です。 「慰安婦大誤報」日本の危機を回避するための提言 朝日新聞の”告白”を越えて 8月5日に新聞の2面すべてを使って掲載された朝日新聞の記事、「慰安婦問題 どう伝えたか 読者の疑問に答えます」を一読して最初に浮かんできた想いは、「暗澹(あんたん)」であった。これは現代日本の病理が凝縮されている、と感じたからである。 第一に、この程度の、お粗末としか言いようがない検証、いや検証どころか簡単な裏付けさえも充分でない情報を基にして記事を書き、しかもそれが20年という長期にわたって、日本のクオリティ・ペーパーと自他共に認める朝日新聞の報道の支柱を成してきたという、日本人ならば笑うに笑えない悲しい事実。 第二は、この程度のお粗末な報道にもかかわらず、自分たちのほうでも独自にその真偽を検証し直す作業を怠ったばかりか、この報道に火をつけられて広がった他国での反日気運の高まりを眼にして動転し、自分たちの行為が以後の日本にどれほどの悪弊をもたらすかも考慮せず突っ走った、こらまたお粗末としか言いようがの日本政府の対応の数々。 そした最後は、権力についてはくり返し批判するのに権威にはすこぶる弱い、われわれ日本人の性向である。あの朝日新聞jが書いていることだからと疑いもせずに、20年にもわたって朝日新聞を購読してきたのだから。 朝日の”告白”は絶好のチャンスになる ・・・・・私には、ことが起こった場合に犯人をしつこく糾弾したり彼らに謝罪を求めつづけるということに、さしたる興味が持てないのである。それよりも、これによって生じた「マイナス」にどのように対処すれば「プラス」に変えられえるのか、のほうに関心が向いてしまうのだ。慰安婦問題も、この方向で話を進めていきたい。 従軍慰安婦問題とは近年とくに、日本に住んでいる日本人が考える以上の大きな問題になりつつあったのだ。アジアの国々にかぎらず、ヨーロッパやアメリカの人々の関心までも引くほどになったいたのだから。この変化は、いずれは手術が不可欠になる、と思わざるをえないくらいに。 ゆえに朝日の”告白”は、対処しだいでは絶好のチャンスに変わりうるのである。そのためには、犯人糾弾に熱中するよりも、”犯人たち”にも協力してもらうほうが役に立つ。何にも増して重要なことは、従軍慰安婦のおかげで致命的に傷つきつつある、日本に対する他国の印象の回復なのだから。 氏は、5つに分かれた”告白”の項目について、○は、朝日側が、訂正の必要がない、としたもの。×は取り消します、つまり訂正を明言したもの。△はなにを言いたいのか判らない、往生際のわるい告白、に分けています。 「『済州島で連行』証言」と銘打った項目は、明確に×。「『挺身隊』との混同」は×。「軍関与を示す資料」の項目は△。「元慰安婦 初の証言」という項目は△、2つの項目の△は限りなく×とおもっている項目。 有能な弁護士ならば 問題は、「強制連行」と題された項目である。この項目の重要度は、他の4つと比べようがない。欧米までが問題視し始めているのは、まさにこの点なのであるから。 この項目について朝日は、強制連行を狭い意味と広い意味に二分することで、狭い意味での公的機関の連行は無かったとしても広い意味で、「本人にの意思に反する広い意味での強制連行」はあったと結論づけている。朝日が○、訂正の必要がないとしている点としています。 ・・・だが、私は、考え込んでしまった。元慰安婦たちの聴き取り調査を行ったということだが、当事者本人の証言といえども頭から信ずることはできないという人間性の現実を、調査してそれを基にして記事を書いた人はかんがえなかったのであろうか、と。・・・ 欧米を敵にまわしてはいけない ただし私の視線は、この項目のある箇所に釘づけになった。記事をそのままで書き写すが、当時の大日本帝国の内部では「軍による強制連行を直接示す公的文書は見つかっていない」としながらも、次のように続けているのだ。「一方、インドネシアや中国など日本軍の占領下にあった地域では、兵士が現地の女性を無理やり連行し、慰安婦にしたことを示す供述が、連合軍の裁判記録などの資料に記されている。インドネシアでは現地のオランダ人も慰安婦にされた」 私の頭の危険信号が点滅し始めたのは、欧米が慰安婦問題を突いてくるとすればこの箇所だ、と思ったからである。「インドネシアでは現地のオランダ人も慰安婦にされた」と記された箇所である。・・・・・ 半世紀にもなるヨーロッパでの生活で、苦い現実でも直視することを私は学んだ。欧米人の多くには、口に出して言える考えと、口に出しては言えないが胸の内では持っている想い、の二つがあることを学んだのである。・・・ ・・・口に出して言える考えとは、彼らにとっては何か、だが、人道的に許せない、とか、異なる宗教を信じている人も認めるべき、とかである。一方、口のは出せないが胸の中では持っている思いとは、キリスト教徒、それも女子供が迫害されるのはゆるせない、であり、さらにこの人々が白人種であればなおさら許せない、である。・・・ ・・・われわれ日本人にとって、欧米を敵にまわすのは賢いやり方ではない。オランダ人の女も慰安婦にされたなどという話が広まろうものなら、日本にとっては大変なことになる。そうなる前に、早急に手を打つ必要がある。 そこで、氏は、まず、朝日にこの箇所の記事の根拠になった全資料を提供してもらうこと。当時インドネシアにいた元オランダ軍兵士の証言をとること。関係者全員の国会への招致、そしてそこでの展開のすべては公表し、国会中継と同じやり方でテレビでも放映すること。関係者は火付け役になった朝日新聞社の関係者はもちろん、当時の自民党の有力者です。 ・・・国会に招致されることで朝日新聞も傷つくだろうが、自民党も傷つくのである。だが、朝日側が朝日の人間であることを忘れ、自民党の側も自民党の実力者であったことを忘れてこそ、本当の意味で「うみを出しきる」ことができるのではないか。 何のために?両社ともが、信用の回復のために。そしてこれもまた、戦後レジームからの脱却、の一つになりうるとさえ思っている。 (編集部・後記) ローマ法王は8月、5日間にわたる韓国訪問の際、訪問最後のミサで元慰安婦とも面会した。このミサを、「メール・オンライン」は次のような見出しをつけて報じている。 (法王は第二次大戦中、日本によってむりやり性奴隷にされた韓国の慰安婦に会い、とうてい受け入れがたくとも和解するように求めた) しかしこの記事は誤りであり、法王が実際に求めたのは、日韓の和解ではなく朝鮮半島の南北和解だった。とはいえイギリス最大のニュースサイト「メール・オンラオン」の間違った認識は、塩野氏の指摘が杞憂でないことを物語っている。 「昭和天皇実録」の衝撃の部分は、半藤一利氏、保阪正康氏、磯田道史氏による対談風の記述です。ゆっくりと読み進めます。 |
2014年9月8日 昨年12月12日に亡くなってしまった彼女は高校時代からの友人の嫁さんであり、ともに、旅をした高校の同期の友人でもあります。彼女が長年たしなんでいた短歌の遺歌集が届きました。「歌集 たそがれの光」を上梓してから5年、亡くなるまで筆を置かなかった彼女の思いを汲み彼が遺歌集として自費出版したものです。その別冊「旅の徒然に」として共に旅をした折の私の写真と歌とのセットを出版してくれました。 入院してから亡くなるまでの遺歌は第9章にまとめられています。精霊の清廉さを思わせる歌の数々はこころに沁み通ってきます。。 付添いの子等と最後に手を握り手術室に入るいよいよ一人 麻酔より覚めて子等との対面も母親の立場見せんと私 などなど。 以下は12月16日の記載です。 2013年12月16日 先月28日「脳動脈瘤」の手術を受けた嫁さんが、10日、「第二岡本病院」を退院してくれ、ホッとしていた12日朝、春秋年2回の旅を伴にしている友人の奥方、彼女も高校を同時に卒業している旅仲間の一人ですが、亡くなってしまったとの報に接しました。 胃の全摘出の手術を受け、今年夏春には退院し、家で療養していたこと。夏以後、別治療の為に別の病院に入院、10月28日、信州白馬への旅行中に、手術をした病院へ転院していたはずでした。私たち全員は彼女が再起し、来年春の旅行へ参加してくれることを信じていました。 残念です。彼女は先般大病を患った旦那に気を使うとともに、私たちとも暖かい笑顔での会話を楽しんでくれていました。 15日、11時からの東京・日野市・「高幡不動観音院」での告別式に、関西に住む旅仲間とともに、参列してきました。高校同期の仲間が、多く参列しており、式の後、松本からの仲間の一人、何年かぶりの湘南に住むH氏、関西からの2人の4人で近くのお蕎麦屋さんで4時間にわたる「精進落とし」で故人を偲びました。私としては故人を偲ぶため、「旅」と「歌集 たそがれの光」を中心とした別ページをつくることとしました。 |
2014年8月24日 今年の夏は、梅雨みたい!!!!!今も、大雨が降っています。確かに現時点は「秋雨前線」による雨のようです。20日、広島市内での豪雨による「土砂崩れ」によって、現時点で死者40何名か、行方不明40何名かと伝えられる大被害が発生しています。 深夜、2時半頃から、4時頃までの間に発生し、被害に遭われた方々は、本当に「寝耳に水」の状態であったと思われます。残念至極で、心よりお悔やみ申し上げます。 この地点は過去に土砂崩れがあり、これにより「土砂災害の警戒情報・警報」関係の新しい法令が作られた原点であったようです。県営住宅があり、その周囲に多くの新しい家が建っており、その土砂が流れ落ちた家々は、無残な状態となっています。鉄筋作りと思われる県営住宅は残っていますが、その他の木造住宅と思われる家々は影も形もない家々が多くあります。 この地点の宅地開発を進めた官、企業の責任は?この地に家を建てていしまった、もしくは、借りてしまった方々は今後どうしたらよいのでしょうか?天災による大事故が起こるたびに「想定外」ということばをいつまで聞き続けなければならないのでしょう? 5月の久しぶりの「山辺の道」がほぼ出来上がり、アップすることが出来ました。このページである「歴史散歩万葉の旅」の原点の「山辺の道」のページで、思わず力が入ってしまいました。万葉歌については更に追加のページを加えていく所存です。 |
2014年8月19日 今年のお盆も終わろうとしています。8月2,3日、私の兄弟会の為、信州の大町市にある大町温泉「立山プリンスホテル」へ行ってきました。 松本に住む兄貴、姉貴夫婦の3組、大町の姉貴と息子、娘、こちらからは息子夫婦、と2人のマゴッチ、娘とマゴッチ、我々夫婦、計8人で、総勢18人となりました。 名神高速道路の米原付近の事故渋滞で滋賀県を出ることができたのは、午後の1時過ぎ。大町温泉への到着が、6時に始まる予定の宴会にかろうじて間に合ったしだい。いろいろと話をする時間が少なく、残念ではありましたが、マゴッチ含めて元気な姿を見せることがで、喜んでもらえました。皆もう十分な歳ですので、来年への期待は益々少なくなっていきます。 旅の写真を以下に紹介していきます。 A) 朝、5時30分、朝風呂から帰り、部屋の窓から白馬岳方面を撮ってみました。 B) 5時40分、カメラを抱えて恒例の、朝の散策に出ます。 C) 2,3分歩くと大きな川がありますが、水は僅かし流れていません。 D) 「爺ゲ岳」、「鹿島槍ヶ岳」方面です。 E) 鹿島槍ヶ岳方面。 F) ホテルから「薬師の湯」方面への道に新しい道祖神が置かれています。 G) 「山下」の道祖神 H) 「思索」の道祖神 I) 「笑福」の道祖神 J) 「踊福」の道祖神 K) 大町温泉案内 L) 大町からの北アルプス連峰詳細 マゴッチたちの希望を勘案して、「大王わさび農場」の横にある、ボートに乗ることとしました。 M) 「大王わさび農場」全体図 N) スクリーンに囲まれた山葵畑 O) 浮きベストを貸し出しています。 P) 透明な川の流れを味わいながらボートでの川流れを楽しみます。 Q) 豊富な水流を利用しての水車小屋が3つ R) 水車小屋2 S) 水車小屋3 食事をして帰宅できたのは、9時過ぎになっていました。幼いマゴッチ達にはチョット酷だったかもしれません。ごめんなさい!!!!! |
2014年8月9日 台風11号による雨が降っています。明日の午前中まで続くと思われます。雨は問題ですが、そのために気温が下がりパソコンに向かう気力が出ました。2日、3日信州の大町温泉での兄弟会の写真整理、発送が済、「山辺の道」のアップに向けて再始動できます。 今週は「朝日新聞」の「いわゆる従軍慰安婦についての大きな虚偽報道訂正、取消」の記事が一面と28・29面に載せられました。その中で、最も気になったことは、1面の表題の書き方です。「慰安婦問題の本質 直視を」というものです。その中には、32年前の記事の取消、訂正を謝罪する心が全く感じられないことです。さらに、その為の強弁として、問題の本質のすげかえを行っていることです。朝日新聞はこの日本国内向けの記事と「読者の皆さんへ」というコメントだけで終わりとするつもりなのでしょうか?さらに不可解なことは、テレビ放送局の報道です。朝日放送系列が無視することは予測できますが、毎日放送、テレビ東京などが報道番組と称する番組でまったく触れないことです。「報道という責任」をどのように考えているのか?ジジイの疑問は尽きません。 |
2014年7月22日 このページの更新の期間が開いてしまっています。パソコンでの作業を止めているわけではありません。5月に嫁さんと訪ねた「山辺の道」への旅を進めているからです。なんといっても、このページの原点である「歴史散歩万葉の旅」のホント久しぶりのアップだからです。 7月20日は、私の72回目の誕生日ということで、昨日嫁さんが「ニューバランスの靴」を買ってくれ、夕食を御馳走してくれました。有難いことです。 19日から今日まで、息子たちは嫁さんの里、鳥取へ。娘たち一家は従妹二人を連れ、週末から日本海へ海水浴へ。 8月2日、3日は皆が高齢になり、来年は?の状態での兄弟会を信州の大町温泉「立山プリンス」で開くこととなり、娘の旦那が仕事で行けないのは残念ですが、大人5人、マゴッチ3人の大所帯での移動が予定されています。 |
2014年7月7日 このページの更新の間隔が開いてしまいました。侍ジャパンの予選リーグ敗退があり、チョットがっくり来ていた感はあります。それよりも、6月8日、9日の「ジジ連・伊豆半島の旅」をまとめていたこともあります。結構、時間がかかりました。これから下見のみで本番は無かった、久しぶりの「山の辺の道」を整理したいと思ってます。 今日は、文字通りの「梅雨」。巨大台風も近づいています。今日は、同じ市内に住む歴史、そのほかの「同好の士」であるK氏との飲み会です。楽しみです。 |
2014年6月20日 侍ジャパンのギリシャとの戦いは0−0のスコアレスドローになり、日本の一次リーグの突破は難しくなりました。残念です!!!朝7時からの読売テレビの完全中継であるため、珍しく完全に観きることが出来ました。攻め切れなかった理由はなにか?気になったのは、日本のエースとして、自他ともに許しているであろう選手の動きの悪さでした。ポスト位置にこだわり、自分から積極的攻撃参加の動きが無かったことです。素人の意見とは自覚しているのですが!!! 高校の仲間達との「きぬかけの路」をアップしました。次は何をまとめるかを思案中です。 |
2014年6月12日 ジジ連の「伊豆半島の旅」へ行ってきました。8日、9日のことです。心配されていた天気も概ね良く、快適なドライブ旅行を楽しませてもらいまいた。ただ、「富士山」を拝めなかったのが心残りです。ページはこれからですが、「石廊崎」先端の写真を紹介したいと思います。岬左手からの写真です。 A) B) C) 先端の巖には「石室(いろう)神社が祀られています。 D) 前面に太平洋の波が打ちようせています。 F) 伊豆7島の紹介です。 |
2014年6月6日 西日本に梅雨入り宣言出され、昨日はそれらしい雨が降る1日でいたが、今日はそれほどの雨は降らず、今17時少し前、お天道様が顔を出しています。天気が気になる理由は、8日、9日とジジ連の「伊豆半島の旅」が近づいてきているからです。楽しい5人組の仲間による旅は、前回、嫁さんの手術のために欠席してしまっており、1年以上の空白が生じてしまっています(前回は13年1月28,29日の白川郷の旅)。カラオケを含む飲み会は継続してはいますが。なんにしても、5人組ジジ連の旅は楽しいものになるはずです!!!!! 高校同期会の奈良の旅、その下見の嫁さんとの旅、高校の仲間との京都の旅、やはりその下見の嫁さんとの旅など、ページにしなければならない写真が貯まってしまっています。京都の旅から進めていますが(「さくらの京都へ」が一応完成しました。)、今回の旅をページに出来るのはいつになるか、ホント心配です。 |
2014年5月30日 今週初め、天皇家に祝事がありました。高円宮典子さま(高円宮家は大正天皇の第4皇子三笠宮家の第3皇子憲仁の宮家で、現当主は久子さま、次女)と出雲大社の禰宜を務める千家国麿氏との婚約がなったとの報道です。千家氏といえば出雲国造として出雲大社の宮司を務めてきた関係で、過去の天皇家とはなにかと因縁深い間柄であるところから、古代史オタクにとってはなんとも面はゆい事柄と言えます。が 関裕二氏の「出雲抹殺の謎」からの抜粋です。 謎の多すぎる出雲 ・・・大和朝廷誕生の前後、出雲はたしかに存在したのであり、しかもヤマト建国に関与した後、衰退していったことがわかってきた。とするならば、このあたりのいきさつを後世に残すことができない何かしらの事情が、8世紀の朝廷にはあったということなのだろうか。 どうもよくわからない。ヒントならいくらでもある。そのなかのひとつが、生きた化石、出雲国造家にほかならない。 出雲神を祀り続ける出雲国造家は、どこか奇妙である。出雲国造家のあり方、やっていること、みな不可思議きわまらいない。そして、尋常ではないその行ないその行動の数々の理由を突き止めていけば、祟る出雲神の謎は、解けてくるかもしれなあいのである。 そこで、祟る出雲神の秘密を解く鍵を探して、出雲国造家について、しばらく考えてみよう。 さて、出雲国造家の祖は天穂日命(あめのほひのみこと)で、この神は、最初高天原から出雲に遣わされ、出雲国譲りの根回しをする手はずだったと神話には書かれている。この伝説に対し、出雲国造は反論する。すなわち、出雲国造が新任されるとき、朝廷に出向いて奏上する寿詞(よごと)のなかで、天穂日命とその子どもどもは、天つ神の出雲制圧に功績があったのだと自画自賛している。 どちらが本当のことなのか、はっきりしたことはわからない。もし出雲国造家が弁明するように、出雲国譲りに国造家が貢献したというのなら、なぜその後、出雲の国造家だけが、新任に際し朝廷に出向いて、服従の誓いをするようになってというのであろう。やはりこのあたりにも、出雲国造の不思議さが隠されている。 ・・・出雲国造家が本拠地にしていた意宇(おう)を離れ、出雲大社の杵築(きづき)の地に移るのは、意外に時代が下がって、平安時代にはいってからなのだが、国造家が移ったひとつの理由は、出雲大社の人気が圧倒的に高くなったからではないか、とする説もある。・・・ 梅原猛氏の「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」からの抜粋です。 ・・・熊野大社では「鑽火殿(さんかでん)」が有名である。鑽火殿は、スサノオが檜の臼と卯木(うつぎ)の杵で火を鑽(き)り出す方法を教えたという、ひきり臼とひきり杵が奉安されている施設である。この鑽火殿が脚光を浴びるのは、出雲国造である出雲大社の宮司が亡くなり、新しい宮司に代わるときである。出雲大社の新しい宮司は前の宮司が亡くなるや、直ちに熊野大社の鑽火殿に赴いて、「火継(ひつぎ)」の式を執り行わねばならない。この鑽火殿で神聖な火をもらわないと、出雲大社の宮司にはなれないのである。・・・ 出雲大社、出雲国造家は不思議な世界であり、天皇家との関係も神話の世界からのものです。 |
2014年5月25日 5月のイベントが終わり、一段楽です。17日は高校同期会関西支部の恒例の会ですが、16名の参加、松本、東京方面からの参加もあり、例年のごとく、楽しい会でした。入院治療で心配されていた友人の元気な姿をみられ、心からの握手が出来たこと、また、翌、18日に予定されていた今回の目玉企画、「万葉の奈良路」が意外と人気があったことです。 「山の辺の道 北」、「石上神宮から景行天皇陵」の10キロを嫁さんと下見をしていたのですが、宴会のさなか、10キロの道を歩いてもらうのは無理なことがわかり、ルートを奈良市内に変更、翌朝、二日酔いをおして、「興福寺ー東大寺ー秋篠寺」の栞を作り、ご案内しました。12名の参加でした。京都と違い、奈良の旅は珍しいこともあり、結構、好評を得ることが出来ました有難いことです。 20日、21日はやはり高校の友人達とのやはり恒例の旅、昨年春は鎌倉、秋は信州白馬でしたが、今年は京都に戻りました。ただ、京都、奈良への旅の主役であった典さんの姿が無いのが残念です。昔、一度は足を運んだけれども、最近は訪ねていない有名どころに的を絞り、「金閣寺」、「龍安寺」、「仁和寺」を訪ねました。金閣寺、龍安寺の外人客、修学旅行生徒たちの喧騒を離れた仁和寺での安らぎの時がジジイ連中にはピッタシだったようです。「草喰なかひがし」での宴会はもちろんお酒、話が弾むものでした。10時頃からは、この仲間では久しぶりの駅前のジャンカラでのカラオケ、グランヴィアホテルには12時過ぎに帰り、さらに2時間の3次会でした。 翌、21日は「酒どころ・伏見」の「寺田屋」・「大倉記念館」を訪ね、「十石舟」での船旅を楽しみ、「鳥せい」での占めをしました。前日のお酒が残ってしまったメンバーもいましたが、おおむね、好評であったように思います。自画自賛のようで、申し訳ありません。 ページ作りが楽しみな日々が続きます。 「功参造化」功:わざ、技術 参:入る 造化:自然 「わざや技術がうまくて天のなせる業の域に入る、神業だ」 【壮観】規模が大きくすばらしいさま。また、その眺め。 |
2014年5月8日 春のゴールデンウィークが終了しました。若いころは、この時期は花粉症の症状がひどく、夜など寝られないこともありました。歳を古とともに、少しは収まってきていたのですが、今年はその症状がぶり返してきています。そんなこともあり、ページの更新の間が開いてしまいました。 5月17日、18日は高校の関西同期会、20日、21日はやはり高校のクラブ仲間達との旅案内のための下見を終えホッとしています。6日は”山の辺の道”を天理から「大神神社」まで、嫁さんと歩きました。昔と違い、大変整備され、トイレなども安心なルートとなっていました。 4月始め状況の折、友人に紹介された谷川彰英氏の「信州 地名の由来を歩く」を読みました。氏は我々と同じ高校を卒業し筑波大学に進んでいます。続いて、「『「地名」は語る 珍名・奇名から歴史がわかる』、『地名に隠された「南海津波」』などを読み進めています。面白い!!!!! |
2014年4月19日 先週水曜日、5月に計画されている京都の旅の下見のために、京都「きぬかけの道」を訪ねました。「l金閣寺」・「龍安寺」」・「仁和寺」を巡る道です。仁和寺の桜は、ちらほら咲きということで、境内の桜園には入りませんでしたが、(以前に見頃の時訪れています。)金閣寺、龍安寺、大覚寺は完璧な見頃、本当に堪能しました。その景色はページにまとめています。 富坂聡氏の「中国人は日本が怖い! 反日の潜在意識」を読みました。反日が進んでいる理由として、全体には「ソフトパワー」主として「反日映画」の影響を強調していますが、最後に現在大きな懸念が言われている「シャドーバンキング」について述べています。 シャドーバンキング問題の処理を急ぐ理由 現政権の抱える深い悩みである経済失速は、2013年に入ってからの半年で、数字にもくっきりと表れ始めている。7月には、「シャドーバンキング」という言葉とともに、「中国発の金融危機」として日本のメディアでも大々的に報じられているようになった。・・・ 世界の注目を集めるシャドーバンキングという言葉。日本では「影の銀行」と訳されているが、この言葉は「不明確な資金の流れ」を意味している。簡単にいうと、銀行の窓口で「理財商品」として販売され集められた資金が、いくつかの金融機関などを経て地下経済に向かう、マネーの流れのことだ。実態は中国政府ですら把握できていないという、まるで冗談のような話だが、その貸出残高は「日本円にして200兆から300兆円規模」(日本のアナリスト)になるという予測もある。 中国で起きている異常な不動産価格の高騰の裏には、こうした”地下マネー”の存在があり、万が一、バブル崩壊のような急激な値崩れが起きてしまえば、巨大な不良債権が一気に表面化して、金融システムに壊滅的な打撃をもたらすのではとの懸念が世界中に広がった。 中国経済の不安要因であるシャドーバンキング問題は、それを含む中国の地下マネーの問題と見ることができる。地下マネーの存在を正しく理解するには、まず中国の表の経済の最大で約4割にも相当される、地下経済の全体像を把握する必要がある。地下マネーは地下経済という体を走る血液なのだから、当然だろう。このとき日本人が最も理解しづらいのが、地下経済の性質である。それはシャドーバンキングの「シャドー」が「影」ではあっても「裏」にどどまらない、ということだ。 もう少し分かりやすくいえば、「裏も含めて中国経済」と考えざるを得ない現実である。一つの具体例を示そう。携帯電話だ。人口でみれば圧倒的多数の中国人が使用しているには”山寨手機”(海賊携帯)と呼ばれる非正規品だ。正規品の端末は店頭では5万円前後。これは平均賃金が月3万円から5万円といわれる、圧倒的多数の庶民に手が届く価格ではない。そこで登場するのが、地下工場で生産された、価格1500円前後の山寨携帯である。中国社会の面白いところは、山寨携帯であっても、大手国有通信会社を通じてちゃんと通話できることだ。 山寨携帯を製造するメーカーは当然、地下メーカーである。台湾から密輸しようとした携帯電話の部品が、広東税関で取り締まりに遭い、没収さらたり科料を取れれたいうニュースに接するが、山寨携帯が中国の市場から駆逐されることはない、むしろ最近ではインドや東南アジア向けに、輸出までする勢いだ。 そして、こうした地下メーカーを、ファイナンスの面から支えているのが地下マネーであり、シャドーバンキングの資金なのだ。中国社会には、携帯電話をはじめパソコンや自転車、文房具、衣料など、あらゆる業種の地下メーカーが存在し、超廉において低価市場に頼ってしか生きていけない人々に商品を。提携している。その経済活動のすべてを支えているのが地下金融なのである。 シャドーバンキングが「影」であっても「裏」ではないという意味はここにある。中国において表」か「奥」かの線引きは日本社会ほど明確ではなく、またお互いに極めて密に影響し合ってもいる。つまり、中国の地下経済の実態を取材し、『中国の地下経済』(文春新書)という本にまとめた。当時、温家宝首相率いる中央政府の意向を受けていて地下経済を調べた中央財経大学の李建軍教授は、「中国にある中小企業のおよそ6割以上は、地下金融によって支えられている」と語ったほどで、実は地下だけでなく表の企業もしっかり支えられているのである。つまり、ある意味必要悪として性格を秘めているのだ。驚くべき地下経済の実力は、その浸透が民間企業に限られていない点にある。・・・ ・・・並んだ機関・企業名を見れば明らかになるように、いずれも地方政府か地方政府傘下の企業、あるいは関係企業なのである。つまり地方政府やそれと深い関係にある企業が、してはならない場所で大規模マンション開発を手掛け、許可のない鉱山を勝手に掘り、せっせと儲けていたという構図である。日本人には信じられないことかもしれないが、これが紛れもない中国の真実なのだ。・・・ 日本がバブルに踊らされていた時、日本の大銀行が不動産屋に変身し、裏筋の者までも使い開発と称する地上げを繰り返し、その後の暴落のタネを作った姿が思い出されます。そして、20年、日本に逼塞の時を招いたのです。 |
2014年4月8日 新年度に入り、速くも、8日です。2日、3日と東京へ行き、帰ってくると、新年度に伴うマゴッチ達の世話が待っていました。小学校3年生になった美緒ちゃんを娘が仕事へ行く途中で置いていきました。小学校入学前はしょっちゅう来てくれていたのですが、さすがに入学するとそうはいきません。4日は梨央ちゃんも保育園が入学式の休みで、来宅、もちろん梨心ちゃんも一緒です。今日も梨心ちゃんが来ています。お母さんが自動車免許取得のため教習所へいっているからです。 2日、3日の東京行きは、本当に有意義でした。まず、好天気の行きの新幹線の窓から、浜名湖の景色、 大井川の向こうの富士山、 富士山のアップ、 を撮影することが出来ました。 互喜会(ゼミの同期会)は、11時に病院を退院した先生を奥さんが連れてきてくれ、全員で、20名の参加となりました。前メンバーが21名です から、その出席率はこの歳になっては考えられないものと言えます。その会話は20歳頃のまま、50年の歳月を感じさせないものでした。参加して善かったと実感する時間でした。 夜は6時に、銀座松屋前に集合し、近くの和食屋さんへ。学卒後、入社した会社で、同じ寮に住み、上下ベットで生活した親友Kさんがセットしてくれました。他の二人も同じ寮で生活した親友です。昼のお酒の影響か?やはり自分勝手な会話が多かったのではないかと心配になるほどです。Kさん、Yさん、Kさんごめんなさい!!! 3日は、お線香をあげるため、高幡不動へ。友人への電話が通じず、住所の入力からダウンロードした地図を頼りに友人宅にたどり着きました。納骨前で遺骨が仏壇横に置かれており、その箱に手を置くことが出来ました。 前日の酒量の多さから今日は駄目との弱音を吐きながら、11時から5時過ぎまで、二人で飲み続けることになってしまいました。我ながら呆れたものです。 |
2014年3月30日 「ウインドウズ7」での2回目の入力です。上手くアップされるのか心配しながらキーボードを打っています。消費税が5%から8%へとあがる4月1日まで、残す時間は1日半となっているわけです。年金生活の我々にとっては当然にもっとも影響の強いことですが、昨年、嫁さんの手術の折に初めて知ることになった、「高額医療制度」の恩恵などを考え、現行の「税体制全体」を考慮すれば、当然消費税率の上昇は止むを得ないことでしょう。ただ、前都知事、某政党の代表のような報道されている事象だけで、素人の我々でも明らかに判る「うそ」を平然と語り、後のなって釈明する政治家がその税金の使用を決めている現在の制度はぜひとも見直してほしいものです。制度とは、政治家という本当は最も人々からの信頼が大切な業務を長く続けていると「普通の常識」をなくなってしまう制度のことですが、制度というよりも、50代から70代の我々のいままでの生き様の問題かもしれません。日本人古来の「恥を知る」を思い出したいものです。 4月2日は、12時から予定されている大学時代のゼミの仲間達との集まりに3年ぶりの参加のため上京します。夜は、学卒後52歳まで勤めた会社でともに寮生活をし、その後ずっと「身内」の付き合いをしてもらっている3人との食事会です。傍から見れば、「気持ちが悪くなる」であろう会話が飛び交うことでしょう。 3日は昨年12月に亡くなってしまった高校時代からの、この何年間も年に2回の旅行を伴にした仲間夫婦の旦那の家へ、お線香をあげに行くこととしています。「典さんを偲ぶページ」は1月に仲間のみにアップしています。 |
2014年3月25日 間もなく、「ウインドウズXP」のバックアップサービス期間が終了します。「ウインドウズ7」のこのパソコンからページをアップするテストをすることとしました。スピードは上がるのですが、入力のタッチが変わってしまいます。 |
2014年3月23日 3日連休の最後の日です。ジジイには関係がないことです。21日、ジジ連の集まり、3時から京橋王将で、餃子を中心に食し、大ジョッキのビールを楽しみながら、6月8日、9日「伊豆半島・伊東温泉への旅」決めました。5人で1台の車で行けそうの計画となります。楽しみです。もちろん、「天城越え」の現地に行けそうということで、なんと、その後の恒例カラオケの最初に、「天城越え」をリクエストされました。3時間にわたり、十二分に楽しむことができました。 集合の前に、折角ですから、「大阪城梅林」を散策することができました。 1) 大阪城ホールへの橋を渡ります。バザーに参加する人々が列をなしています。 2) 大阪城全体図、天守閣と梅林の位置がわかります。 3) 大阪城梅林入り口。 4) お濠の向こうに今歩いてきた地域に人々が群れています。大阪城マラソンがあったようです。 5) 梅林の向こうに大阪城が。 6) 「緋の袴」 7) そのアップです。 8) 「八重揚羽(やえあげは)」 そのアップです。 9) 「紅千鳥」 10) お城と紅千鳥 11) お城と紅千鳥 12) お城との別れ道です。 3月12日、「京阪樟葉駅前のショッピングモール」の大型改装が完了しました。現役時代、長年の通勤コースでもあり、大変馴染み深い所だけに、19日、嫁さんと探索に行きました。 1) 駅前広場 京阪電鉄の特色らしい展示品がありました。大変楽しい展示です。 2) 京阪電車の特急テレビカーです。 3) 楽しいジオラマも。 4) 京阪電車路線図。 5) 窓の景色を眺めながら運転をシュミレーション出来ます。 6) 京阪電鉄駅の今昔。 7) 昔の「樟葉駅」、男山団地も何もなく、駅前は「八幡の藪知らず」、30分に1本しか各駅停車の電車が来ない駅でした。 |
2014年3月20日 昨年7月31日に誕生した梨心ちゃん、ハイハイが上手になり、お母さんを驚かせ、困らせ始めています。また、お姉ちゃんの梨央ちゃんとは姉妹ケンカが勃発し始めています。その分、ジジ、ババとの親密感は格段に増しているようです?梨央ちゃんを保育園に送ってゆくため、今朝も家を訪ねると、ニコニコとした顔を見せてくれるようになりました。。今夕もお風呂の手伝いに嫁さんと訪ねます。今週はほぼ毎日の日課となっています。 昨年は3月から5ヶ月間にわたり、「熊野古道・歩きの旅」を完結しました。その後の、嫁さんの脳動脈瘤手術を考えれば、よく完結したもの驚きます。山の上り下りは結構キツイものでした。急な登り坂が続いた後、ぐったりと座り込んでいる姿を、今も思い出します。 すぐに4月です。あちこちと旅に出られる季節となります。「旅のページ」を作る楽しみから遠ざかっています。その間、「古代史への旅」を本を通して楽しんできています。関裕二氏の書物を読み進めると、「古事記」・「日本書紀」に記された神話よりも面白い『物語』を読まさせてもらいます。 明日は、ジジ連の5人の集まり、呑み、食べ、カラオケのコース。4月2日、3日は東京へ出かけることになっています。 |
2014年3月4日 いつの間には、今年もはや、3月になっていました。2日には、鳥取の祖父ちゃん、祖母ちゃんが梨心ちゃんの初節句の為に駆けつけてくれ、楽しい宴の時を過ごすことができました。在り難いことです!!!!! 平和の祭典「ソチ五輪」が終了し、7日には「冬季パラリンピック」が開催されようとしています。こんな時、「ウクライナ問題」が発生しています。なんとも、難しいものです。「呉善花」の本を一応読み、感想文をまとめてみました。 |
2014年2月14日 今日は、間違い無しの大雪となりそうです。いつもであれば、車で送り届けるマゴッチ梨央ちゃんを歩き、バスで、送ってきました。既に、5センチ弱の積雪で、夕方までは降り続けると、朝、テレビ報道があったように、20センチの積雪もありかもしれません。子供の頃の、信州・松本の風景が思い出され、心楽しくなってきます。もちろん、70越えの歳の故です。 別ページ「明治維新からの半島との歴史 呉善花さんの本の読後感」で、「親北朝鮮=反日=民族主義」の韓国の歴史は、「親中国=親北朝鮮=反日=反米=民族主義」となりつつある姿を勉強中です。 |
2014年2月13日 「呉善花さん」の本を6冊読みました。感心し、大変面白く思ったことは、明治維新以後の近代、現代史に関して、朝鮮半島との遣り取りを読ませて貰うと、「眼からウロコ」、大変勉強になりあました。別ページで整理してみます。 |
2014年2月4日 豊田有恒氏の『韓国が漢字を復活できない理由』を読んでいて、「漢字混じりのハングルを良しとした福沢諭吉」の部分に以下の記述がありました。 呉善花(オソンハ)さんが、この間の事情を書いておられるので、長くなるが、引用させてもらう。「漢文だけでは読者範囲が狭すぎるため、仮名(ハングル)を使うことで、朝鮮の漢文を至上とする旧主義を一転させたい。日本でも古論を拝した仮名混じりの通俗文の力と言うべきで、このことをけっして軽視してはならない」『韓国併合への道』(呉善花著 文芸春秋判)より 福沢先生の書簡からというが、明治19年、日本で鋳造させたハングル活字を使って、「漢城週報」を発刊したことに触れたものである。漢城(ハンソン)とは、ソウルの正式名称である。 豊田氏によれば、「ハングル(チョソングル)(訓民正音)はあくまで仮名(日本的に言えば、ひらがな・カタカナ・ローマ字)で、漢字との併用で大変便利になるにも拘らず、明治維新以降、特に、日本製翻訳漢語を使用するのを敬遠し、漢字使用を禁じてきているようだ」としています。要するに、「ナショナリズムから自立できない韓国の漢字教育」としています。 こんなことから、呉善花氏の『韓国併合への道』を読みたいと思い、恥ずかしながら、ブックオフでチェックし、何冊かの氏の本をゲットし、読みすすんでいます。(『韓国併合への道』、『反日・愛国の由来』、『「日帝」だけでは歴史は語れない』、『韓国の暴走』、『韓流幻想』、『ワサビと唐辛子』) 本の帯裏の 韓国併合への道 として以下のように記してします。 韓国併合へといたる道は朝鮮近代敗北の歴史を意味する。なぜ敗北したのか、その自らの側の要因と責任の所在を真摯に抉りだす作業が、韓国では未だになされてはいない。戦後の韓国で徹底的になされてきたことは、「日帝36年」支配をもたらした「加害者」としての日本糾弾以外にはなかったのである。本書は、日本に併合されるような事態を招いた韓国側の要因を、その国家体質・民族体質を踏まえながら、歴史的な事件とその経緯のなかから究明していこうというものである。 西欧諸外国からの目立った干渉が始まった、日本で言えば「明治維新」ころからの「朝鮮半島」を中心とした「日本」と「中国」との関係、歴史を丁寧に解説してくれていることに感心してしまいました。日本の近代・現代史は、記されているように、朝鮮との関連で読み解いていくことの意義を気づかせてもらいました。 続けて読み進めていきます。 |
2014年2月2日 久しぶりのページ更新です。パソコンが置かれた部屋の温度が問題でしょう。意気地の無い話です。 ホント、久しぶりに難波に出ました。高速道路を使って「高速京田辺バス停」から「なんばOCAT」までの直通バスがでるようになっており、始めて乗車してみることとしました。約1時間の乗車時間ですが、道路事情によって完璧とは思えません。まず、乗車時間には5分ほど遅れての到着でした。途中、左手に「生駒山」が見え、 到着予定時間に「湊町IC」を降り、5分ほど遅れて、OCATへ到着しました。OCATからは関空、伊丹を始めとして、各地への高速バスが出ています。 昔の会社の仲間4人での新年会。「桜馬ノ助」での馬肉料理が今回のお目当てです。過去には淀屋橋の鯨料理を賞味したことがあります。パソコンで地図をプリントアウトして持参したのですが、「馬ノ助」の場所を探すのに結構苦労しました。 何回も、「法善寺 水かけ不動」の前を通ることになりました。お不動さんの入り口にふぐ料理の「浅草」があります。昔取引先の社長の弟さんがこの店の若旦那との友達だった関係で、何度か賞味したことがありまたし、嫁さんとも行ったことがあります。もちろん、お不動さんへお詣りします。 お店の場所を確認後、道頓堀周辺を散策します。 道頓堀川の橋の上から、 東、 西、 方面を見晴らします。散策してビックリしたことは、串料理「だるま」の出店で、あちこちにお店があることです。 お店のコース料理「馬ノ助コース」を選択、友人がグルナビで予約してくれたことで、500円を値引きしてくれました。 前菜、 馬刺しアラカルト です。 楽しい時間、あとは珍しく4人でのカラオケを楽しみました。 6日はジジ連の新年会です。12月にジジ連忘年会が出石でおこなわれましたが、嫁さんの手術の為参加できませんでした。久しぶりです。楽しみです。 |
2014年1月13日 10日、嫁さんと初詣ということで、「伏見稲荷大社」へホント、何十年ぶりかで初詣に行くことになりました。嫁さんが手術後のチェックとして、宇治の第二岡本病院へ行ったからです。JR稲荷駅からの始めてのお詣りです。 「伏見稲荷大社」は、朱色鮮やかな綺麗なお社となっていました。 駅前から 大鳥居からの望遠 大門前 本殿でのお詣りの後、鳥居のトンネルへ登ることにしました。境内図を見上げます。 朱鳥居の入り口 ホント朱鳥居のトンネル 「熊鷹社」上の茶店までで登山を諦めました。嫁さんの手術後であることを懸念したからです。 帰りは、京阪樟葉駅へ出て、昼食として、久しぶりに「風月」の「豚玉モダン」をいただきました。 11日には「典さんを偲ぶページ」を一応アップし、友人達にURLをメールしました。 |
2014年1月4日 いつの間にか平成26年の新年3ヶ日が過ぎてしまいました。今年は暦の関係で普通のサラリーマンであれば、明日の日曜日まではお休み。ただ、最近は普通でないお仕事の方々が増えており、一概にはいえません。現に、息子は年末年始は仕事と嫁さんを実家に送っていったことで埋まってしまい、今日ようやく、我が家での年末年始の宴会が予定されています。娘一家の方は、30日、31日、1日と連続で、孫の美緒ちゃんを連れてきてくれています。その美緒ちゃんも今年は3年生。任天堂3Dゲーム機をクリスマスプレゼントでゲットし、お年玉でのソフト購入を目指していました。 |
2013年12月30日 平成25年、2013年もあと1日となりました。昨年、2012年末、衆議院選挙により阿倍内閣となり、アベノミクスのキャッチフレーズが溢れる、この一年でした。デフレ解消の施策が種々おこなわれましたが、いまひとつ、これからの日本の行く先に対するヴィジョンが見えてきません。ただ、数年前、日経平均株価が8、000円を切る時があったことが夢のような今日の終値、16、240円を考えると決して悪い方向ではないでしょう。また、2020年の東京オリンピック誘致が成功したことは良き方向への一つでしょう。ただ、中国、韓国、ロシアといったお隣の国々との関係は最も注意しなければならない事柄でしょう。太平洋戦争の本当の勝者ではないこれらの国々が勝者の顔をして大戦後の秩序を主張する姿が現在の混迷を生じさせているとしか思えません。中国はもともと、四方への膨張主義国であり、ロシアは東方への膨張を続けてきた国々です。また、韓国は終戦までは日本の一部であった国なのです。これからの日本を指導していく方々が本当の日本の歴史、特に、大戦を中心とした歴史の再勉強が必要です。その上で、新しいヴィジョンの構築に携わっていって欲しいものです。年寄りの戯言とお笑いください。 「典さんを偲ぶページ」は進行中ですが、このページはメール交換をしている仲間のみのページとするつもりにしています。 |
2013年12月16日 先月28日「脳動脈瘤」の手術を受けた嫁さんが、10日、「第二岡本病院」を退院してくれ、ホッとしていた12日朝、春秋年2回の旅を伴にしている友人の奥方、彼女も高校を同時に卒業している旅仲間の一人ですが、亡くなってしまったとの報に接しました。 胃の全摘出の手術を受け、今年夏春には退院し、家で療養していたこと。夏以後、別治療の為に別の病院に入院、10月28日、信州白馬への旅行中に、手術をした病院へ転院していたはずでした。私たち全員は彼女が再起し、来年春の旅行へ参加してくれることを信じていました。 残念です。彼女は先般大病を患った旦那に気を使うとともに、私たちとも暖かい笑顔での会話を楽しんでくれていました。 15日、11時からの東京・日野市・「高幡不動観音院」での告別式に、関西に住む旅仲間とともに、参列してきました。高校同期の仲間が、多く参列しており、式の後、松本からの仲間の一人、何年かぶりの湘南に住むH氏、関西からの2人の4人で近くのお蕎麦屋さんで4時間にわたる「精進落とし」で故人を偲びました。私としては故人を偲ぶため、「旅」と「歌集 たそがれの光」を中心とした別ページをつくることとしました。 |
2013年12月9日 速くも「師走」です。ページの更新が開いてしまいました。嫁さんが11月14日、15日検査入院、26日入院、28日手術、昨日退院とその間毎日、病院との往復に日々で、パソコンはメールのチェックのみでした。これからは通常のペースが戻ってくることを期待しています。 |
2013年11月19日 昨夜は、市内に住むK氏と久しぶりの飲み会でした。毎度おなじみの、近鉄新田辺駅前「とりでん」。5時の開店と同時に入店し、あれこれと話が弾んでいると、いつの間にか、7時を20分程過ぎていました。これまたいつものようにカラオケ屋さんへ。2人で交代に歌っていると、こちらもいつの間にか2時間が経っていました。楽しき時間を再度ね!!!との約束で別れました。 先日、図書館から借り出した、逢坂剛氏の「バックストリート」を16日、一日で読みきりました。もちろん「面白かった」からです。フラメンコの踊り子がヒロインとなるミステリーですが、フラメンコに関する氏の薀蓄の披露会となっていることに興味と面白さを感じました。氏の小説はいままでに、「百舌シリーズ」、「禿鷹シリーズ」などを面白く読ませてもらっていますが、スペインに関する大作も発表していることは知っていました。 文中で、東京の「タブラオ」(フラメンコの舞台を持つスペイン料理店)が3店記載されています。新宿の「エル・フラメンコ」・西日暮里の「アルハンブラ」・「カサ・アルティスタ」ともに実際のお店のようです。バイラオーラは女性の踊り手、カンタオーラは女性の歌い手、シギリージャ(カンテに応えるような重厚な踊りで、悲壮で儀式的、容易な飾りつけをしないで演奏される。ギターは控え目。)などの用語が出てくるので、ウィキペディアで検索してみました。 カンテ(Cante) 歌。魂の奥底から響く深い声(カンテ・ボンド)がフラメンコの真髄。ヒターノ(ジプシィー)達にとってフラメンコと言えば、まずカンテが重要。 カンタオール(cantaor)男性の歌い手。カンタオーラ(cantaora) バイレ(Baile) 踊りのこと。日本ではフラメンコといえば踊りというイメージが強い。つま先やかかとで床を踏み鳴らしてリズムをとる(サバテアード)、また手の動き(ブラッソ)はフラメンコの命。 バイラオール(bailaor)男の踊り手 バイラオーラ(bailaora)女の踊り手 トケ(Toque) ギター演奏。 パリージョ(palillos) 踊り手が両手に持つカスタネット。利き腕には高音が出るもの、逆手には低音がでるものをつける。 ハレオ(Jaleo) 掛け声。『オーレ!』(アラー由来?といわれる掛け声)、『ビエン』(good、いいぞ、の意)などの掛け声で場を盛り上げる。 パルマ(Palma) 手拍子。甲高い音の『セコ(seco)と低くこもった音の『パホ(bajo)』の2種類の音を使い分けながら、踊り手やギタリスト、歌い手の呼吸に合わせながらたたいて行く。フラメンコの音楽を形成する上で重要な役割を持つ。 大坂には難波に「タブラオ ミ・ヴィダ」という店があるようです。京都のタブラオは「ティオ ペペ」(銀閣寺道)、「ラガジェガ」(京阪三条駅近く)等があるようです。 |
2013年11月13日 更新が10日振りとなりました。その間、11月産まれの嫁さんと娘の誕生会を4日に、7月31日に生まれた孫の梨心ちゃんのお「お食い初め」を10日にと、結構イベントは繋がっていました。「信州・白馬を訪ねる旅」は進行中です。 |
2013年11月2日 忙しい一週間でした。心配されていた台風27号は太平洋上を過ぎていくことで大きな影響がなく、先週の土曜日(26日)、今の時間(10時30分)に家を出発、松本へ向いました。夜は、美ヶ原温泉で中学の同級会、13名の参加でした。親戚の義理で2名、病気のぶり返しで1名、宿手配で1名の欠席は残念なことです。宴席はいつものように和気藹々、羽織袴で隠し芸を披露してくれる者も居り、楽しい時間を貰いました。その後、いつものメンバーで市内へ繰り出し、2軒周ることになりました。もちろん、飲みすぎです。 翌、27日、市内の実家に寄り、ご先祖に手を合わせ、兄貴夫婦と「信州蕎麦」を食べに出かけました。ついでに、「松本空港」を見学。(空港1 空港2 空港3・この時間、福岡からの「富士ドリームエアライン」が到着しました。 空港近くのサッカー場・今日は「松本山雅」の戦いです。 ) 空港の近くのお蕎麦屋さんで「大盛の蕎麦」を頂戴し(美味かった!!!!!)、帰路につきました。 高校時代からの友人達との恒例の旅、今回は「信州・白馬」へ、10月30日、31日の両日旅してきました。 昨年秋は「京都・奈良への旅」、 今春は、「鎌倉への旅」 の続きと言えます。 もちろん、これから写真を整理していきます。 |
2013年10月24日 台風27号の動きには参っています。26日の松本への足(京都・名古屋間の新幹線と名古屋・松本間の「しなの号」)がどうなるのか?未だに判っていません。松本の幹事さんに電話したところ、「当日の足の具合での最終出欠ということでの了解」が宿の方と出来ているということで、安心しました。 「梅原猛の『歎異抄』入門」を読みました。『歎異抄』を大変判りやすく解説してくれています。いつものように、勝手に整理してみました。 「善人なをもて往生をとぐ・・・」 第三条ー《善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人往生す、いかにいはんや善人をや。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこ丶ろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこ丶ろをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死(しょうじ)をはなるることあるべからざるを、あはれみたまいて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おうせふらいき》 「訳 善人ですら極楽浄土へ行くことができる、まして悪人は、極楽浄土へ行くのが当然ではないか、私はそうおもいますが、世間の人は常にその反対のことをいいます。悪人ですら極楽へ行くことができる、まして善人は、極楽へ行くのは当然ではないかと。 世間の人のいうはうが一応理屈が通っているように見えますが、この説は、本願他力の教えの趣旨に反しています。と申しますのは、みずから善を励み、自分のつくた善によって極楽往生しようとする人は、おのれの善を誇って、阿弥陀さまにひたすらおすがりしようとする心がけが欠けていますので、そういう自力の心がある間は、自力の心を捨てて阿弥陀さまの名を呼べば救ってやろうとおっしゃった、阿弥陀さまの救済の対象ではないのであります。・・・・・だから、善人ですら極楽へ行くことができる、まして悪人は極楽へ行くのは当然ではないかと、なくなった法然聖人が仰せられたのも、深い理由があってのことであります」 ・・・愚かな悪人は、知恵や徳の力によって極楽は往生することはできない。ただ口で「南無阿弥陀仏」と唱える、誰にでもできる易行の念仏によってのみ極楽へ往生することができるのである。その愚かな悪人の成仏を阿弥陀如来は『大無量寿経』においてはっきりと保証しているのである。とすれば、阿弥陀は悪人成仏のためであり、まさに他の方法によって極楽往生することができない悪人こそは、往生の正因である。 だから、悪人お往生す、いわんや善人をや、という常識はここでは通用せず、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉こそ真理であるというのである。・・・・・ ひとえに「弥陀の本願」信じて ・・・阿弥陀仏はもともと、法蔵菩薩という、この世界に住んでいる人間であった。が、四十八の願をかけて、難行苦行して、その願が成就して阿弥陀仏になられたものである。その四十八の願の中の、第十八願が、法蔵菩薩、すなわち阿弥陀仏の本願であったというのである。・・・ 第十八願というのはこのような願である。つまり、心から極楽浄土に往生しようと思って十念すれば、五逆と誹謗正法を除いてどんな人間でも、極楽往生しなかったら自分は仏にならない。こういう願をかけて法蔵菩薩は仏になられたのであるから、必ずしすべての人が極楽浄土に往生することができるはずだというのである。・・・ 浄土教は既に、飛鳥時代からあったというのですが、「日蓮によれば、源信によって日本人の三分の一は浄土教の信者になったという。そして、永観によってまた三分の一が浄土教信者となり、さらに法然によって残りの三分の一も浄土教信者となり、結局、日本人すべて浄土教信者になったという。・・・ということが記されており、「末法の時」を向えた鎌倉時代の日本人の心象を表しているのでしょう。 「親鸞」の教えの真髄を、その弟子「唯円」が記したとされているこの、「歎異抄」は長い間、本願寺の文庫の中に秘められたまま、一般の人はもちろん宗門の学者にさえ、その存在がよく知られていなかったようです。それは、唯円が親鸞の教えとして語っていることが、その後の「浄土真宗=本願寺」の存在を後援するものではなかったことが考えられます。それは、「蓮如」による「奥書」(この聖なる教えの書は、わが念仏の一門の大切な聖書であるが、前世から善根のない者には、むやみに見せてはならないのである。」で、証明されることがらなのでしょう。 「他力本願」とは、「阿弥陀様」の本願を、在り難く受け入れ、「なむあみだぶつ」を唱えることで、「極楽浄土へ成仏」できることのようです。 |
2013年10月21日 日本の南方海上に、台風が2つ発生しています。一つは、超大型。23日水曜日頃にならないと進路、日本への接近時期がはっきりしないと、テレビで気象予報士が解説しています。前の台風で既に大きな被害に襲われ、行方不明者が多く残る伊豆大島の今後が大変心配なことです。私事では週末の信州松本への同級会の旅はどうなるのかな? |
2013年10月20日 雨が降っています。17日の山梨県北杜市「北の杜カントリー倶楽部」での「極楽とんぼ会ゴルフ」の日だけ快晴でした。春のこの会では、ホントまぐれで優勝してしまいましたが、今回は実力どおりの結果に終わりました。年に2回のコース出場ではこんなものでしょう? 折角ですから、写真を撮ってきました。 朝、ロッジから5分ほど歩いた場所から、「富士山」が望めます。 1) 5時46分、夜明け前です。 2) 5時49分 3) 5時49分 富士山を拡大して。 4) 5時54分 別カメラで 5) 6時5分 黎明の時です。 6) 6時59分 ゴルフ場2階、レストランから「甲斐駒ケ岳」を。 7) 7時28分 パター練習場横から 8) 9時37分 IN14番から「八ヶ岳」が望めます。 9) 10時29分 IN17番 180Y距離のあるパー3。ドライバーでのティーショットです。 前夜祭での飲みすぎの影響は、もちろんスコアーに出ています、そして、パートナーのスコアーにも大きく影響しています。申し訳ないことです。 |
2013年10月9日 日本海を台風24号が、京都の日本海沖を足早に抜けていきました。蒸し暑さは残っていますが、好天気に戻っています。「熊野古道(中辺路)歩きの旅」の経験から、「古代歴史散歩 饒速日は?」を一応完成させました。まだまだ、不十分なことは判っているのです。更に探求の旅は続けます。「イタリアへの旅」の後、「ローマ人の物語」をまとめ、塩野七生氏の幾冊かをまとめようとしましたが、これも未完成で終わっています。不甲斐無さを痛感します。 マゴッチ達の運動会を控え、26倍望遠機能を持つ、オリンパスを購入してみました。運動会は5日にすみましたが、他の用事もあり、満足に使用することができませんでした。その前に、望遠機能を試してみました。条件が良い場合 1) 2) 3) 条件が悪い場合 4) 5) オリンパス製のデジカメは当時、4万円以上を出し、10倍ズームの「C−700]を購入(2003年?)、初めの頃のページに使用しました。悪い印象はありません(「岩船寺と浄瑠璃寺」等)ので、今回オリンパスを再度試してみることとしました。価格は三分の一になっています。いずれにしても、今後が楽しみです。 |
2013年9月28日 さすがに、朝は寒いほどになりました。昼はお日様が照りかけて、暑くなります。その寒暖差のため、先日から風邪模様が続いています。鼻が詰り、喉にいがらっぽさがある程度ですが、鬱陶しいものです。パリーグでは”東北楽天イーグルス”が初優勝しました。結構なことです。特に”マー君”の活躍は昔の「神さま、仏様、稲尾様」を彷彿とします。なにせ、チームの勝ち越し数28の内の22を一人で稼いでいるわけですから。 24日、嫁さんと久しぶりに「グランフロント大坂」へ行ってみました。連休明けでもあり、オープン当時に比べれば客さんの数はたいした事はありません。まず、北館の展望テラスへ行ってみました。 北北西を眺めます。 すぐ西にJR貨物基地の向こうに、「梅田スカイビル」が見えています。 「スカイビル」の窓ガラスにグランフロント北館が映り出されています。 梅田駅方面です。 北館館内の人の行列(女性が99%)が目に入りました。 ロート製薬の「旬穀旬菜」でした。 更にもう一軒は「近畿大学水産研究所」でした。マグロの完全養殖事業の賜物です。 南館でイタメシを食し、新装成った「阪急梅田本館」を訪ねました。9階の「祝祭広場」で一休み。 大型スクリーンの画像を楽しみました。 そのスクリーンに表示された午後3時の時報です。 10月は、何かと予定が詰っています。前半はマゴッチ達の運動会。17日は山梨県で「極楽とんぼ会ゴルフ」、26日は定例、松本・美ヶ原温泉で中学の同級会、30日・31日は高校時代の仲間と白馬の麓へ、と行った具合です。 「古代歴史散歩」はボチボチすすんでいます。 |
2013年9月14日 9月8日早朝、日本国民が皆して喜び合った「2020年東京オリンピック」招致が決定しました。中国、韓国を始めとし、イギリス、フランスの福島原発事故処理問題に対するマイナス報道の行方がどうなるのかが、最も懸念されていることでした。イスタンブールとの最終投票に勝った東京招致のための関係者のご苦労に国民全体でお礼を言いたいものです。歳のせいで7年後のオリンピックがこの目で観られるかどうかは定かではありませんが、これからの日本の方向に良い影響をあたられる事は確かのように思われます。実際に2020年東京五輪が実現するまでには厳しい現実が待っていることでしょう。これを克服するための日本人としての自覚の確立が求められることでしょう。 「古代散策」の旅は面白くも、なかなか頭に落ち着いてくれない旅が続いています。豊田有恒氏の「歴史から消された邪馬台国の謎」、室谷克実氏の「日韓がタブーにする半島の歴史」などの東アジアの情勢紹介を読み、この時代の「倭国」(伊邪那岐、饒速日の活躍)の時代背景を想像する作業に入っていきます。 |
2013年9月6日 前回更新から、10日経ってしまいました。今年のあまりの暑さに、歳のせいでしょう?ヘロヘロになっていました。パソコンへ向うよりも、寝転んで「古代歴史散歩」の本を読みふけっていました。 4日に、7月31日に生まれてくれた孫の「梨心(りこ)ちゃん」の「お宮参り」を、鳥取のお祖父ちゃん、お祖母ちゃんと共に、伏見の「御香宮神社」で、お祝いの膳は、恒例になっている「梅の花 伏見店」(この日の「しあわせ膳」のメニューです。)で楽しむことが出来ました。前夜には、鳥取から持参してくれた「お酒」と「お肴類」で、盛大な前夜祭を楽しんでいますので、ホント「しあわせ」なことです。 「古代歴史散歩」は日本列島の2、3世紀の姿を追い求める散策となります。「古事記」、「日本書紀」のこの時代の解明の為には、この頃の中国、朝鮮半島など東アジア地域の状況を知る必要が在ります。そんなことから、「本当は怖い韓国の歴史」(著・豊田有恒氏)、「日韓がタブーにする半島の歴史」(著・室谷克実氏)、「『日本書紀』は古代史を偽装したか」(著・関裕二氏)を借り出し、その後にブックオフから、豊田有恒氏の「歴史から消された邪馬台国の謎」・「聖徳太子の悲劇」・「古代史を彩った人々」などを読んでみました。その御蔭で、当時の朝鮮半島と日本列島とは大変深い繋がりがあったようだということを納得させられました。特に、3世紀、朝鮮半島が三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の時代、半島の先端地区には「倭人」が住んでおり、「倭国」としての領域があったと考えられることです。列島の北九州、日向地域、出雲地域、大和地域の繋がりをつけたのが「スサノオ」・「ニギハヤヒ」等の物部一族の元であったかどうかの確証はこれからです。面白い!!!!! |
2013年8月26日 24日、土曜日の夜から、昨日の午後まで、久しぶりの雨、それも大雨が降りました。御蔭で今日は過ごし易い陽気となっています。この土日に予定されていた夏祭りが流れてしまった方々も多かったと思いますが、山口、島根方面では、またまた集中豪雨に襲われ、大変な被害がでていることを思えば、我慢しなければならないことでしょう。 「饒速日(ニギハヤヒ)」を中心としての「古代歴史散策」は別ページでまとめてゆきます。先日買い求めた数冊は一応読み終わりました。「古事記」・「日本書紀」には記されなかった、または、改竄、脚色されて記載されたと思われるとの見解から、「出雲」・「日向」・「大和」・「北九州」・「朝鮮」の新しい歴史物語が組み立てられています。「饒速日」を中心としていても、各々が違った組み立てをしていることから、整理には大変難しいものとなっています。「古代歴史散歩」はボチボチ進めていこうと思っています。 |
2013年8月12日 猛暑が続いています。昨日の京都は38度まであがったようです。今日もそんな感じの空模様です。こんな時は、パソコンに向う時間を減らし、読書が良いと考え、「饒速日(にぎはやひ)」関連の本をブックオフに追加注文し、土曜日に到着しました。早速、読み始めています。面白い!!!!! 大野七三氏の「日本国始め 饒速日大神の東遷」、小椋一葉氏の「消された覇王」、神尾正武氏の「大和の大王 ニギハヤヒ尊」、関裕二氏の「消された王権・物部氏の謎」の4冊です。全部を読みと降りた後で、整理したいと考えています。 |
2013年8月6日 31日産まれのマゴッチ「梨心(りこ)」ちゃんは、4日には無事退院し、自宅へ戻りました。夕方から嫁さんと顔を見に出かけました。母子ともにすこぶる健全そうでまずは、ひと安心。これからはいろいろなお世話が待っています。 「熊野古道歩きの旅」で「発心門王子」の祀神として「饒速日命(にぎはやひのみこと)」がお祀りされていたことに興味を覚えました。「熊野本宮大社」の「第三殿 本社 家津御子大神(素戔鳴尊)」がお祀りされていることは当然のことと思いますが、発心門王子に「饒速日命」がお祀りされていたことは、神一行氏の「消された大王 饒速日 ニギハヤヒ」の内容と一致するものがあるかもしてないとの興味が湧いてきてしまったわけです。 「古事記」、「日本書紀」では神話として扱われていた事柄に別の視点があるのではないかとの疑念を私なりに整理する為に、「消された大王 饒速日」の再読(多くの神社の祭神からの推論が主たる論拠としています)と 梅原猛氏の「天皇家の”ふるさと”日向とをゆく」、「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」 鈴木亨氏の「古代 天皇の都」 井沢元彦氏の「逆説の日本史 封印された「倭」の謎」 などを再読してゆくこととしました。そんな根気は残っているのか、その方が心配です。 |
2103年8月1日 いわゆる「八朔」です。ウィキペディアでその由来を再勉強。「田の実の節句」ともいったことから、「頼み」にかけて、武家、公家の間で日頃お世話になっている人にお礼参りをする日であった、とも書かれています。 昨日、7月31日、午前2時59分、3番目のマゴッチが誕生。30日、夕方から陣痛らしきものが始まり、9時頃病院へ。息子、お姉ちゃんとなる梨央ちゃん、嫁さんが付いて行きました。爺は、留守番。3時半頃、目を覚まし、新聞を読みながら時間をつぶしていると、5時近くなって「生まれたよ」という声と共に、三人が帰ってきました。一段落です。 半月を費やして「熊野古道歩きの旅 第5回目」を完成させました。 |
2013年7月23日 この2,3日、腰痛が再発しています。1ヶ月前あたりか?やはり同じ症状がでたのですが、3、4日後にいつの間にか治まっていました。坐る姿が続くと、立つのに苦労します。どうしてもページの更新が億劫になります。折角「第五回 熊野古道歩きの旅」を楽しみながら進めてきているのですが、パソコンへ向う時間が減ってしまいます。歩くのも、いろいろ作業することにも問題はないので、前回のように、いつの間にか痛みがなくなってくれればと願うばかりです。 21日、参議院選挙が終わりました。結果は前回の衆議院選挙と同じで、「自由民主党」が圧勝。「民主党」の惨敗で終わりました。これで、与党、自民党、公明党の勢力は過半数を大きく上回り、いわゆる「ねじれ」が解消し、与党が希望する政策の実現がスムースに可能になったわけです。阿倍首相を始めとする、現執行部の方々は保守本流としての施策を着実に進めていこうとしていますが、自民党内は決して同じ考えの方々が多いとは思えません。折角今回の結果を頂戴したわけですから、これからの3年間は、「今後の日本の方向を決める」、「綿密かつ大胆な舵取り」を期待したいと思います。経済の活性による国力アップはもちろん重要ですが、「憲法改正」によるこの国の国力アップ、「東京電力国有化」による原発問題の根本的方向性とその解決、東日本大震災被災地復興への政治の本気な対応など様々の課題があります。 一方の野党は、どの党も「今後の日本の方向を決める」政策が本当にまちまちで、選挙に勝とうとする真剣さが無かったことが今回の結果の最大要因だったのではないでしょうか。「本当のことを言って良い時期」を間違えて流れを止めてしまった党首あり、衆院選挙の敗北の総括を何もしないで、人任せのように選挙を戦った党、それぞれ、本当に「日本の将来」を考えているのか、「自分の立場」のみを考えているのではないかと、本当に心配になります。健全な野党が次代の政権を取る権利を持っているはずです。それには「独り立ちできる政治家」が集まり、「健全な政治家」を育てられる野党の体制を早急に作り出してゆく必要があるのではないでしょうか。 |
2013年7月17日 17日、京都市内は「祇園祭 山鉾巡行」が進行中です。先ほど「京都テレビ」での実況をチラッと観ていました。少し雲がでているのが幸いしています。「籤改め」の場所に陣取り長い時間立ちずめに見物していたのは何時の事だったのでしょう?思い出せません。 15日は無事に「熊野本宮大社」参拝を終えることが出来ました。本宮へ到着する少し前から、夕立模様が始まり、本宮拝殿でお払いを受けている時、一時本降りとなった程度で、その後は止んでしまいました。「禊(みそぎ)」の雨だったのでしょう!!! これから写真を整理し、ページの製作にはいります。楽しみです!!!!! |
2013年7月14日 暑すぎて、パソコンへ向う元気が出ません。節電を進められている昨今、クーラーをガンガン点けてパソコンを操作することには多少遠慮しなければならないのではないかと思っています。今朝は、昨日の恵みの雨のために程よい暑さに戻っており、更新の意欲が湧いてきました。 明日、15日は、「熊野古道歩きの旅 第五回」、熊野本宮大社への参拝が許される日です。5回の旅が完結しそうで、夫婦ともども、喜んでいます。 [第5回] 発心門王子(スタート)・・・◎水呑王子(ミズノミオウジ)・・・◎伏拝王子(フシオガミオウジ)・・・◎祓所王子(ハライドオウジ)・・・◎熊野本宮大社(ゴール) 7月 難易度 ハイキング初級(約7km 標高差 約200m) 今月下旬には息子夫婦に2人目のマゴッチが誕生する予定で、それまでにこの「お詣り旅」が完結できることに感謝しています。「熊野本宮大社へのお願い」の最重要事項は無事の誕生ということでしょうか。 |
2013年7月7日 梅雨明けを思わせる猛暑がやって来ました。最近、ここ京田辺市は、近畿地方での最高気温とテレビ報道がされるようになりました。温度を測る百葉箱に蔓草が茂り、日本一の最高気温との報道がなされたこともありましたが、それが訂正された後も、結構、近畿地方では気温が上がる地域となっています。京田辺市が口の端にのることは、嬉しいことですが?暑苦しさは、困ったことです!!! |
2013年7月4日 4週間ほど前、市立中央図書館へ行く機会があり、その折、中西輝政氏の「帝国としての中国」を借り出しました。この欄の3月10日で「中西輝政氏の本の読後感」をアップしました。その内容は購入した本の一部であり、また、「大英帝国衰亡史」は未だ半分ほどの進捗状況です。そんな時の借り出しでチャント読めるか大変疑問でしたが、借り出しという行為のためか、読み進めうることになりました。 この「帝国としての中国」の発刊は2004年9月で、かれこれ10年前の著作ですが、この10年、そして、この数年の中国の動向の本質を記しているのではないかと思えてきました。そして、この10年こそが「改革解放」という名の下の経済活動が世界を席巻し、それに基づく国力(もちろん、軍事力は主たる力でしょう。)の増強による「本当の中国らしさ」が現出するようになったのではないかと思われてなりません。別項で少しまとめてみます。 |
2013年7月2日 いつの間にか、7月です。「京都と東京」はボチボチと楽しみながらの作業ですが、まもなく完成できるでしょう。自分の誕生日が来ることは当たり前ですが、いよいよ3人目のマゴッチの誕生が迫って来ました。なにかと気ぜわしい昨今です。「京都と東京」をアップしました。 |
2013年6月22日 5月中に歩いた「熊野古道」以外の整理がようやく手につくことになって来ました。「京都市内の庭園を中心とした散策」、「久しぶりの東京での新東京駅、皇居一周の散策、旧古川庭園の見事なバラ」、「京都市内の町屋散策、島津製作所創業記念資料館も」の旅をひとまとめにして、「京都と東京」としました。手抜き感は抜け切れません。 |
2013年6月20日 「熊野古道・歩きの旅 第4回目」をアップしました。写真を整理しながら、その時のシンドサを感じることが出来るのが楽しみの一つなのでしょう。その面では、十分に楽しさを感じた今回のアップでした。 |
2013年6月13日 昨日、「熊野古道・歩きの旅 第4回」を歩き通してきました。4回目は一段階上のハードな行程であることは、前もって知ってはいたのですが、歩いての感じは、それ以上のものでした。心配されていた天候は、出発地点の大坂は晴れ、和歌山県に入っても晴れ、近露王子ドライブインに着いて、昼食中から雨が降り出すという意地悪なものでした。でも、大した降りではなく、「岩上王子」の迂回路を通るころからは、雨支度は不要となり、合羽なども脱ぐことになりました。ところが、「語り部」さんの言うとおり、この迂回路が曲者でした。嫁さんが完全に顎を出す有様。座り込んでしまうほどでした。私もさすがに、目の前の、前を歩く嫁さんの足元を見つめて、一歩ずつの歩みを続ける作業をすることで、乗り切ることができたのです。ホント シンドカッタ!!!「発心門王子」への最終最後の登り道を歩き終わった時の達成感は確かなものでしたし、全体として十分に満足のいく歩き旅となりました。ただ、迂回路の存在で知れるとおり、1昨年の台風による「熊野古道」へのダメージは各所にあり、修復の手段も難しい地点も数多いようです。心配なことです。道の終盤戦で巨大な崩落地点の下をあるきました。いつ崩れてくるか心配になる道がその下についており、私達もそこを歩いているのです。「語り部」さんは崩落の原因は「杉、檜の植林とその後の手当ての無さ」により、「地盤の強度が低下してしまったのではないか」とのお話でした。崩れの上部を観れば、肯けることです。詳細は後日。完結の第5回目は、中後半に予定されている3人目のマゴッチの誕生を考え、7月6日に予約をしました。 |
2013年6月11日 明日、12日は「熊野古道・歩きの旅 第4回」です。お天気は大変心配です。台風3号が、近づいているからです。とはいっても、キャンセルするわけにはいかないのです。朝、5時10分には家を出発します。そんなことで、第3回分のページを仕上げたかったのですが、残念でした!!!!!途中です。 |
2013年6月7日 ようやく、「初夏の鎌倉を訪ねる旅」をアップしました。なにかとスケジュールが立て込んだこの5月、6月でした。早速に「熊野古道・歩きの旅・第3回」に取り掛からなければなりません。第4回目は、12日に迫っています。 |
2013年6月3日 昨日、6月2日、「高校関西支部新人歓迎会」へ参加してきました。京都で行われるこの会には出来るだけ参加を心がけています。夜の宴会とともに午後からの京都町屋見学を楽しみにしています。案内してくれる方が、京都の町屋研究を専門としている京都工芸繊維大の准教授なのですから。京都市内からは離れた京田辺市に住んでいるとはいえ、京都市内にはお寺・神社参り、美術館、買い物などでチョクチョク行っています。でも、新しい発見を次々と、させてもらえるからです。今回は、「島津製作所 創業記念資料館」見学でした。社員の田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞されているとはいえ、島津製作所がどのような製品を創っているのは定かではなかったのです。また、資料館が19日に同期会の折に訪れた「がんこ二条苑店」の真ん前で、江戸時代、維新後の京都にとって歴史的に、大変に重要な地点だったのです。勉強になりました!!!詳しくは、別ページで。 |
2013年5月28日 昔の会社の同窓会ということで、東京へ行ってきました。皆様が歳を取ってきていることから、今回が最後との知らせに、長年お世話になりながら、一言のお礼も言わずに終わってしまうのは申し訳ないことと考え、行くことにしたわけです。今回の参加者は106人と大台を越える方々の出席があり、先輩諸兄、後輩諸氏にはそれなりの挨拶をすることが出来ました。でもそれ以上に、1年先輩、同期入社の、同じ寮で生活を共にした友との2日間の交わりはかけがいのないものとなりました。友の設定で、「山の上ホテル」で帰りの新幹線の時間までワインを傾けながらの昔話で、次回は奈良、京都での再会を約束できました。嬉しいことです。ページもつくらなければ。 |
2013年5月21日 18日、グランヴィア大坂での「高校関西同期会」の前に、折角なので、先日オープンした「グランフロント大坂」を散策してみることとしました。商業施設、各種飲食店、会社事務所、ホテル、医療施設などが3つの大きなビルに集まっている大坂では始めての巨大集合施設とのことです。 1) JR大阪駅から2回通路で繋がった入り口はヒトヒト人。 2) 北館の吹き抜け部分。 3) ビル中間部にある展望部分から旧JR貨物駅をパノラマで。 4) 8回飲食店ゾーンには、近畿大学水産学部の完全養殖の本マグロを味わえるお店「近畿大学水産研究所」があります。 5) グランヴィア大坂の8回宴会場から3つのビルが並んでいるのが見られました。 18時からはいつもの通り、松本、東京、地元の14人が、和気藹々の一時を過ごした後の、応援歌、校歌での〆。19日は、10時に京都駅前に集合。京都のお寺を中心とした「お庭」を鑑賞する旅を12人で楽しみました。お昼は「がんこ二条苑店」でビックリするほど品数のあるお料理を頂戴しました。詳細は久方ぶりに「京都の旅」を造りますが、「鎌倉の旅」、「第3回 熊野古道歩きの旅」がその前に控えています。 |
2013年5月16日 13日、14日の「鎌倉への旅」から帰り、今、写真を仲間達に発信したところです。各々の写真を50%縮小して送っているため、整理に少し時間が掛かります。このサイズがパソコン画面に丁度良いと思っているからです。 この高校時代からの友人達との旅は 「2009年4月12日、13日の京都東山・祇園界隈への旅」 「2009年11月24日は 山女庵での天然鳥獣料理、25日は京都の鷹ヶ峯への旅」 「2010年5月14日、15日 松本市郊外の山辺(少し前に突然逝去した仲間の自宅に)・大町温泉郷・立山プリンスホテルへの旅」 「2010年11月29日、30日 エクシブ京都八瀬離宮 比叡山延暦寺、坂本への旅」 「2011年5月13日、14日 信州のかまくら塩田平 別所温泉への旅」 「2011年11月23日、24日 奈良三笠山中腹の 万葉若草の宿 三笠に泊まり、大極殿などを散策する旅」 「2012年5月25日、26日 奈良井宿、開田高原を周り、駒ヶ根ビューホテル四季に宿泊、木曽駒ケ岳への旅」 「2012年11月16日、17日 京都大原・奈良西ノ京への旅」 と続いてきています。もちろん行くたび毎に、皆の心境が「命の洗濯が出来た!!!!!」と一致するからでしょう。この秋は「信州、白馬方面への旅」となりそうです。 18日には高校の「関西同期会」がグランヴィア大坂であり、19日は希望メンバーで、京都市内観光があります。まず、「鎌倉への旅」をアップし、その後、「第3回 熊野古道歩きの旅」を仕上げてゆきます。 |
2013年5月12日 「第3回 熊野古道歩きの旅」は無事に帰還することが出来ました。今回はそれほど厳しい道ではなく、8割が舗装道路上を歩くものでした。物足りなさを感じる行程でしたが、心配されていた雨が降ってきたのが、幸いなことに、お昼のお弁当を「近露王子」で食した後だったのです。今回の旅のお弁当は各々の地区での本当の”手作り弁当”で、各々美味しく頂いていますが、こんどは小さなメモのメニューが付いていました。 「童子弁当」との名称 ようこそ、熊野古道へ、本日のお弁当のメニューです。 1、おにぎり (高菜の目はり・梅干・ふりかけ) 1、煮物(竹の子・辛子こんにゃく・人参) 1、アマゴの素揚げ 1、イタドリの油いため 1、具入り玉子焼き 1、りんご グループはてなし 山菜は自分達で地元の山で撮り、保存・調理しています。 気の利いたメニュー、各々、大変美味しく頂きました。 ページ作成はこれからです。 明日、明後日は「鎌倉への旅」です。幹事さんからメールが届きました。今回の宿泊は「逗子マリーナ」ですが、これについての注意書きです。ホテルではなく、共有のアパートと考えるべし。寝具、浴衣、石鹸、タオルはあるが、歯磨きとヒゲそりは無し。各自用意のこと。といったことでで、高校時代のコンパや登山を思い出すことは確実のようです。楽しみです!!!!! |
2013年5月9日 明日、お天気は下り坂のようですが、予報ではお日様がある時は「くもり」、夜9時頃からの雨となっています。「熊野古道・歩きの旅 3回目」に出かけます。歩いている12時頃から16時頃に、雨が降っていなければ良しとすべきでしょう。第2回目のゴールであった「牛馬童子ふれあいパーキング」をスタートし、「牛馬童子」、「近露王子(ちかつゆおうじ)」、「比曽原王子(ひそはらおうじ)」、「継桜王子(つぎさくらおうじ)」、「秀衡桜」を歩き、「小広王子」がゴールとなっています。「語り部の山中さんに言わせると「姫の道」とのこと。1,2回に比べ「おとなしげな道」と感じられます。 来週13日、14日は「いざ鎌倉!!!」です。東京に住まいしている時、嫁さんと行った記憶しか有りません。その前は、確か修学旅行でしょう?楽しみです!!!そして、夕方のイタリアンも!!!!! |
2013年5月5日 こどもの日です。連休を利用してお母さんの里、鳥取に出かけている梨央ちゃんは、鳥取のおじいちゃん、おばあちゃんに甘えていることでしょう。今年4月から小学2年生になった美緒ちゃんはお友達とのお付き合いに忙しいでことでしょう。季節はずれの寒さで、忘れていた初夏の日差しが甦ってきています。 先日、新聞広告に 「ごちそうさま」を英語でいえますか? (デイビット・セイン) が載っていました。突然、70の手習いを楽しむ気になりました。英語には縁の無い人生ではなく、それなりの努力はしてみたのですが、会話となると不得手といってよいでしょう。理由は分かっているつもりです。一生懸命日本語を英語に直そうと努力してしまうからです。1年ぶりのコンペに優勝して、肩の力を抜いてプレーすることでが意外と良い結果を生むことに目覚め、今一度その流儀を試してみることにしました。アマゾンさんに注文するついでに、 「1日5分で 英語脳をつくる音読ドリル」 (デイビッド・セイン)を加えてみました。「英語脳」という言葉に騙されたわけです。品切れ中でしたが、昨日、どちらの本も揃いました。少しの間、楽しんでみますが、成果は???期待していません!!!!! |
2013年5月3日 「憲法発布記念日」です。大型連休も後半に入りました。リタイアした身に取ってはあまり関係はありませんが、憲法改正論議はこれから活発になるでしょう。日本の国、戦後の日本人にとっては、己を見直す機会として、良いことと思われます。 ようやく、「第2回・熊野古道・歩きの旅」をアップできました。5月は何かとイベントが多く、それまでに仕上げておきたいと頑張ってみました。10日は「第3回・熊野古道・歩きの旅」、13日、14日は、関西、松本、東京に住む高校時代に仲間達と「鎌倉への旅」、16日は、高校の関西同期会、翌日はその京都への散策、26日、27日は大学を卒業後、52歳までお世話になった会社の同窓会といった次第です。大丈夫かな?心配です!!! |
2013年4月27日 25日、急遽決まったジジ連京橋会に参加のため、京橋へ向いました。久しぶりに、「大坂城」周囲を歩くことにしました。もちろん小さなデジカメを持参しての散策となります。 「大阪城公園」の概略です。 城見地区から右手に「大阪城ホール」を見ながら渡ります(15:01)。 大阪城ホールと野球場の間を抜け、外堀の周囲を巡ることとしました。天守閣が遠く感じます(15:09)。 「南外濠」の南東部からもやはり天守閣は遠く感じられます(15:14)。 「南外濠」と高い石垣上の「一番櫓」(15:16)。 「南外濠」西向こうには「大阪府警本部」が見えています。 「六番櫓」が見えてきました(15:22)。 「六番櫓」を中心にしてパノラマ撮影です。 「六番櫓」の上を旅客機が伊丹空港へ降下中です(15:28)。 外濠の大きさを実感します(15:28)。 ツツジの向こうに大手門への連絡路が見えてきます(15:30)。 大手門への連絡路から天守閣が見えてきました。その上には、やはり、旅客機が撮れています(15:31)。 草が茂っている内濠(空濠)の向こうに「桜門」が(15:36)。 「桜門」です(15:37)。 「桜門」を額縁にした、「天守閣」(15:38)。 「タイムカプセル」と「大阪城天守閣」(14:41)。 頭上に聳え立つ天守閣(15:52)。 西側からの方がお城の全貌が望めます(15:55)。 北側からはより一層の重量感を感じさせます(15:57)。 ほぼ一周しての内濠に架かる「極楽橋」を渡ります16:01)。 「極楽橋」を渡り、内濠、石積を越しての天守閣です(16:02)。 内濠、石垣のスケールにまた、ビックリ(16:04)。 「青屋門」をくぐります(16:05)。 16:10 ほぼ一時間で大阪城外濠を一周しました。 今回の京橋会は、京橋会としては始めて「平八亭」でした。もちろん幹事のS氏の案内によります。お店が綺麗になっているのにビックリ。昔は別のお店でしたが、平八亭へはチョクチョクお邪魔したことがあります。「金目鯛のあら煮」の美味しさにびっくり。思わずお酒がすすみました。その後はお決まりのカラオケ。楽しめました。感謝!!!感謝!!!!!です。 「第2回 熊野古道・歩きの旅」は製作中です。 |
2013年4月24日 22日の「熊野古道・歩きの旅」[第2回]へ行ってきました。家を出る時は、それこそ、花冷えの寒さ、ジャンパーの下に毛のベストを一枚余計に着ていましたが、バスに乗車するまでは、寒さに震える状態でした。車内は好天の所為で暑いくらい、早速ベストは脱いでリックの中へ。 第1回の最後に、「高原霧の里」から「古道の里バス停」までの下りの険しい道を歩いた折、第2回目の始めは、この道を「高原霧の里」まで歩いて登ることになるのではないかと、恐れていましたが、今回は、なんと、別の道を登ることになりました。ホットした反面、若干物足りなさを感じてしまいまいした。お天気、気温ともに絶好の山歩き日和でした。ページ作りに入ります。 |
2013年4月14日 10日ぶりのページ更新となります。11日の「極楽とんぼゴルフ会」では優勝してしまいました。 当日の参加は20名。前日からの宿泊組は11名。盛大な?前夜祭の一夜の後、好天に恵まれてのスタートとなりました。「天気晴朗なれど風強し」のコンディションでした。高校の同期卒業生のゴルフ狂いが集まっているこの「極楽とんぼ会」へは、長く欠席を続けた後、一昨年に復帰し、13位、7位と健闘をしてきた結果の今回の優勝となったわけです。ラッキーの連続といってよい結果です。ローハンデの方々が、寒さ、風の強さ、グリーンの速さによってスコアが伸びなかったことによります。スコアーは、1位、グロス102 ハンデ25 ネット77 2位、グロス91 ハンデ8 ネット83 3位 グロス101 ハンデ17 ネット84 でした。 山梨県の北部にある「北の杜カントリー倶楽部」は桜が満開。珍しく、富士山も望むことが出来ましたので。以下に写真をアップしてみます。 4月10日、17:19 ゴルフ場へのアプローチ道路に満開の”さくらのトンネル”が出来ています。そこから、富士山の頂上がのぞいています。 4月11日、早朝、富士山とさくらのツーショットを撮りたくて、少し足を延ばします。 6:02 ”さくらのトンネル”への途中で、富士山が見えてきました。 A) B) 6:05 ”さくらのトンネル”へ着きます。さくらと富士山のツーショット C) D) E) 左手に小さく富士山が写っているはずですが、パソコンによっては消えています。念の為、その部分を拡大しました。 F) 7:50 G パッティング練習場横からの、18番グリーンの向こうに甲斐駒ヶ岳がくっきりと。。頂上に雲がかかっています。 8:16 H 一番ホールへの途中には、さくらの木がお誂え気味に。 8:58 I 3番ホールティグランドから。 9:01 G 3番ホールティグランド上のパートナー。 10:21 K 8番ショートホールから L 甲斐駒ケ岳が8番グリーンにかぶさってくるようです。 写真撮影をしながらプレーをしているわけではありません。景観を愛でる価値が十分のこの「北の杜カントリー」だからです。結果を気にしないでプレー出来たのはそのゆえで、25のハンディの者としては、それが好成績に繋がったと思われてます。次回からハンディは20とのこと、そんな余裕は飛んで行ってしまうのでしょうか? |
2013年4月4日 「熊野古道・歩きの旅」をアップしました。写真を整理しながら、旅の記憶を振り返るのは大変楽しい作業です。山登りのシンドさを時間系列で振り返ることができます。今月22日の、次回の旅は最もシンドイ登りの旅となることが予想されます。心配です!!! 11日は「極楽とんぼゴルフ会」です。昨年の同じ時期に訪れた山梨県の「北の杜カントリー倶楽部」へ、やはり、10日、友人の車へ同乗しての参加予定です。 |
2013年3月28日 桜井への旅をマトメました。19日の欄です。ようやく、23日の 「阪急トラピックスさんの [第1回] 語り部と行く! 「中辺路(なかへち)編」 熊野古道歩きの旅(ハイキング)」作りを楽しめます。 |
2013年3月25日 階段を降りるとき、足のふくらはぎが痛みます。23日に、阪急トラピックスさんの [第1回] 語り部と行く! 「中辺路(なかへち)編」 熊野古道歩きの旅(ハイキング)に参加して、古道のキツイ山道の上り下りを経験してきた為です。今回は初級難度(中級とも思われます)のハイキングということで、嫁さんに「懲りたかどうか?」聞いたところ、大丈夫ということで、[第2回]目を、4月22日に予約しました。全行程は以下のようですが、出来れば熊野本宮大社まで行きつきたいものです。 [第1回] 熊野古道館・・・◎滝尻王子(タキジリオウジ)*スタート・・・◎不寝王子(ネズオウジ)・・・◎高原熊野神社(タカハラクマノジンジャ)・・・高原霧の里(ゴール) 3月 難易度 ハイキング中級(約6km 標高差 約250m) [第2回] 高原霧の里(スタート)・・・◎大門王子(ダイモンオウジ)・・・◎十丈王子(ジュウジョウオウジ)・・・◎大阪本王子(オオサカモトオウジ)・・・牛馬童子ふれあいパーキング(ゴール) 4月 難易度 ハイキング中級(約10.5km 標高差 約400m) [第3回] 牛馬童子ふれあいパーキング(スタート)・・・◎牛馬童子(ギュウバドウジ)・・・◎近露王子(チカツユオウジ)・・・◎継桜王子(ツギザクラオウジ)・・・◎秀衡桜(ヒデヒラサクラ)・・・◎小広王子(コシロオウジ)(ゴール) 5月 難易度 ハイキング初級(約10.6km 標高差 約200m) [第4回] 小広王子(スタート)・・・◎蛇形地蔵(ジャガタジゾウ)・・・◎湯川王子(ユカワオウジ)・・・◎猪鼻王子(イノハナオウジ)・・・◎発心門王子(ホッシンモンオウジ)(ゴール) 6月 難易度 ハイキング中級(約11km 標高差 約350m) [第5回] 発心門王子(スタート)・・・◎水呑王子(ミズノミオウジ)・・・◎伏拝王子(フシオガミオウジ)・・・◎祓所王子(ハライドオウジ)・・・◎熊野本宮大社(ゴール) 7月 難易度 ハイキング初級(約7km 標高差 約200m) この他に、9月 [赤木越え]コース(発心門王子〜船玉神社〜なべ割り地蔵〜湯の峰王子) [大日越え]コース(湯の峰王子〜鼻欠地蔵〜大斎原〜熊野本宮大社) があります。 まず、桜井の写真をマトメ、「熊野古道 中辺路の旅 第1回」を別ページにマトメたいと考えています。 |
2013年3月19日 「悩ましい春」に一つ追加があり、ページの更新が出来にくくなっていました。腰痛です。1週間ほど前、突然、坐った状態から起きる時に腰に激痛が起り、痛みを堪えて立った状態になる必要が生じました。一旦立ってしまうと、後は何の痛みも感じなくなり、歩くのも、作業も、ゴルフの練習(来月の11日、山梨県北杜市の「北の杜カントリークラブ」での「極楽とんぼゴルフ会」に参加の予定)も何の障害もなく出来るのです。その痛みが昨日またまた突然、痛まなくなりました。そんなことで、今日は、パソコンに向うことが出来、ページの更新をしています。 3月8日の「奈良・桜井市への旅」を写真を中心にして、このページで紹介します。 嫁さんと家を9時に出発、JRを使い、JR桜井駅には11時前に着きました。「聖林寺」へ向います。聖林寺へはその「十一面観世音菩薩」を拝観するために、何回か訪ねています。歩く道は「談山神社」へ続く道で、大鳥居があります。 また、「談山正宗醸造元」の酒造前を通ります。 「寺川の聖林寺橋をわたります。遠くの山裾に聖林寺が見えています。 聖林寺の下に着きました。 坂を上がると鐘楼が真下に。 聖林寺の山門です。 本堂に入り、ご本尊の「子安延命地蔵菩薩」様を拝みます。元禄時代に造られた丈六の大きな石仏です。本堂の回廊から北、三輪山方面を眺めます。 お目当ての国宝「十一面観音菩薩」を拝観のため階段を上がり「観音堂」へ向います。壁に「小倉山」について記載された紙が貼られています。京都嵐山の小倉山の名称はここがご本家のようです。 ここで、この観音様についてパンフレットでは 国宝 十一面観音菩薩 木心乾湿像 天平時代の作 760年代に東大寺の造仏所で造られ、その願主は智努王(ちぬのおうきみ)(天武天皇の孫)とする説が有力です。かっては四天王に守られ、前立観音の他、左右に多くの仏像が並び立ち、背面には薬師如来一万体が描かれた板絵がある荘厳な中にまつられてきました。・・・均整のとれた仏身、豊満な顔立ち、量感のある上半身、微妙な変化をみせる指先等、ミロのヴィーナスとも比較される仏像彫刻の優作です。 本堂前のお庭には フェノロサについての記述が。 お寺からの坂道の横に「水仙」の花が清楚に咲いており、私達を送ってくれました。 聖林寺について略記には以下のように記されています。 聖林寺の創建は古く、奈良時代(和銅5年・712年)に談山妙楽寺(現談山神社)の別院として、藤原定慧(鎌足の長子)が建てたとされています。・・・国宝で有名な十一面観音菩薩は、慶応4年(1868年)に大御輪寺(大神神社の神宮寺)より移され、フェノロサ、岡倉天心らによって開扉されて以降、その美しいお姿は多くの人を魅了してきました。門前からの眺めは卑弥呼の墓とも言われる箸墓などの大和盆地の古墳群、山辺の道、三輪山を一望のものに見渡すことができます。 25分ほど歩くと12時30分になっていました。赤く塗られた「阿倍文殊院山門」を入ります。この門から境内に入るのは始めてのことです。 拝観のため本堂に入場すると、まずお抹茶のご接待に与ります。ご本尊「文殊菩薩像」を拝みます。巨大な仏様で圧倒されます。 「文殊院本坊」と道案内碑 道案内碑の解説文 「文殊池」の中に立つ「金閣浮御堂」(仲麻呂堂) 前回首相就任の際の阿倍首相の献燈籠(パンフレットには永代奉納料は50万円と記されています。) 特別史跡文殊院西古墳(飛鳥時代・国指定史跡) 古墳説明板 「金閣浮御堂の為のポスターから 阿倍仲麻呂公神像 阿倍清明公神像 阿倍清明公軸 」 「阿倍文殊院略記」の書き出しです。 当山は西暦645年(大化元年)に阿倍一族」の本拠地と中心であったここ阿倍の地に、大化改新新政府の左大臣となった阿倍倉梯麻呂公が阿倍一族の氏寺「阿倍寺」を建立したのが始まりです。・・・創建当時の阿倍寺は国家鎮護並びに阿倍一族繁栄の祈祷が主であったが、平安時代に当山で阿倍清明公がご出生され、没後に「魔除け災難除けの神」として祀られるようになると、一般庶民を含めた祈祷の寺の色彩を強めていった。 過去に出入りした門から出て、桜井駅に向います。 桜井駅に戻る為に、「土舞台」を通ることとしました。少し高台に登ります。「土舞台の碑」と その説明板があります。 桜井駅に戻ると昼食の時間を過ぎています。「森正」で「にゅうめん」を食べたくなり、大神神社へ向うこととしました。「磯城瑞離宮(しきみずがきのみや)跡である「志貴御縣社」にお詣りし、 解説板を読みます。 さらに、「山辺の道」(小林秀雄氏の筆による)を歩きます。 「平等寺」の「赤門」から境内に入ります。 「平等寺」全域。 14時20分、ようやく「大神神社」へたどり着きました。 大神神社拝殿でお詣りの後、 参道を下ります。 鳥居の前にある「森正」で、「にゅうめん」と「柿の葉寿司」の遅い昼食にありつくことが出来ました。 JR三輪駅には15時に着き、15時2分の奈良行きの電車にぴったりと間に合うことが出来ました。 |
2013年3月10日 すっかり参っています。今年の花粉症は私にとっては、近年稀にみる程のダメージを与えています。外出時には、珍しくマスクを着けています。8日には、以前から嫁さんに約束していた、奈良・桜井の「聖林寺・十一面観音菩薩」、「阿倍文殊院・文殊菩薩像」の拝観に出かけました。歩くことも目的のひとつですからその後、「大神神社」まで足を延ばし、いつものように、「森正(もりしょう)」で、「にゅうめん」と「柿の葉寿司」を食し、帰宅しました。もちろん、マスクは着けていたのですが、花粉にまみれた一日だっただけに、けっこうなダメージを受けたようです。ページ更新の意欲が全くなくなっています。この時期の奈良の風景を別ページに出来るのはいつになるのか不明です。「中西輝政氏の著作 読後感」もなかなか進みません。それなのに、ブックオフに頼んでいた青山繁晴氏の「王道の日本・覇道の中国・火道の米国」と「救国 超経済外交のススメ」が届いてしまいました。 花粉そして中国から渡ってきている黄砂、さらに、人体の奥底に入り込み害をなすやもしれない有害微粒子の三点セットの悩みは夏まで続くかもしれません。悩ましい春です。 |
2013年3月4日 昨日は、3月3日の「ひな祭りの日」でした。”我が一族”(娘夫婦と美緒ちゃん、息子夫婦と梨央ちゃんと我々夫婦の8名)は息子の2人目の赤ちゃん(7月下旬出産予定)の為の腹帯をお借りする為の「伏見の御香宮」へのお詣りでした。 「御香宮本殿」 「安産の社の碑と母子像」 「本殿での御祈祷、御祓い」 夜の会食は、息子が希望していた伏見の「神聖酒蔵」が経営する「鳥せい」です。今回は息子が早々と予約を入れてくれたため、今回始めて、2階の予約席での賑やかな会食となりました。8人が丁度のボックス席で、孫たちとの会話も遠慮することも無く、美味しい焼き鳥を中心にしたアラカルトを存分に食べ、男3人は美味しいお酒を十分に頂戴することが出来ました。嫁さんは、ここだけは率先して注文する「たれ口」(冬季限定・しぼり機からそのままくんできた蔵内の味)を1杯、美味しそうに舐め、程よく良い気分になっていました。4時過ぎの入店でお客さんがほとんど居なかった2階の予約席も6時過ぎには満席となり、また、1階席はいつものように満席の盛況でした。女性群とマゴッチ達は、デザートで満足し、男達は最後に注文した各々1杯の「蔵出し生原酒」で満足してのご帰還となりました。 |
2013年2月24日 信州・松本・浅間温泉・ホテル小柳での「13回卒、古希記念の集い」から1週間経ちました。大変楽しい旅でしたので、少し疲れが出て、3日ほどは体調がすぐれませんでした。本当は、2日間の飲みすぎが原因と思われます。その間も、集いでの写真を縮小処理をした上、各位へのメール発送は進めていました。ようやくこの旅をまとめる意欲が湧いてきたようです。 16日は、名古屋13:00の「しなの号」に乗車した。 名古屋駅には少し早めに着いたため、いつも利用している「ホームのきしめん屋さん」に寄り、お酒ときしめんを食している時、お店の人に「お土産」を手渡す「奇特な人」と顔を合わせます。驚いたことに大阪から参加するA氏でした。 14時10分、「木曽川」の流れと、遠くに「御嶽山」が見渡せる地点を過ぎます。 14時20分、下りのしなの号では必ずアナウンスがある「寝覚ノ床」を通過します。 14時55分、塩尻駅に着きました。 松本駅へは後、7〜8分です。 駅からは「浅間温泉」まで、バスに乗車するつもりで歩いて行くと、東京に在住しているH氏がよい時間のバスの便がないとして、タクシーを利用する為に引き返してくるのに出くわします。グッドタイミングとして、同乗することとします。 浅間温泉「ホテル小柳」さんは、同期のM氏が社長であるため、13回の集まりはちょくちょく行われていますが、私は始めての宿泊となります。さっそく、温泉を楽しみ、ロビーで、後から来る方々を待ちながら、撮影します。 ロビー ロビー横のお庭 ロビーの「長篠の戦の屏風」 などを楽しみます。 18時からは30名での集いとなりました。飲み、話し、歌う、いつもの集いです。皆さん、古希を迎えることができた歓びを心の底に感じていることと思われました。飲み、話しに夢中で、最後のご飯は食べきれませんでしたが、 メニューと その特徴的な御飯です。 これで終わればよいものを、松本の仲間と更に松本まで繰り出して飲んでしまいました。 翌朝7時、モーニングコールで起こされ、宿泊した仲間4人が待つ朝食会場へ。そんな状態でも、朝ごはんはチャント頂戴しました。食事後はゆっくりと朝の温泉を楽しみ、9時半にホテルをチェック・アウトします。初めての宴会と宿泊でしたが、お宿は大変よい雰囲気で、温泉も、お料理も文句のつけようのないものでした。感謝!!!感謝!!!!!です。 11時の友人T氏との約束を考え、松本駅まで歩くこととしました。 9時40分、ホテル小柳をでます。 浅間温泉の地図があります。 10時丁度、小中学校の頃は遊びに行った記憶がある、昔懐かしい「護国神社」境内に入ります。55年ぶりと言ってよいでしょう。近くに昔通った中学校があります。 御由緒を確認します。 少し下ると「信州大学付属病院」前を通ります。 10時35分、実家の前の「開智小学校」の撮影、 3分ほど歩き、雪景色の「国宝松本城」を撮影します。 45分には女鳥羽川を渡り、 約束時間ギリギリの10時55分、松本駅に着きました。 T氏とは、東京での4年間の学生時代に、3ヶ月程は同室で暮らし、その後も、バイト、食事、お酒、遊びを、常に、共にした仲。実家の関係で信州に帰って、金融機関への道を歩みましたが、就職してから2年ほどは誘われて「八方尾根」、「栂池」などへ、スキーにいってことを思い出します。その後には、1度やはり学生時代のバイト仲間と新宿で飲み会をもようしましただけですので、どうしてもこの時期に会っておきたかった”友”と言えます。 お互いのそんな気持ちが、学生時代とその後のお互いの生活などの会話を切らすことが出来ず、時を忘れ、話し、飲むことになってしまいました。2人でお酒15本はやはり飲みすぎでした。よく京都まで帰って来たものと不思議な気持ちです。でも、本当に楽しい時間でした。 |
2013年2月13日 中西輝政氏「日本人が知らない 世界と日本の見方」は、氏が京都大学で2008年の前期(4月〜7月)に「現代国際政治」という名称で行った講義をまとめたもので、専門的は話しは後期の「国際政治理論」に廻し、国際政治学の入門にあたるものとしています。そして、体系的な構成を意識せず、学生達の反応を見ながら、関心の強い問題に話題を展開していくようにしたため、まとまりのないものになったのでは、と思っているようです。確かに、読んでみての感じはその通りと思われ、全体を整理することが難しく感じられました。 そこで、私が面白いと感じた記述のみをピックアップしてのマトメとして見たいと思います。 「はじめに 世界と日本の末期症状」 ・・・国際政治を学ぶ人に申し上げたいのは、国際ニュースを見て、世界各国で起こる出来事に敏感であってほしいということです。とくに日々のニュースソースに注意してください。どうゆうソースからニュースを手に入れるかは、いろいろ試しながら「これはいい、これはダメ」「この部分は客観的だけれども、こうゆう視点は偏向している」などと判断する眼を養ってください。 メディアには「癖」があります。日本の大新聞でいえば、たとえば『朝日新聞』は国際ニュースについては信頼できるけれど、こと中国に関してはちょっと信頼できません。あるいは産経、読売は真ん中から右側の保守、または中道保守、朝日、毎日は真ん中から完全に左側です。そうした偏りがある中、国際面のニュースを正確に読み取るのは実はなかなか難しい、ということは覚えておいてください。・・・ 「世界史初の国家総力戦であった第一次世界大戦」・・・第一次世界大戦は、世界史上初のおわゆる「国家総力戦」でした。・・・戦車や飛行機、毒ガスなど、核兵器以外のすべての大量破壊兵器が開発・使用され、それによる人的犠牲は甚大なものでした。また、ある面で「国家が国民を騙す戦争」ということでもあります。戦意高揚のため、マスコミを利用して国民に情報を植えつける。戦争の美談を捏造し、負けているのに「勝っている」と報じる。・・・1916年の「ソンムの戦い」が顕著な例としています。 戦後賠償がヒトラーを生んだということは、知識の内に入っていましたが、イギリスを始めとする戦勝国は大きな戦後賠償を受けなければ国民に言い訳が立たず、アメリカからの国の借金も返済できない状態であったようです。 「もし国際連合に拒否権がなかったら」・・・第一次世界大戦後、ヨーロッパで「戦争の原因になる国家をなくすために」考えられたとされる共産主義の「平和宣伝」に対抗するものとして、アメリカのウィルソン大統領がもう一つの答えを出していました。それが「国際連盟」です。・・・戦争が起こりそうになれば、必ず国際連盟がその解決に力を尽くす。しかも民主主義の原理に忠実に、一国一票の多数決で決めるという考えも生まれます。ただし、それだけだと不合理なので「常任理事国」という考えも生まれます。いまの「国際連合」は、当時の国際連盟のほとんど焼き直しにすぎませんが、決定的に違うのは「国際連合には拒否権があるが、国際連盟では常任理事国に拒否権がなかった」ことです。満州事変の折、常任理事国であった日本に拒否権があれば、「リットン調査団」の報告に基づく非難決議を受けることが無く、国連を脱退する必要がなく、日本は第二次世界大戦とは無縁だったといえる可能性が高いとしています。 ・・・現在の、常任理事国が1国、拒否しただけで、他の理事国が全員賛成しても決議が否決されるいう拒否権は、じつにおかしな制度です。・・・そう考えると、じつは拒否権があったほうが、平和は守れるのです。大国が国際社会から孤立することなく、大国同士の戦いも起りにくい。しかしその一方で、横車を押して他国の領土に侵攻し、占領して平気でいることもできる。非常に大きなジレンマといえます。例えば「イラク戦争」。 「樺太を譲ったのはイギリスの入れ知恵だった」・・・1875年に日本はロシアと「千島・樺太交換条約」を結び、樺太はロシア領、千島列島はすべてに日本領となります。これらは現在、北方領土問題として揉めていますが、千島・樺太交換条約以前はロシア人も日本人も、樺太にも千島列島にも暮らしていました。ところが条約により、全千島すなわちカムチャッカ半島までが日本領となり、代わりに日本人が多く住んでいた樺太がロシア領になってしまったのです。19875年といえば、明治8年です。・・・これはイギリス人の入れ知恵で、「日本の小さな力では樺太を開発できないし、防衛も出来ない。千島なら、周囲は海だから防衛できるだろう・・・という論法で、日本に樺太を放棄させたのです。そこには「千島までは絶対にロシアのものにはしたくない」というイギリスの思惑がありました。ロシアが千島を握ると、北太平洋はすべてロシアの海になる。それをイギリスは恐れたのです。・・・日本共産党の北方領土問題に関する基本的態度も「全千島を要求するのが日本の正しい立場」というものです。・・・ 日本共産党の「立派な見識」・・・もう一つ、日本共産党のかっての主張で正しいものがあります。昭和二十二年(1945年)まで、日本共産党は「憲法九条は認めない」といっていました。「軍隊を持たない主権国家なであり得ない」という論拠からで、当時の日本共産党の最高幹部は全員声をそろえていっていました。これも正しいと思います。・・・「軍隊がなければ、誰が日本の国家の安全を保障するのか。・・・この質問に対し、吉田首相は次のように答弁しました。「この憲法は、二度と侵略戦争をしないと謳っている。・・・いくら主権国家が自らの独立を守るために必要だといっても、そうしてできた国軍がいずれは侵略戦争を起こすことも歴史が示している」とだから軍隊はいっさい持たない。・・・現在は全く反対の意見となっています。これについて、「共産党がモスクワ・北京の子分、自民党はワシントンの子分」で触れています。 「反アングロサクソン精神がEUをつくった」・・・古代ローマ人はもうおらず、人種的には何の意味もないフラン人が人種をいうのは、カトリック教会に対抗するためです。カトリックはヘブライ、ユダヤ、キリスト教につながる系譜で、フランス人がその継承者というだけであればいいのですが、キリスト教会は自分たちを「ローマ帝国の継承者でもある」と言い張りました。・・・「フランスこそヨーロッパの主人公で、アングロサクソン的なものは大したものではない」という思想です。このような確固たるものが、ヨーロッパにはある。EUが発展してきたのは、この精神が生きているからです。・・・ 後半部、第5講の「一超多強」の世界では 「国民が高揚していた日露戦争時の日本」、「最初から精神的に負けていた大東亜戦争」、「サミットはもはや諸大国が話し合いをする場ではない」、「トルコはなぜEUに入れないのか」などがあります。それぞれなるほどという記述です。 10日で触れたように、ブックオフで購入した7冊の氏の本を発刊が古いものから読み始めています。2001年9月、第1刷の 日本の「敵」 2010年10月発行の 「インテリジェンス・リテラシーのすすめ 情報亡国の危機」を読みました。別ページでマトメてみます。 今週末の16日、17日は松本の浅間温泉へ出かけます。高校の古希記念の同窓会が開かれるという葉書を受領し、少し迷っていたのですが、大学時代に4年間、特に一年の一学期は同じ部屋で過ごし、その後もベッタリの生活をおくった友人T氏と、17日、久しぶりに飲む約束ができたためです。浅間温泉の「ホテル小柳」での宴会はいずれにしても、楽しみです。 |
2013年2月10日 ようやく「クラブツーリズム 白川郷・飛騨高山・金沢と富山温泉」の旅をアップすることが出来ました。その間、図書館からひょんなことで借り出した中西輝政氏の「日本人が知らない 世界と日本の見方」にはまり、ブックオフで他の著作を7冊求め、読み始めたことによります。これについては後日に触れてゆきたいと考えています。 |
2013年2月1日 1月28日、29日のジジ連、5人による「クラブツーリズム 白川郷・飛騨高山・金沢・能登と富山温泉」のバスの旅は幾つかのハプニングがあり、大変楽しく満足のゆく旅となりました。詳細は別ページをこれから作り始めますが、ハプニングの一番は、我々のバスに同行するお仲間の30名が香港からのツアー客であったことです。 同時出発のバスは3台(130名強)ですが、我々のバスのみ、お客さんの三分の二が比較的若い香港からの方々だったのです。添乗員さんのアナウンスは日本語の後、英語でのアナウンスとなりました。出発時間についての若干のトラブルはありましたが、全体としては大した問題もなく旅を終わることができました。それ以上に、新婚旅行という香港のご夫婦、池田に住んでいられる我々より年上のご夫婦と我々5人のジジ連がお知り合いになれたことこそ、大変よい旅の思い出、一番のハプニングとなりました。ジジ連20回目の記念の旅はこれから作成が始まります。 |
2013年1月25日 寒いこの時期、どうしてもパソコンへ向う時間が少なくなります。従って、更新の頻度が減ってしまいます。 アルジェリアのテロ事件での日本人被害者10名の内、9名が今朝政府専用機で無言の帰国をされました。残る1名も身元確認が済みしだい帰国されるようです。ご家族には心の中でお悔やみを申しあげることしかできません。被害に遭われた方々ばかりでなく、海外の多くの地域で実際に活動をされておられる方々は、その危険は常に感じ、ある程度覚悟をされているものと思われるからです。 今年始めてのジジ連5名でのバス旅行「白川郷・飛騨高山・金沢・能登と富山温泉」の日程28日・29日が迫りました。あいにく、明日からは寒波の襲来で、冬将軍の到来が予想されます。予想天気は曇り時々雪、高山地方の気温は氷点下7度とのことですが、もっと厳しい天気模様が予感されます。岐阜から富山へ雪深い地域の抜けてゆくわけですから、どんなことが起るか判りません。そんな旅を楽しんできます。 |
2013年1月16日 1月10日、読売新聞夕刊、「よみうり寸評」に「相馬馬追い」についての記事が載っていました。丁度、市立図書館から借り出してきていた近衛龍春氏の「慶長・元和大津波 奥州戦記」という本を読み始めていたところで、興味深く読ませていただきました。 <疾走!相馬野馬追〜東日本大震災を越えて〜>は昨年9月、NHKテレビで放映された記録映像◆日本中央競馬会は8日の選考委員会でこの作品を2012年度のJRA賞馬事文化賞に決めた。賞は製作したNHKメディアテクノロジーと平成24年度相馬野馬追執行委員会に贈られる◆<相馬野馬追>は国指定の重要無形文化財。千年以上の歴史を誇る福島県相馬地方の伝統行事だが、一昨年の大震災で甚大な被害を受け、肝心の馬をはじめ、甲冑、鞍などの馬具、旗指し物などを多数失った◆一昨年は開催そのものも危ぶまれたが、規模を大幅に縮小して実施。昨年は何としても例年通りに復活させようと関係者は大奮闘◆しかし津波などで100頭以上の馬が犠牲になり、今回出場した馬の多くはレンタルという事情もあっての復活に苦労も多かった。映像は、親族や馬を失い家を流されながらも野馬追を絶やさず次世代に伝える人々の姿を追った◆伝統の祭事を震災から復興への足がかりにと念ずる人々に感動する。 奥州相馬氏は平将門(祖は桓武天皇)の血を引く桓武平氏です。以下「奥州戦記」の一文です。 ・・・相馬氏は桓武天皇の玄孫・高望王(たかもちおう)に始まる歴とした桓武平氏である。高望王の次男・良将の息子には、「新皇(しんのう)」を自称して天下を震撼させた平将門がいる。将門の孫が文国、その次男・兼頼の曾孫の相馬師国(もろくに)に、高望王の十男・良文の子孫にあたる千葉常胤の次男の師常(もろつね)(師胤から改名)が養子に入り、下総の相馬氏が継承された。・・・ ・・・義胤(よしたね)が家督を継いだのは、天正6年(1578)、31歳のときである。・・・ 平将門の末としての誇り高い血筋であっても伊達氏、佐竹氏の圧迫の下に行方郡(なめかたぐん)を本領とする小領主 義胤(よしたね)は、東からは伊達政宗、後には関白秀吉、将軍徳川家康らに翻弄されます。関が原の合戦から11年、天下は徳川氏のものとなろうとしている1611年それが起ります。 「慶長・元和大津波 奥州戦記」の書き出しです。 序章 海嘯(よだ) 慶長16年(1611)10月28日、グレゴリウス歴では12月2日の巳ノ刻(御前10時頃)。地の底から湧き出すような、おぞましい唸りが轟いた。大地が地上にあるあらゆるものを羽根つきでもするように弾き上げた。大きな衝撃を受けた者は立っていることも敵わず、その場につんのめってしまう。・・・大地震ののち、相馬義胤は居城の小高(おだか)城に戻った。・・・次々に被害状況が届けられる中、四半刻(しはんとき)(約30分)が経過した。 東の海のほうから、鼓膜を打ち破るかのような轟音が鳴り響いた。耳朶が痛くなるような巨大な銅鑼の音が谺(こだま)するかのように尾を引いている。 <海嘯か> 伝えられている情報から判断した。南陸奥では津波のことを海嘯という。「海の近くにいる者を逃れさせよ。皆に鐘で報せよ」・・・相馬領の田畑の半分以上近くが潰された。 小高城の高台から大津波に引き裂かれた相馬の領地を眺め、義胤は呆然としていた。 3ヶ月前の会津大地震で多数の死傷者を出し、まだ余波もおさまらぬうちに未曾有の天災である。しかも幕府からの天下普請で相馬家の台所は火の車状態だった。(せっかく改易の危機から逃れたというのに、相馬滅びてしまうのか・・・・・・いや、ならぬ、由緒正しい我が一族を滅びさせてはならぬ。相馬の家のため、相馬領に住む民のため、未来永劫続く相馬の地のため、必ず復興させてみせる) 最悪の状態の中、義胤は決意を新たにした。・・・ ・・・・・未曾有の被害から立ち直る兆しを見出せぬ中、すべきかどうか悩んだ義胤であるが、苦しい時だからからこそと、5月中の申(さる)の日、相馬野馬追を行った。多数の馬が大津波に飲み込まれてので数を揃えるだけでも困難だった。・・・・ ウィキペディアで「慶長大地震」を検索するとこの時期多くの地震があったことが記されています。 1596年9月1日「慶長伊予地震」M7.0 1596年9月4日「慶長豊後地震」M7.0〜7.8 1596年9月5日「慶長伏見地震」M7.1 1605年2月3日「慶長地震」M7.9〜8.0 東海・東南海・南海連動型地震 1611年9月27日「会津地震」(慶長会津地震)M6.9 直下型地震 1611年12月2日「慶長三陸地震」M8.1 三陸沖を震源として発生した地震。実際には千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。 1614年11月26日高田領大地震とされたが、会津から松山にいたる日本各地に被害記録があり震源は不明。 |
2013年1月10日 6日、市立図書館から借り出した、黄文雄(こうぶんゆう)氏の「日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか」を1日で読みきりました。氏は1938年に台湾で生まれ、1964年来日、早稲田大学を卒業されています。これまで、「日本人が知らない日本人の遺産」、「日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか」など、歯に衣を着せぬ論調で中国、韓国の歴史と動きを批判し、日本に対しては日本人の良さを認識させ、日本人としての自身を取りもどすべきことを強調しています。今回の書は、昨年8月末に刊行されたもののため、大変新しい視点も含まれています。その「はじめに」の部分を抜粋してみます。 尖閣諸島問題や靖國参拝問題、さらに従軍慰安婦問題が表に出るたびに、中国人や韓国人は日本の国旗を焼き、日本の首相の遺影写真をつくって、激しい抗議をくり返す。さらにネット上で日本人を口汚く罵るだけでなく、日本大使館や日本食レストランに投石したり、焼き討ちまでもが行われる。2012年7月25日には、従軍慰安婦問題に抗議して、韓国人男性がソウルの日本大使館にトラックで突入するという事件も起きている。こうした中国人や韓国人の行為が繰り返されるたびに、多くの日本人は、彼らの考え方や行動がいかに自分たちと異なるかを見せつけられ、気づかされる。・・・日本と中国、韓国の東亜3国は、かって「同文同種、同俗同州」(同じ文化を持つ同じ民族)であると、さかんに語られたことがあった。さらに同じ「漢字文化圏」であるとか「儒教文明圏」であると見なされることもあった。・・・結局のところ、日本と中国、韓国はまったく異なる文化、文明、風土、歴史である。もちろん漢字や仏教、儒教、律令制など、長い歴史の中で、日本と中韓が共有した(したことがある)文化要素も存在する。だがそれは、共有したことがあるというだけで、文明の仕組みはまったく異なっている。・・・ ・・・この数年、中国は「南京大虐殺」というウソの歴史映画を世界に配給し、韓国は「従軍慰安婦」というウソだらけの少女像を世界にばらまいて、日本を貶めることに必死である。だが、世界は決してだまされていないのだ。 本文では各種資料に基づいて、悪しき儒教の通弊を引きずる国としての両国(歴史を我の都合よいように改竄する。江戸時代、朱子学にはまった新井白石、鳥居要蔵などが真の改革を妨害した。と「逆説の日本史」の中で、井沢元彦氏が強調しています。)を説明しています。 そんな折、昨夕、関西テレビでのニュース解説の中で、「青山氏」が、中国、韓国の両国が結びついての2つのエピソードを紹介していました。 一つは、阿倍新首相の朴新大統領への特使として年初に韓国を訪問した額賀氏の入国時、一般人の出口を強制した事。(大統領府からの指示)そのため、出口で日本人に対する侮蔑的パフォーマンスを見せられたこと。 二つ目は、阿倍新首相の1月中の訪米希望叶えられそうもないこと。ニューヨーク・タイムスが社説で、中国、韓国の歴史認識(黄文雄氏がウソと指摘している)に基づいた阿倍首相に対する侮蔑的とも言える記事を載せていること。これは、両国のアメリカ議会でのロビー活動、そして、ニューヨーク・タイムス、ワシントン・ポストなどは中国から多額の宣伝費を受けているなどが原因の一つであると説明しています。 外交問題に対しての日本の大新聞の報道姿勢には沢山の疑問符がつけられるようで、心配です。 「空海の寺 大原・来迎院」」 をアップしました。真言密教についての知識がほとんど無かったためです。まだまだ勉強が必要です。 |
2013年1月6日 年明けで市立図書館へ行ってきました。そこにはパソコンが置いてあり、インターネット接続が可能です。たまにですが、ページの出来を確認する為にそのパソコンでチェックしています。今回は4日の分からアップし始めた動画の状況を知りたくなりチェックしてみました。画像のゆれと、画質があまりよくないことはありますが大丈夫なことが分かり、これからも続けてゆきたいものと考えています。 |
2013年1月4日 春日大社への初詣の様子を写真と動画で綴ってみます。JR大住駅に目につくパンフレットがありました。年初から始まる「八重の桜」です。NHKの大河ドラマはJRでも宣伝に力が入っているようです。 JR奈良駅から三条通りを東に上がります。11時20分、興福寺五重塔横を春日大社参道を目指します。 11時45分、思いのほか多くの参詣者が。 門前の雑踏を動画で。 11時49分、 門前で入場制限をしています。 11時53分、本殿前に。お賽銭をあげ、家族の息災をお祈りします。例年の通り、破魔矢をいただき、本殿を動画で。 春日山の麓を通り、 東大寺へ向います。 途中、手向山八幡宮に菅原道真公ゆかりの腰掛石に気がつきました。 八幡様のお社はお正月らしい佇まいです。 今年もやはり、二月堂の舞台に登ることとします。 大仏殿の向こうに生駒山が見えています。 この景色も動画で。 東大寺大仏殿を門外から拝み、近鉄奈良駅近くの、うどん屋さんでお銚子付きお饂飩をいただき、帰路につきました。箱根駅伝は東京教育大学の逃げ切り優勝でした。昨年19位、予選会からの今年の優勝は讃えられるべきものです。復路、箱根の山下りに弱い早稲田は復路ジリ貧状態。残念です!!! 東寺について、進行中ですが、やはり、梅原猛氏の「最澄と空海」で、空海と真言密教について再度勉強中ですが、理解するのが難しい!!!!! |
2012年12月29日 昨日、ヤフーさんから嬉しいメールが入っていました。今、ホームページ「歴史散歩万葉の旅」・「作者近況の欄です」はYAHOO!ジオンティーズのジオプラスを月額525円で使用させていただいています。現在は1Gの容量ですが、料金はそのままで、10Gまでの使用が可能となるとのことです。写真の使用がほぼ、制限無しに出来るというわけです。よりページの充実をはかることは出来るのですが、さて?気力が持つのか?が問題です。早速、「東寺」、「大原の来迎院」をページにとの意欲は湧いてきていますが。 |
2012年12月26日 昨日、年賀状を発送することができました。一段落です。そんなことで、今年も後5日となりました。今年はどんな年だったのでしょうか?各人が各々思いをお持ちのことと思います。テレビでは、総選挙後の臨時国会開催に際して、国会議事堂へ初登庁する新人議員のインタビューをながしています。異句同音に「身が引き締まる思いです」とのコメントです。今日決まる新閣僚からも、同じ言葉が聞かれることでしょう。 2日ほど前に、震度6以上の地震が発生するであろう地域ごとの確率発表がありました。東日本大震災の震源域より南の震源となりうる地域の危険度を重視して、茨城県、千葉県、東京都東部地域の30年以内に発生するであろう確率を大幅にアップしました。17日に触れたように、危険に対処する心構えは忘れないようにしたいものです。 |
2012年12月19日 総選挙後の株式市場の値上がりは驚きです。米国の株高の影響もあり、東京株式市場では8ヶ月半ぶりに1万円の大台を越えたもようです。円安、株高の動きはいつまで続いてくれるのでしょうか?その動きをリードしたと思われる、次期首相となることが決まっている阿倍さんは選挙中、開票後休み無しの働きをしており、元々持病をもっている方だけに心配です。せっかく内外ともに期待の声が高いこの動き続けていってほしいものです。 期待といえば、来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」です。12月9日、今年最後のとなる「京たなべ・同志社ヒューマンカレッジ」での本井康博神学部教授のお話は、来年の大河ドラマを待ち遠しくさせるものでした。 まったく無名の「新島(山本)八重」は、なぜNHK大河ドラマの主人公として抜擢されたのか?今年の主人公平清盛は不評であったとは言え、日本人で清盛を知らない人はいないでしょう。それに引き換え八重は?御当地繁栄の起爆剤となりうる大河ドラマは各地から引く手数多の状況です。 東北大震災、福島原発事故で、福島、東北復興の起爆剤となる番組編成を目指すNHKとしては、戊辰戦争(1868年)には家族の男たちが出兵し敗れ、会津での戦いでは自分も会津城に籠城したすえ生き残り、1871年、26歳の折、兄を頼って京都に移り、兄の薦めでキリスト教、英語を学び、1872年、女紅場(にょこうば)(現府立鴨沂[おうき]高校)の教員となり(初代キャリア・ウーマン)、1876年、30歳で新島襄と再婚、「校長夫人」、「牧師夫人」となり(初代ハンサム・ウーマン)、1890年夫、新島襄を亡くしてからは、日清・日露戦争の折は、篤志看護婦(ボランティア・ナース)として、戦争後「宝冠章」を得るなどの活躍をした八重の生涯は福島時代の活躍を強調すれば大いに、復興の起爆剤となると信じたことよると考えたもののようです。 福島県人を主役にするのであれば、男性であれば「保科正之」、「野口英世」がおります。女性であれば、「幕末のジャンヌ・ダルク」、薙刀の名手で、娘子隊(じょうしたい)で、男装して会津戦争に従軍、戦死した「中野竹子」、家老の娘で、岩倉使節団に同行して留学、初の女性学士とり、その後、「鹿鳴館の華」ともいわれた「山川捨松」(大山巌夫人)、「海老名リン」、「若松賎子(しずこ)」、「瓜生岩子」(「日本のナイチンゲール」)などがおりますが、八重の人間的魅力(キャラ、不撓不屈、信念、男優り、元気、勇気、先駆)がよりドラマ性があると考えられたものと思われるということのようです。 あくまでも、同志社大学の創始者「新島襄」が主役のドラマではないことを強調していました。 明日は、公民館での「中国語講座」の後、今年最後の、「ジジ連の集まり」、忘年会です。楽しみです。 |
2012年12月17日 昨日は衆議院選挙が行われました。もちろん投票の義務は果たしてきました。そして、昨夜は2時まで、今朝は6時から今まで、選挙関連ニュースを新聞、テレビで確認してきました。前回の衆院選挙は民主党を政権与党とするものでしたが、今回は民主党を政権から遠ざけるものとなりました。それも民主党の立ち直りが難しいまでのものです。3年3ヶ月の政治の舵取り、そして民主党所属議員各人が各々、あまりにもお粗末であったことを国民全体から忌避されたものと思います。離党し新党を立ち上げた人に付いて行った方々はもちろんですが、党内に残りながら相変わらずの不協和音を出し続けた方々には、あきれてものも言えない心境です。それが主原因となり、自民党大勝となり、公明党と合わせれば、国会の三分の二以上の議席を得ることになりました。自民党首脳陣は大勝にも、謙虚な姿勢を崩していませんが、その多大勢の返り咲き、新人の方々に驕りの気持ちは生じていないのでしょうか?心配です。50人以上の当選議員を出した維新はやはり地方政党ですし、未来に国民の未来を託そうと考えた人は少なかったようです。やはり、これからの自民党政府の舵取りは本当に重要です。東北地方、原発事故を抱える福島県の復興、それの伴う日本経済の復活を願うばかりです。 井沢元彦氏の「逆説の日本史 黒船来航と開国交渉の謎」の中に、1854年〜1855年にかけて発生した3つの巨大地震についての記述があります。幕末維新の歴史も含め、歴史に学ぶ姿勢を崩すことは危険です。 安政東海地震 1854年12月23日 M8.4 嘉永7年11月4日午前8時頃発生。推定最大震度7。関東から近畿まで広範な被害を記録したが、駿河湾、遠州灘、伊勢湾にかけの海岸沿いが最も被害を受けた。房総半島から土佐まで津波被害も甚大。 安政南海地震 1854年12月24日 M8.4 嘉永7年11月5日安政東海地震の32時間後に発生。推定最大震度6。西日本から九州にかけて多数の死者。大阪では津波が木津川、安治川を逆流したことで多数の死者が出た。 安政江戸地震 1855年11月11日 M6.安政2年10月2日午後10時頃に発生。推定最大震度6。死者は1万人前後に及んだとされている。会津松平家を始め、大名家屋敷の被害も甚大だった。地震の模様は瓦版で報じられ、鯰絵(なまずえ)も多数描かれた。 |
2012年12月14日 「出雲への旅」をようやくアップすることが出来ました。古代の出雲地方には大和王権の以前に、スサノオ、オオクニヌシを首領とする王権があったことはいつになったら証明されるのでしょうか?証明されないのでしょうか?まだまだ、面白い探求は続きます。久々に「京都の旅」で「東寺」、「来迎院」に触れたいと考えています。年賀状も考えなければなりません。 |
2012年12月9日 6日の午後は、中国語講座の受講で中央公民館へ、昨日、8日は「2012京たなべ・同志社ヒューマンカレッジ」受講のため同志社までとなにかとジジも忙しい。もちろん、梨央ちゃんの保育園もあります。なかなかページが進みません。でも、昨日の同志社では、大変面白く、楽しい経験をさせていただきました。 まず、ヒューマンカレッジは、昨日が今年の最終回にあたあります。5月19日は 『「アラブの春」から「中東の嵐」へ』 とのテーマで内藤正典教授 6月9日は「これからどうなる、グローバル経済と日本」 とのテーマで浜矩子教授 7月7日は 「気になる隣人中国の行方」 とのテーマで加藤千洋教授 9月29日は「2012年、朝鮮半島と日本」とのテーマで太田修教授 10月13日は「沸き立つアジア、つまずくアジア」とのテーマで阿倍茂行教授 11月17日は「米大統領選挙後の国際情勢」とのテーマで村田晃嗣教授 (この回は友人を奈良へ案内の為欠席。村田先生の面白いお話しが聞けずに、大変残念です。このため、全講義出席を義務ずけている修了証を貰い損ねました。) 9月の太田先生のお話しには疑問符を付けざるを得ない部分は有りましたが、その他は大変面白く受講させていただきました。今回、最終回と言いながら、テーマが「八重さん、出番ですよ!−大河ドラマの楽しみ方ー」です。八重さんが同志社大学の創始者「新島譲」の夫人ではありますが、なんで???との違和感がありました。ところが、神学部教授 本井 康博先生のお話が面白い!!!!!詳細は後日に譲りますが、最近NHK大河ドラマを見ていなかった私でも、来年の「八重の桜」を見たくなった程です。 講演会の後、郷土史研究の集まりで知り合い、研究会ばかりでなく、何回か飲み会、カラオケをしている大学の近くに住むK氏のお勧めで、同志社新島記念講堂で開かれた「第23回 同志社京田辺クリスマス 燭火讃美礼拝」 (別パンフレット ステンドグラス)へ参加してきました。ミサというものは未経験(もしかしたら、昔、経験しているかもしれません。)であった私が、思わず引きこまれる雰囲気を体験することが出来ました。そして最後は「もろびとこぞりて」の歌を皆さんといっしょに歌うほどになりました。 「出雲大社の旅」は2日目の作業に入りました。 |
2012年12月4日 「京都・大原と奈良・西ノ京の旅」をアップすることが出来ました。「出雲大社への旅」を後ろに回しての作業でしたから、少々慌てた面があります。パソコンへ向う以外は梅原猛氏の「葬られた王朝」、神一行氏の「消された大王 饒速日」を読み進めていましたので、早速このページへ取り掛かります。その後はゆっくりと、「東寺」と大原の「来迎院」についてもページにしたいと考えています。 |
2012年11月29日 この欄の更新が、いつの間にか10日の間隔が空いてしまっていました。23日、マゴッチ美緒ちゃんの小学校参観日にあたり、前日その時間割を知らせに来てくれた美緒ママの顔を立て、丁度休みだった息子とマゴッチ梨央ちゃん、オバアチャンで、城陽市まで。もちろん、カメラは私の必需品です。3時間目の算数の授業は進んでいました。4時間目は国語の授業。「自動車くらべ めあて クレーン車のつくりを考えよう」とのページを皆で読み合わせ、クレーン車がどのような仕組みになっているか?その仕組みがどのように働くかを考えさせ、子供達に各々発表させる。といった授業内容でした。先生の好リードで活発な教室となっていることに感心しました。美緒ちゃん一人に、参観者6人という大人数。知っている人がいたら呆れていたことでしょうね?でも美緒ちゃんは喜んでくれました!!! |
2012年11月19日 高校時代からの大事な友人達との京都、奈良の旅を無事に終えることが出来、ホッとしています。昨日の内に旅の写真は、各々にメールで発信し、受信との返信も入り始めています。人物写真以外でつづるページはこれから写真の整理に入ります。「出雲大社の旅」と今回の「京都・大原、奈良・西ノ京の旅」を続けてアップしていきます。順番を「京都・大原、奈良・西ノ京の旅」を先に、「出雲大社の旅」を後にします。「出雲王朝」の状況をより深く探る為です。楽しみが続きます。 ところで、梅原猛氏の「葬られた王朝」を読んでいるうちに、「出雲王朝」が強大であり、「越」すなわち新潟方面、「大和地域」「山城地域」、「播磨地域」にまで勢力が及んでいたのであれば、その後に九州から攻め上り、王権を確保する「大和王朝」の地域は、「出雲王朝」の分国が支配していた地域であり、その分国の主は「大国主・オオクニヌシ」、その子孫またはその一族であったと考えるほうが様々な疑問点を解決することが出来ると思うようになりました。それが「大国主・オオクニヌシ」、「物部氏」であり「加茂氏」等であるとしたら、「大神神社」、「石上神宮」、「高鴨神社」等が奈良の地、また、山城の地に「上賀茂神社」、「下鴨神社」にあるということは、その証明となるのではないのか?そんなことを考えていると、以前に購入してあった、神一行氏の「「記紀の謎を暴く 消された大王 饒速日(ニギハヤヒ)」を思い出しました。そのカバーに記された文には「古代、日本には神武天皇が樹立した大和朝廷以前に「原大和王国」とも言うべき国家が存在していた!この国に君臨していたのは、太陽神ニギハヤヒ。・・・」と書かれているのです。面白い!!!ページの作成をいそぎます。 |
2012年11月12日 高校時代からの友人達7人での、京都、奈良への旅が週末16,17日に迫りました。今年、5月25、26日、松本に住む友人達が「南信州の旅」を案内してくれたお返しの旅で、関西に住む我々2人が責任を持って果たさなければなりません。「草喰 なかひがし」の予約は東京のお仲間に頼っていますが。このところ、春は信州 (昨年春は) 、秋は京都、奈良が恒例となっていますので、楽しみながらのお勤めと喜んでいます。4日は、奈良、西ノ京「薬師寺」、「唐招提寺」への下見。8日は京都大原「三千院」への下見を嫁さんと行ってきました。もちろん、嫁さんも喜んでいます。京都での夕食は、京やさい料理で女性方に人気の、京都駅前の「接方来」でしたから。4日、「唐招提寺」の紅葉は 池の中の島に生えた小さい木の少し色ずき始めた姿 鑑真和上御影堂の木々の様子 8日、「三千院」客殿からの「衆碧園」の風情 「往生極楽院」前庭の色ずいた木々 は当日はどの様になっているのでしょうか?期待と不安が入り乱れます。 そんなことで、ジジ連での島根「出雲大社への旅のまとめ」が遅れています。特にその後、梅原猛氏の「「葬られた王朝 −古代出雲の謎を解くー」を読み、内容の色付けしたくなった為です。図書館で借りた本では一度読み通していますが、詳細はもちろん忘れています。精読すると面白い発見があちこちにあり、時間が掛かります。 |
2012年11月6日 1日、出雲大社へ出発の為に、JR星田駅に6時30分に集合しました。集合時間前には、I氏、S氏の運転する車が到着し、予定時間前での出発です。この時は、12時前の出雲大社到着を予想していました。ところが、「出雲大社は遠かった!!!」。 大社前の駐車場へは13時30分過ぎの到着となり、神社前のお店での昼食となり、14時過ぎからのお詣りとなりました。お詣りしている間は好天気でしたが、「古代出雲博物館」、「神話影像館」を見学している間に心配していたとおりの大雨となりました。雨の中、「皆生温泉」への到着は18時半。温泉に浸かり、「島根牛、マツタケのしゃぶしゃぶ」をメーンに、飲み放題のお酒をいただき、その後は、2時間のカラオケ。スッカリ満足の5人組でした。 2日の朝は雨が残っていましたが、「美保関灯台」、「美保神社」、「水木しげるロード」をへ訪ねた折は、好天気に早変わり。万々歳の楽しい旅となる予定でしたが、帰りの高速道路で事故渋滞に巻き込まれ、予定時間を2時間オーバーすることとなりました。そんな状況でも安全に家まで運んでくれた幹事S氏には感謝!!感謝!!!です。旅の詳細はこれからとなります。 16日(京都)、17日(奈良)にお迎えする、松本、東京からの仲間を案内する為の下見で、嫁さんと「薬師寺」、「唐招提寺」を訪ねました。久しぶりの「西ノ京」は、すっかり変わっていました。 |
2012年10月30日 明後日、11月1日にジジ連5人組で、出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)へお詣りに行きいます。定かな記憶は有りませんが、昔お詣りしたことは確かに有ったと思います。丁度良い機会を計画してくれたジジ連万年幹事S氏には感謝しています。泊まりは「皆生温泉 愉快リゾート 」のお値打ち1泊2食7,800円コースです。特別料理、飲み放題を付けることとしています。楽しみです!!! 「ジパング 9月号」に 『古事記』と山陰の深い関係 という記事が掲載されました。 古代から神々が御座すといわれる山陰の地。奈良時代の歴史書『古事記』には数々の神話が語られ、その多くは山陰地方が舞台であるといわれています。今年は『古事記』が編纂されてから1300年にあたる節目の年。・・・文・多羅尾誠治氏・・・『古事記』は7〜8世紀頃、ようやく西日本を制した天皇家の、統治者として正統性証明のために編纂された書物の一つとして考えられます。・・・場所は、天神(あまつかみ)の地・高天原と国神(くにつかみ)の地・葦原中国(あしはらのなかつくに)で、葦原中国の大半が山陰地方であると考えられます。山陰は、山と海の間の狭い空間ですが、海も生活領域であったと考えると見方が変わります。『古事記』の神話の時代、日本海は大陸からの知識と技術の伝達路で、山陰は大陸に繋がる魅力溢れる地だったようです。・・・ あの梅原猛氏は過って『神々の流懺』という本で、山陰地方にまつわる『古事記神話』は、本当は奈良大和地方の物であったのではないか、との見解を述べられていました。しかし、「荒神谷遺跡」から大量の銅剣などが発掘されたことを契機に、3年ほど前に以前の説を覆し、『古事記神話』は、やはり山陰地方の物であったとの見解を発表され、本(「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」)にもされました。出雲大社本殿が過って、日本一の建物であったこと(天禄元年、970年、源為憲が著した『口遊 くちずさみ』に、「雲太、和二、京三」と記されています。)は決してないがしろにすべきこではなかったのです。神々の交代は、統治権の交代であり、決して平和裏に行われるものでないのは、当然のことですが、『古事記』での「大国主命」から「大和政権」への移行は話し合いの元で行われたことを強調しています。聖徳太子の「和を持って尊しなす」はその思想を引き継いだものといえます。日本人の考え方の基本を作り出しているのでしょう。 最近、「イスラームの世界」に嵌まってしまっている私は 島崎 晋(すすむ)氏の「イスラーム世界を読み解く! 目からウロコの 中東史」も読み進めています。この中に最近のシリア情勢の中で重要な点、簡単には解決出来ない問題点(同志社大学教授 内藤正典先生が「同志社ヒューマンカレッジ」で話された、「しかし、シリアの情勢は今後も混沌とした情勢が続き、良い結果が生まれるとは思われないと懸念しています。ロシア・中国が現政権のアサドを支持しているのはもちろんだが、アメリカも本音ではアサド政権がつぶれてほしくはないと思っているからです。南の国境のエジプトが親米であった政権から変わり、北方も脅威が増えることをイスラエルが歓迎するわけがないからです。」とともに話されていた、シリアの場合は、宗教戦争(宗派戦争)なのです。と言ったこと。)を思い出させてくれる一節が眼に入りました。 「●大きな存在感を示すアラウィー派とドルーズ派」 イスラームはスンナ派とシーア派の二大宗派に大別される。イスラーム世界全体での人口比率はスンナ派の九に対し、シーア派は一。シーア派人口のほうが上回るのはイラン、イラク、レバノン、バハレーンの四カ国で、イラクでもレバノンでも南部にまとまって居住している。右の四カ国のシーア派はどれもシーア派の主流である十二イマーム派に属するが、これ以外にも大きな存在を示している宗派が二つある。その一つがアラウィー派だ。 アラウィー派はシリアからトルコ南東部にかけて分布している。教義は秘伝とされているため詳細は不明だが、イスラームとキリスト教および土着宗教を習合させたものと見られている。トルコでは取るに足らない勢力で、シリアでも総人口に占める割合は一割強にすぎない。しかし、軍人に占める割合は高いのに加え、バッシャール・アル・アサド大統領やその父で前大統領の故ハーフィズ・アル・アサドがアラウィー派に属していた関係上、クーデターで政権を握った1970年以来、同派を優遇する政策がとられている。・・・ 少数派が主導権を多数派に奪われそうになった場合、殲滅されてしまう恐怖を持つのが当たり前の、この地域の過去からの歴史なのです。過去からの多くの歴史、その一つに、トルコがアルメニア人に対して第一次世界大戦時に行ったといわれる行為があります。 思わず、連日の更新となってしまいました。 |
2012年10月29日 13時の名古屋発のしなの号に乗車できた為、松本には15時過ぎには到着しました。松本城周辺の散策、撮影の時間がとれそうです。今年の紅葉の具合はどんなものでしょうか? 松本城周辺の地図。 松本城の案内図 です。 1) お城の南東位置から「黒門入口」、「黒門」、「お城」、「紅葉した木々」、「内濠」を。 2) 真南位置からお城全景を。 3) 南西位置からお濠に写るお城の優雅さを。 4) 朱色が眼を引く埋橋脇からお城を 5) 北西位置から埋橋、お城を。 6) お城の北側内濠を。正面には美ヶ原高原の王ヶ鼻(2008M)が。 7) お城北口前から更に東方向を望みます。正面は美ヶ原高原。 8) お城の東側内堀を。お濠の向こうは「二の丸御殿跡」です。 9) 太鼓門から入場すると、黒門入口へ戻ります。 バスを待つ間、お濠には白鳥が。餌場へ向っている時でした。 カモのつがいも不思議な紋を作りながら水面に浮かんでいます。 市役所前のバス停から16時頃、「浅間温泉」へ向います。「ホテル井筒」へは30分程で着き、早速の温泉を楽しみます。少し熱めのお湯の温度は好み通りです。 18時半からの同級会は12名の参加。昨年まで参加してくれていた85歳を過ぎた先生からは、残念ながら今年からの参加は難しいとのお手紙が来ていました。それでは、「次回は先生のご住所の近くで」、との話も出ています。スッカリ定着した感があるこの集いは、和気藹々、楽しい時間を過ごせました。その後のお店では恒例のカラオケ。これも定例の感があります。いずれにしても、来年も皆さんの元気なお顔が見たいものです。オノレの健康の心配が一番のはずですが!!! |
2012年10月25日 先週、山梨県北杜市への旅のため、欠席した中国語講座への2回目の出席をします。その前に、「ああ知らなんだ・・・」の第1章 「トルコでトルコ以前を知る」・「小アジアと呼ぶわけ」に触れます。 トルコのエーゲ海沿岸地方はもともとはギリシャ世界だった。という話しをした。そして、そもそも古代のあのあたりをトルコと考えること自体が間違っていると指摘したのだが、だったらあそこをどう呼ぶのが正しいのだろうか。 あの地を良く見ると、黒海とエーゲ海と地中海に挟まれた大きな半島なのだが、あの半島の名はアナトリアである。・・・ギリシャ時代にはあの地をどう呼んでいたのか。その答えは、ちょっと意外かもしれないが、アジアである。 古くはアッシリアの碑文の中に、asuとereb(またはirib)という語が出てくるのだが、それは「日いづる所」と「日没する所」という意味であり、すなわち、東の地方と、西の地方ということだった。(この辺は、聖徳太子が隋に送った親書に良く似ている)ギリシャ人はその名を転化させて、東の地方をAsia、自分たちの住む西の地方をEuropaと呼んだのである。 ・・・これはアッシリア語のerebの転化であると同時に、ギリシャ神話の女神エウロペになぞらえた名でもある。エウロペはフェニキア王の娘だからアナトリア側の人間だが、浜辺で波とたわむれている時、白い雄牛に姿を変えたゼウスにだまされ、その背中に乗せられて海を渡ってクレタ島につれて来れてしまった女性だ。・・・初期のギリシャ人にとってアジアとは、エーゲ海を渡った対岸の地方のことでありほぼアナトリアのことをさしていた。・・ BC5世紀のヘロドトスの頃になって、・・・アジアはペルシャあたりまで拡大してのだ・・・最初に知っていた元祖アジアのことを、広く考える時のアジアとは区別して言おうということになって、小アジア(Asia Mibor)という言い方が生まれた。・・・ 日本人にとって、日本は昔からずーっとこの日本なのだ。だから、地名は地方に固有のものだと考えてしまう。 しかし世界ではそういうことよりも、民族は移動するし、様々な王朝が次々と出現し、また消滅していく、ということのほうが普通なのだ。だから時代によってその地の呼ばれ方は大いに変化していく。 たとえば小アジアだけを見たって、ヒッタイトが興り、ミダンニ王国が栄え、リディア、フリュギア、アッシリアに分かれた時もあり、メディアだったかと思えば、ペルシャ帝国にのみこまれ、アレキサンダー領にもなる。アレキサンダーの死後は、セレウコス朝になり、ベルガモン王国もあり、ローマ帝国領になり、セルジュク・トルコになり、ついにオスマン・トルコとなる。・・・同じ地方はずっと同じ地名だと思い込んでいて、トルコは昔ギリシャだったのか、と驚くのは、国の概念がひとつところに固定している日本人ならではのことである。 2日ほど前、読売テレビの「所さんの笑ってこらえて」の番組で、ローマ支局が閉局し、開設されるバルセロナ支局からの影像が流されました。この地にカタルニア独立運動があり、多くの犠牲者があったことを忘れないためのお祭でした。スペインもトルコと同様にさまざまな歴史があり、さまざまな国が興り、滅びています。その怨念はいつまでも続いていることを知らされます。日本人は、こんな歴史を持つ国々の人々の考え方が分かるはずはありません。分からないことを認識すること、各々の国の歴史をしることを益々必要としてきているのではないのでしょうか。 今週の土曜日は、松本での中学同級会です。5日にも紹介しましたが、浅間温泉の「ホテル井筒」へ泊まることになっています。同級会は松本駅前の東急ホテルで開かれますから、どれほど温泉を楽しめるかは分かりませんが、無駄にはできません。楽しんできます。 |
2012年10月22日 9月2日のこの欄で、図書館から借り出した清水義範氏の「ああ知らなんだこんな世界史」について触れました。その面白さにブックオフで割安の本はないものかと検索したところ、400円で在りました。早速オーダーをしましたが、購入金額が1500円以上で送料無料となることから、清水氏の本を合計9冊買うことなりました。その中に「夫婦で行くイスラムの国々」という「ああ知らなんだ・・・」の姉妹本のような本も含まれており、早速読みきりました。他の本はボチボチと読み進めます。 「ああ知らなんだ・・・」の中で清水氏は始めに、以下のことを記しています。 「世界史として学んできたのは、世界の四大文明とヨーロッパ史で、他の諸地域についてはほとんど知識となるような勉学をしてこなかったことを知ったということです。イスラム諸国を旅し、もう一つの世界史を知ることで、これまでの勉学の偏りを知ることが出来、さらに、歴史の面白さを知ることができた。」としています。 第1章 「トルコでトルコ以前を知る」 「エデンの園はどこに」 『旧約聖書』の《創世記》には、エデンから4つの川、すなわち、ピソン、ギボン、ヒデケル、ユフラテが流れ出している。と書かれている。そしてこのうちの、ヒデケルはティグリス川、ユフラテはユーフラテス川だとわかっていす。 ティグリス、ユーフラテス川の源流はどこか、だ。川をどんどん遡って行くと、トルコ東部の山岳地帯に着く。そして更に上流へ行くと、そこにあるのは、アルメニアという国である。・・・『旧約聖書』はユダヤ人の歴史と宗教の書であり、もちろんユダヤ人はティグリス、ユーフラテス川をよく知っている。そして、人類誕生の神話を生み出す時、漠然と、これらの大河の源流地点に人間は出現した、と考えたのだ。だから、アルメニアに行くとエデンの園らしき史跡がある、というわけではない。・・・そこいらあたりに、エデンの園が想定されていた、ということだから。・・・ 紀元前10世紀頃、アルメニアにはウラルトゥ国というのが興って、しばらく栄える。このウラルトゥは、アララトという呼ばれ方もするのだが、そう、きいて何か思い出さないだろうか。そう、『旧約聖書』に出てくる、アララト山である。・・・この伝説のアララト山は現在のトルコにあってその国でいちばん高い山(5123メートル)である。・・・トルコのいちばん東部を旅してみると、実はそこはかってのアルメニアだということがわかるわけだ。そして、『旧約聖書』にゆかりの地でもあるのだ。・・・ところがこのアルメニアは、紀元前からペルシャに支配されてしまう。一時はアレキサンダーに支配され、その後はササン朝ペルシャにのみこまれる。イスラム教が興り、イランがウマイア朝(昔はサラセン帝国と言ったが、最近は、ヨーロッパ側から言うその名称はあまり使われない)になると、そこにのみこまれる。・・・アルメニアではキリスト教化が早くて、4世紀にはそれを国教にしているのだ。これはローマがキリスト教を国教にしたのよりも先で、世界で最初のキリスト教国なのである。・・・11世紀になると、東からセルジュク・トルコが押し寄せてきて、アルメニア人はたまらず移住をした。・・・13世紀にはモンゴルにのみこまれる。14世紀には、エジプトのマムルーク朝に滅ぼされる。15世紀には、チムール帝国にのみこまれる。・・オスマン・トルコの時代になり、トルコとイランに国を分断される。18世紀には、ロシアが南下してきて、トルコとロシアが半分ずつ支配するわけだ。・・・我々外国人から見て、アルメニア人とクルド人とトルコ人をくっきり見分けられるものではない。なんとなく、アルメニア人は善良な農民という感じで、平和な人々のように見えた。私としては心の中で、あなたたちはメソポタミア文明の一端であったウラルトゥ国の流れをくむ人なんですよねえ、と思ったものだ。 「教会からモスクになったアヤ・ソフィア」、「そこはイオニアだった」など、面白い記述が続きますが、次回に整理します。 |
2012年10月19日 17日の前夜祭のみで、昨日は8時にメンバーが集合した時点で、コンペ中止が決定し、解散、13時30分には帰宅となりました。前夜祭の写真をメンバーに発信したところ、返信があり、松本へ帰るメンバー6人は「塩嶺CC」でプレーが出来たようですし、東京へ帰った友人からは東京ではほとんど雨が降っていなかったようで、残念がっていました。我々が集合した時点、北の杜カントリーではどしゃ降りでしたので、中止には納得しています。大雨の中を山梨まで、昨日も家の近所まで運転し、送ってくれた友人には感謝!!感謝!!!です。 |
2012年10月14日 マゴッチの運動会の写真をプリントしてママに渡しましました。始めの一斉体操、玉いれ等は皆が入り乱れており、的確な写真が撮影できませんでした。また、お御輿リレーはジジのミスで美緒ちゃん以外の子を撮影していました。それ以外はマアマアの出来だったと自己満足しています。父母、ジジババの居場所は十分に分かっており、ジジがカメラを構えるとチャント、カメラ目線、Vサインをしてくれました。 11日は、京田辺市社会教育課主催の「中国語講座」。三年ぶりの復帰で、名和先生も記憶してくれていました。尖閣問題などで人気にかげりが出ているのではないかと心配していたようです。17人のお仲間の受講ということで、安心していられました。前回の受講の成果はその後の自習の怠慢でスッカリ無くなっています。一から出直しといったところです。授業中の大きな声での四声練習が健康の為と考え、年末までの10回の受講を楽しみます。残念ですが、今週の18日は早くも欠席となります。山梨県「北の杜カントリー倶楽部」での「極楽とんぼ会」です。 昨日、13日は「京たなべ・同志社ヒューウマンカレッジ」の第5回、同志社大学政策学部教授 阿倍茂行先生による「沸き立つアジア・つまずくアジア」の演題による講義を拝聴してきました。 グロスのGDPは中国に抜かれ、一人当たりのGDPはシンガポールに抜かれ、今や日本はアジアのNO1ではない。 この動きは1985年の急激な円高により、日本の企業がアジアへ生産拠点を移すことによって、アジアの成長の起爆財となったことが原点といえるのではないか。 iPhone ビジネスは生産の全てを中国を始めとするアジア諸国、もちろん重要部品は日本、韓国のメーカーが受託しているのですが、最終組み立てを中国で行い、アップル社がこれを販売するシステムとなっている。アップル社は商売上の頭脳のみの役割。また、中国の製品としての輸出額は膨大となるが、組み立てのコストは製品コストの6〜7%が実情であること。 タイの大洪水で、自動車、デジカメ、HDDなど日本のメーカーの生産拠点の重要部分がタイにあったことがあぶりだされたこと。各メーカーは今後もそのシステムを継続する意思であること。 などなど、大変に面白いお話をお聞きすることができました。 |
2012年10月5日 今月第四土曜日は恒例の「旭町中学校の同級会」です。もちろん、松本へ出かけてゆくこととしています。今年から再登板ということで、幹事さんが変わりました。昨年末、幹事さんからお酒を頂戴し、今年の出席を約束させられました。余程のことが無い限り、出席するよう心がけていますが、お酒を頂戴した以上必然となりました。その幹事さんから電話が入り、宿泊ホテルの予約が遅れて、予約が取れなくなったとのことでした。技能五輪が松本を中心にして26日から29日まで開催されるということで、市内のホテルは満タンとなっているようです。そんなことから、幹事さんが尽力してくれ、浅間温泉の「ホテル井筒」を格安で予約してくれました。折角の浅間温泉です。同級会へ出席する前に、ひと風呂浴びることとします。楽しみです!!! 忘れていました、昨夜は「ジジ連京橋会」ということで、5人が集まり、11月1日、2日の「出雲大社お詣り」の計画打ち合わせをしました。定番の飲み、食い、カラオケが主目的であることは間違いありません。相変わらず幹事S氏のお世話で、皆生温泉に泊まり、出雲大社周辺を車で回ります。有り難いことです。 |
2012年9月30日 台風17号が四国沖を通過しています。和歌山県、大阪府、兵庫県などは各種の警報が発令されていますが、ここ、京田辺は曇り勝ちながら雨も風もありません。不思議です。不思議といえば、昨日の「2012 京たなべ・同志社ヒューマンカレッジ」第四回 太田 修教授の「2012年、朝鮮半島と日本ー歴史から考えるー」のお話しでした。レジメのはじめに ・ 大きく変わる年ー北朝鮮の新体制、12月の大統領選 ・ この夏の動きー「領土」問題 ・ 歴史、「人」の視点から朝鮮半島を考える ということで、期待して拝聴することとしました。 お話しのはじめに、今年の夏、2回ソウルへそして、1回ピョンヤンへ行って来たとの前置きがあり、更に、期待を膨らませたのですが、その期待は無駄に終わりました。まず、北朝鮮の新支配体制はどのように大きく変わったのかは、触れられず、北朝鮮への旅行写真を何枚か見せられ、以前よりは豊かになったように見受けたとのコメントがあるのみ。12月の大統領選については、人物紹介程度。新自由主的路線からの脱却として、「ソンミサン地域共同体」について、大変好意的な印象を得たものとして、紹介しています。?マークを付けざるを得ません。(これって北朝鮮が在日の方々を自国に帰還させるときに宣伝として使ったことと良く似ているのではないかな?) この夏の動き「領土」についてはほとんど触れませんでした。ただ、友人達のと話しでは大きな問題として話しをしなかったとのコメントだけ。お話しの最後に強調していたのは、「脱原発」について、原発は核兵器開発のための原料供給にもなるからこの方向に進みべきとの意見表明で終わりました。北朝鮮の写真説明に時間をとられ、質問時間がなくなり、質疑応答はありませんでした。今日の話は何だったのかということで、太田先生のプロフィールをネットで調べることとしました。 「マンガ嫌韓流のここがデタラメ まじめな反論」という書物で筆頭筆者として名前があげられていました。その書評のなかに「マンガ嫌韓流 への韓国サイドからの反論が掲載された書籍です。・・・本書は、テーマ毎に10名の筆者が反論をのせていますが、まさにピンキリ。ひどいのになると、具体的根拠があって導き出された結論と自分の想像で導いた結論を区別できたいない筆者や、全ての情報を恣意的に解釈して自分の都合のよい結論を導いているだけの客観性のない筆者などかおり、残りの3割のまともな反論を台無しにしてしまっています。 こういうエセ知識人たちが反論になりえないことを、さも正論であるかのように語るから、その批判が正しいと思い込む人がいっぱい出てきてしまうのでしょう。残念なことです。・・・」 どちらの本も読んでいないものがその正否を言えることではありません。そして、太田先生は3割のまともな反論を書かれた方と思いますが、この様な明確な反対論を戦わせる書物への意見表明をする以上、今回もその旨を最初に説明していただきたかったものと思います。領土問題は特に。私の認識、勉強不足だったのでしょう。次回は10月13日「沸き立つアジア、つまずくアジア」、阿倍茂行先生のお話です。 |
2012年9月22日 鳥羽水族館での「スナメリ君」との会話の思い出を記憶する為、ついついページの写真の数が増えてしまい、更新が遅れてしまいました。最後の伊勢神宮内宮での記事はまたの機会に。伊勢神宮への参拝の折は、どうもお天気に恵まれず、良い写真が撮れていません。そんなことも、理由の一つです。「志摩賢島・鳥羽・伊勢神宮」と「花の館椿での特別料理」をアップしました。 |
2012年9月13日 京都文化博物館で開催されている「世界遺産 ヴェネツィア展ー魅惑の芸術・千年の都ー」も23日が最終日となっています。休日が多く、来週の予定も定かではありません。今日が最後のチャンスか?と 昨日、12日出かけることとしました。もちろん嫁さんとの前からにの約束事です。 入口で音声ガイド機をお借りします。音声ガイドシートは綺麗にできており、性能的にも 中のシートの写真をタッチするだけで解説が始まるという優れものです。また、岡江久美子さんの落ち着いた解説、 ピアニスト 辻井伸行さんの作曲・演奏の「ヴェネツィアの風に吹かれて」というテーマ曲を楽しみました。 さほど込むまいと思っていた思いは見事裏切られました。同年代のお仲間達が沢山詰め掛けています。イタリア旅行でのヴェネツィア 、塩野七生さんの「海の都の物語」を思い出しながら、ガイドに沿って丹念に展示の品々を気持ちを込めて鑑賞しました。チョット疲れた!!! 帰りがけに購入した絵葉書の絵を紹介します。 1) 「ヴェネツィアの眺望」 (ヨーゼフ・ハインツ・イル・ジョーネヴァネ) 1648ー50年頃 コッレール美術館 2) 「聖ヒエロニムスと聖アウグスティヌスを伴う聖マルコのライオン」 (ドナート・ブラガディン) 1459年 ドゥカーレ宮殿 3) 「レバントの海戦」 (アンドレア・ミキエッリ通称ヴァチェンティーノ) 1571−1600年 コッレール美術館 4) 「ヴェネツィアに到着するフェッラーラ公エルコレ1世デステ」 (ラァザロ・バスティアーニ) 1487年 コッレーレ美術館 5) 「サン・マルコ広場の行列」 (チェーザレ・ヴェチェッリオ) 1586年 コッレーレ美術館図書室 6) 「サルーテ教会付近のカナル・グランデ」 (カ・レッツォーニコ) 1740年頃 カナレット公房 イタリア紀行の「11月8日 ヴェローナ ミラノへ」の「ヴェネティアでの運河の最後の風景」に構図が良く似ています。 同館の一階にはお洒落なお店があります。その中の「あざみ」(料亭鳥彌三の京都文化博物館店)で「名物の親子どんぶり」を美味しく頂戴して帰ることとしました。 「伊勢志摩への旅」は進行中です。 |
2012年9月8日 9月5日、6日は「伊勢志摩国立公園・浜島温泉 湯元館ニュー浜島・別館 花の館 椿」での特別料理を目指しての旅に行ってきました。一言で十分に満足させていただいた旅となったことは確かです。有り難いことです。近鉄の「伊勢・鳥羽・志摩スーパーパスポート”まわりゃんせ”を使うことで気軽に利用することが出来た「賢島エスパーニャクルーズ」での甲板の最先端に立ち、海風を全身に感じて思った十二分の満足感。 「鳥羽水族館」 での若い ”スナメリ”との眼を合わせての会話 は未だ口が利けなかったマゴッチとの対話を思い出させてくれました。こんな感動をページの写真に載せないわけにはいきません。どこまで下手な写真で感動を伝えられるのか判りませんが、頑張ってみたいと思います。 |
2012年9月2日 暑い!!暑い!!!でも、何時の間にか?9月に入っていました。節電を心がけなけれまなら無い昨今、パソコンの置かれた2階の自室でクーラーをガンガンかけるわけにはいかない為、ページの更新よりも、読書で暑さを誤魔化す日々が続いています。時代、推理小説ももちろんですが、先日図書館から借り出してきた2冊を面白く、考えさせられながら、読み進めています。 1冊は 柯 徳三氏の「母国は日本、祖国は台湾 − 或る日本語族台湾人の告白 ー」 化外の地として清国が割譲した島は、日本による50年の統治で、見違えるほど立派な文明の島となりました。帯符の部分です。 昔、台湾は日本だったんですよ。 今も日本の学校では、台湾のことがきちんと教えられていませんね。台湾が日本領だったということも、教えられるとしたら日本が悪いことをしたというばかりです。日本に生まれ、日本に養われ、25歳まで日本人だった台湾人著者が語り継ぐ「日本精神」。そして、アイデンティティを模索し葛藤した日々。 台湾と中国大陸は違うんです 私の思う日本精神とは、人間性のある素直な精神です。捻くれた人間ではなく、真面目で正直だということでしょう。これは私だけでなく、日本時代を経験した台湾人は一般的にそう捉えています。根本が正直で、表裏がありません。一方、表ではニコニコして付き合っている人でも、裏では平気で人を裏切ったり、陥れたり、する。こういうのが支那人的な考え方、大中華思想です。本文の中で、歴史の正しい認識と再評価が必要 今も日本の学校では、台湾のことがきちんと教えられていません。台湾が日本領だったことも、歴史の教科書には書いてはあるけれども、戦争のこともあって、近代史をきちんと教えられていません。教えられるとしたら、日本が悪いことをしたというばかりなわけです。だから、日本人は正しい歴史を直視していないと思います。 大東亜戦争で、日本人は悪いことをした、悪いことをしたと、一生懸命、何十年も経っても謝っていますが、これは大いに間違いです。戦争というのは愚かな歴史ではありますが、日本が戦争に突入していかざるを得なかった当時の状況を、日本人はきちんと学ぶべき必要があるのです。 日本は、戦争中に酷いことをしたと、今だに中国に謝り続けていますが、中共(中国共産党)が台頭する前の中国に対して謝っていれば、もう済んでしまっていることでしょう。 中共というのは、僅30年ぐらいの歴史しか持っていません。中共は国民党を追い出した後で天下を取ったのあって、初めは八路軍として日本軍に抵抗しただけで、大した被害を受けていないのです。被害を受けたのは、大陸にいた人間達ですから、それはもう蒋介石の時代に謝ってけりがついている筈で、それをいつまで経っても頭を下げているなんて、私達から見ればちょっとだらしないです。・・・・ 大変、耳の痛い話しが書かれています。 2冊目、こちらは大変面白く読ませていただいたものです。アラブ世界紀行記といえる、清水義範氏の「ああ知らなんだこんな世界史」。 2006年7月に書かれたあとがきの中で、・・最後の年だけは、決着を急いで2度旅行をしたのだ。そして、スペインは現在イスラム国ではないが、かってはイスラム化していたのに、キリスト教側が再征服したところだというので、双六でいう上がりとしたのだ。 そういう旅行をしたせいで、それまであまりに知らなかった世界史の一面が見えてきて、ものすごく刺激的であり、楽しかった。この本は、そういうイスラム巡りをして私が出会った世界史をまとめたものである。だから、世界史と言いながらひどく偏っていることをお断りしておく。・・・・・ 書き出しの章「エデンの園はどこに」では、「エデンの園」はトルコの東、アルメニアにあったとされています。 私は、エデンの園のすぐ近くまで行ったことがある。さて、それはどこでしょうか。『旧約聖書』の《創世記》には、エデンからは四つの川、すなわち、ピソン、ギホン、ヒデケル、ユフラテが流れ出していると書かれている。そしてこのうちの、ヒデケルはティグリス川、ユフラテはユーフラテス川だとわかっている。 ティグリス、ユーフラテス川の源流とはどこか、だ。川をどんどん遡っていくと、トルコ東部の山岳地帯に着く。そして更に上流へ行くと、そこにあるのは、アルメニアという国である。・・・・この伝説(ノアの箱舟伝説)のアララト山は、現在のトルコ(アルメニアとの国境)にあってその国のいちばん高い山(5123m)である。・・・・ この本は、地図と引き合わせながら、今一度読み直す必要がありそうです。もちろん、「ローマ人の物語」、「十字軍物語」、「海の都の物語」などとの関連を頭におきながら。面白い!!! |
2012年8月24日 この上なく暑い夏、更に世の中を熱くする問題が次々と起きています。領土問題は戦後何十年にも渡る無策の付けが一気に顕在化した故で、50歳以上の日本に住む人々全てに責任があることがらです。戦後教育を受けてきた我々は、GHQの指導による民主主義・平和主義を第一義として尊重し、国際間の事柄は日本人らしく「控えめ」の対応を第一としてきたと言えます。これが一面無責任と同じ結果を生むことになったのでしょうか?今、懸命に現業に励んでいられる方々には大変申し訳の無いと感ずる我々先輩の所業であったとしか言えません。 シリアの「アレッポ」は「ローマ人の物語」また「十字軍物語」で何べんも出てきている地名です。古くから東西・南北の交易路の交差点の故に栄え、城壁に囲まれた都市国家であったアレッポはイスラムの拠点であった長い時期を経過しています。今はシリアの北、トルコとの国境近くです。ここで日本人女性ジャーナリストが銃撃され、お亡くなりになりました。悲しいことです。紛争地での情報収集とはそのようなものと泣きながら話す彼女のお父さんの姿をテレビで拝見し、逆に胸を打たれました。「同志社・京たなばヒューマンカレッジ 第一回 」内藤正典先生の 「アラブの春」から中東の嵐」へ のなかでチュニジア・エジプト・リビアは一応スムースに進行したが、「シリア」の情勢は留学時代の恐怖の経験から、簡単には済まないと懸念されていたことを思い出します。隣国との関係、遠い中東での情勢ともに「世界は一つのオリンピック」の報道に浮かれている時ではないとおもうのです。「五山送り火」をアップしました。 |
2012年8月18日 今15時20分、南山城地区は雷雲の襲来を受けています。昨日ももう少し遅い時間に猛烈な稲光、雷、雨が襲来しました。 16日は「京都五山の送り火」を東山「将軍塚」から観賞する会に参加し、感銘を受けてきました。同じ東山にある「将軍塚」からは横の山影に隠れて如意が岳の「大文字」は見ることが出来ませんでしたが、「松ヶ崎妙法」の「妙」・「法」がいちどきに、大きく眼に入ってきたときは感動を覚え、今での眼に焼きついています。「左大文字」・「舟形万灯籠」を眺め、大日堂境内からは拝めなかった「鳥居形松明」は駐車場横の展望台から確認することが出来ました。腕、カメラの性能、三脚無しといった言い訳を考えています。折角通常のニコン一眼レフデジカメに加え、もう一台、重い望遠レンズのカメラを背負っていったにもかかわらず「送り火」の撮影は全滅でした。でも、「鈴虫寺」・「大河内山荘」・「嵐山渡月橋」などを含め、別ページにすることとしました。 |
2012年8月13日 暑い!!暑い!!! そんなことから、ページの更新が止まってしまっています。2週間にわたる「ロンドンオリンピック」も日本時間で今日の朝に終了しました。金メダルの数は予想を大きく下回りましたが、銀メダル、銅メダルの数が増えたことで、アテネ五輪の総数37個を上回るメダルを獲得することとなりました。時差の関係で、ライブ放送は未明に集中しており、どうしても寝不足が発生してしまいます。年寄りにはキツイ日々でした。でも、選手達の健闘で、内心ワクワクの毎日でした。思わず愛国心が高揚してしまった人々は多かったと信じます。もちろん、自分も!!!!! 前からその新聞広告は気になっていたのですが、具体的に活動する気持ちは起きませんでした。でも、今年の9月23日は嫁さんとの結婚40年にあたることから、「湯元館 ニュー浜島」さんの「メイン料理は伊勢志摩の3大グルメを3品◆大満足コース◆花の館椿」31,500円を20,000円で提供してくれるという企画に応募して具体化することが出来ました。メイン料理は「伊勢エビ姿造り」「伊勢エビウニソース焼」「アワビ陶板焼き」「アワビフカヒレ」「松阪牛鉄板焼き」「牛すき焼き」の6品です。2人で分けながら全部の味を楽しみたいと考えています。 9月5日 近鉄の「まわりゃんせ」切符を購入し、特急で、賢島まで。翌6日は「まわりゃんせ」の特色を生かして「賢島」、「鳥羽」の観光地点を巡ってきます。 16日は、「京都五山の送り火」観覧の旅をジジ連メンバーで楽しむことになっています。昼過ぎにバスに乗り、「鈴虫寺」「嵐山 大河内山荘庭園」夕食後、「青蓮院大日堂 将軍塚」からの「送り火」観覧です。幹事Sさんがこのツアーを見つけてきてくれました。感謝!!!感謝!!!!!です。楽しみです!!!!! |
2012年7月31日 28日、29日の「あわら温泉・芝政ワールド」への旅は、孫の美緒ちゃん、梨央ちゃん二人の大満足で終えることが出来ました。ジジババ、父母等はそれが目的の一つですから、もちろん、大満足です。古希を祝われるお爺ちゃんは感謝!!!感謝!!!!!です。 11時半過ぎに、息子夫婦と梨央ちゃんの車に同乗し、家を出発、娘夫婦と美緒ちゃんを迎えにいきます。娘夫婦の家の近くのうどん屋さんで昼食を取ることとします。大変美味しい”細うどん”を食べさせてくれる店で、美緒ちゃんのお気に入りのお店です。 「北陸自動車道」を北上し、「杉津(すいづ)PA」で一休みします。ここは「敦賀湾」が一望の景勝の地にあります。芭蕉の句碑があり、 「ふるき名の 角鹿(つぬが)や恋し 秋の月」 景観を楽しみます。 パノラマ撮影も試してみます。 湾内は薄靄がかかった様な不思議な風情です。 「東尋坊」では、「東尋坊タワー」から東尋坊一帯を俯瞰します。 1) 2) ジジ連でこの東尋坊を訪ねた折は、このタワーには昇らず、遊覧船に乗ることとしています。東尋坊の景色3) 4) 5) です。マゴッチたちは怖いもの知らずで、岩を先端まで歩きたがりパパママを慌てさせています。 今回のお宿は、大人6人、子供2人が一室(2室にセパレートすることが出来る)に宿泊できる「グランディア芳泉」です。「あわら温泉」では最大級のホテルの一つと思われます。御もてなし、お料理、温泉ともに十分満足させていただきました。マゴッチ達が寝てしまった夜11時過ぎからは息子夫婦と三人でカラオケルームでも盛り上がりました。(盛り上がったのはジジだけなのかな?) 29日は9時過ぎに「芝政ワールド」への出発です。入場ゲートはまるで高速道路のゲートのようになっており、何列にもゲートがあります。予め旅行会社で受領した予約票を提示し、人数分の腕輪を貰います。広大な芝生の車置き場を目指して、ホント多くのお仲間の車が走ります。既にホテルで着替えを済ませている娘夫婦、息子夫婦とマゴッチたちは一路、プールを目指します。 海賊の国などの遊び場も、もちろんありますが。 時刻は、9時30分。それから15時まで、マゴッチ達は昼食に”焼きそば”と”焼きおにぎり”をほうばっただけで、水と戯れ続けたのです。もちろん父、母達はお付き合い。我々夫婦は持参したテントで休養。いっとき、カメラを抱えてマゴッチの撮影には出かけましたが。プール風景6) 7) とにかく、広大な芝生の敷地にウォターランドのプール、海賊の国の遊園地、パターゴルフ場など規模が桁外れに大きさに驚かされました。 芝政ワールドを出た後、ホテルに寄り、温泉に浸かり、あわら温泉を出発、途中、高速道路で交通渋滞につかまり、帰宅できたのは夜の9時過ぎとなっていました。もちろん途中で夕食は済ませましたが。いずれにしても、楽しい一家眷属の旅でした。 |
2012年7月24日 7月20日の古希の誕生日が過ぎてしまいました。ただ、19日には幹事のSさんが、ジジ連の定例の集りを「スパワールド」で温泉に浸かるというユニークな企画を立ててくれ、5人で楽しんできました。スパワールドは階段を降りれば「新世界」の真ん中なのです。私は始めて知りました。2時間ほど各種の温泉を楽しみ、汗を出しつくした後は、もちろん、新世界の串カツ屋さんで、串カツと生ビールです。そして、これも定例のカラオケを2時間半楽しみました。夜となり、ライトアップされた通天閣がそびえています。ジジ連の8月は、これまた幹事S氏のびっくり企画で、8月16日、京都五山の送り火を「将軍塚」から観賞することが出来るバスツアーの予約をしてくれています。ホント楽しみです。 21日は孫の梨央ちゃんの保育園での「夕涼み会」でした。丁度、お姉さん孫の美緒ちゃんが来て、一緒に参加したいといってくれたため、梨央ちゃんにとっては心強い、楽しい夕涼み会となりました。先生方の余興の踊りもあり、大変盛り上がりのある夕方の集いとなりました。 「伊豆半島への旅」は、今日、ようやくアップにこぎつけました。 |
2012年7月18日 昨日、梅雨明けの模様との発表がありました。そんな発表とは関係なく、昨日からはホント猛暑です。今日も雲ひとつない朝を向え、逆に寒気がしました。いま、パソコンに向って「伊豆半島への旅」の写真整理をしていますが、根気が続きません。まだまだ、写真の整理は続きます。 |
2012年7月13日 九州地方は、豪雨による大きな被害が出ています。関西も、昨日は大変な降りでしたが、今日は厚い雲ながら、雨は落ちてきていません。その分、猛烈な高温、多湿の状態です。こんな中、10日、11日は梅雨の中休みを利用した感が強い、クラブツーリズム・バスツアー「渚キラめく伊豆半島大人のリゾート旅」へ、嫁さんと行ってきました。旅の最後のお目当て「駿河湾フェリーからの富士山の眺望」は雲で叶いませんでしたが、その他の景観、ホテル、食事などは十二分に満足させられました。写真整理のまとめはこれからの作業です。 |
2012年7月8日 「舞鶴自然文化圏 アジサイ園」からは、嫁さんは3鉢のお土産を買ったきたのですが、2鉢は咲いてくれ、6日に紹介しました。あと1鉢がようやく咲き始めてくれました。「ダンスパーティ」との名称がついています。1) 遠くから 2) アップで 撮ってみました。 昨日の「京たなべ・同志社ヒューマンカレッジ 3回目」は、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授加藤千洋氏の「気になる隣人中国のゆくえ」という題目による講演でした。加藤氏は朝日新聞記者、特派員、報道ステーションでの解説者などの経歴のある方です。その所為なのか、前2回の先生方と比べて、全体的に自己主張による決め付けが少なく、最後に、中国に関する戯言として言われている「社会主義・資本主義・封建主義」を紹介していただいたことが記憶に残されました。 |
2012年7月6日 梅雨の中休みとなった4日には、京都高島屋へ行きました。恒例のお中元です。手配を済ませ、ロビーに下りると、大きな見事な色彩の祇園祭屏風が置かれていました。早速、カメラに収めてみました。1) 全景 2) 向って右手 3) 向って左手 4) 作者の挨拶 5) 大船鉾についての紹介文 四條通りは提灯など、お祭の雰囲気ですが、屋台の組み立てなどは四條通りでは未だの状況でした。 明日は、同志社ヒューマンカレッジの3回目、加藤千洋先生の「気になる隣人中国の行方」です。楽しみです!!! そうそう、先日「舞鶴自然文化圏 アジサイ園」で嫁さんがお土産にした鉢が、可愛らしく咲いてくれました。Tてまりてまり U宵の星 です。 |
2012年7月1日 7月に入りました。日曜日、雨です。3日前、プリンターが不調となり、回復の兆しがありませんでした。また、マウスもスクロールボタンの機能が不能となりました。仕方がありません、昨日ミドリさんへ行き、両方とも購入することになりました。プリンターのセットが終わり、試験のプリントも完了しました。OKです。 7月は毎年、特に60歳を過ぎてからは一年で最も気になる月となっています。もちろん、生まれ月であることは言うまでもありません。今年は特に、この20日に古希となるのです。子どもの頃、70歳の爺さんを見て感じたことは「スゲエ年寄りだな!!!」という事です。自分がその爺さんとなっている現在、それらしい行動が取れているのか?不安です。「マゴッチが可愛くてしかたがない!!!」ということくらいで、外の事は自覚が相当に不足していると思われます。 今月末の土日には息子夫婦が古希のお祝い、息子の嫁さんの誕生会を兼ねて、北陸地方の温泉へ行く計画を立ててくれています。3世代旅行と言うことで、娘夫婦、孫の美緒ちゃん、息子夫婦、孫の梨央ちゃんそして我々夫婦です。マゴッチの為の遊園地の選定も進んでいます。10日、11日は嫁さんとのバス一泊旅行で伊豆半島へ行くことになっています。こちらの方のお手盛り感はぬぐえません。面目ない!!! |
2012年6月29日 「天橋立・舟屋の里伊根・舞鶴自然文化圏の紫陽花をたずねて」の写真を楽しみながらまとめました。引き続き、5月23日に訪れた「解脱上人 貞慶展」について遅ればせながら触れておきたいとおもいます。 |
2012年6月22日 「ジジ連・南紀白浜温泉への旅」はようやくアップすることが出来ました。「道成寺」へお詣り出来たこと、「三段壁洞窟」内での波音の凄まじさなど思いで深い旅でした。さらに14日、嫁さんといった日帰りバスの旅、「天橋立への旅」を引き続きアップします。楽しみが続きます。 |
2012年6月17日 14日は、クラブツーリズムのバス旅行「サクランボの王様「佐藤錦」食べ放題!ご昼食は5つの食べ放題!舞鶴あじさい5万本!」と題する旅で、天橋立へ行ってきました。もちろん嫁さんとです。天橋立での「股のぞき」経験は3〜4回あるのですが、橋立内、文殊堂などは未経験でしたので、丁度良い機会と参加することとしたのです。「佐藤錦」食べ放題に惹かれたことも確かですが。梅雨の晴れ間と良く言ったもので、この日は絶好の日和となってくれました。「文殊堂、天橋立、食べ放題、伊根では舟での遊覧、舞鶴自然文化圏でのアジサイ観賞」など盛りたくさんのメニューを味わい、かもめの乱舞など、面白い写真を撮ってきました。大変よい旅でしたので、ページにまとめようとは思っていますが、マゴッチの梨央ちゃんの風邪によるお熱で、15日以降の更新作業が止まったままなのです。慌てる必要の無いジイチャンの作業ですから、どうということはありませせん。梨央ちゃんのお熱が下がってくれるのを待つばかりです。今日17日は「父の日」ということで、いつもの3家族がそろい、夕食会を開いてくれることとなっています。梨央ちゃんのこともあり、息子の提案で、今日は我が家で持ち寄り宴会ということになりました。嫁さんのご苦労が増えますが、堪忍してもらいます。まもなく息子と梨央ちゃんが来るでしょうがそれまで更新作業を進めます。 |
2012年6月10日 6日、7日の「ジジ連、南紀白浜温泉への旅」は、特に「道成寺」への参拝が出来たことで、別ページへの意欲が湧いてきました。2011年8月3日の欄で梅原猛氏の「海女と天皇 上」で、聖武天皇の母、宮子が、海女の娘であったとの道成寺の伝承について触れています。今回は折角、道成寺への参拝が出来たわけですから、今一度この旅日記の中でも触れてみたいと思います。 昨日は、昼13時半から15時半までは、今年第2回目の「京たなべ・同志社ヒューマンカレッジ」で、浜矩子先生のお話。夕方6時過ぎからは、関西支部新人歓迎会で京都グランヴィアへ行ってきました。46名から47名の参加者の中では若い方々が半数以上で大盛況でした。 奈良国立博物館 「解脱上人 貞慶展」と「奈良仏像館」の参観、春日大社「神苑」散策についての整理、「南紀白浜温泉への旅」の整理等、順次まとめてゆきますが、ここでは昨日の浜矩子先生のお話「これからどうなる、グローバル経済と日本」の整理を先に進めておきます。 まず、グローバル経済の波乱万障の次第を次の3つのポイントで説明してゆきたいと言うことでスタートしました。 1) 2つの恐慌(恐慌とは経済活動のショック死状態のこと) 2) 1つの戦争 3)1つの激変 1)の2つの恐慌とは@ 財政恐慌 ギリシャに見られるような国家財政の破綻の状況。本来、国家財政の役割の一つは一般経済が危機におちった時のレスキュー隊である。現在はその役割を放棄せざるを得なくなっている。国債の暴落の危機はギリシャ、スペインなどヨーロッパだけではなく、日本でも起りうる。(日本国債の受け手は日本人だから安心だとの話しは、その所有者の大半は法人であり、機関投資家であることを考えると大変疑わしい。) <地球は一つ、国々は多数><人、物、金は国境を越えるが、国は越えられない>(工場の移転等)ここから財政破綻は必然性を帯びる。 A 中央銀行恐慌 欧州中央銀行(EBC)はユーロ危機を防ぐ為各国の国債を買い上げ、銀行、金融機関への融資を行っている。中央銀行に不良債権の山が造られつつある。 ⇒ ユーロは消滅してしまう。 2)1つの戦争とは<通商戦争>(貿易戦争)のことである。国々の余裕が無くなってくると、W.T.O.(世界貿易機関)の基本理念である<自由・無差別・互恵>から逸脱して、鎖国の誘惑すなわち通商のブロック化を図るようになる。T.P.P.(環太平洋自由貿易協定)がその例である。地球経済の切り刻み合戦が行われつつある。環太平洋自由貿易協定 = 地域限定排他貿易協定であると憶えてほしい。 3)1つの激変とは 通貨の激変である。<1国1通貨時代は終焉する?><1ドル50円時代の到来!!><ドルのくびきからの脱却>(ポンドは大戦後1,008円であったものが現在は120〜130円のことを思えば、1ドル50円は必然である。)アメリカは自国の貿易黒字を求める為ドル安を容認する政策をつづけてゆく。 <ユーロの終焉。> 単一経済圏の条件は@経済実態の収斂度が完璧であること。すなわち、地域格差が無い(物価、賃金が同じである)もしくはA中央所得再分配装置があること。現在のヨーロッパはどちら共に無いわけで、続いてゆくわけが無い。 以上、「永遠の暗闇」を回避する方策として、浜先生は突然ユートピア的話しに入っていきます。 国富論(アダム・スミス)をもじってを越えて、国富論を、僕(ぼく)富論⇒君(きみ)富論へ変えてゆく。国も会社も、もちろん個人も利益の優先順位を自分から他人へと切り替えてゆくことが重要である。このことに疑問を持つ人には<まさか論>で説明する@情けは人のためならず。 A歴史の教訓=”まさか”は必ず起る。 最後に浜先生は我々受講生に一つの契約を要請しました。<君富論の実行を約束して!!!> 笑い、笑い、・・・実際には恐怖を感ずべき話しの大半でしたが、面白く聴かせていただきました。一つの見方のみに囚われない勇気がいるかもしれません。 |
2012年6月5日 明日6日、明後日7日は、ジジ連の5人で「南紀白浜温泉への旅」に行きます。台風の余波が心配されています。「南信州への旅」を急遽まとめました。 |
2012年6月2日 南信州への旅を鋭意作成中です。楽しみながらの作業ですので、時間が掛かっています。 |
2012年5月28日 感激の南信州旅行が無事に終わり、メンバー諸氏への写真のメール発送が終わりました。ページの作成はこれからです。楽しかった旅だけに私としては、念入り作ってみたいのですが、どうなりますか?その前に、ジジ連メンバーのI氏から金冠日食を雲をフィルター代わりに撮影した写真をいただきました。私が目撃したものと同じ感じですので、ここで記憶させていただきました。金冠日食1 2 3 4 5 見事に金冠となりました。 |
2012年5月24日 明日、明後日と南信州への旅に出ます。一昨日、昨日の旅の整理をする必要があります。 一昨日は、ジジ連の5人のメンバーが皆、満65歳以上となり、この4月、5月に定年退職を向え、平日に旅に出ることが可能となった記念のイベントのようなものです。本番は6月6日、7日の白浜温泉への旅となります。 読売旅行さんの「鳥羽・相差(おうさつ)で味わう5味覚会席+3つの海の幸セット」という旅となりました。お目当てはお料理と温泉、伊勢神宮外宮参拝ということで、8時、住道の指定の場所からバスに乗ります。仲間の一人が体調不順ということで、わざわざ現地まで来てのお断りとなりました。残念でした!!! バスは「道の駅 針」、「ドライブイン多気」での休みを入れ、予定時間の11時45分に「浜の雅亭一井」へ到着しました。ホテルの前の雨ももよいの海岸には少し波が岩にぶつかっています。11時50分には、お目当てのお料理を頂戴することとなりました。 5大味覚とは「伊勢海老お造り・国産あわび・松坂牛・うに釜飯・車海老塩焼き」ということですが、特に「伊勢海老」 「あわび」 は十分に満足。また、「うに釜飯」にも満足しました。ビールとお酒を頂戴してしまうと、もはや、天ぷらには手が出なくなりました。その後は、温泉にゆっくりと浸かり、13時50分にはホテルを出発しました。 バスは恒例になった入る「海産物のお土産屋さん」、「真珠店さん」(店内に置かれた「御棟持柱奉曳」台車 その解説を撮影。)を訪ね、伊勢神宮外宮とならんで祀られている通称「あかねさん」といわれている「豊川茜稲荷神社」でお祓いを受けることとなりました。 16時20分ようやく、外宮入り口に到着。この日は、来年の式年遷宮のために造られている「せんぐう館」が休館日のため、その建物のみ撮影します。 外宮本宮 土宮(つちのみや) 風宮(かぜのみや) をお参りします。17時に伊勢神宮外宮を出発、住道着は20時過ぎとなりました。天気はいまひとつでしたが、往きのバスではI氏差し入れの焼酎ですっかり口が軽くり、楽しい会話を楽しめました。幹事役のS氏の毎々のご面倒に感謝!!感謝!!!です。 昨日、23日は、嫁さんと奈良国立博物館で開催されている「御遠忌800年記念特別展 解脱上人 貞慶 −鎌倉仏教の本流ー」で、「浄瑠璃寺の吉祥天立像」を拝し、同じ、国立博物館の「奈良仏教館」で、種々の仏様を拝み、春日大社の「神苑」で花々を楽しみました。詳細は別ページにまとめたいと思っています。 |
2012年5月21日 金環食を観ることが出来ました!!!大住ヶ丘はそのとき晴れてはいますが、若干薄暗くなって、東の空は濃い雲と薄い雲がまだら模様となった状態でした。金環食の最盛期である7時半少し前は丁度うすい曇がかかった状態で裸眼でくっきりとと金冠の状態が判別できました。思わず、ラッキーと言う言葉が口をついて出たしまいました。 19日、「京たなべ・同志社ヒューマンカレッジ」・2012年第1回目が行われました。もちろん、往復はがきでの申し込みをするわけですが、参加OKの返事を当然の思いで受領していました。ところが、今回は600人の定員に対して、1200人の応募があり、なんと、2分の1の確率だったのです。ラッキーでした。知人の何人かは、ハズレの返事を貰っていたようです。 第一回目の講師は「同志社大学 グローバル・スタディーズ研究科科長 内藤 正典教授」。演題は 「アラブの春」から「中東の嵐」へ −最新の中東情勢を読み解く鍵ー イスラムに対する深い理解から出てくるお話しが多く、その一端を知ることでも、興味深く、新しい発見が出来ました。塩野七生さんの「ローマ人の物語」、「十字軍物語」、「海の都の物語」などで、キリスト教国と対立するイスラム世界が触れられていますが、現在の情勢でもその時代から続いてきているなにかがあるようです。お話しをまとめてみました。 2001年、「ニューヨーク世界貿易センタービルへの旅客機突入」でアメリカは「ビンラディンを指導者とするアルカイダとの闘い」に入り、湾岸戦争、アフガニスタンと継続しています。また、2005年のロンドンでのバス爆破テロ、インドネシアでのテロなど、マスコミの報道はアルカイダの犯行であると簡単に位置づけて報道してきています。内藤教授はこの点に誤解があることを指摘しています。「アルカイダ」とはアラビア語では「基地」・「拠点」・「ベース」と言う意味で、日本語で言えば「組」(山口組)といったもので、現在、世界に15億人おり、まもなく25億人(全人口の3分の1)となるイスラム教徒のなかにはアルカイダは無数にあることを忘れてはいけない。このような相手に対しては、「いかに共生するか?」を真剣に考える必要がある。その基礎として「イスラム教徒とはいかなるものか?」を知ることが、第一歩ではないか。 チュニジア⇒エジプト⇒リビアと続いた「アラブの春」称する「民主化運動」は民主化運動ではなく、民衆が望んだものは「イスラーム的公正」の実現で、選挙の結果は「イスラーム政党」(エジプトでは「ムスリム同胞団」)が勝利した。 しかし、シリアの情勢は今後も混沌とした情勢が続き、良い結果が生まれるとは思われないと懸念しています。ロシア・中国が現政権のアサドを支持しているのはもちろんだが、アメリカも本音ではアサド政権がつぶれてほしくはないと思っているからです。南の国境のエジプトが親米であった政権から変わり、北方も脅威が増えることをイスラエルが歓迎するわけがないからです。 以下に、レジメの後半部分を写します。 【補足】 イスラームの「公正」とはなにか? ★ イスラームの教えでは、「弱者を助ける」ことが義務。貧者、病人、子ども、女性、旅人などが弱者とされる。 ★ 金儲けに対する否定的な感覚はない。しかし、貧者に対しては、富者が富を分配することによって公正を維持することが必要。 ★ イスラームには、禁欲主義はない。そのかわり、神が一定の「枠」をはめている。「枠」の範囲では、何をどう楽しもうとかまわない。【キリスト教徒との違い】 ★ イスラームは戒律が厳しい宗教、というのは西洋が植えつけた偏見。実際には、「人間がルールをつくっても、欲望に弱い人間は必ずそれを破ってしまう」から、「神の定め」を人間に適用しようとする。ルール(法と倫理規定)が神に由来するということになると、守るか、破るかは人間次第ではあるが、「来世」(神にしか左右できない)で、天国に行けるか、地獄行きか、を人間が考えながら行動することになる。 ★ 為政者が、イスラーム的公正に反する場合、通常の選挙のような形態で不正を正せなければ、反乱を起こすこともできる。 ★ キリスト教の教えは「非暴力」で愛と平和を説くが、西洋のキリスト教国家は中世以来、一度も、それを実践していない。 ★ イスラームの教えは、信徒の共同体が存亡の危機にあるときは、暴力による抵抗をジハード(本来は、信仰を正すための努力のこと)として承認する。しかし、よほど状況が悪化しない限りは暴力はつかわない。むしろ、神の定めにしたがって、楽しく生きる、ことがイスラームの本質。もともと始祖のムハンマドが商人なので、商取引や金銭をいやしむ風潮はまったくなし。 最後に今後の危機として「イランの核開発に対するアメリカ、イスラエルの武力攻撃」が懸念されること。 当日の写真 会場風景です。 同志社キャンパスです。 第2回目以降の講座は、「これからどうなる、グローバル経済と日本」講師は浜矩子教授、「気になる隣人中国の行方」加藤千洋教授、「2012年、朝鮮半島と日本ー歴史から考えるー」太田修教授、「沸き立つアジア、つまずくアジア」阿倍茂行教授、「米大統領選挙後の国際情勢」村田晃嗣教授、「八重さん、出番ですよ −大河ドラマの楽しみ方ー」本井康博教授とづづきます。 午後の6時からは高校の関西同期会に参加しました。関西以外からの参加者の勢いにおされがちな地元勢であったことは否めません。 参加者の写真と共に、ついでに高層階からの何枚かの風景写真を撮ってきました。 JR北ゲートビル屋上から エスカレーターからコンコースとホームの情景 グランヴィアホテル大阪21回から西の方角を。 |
2012年5月17日 明日からの1週間はなにかと忙しい期間となるようです。明日は、13時30分から、同志社大学京田辺キャンパスで、「京たなべ・同志社ヒューマンカレッジ」の聴講。夕方6時からは、大阪駅ホテルグランヴィアでの高校の「関西同期会」。22日は、ジジ連5人での「鳥羽相差へのグルメ・バスの旅」。23日は嫁さんと、奈良国立博物館での「解脱上人 貞慶展」。22日から27日まで、「浄瑠璃寺の吉祥天女像」が展示されているためです。24日、25日は「南信州への旅」。今後、一週間のお天気はおおむね良さそうですが、特に、25日の天気が心配です。駒ケ岳千畳敷カールへは是非ともに行ってきたいと熱望しています。もちろん写真を撮ってきたいのです。 庭の鉢に「ユキモチソウ」が咲きました。英名が、Japanese cobra liliy ということのようで、なるほどと肯ける名称ではあります。写真1 写真2 。 |
2012年5月4日 勤め先によっては、今年のゴールデンウィークは本当にその名と通りとなっていますが、昨日の3日からはその後半に突入しました。そんなことには関係のない生活をおくっています。「十字軍物語 2」を読み終えました。この巻きは北から「エデッサ伯領」・「アンティオキア公領」・「トリポリ伯領」・「イェルサレム王国」が連携して、「聖地イェルサレム」を守りきってゆけるかの物語ですが、イスラム側に「サラディン」が登場することで、聖都イェルサレムが奪還されてしまうことになります。「十字軍物語」参照です。 ここでは、ヌラディン、サラディンによってなされた、エジプトのファティマ朝滅亡の経緯のなかで一部を取り上げてみたい。 スンニ派とシーア派 エジプトでは、万全に見えたファティマ朝が崩れ始めたいた。バグダッドのアッバス朝がスンニ派であるのに対し、カイロを本拠とするファティマ朝はシーア派である。(現在はイスラム教徒の9割はスンニ派、イラン・イラクのみはシーア派が大半を占める。) ゆえに、このいずれにも宗教上の最高権威としてカリフがいたのだが、そのカリフを助けて国の統治と防衛に当たる人物は、バクダットでは「スルタン」、カイロでは「ヴィジル」と呼ばれていた。 また、この時代ではシーア派とスンニ派では民族的にもちがいがあり、、シーア派ではセルジューク・トルコ民族が主流にのし上がり、スンニ派ではアラブ人がいまだに権力をにげっていたのである。・・・・・サラディンは、次のカリフを擁立しなかった。ファティマ朝はこうして断絶したのだが、アッバス朝のスルタンであるヌラディンの名を唱えることで起る危険も、このように自然な形で消滅したのである。つまり、シーア派の本拠であったエジプトも、シーア派の最高権威であるカリフの血統が絶えたことで、スンニ派の支配下に入ったということであった。・・・ ウィキペディアの解説では 「スンナ派」は、「預言者ムハンマドの時代から積み重ねられた『慣行』(al-Sunnaスンナ)および正統なる『(イスラーム)共同体』al-Jama'aジャマーア)に従う・護持する人々」といった意味で、「スンナに従う人」を意味する「スンニー」の語からスンニ派とも呼ばれる。 としています。また、「シーア派」は、イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。としています。 第2巻の最後の部分です。 サラディンはやはり、イスラム教徒たちが賞賛するのも当然な、戦略の天才であったのだった。しかし、このイスラム世界きっての英雄が、今なおあの世界ではことあるごとに冷遇されている。少数民族のクルド人であったことを、その後のイスラム教徒たちはしっているのだろうか、と思ってしまう。 一方、中近東からは遠く離れたヨーロッパでは、サラディンによるイェルサレム奪還の知らせはまたたくまに広まり、ヨーロッパに住むキリスト教徒たちに、言いようのない深刻な打撃を与えていたのである。 エデッサの陥落とは、話がちがった。92年昔に十字軍を起こしたときのそもそもの目標であった、聖都イェルサレムを奪い返されてしまったのである。今度ばかりは、エデッサを失ったショックで始まった第二次十字軍のように聖ベルナールのような扇動者は必要でなかった。ヨーロッパ中が、自発的に起ち上がったのである。 ドイツからは、赤ひげの綽名で知られた、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ一世。 フランスからは、王であるフィリップ・オーギュスト。 そしてイギリスからは、イスラム相手の獅子奮迅の働きによって「獅子心王」と呼ばれることになる、英国王になったばかりのリチャード一世。 十字軍の歴史上、「花の第三次」と言われる第三次十字軍が、ヨーロッパを発って続々と中近東に向い始める。受けて立つのは、今度はサラディンのほうになるのであった。 この5月は、後半のほうで何かと行事が詰っています。13日日曜日は「母の日」。19日(土)は13時半から15時半は「同志社ヒューマンカレッジ」の今年の第一回講演会。久しぶりの参加となります。18時からは毎年決まっている五月の第三週の土曜日、高校の関西同期会。ことしは「ホテルグランヴィア大阪」です。 22日は「ジジ連」の3名がこの4月、5月に65歳定年を向えたことをお祝いする会として日帰りバスツアー「鳥羽相差で味わう5大味覚会席」へ5人で。(本番は来月6日、7日に予定されている白浜温泉ですが。) 25日、26日は春秋に定例となった高校時代からの友人達と南信州への旅。奈良井宿、木曽福島、開田高原、泊まりは「駒ヶ根・ビューホテル四季」、翌朝、木曽駒ケ岳千畳敷カール、諏訪大社上社参拝が計画されています。関西から参加の友人とは名古屋からの特急しなの号の隣り合わせの指定券も手配は済んでいます。楽しみな5月です。 |
2012年4月28日 昨日はお天気に誘われて、嫁さんと奈良町散策に出かけました。風は爽やかなのですが、やはり日差しは強く暑い思いの散策となりました。JR奈良駅から三条通を東へ、猿沢の池の手前を右に折れ、アーケードの中を興味深いお店を眼で追いながら歩きます。細い路地を左に折れると奈良ホテル裏門に出ます。川の流れに添って歩くと、「大乗院跡」と書かれた石碑が立っています。「旧大乗院庭園」に寄ります。何回かの寄り道をしていますが、坐ってゆっくりとお庭を拝見していると、外の暑さを忘れさせてくれます。 お庭1 お庭2 これといって目的地を決めて来た訳ではありません。お庭を拝見しているうちに、入江泰吉氏の写真を見たくなりました。「入江泰吉記念奈良市写真美術館」へ向います。奈良の四季を撮った写真、初夏の花々を撮った写真をゆっくりと味わい、解説を聞きながらのスライド写真をを鑑賞ます。紅い空を背景とした二上山の夕景は大津の皇子の怨念を再確認させてくれる圧巻の写真です。1時間半ほどの静寂の時間をいただきました。少し歩くと、飛火野へ出ます。 小学生が多数横切って春日大社方面へ向っています、 鹿が憩う奈良公園をを抜け、 今度は修学旅行の中高学生が群れている東大寺南大門をくぐり、今日の一応の目的地「東大寺ミュージアム」に着きました。修復なった「不空羂索観音像宝冠」が4月3日から展示されているからです。昨年の秋2度訪れましたがその折は修理中だっで公開されていませんでした。奈良時代の工芸の最高峰とされるもので、88センチのそれほど大きなものではありませんが、金属部分、水晶や翡翠の精密さは見事なものです。一見の価値は十分なものでした。ロビーには大仏様の巨大な連弁のレプリカが置かれています。 その大きさ 表面に彫られた線刻図 解説版 です。 春は、嫁さんが丹精している我が家の庭にも訪れています。玄関前に置かれた大きくなった鉢植えの「大手まり」が今年は沢山の花をつけてくれました。 1) 4月24日 2) 4月24日 3) 4月24日 4) 4月28日 5) 4月28日 プランターのスミレも満開です。ウサギの耳に似た可愛い花弁をつけているアップしてみました。 「春の野に すみれ摘みにと 来しわれそ 野をなつかしみ 一夜寝にける」 (山部赤人 巻8・1424) 1) 4月24日 2) 4月24日 3) 4月24日 5) 4月26日 5) 4月26日 |
2012年4月25日 再度、図書館から借り出すことが出来た「十字軍物語 1」・「十字軍物語 2」の再読を始め、「1」を読み終えました。1回目の時との大きな違い、メリットは初回では必ずしも十分でない登場人物のキャラクターが把握できてきていることです。今回はそんなことを思いながら読み進めています。 第一次十字軍の最高の主要人物は、十字軍遠征の提唱者、フランスシャンパーニュ地方の貴族の家に生まれ、クリュニー修道院で学び西暦1088年46歳で法王に選出され、西暦1095年11月クレルモン公会議で直接群集に訴えた「ウルバン二世」なのでしょうが、実際は「神が望んでおられる」として、遠征におもむいた兵士達と彼らを率いた封建諸侯の公爵、伯爵達となります。 その一番手は「ロレーヌ公ゴドフロア・ド・ブイヨン」、当時36歳です。封建諸侯であった彼の領地は当時ローマ法王と敵対していた「神聖ローマ帝国」の版図内の現在で言えばベルギー(低ロレーヌ地方)であったにもかかわらず大軍(約1万5千の騎兵、歩兵)をもって十字軍に参加し、その真面目な人柄から全軍の信頼を得、イェルサレム解放後の「キリストの墓所の守り人」即ち「イェルサレム王」となったのです。そして、2代目のイェルサレム王ボードワンは彼の弟で「エデッサ伯領主」、さらに3代目イェルサレム王ボードワン2世は彼のいとこ、その後のイェルサレム王領の存続の基礎を築き上げたのです。 二番手は「プーリア公ボエモンド・ディ・アルタヴィッラ」、当時47歳。シチリアを含む南イタリアを領有するノルマン王朝、アルタヴィッラ家の筆頭。南イタリア全域から騎兵、歩兵を約1万5千名ほど集めての参戦でしたが、特に戦慣れしているノルマン一族郎党の「貴族」となっている小領主達の数によって十字軍にとって有力な戦力となりました。また彼の深謀によってイスラム側の有力拠点であった「アンティオキア」を陥落せしめ、後のアンティオキア公領を築き上げます。 三番手は「トゥルーズ伯レーモン・ド・サン・ジル」、当時50代半ば。南フランスに広大な領地を有していた典型的封建領主で、最大の兵力を率いていくことになります。法王は彼を十字軍の総大将となってくれることを考え、法王代理の司教アデマールを同行させる。しかし同僚になる諸侯たちに人望がなく、また、従っていく兵士たちからも人望がなく、パレスティーナ到着後に種々の迷走をします。そこで、実際にはゴドフロアが自然に総大将格となっていってしまいます。しかし、「トリポリ」奪取の功績によって彼の子孫が「トリポリ伯領」を領有します。(十字軍の将としての姿を表した上記3者を描いた絵画、3者共に王冠をもつ王ではありません。) 番外人物としては間違いなしに「タンクレディ」であり、そうなのかとの法王代理の司教アデマールです。 タンクレディはプーリア公ボエモンドの甥。当時は二十台初めと考えられています。各地の戦闘に小兵力で活躍し、特にイェルサレム解放前後に、イェルサレム周辺の地域パレスティーナ、ガリラヤ方面を占領していくことによりイェルサレム王領を作りあげます。また、1104年、ヨーロッパに発つアンティオキア公ボエモンドからアンティオキア公領をエデッサ伯領とともに任されることになります。彼は36歳の若さで、1112年に世を去りますが、遺言としてアンティオキア公領、エデッサ伯領、トリポリ伯領、ガリラヤ地方とに縁戚のネットをかぶせることで、十字軍国家の北半分の安定を配慮し、自分の死後にそれが機能するように計らいます。 最後に、司教アデマールはアンティオキア攻防戦の折、アンティオキア攻略後、再度イスラムの大軍に包囲され窮地に陥った才、病床に伏せったトゥルーズ伯サン・ジルの変わりに1隊を率いて戦い、その後に疫病に倒れます。アデマールの死には、諸侯たちの全員が悲しみに沈みます。聖職者というより戦友の死を悲しみ思いだったようです。必要であれば自ら兵を率いて最前線で闘い、ことあるごとに敵対するボエモンドとサン・ジルの間も巧みに調整し、死に行く者の求めがあればその枕もとに駆けつけて、より良い世界への旅立ちを見送る。第一次十字軍にとってなくてはならない人になっていました。 第一次十字軍によってシリア・パレスティーナの地に打ち立てられた十字軍国家は、これらの第一次世代が創り上げたのであった。ヨーロッパを後にした1096年からイェルサレム陥落までの3年間で征服をし、その後18年を費やして確立して行ったのである。 皇帝も王も参戦していなかった第一次十字軍の主人公たちは、ヨーロッパ各地に領土をもつ諸侯たちであった。彼らは、ときに、いやしばしば、利己的で仲間割れをくり返したが、最終目標の前には団結した。この点が、利己的で仲間割れすることは同じだった、イスラム側の領主たちとのちがいであった。そして、それこそが、第一次十字軍が成功した主因なのである。 これ以降の物語は、十字軍の第一世代が創り上げ確立した十字軍国家を、その後の人々がどう守り抜くかの物語になる。・・・・・ 第2巻を読み進みます。すでに記している「十字軍物語」のページも参考にしています。 |
2012年4月23日 19日、「北の杜カントリークラブ」でおこなわれた「極楽とんぼ12年春の陣」は、絶好の天気に恵まれ、ホント楽しい時を味わせて貰い無事に帰りました。参加者の多くの方々に、メールで写真を送る作業に時間がとられ、ページの更新が遅れてしまいました。 18日、11時30分、京田辺松井山手PAで、友人のジャガーに拾ってもらい、一路、山梨県北杜市にある「北の杜カントリークラブ」へ向います。13時40分、山頂付近に多くの雪が残る中央アルプスが望まれる中津川ICを通過し、恵那山トンネルへ入ります。14時、神坂(みさか)SAでの昼食となりました。友人A氏は予めここでのお蕎麦を予定していたようで、注文は「馬籠の本陣そば」。美味しく頂戴いたしました。14時55分、左手の木曽駒ケ岳が望まれる地点を走っている時、友人のA氏に眠気が生じ、15時10分、急遽「小黒川PA]での休憩となりました。ここからは「南アルプス」の白い山々が美しく望まれます。 さらに、東海地震の際の高速道路利用の案内板に眼が引かれます。 15時50分、諏訪湖が左手に見えてきます。 16時、小淵沢ICを降りると、「甲斐駒ケ岳」(2967M)の白い姿が眼に飛び込んできます。 16時20分、無事に「ホテル北の杜」へ到着。 チェックインの後、温泉に浸かり、仲間との雑談が始まります。18時からは14人での「前夜祭」の宴会。更に、ロビーでの2次会。話は尽きません。 翌朝、5時から温泉を味わいます。その後、ホテルの周辺を散策。高原の春も味わいます。 2、3分咲の桜、 そのアップ。 つつじ(ミツバツツジ?)、 そのアップ。 道路脇を彩る小さな花々 を観賞しながら時間を調整します。6時50分にはゴルフ場玄関に到着し、レストランでの朝食を摂りました。 早朝は雲が多く、心配されていた天候は、この頃には少し山には雲がかかっていますが、雨の心配は全くなくなり、絶好のゴルフ日和となっていました。レストランバルコニィーからの甲斐駒ケ岳を借景としたゴルフ場。 パット練習場からのスタート前の景観 池をバックにした18番ホールのグリーン この日のスタートホール、10番ホールの景観。 この景色の良い北の「杜カントリークラブ」でのゴルフは、年に2〜3回のコース参戦としては上出来の107(53,54)、25人中7位(ハンディ25)。クラブ購入後、ティーショット後、残りが150Y以上の場合、2打目に使用している5番ウッドのミスが連続し、大きくスコアを乱すところでしたが、なんと、パートナーが呆れるほどにパットが決まってくれ、上記スコアであがってくることが出来ました。特に、4番約150Yのショートホールでは、やはり、5番ウッドでのショットがグリーン手前にバウンドしピン左、2.5Mにオン。当日のニアピン賞を頂戴すると共に、下りのスライスラインを決めるバーディのオマケまで頂戴することが出来ました。 帰りは、やはり大阪へ帰る友人F氏が同乗、家の近くまで送っていただくことになりました。ホントA氏には感謝の言葉がありません。 |
2012年4月17日 明日、18日出発、19日は山梨県の小淵沢から少し南に入った「北の杜カントリークラブ」で高校同期会・「極楽とんぼ会」が予定されています。十何年かぶりに昨年、8月「松本カントリークラブ」での会に参加して以来です。関西在住のS氏が、私が歩いていける高速のPAで拾ってくれることから参加の可能性が生じました。小淵沢までは、JRでは塩尻で乗り換えをする必要があり、京都からは少し無理と思っていたからです。 「北の杜カントリークラブ」は私が56か57歳の折、単身で東京にいた時にプレーしたことはありますが、大変景色の良いところだったという記憶のみあるばかりです。 明日夜のホテルでの前夜祭は14名(本番は御兄上の不幸による1名の欠席があり、25名です。)の参加が予定されていますが、いつものとおりの盛り上がりですと翌日のプレーへの多大の影響が今から心配されます。天気予報は良好です。パートナーに迷惑をかけることなくプレー出来れば御の字と考えることとしています。なんにしても、楽しみです!!!!! |
2012年4月5日 3日、日本海上を急速に発達した低気圧が通過してゆきました。近鉄特急も鳥羽市を通過するあたりからは強風のための徐行運転が行われており、明日の天気も心配になるほどでした。途中、悪天候の故か?虹が車窓から。 ホテルの窓から志摩スペイン村方面を撮影します。雨雲が地を覆い、風の音が耳を騒がせます。6人の夜の宴会での話しは尽きず、やはり、飲みすぎとなりました。 4日朝、天気は回復しました。前日の方面への撮影の雰囲気は全く変わっています。 伊勢志摩カントリークラブの風景1 1番スタート。 昨年8月以来のコースです。110を切るのが目標でしたが、間違いというものはあるもの、長いパットも入ってくれ、ナント、99であがることができました。パートナーには大変ご迷惑をおかけしました。 |
2012年3月28日 昔の会社の飲み仲間4人での、4月3日、伊勢志摩ロイヤルホテル宿泊、4日、伊勢志摩カントリーでのゴルフ会が予定されていることを、その仲間の一人が海外旅行などを共にしているやはり昔の会社の東京の仲間が知ることになり、彼らが偶然、伊勢、名古屋でのゴルフツアーの途中、3日の夜、安乗で宿泊することを予定していたのを変更し、ロイヤルホテルで宿泊し、飲み会を含めた夕食を共にすることになりました。キット、盛り上がることでしょう。偶然とは言いながら、ホント不思議なことです。ただ、心配なことは、翌日のプレーが思うように出来なくなることです。飲まなくても良きプレーなど無縁なことではありますが。 4月9日月曜日は、美緒ちゃんの小学校への入学式です。重い2台のカメラを抱えて、木津川を越え、城陽まで記念の写真を撮りに行かねばと決めています。 |
2012年3月20日 15日にお参りした、「第81番札所 白峯寺」に因縁が深い「崇徳上皇」について井沢元彦氏の「逆説の日本史 4 第5章 院政と崇徳上皇編」から。保元の乱で後白河天皇、平清盛に敗れた崇徳上皇は。 崇徳は髪をおろしても反乱(保元の乱)の罪を許してもらえず、讃岐(香川県)に流罪となった。そこで、「反省」と「戦死者の供養」の意を込めて五部大乗経を写経した。五部大乗経とは華厳経、大集経(だいじつきょう)、大品般若経(だいぽんはんにゃきょう)、法華経、涅槃経の五つで、それぞれが何巻にも分かれており、読むだけでも大変なものだ。それを全部写経して、都の寺に納めてほしいと讃岐から京へ送った。ところが、後白河天皇は「呪詛が込められているのでは」と疑いこれを送り返した。 崇徳は激怒し、舌の先を噛み切って血を出し、その血で経文のすべての巻に呪いの言葉を書きつけた。「日本国の大魔縁となり、皇(おう)を取って民となし、民を皇となさん(日本の大魔王となって、天皇を没落させ平民をこの国の王にしてやる)」「この経を魔道に廻向(えこう)す(この経を魔として道(悪)に捧げる)というものである。 五部大乗経を書き写す(写経する)ことは、仏の道にかなうことで大変な功力(くりき)があるとされている。その功力を崇徳はすべて悪行に使うと宣言したのである。 崇徳は京の空を睨み配流後八年にして讃岐で憤死する。1164年(長寛2)のことだ。 崇徳の死後3年にして清盛は太政大臣となり、娘の徳子が高倉天皇の中宮となる。さらに、その徳子(建礼門院)の産んだ皇子が天皇の位に就いた。 これが安徳天皇である。・・・ 山門を入り、護摩堂を左に折れた突き当たりにある勅願門の奥に位置する頓証寺殿は崇徳天皇の廟所で、この頓証寺(とんしょうじ)が白峯寺の元になったようです。 帰りの道で瀬戸大橋にさしかかると、昼には雨が降るなどの空模様がはれの状態に変わり、夕日が瀬戸内海を染める風景に出くわしました。折角ですから、17時40分、車窓から撮影してみました。 1) 2) 3) 4) 出来は良くありませんが、雰囲気は出ていると思いますが。「逆打ち参りの旅」。を完成させました。 |
2012年3月18日 15日には、「四国八十八ヶ所逆打ちお遍路の3回目の旅」に行ってきました。その前夜は、昔の会社仲間4人での飲み会が南船場の「美酒 旬彩旬魚 多満喜」というお店で開かれました。こじんまりしたお店でしたが、気の利いたお料理と1品ごとに提供されるお酒の美味さに思わず追加のお酒をたのむことになり、飲みすぎとなってしまいました。そんな酔った勢いでのことからでしょうか、以前から懸案となったいた4人でのゴルフ会が決定され、その後の手配の結果、4月3日、伊勢志摩ロイヤルホテル宿泊、4日、伊勢志摩カントリーでということになりました。4月は19日の「極楽とんぼ会・山梨の北の杜カントリー」が予定されていますので、ホント何年かぶりの月2回となりました。ゴルフ内容は心配ですが、ホテルでの夕食が楽しみです。 15日の朝は申し訳ないことですが、チョットだけ前夜のお酒が残った状態での出発となりました。今回は前2回の「明石海峡大橋」と変わり、「山陽自動車道」、「瀬戸大橋」を渡り、四国へ渡ることになりました。通常の旅であれば「与島PA」(金刀比羅宮への旅)へ寄ることになるのでしょうが、今回は瀬戸大橋のすぐ前にある「鴻ノ池SA]へのトイレ休憩となりました。「81番 白峯寺」・「80番 國分寺」・「79番 天皇寺」・「78番 郷照寺」・「77番 道隆寺」の5ヶ寺へのお参りでした。「白峯寺」「天皇寺」は特に、崇徳天皇(上皇)との関わりで興味深いお寺といえます。まとめはこれからです。 |
2012年3月7日 図書館から半藤一利氏の「ぶらり日本史散策」を借り、読み始めました。その初めの章「隅田川の橋と軍縮会議」で既に面白い箇所が見つかりました。今年の初めに東京での新年会のついでに「東京スカイツリー」を見学に行った折、地下鉄で浅草まで行き、隅田川の「吾妻橋」を渡り、東武伊勢崎線「業平橋駅」の横にあるスカイツリーへ歩きました。ちなみに、帰りはこの「業平橋駅」から「浅草駅」まで乗車しましたが。書き出しです。永井荷風が、・・・じつは、この昭和7年という年にわたくしは面白さを感じている。・・・翌6年には、東武電車がそれまでの業平橋(当時・浅草)が始発駅であったのを、鉄橋を渡して隅田川を越え浅草雷門(現・浅草)までのばした。・・・ところで、先日、隅田川のほとりを歩く機会をもったとき、ふと、そうだ、東武電車の鉄橋だけではないな、とわたくしは呟いた。荷風さんは浅草観音裏から言問橋を渡り、墨堤を歩いてかの処へ行くこともあったし、また、白髭橋を渡って帰ることもあった、・・・そんなことがあって隅田川にかかる橋のことを調べてみる気になった。 隅田川にいちばんはじめに架けられた橋は千住大橋で施工主は徳川家康。現実主義のおっさんであるから、軍事目的の上から川に橋は安易に架けるわけにはいかないとした。それで二番目の両国橋は四代目将軍家綱の時代にやっとでき、五代目将軍綱吉なった新大橋と永代橋が架けられた。・・・こうして幕府の橋ずくり政策に業をにやした江戸っ子が「そんなら自分たちの手で」安永三年(1774)に許可をえて架けたのが吾妻橋である。・・・ところがそれ以後は、明治になるまで約百年、隅田川には橋一つ架からなかった。・・・関東大震災後のこと。復興計画の名のもとに、にわかに近代橋の建設や架けかえ工事が着工され、昭和になって完工した橋が勢ぞろい、隅田川はいっぺんに」橋の博覧会場」といわれるまでに様変わり、千住大橋から下流へ、白髭(昭6)、言問(昭3)、吾妻(昭6)、駒形(昭2)、厩(昭4)、蔵前(昭2)、両国(昭7)、旧新大橋(明治45)、清洲(昭3)、永代(大正15)、勝鬨(昭15)と、昭和のヒトケタにはタイプの違う橋がずらりとならんだ。丸カッコのなかは竣工年である。・・・・・ この作橋ブームはワシントン海軍軍縮条約(大正11年)で建造を予定されていた戦艦や空母が作れなくなったため、鋼鉄が余ってきたことによるということという面白さです。面白いというのは不謹慎ですが。ところで、吾妻橋の別称は業平橋です。更に、面白い部分を紹介したいものです。 |
2012年2月29日 今日は、4年に一度の、「閏日(うるうび)」です。”1年で1日が多い”ということは”得なこと”かどうかは人により様々でしょう。イギリスでオリンピックが開かれることは確かです。ジイ様にとってはどうでしょう?判りません!!1 25日、26日は”ジジ連”4人で、「梨の花温泉郷 はわい温泉 千年亭」への蟹食べ放題旅行へ行ってきました。この”ジジ連の旅”にはいつも参加しているIさんが奥さんの入院ということで参加できなかったのは残念でした。 25日、朝9時、梅田の集合場所から大型バス(かにバス)での出発です。お仲間は四十数名、結構若い方々が多いメンバーでした。鳥取へは西粟倉村あたりでの地道意外は高速道路を利用することとなり、短時間で行くことが出来るようになりました。加西PAでの休憩のあと、12時20分頃には鳥取砂丘へ到着していました。少し小雨が降っていますが、昼食の後、やはり、砂丘を眺めます。この時期のみの景観を楽しむことができます。 1) 残雪に囲まれた鳥取砂丘標識。 2) 砂丘の向こうには日本海が。 3) 雪解けの水で砂丘の窪地に大きな水溜りが。 いかにも寒々とした光景です。 13時15分、鳥取砂丘を出発、幾つかの東郷温泉、はわい温泉のお宿を回り、14時15分頃には千年亭へ到着。ゆっくりと温泉に浸かることができました。夕方6時過ぎからはお目当て「かに食べ放題」、「お酒飲み放題」です。かにのお刺身を含むお刺身、かに味噌甲良焼き、茶碗蒸し、を含み、「焼きかに」、「かにすき」の食べ放題を存分に楽しむことが出来ました。 26日、朝は6時過ぎから温泉、7時半から朝食です。折角ですから、ビールを1杯。10時40分、「燕趙園(えんちょうえん)」へは旅館組合のバスで送ってもらいます。途中、先日携帯電話ソフトバンクのコマーシャルで使われた「はわい温泉広告塔」 アップで の撮影をします。 「燕趙園」はパンフレットでは以下のように記されています。 鳥取県と中国河北省の友好のシンボルとして平成7年に建設された燕趙園は、中国の歴代皇帝が造り親しんだ皇家園林方式の中国庭園です。燕趙園は、設計から素材の調達、加工まで全て中国で行われた本格的な中国庭園で、建物は一度中国で仮組したものを解体した上で日本に運び、中国人技術者の下、再度建築したものです。建物に施されている2000を超える彩画師の手によるなどあくまでも本物に拘った庭園です。 1) 燕趙園入り口 2) 「天湖(てんこ)」を跨ぐ「七星橋(ななほしはし)」とその向こうは「臥龍廊(がりゅうろう)」 3) 「天湖」に架かる「魚骨橋(うおせはし)」と「三景軒(さんけいけん)」、緑の屋根の大きな建物は「ゆアシス東郷龍鳳閣」 4) 「飛雲瀑(ひうんばく)」 5) 「天池山(てんちざん)」上の天池から「一覧亭(いちらんてい)」が。 6) 天地山と飛雲瀑の解説板 7) 壁窓から「梧竹幽園(ごちくゆうえん)」を観賞します。 8) 雑技公演場の前庭の「西王母と八仙人」 9) 「西王母と八仙人」の解説板 10) 食事処「燕趙園」へ渡る「金山嶺橋」の上からの「燕趙園」と東郷池そして遠くに「千年亭」が見えています。 13時半からは「中国雑技公演」を観賞。その妙技 1)傘の妙技 2) 一輪車。 15時15分、「ゆアシス東郷龍鳳閣」前から帰りのバスに乗ります。恒例のように「賀露港(かろこう)」の浜下商店に寄り、一路帰途につきます。途中、加西PAで軽い夕食を摂り、梅田には予定より30分早く、19時30分には着くことが出来ました。 次回は、6月に白浜温泉への旅が計画されました。幹事のSさんには相変わらずのご苦労をお掛けすることになります。Iさんの奥さんが、一刻も早く全快をし、今度こそは、5人のメンバーで楽しみたいものです。 この夜、我が家では奇しくも梨央ちゃんの鳥取のジイババから送られたカニカニのお食事会が、もちろん美緒ちゃん一家を含めて行われており、ギリギリで間に合うことが出来ました。良かった!!良かった!!! |
2012年2月19日 昨日、美緒ちゃんの保育園での最後の発表会が終わりました。「合唱、リズム遊び、桃太郎の劇あそび」等の発表があり、最後は、心配していた「剣玉」の披露です。その出来は期待以上、練習の成果は十分に発揮されていました。13人の今年で保育園を卒業し、この4月に小学校へ入学する子供達の内、最後のグループとして、3人が両手での「剣玉」披露に出演し、各々立派に責任を果たす演技をしてくれました。 頑張っています。もちろん、一人は美緒ちゃんです。思わず拍手が止まりません。その後、13人全員で、皆への感謝の歌を合唱してくれ、無事にお開きとなりました。よかった!!!よかった!!!!! 「四国八十八ヶ所お遍路、バスの旅、逆打ち 2回目」をアップしました。 |
2012年2月14日 昨日午後からの雨です。梨央ちゃんの登園にお付き合い、車で保育園まで送って来ました。明日は、「四国八十八ヶ所お遍路、バスの旅、逆打ち 2回目」で、4ヶ寺を廻ることになっています。雨が抜けてくれることを祈るばかりです。 18日土曜日は、美緒ちゃんの保育園での「最後の発表会」です。何年も続けて参観させてもらってカメラに収めてきていますので、欠席するわけにはいきません。保育園では、マゴッチ達の成長の証しを見事に紹介してくれます。毎年、3月に卒園となる子供達に「剣玉」練習の成果を発表させています。昨年までは、美緒ちゃんの先輩達の見事な技に感心してきていますが、今年は美緒達ちゃんの番です。楽しみですが、チャントやってくれるかどうかが心配にはなります。先週土曜日に来てくれ時、「観に行く」と伝えると喜んでくれ、「剣玉」の練習を家でもしていることを教えてくれました。楽しみ!!楽しみ!!! |
2012年2月8日 「十字軍物語 3 」をまとめてみました。昨日は久しぶりの大雨。気温が急に上昇し、雪の多い地域では屋根からの落雪により可愛い盛りの5歳の女の子がなくなるという悲劇が起きてしまいました。同じ雪の下に埋まった弟は無事だったのに。今朝、雪が舞っていまました。また、真冬に逆戻りです。 |
2012年2月1日 速いものです、今年もいつの間にか1ヶ月が過ぎていました。先週末から今年のインフルエンザに感染していた孫の美緒ちゃんと梨央ちゃんが二人とも27日月曜日に我が家に来襲してきました。美緒ちゃんは1日でお熱が下がり、土曜日と日曜日はいつもの通りとのことでしたが、お医者さんの通園許可待ちの一日。梨央ちゃんは保育園の発表会が土曜日の25日。その朝の発熱で、折角楽しみにしていた発表会への参加は不可。本人よりも両親とおばあちゃんがガッカリ!!!我が家での27日は二人ともいつも以上の元気さで走り回っていました。その分、ジジババはお疲れ!!美緒ちゃんは昨日から保育園に。梨央ちゃんは昨日も我が家に来ていましたが、今朝、お医者さんの許可を出してもらい、保育園へ。二人ともタミフル服用のゆえか重症にならずに今回の危機を乗り越えたようでひと安心!!!「十字軍物語 3 」のまとめができるようになりました。 |
2012年1月24日 「四国八十八ヶ所お遍路、バスの旅、逆打ち、大窪寺・長尾寺・志度寺」をまとめてみました。市立図書館に、予約申し込みをしていた「十字軍物語 3 」を借りることが出来たので、急いで仕上げることとなりました。これからゆっくりと塩野七生さんの世界に浸ることができます。 |
2012年1月19日 昨日、18日は「般若心経」を8回唱えて参りました。久方ぶりの「四国八十八ヶ所お遍路、バスの旅」、閏年ということでの、逆打ちの旅です。順打ちの旅が一泊しなければならないようになり、スケジュールが取り難くなったため、しばらくの間中断していました。今回の逆打ちの旅を3回(1月、2月、3月)行くことし、12ヶ寺お参りすることとしています。その初回の旅です。 5時40分に家を出発、JR松井山手駅発6時13分に乗車し、北新地駅には7時前に着き、阪急トラピックスさんの梅田集合場所「梅田芸術劇場」前に7次20分には到着しました。因みに、指定されている集合時間は7時40分となっていました。 バスは8時に出発、9時には「明石海峡大橋」を渡ります。好天気です。淡路SAから「たこフェリー」の無い岩屋港、過ってはこの風景の中に必ずフェリーの姿が映っていました、明石大橋を撮影します。SA内の淡路島全体の観光地図、 および北淡路の拡大地図で、 室津付近から江井岬方面の写真で、淡路城が写っています。鳴門海峡大橋を渡りますが、下の鳴門海峡の渦潮は平静を保ったままです。高速道路を降り、しばらく走ると細い山道を登り始めます。バス一台がぎりぎりの道を走り、標高789Mの矢筈山中腹にある八十八番札所「大窪寺」へは、11時丁度の到着です。 道の反対側、日陰になる所には雪が融けずに残っている場所も在ります。この地の寒さが偲ばれます。大師堂でのお勤めの後、本堂内陣でお勤め、住職のお話しと”三国伝来の錫丈”を頭上にいだだきました。車中でお昼をいただき、八十七番の札所「長尾寺」には12時50分に到着しました。 既に、広い境内の本堂、大師堂前でのお勤めが2つのグループで行われています。私達のグループではありません。 13時半には、海岸縁にある八十六番札所「志度寺」へ着きました。 駐車場の道を渡ると志度湾が望めます。 志度寺へ向う道に特徴のある門の彫り物に出会いました。讃岐観音霊場三番「圓通寺」です。 また、途中の自性院には「源内さんの墓」(平賀源内とは関係がないみたい?)などがあります。 お参り、お勤めの後、境内の 「脱衣婆堂」 「海女の墓」 「高浜年尾句碑」(高浜虚子の長男) などを回り、14時15分過ぎには帰路のバスに乗車。淡路SAでお土産を買い求め、17時過ぎには大阪駅へ帰っていました。八十八箇所のページにはこれから作業に入ります。 |
2012年1月10日 昨日は「成人の日」ということで、石川遼、AKB48のお嬢様方の華やかな模様がテレビ放映されました。自分のそのころのことを思い浮かべると華やかさとは程遠い現実であったことを思い出します。現在でももちろん、正反対の人生の若者も多いのではないでしょうか。大震災を体験した地方の方々にはたくさんのそのような若者がおられると思われます。負けるな!!ガンバレ!!!と心の中だけでお祈りしています。 7日、2年ぶりに昔の会社の同じ部の仲間の新年会に参加するため、東京に行ってきました。会場が御徒町、時間が5時半ということで、3時過ぎの東京到着では行くところが限定されます。上野の美術館、博物館を目指して山手線に乗車、3時半に上野駅へ。国立近代美術館では「ゴヤ展」を「国立博物館」では本館で「新年特別展示を含む通常展」、平成館で「北京故宮博物院200選」が開かれていましたが、時間を考え、「通常展」を見学することとしました。この選択は一方では大正解、他方では大失敗となりました。まず、観るべきもの多すぎてとても1時間半程度の短時間では鑑賞することが不可能であったこと、そして、次回には十分な時間を取って見学に訪れることを決意させてもらったことです。 新年会はお年寄り(もちろん自分もそうなのですが)の先輩方の元気さに圧倒されながら、大変楽しい時間を味わいました。翌日は、折角のことでもあり、K.K氏と東京スカイツリーを身近で味わい、13時半の新幹線で戻りました。 「国立博物館」と「東京スカイツリー」の写真集を以下に整理してみました。 1) 国立博物館本館(1932年着工、37年竣工、38年開館) 2) 表慶館(1909年、明治42年、大正天皇の御成婚を祝う目的で開館) 3) 愛染明王坐像(鎌倉時代の作、奈良・山辺の道にあった、既に廃寺となっている「内山永久寺」に伝来した像ということで、大変興味深い展示仏でした。) 4) 弁財天坐像(鎌倉時代の作、とぐろをまいて老人の顔をつける「宇賀神」を頭上にいただく弁才天像。宇賀神は食物の神。宇迦之御魂神として古事記にも登場するということです。) 5) 秋冬山水図の冬景(雪舟、ガラス越しの写真は不鮮明であるため、ウィキベディアから 室町時代 15世紀末〜16世紀初頭) 6) 楼閣山水図(池大雅、やはりウィキベディアから) 7) 火焔土器 (伝新潟県長岡市馬高出土 縄文時代中期 前3000〜2000) 8) 黒楽鶴亀文茶碗(江戸時代、仁阿弥道八作、刻銘は「道八」、作風は仁清、乾山の影響が強いと言われているようです。) 9) 刀 長船元重作(備前国の刀匠。) 10) 雲龍紋八花鏡(中国・唐時代・8世紀、青銅製) 数多い国宝、重要文化財を含む展示品の中のごく一部で、ガラスを透しての撮影であるため、不鮮明なものが多いのが残念です。 地下鉄浅草駅を下車し、「隅田川」に架かる「吾妻橋」のたもとには多くの人が集まっています。スカイツリー・ビューポイントの一つになっているようです。 1) 隅田川を挿んだ向こう岸には昔からアサヒビールの象徴である奇妙な造形物が目立っていましたが、いまひとつ眼を引くものが。 2) スカイツリーを注目すればこのショットとなります。 3) 「吾妻橋」を渡りながら。 4) アサヒビール本社ビルのガラスの壁面に映るスカイツリー。壁面ガラスの色か?金色に輝いています。 5) 源森橋からののスカイツリー。 6)源森橋来歴の碑。 7) 隅田川とつながる運河の橋の上からはツリーがもう間近です。 8) ツリーの上方をアップで撮ると。 9) 橋の照明ランプと対比して。 10) いよいよ真上を見上げる必要が生じました。見上げると目が回るような心持です。(A) (B) 11) 基底部 12) 上層部を見上げます。 帰りは東武線・業平橋駅から乗車しました。 13) 浅草寺仲見世は大変な人波で、なかなか境内に行き着けません。 14) 宝蔵門から本堂を。 15) 宝蔵門内から左手屋台の上には、ここにもスカイツリーの姿が望まれます。 お参りの後、雷門まで戻る気力は二人ともありませんでした。 |
2012年1月6日 平成24年(辰年正確に言えば壬辰、みずのえのたつ、皇紀2672年、明治145年、大正101年、昭和87年)が明けて速くも6日です。3日には、春日大社への初詣に行ってきました。テレビでは恒例の箱根駅伝が進行中で、往路新記録優勝の東洋大学が復路でも独走しており、完全優勝の気配が濃厚となった11時過ぎに家を出発しました。JR大住駅からJR奈良駅へ。三条通りを真直ぐ東に、春日大社へ向います。途中、興福寺境内を通ります。建設中の中金堂の囲いの向こうに南円堂が眺められます。 参道内はこの日も初詣の人で溢れていますが、 少し脇を見れば、鹿たちがゆったりと歩みを進めています。 御本殿をお参りする前に、金運、財運開運をお祈りする金龍神社をお参りし、振舞いのお神酒を頂戴します。 御本殿前はもちろん大変なヒトヒトですが、さすがに明けて3日目ですからそれほどのことはありません。破魔矢を戴き、おみくじを嫁さんと各々で引いて見ます。明けて見れば、共に中吉。平和な年明けとなりそうです。近鉄奈良駅への帰り道で、西国札所でもある南円堂にもお参りし帰路につきました。 明日、7日には昔の会社の仲間特に、新入社員の時から同じ寮で生活し、兄弟のような心持を持っている1年先輩のK.K氏、同じ寮で、上下二段のベッドに暮らした同期のJ.K氏等が待っている東京での新年会に行くことにしています。何としても楽しみで、あり難い事です。 |
2011年12月30日 今年もあと一日となってしましました。3月11日の東北地方巨大地震、巨大津波それに続く、東京電力福島第一原子力発電所の爆発にともなる放射能汚染など、どんな人にとっても、一生に一度も経験したくない事柄が発生しました。関西地方に住む私達は今回は幸いにも直接的な被害はありませんでしたが、いつ何時、紀伊半島沖に巨大地震が発生するかもわかりません。決して他人事で済ますことは出来ません。 また、経済の面をみると、これだけ傷み疲れた日本の円が米ドル、ユーロに対して史上初の高値水準となり、この気配が更に進んでいるのです。信じられないことで、マネーゲームのなせる理不尽さでしょう。メーカーの国内生産は不可能になり、海外への生産拠点移しを非難することが出来ません。 こんな時こそ、政治の力を頼りにしたいのですが、現在の民主党政権は全くその力と理念を失っているようです。力と理念を失っているのは、民主党ばかりではありません。国政に携わる全党の国会議員、国家公務員の幹部達にも同じことがいえます。関西では11月に大阪府、大阪市の同時、首長選挙が行われ、大阪都構想を掲げる橋下氏を中心とする維新の会が圧勝しました。府、市を統合し、小さな大阪府に二重に存在する諸施設、諸機構を整理することで、明らかに経費節減の可能性は増えます。市営地下鉄、市営バスの民営化はJRに見られるように、サービスの向上の可能性が増えます。府で既に実施している公務員の給与の引き下げは外の必要となるものへの原資となる可能性があります。府民、市民の多くはその可能性を”善し”としたのでしょう。橋下新市長はメッセージとして、既得権益への挑戦を誓っています。国政レベルでも真に既得権益への挑戦をしてくれる人の誕生を期待したいものです。既に死文化したマニフェストを護るとの言い分で新党を作り、政党助成金をせしめようとする国会議員がいることには本当にあきれてしまいます。まだまだ、書きたいことは多いのですが、「来年は良き年に。」という虚しい挨拶で、締めくくります。 |
2011年12月23日 昼のニュースでは、天皇陛下の天皇誕生日での一般参賀の光景が放映されていました。先日入院されていたようですが、お元気なお姿を拝見するのは嬉しいものです。昨日は、年賀状を仕上げ投函し、今日は「三島・今城塚古墳の旅」を完成しアップしました。今年もあと一週間です。25日はクリスマス、31日の大晦日は娘夫婦と美緒ちゃん、仕事の関係で残る息子での年越しとなります。息子の嫁さんと梨央ちゃんは鳥取のジジババの許でのお正月が決まっています。 |
2011年12月15日 今年もあと半月です。「寧楽の中心を散策します」をアップしました。気楽に仕上げようと思ってはいたのですが、結構力が入ってしまい、時間が掛かってしまいました。この後、「三島・今城塚古墳の旅」、「和歌と寧楽の旅の写真のコラボ」、年賀状を作らねばなりません。 |
2011年12月12日 10日、土曜日、嫁さんのお供で、11日まで開催されていた「中之島コレクションズ」の絵画類をを鑑賞してきました。これは、建設計画が進んでいた「大阪市立近代美術館」の収蔵品と会場である「国立国際美術館」の収蔵品の一部を公開していたものです。近代美術館の展示品の中では目玉の絵画はアメデオ・モディリアーニの「髪をほどいた横たわる裸婦」ですが、ダリの「幽霊と幻影」にも面白さを感じました。また、佐伯祐三(1898〜1928年)の何点かの作品には大変感動しました。「郵便配達夫」の、眼の強烈な印象、「街角の広告」の、見るものがその絵の中に存在しているような錯覚を覚える印象に大いなる感動を覚えたということです。今回の市長選で橋下徹氏が当選したことにより、その建設に赤信号が灯ったことは大変皮肉な現象です。ところで、入場料は嫁さんは420円、65歳以上の私は無料でした??? JR北新地駅から国立美術館へ向かう地下街に「インディアンカレー」というお店(現在は大阪を中心に10店舗)があります。以前から食したいと考えていましたので良い機会となりました。最初の一口は大変甘さが印象でした、ところが、その後に独特な辛さが口の中を駆けずり回ります。付いてくるキャベツのピクルスとともに、大変印象に残るカレーをの味を体感させていただきました。 絵画鑑賞の後は、秋真っ盛りの「なには筋」を南に、「靭公園(うつぼこうえん)」は秋一色です。途中、今は無くなってしまっている橋についての石碑、 「道頓堀川」を渡り、結局、環状線芦原橋まで歩くことになりました。結構、疲れました!!! 夜は、11月に誕生日を迎えた嫁さんと娘の誕生会のためとしょうするマゴッチ二人を含む8人での飲み会。ついつい、飲みすぎてしまいました。反省!!!!! 「寧楽散策の旅」、「三島・今城塚古墳の旅」は楽しみながら作っています。 |
2011年12月4日 昨日、3日午後、「京田辺ふるさと講座」今回の最終回にあたる、高槻市「今城塚古墳」、「今城塚古代歴史館」を訪ねる旅に参加してきました。参加者は33名ということでしたが、京田辺市の小型バス2台で片道1時間の道を往復してくれました。市のバスに乗せてもらうのは、初めての経験でしたので、正直驚きました。 古墳、歴史館での丁寧な説明で、「今城塚古墳」が多くの5〜6世紀の三島地域(摂津北部)の古墳の一つであり、古事記の「御陵は三島の藍(あゐ)の御陵なり」と記載されている御陵の可能性が高いとのことが、実感されました。(現在継体天皇の御陵とされている「太田茶臼山古墳」は築造が5世紀中葉と考えられており、6世紀始めに没した継体天皇の御陵とは考えにくい)そして、この時期の三島地域の重要性を始めて知ることが出来ました。 古墳の整備、特に、古代を復元した埴輪祭祀場と多くの埴輪には本当に感銘を受けました。そして、古代歴史館の内容豊かな展示品にも更なる感銘を受けました。別ページを作りたくなりました。「寧楽散策の旅」、「三島・今城塚古墳の旅」をともに、楽しみながら作って行きたいと思います。 |
2011年11月25日 23日、24日の高校時代からの友人達による、奈良旅行が終わりました。案内の大役を、おおせつかっているものにとっては今日はホッとするひとときとなっています。東京からはご夫婦で、松本から2人が来てくれ、関西に在住している2人を合わせて、6人のでの旅となりました。最近この旅は、春は信州、秋は紅葉の京都へとなっており、この春は「塩田平への旅・別所温泉・柏屋別荘」、 昨年の秋は「比叡山への旅・エクシブ京都八瀬離宮」を 楽しみました。今回は、始めて、奈良を散策することなり、関西在住の友人が(毎回この友人が泊まり処の世話をしてくれています。)三笠山中腹、奈良奥山ドライブウェイの途中にある「奈良 万葉若草の宿 三笠」を手配してくれました。奈良盆地が一望に見渡すことが出来る眺望は素晴らしく、お料理も、お風呂も十二分に満足させられるお宿であったことは確かです。 夕方6時半食事処からの夜景。 翌朝のロビーからの眺望。 23日は、興福寺で「阿修羅像」に見惚れ、春日大社では本殿間近での参拝、東大寺ミュージアムでは巨大な「不空羂索観音」を拝観。24日は「秋篠寺」、「大極殿」、「法華寺」を回り、昼食として新大宮駅近くの「そば切り 川名」で恒例、お酒つきの美味しい10割のお蕎麦を戴き、来春の行く先をチョトだけ打ち合わせをした後、近鉄新大宮駅前にて散会しました。楽しい旅でした。詳細は、別ページで近々に!!! |
2011年11月11日 (今日は111111の日です。) 二人のマゴッチの七五三は無事に済ませることが出来ました。 6日の日曜日は雨の予報が出ており、朝から今にも降り出しそうで心配です。初めて振袖晴れ着を着ることになる美緒ちゃんは、9時過ぎに我が家に到着し、お祖母ちゃんに着付けてもらうことになりました。「馬子にも衣装」ということが正しいのですが、「孫にも衣装」と言いたくなるのはジジ馬鹿のなせる業です。娘の嫁ぎ先の曾祖母に晴れ着姿をを見せる為、養老院に寄り、水度神社(みとじんじゃ)へ到着する頃になると、更にお天気が心配。七五三の祝詞を聞いている間、雨が本降りになりかけたのですが、お参りが終わり、記念写真を撮る段階になると、幸いなことに、止んでしまい、無事に神社でのセレモニーを終えることができました。祝いの膳は、城陽市の天麩羅屋さん「天ぷらすぺいす きら」で、美味しい天ぷらとお酒を頂戴しました。 8日は、2歳と3ヶ月のマゴッチ梨央ちゃんです。鳥取から「鳥取のじいちゃん、ばあちゃん」が、晴れ着を持参して来てくれましたが、着てくれるまでが大騒ぎ。さらに、伏見の「御香宮」での七五三のお参りの後は、神社の境内を晴れ着姿で駆け回ることとなりました。祝いの膳は、お宮参りの時と同じく、お豆腐料理の「梅の花」の雰囲気の良さと、お料理、お酒を楽しみました。七五三とは本人ではなく、両親とジジババのためのものなのですよね!!! 昨日、記念写真をフォトスタンドなどに整理して両家に手渡せるよう準備が整いました。ホッとしています。 |
2011年11月3日 速くも師走の前月、霜月です。今日3日は、嫁さんの誕生日、6日は美緒ちゃんの七五三、8日は梨央ちゃんの七五三と「ハレの日」が続きます。そんなことで、1日には嫁さんの希望で、京都市美術館で開催中の「ワシントン・ナショナルギャラリー展」を鑑賞してきました。今回の展示絵画は19世紀後半の印象派を中心とした構成で、マネ、モネ、ルノアール、ドガ、セザンヌが中心となっていますが、メアリー・カサットの「浴女」、「入浴」などの浮世絵を模した版画、ゴーギャン、ゴッホなどの作品も展示され、十分に見ごたえのあるものであったことは確かです。展示品の一部を購入した絵葉書のコピーで紹介します。 1) クロード・モネ (日傘の女性、モネ夫人と息子)1875年 2) クロード・モネ (太鼓橋)1899年 3) ルノアール (ポン・ヌフ、パリ)1872年 4) ルノアール (踊り子)1874年 5)ポール・セザンヌ (河辺)1895年頃 6) メアルー・カサット (青い肘掛け椅子の少女)1878年 展示会鑑賞の後は、南禅寺方面に歩き、「八つ橋庵・しゃなり」で、旬の野菜を中心とした、しゃなり流創作ランチ「しゃなり膳」と 「しゃなりカレー」 (賀茂なすが大変美味しかった)を各々が食し、南禅寺前から「もみじの永観堂」 へ、「哲学の道」を歩き、「霊鑑寺」、「安楽寺」 そして 「法然院」 を訪れてみました。門内に入ります。「法然院」では、丁度、秋の特別公開中でしたが、今回は本堂前で「南無阿弥陀仏」の称名のお参りだけにしました。もちろん、梶田真章管主の新聞掲載文コピーはキチンと頂戴しました。どのお寺も、紅葉の見ごろには少し早いようで、今月中旬から末頃の見ごろとなるのでしょうか? その後は、「銀閣寺」前まで歩き、市バスで京都駅まで。気温が、25度以上の夏日となったため、汗かきの一日とはなりました。 |
2011年10月26日 10月22日の中学の同級会で、今月3回の、郷里松本への旅が終わりました。ホッとしています。今年は先生を含めて、15名の出席となりましたが、出来ればもう少し多くの顔が見たかった。幹事さんの「更に参加者を多くしたいと頑張ってみたが」、とのお話しを聞くにつけ、その考えの甘さに自分を叱り付ける必要を感じます。幹事さん方のご努力に対して大変申し訳ないことです。感謝の心持だけで十分のはずです。 11月は孫の美緒ちゃんが来年4月に小学校への入学ということで、7歳の七五三。梨央ちゃんは2歳と3ヶ月ということで、3歳の七五三です。何かと物入りは続きます。 |
2011年10月20日 15日、16日、土日のお天気を心配していました。5時45分家を出た時は、幸いにして雨は落ちれおらず、京都駅まで直行のバスに乗る事が出来ました。法要は11時から予定されていましたので、名古屋8時発の「しなの3号」に乗車し、10時過ぎの松本着を見込んでいましたが、途中、中津川ー木曽福島間で、豪雨の為の列車遅延が発生し、松本着が35分遅れてしまいました。それでもお寺には11時前に着き、無事に法要を済ませることが出来ました。良かった!!! 翌日16日は、朝から好天気に恵まれました。私の実家への道すがら、折角の好天気ということで、嫁さんと「松本城」へ登ることとしました。北アルプスの景観がビックリするほど良く、「常念岳」の横に、「槍ヶ岳」の頂上が覗いていました。また、お城の入場券にセットされている「私立博物館」で、「松本ぼんぼん」「青山様」などの想いで深い展示物を見学しました。実家でご先祖様のお参りのあと、兄貴が安曇野の「満願寺」とお蕎麦の「天満沢」へ連れて行ってくれました。これらの写真集を別ページにしました。 |
2011年10月12日 8日、9日は「高校卒業50周年記念式」とその懇親会参加のため、松本へ行ってきました。今年は、正月から美ヶ原登山をはじめ、多くのイベントが幹事諸兄の御尽力に寄り実施されてきています。その中で、名古屋で行われた「関西同期会」と今回の記念式には参加することができました。8月の「極楽とんぼゴルフ会」もそのつもりでの参加でした。 3日連休の初日に当たると考え9月15日には名古屋8時発の「あずさ号」指定券を申し込んだところ、普通車席には空席が無く、グリーン車席を購入する羽目になりました。やむを得ません。こんな時ですから、それなりの写真を撮ってみました。 11時からの「同窓会館」での記念式典(参加者八十数名)は、来賓としての先生方と現在の学校長のご挨拶後、「卒業50年史」のスライドが上映され、その歴史を振り返るとともに、物故された友人達、五十数名の一人ひとりの当時の顔を思い出させてくれました。 昼食は、松本では憧れの店であった「レストラン澤田」のお弁当を、なるほどと肯きながら、美味しく戴きました。もちろん「ローストビーフ」が入っていました。 1時半からは記念講演として、帯刀益夫氏(加齢学)の「いかに老いるべきか」を拝聴し、3時半過ぎに、懇親会会場の白骨温泉「白船グランドホテル」に向かいました。5時半過ぎにはホテルに到着、もちろん温泉へ入浴後、6時半からの懇親会に参加することとなりました。懐かしい顔、顔との歓談は、恒例の応援歌、校歌の合唱による一次会から二次会会場まで持ち越されます。 翌日は、幸いにも、乗鞍高原散策のメンパーに加えていただき、「三本滝」、乗鞍岳が投影される「牛留池」などを訪ね、お蕎麦屋の「合掌(がっしょう)」で、ホント美味しいお蕎麦を戴き、松本駅へは3時半過ぎには着くことが出来ました。 全てを計画し、実施してくれた幹事諸兄姉には、心から感謝!!感謝!!!感謝!!!!!です。 「乗鞍高原の風景を楽しむ」の写真集をアップしました。 |
2011年10月3日 今年も、10月に入りました。前回の更新からあっという間に10日が経っています。1日(土曜日)夕方5時から飲み会の約束があり、家から歩いて新田辺駅まで行くこととしました。途中、木津川の土手を歩きます。土手道は、京都嵐山から木津まで続いており、全長は25キロあります。一度は歩いてみたい。この時期、奈良の街道を散策し、何枚かの写真を撮ってきた「曼珠沙華」(「彼岸花」)が、木津川土手や田圃の畦道に咲き誇っています。この花は見るものにとって「曼荼羅」(「曼陀羅」)を連想したくなる何はを持っているように思われます。半村良の「邪神世界」の中に以下の一説がありあます。 ・・・・「曼陀羅よ。知っているでしょう」 「曼陀羅か。何かで読んだ憶えはあるが、仏教の何かだということのほかは忘れてしまったな」 「サンスクリットやバーリ語にマンダラという言葉がある。それが中国経由で入って来たのさ」 山岡は悠然とジンのグラスを手にして言った。 「マンダは物ごとの本質という意味で、ラはその所有格といったところかな。そう憶えておかば間違いは無い。曼陀羅は、宇宙の真実の姿を一定の哲学に表現して見せたものだ。古代インドでは呪術を行うとき、大地にある境界線を作り、その中を浄めて神々を呼び寄せたという。のちに密教がそれをとり入れて独自の世界を作りあげたが、仏陀が悟った境地を絵にして見せたこういうものも、曼陀羅と呼んでいる。ジャワのボロブドゥルの遺跡は、立体的な曼陀羅だと言われているよ」・・・・ 10月の土日 8,9日 15,16日 22,23日 は故郷、松本へ行くことになっています。なにかと忙しさを感じさせられます。 |
2011年9月22日 台風15号は今朝は既に北海道へ達しています。昨日の朝、台風の目は確か、三重県の南東沖にあり、14時頃に浜松市付近に上陸しました。その後は関東平野を縦断し、震災の被害が大きかった東北地域太平洋側を北上していたはずです。速い!!! 名古屋、東京地区では、豪雨と強風で意外と思われるほどの被害が発生しています。関西では台風12号による豪雨で大変な被害が出ている紀伊半島に更なる追い討ちを受けることが特に心配されましたたが、現在のところ、それほどのことは無いようでホッとしています。 我が家には、警報発令でお休みとなった保育園児、美緒ちゃん(6歳)と梨央ちゃん(2歳)が朝から来訪、それこそ、台風襲来のような大騒ぎの一日となりました。今朝はその疲れが残っている感じです。 先日から、梅原猛氏の「古代幻視」を読み返しています。その中の、「人麿・人生とその歌」をゆっくりと読んで、整理したくなりました。この論文自体、昭和48年(1973年)発刊された「水底の歌」をフォローする内容といえます。 万葉集の中に、「人麻呂歌集」とされる歌が多数ありますが、それらを人麻呂の歌とし、「略体歌」と「非略体歌」に別け、元々漢文の素養があった人麻呂が万葉仮名の進歩にも参画していたのではないか、と考えていること。高市皇子(たけちのみこ)(天武天皇の長子)の持統天皇にとってあまりにも都合の良い時期での急死、についての疑問など、面白さは抜群です。 略体歌とは (人麿歌集) 春楊 葛山 發雲 立座 妹念 春楊(はるやなぎ) 葛城山に たつ雲の 立ちても坐(ゐ)ても 妹をしそ思ふ (十一 2453) のように助詞や助動詞や動詞の語尾を万葉仮名で表記しない漢詩に似た歌。 非略体歌とは (人麿歌集) 垂乳根乃 母之手放 如是許 無為便事者 未為國 たらちねの 母が手放れ 斯くばかり 為方(すべ)なきことは いまだ為(せ)なくに (十一 2368) のように助詞や助動詞や動詞の語尾を万葉仮名で表記した歌 (人麿作歌) 鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 感(女偏が付く)嬬等之 珠裳乃須十二 四寶三都良武香 鳴呼見(あみ)の浦に 船乗りすらむ をとめらが 珠裳の裾に 潮満つらむか (一40)・・・・ 「人麿歌集」の略体歌から非略体歌への推移を天武9年(680)におき、非略体歌から作歌への推移を持統3年(689)におけば、いかにして書き言葉として日本語が作られたかが分かる。・・・・ ・・・人麿の高市皇子に寄する挽歌(「万葉集」巻二・199)は、人麿の長歌のうちでも最も長く、歌の調子が異常に激烈である。人麿は余程高市皇子の死にショックを覚えたのであろう。・・・・彼は草壁皇子の挽歌を作って持統天皇の即位を祝したが、彼の頭にあるのは、やがて持統天皇が高市皇子に天皇の位を譲るという構想であったであろう。その高市皇子が突然死んだ。人麿の歌には死の原因は書かれていないが、この死が誠に突然であったことは歌の調子からも明らかである。・・・・・ この長歌は別ページで。 |
2011年9月16日 雨が降っています。明日は孫の梨央ちゃんの保育園での運動会が予定されていますが、残念ながら、明朝まで雨が残ることが心配されます。「こんぴらさん}の旅をアップしました。 |
2011年9月13日 ジジ連5人組の「金刀比羅宮さん参りの旅」から、昨日午後5時30分に帰りました。幹事のSさんのご好意で、家の前まで送っていただきました。感謝!!感謝!!!です。早速、楽しかった旅の思い出を、ページにまとめます。 |
2011年9月7日 台風12号は、紀伊半島地域に膨大な雨水をもたらし、地域に甚大な被害を与えました。あまりにもゆっくりとした速度で通過する台風の南からの風による雨は、上北山村には3日間で1800ミリもの雨を降らしたわけです。1800ミリといえば、私達の背丈よりも高い雨量ということになり、それが一面に降るということになると、想像することが出来ません。自然の驚異は地震、津波ばかりではなく、もちろん台風の脅威も忘れるなよとの警告なのでしょうか?被災された方々にはお悔やみの言葉しかありません。昨日、今日は雨がやみ、好天気となっていますが、今もなお孤立状態の地域が多数あります。昨年7月、「西国三十三ヶ所巡りの旅」の第一番札所「青岸渡寺」をバスツアーで訪れた折は、それまでと違い(1回目は嫁さんとJRで、2回目は仲間の車で海岸線を)、「熊野古道」の中辺路から熊野川をくだり、新宮、そして那智大社への道をたどりました。(作者近況 2010年7月15日の欄) その時の熊野川はジェットラインの舟が行き交う穏やかさを持っていましたが、下流になると水量豊かな大河の趣を持っていました。今回の大雨による「熊野古道」、「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の被害は心配ですが、那智勝浦町をはじめとする地域の人命、家屋、インフラの甚大な被害状況はさらに心配です。「一日でも速い復旧を」といった月並みの言葉しかありません。私達が住む南山城地区は真中に奈良県の山地を水源とする木津川が流れており、水位上昇により、通称「木津の流れ橋」の橋げたが流れる程度の被害であったのは、この地区にとっては、幸いなことでした。一時の雨の降り方から、木津川が氾濫するのではとの心配が。 こんな時ですが、私事では、2日には息子夫婦と津田にある「ステーキカッポー恒づね」のランチ「特選ステーキセット」を賞味してきました。食後のデザートと飲み物はカフェに移り、ゆっくりと会話も楽しめ、雰囲気、前菜、メインのお肉の味ともに久しぶりに十分に満足させていただきました。4日、家でのマゴッチ2人を含めた3家族による食事材料の買出しの折、娘に話したところ、「一度、行きたかった店なのよ!!!」と恨まれる始末。 この11日、12日は恒例のジジ連5人組による旅、「四国・金刀比羅宮さん」へ。気の置けない5人のジジ連旅はホント楽しいものになるでしょう!!! 「ローマ字の物語」再読整理として、「ハンニバル戦記」をまとめてみました。 |
2011年8月30日 昨日は、朝からテレビの前に陣取り、民主党の代表選挙の一部始終を見ることが出来ました。最終的には野田氏が選ばれたことには、少しだけホットしています。自民、公明との三党合意を白紙にする事もあるという、決選投票の相手であった海江田氏となった場合の国会運営がどのようになるのかが、まったく読めないからです。 先ほどの国会中継で、野田佳彦氏が総理大臣に決定しました。この過程で、この歳で始めての事柄に気がつきました。これまでこのような国会中継を見たことが無かったからですが、総理大臣指名選挙は衆議院、参議院ともに行うこと。もし違う結果が出た場合は、両院協議会で決定する、もちろん、衆議院の議決が優先されるのですが、ということなのです。 衆議院での結果は今の各政党の議員数から、野田氏がもちろん総理大臣に指名されました。一方、与野党の議員数が拮抗する参議院では、1回目の選挙では、過半数を超える投票数を得た人が居らず、決選投票となりました。もちろん、野田氏と谷垣氏です。この決選投票では投票数が多い人が指名されることとなっているようですが、この結果で、谷垣氏が指名された場合には両院協議会が行われることとなっているようです。野党の議員が全員、谷垣氏に投票した場合には、衆議院、参議院が違う総理大臣を選ぶことになります。どうなるのかな?と興味深く結果を見ていたところ、野田氏が110票で一回目と同じ票数、谷垣氏が107票で、公明などの票が上積みされ、僅差となっていましたが、他の野党の議員が白票で投票したことで、参議院でも野田氏の総理大臣指名がなされてことになります。 民主党の代表選挙、今日の首班指名選挙をつぶさに見ての感想ですが、民主主義とはなんと無駄の多いシステムなのかと、改めて、感じ入った次第です。 震災、原発問題解決には強力な指導者による陣頭指揮が必要なことはもちろんのことで、マスコミを始めとして、各方面から指摘されていますが、現在の日本の情勢では、まったくの絵空事と言って良いのではないでしょうか。日本人全体がこれらを問題だと認識するのは、何時になるのでしょうか? 「ローマ人の物語」の読み返しは、「ハンニバル戦争」に勝利したローマが地中海を内海とするまでに拡大する「勝者の混迷」まで進みました。今一度読後感を整理したいと思っていますが、読み返しながら感ずることは、地名の認識が進み、地名が出た場合、読みながら頭に地図が浮かんでくれることです。再読はいよいよ、「ユリウス・カエサルルビコン以前」に入ってきます。 |
2011年8月19日 18日、ホント久しぶりの「極楽とんぼゴルフ会」参加を果たしました。松本で引き続き面倒な幹事役を引き受けてくれている諸氏に感謝!!感謝です。多少の練習はしたのですが、今年始めてのコース挑戦です。そして、松本カントリークラブは決して優しいコースではないことは、過去3回ほどの経験で知っているつもりです。17日の「出陣式」は酒量を控えめにして、体調を整え翌日に備えるはずでしたが、18名参加の「出陣式」、そしてそれにつづく2次会の酒量は決して控えめにしたとは思えない量になってしまいました。しかも、夏なのに熱燗のお酒が美味しいのです。 翌朝、5時には起床して、風呂へはいり、アルコールを極力抜く手段をとりました。「ホテル花月」は大浴場があるホテルで、こんな時は大変助かります。それでも頭のクラクラは取れませんでしたが。 本番のゴルフは、(実力もそんなものですが)INスタートのロングホールで「ダブルパー」に近い、9打でのスタートとなり、どうなることになるかと心配したのですが、その後は、持ち直し、160ヤード近いショートホールでニアピンを取得するなどあり、53、56打であがることが出来ました。上出来といっても過言ではありません。パートナーにはそれほどのご迷惑をお掛けしなかったとは思っているのですが?真夏ですが、松本の高地でしたので、暑さも我慢できないほどではなく、大変楽しいラウンドをすることができました。ホント感謝!!!感謝!!!!!です。 17日夕方、例によって市内散策を試み、 「松本城」、 「四柱神社」、 「由緒書」、 「縄手通り」 の写真を撮ってきました。 |
2011年8月15日 66回目になる終戦記念日の今日、朝から時ならぬ夕立(朝なのに夕立で良いのだろうか?俄か雨かな?)。ともあれ、炎天が少しは収まるりそうで、大変嬉しいお湿りです。このページの更新が10日ぶりとなってしまいました。節電の昨今、クーラーをつけての昼間のパソコン入力を遠慮している為、昼はもっぱら扇風機を回しながらの読書時間としています。「ローマ人の物語 ハンニバル戦記 上、中、下巻」を読み返し、中西進氏の「中西進と歩く 万葉の大和路」をジックリと読み返しました。「第三章 寧楽を歩く 平城宮跡に立ち、古都の情景に思いをはせる」の中では、「佐保過ぎて 寧楽の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとそ (さほすぎて ならのたむけに おくぬさは いもをめかれず あひみしめとそ)(三 三〇〇)」という、長屋王の歌を代表させています。寧楽に都が置かれた時代、都城の北一帯は「松林苑」という緑が生い茂る庭園が営まれていたといわれています。その中を奈良から京都へ抜ける道「歌姫越」が通っています。その峠の位置に「歌姫神社」(正しくは「添御縣坐神社 そうのみあがたにいますじんじゃ」)があり、その境内にこの歌の歌碑があります。「峠の神に幣を手向けて、長旅をさせないで早く帰って妻に遭えるようにいのる」といった意味のようですが、この歌碑については「万葉の旅」の初めの頃にアップしました。2003年のことです。 この「万葉の旅」の原点といっても良い場所についての一節ですので、考えもひとしおです。長屋王については、王の屋敷跡から「長屋親王」と表記された板版が発見されたことから、王のその時代の地位の高さ、それゆえの王一家の悲劇が藤原氏によって誘発されたことが指摘されています。長屋王は天武天皇の孫、母は天智天皇の皇女、妻は草壁皇子と元明天皇の次女の吉備内親王でその王子達は文武天皇、聖武天皇の即位を願う藤原氏にとっては最大の障害となっていたようです。 今週の18日は、松本カントリークラブでの「極楽とんぼゴルフ会」。その前夜はその「前夜祭」(「出陣式」?)。久しぶりのゴルフで、パートナーに迷惑を掛けるのではないかと心配ですが、楽しみです!!!!! |
2011年8月5日 「天皇と海女」日本とは何か の下巻を読み終えました。終わりに近い第21章 記紀神話と「天皇」 で以下のように記しています。 この「日本とは何か」という一連の論考は、ある意味で失敗であった。私は最初の構想を大幅に改めざるを得なくなってしまった。 最初、私は”天皇”というものを象徴的権威として、藤原氏が権力を握る、この日本という特殊な国家の成立とその発展を描こうとしたのである。ところが、象徴天皇制を解く鍵となる「女帝論」を進めていくうちに、私は意外な事実にぶつかった。それが、「宮子=海人の娘」説であり、その「宮子=海人の娘」説によって前々から疑問であった、あの聖武帝の異常な行動が理解できた。また、孝謙=称徳天皇の「姓(かばね)」制否定の動きも、道鏡を天皇位に就けるという意味も、「宮子=海人の娘」説を考えることによって、その謎は解けるのである。 しかしこのことは、私が論文を書き始める時には予想だにしなかったことである。私は、天皇家と藤原氏を探ることで日本の「象徴天皇制」の成立を明らかにするつもりであった。そのプロセスこそが、日本の奈良時代から平安時代にかけての歴史であると思っていた。ところが、「宮子=海人の娘」説が出現して以来、私は最初組立てた原案は狂ってしまった。そして思いがけなく登場した「宮子=海人の娘」説を執拗に追究せざるをえなくなった。・・・・・ 最終23章の最後にまとめとして、以下のように記されています。 私は「摂関制」も「院政」も、その根は既に日本の「律令」に在ったと思う。日本の律令は中国の律令と違い、予め”天皇”の権力は省かれていた。この「律令」の一つのイデオロギーとして作られた記紀神話には、そのことがよく表されている。”日本”の真の支配者は皇孫・ニニギではなく、その父方の祖母アマテラスと、母方の祖父・タカミムスビなのである。これを実際の天皇に当てはめてみると、ニニギは聖武天権力を皇、アマテラスは元明天皇、タカミムスビは不比等ということになる。 私は記紀神話は、聖武天皇の即位を実現するという意図によって、最後に不比等が改作したとみるが、平安朝以降の政治も、この記紀神話に沿って展開されるのである。つまり、天皇の母方の父あるいは祖父あるいは叔父がとるか、父方の父、あるいは祖父が権力をとるかの違いである。 女帝に懲りて、「天皇親政」を目指して開始された桓武天皇の政治は、しかし”女帝”に代わって”幼帝”と言う存在を生み、女帝の時代と大して変わらぬ状況となってしまった。そしてこの幼帝は、同じように院政の時代もつづいたのである。天皇が完全な成年男子となる時代は、もう権力が皇族や公卿にもなく、武士の時代を迎えてからのことである。 こうしてみると不比等が作った「律令」の影響は、実に深く、実に長く続いている。源氏は結局、中央ではその勢力を伸ばすことができず、地方に下り、地方の郡司クラスの豪族たちと結びついて経済的基盤を固める。その存在が、「武士」という新しい階級となるのである。そして、時代は「中世」へと移行する。日本の「中世」という時代もまた、日本の「律令」の特殊性の中からうまれた、と言ってよいかもしれない。 この日本の「律令」というものは不比等が作った”法”である。彼は”法”というものの持っている”魔力”を誰よりも知っていたようである。この魔力は現在まで続いていて、今なお、日本は象徴天皇制の国なのである。 |
2011年8月3日 塩野七生さんの書物による「イタリアの歴史」に関する散歩をひとまずお休みし、梅原猛氏の「海人と天皇」日本とは何か による日本史の散歩に入っています。大変大作の為、前巻を読み終え、下巻の中頃まで読み進んでいます。ここいらで前巻を要旨を整理しておきたくなりました。 日本では7世紀から9世紀にかけて8代、6人の「女帝」(女性天皇)が即位します。推古天皇(欽明天皇と蘇我稲目の娘、堅塩媛の皇女で、敏達天皇の皇后)は蘇我氏に推されて歴史上では始めての女帝となり、聖徳太子の摂政としての事跡のゆえに、記憶に残っています。崇峻5年(592)12月のことで、翌年、聖徳太子が皇太子となります。 推古天皇の後に舒明天皇が即位し、その皇后であった宝皇女が皇極天皇(642年、645ねんには重祖して斉明天皇となります。)として即位します。彼女は中大兄皇子(天智天皇)の母であり、皇子と中臣鎌足による「大化の改新」の折の天皇で、やはり、歴史上に鮮明に記憶されています。 天智天皇から皇統は以下に様になります。弘文天皇、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇の重祖)のうちで、なんと、持統帝、元明帝、元正帝、孝謙帝(称徳帝)が女帝なのです。特に、持統帝以後は、藤原不比等の大宝律令、養老律令への工作(太政官制度、太上天皇、衣服令など)により女帝が生まれやすくなったこと、おのれの血を引く孫が天皇となるための時間稼ぎ、藤原氏の思惑などがその原因となります。 天武天皇と持統天皇の皇子「草壁皇子」、その皇后「元明天皇」、その皇子「文武天皇」、その姉妹の「元正天皇」、「文武天皇」と「藤原宮子」の皇子「聖武天皇」、「聖武天皇」と「光明皇后」との皇女「孝謙天皇」とこの時代の皇統は一つ一つが長編小説となるであろう程の奇々怪々の連続となります。 この中で、文武天皇の妃となって聖武天皇を産んだ「藤原宮子」が正史上では「藤原不比等」と「賀茂比売」とされていますが、紀州「道成寺」に残る遺文「道成寺縁起絵巻」などから、髪が長い美人であった漁師の娘の海女、もしくは海女の娘が「藤原不比等」の養女となり、「文武天皇」の妃となり「聖武天皇」を産んだのではないか?そして、さらに、やはり「不比等」と「県犬養橘三千代」の娘・光明子が「聖武天皇」の皇后となり「光明皇后」となったことで、その後の更なる疑念が生じてきているのではないか?との梅原氏の解明が進みます。 聖武天皇による都放浪の旅、東大寺、大仏の建立、藤原浩嗣の乱、藤原仲麻呂の乱、孝謙帝時代の「道鏡」への皇位譲渡事件などの遠因は「宮子」が海女という地下娘であったこと、そのことを聖武天皇が知っていたこと、さらに孝謙女帝さえもがそのことを知っていたことではないかとしているのです。大変興味深い仮説の連続で、十分に納得できる説明になっています。 称徳天皇(孝謙天皇)の後、帝位は天智天皇の孫(父は施基皇子)の白壁王(光仁天皇)となり、天武天皇の系統が途切れます。そして、光仁天皇と高野新笠(百済系氏族の娘、従って皇后にはなれず、側妾)の皇子が平安遷都を実現した「桓武天皇」となります。 下巻を読み終わった後は、また「イタリアの歴史」の旅へ移る予定です。 |
2011年8月2日 琵琶湖畔への旅は楽しい中にも、大人たちにとっては大変疲れる旅となったようです。その分、子供達にとっては良き思い出となったでしょう?土曜日は、泳ぎだして30分ほどで、いわゆる「比良八荒」と言われるような風が吹き出し、もちろん雨も横殴りとなり、ロッジに引き上げざるを得なくなりました。その分、翌日は朝から泳ぎだし、なかなか、水からあがろうとしない有様でした。 海水浴の場所は、「新海浜」と言うところで、一時の嵐の後は、ウィンドサーフィンを楽しむ人たちが見受けられました。 いよいよ、節電の8月となりました。このところの暑さは一休みの様相ですが、これが続くわけはありません。また、猛暑がぶり返してくるでしょう。体調には十分に気をつけなくてはなりません。お互いに!!!!! |
2011年7月26日 週末の土、日は、大人数で琵琶湖畔(彦根市)へ行くことになっています。城陽に住む娘夫婦か企画してくれたもので、娘夫婦の御父母、義兄の娘、娘夫婦と美緒ちゃん、息子の嫁と梨央ちゃん、我々夫婦の10人になります。息子は仕事の関係で残念ながら欠席です。孫達に水遊ぶをさせてやることが主目的とはなっていますが、男三人でゆっくりとお酒を飲み交わすことも外すことは出来ません。楽しみです。こんなことで、「宮島・錦帯橋・萩・青海島・秋吉台・秋芳洞の旅」をまとめました。「秋芳洞」の強い印象を写真上で表現できたかどうかが心配です。 |
2011年7月21日 一昨日、巨大台風が関西を直撃か?との報道。風雨も強く、その心配がありましたが、昨日は起きてみると、雨風ともにスッカリ収まっていました。でも、暴風警報は発令中とのことで、城陽に住む孫の美緒ちゃんは保育園が登園停止で、我が家へ。一日中、嫁さんと三人でのお付き合い。なかなか「宮島・萩・錦帯橋 2日間の旅」の進みません。 |
2011年7月13日 7月10日、11日は阪急トラピックス「生うに・あわび・まぐろを食す!!宮島・萩・錦帯橋 2日間」の旅に参加してきました。出発を待っていたかのように梅雨明けした天候に恵まれ、様々な景観、この旅のウリである食事についても十分に満足する旅となりました。またまた、写真による旅の紹介を作り始めます。 |
2011年7月1日 久しぶりの雨で、身も心も一段落しています。庭の木々も生き返った様子です。今日の最高気温は30度ほどとのことで、ひと安心です。この数日は6月とは思えない暑さで、6月としての観測史上初という記事もちらはら。原発事故による節電が呼びかけられている昨今は、なお更にこの暑さがこたえていました。さらに、昨日の朝、生まれ故郷である松本で震度5強の地震。早速、国の兄貴に電話したところ、全体に大きな被害はないものの、地震一波の”ズン”とした揺れには驚いたとのこと。小生の経験では、松本周辺には大きな地震は無かったと記憶していますが、最近、「牛伏寺(ごふくじ)断層」(松本平の東に北から南に通る断層)に危険が心配されるとの報道に接したばかりです。東北地方を中心にして、日本列島全体が巨大な地震と津波を起こした地下の変動の影響下にあることが想像されます。心配はまだまだ続くと思われてなりません。 26日の「神戸の休日」をアップしました。 |
2011年6月28日 6月26日は、「ジジ連」のジジ5人で、「読売旅行・枚方営業所・六甲山の紫陽花と空と海、神戸の休日」に参加してきました。もちろん、S幹事のご手配の賜物です。「神戸市立森林植物園」で満開の”紫陽花”を鑑賞、「神戸タワーホテル」のランチバイキングで満腹感を味わい、「神戸港での港内遊覧」で新造中の巨大貨物船、点検修理中の潜水艦を見学、「新神戸ロープウェー」で六甲山を登り、「神戸布引ハーブ園」の花々を鑑賞しながら降るという、大変盛り沢山で楽しいメニューを満喫することが出来ました。帰りの高速道路がスムースで、住道の下車地点へは5時40分頃の到着、時間が早いと言うことで、定番のカラオケ、2時間コースで、最後まで盛り上がった一日でした。皆さんに感謝!!感謝!!!折角ですから、写真中心のページを作る事としました。 |
2011年6月22日 梅雨空が続いています。一昨日、メールをチェックしていた時、「8月18日・極楽とんぼゴルフ会・夏の陣・松本カントリー」に関しての高校時代からの友人達のメール交換(前夜祭をどうするか?と言った事柄)を読み、急に参加したくなりました。「極楽とんぼゴルフ」には何回か参加していますが、この5年間は不参加を続けています。ボチボチ会員名簿からの削除も考えられる時期となっています。申し込み期間を過ぎていますので、参加OKか?の問い合わせをしたところ、参加OKとの快諾を得ました。早速、17日の夜のホテル(松本ホテル花月)を確保。東京からの友人達と同じホテルとなる為、前夜祭への参加は避けられないこととなります。もともと下手で、しかも久しぶりのゴルフですし、二日酔いではパートナーに多大の迷惑を懸ける事となります。これからの多少の練習と前夜の節制を心がける事とします。楽しみです!!! |
2011年6月12日 6月11日、高校関西支部「新人歓迎会」昼の部「恒例・京都町屋見学」と夜の部「京都リーガロイヤルホテルでの歓迎宴会」に参加させていただきました。昼の部に30名、夜の部には43名の出席で、和気藹々とした楽しいひと時を過ごさせていただきました。ご苦労をお掛けしている幹事様方にはホント感謝!!感謝!!!!!です。有り難うございました。 長いこと京都府民ではありますが、京都市からは遠く離れた(近鉄急行で約25分の距離)に在住している者にとっては、なかなか市内の要所を見歩くことが難しいのです。案内をしてくれる我々の仲間はこの道の専門家でもあり、この「京都町屋見学」には極力、参加をさせていただいています。因みに、昨年は6月5日「京都伏見の散策」で、丁度「龍馬伝」で伏見は大変な混雑であったことが思い出されます。 今回は、「京都御苑」、「平安女学院・有栖館・明治館」、「九条家・拾翠亭」、「堀野記念館」(京仕込・キンシ正宗の旧堀野家本宅)を巡ります。 「京都御苑」へは、「今出川御門」から入ります。この御門は御苑の北の入り口で、ここから入場すると、正面に「御所」の「朔平門」が見えてきます。御所の塀を東に、角は「猿ヶ辻」と呼ばれ、御所の鬼門の方角にあたるため、隅を造らない方策をとり、日吉山王社のお使いとしての「猿」の置物をおいています。「猿ヶ辻」から真直ぐに南に歩きます。塀の横には清水が流れる側溝がありますが、ここには警備の為赤外線のセンサーが真直ぐに取り付けられているらしく、私達のどなたかが近ずきすぎた為、警告のアナウンスが流れました。さらに「建春門」近くに来た時、皇宮警察のパトカーが近づき、警官が私達の持つ旗についての尋問を受けることとなりました。結構、厳重な警戒をしています。ここから「大宮御所」の塀を真東に見渡すと、「大文字焼き」の大文字が見渡せます。「大宮御所」(「仙洞御所」)を左に見て、右手へ歩くと「御所」の正面に当たる「建礼門」があり、御所内正面には「紫宸殿」があります。幕末「蛤御門の変」の長州側の弾痕が今でも残っている「蛤御門」を出て、烏丸通りを少し下り、「平安女学院」へ向かいます。 「有栖館」の正面門は「青天門」で、烏丸通りに面しています。角を曲がり、下立売通りに面した、長屋門から入ります。平安女学院の職員の方が出迎え、案内してくれます。「青天門」から玄関までの間も庭園の一部であり、2本の枝垂れ桜は醍醐三宝院内にあった実生(みしょう)の桜を移植したものとのことです。また、館内のお庭は、2009年に第十一代目小川治兵衛氏により作庭されたとのことです。客間棟には珍しい2畳の上段の間があります。「住居棟」の一室には艶やかな「舞妓さん」を描いた画が懸けられています。 下立売通りを挟んで、「平安女学院中学・高校」があり、そのキャンバス内に「明治館」があります。館内の展示品の中に、大阪にあった「川口居留区」(1868年・慶応3年、大阪開港と同時に作られた。大阪港は水深が浅く、大型船には向かなかった為、港としての競合では神戸に敗れ、ゆえに、その後は消えていった。)についてのものがありました。日本における平安女学院はこの中に生まれたとのことです。エェー!!!大阪にも居留区と名の付くものがあったのか!!との、お粗末な驚きでした。京都区主教座聖堂聖アグネス教会(セント・アグネス教会・聖三一大聖堂)は1898年(明治31年)に完成とのこと。 御苑南の隅に有る旧九条家前を通り、解説版を読みます。裏手に回り、九条池の橋の上から「拾翠亭」(しゅうすいてい)鑑賞します。有栖川家は後陽成天皇の第7皇子・好仁親王(よしひとしんのう)から始まり、現在宮家は無くなっています。有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)は幕末の折、東征大総督として、薩長を中心とする官軍を率いて関東に進軍した方として知られています。 堺町通を南に下ると亀屋町に「堀野記念館」があります。キンシ正宗としての造り酒屋の歴史と町屋文化を伝えています。現在酒作りの場は伏見に移転していますが、名水「桃の井」や 「蔵」 が残されています。 6時からはホテルでは飲食後、他己紹介などで盛り上がる宴会を楽しむことが出来ました。 |
2011年6月7日 「ローマ人の物語 1,2巻 ローマは一日にして成らず」の最後の部分、「ひとまずの結び」の中で、著者がローマ観を語る意味で重要と思われる要因を3人のギリシャ人歴史家、ポリビウス『歴史』、プルタルコス『列伝』、ディオニッソスもの 『古ローマ史』から4点に要約しています。 第一は、ローマの興隆の因を精神的なものに求めたかった、3人の態度である。・・・・興隆は当事者たちの精神が健全であったからであり、衰退はそれが堕落したからだとする論法に納得できないのだ。それよりも私は、交流の因は当事者たちがつくりあげたシステムにあると考える。・・ 第二は、彼ら三人はキリスト教の普及以前に生きたのだから当たり前にしても、私もまたキリスト教信者ではないということである。キリスト者でなければ、キリスト教の倫理や価値観から自由でいられる。・・・貧しき者こそ幸いなれ、というイエスの教えの優しさはわかるが、「貧しいことは恥ではない。だが、貧しさに安住することは恥じである」としたペリクレスのほうに同感なのだ。また、キリスト教を知らなかった時代のローマ人を書くのに、キリスト教の価値観を通して見たのでは書けないとも思っている。・・・中世時代の考えを色濃く残しているダンテだが、『神曲』の中で、その言行に罪があるとして地獄に落したのは、悪しきキリスト教徒だけである。・・・ダンテでさえ、古代人とキリスト教徒を同列には論じなかったのである。 第三は、これまた知らないで死んでしまった彼ら三人には当然の話にしても、フランス革命によって打ち上げられた自由・平等・博愛の理念に、この人々は少しも縛られていないという点である。理念に邪魔されないですむから、現実を直視することも容易になる。・・・ディオニッソスにいたっては、ペリクレスとアウグストゥスを同列視して賞賛している。英邁な指導者に治められたときの国家は、いかに幸福に運営されたかの例としてである。・・・ペリクレスはアテネの民主政の旗手であり、アウグストゥスは帝政ローマの創始者なのだから、・・・・私などは、この頃、二十世紀末のこの混迷は、フランス革命の理念の自家中毒的状態ではないか、とさえ思うようになっている。 第四にあげる二千年昔のギリシャ人三人の考えに私がなぜしっくり感じたかの理由は、問題意識の切実さにあったのではないかと思う。彼ら三人とも、それぞれの立場はちがっても、あれほども高度な文化を築いたギリシャが衰退し、なぜローマは繁栄をつづけるのか、と問いかけた点では一致していた。・・・ ・・・ローマ興隆の要因について、三人のギリシャ人は、それぞれ次のように指摘している。ハリカリナッソスのディオニッソスは、宗教についてのローマ人の考え方にあった、とする。・・・他の宗教を認めるということは、他の民族の存在を認めるということである。・・・ポリビウスとなると、、ローマ興隆の要因は、ローマ独自の政治システムの確立にあった、と考える。・・・この独自の政治システムの確立によって、ローマは国内の対立関係を解消でき、挙国一致の体制を築くことができたのである。 ・・・一方、プルタルコスとなると、ローマ興隆の要因を、敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方をおいて他にない、と明言している。・・・ ・・・これら三人の史家の指摘は、私には三人とも正しいと思われる。それどころか、ローマの興隆の要因を求めるならば、この三点を全部であると思うのだ。・・・ ・・・古代のローマ人が後世の人々に遺した真の遺産とは、広大な帝国でもなく、二千年経ってもまだ立っている遺跡でもなく、宗教が異なろうと人種や肌の色が違おうと同化してしまった、彼らの開放性ではなかったか。それなのにわれわれ現代人は、あれから二千年が経っていながら、宗教的には非寛容であり、統治能力よりも統治理念に拘泥し、他民族や他人種を排斥しつづけるのもやめようとしない。「ローマは遥かなり」といわれるのも、時間的な問題だけではないのである。・・・ この「ひとまずの結び」を記憶しながら、更に「ローマ人の物語」を再読していきたいものです。 |
2011年6月3日 「フレッツ光ネクスト」への切り替え時に、有線でのインターネット接続は可能となりましたが、ワイヤレスでの接続は上手くいきませんでした。そんな時は、娘に依頼するのが恒例となっています。28日の土曜日、孫の美緒ちゃんと一緒に来てくれ、美緒ちゃんが階下でおやつを食べながらディズニーのDVDを見ている間に、調整をしてくれたのですが、結構苦労している様子でした。その様子を見ていて、ジイ様には無理だったかな?と思ったしだいです。 「ローマ人の物語」の文庫本を1巻から13巻までを購入し、1、2巻の「ローマは一日にして成らず」を再度、読み進めています。ローマのその後の発展は、隆盛を極めていたギリシャの都市国家であるアテネの民主政を見習わず、ローマ独自の政体を構築していったことに由来するのではないかとしています。政治改革という節で以下のように記しています。 ローマ人の考えを実施した政治システムこそ、ローマを強大にした第一の要因とする歴史家ポリビウスは、その理由を次のように書いている。「われわれの知っている政体には、次の3つがある。王政と貴族政と民主政である。ローマ人に向かって、あなたの国の政体はこの3つのうちのどれかとたずねても、答えられるローマ人はいないであろう。 執政官にのみ照明を当てれば、王政に見える。元老院の機能にのみ注目する者は、貴族政以外の何ものでもないと言うだろう。市民集会を重要視する者ならば、民主政だと断ずるにちがいない。・・・・・(中略)・・・・・ところが、ローマの政体は、この三つをくにあわせたものなのである。」 3種の政体のミックスこそ理想に近い政治システムであると考えた人には、ルネッサンス時代の政治思想家ニコロ・マキアヴェッリがいた。・・・詳しくは後日に。 |
2011年5月26日 昨日、25日にインターネット回線を「Bフレッツ」から「フレッツ光ネクストファミリーハイスピードタイプ」に切り替える為の工事をしてもらいました。今回は、アンテナからの接続を完了している地デジの切り替えはせずに、光電話を加えることだけの工事でした。インターネット接続の為の調整はどうしても必要となります。特に、メールアドレスの変更、続けているホームページの更新などの為、プロバイダーの京都アイネットとの契約は内容変更で継続する希望がありました。25日の調整では上手くいかず、今日も朝から調整しましたが、やはり接続不能です。NTT西日本、京都アイネットなどへ電話をし、最終的にはNTT西日本の故障担当の方とのやり取りの結果、ONU(回線終端装置)の不調が考えられるとの結論になり、早速、ONUを取り替えていただきました。その結果、無事にインターネット接続が出来るようになり一安心しました。NTT西日本、京都アイネットの担当の方々は、共に、大変親切に対応していただきました。御蔭さまで、接続の手順が自分で出来るようになりました。感謝!!感謝!!!です。 「十字軍物語 2 」の整理は、別ページに「十字軍物語」を作ることとしました。 |
2011年5月23日 20日は、京橋会と称するジジ連の定例の集まりを利用して、嫁さんと最近グランドオーポンし、巨大化したと伝えられている大阪駅を見学に出掛けました。大きな屋根にすっぽりと包まれた大阪駅のプラットホーム。前からある、プラットホームの汚い屋根が取り除かれたら一層良くなると思われる景観。新築されたJR三越・伊勢丹をはじめとして、多くのお店が競って楽しい売り場、食べ処を提供しています。大阪らしくないという人がいるかもしれませんが、気にしなくても良いことです。良くなれば良しとすべきでしょう。 5月21日(土)、高校卒業50周年を記念して、恒例の5月第3週土曜日の関西支部同窓会が名古屋(実際は春日井市のホテルプラザ勝川です。)で開かれることなり出掛けました。名古屋には1時半頃には着き、時間が出来ましたので、今までゆっくりと訪れたことが無かった「熱田神宮」を訪れてみました。広大な「熱田の森」の中の熱田神宮は十分に由緒が感じられる立派な建物群の集まり(本殿内部)で、丁度結婚式が厳かに行われていました。震災の影響で大幅に減少したといわれている中国からのお客様も団体でお参りをしていました。そう言えば今年は平成23年で、数え年では。 同窓会は松本、東京、大阪、鳥取、地元名古屋から26人が参加し、6時から長時間、楽しく飲み、はなし、歌いました。 22日(日)は、20人で「明治村」へ行くことになりました。生憎の天気となることが予想されていましたが、強烈な雨降りの時間には「帝国ホテル」の喫茶室で会話が弾むことが出来たくらいで、ゆっくりとだべりながら園内散策を楽しむことが出来ました。園内で、記憶に残った建物、その他をを写真で紹介します。 1) 帝国ホテル(大正の建物とのことです。) 2) 聖ザビエル天主堂 3) 天主堂 内陣 4) 内陣の説明 5) ザビエル天主堂の薔薇窓 6) 聖ヨハネ教会堂(重文) 7) 園内の佇まい・天童眼鏡橋 いずれにしても、幹事の方々には大変お世話になり、有り難く、感謝!!感謝!!!感謝!!!!!です。 |
2011年5月19日 「信州の鎌倉 塩田平 別所温泉の旅」をアップしてみました。 |
2011年5月16日 先週月曜日に週末の旅行の為、風邪をを完治することを目指して、風邪では人生始めて医者処方の薬を求めて主治医といえる近くの医院に行きました。その甲斐あってか体調は戻り、更に、13日、14日と絶好の天候に恵まれ「信州の鎌倉」との名のある長野県上田市周辺を散策することが出来ました。風情では指折りの「別所温泉 臨泉楼 柏屋別荘」に泊まり、「北向観音」その他のお寺をお参りし、「上田城址」、「小諸城址」を訪ね、千曲川を廻って楽しんできました。今回は仲間のお二人にご母堂のご不幸があり、5名での北信濃散策でしたが、幹事さんの御蔭で楽しさを満喫することが出来ました。感謝!!感謝!!!感謝!!!!!です。早速ページをアップしなければなりません。 |
2011年5月5日 今年のゴールデンウィークは2日と6日を休日にすると、合計10日間の大型連休が生まれる絶好のカレンダーとなっています。現役時代の勤めであればキットこの連休を期待し、今年こそはと、楽しんだと思うのですが?現在はその歓びはありません。さらに、最近では信じられないほどにキツイ花粉症に加え風邪を引いたことで、ヘロヘロな状態が続いています。せっかく「十字軍物語 2 」を読みましたが、まとめる気力が湧いてこない悲惨な日々です。 |
2011年4月25日 塩野七生さんの「十字軍物語 2 」を借りることに成功しました。以下の昨年10月28日に扱って以来の続編です。大事に読んでいきます。「三つの都の物語」のページは「神の代理人」を整理していますが、”最後の十字軍”の発進をを目指す法王ピオ二世の妄執、十字軍とは?の意味を再々整理していきたいと考えています。 2010年10月28日 塩野七生さんの「十字軍物語 1 」を読みました。本の表紙には完全武装した十字軍の騎士が十字軍の赤い十字の描かれた旗を持ち疾駆している姿が描かれています。背景は暗く、遠く、そして近くには城塞が浮き出ています。 「十字軍」という言葉は子供の頃から、そこはかとないロマンを感じる言葉で、その言葉だけで、キリストの聖都イェルサレムを奪回するために、身の危険をかえりみず突き進んだ騎士達の勇姿が目蓋に浮かんできまたものです。本当の姿はどのようなものだったのでしょうか?興味深く読み進むことが出来ます。 本の帯布です。長らくイスラム教徒の支配下にあった聖都イェルサレム。1095年、その奪還をローマ法王率いるカトリック教会が呼びかける。「神がそれを望んでおられる」のスローガンのもとに結集したのはキリスト教国の7人の領主たち。ここに第一次十字軍が成立した。さまざまな思惑を抱えた彼らは、時に対立し、時に協力し合いながら成長し、難事を乗り越えていく。ビザンチン帝国皇帝との確執、小アジア横断、大都市アンティオキアを巡る攻防・・・・そしてイェルサレムを目指す第一次十字軍の戦いはいかなる結果を見たのかー。(当時のキリスト教、イスラム教の世界) 書き出しです。戦争とは、諸々の難題を一挙に解決しようとしたときに、人間の頭の中に浮かび上がってくる考え(アイデア)である。と、ビザンチン帝国の皇帝からの救援の要請をもって西欧を訪れた特使を引見した後に、法王ウルバン二世も考えたかもしれない。・・・・ 十字軍の仕掛け人であるウルバン二世(シャンパーニュ地方の貴族の家に生まれ、グレゴリウス七世と同じクリュニー修道院で学んだ)は、1077年の「カノッサの屈辱」で神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒをへこませ、法王の権威を示したかわりに、その軍事力によってローマから追い払われ、南イタリアを転々としていた法王グレゴリウス七世の真の後継者と言えます。ハインリッヒに対する直接的な方策ではなく、法王権を高める方策として「十字軍」と言う「戦争」を仕掛けたのでしょうか? 聖戦への呼びかけ 1094年の秋、法王は中部イタリアのピサにいた。そこから法王の一行は、フィレンツェを通って北イタリアのピアチェンツァに向かう。ピアチェンツァで、グレゴリウス七世派、つまりキリスト教世界の改革に賛同する派の司教たちを集めて公会議をひらくことになっていたのである。・・・・世暦1095年11月、クレルモンの地で開催された公会議の主要舞台は、屋内ではなく屋外であった。・・・・「アピール」は、前半と後半に分かれて成されたようである。五十三歳になっていたかってのクリュニー修道院の修道僧は、彼のとっては生涯の勝負の場になるこのクレルモンで、聴く者の全員に向かって力強く語りかける。 まず、前半では、現在のキリスト教世界をおおっている倫理の堕落を嘆く。神の教えに反する利己的な行為が横行している現状を糾弾し、このまま放置しておいては神の怒りが下されると叱責する。そして、そのような事態に陥らないためにと、「神の休戦」を提唱した。キリスト教徒同士なのだから、領土保全であろうと領土拡大であろうと、戦争はやまにすべきだと説いたのである。 演説の前半ではキリスト教徒を非難したローマ法王だが、後半ではそれが異教徒に向かう。キリスト教徒の間で「休戦」が実現したとしても、キリスト者にはまだ重要な仕事が残されている、とつづけるのだ。そしてそれは、東方に住み、絶えずお前たちの助けを求めている「兄弟」の許に駆けつけて、この信仰上の同胞に助けの手をさしのべることである、と。・・・・イスラム教徒は地中海まで勢力を拡大し、お前たちの兄弟を攻撃し、殺し、拉致しては奴隷にし、教会を破壊し、破壊しなかったところはモスクに変えている。彼らの暴行を、これ以上許すべきではない。今こそ彼らに対し、立ち上がるときがきたのだ。・・・・なぜならこのことは、わたしが命じているのではない。主イエスが命じているのである。かの地へ向かい、異教徒と闘い、たとえそこで命を終えたとしても、お前たちは罪を完全に許されて者になる。わたしはそれを、神から授与されている権限をもって、はっきりとここで約束する。・・・・ 聴いていた人々は、一人残らず感動した。群集の間からは自然に、「神がそれを望んでおられる」(Deus livult)の声がわきあがり、その大歓声の中で、聖戦に志願する最初の一人が、演説を終えたばかりの法王の前に進み出た。・・・・ それにしても法王ウルバン二世は、アジテーターとしてもなかなかの巧者だったが、オーガナイザーとしても一級の才能を示すことになる。いっときの感激や興奮は、すぐに消えることを知っていたのであろう。この後の10日を費やして討議し公会議で決定したのは、次の諸項であった。 1、十字軍に参加する者は、完全免罪が与えられる。 人間は生まれたときから原罪をもつ身であるとはカトリックの教理の基本だが、その原罪に日々の生活で犯す小さな罪が加わると、特別に悪いことをしていなくても死後の天国行きが不安になってくる。そう思う善男善女が大半であったのが、中世であった。それを、参加さえすれば天国行きは確実だと言われたのだから、この人々が救われたと喜んだのも当然であったのだ。 また、完全免罪とは、殺人などの凶悪な罪を犯した者にも「免罪」を与えるということである。つまり、十字軍に参加さえすれば、これまでの悪行もすべて帳消しにするというのだから、アウトローたちまでが競って十字軍に参戦することになったのである。 2、 病気中とかのやむおえない理由によって参加が無理な者は、他の人々の参加に要する費用、衣服や武器を買い求めるための費用を献金すること。 このことの決定は、貧民たちにも十字軍参加への道を開くことになった。 3、 発つ者後に残していく資産、動産、不動産の別なく資産の帰国までの保全は、ローマ法王が保証人になり、その者が属する教区の司祭が実際の監視の責任を負う。 4、 十字軍参加に要する費用捻出のために資産を売る必要のある場合、またはその資産を担保にして借金する場合は、それが正当な値で成されることを法王が保証し、実際の監視は司教や司祭が責任を持つ。 5、 十字軍に参加したい者はまず、その者が属す教区の司祭に申し出、その許可を得た後で十字架に誓い、その後初めて出発することができる。 6、 十字架に誓った後でも出発せず、または出発しても途中から早々にもどってきたりした者は、だだちに破門に処せられる。・・・・ 「貧民十字軍」 粗末な僧衣に身を包み、ろばに乗って村々をまわる巡回説教僧である隠者ピエールに先導された十万人とも言われる?騎士、兵士、農民、都市の下層に属する人々の「貧民十字軍」は、諸侯たちの十字軍に先立ってコンスタンティノープルから小アジアへ渡りますが、イェルサレムへ着くことが出来たのは極少数の人たちだけだったようです。 「諸侯たちの十字軍」 その主要メンバーは トゥルーズ伯サン・ジルと法王代理の司教アデマール。 ロレーヌ公ゴドフロアと、その弟のボードワン。 プーリア公ボエモントと、甥のタンクレディ。 の三組6人となり、兵力は約5万と推定されています。 諸侯たちの十字軍は、西暦1097年の春に小アジアに渡り、ビザンチン帝国のアレクシオス皇帝の数々の企み、妨害を受けながら、セルジューク・トルコとの戦いを進めます。ニケーアを攻略、ドリレウムでトルコ軍の大軍を破り、西暦1097年10月20十字軍の最初の兵士が、アンティオキアを遠望する丘に姿を現します。そして、長い攻城戦の結果、西暦1098年6月3日アンティオキアは陥落します。城内では、異教徒に対する殺戮、略奪が行われます。 アンティオキアから聖地イェルサレムの解放へ向かう十字軍の諸侯の顔ぶれは、ロレーヌ公ゴドフロアと弟ユースタス トゥルーズ伯サン・ジル タンクレディ ノルマンディー公 フランドル伯 となります。兵力は1万5千に減っています。 その他の方々は ボードワンはエデッサとその周辺一帯の堅持のため 司教アマデールはアンティオキア陥落後疫病で死去 ボエモントはアンティオキアとその周辺一帯の堅持のため フランス王弟ユーグは十字軍からの皇帝アレクシオスへも提案を持ってコンスタンティノープルへ ブロア伯は北ヨーロッパの自領へ として、イェルサレム解放には向かえぬこととなります。 「聖都イェルサレム」 西暦1099年6月7日、十字軍はイェルサレム遠望する地に到着します。その部分のを抜粋します。 西暦1099年6月7日、十字軍はついに、イェルサレムを遠望する地に到達した。諸侯たちは馬から降り、甲冑のたてる金属音の中で、まるで教会の中にでも入ったかのように、うやうやしく片ひざをつき、兜を脱いだ。騎士たちも馬を降り、それのつづく。 兵士たちに至っては思わず両膝をついてしましい、両手を上にあげて泣き出す者もいた。誰もが感動に震え、感涙にむせんでいた。生まれてときからくり返し聴かされてきた聖都イェルサレムが、今や彼らの目の前にある。おりからの夕日を浴びて、静かにそこにあるのだった。ついに来たのだ、という想いが全員の胸を満たし、それがあふれてくるのを甘美な想いで受けとめていたにちがいない。 第一次十字軍の戦士たちは、この瞬間、謙虚な巡礼者になりきっていたのである。・・・・・イェルサレムは、このような想いを人々に感じさせる都市なのである。だが、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の別なく、同じたぐいの想いを抱かせてしまうのところが、一神教で摩擦を産む原因でもあるのだった。・・・ 「イェルサレム」解放 7月15日の朝の攻撃で、イェルサレムは解放されます。イェルサレムの市内では、その間、アンティオキアの陥落時にも優るとも劣らない残虐さで、惨劇がくり広げられていた。 アンティオキアのとき同様に、十字軍は、市内にはイスラム教徒しかいないと思いこんでいる。キリスト教徒はいなかったが、ユダヤ教徒はいたのだ。だが、ヨーロッパから来たキリスト教徒にしてみれば、ユダヤ教も異教徒である。それで十字軍の兵士たちは、人と見るや殺しまくったのである。捕らえて奴隷に売ることでさえ、その日の彼らの頭にはなかったようであった。聖なる都イェルサレムには、異教徒は一人でも残っていてはならないのであった。・・・・ ・・・・第一次十字軍によってシリア・パレスティーナの地に打ちてた十字軍国家は、これら第一世代が創り上げたのであった。ヨーロッパを後にした1096年からイェルサレム陥落までの3年間で征服をし、その後の18年間を費やして確立して行ったのである。皇帝や王も参戦していなかった第一次十字軍の主人公たちは、ヨーロッパ各地に領土を持つ諸侯たちであった。彼らは、ときに、いやしばし、利己的で仲間割れをくり返したが、最終目的の前には常に団結した。この点が、利己的で仲間割れすることでは同じだった、イスラム側の領主たちののちがいであった。そして、それこそが、第一次十字軍が成功した主因なのである。 十字軍は第八次まで行われ、200年後、1291年には十字軍国家が消滅します。信心深いキリスト教徒にとって、主イエスの足跡をたどる巡礼行が不可能ななり、それによって与えられる免罪に手が届かなくなってしまったのです。ローマ法王庁は「ローマに巡礼してもイェルサレムに巡礼すると同じ神の許しが得られる」と、決めました。このローマ巡礼が「聖年」で、1300年に始まり、原則的には25年ごとで、2000年は「大聖年」ということのようです。(以上、「絵で見る十字軍物語」から) 第二次十字軍以降の状況は次号からの楽しみです。「十字軍物語 1 」の発刊の前に、「絵で見る十字軍物語」が刊行されており、十字軍の概略は読み取ることが出来ます。でも、本編が待ち遠しい想いです。 |
2011年4月12日 好天に誘われご近所を散策することとしました。お目当てはこの時期”さくら”です。大住保育園、大住小学校、大住中学校への道の途中には”さくら”のトンネルが出来ています。 中学の門前には”枝垂れ桜”が。また、川の両側に咲くさくらの木から散り落ちた花びらが川面に模様を造っています。望遠で撮影した”さくら”をアップしてみます。 1) 2) 3) |
2011年4月11日 「東日本大震災」の発生から丁度1ヶ月が経ちました。新聞では地震・津波の検証特集を、テレビでは1ヶ月の変化について放映しています。津波で流された町のあとの道路の復旧は進んでいますが、周辺の市街地は遅々として進んでいるようには見えません。地震津波で被害を受け、さらに、原発事故で避難指示が出ている地域は本当に悲惨といってよいでしょう。その地域のテレビ影像に飼い主に置いていかれた何匹かの犬が映っていました。なんとも言いようがありません。”お悔やみ”申し上げることしか出来ません。 |
2011年4月5日 昨日は我が家は保育園のようなもの。二人のマゴッチのお世話は、嫁さんも大変なものです。年度変わりのゆえです。新築の建物への移転のためにお休みとなっている保育園へ行けない、1歳半の梨央ちゃんのお昼寝を邪魔しないように、この11日に6歳となる美緒ちゃんと2人でアル・プラザ京田辺店へ。帰ってからは”シャボン玉遊び”。駆け足で「東六甲縦走ハイキング」をまとめました。 |
2011年4月3日 昨年の秋に挙行された”紅葉の善峯寺からぽんぽん山を巡るハイキング”には残念ながら欠席していましたので、昨日の”東六甲縦走ハイキング”には是非とも参加したいと考えていました。幹事諸兄の御蔭で大変快い東六甲縦走でしたが、最後の段階で持病といっていい左ひざの痛みが始り冷汗を垂らしながらの宝塚温泉ゴールとなりました。温泉の後のイタメシ屋さんでのビールの味は自分へのご褒美でした。ページはこれから作ってみます。 |
2011年3月28日 原発の状況は決して楽観すべき段階には来ていないようです。諸々の原因はあるのでしょうが、海に流れ出す放射能量が多いことがこの証明となっているように思われます。心配することしか出来ません。 「神の代理人」を読んでいます。当時はイタリアばかりでなく、ヨーロッパ全体の主権国家の首長はその地位を、表向きは法王からの委任状に託されることになっており、これが当時の政治状況を複雑怪奇にしているのです。「神の代理人」である法王は本当に正義のキリスト者であったのでしょうか?「神の代理人」とは?書き出しに福音書の一節があります。 イエスは、弟子の一人シモンに言った。 「おまえは、ペテロ(岩)だ。この岩の上に、わたしの教会を建てよう。地獄の門(悪魔)も、これには勝てないだろ。 おまえに、天国の鍵を与えよう。これによって、おまえが地上でつなぐものは天国でもつながれ、おまえが地上で解くものは天国でも解かれるのだ」(マタイ伝第16章より) こうして、かっては漁夫であったペテロの主位権が決まった。全キリスト者は、イエス・キリスト、すなわち神の、地上での代理人と指名されたペテロに、服従しなければならないと決められたのである。また、おまえの上にとのイエスの言葉に従って、西暦六十七年頃、ローマのヴァティカーヌス(今日のヴァティカン)にあった皇帝ネロの競技場で殉教したと伝えられるペテロの遺骸の上に、聖ペテロの教会(サン・ピエトロ大寺院)も建てられた。 それ以後、代々の法王は、第一代法王ペテロの後継者として、天国と地上と地下を支配する象徴として三重冠と、天国の鍵を組み合わせたものを紋章とし、漁夫の指輪をはめた手で命令をくだし、同じ手て祝福を与えつづけてきた。そして今日でも、法王が教会に入場してくる時、聖歌隊は、「おまえはペテロ、この岩の上にわたしの教会を・・・」と歌う。まるで、法王のテーマ音楽でもあるかのように。 「神の代理人」では”最後の十字軍”でピオ2世(就任年齢53歳 在位 1458〜1464)を ”アレッサンドロ6世とサヴォナローラ”でアレッサンドロ6世(61歳 1492〜1503)を ”剣と十字架”でジュリオ2世(60歳 1503〜1513) ”ローマ・16世紀初頭”でレオーネ10世(37歳 1513〜1521)を描いています。 |
2011年3月21日 避難所の被災者の数、30数万人、死者行方不明の方々の数が2万人を越えていそうとの報道のなかで、被災者の方々が泣き言を言わず、現実を直視し、再度の立ち直りを目指す意欲を話してくれている姿に涙がこぼれそうになります。また、東電第一原発の危機に対して、現場の東電社員、関連業者の方々の目立たないご苦労、自衛隊、警察、消防の放水など、目立つご苦労によって、危機的状態は若干緩和されてきつつあるように思われるようになりました。有り難いことです。そんな中、何も出来ない私どもはエールを送ることくらいしか出来ません。 「レパントの海戦」を読み、市立図書館から借り出してきた「愛の年代記」を読みました。図書館から借り出した「三つの都の物語」は「緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件」、「銀色のフィレンツェ メディチ家殺人事件」、「黄金のローマ 法王庁殺人事件」三部作のハードカパー本であることが判りました。また、「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の1000年」文庫本全6巻、「神の代理人」、「ルネッサンスとは何であったか」も手に入りました。 ここで、頭の整理を兼ねて、これらの読後感をまとめたページを作っていく事としました。15、16世紀の「ローマ法王領」、「フィレンツェ共和国」、「ヴェネツィア共和国」、と「トルコ帝国」、「フランス」、「神聖ローマ帝国」との確執を、またこの時期は「ルネッサンス」の時代でもあったのです。 |
2011年3月16日 地震の余震、津波の可能性はは続いているとはいえ救援、復興に向けた力強い活動は始っているようです。ただ、原発の事故に関しては大変心配される事態に陥っています。テレビで東電の本社での会見を見ていてビックリするのは、現場と本社の状況把握に大きな開きがあると思われることです。記者たちからの質問に対して「調査中です」の返事が大半となっているのです。会見を開く以上その折の状況の把握が済んでからでなければ一層の不安感をもたれることは当然のことと思われるのですが。 塩野七生さんの著作「コンスタンティノープルの陥落」、「ロードス攻防記」、「レパントの海戦」を読んでいます。「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」と重なる記述が多いきらいがあるのですが、「コンスタンティノープルの陥落」は西ローマ帝国が滅亡した後、約1000年にわたり栄えてきた東ローマ帝国(ヴィザンチン帝国)が1453年5月29日にオスマン・トルコ皇帝マホメッド2世によって陥落させられた経過の物語です。また「ロードス島攻防記」は第一次十字軍の折に組織され、1103年ローマ法王により許可された「聖ヨハネ病院騎士団」がオスマン・トルコによる四面楚歌のなかで孤軍奮闘の末、1522年大帝スレイマン1世により征服されるドラマティックな歴史長編です。さらに「レパントの海戦」はこれからです。面白い!!!! |
2011年3月13日 3月11日午後2時46分頃に発生したマグニチュード8.8の巨大地震「東北地方太平洋沖地震」はその津波の猛威をテレビの実況でリアルタイムに知ることになりました。 3時頃にテレビを見始めた時は各地の震度の発表と同時に大津波情報が発令され、その中に予想高さが10メートルというビックリする情報が含まれていました。どうゆう事???まさか????と言った感覚で報道を見ていたことが本当に間違いであったことを痛感することになったのは、3時半頃のことです。気仙沼、石巻、八戸などの漁港への膨大な海水の進入、仙台空港滑走路、名取川流域の住宅が点在する畑地をアメーバのように這い登る海水の不気味な姿を、寒気を感じながら見入ることになりました。 それから48時間が経過し、原発事故、漁業を主体としていた沿岸の市や町の悲惨な状況が判ってくるにしたがい、恐怖感が一層つのってきた事は確かです。被災の方々にはお悔やみを申し上げるくらいしか出来ませんが、こんな時こそ日本人が一体となり、復興を目指さなければならないと思われてしかたがありません。 |
2011年3月10日 このところ、「海人と天皇」をお休みして、イタリア、ルネッサンス時代15世紀から16世紀に関する塩野七生さんの本を読みふけっています。「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」・「わが友マキアヴェッリ フレンツェの存亡」・「マキアヴェッリ語録」・「緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件」、「銀色のフィレンツェ メディチ家殺人事件」、「黄金のローマ 法王庁殺人事件」の三部作・「ルネッサンスの女たち」などを読んで、ようやくその頃のイタリア半島の状況がおぼろげながら、判りかけてきました。「ルネッサンスの女たち」の一節です。 ・・・15世紀から16世紀にかけてのイタリアは、非常な混乱の中にあった。マキアヴェッリによれば、15世紀のイタリアの4大勢力であったミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国も、1492年のロレンツォ・イル・マニーフィコの死を境にして、まずフレンツェが脱落する。そして同年、法王となったアレッサンドロ6世によって勢力を増大してきた教会の本山ローマがのしあがってくる。そして、数年たつかたたないうちに、外国勢力のイタリア侵入を口火として、ミラノ、ナポリと次々に脱落し、ヴェネツィア、ローマの2大勢力だけが残ったイタリアは、ドイツ、フランス、スペインの絶え間ない脅威におびやかされ始める。そしてついに、1527年のサッコ・ディ・ローマ(ローマ掠奪)によってイタリア・ルネッサンスが終わりをつげ、2年後、神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世のイタリアでの戴冠によって、スペインの白と黒が、色あざやかなイタリアをぬりつぶすまで。これがイザベッラ・デステが生きた時代であった。・・・ 「ルネッサンスの女たち」はイザベッラ・デステ、ルクレツツア・ボルジア、カテリーナ・スフォルツァ、カテリーナ・コルネールの4人のこの時代の女性を記しています。イザベッラ・デスタは、1474年フェラーラ公爵エルコレ・デステとアラゴン家の王女エレオノーラの間に第一公女として生まれています。そして、1490年16歳で、隣国マントヴァの当主フランチェスコ・ゴンザーガ侯爵と結婚します。フェラーラ、マントヴァともに当時の強国であるヴェネチィアと領土を接する位置にあり、ヴェネチィアをはじめとする各列強が常に触手を動かしてくる位置にある領地でした。・・・以後後日に。 |
2011年3月2日 今日は晴れていますが、昨日は雨でした。このところ雨の日も増えています。季節が冬から春へと変化しているのでしょう。今年も既に2ヶ月が過ぎてしまいました。ホント速い!!速い!!! 梅原猛氏の「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」を読みました。多量の青銅器(銅剣、銅鐸など)の発見等、近年の考古学的発見、古事記・日本書紀・風土記などの再検討などもあり、梅原氏が約40年前に主張した「出雲神話は大和をに伝わった神話を出雲に仮託したものである」との説を自ら否定したのです。氏はこの本の最後でオオクニヌシノミコトに謝罪しています。 2009年10月26日の作者近況 <昨日、25日は高校の関西支部総会が中ノ島のリーガロイヤルホテルで行われました。総会・懇親会の前に、『「邪馬台国」はなかった』・『失われた九州王朝』等の著作で、「通説となっている日本の古代史」への疑問を投げかけておられ、また、大学卒業後、我々の高校で、教鞭を取れれた古田武彦先生の講演を2時間以上にわたって拝聴することが出来ました。齢、八十幾つかになられる先生の気迫と語り口、そのお話の内容に魅了され、時間を忘れることが出来ました。先生およびこの講演会をセットしてくれた幹事さんがたに、感謝!!かんしゃ!!!です。 今まで、古田先生の著作、九州王朝説についてはもちろん知らないわけではありませんでした。このページの内容は、『万葉集』は犬飼孝先生、中西進先生、扇野聖史先生、『古事記』・『日本書紀』は梅原猛先生を中心としての「通説となっている日本の古代史」に近い線での各事項の解釈であり、今後もその方向での記載となりますが、古田先生の著作についての研究も進める楽しみが出てきました。ひょんなことで、市立図書館で目にすることが出来た『芸術新潮』10月号で梅原猛先生が「古代出雲王朝」として記事を書かれており、その最後の部分で、1985年初版の著作『神々の流竄』(出雲神話として書かれていることは全て、大和地方の出来事であった。)の内容を自ら否定しているからです。楽しみです!!> かって『神々の流竄』を読んだ折はそれなりに納得していたのですが、「出雲大社がなぜあの地にあるのか?」との疑問はが残されていました。でも、出雲王朝は立派に存在しており、大和王朝は出雲王朝を打倒したのだと考えれば、出雲王朝の主であったオオクニヌシノミコトを大切にお祀りすることは大和王朝としては大変重要なことで、王朝があった地に巨大な出雲大社が築かれたことの理由ともなるわけです。 本の最後の章「おわりに 出雲大社の建造」で以下のように記しています。「出雲国造神祝詞」(いずもこくそうかむよごと)の内容は大変興味深いものです。 ところで、出雲大社は何のためにたてられたのか。そのことをよく知らしめる祝詞が「延喜式」に残されている。「出雲国造神祝詞」である。この神祝詞は、出雲大社の宮司を兼ねた出雲国造が代替わりごとに献上品を持って一族を引き連れて上京したときに奏上したものであった。大宝律令の施行により、先祖代々国の長として諸国を治めていた国造は政治的実権者としての立場を追われ、中央政府から任命される国守に代えられたのであるが、出雲だけは国守がおかれず、出雲国造は紀伊国造とともに政治的支配権を留め置かれた。それはおそらく出雲国の神祭りが特別に重視されたからだろう。この神祝詞は、国造の出雲臣がいかによく出雲の神を祀っているかを語っている。『八十日日(やそかび)はあれども、・・・・』 国造の出雲臣は、「『かぶろき熊野の大神』すなわちスサノオと『国作りましし大なもちの命』すなわちオオクニヌシをはじめとして、出雲の百八十八社(スサノオも含まれる)におられる神々の霊を、無力な自分ではありますが、一生懸命祀って鎮め申し上げているのでどうぞご安心ください」と語る。・・・・次にオオクニヌシの国譲りの話がかたられている。「高天の神王高御魂(かむにおやたかみむすび)の命の、皇御孫(すめみま)の命に天の下大八島国を事避(ことよ)さしまつりし時に、・・・・すなわち大なもちの命の申したまはく、『皇御孫の命の静まりまさむ大倭(おおやまと)の国』と申して、己命(おのれみこと)の和魂(にぎみたま)を八咫(やた)の鏡に取り託(つ)けて、倭の大物主くしみかたまの命と名(みな)を称(たた)へて、大御和(おおみわ)の神なびに坐せ、己命の御子あぢすき高ひこねの命の御魂を、葛木(かつらぎ)の鴨の神なびに坐せ、事代主の命の御魂をうなてに坐せ、かやなるみの命の御魂を飛鳥の神なびに坐せて、皇孫の命の近き守神と貢(たてまつ)り置きたて、八百丹(やほに)杵築(きづき)の宮に静まりましき。・・・・怨霊神を鎮魂できるのはその怨霊神の子孫であるか、あるいはその怨霊神ときわめて親しい神の子孫であるかどちらかである。・・・・ ・・・・今回改めて出雲大社に参拝し、神前で拝礼してオオクニヌシノミコトに心からお詫びした。そして「私は間違っていました。改めてミコトの人生を正しく顕彰する書物を書きます」と固く誓って、出雲を後にしたのである。 平行して塩野七生さんの「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡 1・2・3」を読みました。現在「マキアヴェッリ語録」を読んでいますので、読み終わった後に読後感を記したいと思います。 |
2011年2月24日 息子夫婦が企画、実行してくれた”城崎温泉の旅”に行って来ました。鳥取市に住まわれている梨央ちゃんのママのご両親と我々夫婦が久しぶりの飲み会の席を満喫してきました。風邪気味で食欲不振が続いており心配されていた梨央ちゃんは、なんと、朝食から絶好調、車中では、はしゃぎまくった末にぐっすりとお眠り。旅館で鳥取のジジババとに再会はホント順調で、宴会の席では立派な御取持ちの役割を果たしてくれ、楽しい宴会を盛り上げてくれました。 温泉情緒が豊かな城崎温泉はやはり人気のある温泉地で、平日でありながら、沢山のお客さんが来ていました。若い女性が浴衣姿で外湯巡りをしている風情は良きもので、年度末の学生さん達の”女子会”が多いのではないかと想像されました。お宿は「かがり火の宿 大西屋 水翔苑」で、夜には中庭に”かがり火”がともるこじんまりとした落ち着いたお宿で、親切な仲居さんの心使いが十分に感じられ、良き旅を味わうことが出来ました。感謝、感謝です。「城崎温泉」の別ページを作りました。 帰りには出石で出石蕎麦を食すことが出来ました。少し濃い目の美味しい「お出し」のうえ、薬味のほかに「とろろ芋」「生卵」がついていたことから、11枚のお皿を食べることになりました。(1人前は5皿です。) |
2011年2月15日 厳しい寒さが続く昨今は、なかなか奈良方面や観音霊場巡りの旅には二の足を踏んでいます。そんな時は、やはり本を読むことになります。ブックオフ巡り(10日には恒例になっているジジ連の飲み会で京橋へ出た折にやはりブックオフに寄る事が出来、「ローマ人の物語・ローマは一日にして成らず上、下巻」・犬養孝氏の「万葉のいぶき」等を手に入れることが出来ました。)で、読みたい本は沢山あり、自分の頭の整理のゆえでもある読後感を記していきます。現在は「海人と天皇 日本とは何か」を読み始めていますが、ホント、ボチボチになり、別の本との並読となってしまします。「海人と天皇」を読み始める準備のつもりで、やはり梅原猛氏の「古事記」を読みました。こちらはアマゾンで購入した新本です。ついでに、「天皇家の”ふるさと”日向をゆく」をもとめました。 「古事記」は倉野憲司氏校注の岩波文庫を所持しており、時に応じて読んではいますが、今回の「梅原古事記」は一気に読み通すことが出来ました。翻訳の終わりに、梅原氏は以下のように述べています。 古事記に学ぶ 文学としての第一級の味わい はなはだ恥ずかしい話であるが、今回、『古事記』を現代語訳してみて、わたしは、あらためて、『古事記』が紫式部の『源氏物語』や世阿弥の能などと並んで、あるいはそれ以上に、すぐれた文学であることを感じざるをえなかった。・・・あらためて、なるほどと肯かるを得ません、「ローマ人の物語・ローマは一日にして成らず」と相通じるものがあります。 |
2011年2月9日 用事で他出する時、出来るだけブックオフに寄り、105円で購入することが出来る本を漁っています。五木寛之氏の「蓮如」・故野沢尚氏の「破線のマリス」・中田耕治氏の「ルネッサンスの栄光と廃頽 メディチ家の人々」・梅原猛氏の「海人と天皇 日本とは何か 下巻」(上巻は幸運にもブックオフ通販で購入出来ました。)など、このところ当たりが続いています。塩野七生さんの「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」などは無論その中に入ります。15世紀のルネッサンス期、初めてイタリア統一の野望をいだいた若者チェザレ・ボルジアの生涯を記しています。読み進むにつれて、もちろん、大きな異なりは存在しますが、織田信長の一生がオーバーラップする感覚を覚えました。後世の評価をはっきりと二分するのです。 ・・・・法王(アレッサンドレ六世)の息子というキリスト教の世界での異端児(妻帯が不可とされる聖職者、その頂点に君臨する法王にはもちろん嫡子はかんがえられない)として生まれ、それでいながら、当時の最高の権威であったローマ教会を徹底的に自分のために利用することによってキリスト教を侮蔑し、一度は身にまとった、生涯の栄誉と安定を保証する枢機卿の緋の衣を投げ捨ててまでイタリアを統一して、そこに自らの王国を創立しようとした彼の野望は、今日にいたるまでの五百年間、歴史が彼を、ルネッサンス時代の「メフィストファレス」として弾劾してきた理由となった。 歴史だけではない。文学も音楽も同様である。ヴィクトル・ユーゴーは、その戯曲「ルクレツァア・ボルジア」で、ドニゼッティも同名の歌劇で。そして、「ボルジア家の毒薬」という題名の映画さえも作られた。 しかし、メフィストフェレスの魅力は不滅である。バートランド・ラッセルも言っている。「残念ながらわれわれは、善人よりも、悪人から多くを学ぶものである」と。 そして、チェーザレ自身は、生前ただの一度も自分を弁護しようとはしなかった。自分の悪に対する彼の弁解は、それが策として有効であった場合ににみ限られる。彼は、自分を語ることの極度に少ない男であった。・・・・ 同時代の思想家マキアヴェッリとの関連も面白く、強烈な生涯(1475〜1507年)であったようです。読まねばならない本が沢山あり、少し時間を置いての再読を考えています。 |
2011年2月2日 「覇天の歌」で里村紹巴がこだわった「古今伝授」とは、「古今和歌集の中の語句の解釈に関する秘説などを特定の人に伝授すること。三木・三鳥が中心で、切紙伝授が生じた。流派により異なりますが、三木は、おがたまの木・めどに削り花・かはなぐさ 三鳥は、よぶこどり・ももちどり・いなおほせどり とされています。」という事のようです。1600年の「関が原合戦」の折、京都丹後の田辺城に籠る東軍・細川幽斎が後陽成天皇の勅命で救い出されたのは幽斎が古今伝授を受けていたからとされているのは有名な話です。 また、連歌(れんが)については、ウィキベディアによると「鎌倉時代に興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された。日本の伝統的な詩形の一種。多人数のによる連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構成を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。」とされています。 |
2011年1月30日 1月も速くも終わりです。新年会と称しての飲み会の理由もつかなくなります。朝方、日曜日恒例の皇室特集のテレビの中で、「歌会始」の模様が放映されました。今年のお題は「葉」ということで、制服姿で歌会始の儀に招かれた大西春花さんの歌、”「大丈夫」この言葉だけ言ふ君の不安を最初に気づいてあげたい”の歌に象徴されるごとくに「万葉集」「古今和歌集」の歌ばかりが和歌ではなく、現在生きている私たちの言葉での三十一文字があるのですね。先日、友人から贈っていただいた歌集「たそがれの光」は凝り固まっていた頭への太いこん棒の一撃でした。彼女のお歌「子より来し洗濯物ばかりの宅急便この炎天を味方にしたい」「慌しく仕上げた衣類送り返し今をたのしむ「私が母よ」」等に衝撃を受け、早速図書館から借り出してきた俵万智自薦集「会うまでの時間」のなかのにあるサラダ記念日「「この味いいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」の楽しさが初めて判るようになりました。感謝!!感謝!!!!!です。こんな時やはりなのでしょうか?岩井三四二氏の「覇天の歌」を読みました。戦国期に天下一の連歌師となった里村紹巴の長編小説で、その中で連歌はやはり和歌であり、紹巴が「古今伝授」に大きなこだわりを持っていたことを面白く書き出しています。 |
2011年1月11日 元日の長谷寺への初詣を、「万葉の旅」の「泊瀬の道・長谷寺」としてまとめてみました。今朝はこの冬で最も気温が低い日でしたが、昨日に比べ風がなかったため体感温度はそれほどではありませんでした。少し暖かくなったら奈良方面への「万葉の旅」を再会したいとの気持ちが湧いてきています。初瀬の谷の佇まいは夫々の心の中にある田舎そのものなのです。 |
2011年1月7日 「西国三十三ヶ所観音をお参りする旅」に「8番札所長谷寺」と「番外法起院」をまとめてみました。これから久しぶりに「万葉の旅」として、「泊瀬の道・長谷寺」として別ページをまとめてみます。 |
2011年1月4日 今年の初詣は恵方が南南東であることから、奈良方面を考えていました。その話を嫁さんにしたところ、良い機会だから、長谷寺を御参りし納経帖への御朱印を戴いたらとのことなので、急遽「長谷寺」への御参りを決めました。長谷寺へは何回か訪れていますが、納経帖持参は始めてのことです。 年越しを共にし、朝のお屠蘇とお雑煮をいただいた美緒ちゃん一家に近鉄新田辺駅まで送ってもらい、近鉄電車に乗車、大和八木で乗り換え、長谷寺駅には12時過ぎには到着しました。「隠口の泊瀬」との名前の通り、雪が舞っており、凍えるような寒さが身を刺します。まず、番外の「法起院」にお参り、御朱印を戴き、「長谷寺」へ。「長谷寺」の長い回廊の左右には「冬牡丹」が 季節柄「藁帽子」を被って咲いている姿に感銘を受け、さらに、御本尊の十一面観世音菩薩の雄大な御顔を間近で拝むことが出来たことは今年一年の幸いを予兆していると思わざるをえません。「西国三十三ヶ所観音霊場の旅」と「万葉の旅」でこの旅を整理します。 昨日、一昨日は恒例の「箱根駅伝」があり、早稲田大学が東洋大学の猛追をしのぎ、18年ぶりの優勝を飾りました。予兆の一つか?ホント良い年になって欲しいものです。 |
2010年12月31日 2010年も今日で最後です。昨年9月に銀行が受けている市役所での公金収納などのフルタイムパートを退職し、一応毎日が日曜日となるはずでした。従って、やはりその8月に生まれた孫の梨央ちゃんのお世話を中心とした生活になると思ったのですが、こちらの主役はやはり嫁さんが主役で、小生は寒い折の車での迎えの役割くらいのものなのです。 今日はやはり娘夫婦と美緒ちゃん、息子(嫁さんと梨央ちゃんは実家の鳥取へ年越しに)とで年越しです。良き年であったのは、間違いありません。 |
2010年12月29日 いよいよ、2010年、平成22年も後2日を残すのみとなりました。昨夕は娘夫婦が準備してくれた産地直送の「殻付き牡蠣」を息子夫婦とともに存分に味わうことが出来ました。娘と孫の美緒ちゃんは27日夜は我が家にお泊り、息子夫婦の孫、梨央ちゃんは27日にお熱が出たため昨日は保育園をお休みし、やはり、我が家にお預かりといったしだいで、計、8人での牡蠣会食となりました。昼は、お昼寝が始った梨央ちゃんの邪魔をしないため、美緒ちゃんと二人でJR京田辺駅の近くにあるスーパーへ行くことになりました。美緒ちゃんのお目当てはもちろんゲームセンターです。そんなことが多い今年の年末です。ページの更新が出来にくくなったいます。16日に友達と3人で忘年会と称して、心斎橋の火鍋屋「小肥羊(しゃおふぇいあん)」での会食のついでに近くのブックオフで買い求めた故半村良氏の「魔境殺神事件」を読みました。この本は昭和56年(1981年)に新潮社から刊行されたものですので、30年も前のものです。インド、パキスタン、アフガニスタン、中国国境地帯の魔境の於ける不可能犯罪に挑むストーリーですが、この地区の、その後の現実の歴史(ソ連のアフガニスタン侵攻、アメリカのタリバン掃討作戦など)を考えると芯から面白さが感じられ、半村氏の素晴らしいセンスには改めて脱帽です。 |
2010年12月16日 「下呂温泉」へ行って来ました。「日本三名泉」(他は、草津温泉と有馬温泉)の一つに挙げられているように、お湯が大変良い、温泉らしい温泉です。それ以上に楽しいのは「ジジ連」の5人旅です。今回も、常任幹事S氏の御蔭で安く、美味しく、楽しい旅を味わわせてもらいました。感謝!!感謝です!!!! 8時半、JR松井山手駅前に集合、2台の車で出発です。便利になった高速道路(第二名阪)を利用することで、東海北陸自動車道・郡上八幡ICへは12時前に到着。まず、「郡上八幡城」へ登ります。現在は昭和8年に造られた模擬天守閣がありますが、往時は大変堅固な縄張りであったことが推察される地形にあります。 (博覧館にある郡上八幡城のジオラマ)永禄2年(1559)遠藤盛数(もりかず)が八幡山に城を築き初代藩主となりました。(八幡城年表)この盛数の娘が山内一豊の妻となる千代とのこと。、初代藩主が同姓ということで、なんとなく親近感を覚えたのは確かです。(遠藤氏家紋) (二代城主 慶隆の甲冑)山を下り、「郡上八幡博覧館」(旧市庁舎)へ入ります。丁度、日本三大盆踊りの一つ「郡上(ぐじょう)おどり」(他二つは、「西馬音内(にしもない)盆踊り」(秋田)、「阿波踊り」)の実演中とのことで、早速その演技を鑑賞します。可愛い女性が二人で丁寧な解説を交えながら演技してくれました。館内の他の展示物を鑑賞し(郡上本染め)、由緒ある会議室の様な部屋で昼食をいただきました。。 郡上八幡は水の豊かな町です。「いがわ小径」を歩きます。清流の中、大きな鯉が悠然と泳いでいます。街中至る所にこのような流れ(宗祇水など)があるようで、羨ましいかぎりです。その分、冬は厳しいのでしょうが?その後は、「慈恩禅寺」に (解説文) お参りし、下呂へ向かうこととしました。 今回のお宿も前回の山中温泉と同様に、湯快リゾート「下呂彩朝楽別館」で、この日は、全館満室の盛況です。我々の到着が遅めであったため、8時からの夕食となりました。それまでの時間、のんびりと温泉に浸かり、湯上りビールを飲みながら会話を楽しみました。基本料金の他に、”かに食べ放題”・”お酒飲み放題”のオプションをいれ、存分に蟹を堪能することが出来ました。その後はもちろんカラオケ、ご本人は完全に酩酊状態???。 翌朝はもちろん、朝風呂。朝食はやはりバイキングですが、”品数多さ”、”干物をテーブル上のコンロで焼いて食べることが出来ること”、そして、”十分なもてなしの心持が感じられて”本当に満足させられました。朝食後は「(野口)有情公園」 「飛騨川の川原にある噴泉池」など温泉街の散策。朝のカラオケ。10時過ぎに出発、金運に恵まれると評判の高い「出雲福徳神社」へ向かいました。 「出雲福徳神社」では、お参りをし、ご利益があるといわれる恵比寿さまと大黒さまの御腹を撫で、それぞれに縁起物(私は、金運の良くなる小判型お札3つと足元の厄除けの草履のお札)をいただきました。 昼食は中津川ICの手前にあるお蕎麦屋さんで、全員”とろろ付きざる蕎麦”をいただき帰路につきました。さらに、解散地点のJR松井山手駅前にある「宝くじ売り場」で、「出雲福徳神社」の霊験を頂戴すべく、またまた、全員、夫々で「年末ジャンボ宝くじ」を購入し、解散しました。 |
2010年12月10日 11月29日、「東福寺」の「もみじ」を楽しみ、「エクシブ京都八瀬離宮」へ宿泊、京懐石料理を堪能し、30日、「比叡山延暦寺」を参拝、坂本「滋賀院門跡」・「慈眼堂」も参拝、「鶴喜そば」でお酒、お蕎麦で、締めた旅の概略を「2010年”もみじ”を味わう旅 2」でまとめてみました。明日、明後日はジジ連の忘年会を兼ねた「下呂温泉」への旅です。最後は少し駆け足でのまとめとなりました。 |
2010年12月3日 11月11日の「比叡山から坂本へ」の下見の旅をアップしました。今年の紅葉を愛でる旅はまだまだ続きます。29日、30日の本番の旅とその前に訪れた「銀閣寺」、「法然院」、「南禅寺」などのもみじの有様はこれからです。 |
2010年12月1日 今年も「師走」と言われる最終の月に入ってしまいました。昨日、一昨日は高校時代からの友人達と「京都紅葉狩り旅行」に行ってきました。東京から3名、松本から2名、関西在住2名の計7名で、29日は午後から、「東福寺」で大変な人ごみの中、見事な「もみじ」を楽しみ、夜は、「エクシブ京都八瀬離宮」で、こちらも見事な「京懐石料理」を堪能、30日は、ケーブルで比叡山延暦寺にお参り、坂本ケーブルで下山、「滋賀院門跡」を訪ね、「鶴喜そば」で打ち上げの酒盛りをしました。言葉には出せないほど、楽しさを満喫してきました。29日の午前中には、改修工事が完成した「金閣寺」を訪ね、東山を京都駅方面に下ってきました。それらを「2010年のもみじ」としてアップしたいと思います。先日の比叡山下見の旅も同時にアップするつもりなのです?。 |
2010年11月17日 高橋直樹氏の「悪党重源 中世を創った男」を大変面白く読ませていただきました。平安末期から鎌倉初期の変動の時代に、悪党坊主として大活躍し(もちろんフィクションとは思いますが)、平重衡が治承4年(1180)焼討ちした東大寺大仏殿と大仏様を「造東大寺勧進職」として再建した模様を記しています。その中で、寺社勢力(比叡山延暦寺、岩清水八幡宮など)そして僧形の者達(もちろん重源を含む)による当時の産業、流通支配の様子を教えてくれています。新義真言宗の総本山となっている根来寺が戦国時代に多くの鉄砲を有した僧兵を持つことが出来たワケを教えてくれています。この本の帯符です。 重源 保安2年(1121)〜建永元年(1206)平安末期から鎌倉初期に活躍した僧。俊乗坊と号し、南無阿弥陀仏とも称した。京都生まれ、父は紀季重(きのすえしげ)。醍護寺で学び、四国や熊野などで修行した。仁安2年(1167)、宋に渡り、宋版一切経など、新しい知識や技術を入手し、翌年帰国する。養和元年(1181)焼け落ちたままの東大寺を再建するため、造東大寺勧進職に就任した。時に重源、61歳。そして、大仏殿を再建したのは74歳の時であった。 比叡山と坂本の旅は楽しみながら進行中です。 |
2010年11月14日 11日、今月30日に予定されている友人達との、八瀬ケーブルでの比叡山延暦寺参詣、そして、坂本ケーブルでの下山、坂本散策の下見に行ってきました。梨央ちゃんがお熱で夕方、車でのお迎えの心配があり、駆け足の下見となってしまいましたが、紅葉の写真は沢山撮れましたので、別ページで紹介したいと思います。 |
2010年11月4日 秋晴れの今日は、放射冷却のため、朝の冷え込みは今年一番となりました。昨日、文化の日が誕生日であった、嫁さんのために、息子夫婦がマゴッチの梨央ちゃんを連れて訪れ、(とはいえ、ほぼ毎日なんらかの、面倒を看ているのですが)日頃のお礼にと、プレゼントがあり、お寿司と美味いお酒で盛り上がりました。何かと眼が離せず、盛り上げてくれたのはもちろん、梨央ちゃんです。西国の旅、20番〜23番を一応まとめました。 「20番札所善峯寺と21番札所穴太寺」は京都の旅でも取り上げます。 |
2010年11月1日 29日、JTBバスツアー「西国三十三箇所観音霊場めぐりの旅」、「20番 善峯寺」、「21番 穴太寺(あなおうじ)」、「22番 総持寺」、「23番 勝尾寺(かつおじ)」を巡拝してきました。誰のご利益か?前日は雨、翌日も雨の間の好天気の日となりました。紅葉の名所である「善峯寺」は、「紅葉が真っ盛りであれば、素晴らしい景色であろう」と想像ができる素敵なお寺さんでした。ページはこれからです。 |
2010年10月28日 塩野七生さんの「十字軍物語 1 」を読みました。本の表紙には完全武装した十字軍の騎士が十字軍の赤い十字の描かれた旗を持ち疾駆している姿が描かれています。背景は暗く、遠く、そして近くには城塞が浮き出ています。 「十字軍」という言葉は子供の頃から、そこはかとないロマンを感じる言葉で、その言葉だけで、キリストの聖都イェルサレムを奪回するために、身の危険をかえりみず突き進んだ騎士達の勇姿が目蓋に浮かんできまたものです。本当の姿はどのようなものだったのでしょうか?興味深く読み進むことが出来ます。 本の帯布です。長らくイスラム教徒の支配下にあった聖都イェルサレム。1095年、その奪還をローマ法王率いるカトリック教会が呼びかける。「神がそれを望んでおられる」のスローガンのもとに結集したのはキリスト教国の7人の領主たち。ここに第一次十字軍が成立した。さまざまな思惑を抱えた彼らは、時に対立し、時に協力し合いながら成長し、難事を乗り越えていく。ビザンチン帝国皇帝との確執、小アジア横断、大都市アンティオキアを巡る攻防・・・・そしてイェルサレムを目指す第一次十字軍の戦いはいかなる結果を見たのかー。(当時のキリスト教、イスラム教の世界) 書き出しです。戦争とは、諸々の難題を一挙に解決しようとしたときに、人間の頭の中に浮かび上がってくる考え(アイデア)である。と、ビザンチン帝国の皇帝からの救援の要請をもって西欧を訪れた特使を引見した後に、法王ウルバン二世も考えたかもしれない。・・・・ 十字軍の仕掛け人であるウルバン二世(シャンパーニュ地方の貴族の家に生まれ、グレゴリウス七世と同じクリュニー修道院で学んだ)は、1077年の「カノッサの屈辱」で神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒをへこませ、法王の権威を示したかわりに、その軍事力によってローマから追い払われ、南イタリアを転々としていた法王グレゴリウス七世の真の後継者と言えます。ハインリッヒに対する直接的な方策ではなく、法王権を高める方策として「十字軍」と言う「戦争」を仕掛けたのでしょうか? 聖戦への呼びかけ 1094年の秋、法王は中部イタリアのピサにいた。そこから法王の一行は、フィレンツェを通って北イタリアのピアチェンツァに向かう。ピアチェンツァで、グレゴリウス七世派、つまりキリスト教世界の改革に賛同する派の司教たちを集めて公会議をひらくことになっていたのである。・・・・世暦1095年11月、クレルモンの地で開催された公会議の主要舞台は、屋内ではなく屋外であった。・・・・「アピール」は、前半と後半に分かれて成されたようである。五十三歳になっていたかってのクリュニー修道院の修道僧は、彼のとっては生涯の勝負の場になるこのクレルモンで、聴く者の全員に向かって力強く語りかける。 まず、前半では、現在のキリスト教世界をおおっている倫理の堕落を嘆く。神の教えに反する利己的な行為が横行している現状を糾弾し、このまま放置しておいては神の怒りが下されると叱責する。そして、そのような事態に陥らないためにと、「神の休戦」を提唱した。キリスト教徒同士なのだから、領土保全であろうと領土拡大であろうと、戦争はやまにすべきだと説いたのである。 演説の前半ではキリスト教徒を非難したローマ法王だが、後半ではそれが異教徒に向かう。キリスト教徒の間で「休戦」が実現したとしても、キリスト者にはまだ重要な仕事が残されている、とつづけるのだ。そしてそれは、東方に住み、絶えずお前たちの助けを求めている「兄弟」の許に駆けつけて、この信仰上の同胞に助けの手をさしのべることである、と。・・・・イスラム教徒は地中海まで勢力を拡大し、お前たちの兄弟を攻撃し、殺し、拉致しては奴隷にし、教会を破壊し、破壊しなかったところはモスクに変えている。彼らの暴行を、これ以上許すべきではない。今こそ彼らに対し、立ち上がるときがきたのだ。・・・・なぜならこのことは、わたしが命じているのではない。主イエスが命じているのである。かの地へ向かい、異教徒と闘い、たとえそこで命を終えたとしても、お前たちは罪を完全に許されて者になる。わたしはそれを、神から授与されている権限をもって、はっきりとここで約束する。・・・・ 聴いていた人々は、一人残らず感動した。群集の間からは自然に、「神がそれを望んでおられる」(Deus livult)の声がわきあがり、その大歓声の中で、聖戦に志願する最初の一人が、演説を終えたばかりの法王の前に進み出た。・・・・ それにしても法王ウルバン二世は、アジテーターとしてもなかなかの巧者だったが、オーガナイザーとしても一級の才能を示すことになる。いっときの感激や興奮は、すぐに消えることを知っていたのであろう。この後の10日を費やして討議し公会議で決定したのは、次の諸項であった。 1、十字軍に参加する者は、完全免罪が与えられる。 人間は生まれたときから原罪をもつ身であるとはカトリックの教理の基本だが、その原罪に日々の生活で犯す小さな罪が加わると、特別に悪いことをしていなくても死後の天国行きが不安になってくる。そう思う善男善女が大半であったのが、中世であった。それを、参加さえすれば天国行きは確実だと言われたのだから、この人々が救われたと喜んだのも当然であったのだ。 また、完全免罪とは、殺人などの凶悪な罪を犯した者にも「免罪」を与えるということである。つまり、十字軍に参加さえすれば、これまでの悪行もすべて帳消しにするというのだから、アウトローたちまでが競って十字軍に参戦することになったのである。 2、 病気中とかのやむおえない理由によって参加が無理な者は、他の人々の参加に要する費用、衣服や武器を買い求めるための費用を献金すること。 このことの決定は、貧民たちにも十字軍参加への道を開くことになった。 3、 発つ者後に残していく資産、動産、不動産の別なく資産の帰国までの保全は、ローマ法王が保証人になり、その者が属する教区の司祭が実際の監視の責任を負う。 4、 十字軍参加に要する費用捻出のために資産を売る必要のある場合、またはその資産を担保にして借金する場合は、それが正当な値で成されることを法王が保証し、実際の監視は司教や司祭が責任を持つ。 5、 十字軍に参加したい者はまず、その者が属す教区の司祭に申し出、その許可を得た後で十字架に誓い、その後初めて出発することができる。 6、 十字架に誓った後でも出発せず、または出発しても途中から早々にもどってきたりした者は、だだちに破門に処せられる。・・・・ 「貧民十字軍」 粗末な僧衣に身を包み、ろばに乗って村々をまわる巡回説教僧である隠者ピエールに先導された十万人とも言われる?騎士、兵士、農民、都市の下層に属する人々の「貧民十字軍」は、諸侯たちの十字軍に先立ってコンスタンティノープルから小アジアへ渡りますが、イェルサレムへ着くことが出来たのは極少数の人たちだけだったようです。 「諸侯たちの十字軍」 その主要メンバーは トゥルーズ伯サン・ジルと法王代理の司教アデマール。 ロレーヌ公ゴドフロアと、その弟のボードワン。 プーリア公ボエモントと、甥のタンクレディ。 の三組6人となり、兵力は約5万と推定されています。 諸侯たちの十字軍は、西暦1097年の春に小アジアに渡り、ビザンチン帝国のアレクシオス皇帝の数々の企み、妨害を受けながら、セルジューク・トルコとの戦いを進めます。ニケーアを攻略、ドリレウムでトルコ軍の大軍を破り、西暦1097年10月20十字軍の最初の兵士が、アンティオキアを遠望する丘に姿を現します。そして、長い攻城戦の結果、西暦1098年6月3日アンティオキアは陥落します。城内では、異教徒に対する殺戮、略奪が行われます。 アンティオキアから聖地イェルサレムの解放へ向かう十字軍の諸侯の顔ぶれは、ロレーヌ公ゴドフロアと弟ユースタス トゥルーズ伯サン・ジル タンクレディ ノルマンディー公 フランドル伯 となります。兵力は1万5千に減っています。 その他の方々は ボードワンはエデッサとその周辺一帯の堅持のため 司教アマデールはアンティオキア陥落後疫病で死去 ボエモントはアンティオキアとその周辺一帯の堅持のため フランス王弟ユーグは十字軍からの皇帝アレクシオスへも提案を持ってコンスタンティノープルへ ブロア伯は北ヨーロッパの自領へ として、イェルサレム解放には向かえぬこととなります。 「聖都イェルサレム」 西暦1099年6月7日、十字軍はイェルサレム遠望する地に到着します。その部分のを抜粋します。 西暦1099年6月7日、十字軍はついに、イェルサレムを遠望する地に到達した。諸侯たちは馬から降り、甲冑のたてる金属音の中で、まるで教会の中にでも入ったかのように、うやうやしく片ひざをつき、兜を脱いだ。騎士たちも馬を降り、それのつづく。 兵士たちに至っては思わず両膝をついてしましい、両手を上にあげて泣き出す者もいた。誰もが感動に震え、感涙にむせんでいた。生まれてときからくり返し聴かされてきた聖都イェルサレムが、今や彼らの目の前にある。おりからの夕日を浴びて、静かにそこにあるのだった。ついに来たのだ、という想いが全員の胸を満たし、それがあふれてくるのを甘美な想いで受けとめていたにちがいない。 第一次十字軍の戦士たちは、この瞬間、謙虚な巡礼者になりきっていたのである。・・・・・イェルサレムは、このような想いを人々に感じさせる都市なのである。だが、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の別なく、同じたぐいの想いを抱かせてしまうのところが、一神教で摩擦を産む原因でもあるのだった。・・・ 「イェルサレム」解放 7月15日の朝の攻撃で、イェルサレムは解放されます。イェルサレムの市内では、その間、アンティオキアの陥落時にも優るとも劣らない残虐さで、惨劇がくり広げられていた。 アンティオキアのとき同様に、十字軍は、市内にはイスラム教徒しかいないと思いこんでいる。キリスト教徒はいなかったが、ユダヤ教徒はいたのだ。だが、ヨーロッパから来たキリスト教徒にしてみれば、ユダヤ教も異教徒である。それで十字軍の兵士たちは、人と見るや殺しまくったのである。捕らえて奴隷に売ることでさえ、その日の彼らの頭にはなかったようであった。聖なる都イェルサレムには、異教徒は一人でも残っていてはならないのであった。・・・・ ・・・・第一次十字軍によってシリア・パレスティーナの地に打ちてた十字軍国家は、これら第一世代が創り上げたのであった。ヨーロッパを後にした1096年からイェルサレム陥落までの3年間で征服をし、その後の18年間を費やして確立して行ったのである。皇帝や王も参戦していなかった第一次十字軍の主人公たちは、ヨーロッパ各地に領土を持つ諸侯たちであった。彼らは、ときに、いやしばし、利己的で仲間割れをくり返したが、最終目的の前には常に団結した。この点が、利己的で仲間割れすることでは同じだった、イスラム側の領主たちののちがいであった。そして、それこそが、第一次十字軍が成功した主因なのである。 十字軍は第八次まで行われ、200年後、1291年には十字軍国家が消滅します。信心深いキリスト教徒にとって、主イエスの足跡をたどる巡礼行が不可能ななり、それによって与えられる免罪に手が届かなくなってしまったのです。ローマ法王庁は「ローマに巡礼してもイェルサレムに巡礼すると同じ神の許しが得られる」と、決めました。このローマ巡礼が「聖年」で、1300年に始まり、原則的には25年ごとで、2000年は「大聖年」ということのようです。(以上、「絵で見る十字軍物語」から) 第二次十字軍以降の状況は次号からの楽しみです。「十字軍物語 1 」の発刊の前に、「絵で見る十字軍物語」が刊行されており、十字軍の概略は読み取ることが出来ます。でも、本編が待ち遠しい想いです。 |
2010年10月25日 昨日、一昨日の2日間、生まれ故郷である松本へ中学の同級会への参加のため行ってきました。23日は午後同級会が始まる前に、惣社に住んでいる姉夫婦の所へ寄る事としたため、朝、6時20分過ぎに家を出ました。 名古屋駅からは9時発「しなの」への乗車です。今回は座席指定をしていなかったのですが、早目に名古屋駅に着いたため、ゆっくりと座席が確保できましたが、発車時間間際に乗ってきた方々、10名ほどは立たざるをえなくなっていました。 折角の好天気ですので、車窓から沿線の景観をカメラに収めようと考えていました。自由席でしたので乗車時点で車両の左側に席を取っています。中津川を出てしばらく行くと、「御嶽山」(写真は御嶽山方面となったようです。)が見える地点があります。さらに、木曽福島の直前には、「寝覚ノ床」があります。 11時過ぎに松本駅に着き、松本城周辺を散策し、写真を撮ります。ここもやはり外国人観光客が多数です。もちろん、中国の方が大半でしょう。紅葉は遅れているのか、目立つ赤色は少ないのですが、もみじの黄色の葉は完全に色づいています。今年のお濠端。 2007年10月28日のお堀端。 一週間の違いだけなのでしょうか? お昼は「北門」で、”おおもり”のお蕎麦です。 姉夫婦はもちろん80歳を超えています。最近大病をし、ともに手術を経験しています。でも、元気そうでひと安心し、3時間ほどゆっくりと会話を楽しむことが出来ました。 今回の同級会は、「美ヶ原温泉 鄙の宿 金宇館(かなうかん)」。かっては文人墨客が多く訪れた、古く由緒ある、京懐石料理が自慢のお宿です。建物が建てられたのが、昭和3年。その時の写真が玄関口に懸けられています。(釈 迢空 ひるふかく 湯ぶねにおつる ゆのおとや やども そともも 花の山なる)偶然、今回参加していただいた先生が昭和3年生まれ、83歳ということで、古い、新しいの言葉は簡単には言えない雰囲気とはなりましたが?(2回廊下の床板はさながら知恩院の廊下の状況です。)。会はいつものように皆が言いたいことを言えるリラックスした最高の雰囲気で、折角のお料理の味も十分に味わい尽くすことは不可能なことは言うまでもありません。ホント、いつも幹事さん方には感謝!!感謝!!!!です。 24日は幹事さんの車で、鷹匠町の兄の家へ送ってもらい、仏壇のジジ・ババ、父ちゃん、母ちゃんに日ごろの不義理をお詫びしました。西国、四国霊場にお参りの折は必ずお念仏は欠かしていませんが。 この日は、松本市のとなり、「山形村・唐沢そば集落」にある「からさわ屋」で、「手打ちそば 1人前(皿2枚)」とお酒1本を、付け出しに出して頂いた野沢菜の漬物とともに味わうことが出来ました。前日から新そばを打ち始めたとのことで、さらに、美味かった!!!兄ちゃん、ご馳走様でした!!! 夕方から雨の予報が出ており、早めに帰ることとしました。列車の指定時間を変更し、5時には家に着くことが出来ました。大降りになる寸前での帰宅でした。 29日は「西国三十三箇所観音霊場の旅」、「22番 総持寺」・「20番 善峯寺」・「21番 穴太寺」・「23番 勝尾寺」への参拝です。 |
2010年10月19日 「継体ウォーク2010」の後半を歩いてきました。先週の13日のことです。好天に恵まれの思いつきです。 10時15分に家を出て、途中に最近開店した今流行りの”地野菜直売所”に立ち寄り、昨年開通した「山手幹線道路」を歩き右折、地道を、通称「一休寺」(酬恩庵)へ向かいます。11時50分到着。一休寺の駐車場は珍しく多数の車が駐車していました。翌日の新聞には、お寺の改修落慶法要が行われていたとの記事が載っていましたので、希望してもお寺の拝観は無理であったように思われます。さらに、山手幹線を歩き右折し、やはり地道を。周辺は黄金色に染められた稲が重く首を垂れています。実りの秋を感じるのは嬉しいことです。12時20分、「酒屋神社(さけやじんじゃ)」由緒は「敏達天皇2年、酒屋連が神託によって酒彌豆倉神を西側山上に祀った貞観元年(859年)」祭神は「津速魂神(つはやむすびのかみ)」、配神は「応神天皇」。神社をゆっくりと参拝し、歩いてすぐの「筒城宮碑」のある同志社大学田辺キャンパス正門には12時35分に着きました。ここで、現皇室の元になったといわれている「継体天皇」について整理してみます。 『日本書紀』では、506年に武烈天皇の崩御の後、大連大伴金村らが越前に赴き、応神天皇5世孫とされる男大迹王(おおどのおうきみ)を大和王権の大王に招き、王は翌年58歳で河内国樟葉宮(くすばのみや)で即位、武烈天皇の姉もしくは妹の手白香皇女(たしらかのひみみこ)を皇后とした。とされています。 『古事記』では、「品太(ほむだ)王の五世(いつせ)の孫(みこ)、袁本杼(をほどの)命、伊波禮(いわれ)の玉穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき。」と記され、娶った妻との間に後の安閑天皇(27代)、宣化天皇(28代)、欽明天皇(29代)を残しました。特に欽明天皇は大后である手白香皇女との子であることから、この安閑天皇、宣化天皇は早い時期に欽明天皇により攻め滅ばされ実際には皇位についていない可能性があるともいわれています。また、この継体天皇の時、北九州(筑紫の君)で「磐井の乱」が起こっています。決して安泰の王権ではなかったことがうかがわれます。 ちなみに、欽明天皇のあと30代は敏達天皇、31代は用明天皇、32代は崇峻天皇、33代は推古天皇で、聖徳太子は用明天皇の子です。後の歴史上では大変重要な天皇といえます。 同志社大学キャンパスを出て、坂を下り、少し歩きますが以前にも家族で楽しんだことがあるパスタ屋さんで昼食としては少し重くは感じますが、サラダ、ソフト飲料はビュッフェスタイルでのスパゲティをいただき、もちろん、グラスワインも、JR同志社前から帰途に着きました。 |
2010年10月4日 ”ジジ蓮”の下呂温泉への旅行が12月に延期となった2日、3日の土日は大変忙しいこととなりました。2日は木津川の向こう側に住む孫の美緒ちゃんの保育園での運動会、さらに近所に住み9月に保育園に入園したばかりの孫の梨央ちゃんの運動会が同日に行われました。運動会の写真は連続して撮影してきており、美緒ちゃんからのご招待を受けていましたので、毎年のことですが、約1時間かけて歩いて行くこととなりました。日ごろの遊びの成果を両親、ジジ・ババに見せようと、懸命に頑張る園児たちに混じり、贔屓の引き倒しですが、美緒ちゃんの一番に目立つ活躍に手離しで喜ぶ、(望遠レンズでの撮影にやっきとなっているのですが。)ジジババでした。特に、4、5歳児30人ほどによる「へっちゃらロック」を歌い、ダンスをし、フラフープを一斉に回す演技はなかなか見事なもので、すっかり楽しませてもらいました。もちろん、お天気は上々でした。 昨日、3日は「まちづくり市民ねっと京田辺」主催の「継体天皇筒城宮遷都1500年記念・継体ウォーク2010」(継体天皇樟葉宮伝承地から筒城宮伝承地碑(同志社大学構内)までの約13キロを歩くイベント)のイベントに主催者の方々には大変申し訳ないことですが前半の半分のみ参加してきました。 結婚後男山団地に住み、現在の京田辺市に引っ越した後も京阪樟葉駅を通勤のメインルートとしてきた者として、樟葉宮伝承地は名前としては馴染み深いものでしたが、「交野天神社」にあるとの話から、その場所はもっと南側と考えており、まさか、北側の男山方面とは考えておりませんでした。今回このイベントに参加し、確認できたことについて、感謝、感謝です。 JR松井山手駅バス停から8時29分発の京阪樟葉駅ゆきに乗り、50分に公園前で下車。北へ15分ほど歩き、「鏡伝道の道」に入り、さらに鬱蒼と木々が茂る天神社境内に入ります。境内の少し高い位置に、「樟葉宮跡伝承地」といわれる「貴船神社」があります。(説明板です。)ここで枚方市のボランティアガイドさんに説明を受け、「交野天神社」、(その説明板) 「市民の森」 内にある「鏡伝池」 (その説明板です。)をまわります。9時45分、「市民の森」を出発し、男山団地の横を通り、円福寺前、洞ヶ峠、を経由、11時前には昼食場である「欽明公園」に。ここで、心配されていた雨が降り出し、皆様には大変失礼なことですが、小生はここまでとして、松井山手駅に戻りました。皆様は大した雨にも会わず、目的地の同志社大学構内の「筒城宮碑」まで無事に行かれたことをこの会への参加で知り合うことが出来たKさんからのメールで知ることが出来ました。「筒城宮碑」、 「観音寺・大御堂」には何回も歩いていますので、近々、後半は嫁さんと歩くことになります。 |
2010年9月20日 「敬老の日」の休日です。68歳の本人はあまり、ピンときてはいません。朝晩はようやく過ごしやすくなって来て、ゆっくりと眠れるようになりましたが、昼と夜の気温差が大きくなってきた為か、昼は身体が重い、昨日今日です。 塩野七生さんの「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」を読みました。この本は、昭和56年(1981年)に初版が発行されたと記されていますので、「ローマ人の物語」より、ずっと前に書かれたものです。世暦452年、アッティラの進入を避けて、潟(がた、ラグーナ)の中の島に移住をし、697年、共和国の初代元首(ドージェ)の選出、1797年、共和国が崩壊するまでの一千年、地中海の覇権をかけたジェノヴァとの戦い、第七次にもわたるトルコとの宿命的な戦い、神聖ローマ帝国、フランスなど帝政国家との戦い、ローマ法王との駆引きなど連続する危機を切り抜け、共和制を維持し続けた苦難の歴史を記述しています。元首が君主に変わらない為の「これでもか」とさえ思われる安全装置の各種設定は、ヴェネツィア共和国の人々以外にはなかなか理解できないものを含んでいるように思われます。 ここで、キリスト教に疎い自分には興味深いヴェネツィアの「守護聖人」について記した部分を抜粋します・ 二人の持ってきた聖人の遺骨は、年代記によれば(828年の出来事)こんなふうに迎えられた。 「街中が狂喜した。どの街角でも、人が寄るとさわると、聖人はヴェネツィアの国の繁栄と栄光を保証してくださる。と言い合うのだった」 聖遺物のヴェネツィア上陸は、元首以下、庶民の端々に至るまでのヴェネツィア中の人々の迎える中で、賛美歌の合唱に伴われて行われた。元首は、自らの財産の大きな部分を、聖遺物を祭る寺院、聖(サン)マルコ寺院の建設に寄付した。二人の商人のご禁制破りの罪がとがめられなかったのは言うまでもない。トリブーノとルスティコの二人は、共和国に大いなる功績をもたらした人として、歴史に名が残ることになった。 ヴェネツィア人が、同時代の他の国の人々に比べて、特別に信仰が深かったわけではない。法王の禁制を平然と破るくらいだから、あの二人のようなヴェネツィア商人は他にもいたことは、資料が実証してくれる。それくらいだから、他の国のキリスト教徒に比べて、狂信的信仰から最も遠いところにいたのが、ヴェネツィア人であったのである。 ヴェネツィア人も、他のキリスト教徒と同じく、それまでにも自分たちの守護聖人をすでに持っていた。聖デオドーロである。ただ、このギリシャ出身の聖人は、聖人のヒエラルキーのうえでは、どうもあまり高い地位にある聖人とは言いかねた。言ってみれば、三流どころというわけである。 との聖人には、ころが、聖マルコはちがった。聖人のヒエラルキーの一番うえは、キリストの弟子であったということで、もちろん十二使徒である。それに続いて、聖パウロと、福音書を書いた四人の聖者、聖マテオ、聖ルカ、聖マルコ、聖ヨハネがくる。ここまでが、一流ということになっている。洗礼者聖ヨハネも、このグループに属する。ちなみに、フィレンツェの守護聖人は洗礼者聖ヨハネ、ローマは、当然ながら聖ペテロである。ヴェネツィアもこれで、一流の聖人を守護聖人に持つことになったのだった。当時のヴェネツィア人の得意さも、想像できるというものであろう。早速、聖テオドーロには次席に退いてもらって、聖マルコが、ヴェネツィアの正統な守護聖人と決まられた。 しかも、聖マルコを寓意するのが、獅子ときている。福音書作者の四人の聖人には、それぞれ寓意の動物が決められていた。ヨハネの黙示録に出てくる四つの動物である。 聖マテオには、誕生をあらはす人間、 聖ルカには、犠牲を示す牝牛、 聖マルコには復活を意味する獅子、 聖ヨハネには、昇天を寓意する鷲。 翼をつけた獅子、聖マルコの獅子、これならば誰でも景気づけられる。ヴェネツィア人は、福音書を書いた知識人には彼に捧げた寺院で休息してもらって、聖書の片脚をかけた翼のある獅子の像を、国旗にしたのであった。現在も残る、緋色の地に金糸で刺繍したそれは、ヴェネツィア人の行くところ、どこでもひるがえるようになった。・・・・・ 簡略年表 世暦452年 アッティラを避けて、潟の中の島に移住。 (476年 西ローマ帝国滅亡) 697年 ヴェネツィア共和国初代元首選出。 (701年 大宝律令の完成 694年 平安京遷都) 828年 聖マルコの遺骨、アレキサンドリアからヴェネツィアに到着→守護聖人に(962年 神聖ローマ帝国成立、オットー一世) 1000年 元首ピエトロ・オルセオロ二世、アドリア海の制海権獲得→海洋交易時代。 1097年 十字軍始まる。 99年 イェルサレム征服。 1147年 第二次十字軍→失敗 ヴェネツィアのビザンチン帝国統治、決定的に。(保元・平治の乱) 1188年 第三次十字軍→失敗 (1200年 鎌倉幕府成立) 1204年 第四次十字軍、コンスタンティノープル征服ーーヴェネツィア、東地中海の女王に。 1258年 第一次ジェノヴァ戦。 1271年 マルコ・ポーロの一行、東洋に出現。 1294年 第二次ジェノヴァ戦。 (1299年 オスマントルコ建国) 1350年 第三次ジェノヴァ戦。 1355年 元首マリーノ・ファリエルのクーデター→失敗。 1378年 第四次ジェノヴァ戦→勝利。 1453年 トルコによるビザンチン帝国滅亡。 1470年 ネグロポンテ、トルコに奪われる→第一次対トルコ戦。 79年トルコとの講和成立。(コロンブス、新大陸発見) 1499年 第二次トルコ戦。 1503年 トルコとの講和成立。 (1512年 トルコ、メッカ領有。 19年 スペイン王カルロス、神聖ローマ帝国皇帝に 22年 フィレンツェ共和国崩壊) 1538年 プレヴェザの海戦→第三次トルコ戦。 40年 トルコとの講和成立。 (反動宗教改革 ポルトガル船、種子島に) 1571年 キプロス、トルコに奪われる。 レパントの海戦→第四次対トルコ戦。 73年 講和成立 (長篠の戦い) 1606年 法王、ヴェネツィアを聖務禁止処分に。 (1600年 関が原の合戦) 1645年 クレタ攻防戦はじまる→第五次対トルコ戦。 69年 講和成立。 1684年 モレア再復戦始まる→第六次対トルコ戦。 99年終結。 1714年 第七次対トルコ戦→第二次モレア戦。 (75年 アメリカ独立戦争 88年 合衆国憲法成立 89年 フランス革命勃発) 1797年 ヴェネツィア共和国滅亡。 (96年 ナポレオン戦争はじまる) |
2010年9月11日 9日は、久しぶりにゴルフを楽しんできました。台風が8日に通り過ぎたため、今年の夏初めて、9日の午前中のみは大変過ごし易い気候となり、スコアーは別にして、ラッキーな一日でした。西国33ヶ所、2番、紀三井寺〜5番、葛井寺をまとめました。 |
2010年9月8日 京田辺市の9月、全国一の最高気温に黄信号がでました。観測機器の周辺に蔦状の草が絡まっていたことで、風通しが悪くなり、気温が上昇したのではないかとの疑惑です。京田辺市に住む者としては、最近の最高気温報道に疑問を持っていたことは確かで、測定地点は何処なんだろうという疑問を持っていました。暑いことは確かですが!!! 「西国33ヶ所の旅」、2番〜5番をまとめつつあります。 |
2010年9月6日 猛暑について、9月2日に触れましたが、今朝の新聞でさらに驚きました。昨日の京田辺市の最高気温が、9月としては熊谷市を抜いて、史上最高の39.9度を記録したというのです。記念に新聞の切り抜きを写真に撮りました。こんななかで、西国33ヶ所2番からを整理していますが、ホントヤスミヤスミの状態です。 |
2010年9月2日 ホント猛暑が続いています。このところ何日か、その日、日本一の最高気温を記録した都市として、私どもが住む、「京田辺市」の名前が報道されました。これまでは、埼玉県の熊谷市、岐阜県の多治見市あたりが、その栄冠を受ける都市として記憶されています。喜んでいいのか、悲しむべきことなのかは不明です。でも、暑い!!暑い!!! こんな猛暑の中、昨日、1日には「西国三十三ヶ所霊場めぐりの旅」、2番〜5番をお参りしてきました。7月に始まり、第一回目の旅に参加したJTBの夏のシリーズ、第二回目の旅です。2番「紀三井寺」、3番「粉河寺」、4番「施福寺」、5番「葛井寺」の4ヶ寺ですが、朝、粉河寺から午後にして欲しいとの連絡があったことから、5番からの「逆打ち」の旅となりました。「施福寺」は三十三ヶ所霊場の内で、最もシンドイお参りとして知られているようでしたが、ホントその通りで、暑さもあり、体中から水分が絞り出されるようでした。4ヶ寺ともに歴史があり、大変印象的な霊場巡りとなりました。暑いけれども好天気のゆえか「紀三井寺」からは淡路島、四国本島まで望むことが出来ました。 |
2010年8月12日 昨日は、平成14年に着工、この春先に復元、完成し、平城遷都1300年祭のイベントが行われている平城京跡の第一次大極殿を訪ねようとでかけました。午後からは雷雨の予報が出ていたため、早めに出掛けることとしました。JR大住駅からJR平城山駅へ。歩いて平城山越え、 古墳の間を縫い、 平城天皇陵を訪ね、平城京跡には8時半過ぎには到着しました。大極殿への入場は9時からということで、少し待たされることになりました。 今回出掛けるキッカケは、松本に住んでいる義兄がソニーの一眼レフ・デジカメを送ってきてくれたことによります。今使っているニコンの一眼レフとの違いを知っておきたいとの思いです。そんなことで、同じアングルの写真を両方のカメラで撮影することとなりました。ページにアップした時はどうなるのかな?楽しみです。 同アングルでの大極殿 ソニーデジカメ ニコンデジカメ です。 正面からの大極殿。 ソニーデジカメ300mm望遠で 高御座(たかみくら) 大極殿から真南には朱雀門、その右手に葛城、金剛連山が望まれます。 朱雀門です。 朱雀門から大極殿を望みます。(近鉄特急が走っています。) 東院庭園の隅楼です。 西大寺・奈良ファミリーで昼食のお蕎麦をいただき、買い物もついでにして、帰路につきました。 |
2010年8月10日 今年は、本当の猛暑です。体調管理は大変難しいことになっています。 「ローマ人の物語」を整理してみました。ほぼ半年間、通読し、整理してみて作者である塩野七生さんの意図することがなんとなくわかって来たように思われます。「歴史をこれから指針とすべし」ということで、繰り返しその要点を記述しています。昨今の世界情勢、さらには日本国内の情勢、特に政治の世界は「歴史」を勉強してきたとは思えない事柄の連続です。自分で整理したものを、時々に読みながら、コメントの追加などしていきたいと考えています。 |
2010年7月30日 塩野七生さんは、平成12年1月、第1刷発行で、「ローマ人への20の質問」という本を文芸春秋社より出されていました。「ローマ人の物語」を書いておられる途中でのものと思われますが、その中で、特に興味深い3点の質問とその答えを整理してみました。 質問7 <パクス・ロマーナ>とは何であったか 「ローマ人の物語Y パクス・ロマーナ」で、詳細を語っています。これを整理したものと考えてよいのでしょう。(「ローマ人の物語 パクス・ロマーナ(ローマによる平和)上・中・下」は「アウグストゥス(オクタヴィアヌス)」が「ユリウス・カエサル」の意思を継ぎ、共和制を尊重する振りをすることで元老院との確執を避けながら、実質帝政への足場を固めてゆく過程の物語です。広大になったローマの平和を維持するには、どうしても素早い、そして強力な意志の決定が必要となったのです。) PAX(平和)の定義として 平和は誰でも望んでいると思っているでしょうが、誰もが望んでいるならば戦争は起こらないはずです。ところが、人類の歴史は戦争の歴史としてもよいくらいに、戦争はいっこうに姿を消してくれません。ということは、平和を望んでいる人々がいる一方で、望んでいない人々も常にいたということです。つまり、平和には以外にも利己的な面があるということですね。それで、利己的の面から眼をそらすことなく<平和>を直視すれば、個人でなく部族や民族や国家のような共同体規模の<平和>を直視するとすれば、平和を望む想いには大別して二つあるということがわかります。 第一は、経済活動を主としているために、それが活動しやすい状況ということで平和を望む。 第二は、防衛に適した地域までの制覇は完了したので、以後は平和を国家政策とする。 第二の典型がローマであったのはいうまでもないでしょう。共和政時代に攻勢一方であったローマも、帝政に移行して以後は<パクス>をモットーとするように変わったのです。・・・ 帝国の統治運営に必要な人材を、本国のイタリア生まれに限定せずに、人種も宗教も肌の色も無関係に属州出身者からも広く登用し、安全保障と生活水準の向上に努めることで広大な帝国のローマによる平和を維持することが出来た、と言うことです。 質問9 市民とは、そして市民権とは何か 「市民」とは 「市民とは、国政参加の権利を持ち、国の防衛の義務をもつ存在です。とはいえ、いずれも古代に栄えた文明でありながら、また都市国家という国体でも似ていながら、ギリシャ人とローマ人では、市民ないし市民権に対する考え方が正反対としてもよいくらいにちがっていました。・・・アテネ人の考えた<市民>とは、アテネの領内で両親ともがアテネ人の間に生まれた人間だけを意味していました。・・・一方、ローマ人のほうは、市民ないし市民権を、アテネ人とはまったく反対に考えていたのです。アテネ人の考える市民が<血>であれば、ローマ人の考える市民とは、<志をともにする者>としてよいかもしれません。・・・「ローマはアテネとちがって、階級社会であったのです。双方の社会を比べてみると、 アテネ=市民、他国人、奴隷 ローマ=元老院階級、騎士階級、市民、属州民、解放奴隷、奴隷 となりますが、ローマでは階級が分かれていただけでなく、階級間の流動性も高かった。つまり、平等を大前提としなかったがゆえに、かえって階級間の流動性が高まったのです。元老院議員の少なくない部分が、解放奴隷を祖先にもつと言われたくらいでしたから。・・・ ただ、紀元212年、カラカラ帝が、属州民すべてに「市民権」を与える法律(「アントニヌス勅令」)を実施したために、階級間の流動性が阻害されることとなります。 (「取得権」の「既得権」化による影響 これによる影響は、ヒューマンな法と誉めてなどいられない大きなものになる。1)従来のローマ市民権所有者から、帝国の柱は自分たちだという気概を失わせた。 2)旧属州民から、向上心や競争の気概を失わせた。 3)属州税の徴収が不可能になり、戦費調達のための臨時税が恒常化した。 4)ローマ社会の特質でもあった流動性を失わせてしまい、市民階級の中に「ホネスタス」(名誉ある者)と「ウミリウス」(卑しき者)の二分化を起こしてしまった。 皇帝カラカラによる「アントニヌス勅令」はマイナスの意味で画期的な法であったと私は考える。ローマ帝国の一角が、この法によって崩れたのだ。まるで、砦の一つが早くも墜ちた、という感じさえする。しかも、崩壊の端緒をつくったのは敵ではない、ローマ人自身が手を下したのだった。・・・・カラカラ帝に、ユリウス・カエサルの次ぎの一句の意味がわかっていたとは思われない。「どんなに悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によるものであった」) 質問] 多神教と一神教との本質的なちがいについて 「ギリシャ・ローマの宗教は多神教で、ユダヤ教とキリスト教は、そして中世以降はイスラム教も加わりますが、これらの宗教は一神教です。」 「両者のちがいは、神の数だけではありません。本質的なちがいは、両者それぞれが、神をどう考えていたかにある。言い換えれば、どのような神を求めていたのかのちがいなのです。 ギリシャ・ローマの神々には、人間にどう生きるかを指示する役割はなく、自分で考えて努力しながら生きる人間をサポートするだけが役割でした。それゆえに完全無欠である必要も無く、また人間の願望が多様であるのを反映して、それぞれの面でサポートでくるようにと、神の数も多くなったとさえ考えられます。 反対に、ユダヤ教や、それから派生したキリスト教の神は、人間に、どう生きるかを指示する存在です。援助するのではなく、命令し、従わなければ罰を下す神です。一神教の神が完全無欠であるのは、不完全な人間を超越した存在であることが求められたからでしょう。・・・ ギリシャから導入してローマ人の神にしてしまったユピテル、ユノー、ミネルヴァの三主神は別にしても、これ以外の神々はいずれも、ローマと戦争して敗北した民族の神々でした。そして、神々へのこのローマ市民権授与が有効であったのは、相手側も多神教徒であったからです。もしもカピトリーノの丘のうえに神殿を提供されても、一神教のユダヤ教徒では、受けるわけにはいかなかった。他の神々との共棲を受け入れようものなら、一神教でなくなってしまうからです。そして、一神教が勝利して以後は、他のすべての神々はカピトリーノから放逐される。現代のカピトリーノの丘に建っているのは、キリスト教の教会だけです。」 「ローマ人の物語 14 キリストの勝利」からです。 「異教」と「異端」 紀元380年から395年までの15年間は、キリスト教の勝利への道の最終段階になる。そしてこの15年は、背後にアンブロシウス、全面にグラティアヌスとテオドシスの両帝が立っての、「異教」と「異端」の双方に対する、全面的な宣戦布告からはじまったのである。 「異教」とは、もはや説明の要もないと思うが、キリスト教以外すべての宗教を指す。ギリシャ・ローマの宗教、シリア生まれの太陽神、同じくシリア生まれのミトラ神、エジプト生まれの諸神、カルタゴ生まれのタニト女神等々への信仰が「異教」と見なされるのは当然だが、これらの多神教に分類される宗教とはちがって、一神教であるユダヤ教も、キリスト教にすれば「異教」の一つであったのだった。 一方、「異端」となると、三位一体説(神とその子イエスは同格であり、これに精霊を加える)を信仰するカトリック派以外すべての、キリスト教内部の宗派が対象になる。神意たされる教理(ドグマ)で成り立つ一神教だけに、教理の解釈は人の数ほどある、としてもよいくらいに多い。・・・・ 「異端」排斥 テオドシス帝は、紀元380年から395年なでの15年間に、「異端」排斥を目的にしたものだけでも、15もの勅令を発布している。・・・・「異端」は、それが何であろうとキリスト教会の団結を崩すゆえに悪である、としたテオドシス帝の決意は、半端ではなかった。・・・・ 「異教」排斥 「最高神祇官」(ポンティフクス・マクシムス)とは、ローマ人とその住民共同体である国家ローマを守るとされてきた、最高神ユピテルとその妻のユノー、そして知の女神アテネの三神を最上位にする、国家ローマの宗教を祭る祭司や神祇官たちの最高位に位置する公職で、その設立は、ローマの建国にまでさかのぼるほどに古い。・・・・グラティアヌス帝による「最高神祇官」就任拒否は、それゆえに重大な意味をもっていた。・・・・このグラティアヌス帝が実施した「異教」排撃を目的とした施策に最後は、共和政時代の昔から元老院会議場の正面に安置されてきた、「勝利の女神」の像を撤去させたことである。・・・神像とは、当時のキリスト教会が厳しく禁じていた偶像崇拝を体現したものであり、邪教の象徴であり、何よりも「アウトロー」の具象化、とされたからである。・・ |
2010年7月27日 猛暑が続いています。朝7時から10時まで、軽作業の仕事をしています。お仲間の入院、旅行等があり、7日間連続の仕事をしましたが、仕事を終え、帰宅し、シャワーを浴びると、この猛暑で何をする元気もなくなります。こんな時は、読書が最適です。 塩野七生さんのホントの大作である「ローマ人の物語」を読み終え、続く、「ローマ亡き後の地中海世界 上・下巻」を読み終えました。”パクス・ロマーナ”亡き後、名も無き人々の大いなる悲劇の繰り返しを読み続けることとなりました。地中海全域に襲い掛かった、人・物、金を奪っていく”イスラム教を奉じ、キリスト教徒を襲うサラセン人海賊”の猛威です。”彼らにとっては海賊業は国家公認の生業”なのですから。この猛威に対して、ローマ教皇庁を始めとしたキリスト教を奉ずる国々とその国主たちの不甲斐なさ(一部には、十字軍ではなく、現在のNPO的な指導者、組織はありましたが)には呆れるばかりですが、決して他人事である事象ではありません。あらゆる海賊行為の厳禁を宣言した「パリ宣言」が成立したのは、1856年なのですから。 ここでサラセン人とは 古代ギリシャ語の「サラケノイ」に由来しており、ローマ人も「サラケーニ」と呼んでいたから、古代から知られていたのだ。ただしこの呼び名はアラブ人全体を指しての名称ではなく、アラブ民族の一部で、砂漠に住むベドウィンを指すなであったらしい。・・・・中世の一千年もの長い歳月、アラブ人だけでなく、サラブ人に征服されてイスラム教徒になったベルベル人もムーア人もふくめて、北アフリカに住むイスラム教徒全体の呼称として、「サラセン人」が定着したのである。 と記されています。 紀元651年 ササン朝ペルシャ滅亡。メソポタミア地方がイスラム化される。 紀元652年 アレクサンドリアを発った海賊船、シチリアの首都シラクサを襲う。以降、海賊のキリスト教世界への進入が始まる。 紀元704年 カイラワン(北アフリカ初のアラブ人による都市)の地方長官、「ジハード」(聖戦)を宣言し、シチリア南岸を襲う。 紀元710年 イスラム勢、ジブラルタル海峡を渡りイベリア半島に侵攻。 紀元727年 北アフリカを出発したサラセンの海賊船、シチリア南岸一帯を略奪し、住民を拉致。 紀元731年 サラセン人、ピレネー山脈を越えてフランスに侵入するも、ポワティエの平原で撃退される。 紀元762年 イスラム勢、新都バクダッドを建設し、ダマスカスから遷都。 紀元800年 フランク王国の王シャルル、アルプスを越えてイタリアに進軍。ローマにて法王レオ三世により神聖ローマ帝国の冠を授けられる。 紀元831年 パレルノ陥落。イスラム勢、シチリア島東部へと勢力を拡大。海賊による南伊への襲撃の拠点となる。 紀元849年 春、サラセンの海賊がトスカーナ地方北端のルーニに上陸して徹底的に略奪。その後も北行を続け、ジェノヴァを中心とするリグーリア地方の海岸から南仏までを荒らす。 法王レオ四世、イタリア各都市に呼びかけて防衛軍を結集。オスティア港外でイスラム船団を迎えたが、猛烈な南西風がイスラム船団を襲い、多数の捕虜を得る。(「オスティアの海戦」) 紀元934年 サラセンの海賊、ジェノヴァを襲撃。 紀元948年 サラセンの海賊、南伊のレッジョを征服。 紀元1017年 ノルマン人騎士ら、プーリア地方のイタリア人とともに南伊からのビザンチン勢の一掃に着手。 紀元1066年 ノルマン人、イングランドを攻略。 紀元1086年 ノルマン勢、シラクサを攻略し、シチリアを完全支配。 紀元1099年 第一次十字軍、イェルサレム攻略に成功。 紀元1227年 シチリア王で神聖ローマ帝国皇帝でもあったフりードリッヒ二世、第五次十字軍を招集してイェルサレムを訪れ、イスラム勢と講和。 紀元1258年 バグダット、モンゴル軍の猛攻の前に陥落。 紀元1270年 ルイ九世、第七次十字軍を編成し、チュニジアに向かうも、疫病で死去し、終結。 紀元1291年 パレスティーナのキリスト教勢の側の最後の砦アッコンが陥落し、十字軍時代が終焉。 紀元1453年 コンスタンティノープル、トルコ帝国の攻撃により陥落。ビザンチン帝国の滅亡。 紀元1470年 トルコ海軍、250隻の船団でダーダネラス海峡より出陣し、ネグロポンテを攻略。 紀元1492年 アラゴン王とカスティリア女王、イスラム教徒を一掃し、イベリア半島の再征服が完了。コロンブス、新大陸を発見。 紀元1519年 スペイン王カルロス、カール五世として神聖ローマ帝国皇帝に即位。 紀元1520年 スレイマン、スルタンに即位。 紀元1527年 ローマの掠奪。カルロス、ローマに進軍し、7日間にわたり全市を破壊。親フランスであったクレメンテ7世の路線変更を迫る。 紀元1549年 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来。 紀元1560年 桶狭間の戦い。 紀元1565年 マルタ島攻略のためスレイマンが結集した大軍勢、イスタンブールを出発。マルタ島の聖エルモ城塞への攻撃を開始。聖アンジェロ、聖ミケーレ両城塞に総攻撃を仕掛けるが失敗し、撤退。 紀元1571年 レパントの海戦。スペイン・ヴェネツィア連合艦隊とトルコ軍、ギリシャ西部のパトラス港外の海上で戦闘。結果は連合艦隊の勝利に終わる。 紀元1740年 トルコ、海賊行為を全面的に禁ずる「海賊禁令」に国として調印。 紀元1816年 トリポリ、チュニス、アルジェで、海賊禁止令が実施される。 紀元1830年 フランス、アルジェリアに侵攻。植民地とする。 紀元1856年 あらゆる海賊行為(公的な支援を受けていた「コルサロ」、私的な利益のみを追求する「ピラータ」)の厳禁を宣言した「パリ宣言」が成立。 ここでもやはり、塩野七生さんの最後の部分を抜粋したいと思います。上巻の最後に添えられている現在の「サラセンの塔」ローマ付近、 ナポリ付近の写真です。 現在では観光資源ですが。 ・・・アマルフィは、中世の地中海世界で活躍したイタリアの四大海洋都市国家の、それも一番走者であった。海沿いの美しいこの小さな町は、今では完全に観光地化しているが、旧市街を注意深く見てまわれば、海賊を迎え撃っていた時代の気分になる。 まず、「サラセンの塔」が、海近くと崖の中腹にそれぞれ立っている。そして、オリエントまで進出し手広く交易していた時代の豊かさを偲ばせる華麗なファサードの主教会(ドゥオーモ)からでも、すでに複数の逃げ道が発している。・・・・ バルセロナやマルセーユ、ジェノヴァ、ピサ、ナポリ、シラクサ、パレルモには古い建物が残っているのは、これらの海港都市は自衛力を持っていたからである。これら以外の町や村では、海賊による被害を心配しなくてもよくなった時代以降に建てた、建物が占めているとしてもしかたがなかった。なにしろ、7世紀から始まって18世紀までの一千年をこえる歳月、地中海世界の歴史は、北アフリカから来襲してくるイスラムの海賊なしには物語ることもできなかったからである。 海上からこれらの観光地を眺めるたびに、そして今では、レストランやナイトクラブに使われていたりする「サラセンの塔」に出会うたびに、「パクス」(平和)とは、所詮は普通の庶民の安全を保障することであると、思わずにはいられなくなる。そして、こみあげてくる苦笑とともに思う。人間とは、安全さえ保障されれば、けっこう自分たちでやっていける存在なのだ、と。・・・・・ |
2010年7月21日 息子の出張に合わせて、お母さんの実家に帰っていた孫の梨央ちゃんが3週間ぶりに昨日の夕方、帰ってきました。送ってくれた御両親とで、鳥取と松本の地酒を賞味し、鳥取の海の幸を頂戴しながら、梨央ちゃんに振り回される楽しいひと時を過ごすことができました。有り難いことです!! 「西国33ヶ所観音霊場めぐりの旅」 をまとめてみました。 「ローマ人の物語 15 ローマ世界の終焉」を読み終わり、読後感を整理するのに時間がかかりすぎました。時間がかかりすぎたばかりでなく、内容的にも気落ちする事柄ばかりの整理で、気合が入りません。 塩野七生さんの最後の部分の抜粋と、年表の抜粋をします。 地中海は、もはや、ローマ人の呼んでいた「Mare internum」(内海)ではなくなっていた。異なる宗教と異なる文明をへだてる、境界の海に変わったのである。 飛行機を使えば、イタリアの首都ローマからチュニジアの首都チュニスには、ローマからパリへ行くよりも早く着ける。 しかし、空港を出れば、異なる文明圏に来たことを感じないではすまない。優劣ではなく、ただ単に「ちがう」のだ。それなのに、美術館に行ってローマ時代の彫像やモザイクを鑑賞したり、郊外にまで足を延ばし、今に至るも数多く残っているローマ時代の遺跡に立てば、ローマのフォロ・ロマーノやコロッセウムの中にいるのと同じ感じを持つだろう。 古代には、地中海の北も南も同一の文化圏に属していたのだ。分離したのは、7世紀から後なのである。それゆえ、過去ではつながっているが、現在ならば離れている。しかし、それでは、ローマ人が創り出した、ローマ世界ではないのであった。 ローマ世界は、地中海が「内海」(マーレ・インテルヌス)ではなくなったときに消滅したのである。地中海が、つなぐ道ではなく、へだてる境界に変わったときに、消え失せてしまったのである。 その後の地中海は、サラセンの海賊の来襲を知らせて人々を山に逃す役割を果たしていた「トッレ・サラチューノ」(サラセンの塔)が、崖の上となれば必ず立っていた海であり、十字軍の兵士を乗せた船が東に向かうことになる海になるのである。 だがそれも、紀元1千年を過ぎる頃になると、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアという、東方のイスラム世界との交易に向かうイタリアの海洋都市国家の船が行き交う海になっていく。そしてその後ならば、古代復興と人間の復権を旗印にかかげた、ルネッサンス時代の海にもなって行くのである。 盛者は必衰だが、「諸行」(res gestae)も無常であるからだろう。 これが歴史の理(ことわり)ならば、後世のわれわれも、襟を正してそれを見送るのが、人々の営々たる努力のつみ重ねでもある歴史への、礼儀ではないだろうかと思っている。 完 紀元395年 ローマ帝国の東西分離が決定的となる。 紀元401年 アラリック、西ゴート族を連れてイタリア北部に侵攻。 紀元408年 アラリック率いる西ゴート族、バルカン地方がらイタリアに侵攻、協約履行を要求しローマを封鎖する。 紀元410年 8月24日、西ゴート族、ローマ市内に侵入。5日間の「ローマの劫掠(ごうりゃく)」が始まる。 紀元411年 皇帝ホノリウス、劫掠で荒廃したローマの復興を開始。(〜417) 紀元439年 カルタゴが陥落し、北アフリカ全域がヴァンダル族の支配下になる。 紀元444年 アッティラ、フン族を率いて東ローマ帝国内を侵攻、コンスタンティノープルに迫る。 紀元452年 フン族、北イタリアで略奪を行う。 紀元468年 東西ローマ帝国、共闘して北アフリカのヴァンダル族制圧のため、軍隊を派遣する。ゲンセリックの姦計にはまり、ローマ帝国軍、カルタゴで壊滅。 紀元476年 西ローマ帝国滅亡。オドアケル、イタリア王を名乗る。 紀元546年 ゴーと族、ローマを攻略。 紀元553年 春、ビザンチンとゴート族の決定戦が闘われる。ビザンチン軍が勝利し、ゴート族がイタリアから一掃される。 紀元568年 ロンゴバルド族、南下してイタリアを手中に。 紀元613年 預言者、マホメッド、布教を始める。 紀元636年 シリアがイスラム化する。 紀元642年 エジプトがイスラム化する。 紀元670年 北アフリカがイスラム化する。 紀元698年 カルタゴ、イスラムに陥落する。 紀元1453年 5月29日、コンスタンティノープル、オスマントルコの攻撃により陥落。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の滅亡。 |
2010年7月15日 昨日は、ホント、長い、ナガーイ、バスの旅でした。朝5時半に傘を差して、家を出ます、7時10分の集合時間には無事に着きました。梅雨空は相変わらずで、紀伊勝浦の空模様が心配です。梅田を7時半に出発、難波で乗車する人を乗せ、キツイ雨の中を紀州路へ。この方面の高速道路の終点である「南紀田辺JC]を通過する頃は、薄日がさす空模様となっています。ボチボチ白浜かな?なんて思っていたところ、バスは朝来から海岸線を走らず左折し、山道(311号線)を走ります。熊野詣の道筋の中心でもある中辺路町を通過、「牛馬童子ふれあいパーキング」で一休み。「熊野古道」の道標があり、山道の気配を強く感ずることができます。12時丁度、道は「熊野川」にぶつかります。左へ行けは1.8キロで「熊野本宮大社」への道ですが、左折し、熊野川を下り、新宮方面へ。熊野川には、「瀞峡」ジェットラインの船が見えます。新宮からは「那智勝浦新宮道路」を通り、紀伊勝浦から「那智大社」「青岸渡寺」へ向かう道へ、1時過ぎに長い往路のバスの旅が終わり、「青岸渡寺」への到着です。途中、部分的に雨が降りそそぐ地域を通過しましたが、我々が到着した時点では傘を差すほどのことがありません。444段の階段を登りきる手前の那智大社と青岸渡寺への分かれ道部分で、「那智の火祭り」の一団が、那智大社でお払いを受けた後、「那智の滝」へ向かう行列に遭遇しました。今日、7月14日が「火祭り」の当日に当たっていました。ラッキーな巡り合わせです。 「青岸渡寺」での仏前勤行を頂戴した「西国巡礼」教本に基づいて行った後、住職の法話をお聞きすることが出来ました。折角の再度の「青岸渡寺」へのお参りですから、今一冊、納経帖を購入することとなりました。 このところの大雨の影響か?水量が多く、幅が大きくなっている「那智の滝」をゆっくりと眺め、帰路のバスに乗車、「蒲鉾屋さん」で土産を、「南高梅・なかた梅園さん」で、チョット上等な梅酒を購入し、帰路のつきました。梅田到着は19時45分。長い、ナガーイ、バスの旅でしたが、”西国巡礼旅の再度の出発”として意義ある旅となりました。 「西国三十三箇所観音霊場」めぐりへも記入はこれからです。3ヶ寺分の整理が必要です。 |
2010年7月12日 恒例”ジジ蓮”5人での楽しい旅に行ってきました。前回の2月14,15日は鳥取「はわい温泉千年亭」への”蟹食べ放題の旅”でした。10月は「下呂温泉」が予定されています。今回も次回も、ホテルはお値打ち料金制の「湯快リゾート」のホテルです。既にこれらのホテルを経験している幹事Sさんの御尽力で、「山中グランドホテル」を予約し、10日は「東尋坊」の散策、11日は「永平寺」へのお参りを目指しました。この梅雨の最中、「東尋坊」散策の折は上天気で、海上から岩壁を眺める船による観光をすることが出来、11日は梅雨らしいしっとりとした雨にけむる「永平寺」にお参りすることが出来ました。ただ、帰りの高速道路疾走中に大降りの雨に遭遇し、前方が全く見えなくなるという危機には陥りましたが。 曹洞宗大本山「永平寺」へは久しぶりですが、何回かお参りしています。恥ずかしながら、「東尋坊」は始めての訪問です。写真での紹介をしたくなります。 1) 「東尋坊」の絶壁の上から、「雄島」を望んでいます。 2) 「輝石安山岩の柱状節理」誕生の解説です。 3) 海上より「東尋坊」の絶壁を眺めます。 4) 観光船は絶壁の入江に進入してきます。 5) 観光船内から岩壁の上方を眺めています。 6) 観光船は「雄島」に接近します。 以下、「永平寺」(寛元2年、1244年に道元禅師によって開かれた座禅修業の道場)です。 7) 永平寺の全容。 8) 七堂伽藍の中心に位置しており、「釈迦牟尼仏」が祀られている「仏殿」。 9) 天保14年(1843年)に改築された説法の道場である「法堂」(はつとう)。 10) 「法堂」の内部。本尊「聖観世音菩薩」を祀りしており、階段の左右には阿吽の白獅子が置かれています。 11) 「傘松閣」内の絵天井。 、床の間に懸けられていた禅宗のお寺らしい「だるま大師」の軸。 12) 「山門」の両側に安置されている、仏教の守護神である「四天王」(平成20年修復)です。色彩豊かで、「永平寺」の佇まいとはかけ離れ、目を奪います。正面から、向かって右側 向かって左側の 四天王。 お酒飲み放題の夕食、2日間で、3時間にも及ぶ飲みながらのカラオケ、すっかり堪能させていただきました。幹事のS氏に感謝、感謝です。 「ローマ人の物語」のまとめ、そして、「成相寺」、「松尾寺」のまとめは、こらからです。 |
2010年7月8日 昨日、7日は「西国観音霊場33ヶ所めぐり」阪急トラピックスのバスツアーで、日本三景でもある「天橋立」の近くにある「第28番 成相寺(なりあいじ)」、「第29番 松尾寺(まつのおでら)」をお参りしてきました。もちろん、嫁さんとの2人旅です。バスツアーでの西国33ヶ所の旅は初めてで、お勤めの手順などに戸惑いましたが、四国88ヶ所での資料を代用してのお勤めとなりました。ただ、「観音経」の部分は資料が無く、無言の行となりました。西国33ヶ所へのお参りは、このようなバスツアーで行くのが便利なお寺が残っています。そんなときの為に「西国三十三箇所観音霊場 初回の旅」への参加を考えていたところ、JTBでの初回のバスツアーが今月行われていることをネットで知ることは出来、早速、14日の旅の申し込みを済ませました。14日は「紀伊勝浦」までの長い、ナガーイ、バスの旅となります。 今週末の10日、11日は恒例”ジジ蓮の旅”で、北陸、「山中温泉」へ行くこととなっていますので、結構忙しい日々が続きます。 読み終わっている「ローマ人の物語 15 ローマ世界の終焉」のまとめはいつ出来るのでしょうか?心配です。 |
2010年6月28日 サッカーワールドカップでの日本テームの予選ラウンド通過、ベスト16は、岡田監督をはじめとする選手達への評価に劇的な変化をもたらしました。サッカー強豪国である、イタリア、フランスが敗退するなかでの通過だけに”なお更の印象”を与えてます。でも、マスコミの有頂天な報道はこれで良いのか?との疑問にぶち当たってしまいます。前回大会における選手達も精一杯の戦いをして、利あらずに3連敗を喫しました。この時の報道はどうだったのか?私たちはどうだったか?通過を喜び、これからのプレーに大きな期待をいだきながら、自己反省をしたいものです。これは、「ローマ人の物語」を読みすすみほどにこの思いを深くしていきます。「「ローマ人の物語 14 キリストの勝利」を読みました。この物語もあと1巻を残すのみです。ローマがローマでなくなっていく姿、塩野七生さん曰く「溶解」していく姿が描かれています。 キリスト教を公認し、皇帝財産の教会への寄付などのバックアップ、死の直前における洗礼などによって後に、大帝の称号を受けることになるコンスタンティヌス大帝が337年、ニコメディアで死去した後、彼が考えていた親族による帝国分割統治の思惑を無にする殺戮が行われ、3人の実子の分割統治が始まります。コンスタンティヌス大帝の系譜です。 紀元337年 コンスタンティヌス、ニコメディアで死去。コンスタンティノポリスの皇宮内で虐殺事件発生。コンスタンティヌスの異母弟やその子などが殺される。幼少であったガルスとユリアヌス(異母弟の一人の子)が難を逃れる。 9月コンスタンティヌスの実子3人、パンノニアで会談し、コンスタンティヌス二世、コンスタンティウス、コンスタンスがそれぞれ「アウグストゥス」に就任。元老院もこれを追認する。 紀元340年 コンスタンティヌス二世とコンスタンスが戦い、コンスタンティヌス二世死去。 紀元346年 コンスタンティウス、キリスト教への免税範囲を教会関係者にまで広げる。 この時のローマ人の階層。 紀元350年 西方皇帝コンスタンス、部下の将軍との戦いに敗れ殺害される。 コンスタンティウス、ペルシャと休戦協定を結び、軍をひきいて西方に向かう。 紀元351年 3月、コンスタンティウス、従弟のガルスを「カエサル」に指名し、東方の統治を任せる。 紀元354年 12月、ガルス、コンスタンティウス殺害を謀った罪で処刑される。 紀元355年 5月、ユリアヌス、アテネで学究生活を始める。 11月、コンスタンティウス、ユリアヌスを「カエサル」に任命。妹へレナと結婚させる。ユリアヌス、ガリアへ向けて出発。 紀元360年 2月、ユリアヌスは以下の軍団によって「アウグストゥス」に擁立される。ユリアヌスこれを受諾。 紀元361年 コンスタンティウス、アンティオキアを発ち、ユリアヌス征伐のため西方に向かう。 11月3日、コンスタンティウス死去。後継者にユリアヌスを指名。 12月11日、ユリアヌス、コンスタンティーノプルに入城。キリスト教の優遇策を撤廃し、ギリシャ・ローマ宗教の再興を図る。 紀元363年 ユリアヌス、アンティオキアに入る。『ミソポゴン』を執筆、刊行される。 ユリアヌス、ペルシャとの戦いにため西へ。 6月26日、ユリアヌス、ペルシャとの戦役中に死去。 将軍や高官の会議で、皇帝護衛隊長ヨヴィアヌス、皇帝に選ばれる。ペルシャとの講和を結ぶ。 秋、ヨヴィアヌス、アンティオキアに入り、ユリアヌスのギリシャ・ローマ宗教再興の政策を取り消す。 紀元364年 ヨヴィアヌス死去。ゲルマン民族出身の将軍 ヴァレンティニアヌス、皇帝に選ばれる。弟ヴァレンスを共同皇帝に任命。 紀元367年 ヴァレンティニアヌス、息子のグラティアヌスに「アウグストクス」の称号を与える。 紀元374年 12月7日、アンブロシウス、ミラノ司教に選ばれる。 紀元375年 11月17日、ヴァレンティニアヌス、急死。帝国東方はヴァレンスが、西方はグラティアヌスが統治。 紀元378年 8月9日、ヴァレンス、ハドリアノポリスでゴート族との会戦で敗北、殺害される。 西方正帝グラティアヌス、テオドシスを招聘し東方正帝に任命する。この頃の蛮族の情勢。 紀元379年 冬、テオドシス、病にかかりキリスト教の洗礼を受ける。 紀元380年 グラティアヌスとテオドシス、キリスト教以外の異教排斥に本格的に乗り出す。 紀元383年 グラティアヌス、配下の反乱により殺害される。 テオドシス、この年から実質的に帝国全土を統治する。 紀元384年 シンマックス、ローマの首都長官に任命される。シンマックスとアンブロシウス、ローマ元老院議場前の「勝利の女神」像を巡り、皇帝へも書簡を通じて論争する。 紀元388年 テオドシス、元老院に対しギリシャ・ローマ宗教の廃絶を発議、元老院もこれを受け入れる。(ローマの神殿は教会に衣替えされるか、採石場と化します。) 紀元390年 4月、アンブロシウス、テッサロニケでの暴動の鎮圧時に起こった、軍による虐殺の謝罪をテオドシスに要求。謝罪がなされるまで教会への立ち入りを禁ずる。 12月、テオドシス、ミラノの教会前でアンブロシウスに公式に謝罪。 紀元393年 オリンピアの競技会、廃止される。 紀元395年 テオドシス、病死。長男アルカディウスは東方を、次男ホノリウスは西方を統治することに決まる。以後、東西分裂が決定的となる。(東ローマ帝国、西ローマ帝国) 後に「背教者」ユリアヌスと呼ばれることになるこの皇帝の戦傷死には不可解な噂があったにもかかわらず、護衛隊長でありキリスト教徒であったヨヴィアヌスの皇帝就任で立ち消えとなります。さらに、ヨヴィアヌスはユリアヌスの発したギリシャ・ローマ宗教への回帰を願う政策すべてを廃棄処分にするのです。そのヨヴィアヌスも7ヵ月後不審死をとげ、その後任の皇帝には、生粋の北方蛮族出身者である、ゲルマン人ではありますが、キリスト教徒であるヴァレンティアヌスが選ばれます。この流れが、テオドシス帝によるキリスト教国教化に繋がっていきます。 「異教」と「異端」 紀元380年から395年までの15年間は、キリスト教の勝利への道の最終段階になる。そしてこの15年は、背後にアンブロシウス、全面にグラティアヌスとテオドシスの両帝が立っての、「異教」と「異端」の双方に対する、全面的な宣戦布告からはじまったのである。 「異教」とは、もはや説明の要もないと思うが、キリスト教以外すべての宗教を指す。ギリシャ・ローマの宗教、シリア生まれの太陽神、同じくシリア生まれのミトラ神、エジプト生まれの諸神、カルタゴ生まれのタニト女神等々への信仰が「異教」と見なされるのは当然だが、これらの多神教に分類される宗教とはちがって、一神教であるユダヤ教も、キリスト教にすれば「異教」の一つであったのだった。 一方、「異端」となると、三位一体説(神とその子イエスは同格であり、これに精霊を加える)を信仰するカトリック派以外すべての、キリスト教内部の宗派が対象になる。神意たされる教理(ドグマ)で成り立つ一神教だけに、教理の解釈は人の数ほどある、としてもよいくらいに多い。・・・・ 「異端」排斥 テオドシス帝は、紀元380年から395年なでの15年間に、「異端」排斥を目的にしたものだけでも、15もの勅令を発布している。・・・・「異端」は、それが何であろうとキリスト教会の団結を崩すゆえに悪である、としたテオドシス帝の決意は、半端ではなかった。・・・・ 「異教」排斥 「最高神祇官」(ポンティフクス・マクシムス)とは、ローマ人とその住民共同体である国家ローマを守るとされてきた、最高神ユピテルとその妻のユノー、そして知の女神アテネの三神を最上位にする、国家ローマの宗教を祭る祭司や神祇官たちの最高位に位置する公職で、その設立は、ローマの建国にまでさかのぼるほどに古い。・・・・グラティアヌス帝による「最高神祇官」就任拒否は、それゆえに重大な意味をもっていた。・・・・このグラティアヌス帝が実施した「異教」排撃を目的とした施策に最後は、共和政時代の昔から元老院会議場の正面に安置されてきた、「勝利の女神」の像を撤去させたことである。・・・神像とは、当時のキリスト教会が厳しく禁じていた偶像崇拝を体現したものであり、邪教の象徴であり、何よりも「アウトロー」の具象化、とされたからである。・・ キリスト教、ローマ帝国の国教に 紀元388年といえは、シンマクスとアンブロシウスが、互いに皇帝テオドシスにあてた書簡という形で論戦を展開した年の4年後にあたっていた。・・・・・この年、41歳になっていたテオドシスは・・・はじめて首都ローマを訪問する。・・・・まっすぐに元老院議場にむかった。そして、集まった議員たちを前にして、形式は質問だったが、内実ならば選択を迫ったのだ。皇帝は言った。「ローマ人の宗教として、あなた方は、ユピテルを良しとするか、それともキリストを良しとするか」・・・・議員たちは、圧倒的多数で、「キリスト」を採択した。・・・ キリストの勝利(皇帝に対して) ・・・・ローマ帝国皇帝とミラノ司教の間に展開したこのドラマは、教会の外でも内でも、大勢の人々が見守る前でくり広げられたのである。これほどに、現世の権力者に対する神の力を誇示したショーもなかった。 まるで、中世を象徴するこのの一つと言われる、「カノッサの屈辱」を想起させる光景だ。世暦1077年、イタリア中部のカノッサで、法王グレゴリオ7世の許しを乞わねばならなくなった神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世が、三日三晩雪の中に立ちつくしたのが、「カノッサの屈辱」に名で知られる史実だが、その前奏曲は、七百年前に始まっていたのである。・・・ |
2010年6月22日 先週から本格的な梅雨空が続いています。庭の紫陽花も満開です。玄関口のアプローチに咲き誇っていたサツキの花は惨めな状態で、いよいよ散髪が必要な時期です。 「ローマ人の物語13 最後の努力」を読みました。近くの市立図書館支所の蔵書では、文庫本は「迷走する帝国 上・中・下巻」までで、「最後の努力」からは単行本です。 ローマ帝国維持の為に多くが軍人皇帝が努力したことによって、版図自体は大きな変化は生じていませんが、この「最後に努力」に登場する2人の皇帝(ディオクレティアヌス、在位、紀元284年〜305年 コンスタンティヌス、在位、紀元306年〜337年)によって、「都市国家ローマ」、「ローマ帝国」は消滅し、別のものとなっていく経過が記載され、その最終項ではその後のローマ帝国(ヨーロッパの歴史)だけでなく、全世界の歴史に大きく影響するキリスト教との関わり(ミラノ勅令、ニケーア公会議)を述べいます。 作者の塩野七生さんはこの巻頭で、「読者に」として、以下のように記しています。 紀元前8世紀からはじまって紀元後5世紀に終わるのがローマ史だとする史観に立つならば、ローマ史は次のような進み方をしたと言えるだろう。 王政→共和制→初期・中期帝政(元首政)→後期帝政(絶対君主制)→末期 この巻でとりあげるのは、歴史上では「帝政後期」の名称で定着している。絶対君主制体に移行した時期のローマ帝国である。・・・・ 迷走からの脱出・・・・ディオクレティアヌスが帝位に就いた紀元284年の時点で、ローマ皇帝が対処を迫られていた問題は多かったが、その中でもとくにディオクレティアヌスが重要視したのは、次の二つではなかったかと思う。 第一は安全保障。 第二は、帝国の構造改革。・・・・ ディオクレティアヌスはローマ帝国の皇帝という最高権力者になると、すぐにマクシミアヌスを「カエサル」に任命し、自分は東方、マクシミアヌスは西方(ガリア、ブリタニア、ヒスパニア、北アフリカ)の統治を決めます。(二頭政)さらに、紀元293年、「四頭政」(「テトラルキア」tetrarchuia)と呼ばれる4人による分割統治のシステムを始めます。ただ、4者は防衛面での責任を分担したのであって、帝国全体の政治はあくまでも、ディオクレティアヌス一人のものであったようです。そして、そのディオクレティアヌスは帝国の安定の為には皇帝の地位の安全の必要性を感じ、絶対君主制へ進みます。 この施策によって、「兵力の倍増」、「官僚大国」、「税金大国」、「統制国家」の道が必然づけられ、キリスト教徒弾圧が行われます。紀元303年ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの正帝二人は、ローマで華麗な凱旋式を行います。これが首都ローマでの最後の凱旋式となります。 紀元305年、ディオクレティアヌスはローマ帝国史上まったく前例のない自らの意志にって引退し、第二次「四頭政」を意図しますが、内戦の末、第二次「四頭政」の西方正帝であった、コンスタンティウス・クロルスの息子、「コンスタンティヌス」が唯一のインペラトールとなり、首都を「コンスタンティノポリス」に定めます。都市国家ローマは消滅ということです。 紀元284年 ディオクレティアヌス皇帝に就任。秋、マクシミアヌスを「カエサル」に指名。「二頭政」(ディアルキア)の開始。 紀元293年 5月1日、第一次「四頭政」の開始。東方は正帝ディオクレティアヌス、副帝ガレリウスが担当し、西方は正帝マクシミアヌスと副帝コンスタンティウス・クロルスが担当。コンスタンティウス(当時18歳)、オリエントに送られ、ニコメディアでディオクレティアヌス帝の下、軍籍に就く。(父、クロルスが副帝になるにあたり強制されたマクシミアヌスの皇女テオドラとの結婚のため、離婚された母、ヘレナと共に、ディオクレティアヌスの下へ) 紀元301年 ディオクレティアヌス、価格統制令を公布。 紀元303年 キリスト教徒弾圧勅令を公布。 11月20日、ディオクレティアヌス、マクシミアヌスとともに、ローマで凱旋式を挙行。 紀元305年 ディオクレティアヌス、マクシミアヌスの退位とともに、第二次「四頭政」開始。東方正帝ガレリウス、副帝マクシミヌス・ダイア。西方正帝コンスタンティウス・クロルス、副帝セヴェルス。 紀元312年 元老院、ローマへ入城したコンスタンティウスの正帝昇格を決定。「コンスタンティウスの凱旋門」の建設を開始。(別ページを作りました。)近衛軍団解散。 紀元313年 6月15日、「ミラノ勅令」が公布され、キリスト教が公認される。 紀元315年 「コンスタンティヌス凱旋門」(パッチワークの凱旋門)完成。ローマ訪問時のコンスタンティヌスの凱旋門。 紀元322年 コンスタンティヌス、軍とともにドナウ河を渡り北方蛮族を撃破。講和を結び、帝国北方の安全確保に成功する。 紀元324年 コンスタンティヌス、唯一の正帝となる。帝国の首都をビザンティウムに移し、新都の建設に着工。 紀元325年 小アジアのニケーアにキリスト教の司祭を集めた公会議を開催。三位一体説を正統とし、アリウス派を異端とする信条が決定される。 ニカイアと呼ぼうがニケーアと発音しようが、歴史上でこの公会議の重要性は実に大きい。キリスト教史では当然だが、キリスト教が世界の三大宗教の一つになる以上、世界史的にも重要事の一つになるのである。なぜなら、ニケーア公会議で決まった「形」でのキリスト教が、今に至るまでの、つまり世界の三大宗教の一つとしての、「キリスト教」になったからであった。・・・ 紀元330年 5月11日、新都コンスタンティノポリスの完成を祝う式典が挙行される。 紀元337年 コンスタンティヌス、対ペルシャへの軍事行動のため、東方へ向かう。5月22日、滞在先のニコメディアで病死。 此の巻の最後の第三部で「コンスタンティヌスとキリスト教」の章をもうけています。(キリスト教徒の分布) コンスタンティヌスが、ローマ史に留まらず世界史のうえでも偉人の一人とされてきた理由は、何と言おうが彼が、キリスト教の振興に大いなる貢献をしたからである。日本語では大帝と訳され、英語ではザ・グレートになる「マーニュス」(Magnus)づきで呼ばれる歴史上の人物は、ただちに頭に浮かぶ人だけでも三人いる。アレキサンダー大王と、コンスタンティヌス大帝とシャルルマーニュの三人だ。ギリシャ語読みならばアレキサンドロスとなる紀元前四世紀に生きた若き英雄を除けば、紀元後四世紀のコンスタンティヌスも九世紀初頭のシャルルも、いずれもキリスト教との関係が深い。コンスタンティヌスはキリスト教を公認した人であり、ローマ帝国が存在していた時代の一部族であったフランク族の王シャルルは、世暦800年にローマを訪れ、ローマ法王の手から、神聖ローマ帝国の皇帝として帝冠を授けられた人である。・・・・ 「ミラノ勅令」 そしてこの翌年の313年、今や帝国西方の「正帝」にのし上がったコンスタンティヌスと東方の正帝のリキニウスがミラノで会い、その首脳会談のコミュニケのような感じで公表されたのが、有名な「ミラノ勅令」である。これによってキリスト教は、実態はいまだに諸神混在の状態ではあるにせよ、宗教の一つとしてはローマ帝国によって公式に認められたことになる。キリスト教を信仰する人々にとっては、画期的な出来事であったはずだ。ただし、この「ミラノ勅令」には、次のようなことも明記されている。 「今日以降、信ずる宗教がキリスト教であろうと他のどの宗教であろうと変わりなく、各人が自身が良しとする宗教を信じ、それの伴う祭儀に参加する自由を認められる。それがどの神であろうと、その至高の存在が、帝国に住む人すべてを恩恵と慈愛によって和解と融和に導いてくれることを願いつつ」 ・・・「キリスト教徒に認められたこの信教の完全な自由は、他の神を信仰する人にも同等に認められるのは言うまでもない。なぜなら、われわれの下した完璧なる信教の自由を認めるとした決定は、帝国内の平和にとって有効であると判断したからであり、それには、いかなる神でもいかなる宗教でも、その名誉と尊厳を損なうことは許されるべきではないと考えるからである」 まったく、文句のついけようがない、自由な精神の昇華である。この精神で現代まできていたとしたなら、民族間国家間の争いは起こったであろうが、その争いとて宗教を旗印とするまでには至らなかったはずだ。宗教を大義名分に使えなければ争いは人間同士のことになり、単なる利害の衝突にすぎなくなる。ゆえに、争うことが損とわかるや自然に納まる。宗教を旗印とすると、問題は常に複雑化するのだった。・・・ キリスト教は公認しても国教にしたわけではなかったのだから。ところが問題は、この勅令を公表して以降のコンスタンティヌスがまるで、勅令の文面は建前であって本音は別、とでも考えていたとしか思えない言行を始めたところにあったのだ。それは、ディオクレティアヌスによる弾圧時に没収されていた教会資産の返還を命じた、勅令の最後の部分に隠されていた。そこには、次のように書かれている。 「没収時に競売に付され、それを買い取って所有している者には、返還に際しては正当な値での補償が、国家によって成される」・・・ コンスタンティヌスはさらに、皇帝の私有財産をキリスト教会へ寄贈、キリスト教の「司教」つまり「聖職者」階級の公務からの独立を許したことなどのキリスト教へのバックアップとしか考えられない施策を行います。この各種の施策は、司教を”味方”にすることが目的といえます。 「支配の道具」 ・・・コンスタンティヌスも、政局安定が帝国維持の鍵であるかとはわかっていたのである。しかしこの皇帝は、彼の治世下では軍事力の配置すらも、国境でもある帝国の」防衛線」(リメス)ではなく、彼自身が直接に率いる軍勢の教化のほうに重点を置くように変えた、といわれた人でもあった。政局安定も、帝国の利益よりも自らの家系の存続を重視したゆえであったとしても、最初の中世人と言われるコンスタンティヌスならばありえたことだと思う。 そして、権力者に権力の行使を託すのが「人間」であるがぎり、権力者から権力を取りあげる、つまり権力者をリコールする、権利も「人間」にありつづけることになる。だが、もしもこの権利が、「人間」ではなく、他の別の存在にあるということになったらどうだろう。 この役割には、ローマ伝来の神々は適切ではなかった。なぜなら、多神教の神は人間を守り助ける神々であって、人間に向かって、どう生きよと命ずる神ではなかったからである。多神教と一神教では、神の性質(キャラクター)からしてちがうのだ。つまり、コンスタンティヌスにとっての必要を満足させる神は、一神教の神しかなかった。そして、四世紀当時のローマ帝国でこの需要を満足されることができる一神教は、ユダヤ教がユダヤ民族の宗教に留まっている以上は、民族のちがいを超越することを布教の基本方針にしていたキリスト教しかなかったのである。・・・・ ・・・司教とは、十二使徒の後継者と考えられており、イエス・キリストとその十二人の使徒から、神意を伝える権利、信徒を教え導く権利、信徒を統合する権利を託された存在とされていたのである。しかもこれらの権利に加えて、キリスト教の教えの拡大に役立つことやそれを行った人に対して、神聖な正統性を授ける権利まで有していたのだった。・・・・このようにキリスト教会では、すべては神の意を汲んで成されるときまっていたので、現実世界の統治も、神の意を得た人によって成されるのも、彼らの教えからすれば当然なのである。そして、神の意を汲んでそれを人間に伝えるのが、司教であったのだった。・・・・ |
2010年6月13日 「ローマ人の物語 迷走する帝国 上・中・下巻(32・33・34)」を読みました。皇帝カラカラ(公式名は インペラトール・カエサル・マルクス・アウレリウス・セヴェルス・アントニヌス・ピウス・アウグストゥス)が帝位に就いた時からこの巻ははじまります。ローマ帝国にとって、この3世紀は迷走の3世紀となります。紀元211年から284年までの73年間に22人の皇帝が生まれ、その大部分は元老院議員ではなく、軍団の司令官であったこと、病死はただ一人、その他の皇帝の大部分は不慮の死、多くは部下の反逆による謀殺であったことが、物語っています。そんな中でも懸命にローマ帝国の維持を目指して闘い続ける軍人皇帝の姿を記述しています。 3世紀初めのローマ帝国の版図。 3世紀終わりのローマ帝国の版図。 3世紀から4世紀中頃までの皇帝。 紀元211年2月4日、皇帝セプティミウス・セヴェルスは、遠征先のプリタニアのローマ軍基地ヨークで死んだ。64歳だった。帝位はただちにセヴェルスの二人の息子、23歳のカラカラと22歳のゲタに引き継がれた。父セヴェルスはすでに息子二人ともを共同皇帝にしていたので、皇位継承はスムーズにいったのである。おだやかな性格だけが取柄の弟と権力を分かち合う状態がカラカラには我慢がならなかった。自分の暗殺を謀った言い立て、母の面前にもかかわらず弟を殺したのである。212年2月12日、父の死から1年しか経っていなかった。カラカラは、望んでいたとおりただ一人の最高権力者になったのだ。ゲタの才能に疑いを持っていた元老院は、この弟殺しを、さしたる批判もせずに追認した。その後まもなくして、一通の勅令が、ローマ帝国中の広場という広場、同朋という同朋のすべてに張り出されてた。・・・・「誰でもローマ市民!」 法治国家であるローマでは、政策はすべて法律の形をとる。「アントニヌス勅令」(Constitutio Antoniniana)と呼ばれたこの法は、ローマ帝国内に住む自由な身の人々全員に、もれなくローマ市民権を与えると定めた法律であった。これを決意した理由を、立案者であるカラカラ帝は、布告の中で次のように述べている。「わたしとわたしの臣下たちの間では、帝国を守り立てていくうえで負担を分かち合うだけでなく、栄誉も分かち合ってこそ良い関係を樹立できるはずであり、この法令によってはじめて、これまで長年にわたってローマ市民権者だけた享受してきた栄誉に、今や国民すべてが浴することになった」・・・・ 「取得権」の「既得権」化による影響 これによる影響は、ヒューマンな法と誉めてなどいられない大きなものになる。1)従来のローマ市民権所有者から、帝国の柱は自分たちだという気概を失わせた。 2)旧属州民から、向上心や競争の気概を失わせた。 3)属州税の徴収が不可能になり、戦費調達のための臨時税が恒常化した。 4)ローマ社会の特質でもあった流動性を失わせてしまい、市民階級の中に「ホネスタス」(名誉ある者)と「ウミリウス」(卑しき者)の二分化を起こしてしまった。 皇帝カラカラによる「アントニヌス勅令」はマイナスの意味で画期的な法であったと私は考える。ローマ帝国の一角が、この法によって崩れたのだ。まるで、砦の一つが早くも墜ちた、という感じさえする。しかも、崩壊の端緒をつくったのは敵ではない、ローマ人自身が手を下したのだった。・・・・カラカラ帝に、ユリウス・カエサルの次ぎの一句の意味がわかっていたとは思われない。「どんなに悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によるものであった」 紀元212年 2月12日 カラカラ、パラティーノの丘の皇宮でゲタを殺害。 「アントニヌス勅令」を発布。属州民にもローマ市も市民権が与えられる。 紀元213年 カラカラ、ライン河防衛線に向かう。ライン河防衛線とゲルマニア防壁を再整備。 紀元214年 カラカラ、バルティアに向け出発。 紀元216年 パルティア戦役始まる。 紀元217年4月8日 カッレへの途上で、カラカラ、皇帝警備隊の兵士たちに暗殺される。29歳。4月11日、近衛軍団長官マクリヌス、軍団の推挙により皇帝に即位。カラカラの母ユリア・ドムナ、アンティオキアで自死。 紀元218年 マクリヌス、パルティアと講和を結び、属州メソポタミアを放棄。ユリア・ドムナの妹ユリア・メサ、東方の軍団を糾合しマクリヌスに反旗を翻す。マクリヌス逃亡中ビティニアで捕まり殺害される。53歳。6月8日、ユリア・メサの孫ヘラガバルス、皇帝に即位。 紀元222年 3月11日、ヘラガバルス、皇宮内で殺される。18歳。アレクサンデル(・セヴェルス)(ヘラガバルスの弟)皇帝に即位。 紀元235年 3月、ライン河防衛線を守るローマ軍団が蜂起、皇帝アレクサンデル・セヴェルス、殺害される。トラキア人で新兵訓練の責任者だったマクシミヌス(・トラクス)皇帝に推挙される。 紀元241年 ペルシャ王シャプール一世、軍を率いてローマ帝国東方に侵入、アンティオキアに迫る。 紀元244年 2月、ゴルディアヌス三世、冬営中に軍団兵に暗殺される。19歳。フィリップス(・アラブス)皇帝に即位。 紀元248年 4月11日から3日間、ローマ建国千年祭が祝われる。 ゴート族、ドナウ河を越えてローマ帝国内に攻め込む。 紀元250年 デキウス、非キリスト教徒を証明する書類に携帯を市民に義務ずける。夏、ゴート族とヴァンダル族、大挙してローマ領に進入、属州トラキアに達する。 紀元252年 アラマンノ族、ライン河を渡りローマ帝国内に進入。 紀元257年 皇帝ヴァレリアヌス、暫定措置法を発布し、キリスト教徒の祭儀と集会を禁止。 紀元261年 皇帝ガリエヌス、元老院と軍隊を分離させる法律を制定。 紀元270年 元老院クラウディアスの弟クインティウスを皇帝に指名。将兵たちが騎馬隊司令官アウレリアヌスを皇帝に推挙、クインティルスは自殺。 紀元271年 属州ダキアを放棄し、ゴート族に譲渡。アウレリアヌス、ローマ郊外に「アウレリアヌス城壁」の建設に着手。(完成は276年)(カエサルが一部を破壊したセルヴィウス城壁の後はこの城壁建設まで、都市ローマには城壁は不必要なものであった。) 紀元276年 東方の軍団の司令官プロブス、皇帝に推挙される。プロブス、小アジアに侵入していたゴート族を撃退。 紀元278年 プロブス、ガリア全域から蛮族を一掃。 紀元284年 ディオクレス、ディオクレティアヌスと改名して皇帝に即位。 この間の22人の皇帝はローマ帝国を守るための戦いに明け暮れ、そのうえ、部下の将兵に殺害されるという悲惨な運命を負わされているのです。 この巻の最後に、「ローマ帝国とキリスト教」に触れています。 ・・・・ローマ人の考えるキリスト教徒とは、自分たち全員の「レス・プブリカ」(国家)であるローマ帝国に対する考えや義務を、彼らとは共有していない人々のことであった。キリスト教徒は、聖パウロが『使徒行伝』中で説いたように、ローマ帝国を邪悪で堕落した社会ととらえていたので、このような国家に対しては義務を負う必要を認めなかったのである。このローマ帝国が滅亡した後に現れる「神の国」が、彼らにとっての「レス・プブリカ」(共同体)になるからであった。と言って、テロ行為に出るとかして、積極的にローマ帝国の崩壊を狙うことはしていない。だが、公職や軍務に就くことは避けるという形での、消極的な抵抗はつづけていた。これは、ローマ帝国全体を一大家族ととらえ、その内部に住む人々全員の運命共同体と考えていた歴代のローマ皇帝にとっては、明らかに反国家的行為になる。キリスト教徒の「罪」とは、何を信じていたか、ではなく、それを信ずることを通して反国家的な組織を形成している、ということのほうにあったのである。トライアヌスの言う「罪ある者」とは、この意味であった。・・・・・ キリスト教徒は、ローマ帝国の打倒は意図していなかった。あえて言えば、乗っとりを意図していたのだ。ユダヤの独立のみを願っていたユダヤ教徒が、可憐に思えるほどである。そして、帝国の乗っとりは、着実に進んでいくのである。なにしろ、ローマ帝国のほうが、弱体化し疲弊化する一方であったのだから。・・・・・ |
2010年6月10日 今日は珍しく、朝寝を楽しむこととなりました。昨日、第三回目の「四国霊場88ヶ所の旅、12番から16番の5ヶ寺のお参り」に日帰りした疲れなのでしょう。第三回目のアップをしました。 |
2010年6月7日 4日は嫁さんと、「ルノ。伝統と革新」の鑑賞で、中ノ島の「国立国際美術館」へ。ついでに中之島公園ぼ「バラ園」へ。5日土曜日は、関西支部主催の「新人歓迎会」が京都リーガロイヤルホテルで。その前イベントとして「京都伏見散策」に参加してきました。 先日の「ハプスブルグ家展」と同様、大変なお客さんです。「ルノワール」は最も人気の高い画家の一人で、当然、お客さんは女性が多数をしめています。音声ガイドの松坂恵子さんの声を聞きながら、ゆっくりと楽しみました。 RENOIR(1841〜1919年)の作品集の数点を製作年を順に。 1) 「アンリオ夫人」 1876年頃 ワシントン・ナショナル・ギャラリー 2) 「団扇を持つ若い女」 1879〜1880年頃 クラーク美術館 3) 「可愛いイレーヌ」 1880年 E.G.ビューレー・コレクション 4) 「岩の上に座る浴女」 1882年 マルモッタン美術館 5) 「麦わら帽子の少女」 1885年 呉市立美術館 1881年秋、ルノワールはパリを発ち、イタリアの各地を訪ね、フレスコ画に感銘を受けます。また、ラファエロの「聖母子像」には特に感銘を受け、印象派が否定した過去の絵画への傾倒が始まったとされています。 6) 「水浴の女」 1887年 ポーラ美術館 7) 「水浴する女」 1891年 川村記念美術館 8) 「レースの帽子の少女」 1891年 ポーラ美術館 中ノ島の川沿いで、散策用に綺麗に整備された道を歩き、「中ノ島バラ園」まで歩きます。見事な各種のバラは別ページでまとめたいと思っています。 5日の「京都伏見散策」は「龍馬」人気の後押しで、大型観光バスが次々と訪れており、落ち着いたいつもの「伏見」がなくなっていました。残念です!!でも、所々(T) (U)では、その風情を遺している所はあります。「月桂冠」、「池田屋」は大変なヒトヒト。池田屋は前を通り過ぎるだけとしました。特別に見学許可を戴いていた「松本酒造」さんでは、「万暁院」との名前がついている素晴らしい迎賓館で、お庭を拝見しながら、社長さんからのお話、お茶、お酒(「桃のしずく」はスッキリした飲み口で大変美味しいお酒です。思わずお土産に買い求めました。)の試飲のご接待にあずかりました。松本酒造さんは寛政3年(1791)に創業された本当の老舗酒造さんです。その免許状も遺されています。有り難うございました。 京都リーガロイヤルでの新人歓迎会は約50人の参加者でここでも、大変盛り上がりました。幹事の皆様方、本当に有り難うございました。 |
2010年5月31日 「ローマ人の物語 終わりの始まり 上・中・下巻(29・30・31巻)」を読みました。アントニウス・ピウス帝(74歳)がローマで死去し、マルクス・アウレリウスとルキウス・ヴェルスが共同皇帝に即位した紀元161年から、マルクスの子コモドゥス帝、内乱に勝利したセブティミウス・セヴェルス帝がブリタニア(現イギリス)遠征の途中、ヨークで死去し(64歳)、その子「カラカラ」とゲタが皇帝に即位した紀元221年までの5賢帝の最後の皇帝「哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝」の苦心の国政運営もちろん国境の保全の為の戦いを含んだ経過を中心にして記され、セブティミウス・セヴェルス帝が内戦勝利後の「良かれとして始めた各種の施策が裏目となり”終わりの引き金”となっていく過程まで」を記しています。 この巻の「はじめに」の部分です。 五賢帝の最後を飾る人であり、哲人皇帝の呼び名でも有名なマルクス・アウレリウスほど、評判の良いローマ皇帝は存在しない。同時代人から敬愛されただけでなく、現代に至るまでの二千年近くもの長い歳月、この人ほどに高い評価を享受しつづけたローマ皇帝はいなかった。 統治者としての力量ならば、マルクス・アウレリウスをしのぐリーダーは、ローマ史上には幾人もいるだろう。帝政の事実上の創始者であるユリウス・カエサル。その後を継いでローマ帝国を構築した、初代皇帝アウグストゥス。属州出身でありながら生まれ故郷のスペインを優遇するなど毛ほども考えず、帝国全体の統治者であることに徹したトライアヌス。自らの命を縮める結果になろうとも広大な帝国の全域を視察してまわり、それによって帝国の再構成を成しとげたハドリアヌス。共和制時代は除き、帝政時代も盛期までと話をがぎったとしても、ただちにこれだけの名が浮かんでくる。しかし、彼らでさえも、後世の人々の心をとらえるうえでは実に有効な手段となる二つのこと、その人自身の「声」と「肉体」を残すことになると、マルクス・アウレリウスには及ばなかった。哲人皇帝のほうが、その面では断じて恵まれていたのである。 マルクス・アウレリウスは、後世の人が「自省録」と名づけることになる一書を遺している。・・・・・「人間は公正で善良でありうるかなどと、果てしない議論をつづけることは許されなし。公正に善良に行動すること、のみが求められるときが来ている」これが、大帝国ローマの最高権力者の「声」なのであった。 この「声」につづく「肉体」だが、ローマの七つの丘の一つであるカピトリーノの丘に今なを残る、マルクス・アウレリウスの騎馬像がそれである。・・・・ 「ある疑問」の部分で、皇帝アントニヌス・ピウスのローマ周辺のみに居続ける23年の一見平和な治世は、その後のマルクス・アウレリウス帝の苦難に満ちた治世とさらにその後のローマ帝国の衰退の道になんの影響を与えなかったのかという疑問を表明していると思われます。 ・・・・後世が「五賢帝時代」と呼び賞賛を惜しまなかった時代は、ネルヴァ、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピアス、マルクス・アウレリウスの5人の統治がつづいた、紀元96年から180年までの一世紀である。この時代に生きた人ならば、ローマ人もギリシャ人も区別なく、「黄金の盛期」と呼んだ百年だった。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』も、最初の三章で帝政を総括した後ではじまる、衰退と滅亡の時代を本格的に叙述する第四章は、マルクス・アウレリウスの死後で息子のコモドゥスが登位した、紀元180年から筆を起こしている。つまり、ローマ帝国の衰亡は、五賢帝の時代とともにはじまった、とする史観である。・・・・ 紀元161年 アントニヌス・ピウス帝死去。 マルクス・アウレリウスとルイウス・ヴェルス、共同皇帝に即位。8月31日、マルクスの子コモドゥス生まれる。 ローマ悪天候による飢饉やテヴェレ河など、天災に見舞われる。パルティア軍アルメニアに侵入、親ローマの王を廃し、パルティア側のパルコスを王位に就ける。マルクス、カッパドキア総督セヴェリアヌスに鎮圧を命ず。(パルティア戦役開始) 紀元166年 パルティア戦役、ローマの勝利で終結。10月ローマでマルクスとルキウスの凱旋式が行われる。パルティア戦役で持ち込まれた疫病(ペスト)が流行する。 ペスト 戦いで敗れたパルティアは、勝ったローマに、ある一つのことで復讐したのである。それはローマで挙行された凱旋式に参加した帰還兵の間に広まった、疫病の流行だった。ライン河やドナウ河の基地にもどった帰還兵の間にも、同じ病に倒れる者が続出していた。伝染の源が、遠征先のオリエントであることは明らかだった。ラテン語では「疫病」を、「ペスティレンティア」(pestilentia)と書く。「ペスト」の語源になる言葉だが、症状も伝染度も死亡率も一様ではない。古代のエジプト人はすでに、ネズミが媒介することを知っていた。・・・・帝国にとっての最重要防衛線であるラインとドナウの軍団基地でづづいたのが、ローマにとっては痛かった。ローマの防衛力の弱体化に気づいた蛮族が、この北方の前線を脅かしはじめたのである。そしてこの時期、ローマが直面しつつあった新しい問題が、もう一つあった。キリスト教徒・・・・ 紀元167年 ドナウ河防衛線でのゲルマン部族の侵略が始まる。 紀元168年 マルクスとルキウス、ドナウ河前線へ向けローマを出発。 紀元169年 ルキウス、アクィレイアからローマは戻る途中、アルティノで病死。39歳。秋、マルクス、再びドナウ河へ出発。その前にルキウス未亡人ルッチラを、遠パンノニア属州総督ポンペイアヌスと結婚させる。 紀元170年 マルコマンニ、コストボチのゲルマン2部族がドナウを越えローマ領内に侵入。「リメス」が270年ぶりに破られる。・・コストボチ族はギリシャ中央部まで進入する。 紀元171年 マウリタニア人の一部がジブラルタル海峡をを越えイベリア半島へ侵入。ゲルマンのクワディ族と講和を結ぶ。 紀元172年 第一次ゲルマニア戦役開始。エジプトで暴動勃発。シリア総督アィディウス・カシウス、東方全域総司令官として2個軍団を率い、鎮圧。 アルメニアでクーデター。カッパドキア総督マルティウス・ヴェルス、外交で解決。 紀元173年 ゲルマニア戦役続行。 紀元175年 この頃、ペシェンニウス・ニゲル、エジプトの軍団長官に任命される。4月、シリア総督アヴィディウス・カシウス、マルクス死去の誤報を聞き皇帝に名乗りを上げる。元老院がカシウスを「国家の敵」と宣言。カシウス部下の百人隊長に殺される。 紀元177年 マルクス、コモドゥスを共同皇帝とする。ガリアの部族長会議の判決により、リヨンでキリスト教徒の公開処刑が行われる。 紀元178年 第二次ゲルマニア戦役開始。 紀元180年 マルクス、冬営地のウィーンで死去。58歳。コモドゥスが単独皇帝に。戦役の終結を決め、ゲルマン各部族と講和を結ぶ。10月、コモドゥス、ローマに帰還。 紀元182年 コモドゥスの姉ルチィラ、コモドゥス暗殺を企てるが、未遂の終わる。カプリ島に流さた後、殺される。 紀元187年 コモドゥス、義兄弟のマメルティナスとブルスを、皇帝暗殺を図ったかどで処刑。 紀元192年 12月31日、皇帝コモドゥス、召使二人ととレスリング教師に暗殺される。31歳。 紀元193年 元日、ベルティナクス、近衛軍団長官レトーの後援により元老院の賛同を得て皇帝に即位。元老院、コモドゥスを「記録抹殺刑」に処することを決定。(プブリウス・ヘルヴィウス・ペルティナクスは紀元126年北イタリア・ジェノヴァで、毛織の布地を商う開放奴隷の子としてうまれた。軍団叩上げの人。192年は首都長官で、執政官であった。) 3月28日、ペルティナクス、レトー率いる近衛軍団により殺害される。66歳。前アフリカ属州総督ディディウス・ユリアヌス、元老院の承認を得て皇帝に即位。 4月、近パンノニア属州総督セプティミウス・セヴェルス、軍団兵の推挙を受け皇帝に名乗りを上げる。 ブリタニア属州総督クロディウス・アルビヌス配下の軍団兵に推され皇帝に名乗りをあげ、リヨンに向かう。セヴェルス、アルビヌスに共同皇帝を提案。 シリア属州総督ペシェンニウス・ニゲル軍団兵の推挙を受け皇帝に名乗りをあげる。 6月1日 ディディウス・ユリアヌス、近衛兵に殺害される。60歳。セヴェルス、ローマ入城。近衛軍団に解散を命ずる。元老院、セヴェルスとアルビヌスの共同皇帝就任を承認。 紀元194年 10月、セヴェルス、イッソスの平原でニゲルに勝利、ニゲル死去。 紀元197年 2月19日、セヴェルス、リヨン近郊でアルビヌスと対決し勝利。アルビヌス自死し、セヴェエルス単独の皇帝となる。 紀元199年 セヴェルス、妻と息子二人(カラカラとゲタ)とともに、パルティアに遠征。 紀元209年 セヴェルス、妻と息子二人と共にブリタニアへ出発。春、ローマ軍ハドリアヌス防壁を越えて北へ攻め入る。 紀元211年 2月4日、セプティミウス・セヴェルス、ヨークで死去。64歳。カラカラとゲタ、皇帝に即位。カレドニア人と講和を結びローマへ帰還。 紀元212年 2月12日、カラカラ、パラティーノの丘の皇宮でゲタを殺害。 ブリタニアの三個軍団の再編成を終えた後で、セヴェルスは首都ローマに凱旋してきたのはその年の6月である。ただ一人の勝利者、ただ一人の皇帝になってもどってきたセヴェルスは、51歳になっていた。 それにしても、内戦はやはり悲劇である。犠牲になった個人にとっても悲劇だが、「国家」(レス・プブリカ)にとっても悲劇である。これさえ起こらなければ、ローマ帝国の「共同体」(レス・プブリカ)に貢献できた有能な人材が、ただ単に敗者になったというだけで消されてしまう。何であろうと内戦を上まわる弊害はなし、と確信して、それを避けるためには、帝位の世襲という、ローマ人が飲み下すのに慣れていないことまでした、マルクス・アウレリウスの悲劇が今さらのように思い起こされる。内戦とは自分自身の肉体を傷つけ、自らの血を流すことなのだ。出血多量は死に至らなかったとしても、体力の減退は避けられない。「ルビコン」を渡って以降のカエサルの「寛容」(clementia)は、彼に敵対していた元老院体制堅持派にも広く知られていた事実である。・・・・セヴェルスも、内乱によるこの弊害を、頭では理解していたのである。だだし、理解していることと、実際にそれをどう進めていくかは、個人の資質に左右されざるをえない別のことではあったのだが。 |
2010年5月21日 「ローマ人の物語 賢帝の世紀 上・中・下巻」を読みました。紀元98年から117年のトライアヌス帝、117年から138年のハドリアヌス帝、138年から161年のアントニヌス・ピウス帝の時代、同時代の人さえもが「黄金の世紀」と呼んだローマが最盛期を迎えたこの時の、3皇帝の治世が書かれています。 ダキアを征服し、帝国として最大版図を築き上げたトライアヌスについて以下に引用します。大変興味深い部分です。 ・・・いずれにしてもトライアヌスは、元老院の評価がすこぶる高い皇帝であった。元老院はこのトライアヌスに、それまでの皇帝の誰一人として受けたことのない称号を贈るのである。「Optimus Princepus」。意訳すれば「最高の第一人者」、意訳すれば「至高の皇帝」。トライアヌスは、はじめは辞退した。だが、結局は受ける。そしてこの一事は、ローマ人が考える理想の皇帝像とは何であったのか、を探るうえでも役に立つ。 ならば、ローマ人にとっての理想の皇帝は、キリスト教徒に対してはどう考えていたのか。また、法治国家を任ずるローマ帝国で、弁護士や検事を務めることで直接に法に関与した経験のあるプリニウスはキリスト教徒をどう見ていたのであろうか。「小プリニウスとトライアヌス帝との往復書簡」の中で、後世最も有名になった箇所へ、キリスト教徒の処遇をめぐって両者の応答の部分である。ちなみに属州総督(属州ビティニア総督)は、属州民に対しての司法権もあった。 「プリニウスより皇帝トライアヌスへ 主君よ、私が判断を下しかねた場合にはまずあなたのお考えを問うのがわたしのやり方ですが、それはあなたが他の誰よりも迷うわたしを導き、わたしの無知に光をあててくれるに適した方であるからです。・・・・第一に、告発された者でもキリスト教徒ではないと言明した者、または、わたしの一度目の尋問に際して神々に祈願し、あなたの像を敬った者、でなければキリストをののしった者のいずれも、無罪放免にすることにしました。このためにも法廷には、肖像とおれに捧げる香料に葡萄酒も用意させたのです。 第二は、検察官(デラトール)によって告発された者でも、はじめはキリスト教徒であることは認めても後で前言をひるがえした者、以前はキリスト教徒であったが今はそうでないローマ帝国の者、以前と言うのが三年であろうと二十年であろうと関係なく、その全員に無罪を言い渡したのです。とはいえこの部類に属す者の無罪放免の条件は、われわれの神々を敬いキリストの神々をののしることでしたが。・・・・」 トライアヌスよりプリニウスへ 親愛なるセクンドゥス、キリスト教徒として告発された者たちへのあなたの法的な対処は、まことに適切であった。なぜなら、このような問題を、帝国全体を律する規範で処理しょうとすること自体が無理な話だからである。(キリスト教が浸透しはじめていたのは東方で、紀元2世紀のこの時期にはまだ、帝国の西方にまではおよんでいなかった。このトライアヌス時代に殉教した司教が二人いる。一人はイェルサレム、もう一人はアンティオキアの司教である) キリスト教徒狩りのような、罪ある者とはいえ強いて追い求めるような行為はしてはならない。ただし、正式に告訴され自白した者は処罰されるばきである。・・・・」 同じ一神教でも、ローマへの反抗をくり返していたユダヤ教徒とちがって、キリスト教徒は、紀元70年のイェルサレム陥落を境にして、ユダヤ教徒たは一線を画すように変わっていた。深く静かに潜行するやり方を、より強めていたのである。とはいえ、多神教と一神教という、宗教よりも文明観の相違に起因するローマ帝国とキリスト教の対立は、ゆっくりと、しかし着実にはじまっていたのである。 紀元98年、皇帝ネルヴァの死により、トライアヌス第十三代皇帝に。 紀元101年 3月25日 トライアヌス、ローマを発ちダキアに向かう。第一次ダキア戦役開始。ローマの連戦連勝。 紀元102年 ダキアとの講和成立(第一次ダキア戦役終結)ダキアは事実上ローマの属国に。 紀元103年 ドナウ河に渡した「トライアヌス橋」が完成。 紀元105年 第二次ダキア戦役。ハドリアヌス、ボン駐留の第一ミネルヴァ軍団の軍団長として参戦。 紀元106年 春、ローマ軍がドナウ河を再渡河。ダキアに攻め入る。 夏、ダキアの首都サルミゼゲトゥーザ落城。ダキア王デケバロスは自害。一帯のダキア住民は強制的に北部辺境へ移住させられる。(第二次ダキア戦役終結)トライアヌス、ローマに凱旋。ダキアを属州とする。 紀元107年 トライアヌスの凱旋式が挙行される。ハドリアヌス、遠パンノニア属州の総督に任命される。 紀元113年 ダキア戦役を描いた「トライアヌスの円柱」(戦役の展開を描いた200メートルを越える長さの浮彫りがある円柱。114の場面が描かれている。)公開される。トライアヌス、アルメニアとパルティアの対立を機にパルティア遠征を決め、10月27日、ローマを発つ。 紀元115年 ユダヤ一帯で反乱が勃発。 紀元116年 この頃ローマ帝国の版図が最大となる。暮、ペルシャ湾まで達したトライアヌスが冬営のため再びアンティオキアまで戻ると、メソポタミアで一斉に反乱が起こる。 紀元117年 8月9日、トライアヌスが養子に迎えた旨、ハドリアヌスに知らされる。同日、キリキアのセリヌスで、皇帝トライアヌス死去。63歳。 ハドリアヌス第十四代皇帝(41歳)に即位。 ハドリアヌス、皇位継承の後、トライアヌスの幕僚(熟練の武将たち)であった4人の元老院最上級の人々を粛清。その後は公正な政策を実施。立て続けに「銀貨」「銅貨」を発行し、その面に統治のモットーとして以下の言葉をほらせる。「寛容」(Pietas)「融和」(Concordi)「公正」(Iustitia)「平和」(Pax)。 ハドリアヌスの旅 ローマの皇帝たちは、以外にも多くの旅をしている。それは、皇帝に課された責務が、1に安全保障、2に属州の統治、3に帝国全域のインフラ整備にあったので、これを果たすには現地を知る必要があったからである。・・・・視察と、それを基にした整備整頓だけを目的とした大旅行をハドリアヌスは敢行するのである。旅の規模ならば、どの皇帝も比較になりえす、実質上の初代皇帝であったユリウス・カエサルが唯一人比較になりえると言う、長期でかつ広い範囲にわたる旅になるのは避けられなかった。・・・・ 紀元121年 ハドリアヌス、ガリアに向けローマを発つ。最初の巡行開始。リヨンからリメス・ゲルマニクスを経てライン河防衛線を視察。 紀元122年 ハドリアヌス、ライン河口からブリタニアに渡る。夏から秋頃、ドーバーを渡り、ガリアへ。冬にはスペインに達し、タラゴーナで冬を過ごす。 紀元123年 春、パルティアの不穏な動きを知らされたハドリアヌスは、予定を変更しシリアへ。 パリティアとの危機を回避したハドリアヌスは、そのまま小アジアの視察を行う。翌年にかけてトラキアへ向かう。ドナウ河防衛線を視察。ウイーンまで足をのばす。秋から翌年の春にかけ、アテネに滞在。 紀元125年 ギシシャと発ち、シチリアを訪問後、ローマへ帰還。 紀元126年 春、ハドリアヌス2度目の巡行に出発。アフリカに向かう。夏にはローマに戻る。 紀元128年 夏、ハドリアヌス3度目の巡行に出発。(東方視察) 紀元130年 ハドリアヌス、ユダヤを視察。イェルサレム近郊に都市「アエリア・カピトリーノ」を建設。ユダヤ教徒の割礼を禁止。エジプトへ。 紀元131年 秋、イェルサレムを中心に、バール・コクバ、ラビ・アキバが指導するユダヤ教徒の反乱勃発。 紀元134年 年初、ローマ軍によりイェルサレム陥落。ユダヤ教徒の反乱が事実上終結する。ハドリアヌス、反乱に加わったユダヤ教徒をイェルサレムから追放、ユダヤの属州名を「パレスティーナ」に変える。春、ローマに帰還。 紀元138年 1月24日、ハドリアヌス、自らの誕生日にアントニヌスを私邸に招き、養子縁組を申し出る。(皇位継承の申し出) 7月10日、皇帝ハドリアヌス、バイアの別邸で死去。62歳。 アントニヌス、第十五代皇帝に即位。ハドリアヌスの神格化を巡り、アントニヌスと元老院が対立。ハドリアヌスを弁護したアントニヌスは、以降、「アントニヌス・ピウス(慈悲深い)」と呼ばれる。 紀元139年 「ハドリアヌス霊廟」(現在のサンタンジェロ城)完成。 紀元161年 3月7日、皇帝アントニヌス・ピウス、ローマ近郊のロリウムにある別邸で死去。75歳。 皇帝アントニヌス・ピウスについての記述が大変少ないのですが、以下の文章でその治世が偲ばれます。 カルタゴ人でありながらハドリアヌスから、いずれ皇位を継承する若者の教育を託された哲学者フロントは、その若者が成長しマルクス・アウレリウスの名で帝位についた後に、今では故人となったハドリアヌスとアントニヌスの二人を比較して述べた手紙を、かっての教え子に書き送っている。「ハドリアヌスには、親愛の情をいだいていたとはやはり言えない。彼と対したときのわたりは、この明晰な人の意に反しないように注意するだけで精いっぱいだった。まるで、戦いの神マルスか冥界の神プルトンの前にでも出たかのような、緊張した想いになるのだった。なぜ、そのような想いになったかって?親愛の情をいだくには、自信と親密さが不可欠であるからだ。彼とわたしの間には、親密な感情が通い合うことはなく、ゆえに彼の前のわたしは、わたし自身に自信がもてなかった。わたしは彼を、心から尊敬している。だが、親愛の情をいだいていたとは、どうしても言えない。 それでアントニヌスだが、、わたしは彼を、太陽を愛するように、月を愛するように、いや人生を、愛しき人の息吹を愛するように愛していたのだ。そして、わたしが彼に親愛の情をいだいていたように、彼もまたわたしに親愛の情をかんじてくれていたと、常に確信していられたのであった」 この文くらい、ハドリアヌスとアントニヌス・ピウスの、人に与える印象の違いを明晰にのべてくれるものもない。・・・・ ユダヤ教徒の反乱を鎮圧した後のハドリアヌス帝のユダヤ教徒に対する施策、「ディアスボラ」(Diaspora)(離散)についての記述を記しておきたい。 「ディアスポラ」 ・・・ユダヤは、もはやユダヤとは呼ばれず、パレスティーナが公式な名称となった。イェルサレムもその名は消され、アエリア・カピトリーナに変わる。・・・・ユダヤ教徒にとっては聖都でありつづけるイェルサレムの現在の姿が、ユダヤ教徒の反乱を根絶するのに誰よりも過激な方策で対した男のプランによる事実は、歴史の皮肉とするしかないのである。なぜなら、紀元134年に終結したユダヤ民族の反乱は、イェルサレムからユダヤ教徒の全面追放を命じた、ハドリアヌスによるユダヤ人の「離散」(ディアスポラ)をもたらしたからであった。・・・・こうして、ユダヤ人はまたも祖国を失った。元老院の採決を経て公式に発効した紀元135年からの「ディアスポラ」は、20世紀半ばのイスラエル建国までつづくのである。・・・ ・・・ただし、反抗しようとしまいと、ユダヤ教徒に対してのハドリアヌスの感情が冷たかったことは確かだった。ハドリアヌスは、真実は自分たちだけが所有しており、それは唯一無二の自分たちの神のみであるとする彼らの生き方を、多様な人間社会もわきまえない傲慢であるとして嫌ったのだ。そして、それ以外の神々を信仰する他者を軽蔑し憎悪するこの人々に、神を愛するあまりに人間を憎むことになる性癖を見出して、同意できなかったのである。・・・・もしもこの時期にキリスト教徒が、ユダヤ教徒同様にローマに抗して反乱を起こしていたとしたら、迷うことなくハドリアヌスは、弾圧を強行していたと思う。 |
2010年5月19日 四国八十八ヶ所霊場めぐり第二回目を整理しました。多分に、手抜きが目立ちます。雨もよいのため、一眼レフではなく、小さなカメラのみを持参したため、写真の映りが落ちてしまいました。残念です。 |
2010年5月17日 信州への旅は、好天にも恵まれ、大変良き、また、思い出深い旅となりました。残念ながら、ゴルフのスコアを除けばの話となります。 2007年11月24日急逝してしまったこの会の我々の仲間の家へ慰霊に行くことが出来、奥様と思い出深いお話が出来たこと。そのお庭から松本平そして白い雪をかぶった乗鞍岳を眺望することが出来たこと。 松本の東、この会の仲間の家の裏庭であった山辺地区の山上にある中信地区の守護であった小笠原氏の居城であった「林城址」を案内され、始めて訪れることが出来たことです。その説明文です。 宿泊場所である「大町温泉郷・立山プリンスホテル」へ行く途中の道からは雲が上がってきつつある瞬間が写った「鹿島槍ヶ岳」方面の写真が摂れ、国宝「仁科神明宮」を参拝することが出来ました。説明文です。 ホテルの部屋の窓からの14日夕方の写真。 翌朝のまだ明けやらぬ雲ひとつ無い朝の写真。 好天に恵まれたこの旅を象徴しています。温泉に浸かり、美味しい料理でお酒をいただき、会話を弾ませ、恒例のようになっている歌を楽しみ、歌の閉めとして「校歌」を斉唱しました。幹事さんのご苦労には感謝!!、感謝!!!です。有り難うございました。 |
2010年5月13日 11日は、四国八十八箇所霊場めぐり第2回目の旅に行って来ました。心配していたお天気も、傘を差したのが朝、家から松井山手駅までで、霊場を回っている時は幸いに必要がありませんでした。チョットだけ濡れることがあしましたが。お参りの手順もやはり1回目よりも要領を覚え、今回も逆打ちでしたが、11番藤井寺から7番十楽寺まで、38人のお仲間と楽しくお勤めを完了するととができました。第3回目の申し込みを6月9日としてネットで申し込みをすませました。 明日、明後日は信州です。仲間との会話とお酒が楽しみです。いつも思わず飲みすぎて迷惑をかけています。行く前には今回こそ自重しようと考えているのですが??15日は久しぶりの下手ゴルフです。ボールが前に飛ぶか今から心配です。こちらもパートナーの足手まといにならなければよいのですが?? |
2010年5月10日 明日、11日はトラピックスさんのバスによる四国八十八ヶ所観音霊場めぐり第2回目、7番十楽寺、8番熊谷寺、9番法輪寺、10番切幡寺、11番藤井寺への旅です。「三室戸寺」『醍醐寺」の別ベージの作成をしています。 |
2010年5月5日 連休最後の日、”子供の日”です。昨日は、お天気に誘われて、西国三十三箇所札所めぐり「三室戸寺」「上醍醐寺」で、御朱印を戴いてきました。梅雨時、「紫陽花」で有名な「三室戸寺」ですが、なんのなんのこの時期、手入れの行き届いた「躑躅」(つつじ)が見事に咲いていました。どうしても別ページで紹介したくなります。これからです。 |
2010年4月29日 今日からゴールデンウィークに入ります。現役時代は貴重な連休ということで、その過ごし方を色々と悩んだことがありました。今はその悩みは解消されました。喜んでよいのか悲しむべきことなのか? 今は亡き半村良(はんむらりょう)のSF小説「ガイア伝説」(1991年3月20日第1刷発行)を読みました。以前にもこの本を手に取り、読み始めたものの難解で、途中でギブアップしたような気がします。ガイアは別の文字が当てられていますが、乂(がい)部分は文字表示ができるのですが、(あ)部分はこのパソコンでは表示されないためカタカナ表示としています。 食物連鎖を排除し、植物的感応力を持った新人類の誕生を予言する内容のものです。南米で、デンキウナギの電気を利用することが出来る藻の発見から、これを利用した生物電池を作りあげる。それを人間の食用として、これを摂取することで新人類に変化してゆく。 「われわれは、生物電池の開発をする過程で、この問題に行き当たった。人間は動物界で最も複雑、かつ高度な組織を発達させ、知性を持つことに成功した。だが弱点は動物界を支配する、弱者強食のルールから離れられないことだ。しかし進化を植物の方向に向ければ、まったく新しい世界が開ける。植物と動物の境界はかあなりあいまいだということもわかっている。葉緑素を持った人間が出現すれば、戦争など回避する必要もない世の中がくる」 黒川常夢はそういってまたグリーン・ジュースを飲んだ。 「だいいち・・・」常夢はグラスを下におきながら続けた。 「生物本来の利益を中心にした社会が築けるのだ」 「生物本来の利益ですか・・・・」 加寿子が尋ねた。 「富とは快適であること、不安がないこと。利益とはしあわせであること。うれしいこと。うれしがることができること。快適であり不安がないためには、仲間も快適で、不安なく暮らすことだ。仲間の富は自分の富」 「素敵ねえ、そんな社会は」 「しかし、そういう世の中はすぐには来ない。長い年月がかかる」 「どれくらい待てばいいのですか」 常夢派それに答えず、話題をかえた。 今の社会がヒューマニズムを標榜するのは、自分たちが弱肉強食の掟から、逃げられない宿命を背負っているのと知っているからだ。もちろんそれを標榜することは正しい。だが米も麦も生命だ。肉にいたっては、どう誤魔化しても弱肉強食どのもののあらわれだ。弱肉強食とは、生物の食物連鎖と同じ意味だ。ガイアがそれを許している」 「ガイア・・・・」 そこには墨痕鮮やかに、乂アの二文字が書かれている。 大地の女神。地球の神。地母神」常夢が静かにいい、みなしばらく沈黙した。 「ガイアが許しているのは、人類がまだそれほど高い生命ではないからだ。食物連鎖、弱肉強食から出ることができない生物だからだ」 高条がいった。・・・・・ なぜ人間から感能力を持つ新生命体が生まれようとしているのか。それは難解なようで以外に単純なことだ。その問題に対する答えのひとつとして、感応そのものがあげられる。・・・・・蝶や蜂などに似せた花をつけ、受粉を有利にしようとすることも同じだ。植物は蝶や蜂の姿を見て学んでいるはずなのだ。しかし植物に視覚があるわけではなく、そこには視覚や聴覚を越えた感覚がなければならない。 それが感応だ。・・・・・・ 以下は最後の「第十三章 緑の人」の最終の文章です。 その緑人は何ひとつ動作を起こそうとはしない。のんびり日なたぼっこをしているだけだ。人間たちはまだ都会に住んでいて、富の蓄積に熱心だ。 しかし緑人は自分がこれだらどんな生命を造りだそうかと、構想することをたのしんでいる。緑人は光合成機能を獲得して、弱肉強食を離れたばかりか、人間界からも遠ざかって、自然の中でくれしているにだ。体内に蓄えた電気を使って、精神を先鋭化させ、ガイアが許す範囲で生命を創出してたのしんでいるのだ。 夢像はしばらくその緑人にどどまっていた。 |
2010年4月25日 気候が大不順で、いつまでも寒さがとれず、「いつ本当の春が来るのかなん」と思っていましたが、さくらは咲き、葉桜となりつつあります。季節はそれなりに移っているのでしょう。嫁さんの丹精による、家の花々も咲き始めました。 今年は『オオデマリ』が見事に咲きました。オオデマリ 1) 2) 昨年、春日大社の神苑で求めるてきた『オダマキ』も大きくなりました。 オダマキ 1) 2) シンビジューム類も。 1) 2) 「ローマ人の物語」は「危機と克服」上・中・下巻の後、「賢帝の世紀」上・中・下巻が貸し出されているため、「すべての道はローマに通ず」上・下巻を読んでいます。この巻はローマの王政・共和制・帝政時代を通じての道路・水道などインフラのについて整理して紹介しているものです。凱旋門やコロッシアム等の大競技場といった施設は別として、特に道路、橋、水道などのインフラの考え方は、現代人が学ばなくてはならないほどのものといえます。 ・・・ローマ街道とは、どのような経路を経て現実化され、維持されていたのであろうか。だだし話は、文字どうりの「動脈」であった、全長8万キロにもおよぶ幹線にかぎるとする。 1、 誰が立案したのか。 2、決定は、誰が下したのか。 3、建築費の財源は、どこに求めたのか。 4、誰が、実際の工事を行ったのか。 5、誰が、メインテナンスをふくめた完成後の運営を行ったのか。 6、そのための経費は、どこが負担していたのか。 7、使用料は。 その答えは 1、 その時期の最高位社 2、 元老院 3、 国庫 4、軍隊 5、 現代ならば、公共事業を担当する省庁の道路局か、でなけらば道路公団のような機関 6、 国か、ないしそれが通る地方の地方自治体 7、無料 ・・・・ ローマ史は、王政、共和制、帝政と進むが、街道や橋の話にかぎれば、共和制と帝政の時代に焦点をしぼればいい。それを軍事面で二分すれば、共和制時代は攻勢の時代、帝政は防御の時代と言えた。帝政時代になってローマの支配圏に組み入れられえた地方は、ブリタニアと呼ばれた現イングランドと、ダキアと呼ばれた現ルーマニアしかない。帝政ローマのモットーであった「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)が示すように、帝政移行後のローマは、征服を目的にした戦争をしなくなっていた。 ところが凱旋門とは、戦いに勝って帰国した将軍と兵士たちを迎えるために考案された、ローマ独自の建築様式である。・・・・かってこの人々の祖国への貢献を後世に伝える目的が凱旋門にあったのに、帝政時代の最高司令官に対しては、戦いの勝者でないという理由で凱旋門を捧げないというのでは、どうにも格好がつかないのである。・・・・これもまた、「パクス・ロマーナ」を政策化したアウグストゥスが先鞭をつけたことなのだが、街道や橋を建設した皇帝も凱旋門を贈られる資格があることとなったのだった。・・・ということでローマ帝国の全域にわたって、凱旋門が多く残されることとなったようです。 |
2010年4月19日 「ローマ人の物語 危機と克服 上・中・下」を読み終えました。ここに書かれている内容は、ローマ史のなかでは、初めて知ることばかりです。皇帝ネロは、その後、キリスト教がヨーロッパを席巻するに伴い、より一層悪名をとどろかしていきますが、その後のここに記されている皇帝は、その名前さえも我々の知識の中には入ってはおりません。 この時代のローマ帝国版図はこのようになっています。 上巻では、皇帝ガルバ(在位 紀元68年6月18日ー69年1月15日)、皇帝オトー(在位 紀元69年1月15日ー4月15日)、皇帝ヴィテリウス(在位 紀元69年4月16日ー12月20日)の短命で悲劇的な最後を遂げる3皇帝についての記述。 中巻では、ユダヤ戦役と皇帝ヴェスバシアヌス(在位 紀元69年12月21日ー79年6月24日)の治世。 下巻では、皇帝ティトゥス(在位 紀元79年6月24日ー81年9月13日)、皇帝ドミティアヌス(在位 紀元81年9月14日ー96年9月18日)、皇帝ネルヴァ(在位 紀元96年9月19日ー98年1月27日)の治世。 上巻書き出しの、『ネロの死が、ローマ人に突きつけた問題』 紀元68年6月9日、皇帝ネロが死んだ。スペイン駐屯の軍団によって皇帝に推挙されたガルバが、軍団を率いてローマに進軍してくると聴いただけで元老院はガルバを「第一人者」(プリンチェプス)と認め、ローマ市民も、そっぽを向くというやり方にしろネロを見離したからである。追いつめられたネロは、三十歳の若さで自らの胸を刺すしかなかった。ローマ帝国の2大主権者である元老院と市民の双方から、不信任を突きつけられたということであった。軍団兵も近衛軍の兵士も、ローマ市民権所有者であることが資格の第一条件であった以上、この人々もまた立派な「有権者」であったのだ。 しかし、ネロの排除には成功したものの、元老院も市民も、事態の正確な認識が充分ではなかったように思う。ネロに代わってガルバが皇帝になれば、ローマ帝国の統治は支障なくつづくと思い込んでいたらしい。だが、事態はそれほど簡単ではなかったのである。 人類は現代に至るまであらゆる形の政体、王政、貴族政、民主政から果ては共産主義政体まで考え出し実行もしてきたが、統治する者と統治される者の二分離の解消にはついに成功しなかった。解消を夢見た人は多かったが、それはユートピアであって、現実の人間社会の運営には適していなかったからである。 となれば、政体が何であるかには関係なく、統治者と被統治者の二分離は存続するということである。存続せざるをえないのが現実である以上、被統治者は統治者に、次の三条件を求めたのだ。 統治するうえでの、正当性と権威と力量である。 アウグストゥスが創設したローマ帝政では、「正当性」とは元老院と市民の承認であり、「権威」とはアウグストゥスの血を引くということであり、「力量」とは、ローマ帝国皇帝にとっての二大責務である安全と食の保障をはじめとする、帝国運営上の諸事を遂行していくに適した能力を意味した。「権威」はもっていたにもかかわらず、「力量」を欠くと判断されたがゆえに「正当性」を失ったことが、ネロの運命を決定したのである。そして、ネロ以降の皇帝たちも、右の三条件のすべてを満たすことを求められた点では、ネロ以前の皇帝たちとまったく変わりはないのだった。それどころか、正当性と能力に加えてアウグストゥスの「血」に代わりうる別の権威まで創り出さねばならないのだから、問題はよし深刻であったのだ。 まず、皇帝に名乗りをあげたスペイン北東部の属州総督ガルバが、誰よりも事態の深刻さを認識していなかった。・・・・・ 紀元68年 元老院、ネロを「国家の敵」とする宣言を可決。 近衛軍団、ガルバを「皇帝(インペラトール)」に推挙すると決定。セルヴィウス・スルビキウス・ガルバは首都ローマの上流階級の生まれ。72歳。当時は皇帝管理の属州の一つスペイン北東部の総督。 6月9日、ネロ自死、30歳。 紀元69年 1月上旬、ガルバ、ピソ(ローマの名門貴族。「ピソの陰謀」の一門)を後継者に指名。 1月15日、オトーの命によりガルバが暗殺され、同時にヴィニウス(この年のガルバと並ぶ執政官)とピソも殺される。オトー、近衛軍団の支持を受け、皇帝に。元老院もこれを承認。 ヴィテリウス派のゲルマニア軍団総勢十万が三軍に分かれて南下開始。4月15日、第一次ベドリアクム戦。ヴィテリウス軍、オトー軍を下す。オトー自死、37歳。 4月16日、元老院ヴィテリウスの「第一人者」登位を承認。 7月18日、ヴィテリウスと配下の武装兵6万、ローマ入城。(ローマ帝国では、共和政時代からすでに、その首都であるローマの内部には武装した軍隊は入れないという決まりがあった。) (東方属州では)6月 シリア属州総督ムキアヌス、「ドナウ軍団」から皇帝への推挙打診を受け、「ヴェスパシアヌス」(ユダヤ方面司令官で、ユダヤ戦役中。)を推す。 6月末、ヴェスバシアヌス、ムキアヌス、アレクサンドロス(ユダヤ人・エジプト長官)の三者、ベイルートで会談。三者は、兵士、兵器、軍資金の確保を進める。パルティアとの友好関係も再確認。帝国東方の全軍と同盟諸国、反ヴィテリウスの姿勢を明示。 ムキアヌスは軍勢を率いてイタリアへ向かい、ヴェスバシアヌスはエジプトで待機。アレクサンドリアはユダヤ戦役準備のためユダヤへ向かうティトゥス(ヴェスバシアヌスの息子)に同行。 10月24日、第二次ベドリアクム戦。ヴェスバシアヌス派の「ライン軍団」とヴェスバシアヌス派の「ドナウ軍団」が激突。「ドナウ軍団」が勝利。 12月20日、ローマ市街戦。フォロ・ロマーノでヴィテリウス殺害される。54歳。 12月21日、ヴェスバシアヌスの統治、実質的に始まる。 12月下旬、ムキアヌス、ローマ入城。ヴェスバシアヌス皇帝法成立。 紀元70年春 1月1日、元老院、ヴェスバシアヌスを「第一人者」として承認。ティトゥス指揮のローマ軍、イェルサレム城壁前に布陣。イェルサレム攻防戦はじまる。9月26日、イェルサレム陥落。 紀元71年 ユダヤ戦役を終え凱旋したティトゥス、近衛軍団の長官に就任。ヴェスバシアヌス、コロッセウム建設に着手。 紀元73年 ヴェスバシアヌスとティトゥス、財務官に就任し国勢調査を実施。大幅な税収増加の道筋をつける。 紀元79年 6月24日、ヴェシバシアヌス死去。70歳。ティトゥス帝位に就く。 8月24日、ヴェスヴィオ火山大噴火、ポンペイ他が埋没。 紀元80年 ローマ都心部で大火。コロッセウム完成。 紀元82年 9月13日 ティトゥス死去。40歳。14日、弟のドミティアヌス、帝位に就く。 紀元83年 ドミティアヌス、ゲルマニア防壁の建設に着手。 紀元96年 ドミティアヌス暗殺される。44歳。 元老院、ネルヴァを皇帝として承認、ドミティアヌスを「記録抹殺刑」に処すことを決議。(「記録抹殺刑」、この刑にはネロも死後に処せられている。すべての業績の記録を抹殺される。もちろん銅像なども破壊されるため後世に残る物が少ない。) 紀元98年 トライアヌス、執政官に就任。1月27日、ネルヴァ死去。71歳。トライアヌス、帝位に就く。 下巻最後の部分「ローマの人事」に以下のように記されています。 盛者必衰は、歴史の理(ことわり)です。ローマ人の歴史もまた、この理の例外ではありえない。しかい、ローマ人の歴史を書いていると、盛者必衰を前にして感傷にひたるよりも、別のことを考えるようになる。それは、ローマ史とはリレー競争に似ている。という想いである。既成の指導者階級の機能が衰えてくると、必ず新しい人材が、ライン上でバトンタッチを待っているという感じだ。 権力者が権力を保持し続ける要因には、その人に代わりうる人物がいないからやむをえず続投してもらう、である場合が少なくない。言い換えれば、後継者難のおがけで、機能不調に陥った既成の支配階級でもあいかわらず権力を保持し続ける、という状態である。そしてこの結果は、衰退を止められなくなったあげくにやってくる、共同体そのものの崩壊だ。つまり、バトンタッチする者がいないために走りつづけ、ついにはトラック上で倒れて死ぬ、という図式である。 ローマの歴史は、これとは異なる道をたどったように思う。とはいえ、国家の運営が任務の国政と、体力を競うのが目的のリレー競争はやはりちがう。前者の場合では、次の走者は、今、現に走っている走者自身が選ばねばならない。権力には、後継者人事の決定権もふくまれているのだから。ローマの歴史がリレー競争に似ているのは、現に権力をもっている者が、自分に代わりうる者を積極的に登用し育成したところにある。 ヴェスパシアヌスが、ティベリウス門下の一人としてスタートしたことは知られている。トライアヌスは、父親はヴェスバシアヌスに登用されたが、彼自身はドミティアヌスに抜擢されたのであった。そして、ユリウス・カエサルは広く属州から人材を登用し、アウグストゥスは、騎士階級というローマ社会の第二階層を、帝国運営に活用したのである。いずれも、彼らの後のつづく資質をもつ人材を登用することで、リレー要員、つまり指導者層の育成につながったのだと、言えないであろうか。・・・・そして、結果ならば、ローマのリーダーたちは次世代のリーダー達の育成に成功したとするしかない。なにしろ今や、初の属州出身の皇帝の登場である。属州の人材の登用には誰よりも積極的であった、ユリウス・カエサルやクラウディウス帝がこれを知ったら、何と言ったであろうか、と考えてします。 |
2010年4月14日 「ローマ人の物語 危機と克服 上・中・下」を読んでいます。その中巻 皇帝ヴェスパシアヌス 教育と医療の中で医療に関してのローマ人の考え方(彼らの死生観)について以下のように記しています。 医療に関してのローマ人の考え方は、彼らの死生観に起因しいていたのではないかた思う。帝国という共同体の平和の維持のために負傷した者には、完璧な治療が保障される。しかし、生命、日本で言う寿命、は甘受する。こうなると病気の治療への努力も、直る可能性があるがぎり、となりはしないか。ローマの皇帝のただ一人といえども、自らの延命に狂奔した人はいない。それどころか、社会的には高い地位にいある高齢者が病に倒れ、もはや寿命と悟った場合に、それ以上の治療を拒否し、食を断ち、自死を選んだ例は少なくない。ローマ人は、自らの生命をいかなる手段に訴えても延長しようとする考えには無縁であったのだ。社会的にも知的にも高いローマ人になればなるほど、頭脳的にも精神的にも肉体的にも、消耗しつくした後でなお生延びるのを嫌ったのである。だからこそ、生命ある間を存分に生きる重要さを説いた、ストア哲学の教えが浸透したのではないかと思う。 それに、ギリシャの医療の祖ヒポクラテスの教えも生きつづけていた。病気になって治療するよりも、もともとからある身体の抵抗力を高めることのほうを重視した考えである。ローマ皇帝たちが、大病院よりも大浴場や水道の建設に熱心であったのも、この考えの帰結かと思われる。 身体を清潔に保つ週間は、免疫力の向上につながる。食を保障するのは、体力を維持することで病気をと遠ざける役に立つ。ヴェスバシアヌス時代のローマにあった公衆浴場としては、アウグストゥス時代にアグリッパが寄贈したものと、皇帝ネロの寄贈による2箇所があった。この二つに加え、ヴェシバシアヌスの後を継いで皇帝になるティトゥスも、コロッセウムを眼下に見る高台に、三つ目の大浴場を建設する。・・・・なるほどと肯けるローマ人の合理性では!!全体の読後感は近々に!!! |
2010年4月10日 明日、11日は美緒ちゃん5歳の誕生日です。息子も今日が誕生日に当たりますので、明日の夕方には恒例の3家族(孫2人)での誕生会をすることになっています。お店での会食後に我が家で、5本のローソクの火を得意そうな顔をして吹き消す美緒ちゃんが見られそうで楽しみです。 「ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち 一 二 三 四巻」を読み終えました。後世に「ユリウス=クラウディウス朝」と称せられるアウグストゥス・ティベリウス・カリグラ・クラウディウス・ネロの内で、創始者アウグストゥスを除いた4人の皇帝についての記述です。以下、末尾に記された年表です。 紀元14年 9月17日 ティベリウス、「元老院の第一人者」(プリンチェプス)(55歳)となり第二代皇帝に。 ティベリウスはアウグストゥスとは血のつながりは無く、名門のクラウディウス一門の直系でアウグストゥスの養子となっています。アウグストゥスは息子のガイウス、ルキウス亡き後、姉の孫に当たるゲルマニクスへの皇位継承を願い、チィベリウスにゲルマニクスを養子にさせています。ローマ帝国の最高統治者には”創業者”である自分の血を引く者が就くとした意志を示したわけです。 紀元19年 10月10日 ゲルマニクス死去。(歴史家タキトゥスはティベリウスの密命をうけたシリア属州総督ピソによる毒殺であったとしているが、現在の定説はマラリアによる死となっているようです。) 紀元21年 ティベリウス、執政官となった息子ドゥルーススに執政をまかせ、ナポリ近郊で一年を過ごす。 紀元23年 ドゥルースス急死。 紀元37年 3月16日 ナポリ湾西端のミセーノ岬のヴィラでティベリウス死去。77歳。 3月18日 元老院、ゲルマニクスの三男カリグラ(小さな軍靴の意味)にすべての権限を付与する決議を行い、カリグラが第三代皇帝に。 紀元40年 ユダヤでギリシャ人とユダヤ人の対立激化。カリグラに捧げられた祭壇をユダヤ人が粉砕、カリグラはシリア総督に対し、イェルサレムの大神殿にユピテル神像を立てるよう命ずる。 紀元41年 1月24日 カリグラ、近衛軍団大隊長のカシウス・ケレアとコルネリウス・サビヌスによって殺害される。38歳。同日、元老院はクラウディウスにカリグラの有したすべての権限を付与する決議を行い、クラウディウスが第四代皇帝に。クラウディウスはティベリウスの甥で、ゲルマニクスの弟、カリグラの叔父。紀元前10年現フランスのリヨンで生まれた。皇帝としての公式名は、ティベリウス・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス。 紀元48年 クラウディウス、国勢調査を実施。ローマ市民権所有者数は約598万人。 紀元50年 アグリッピーナ(カリグラの妹)、息子のドミティウスをクラウディウスの養子に。これ以降、ドミティウスの名はネロ・クラウディウスに。 紀元54年 10月13日 クラウディウス死去、63歳。(アグリッピーナによる毒殺説)。同日、近衛軍団から「インペラトール」の呼びかけを受ける。元老院もネロへの全権付与を決議、ネロ、第五代皇帝に。16歳。 紀元59年 3月21日 ネロ、母アグリッピーナを殺害。 紀元61年 妻のオクタヴィア(クラウディウスの娘)を離婚し、流刑に処したうえ殺害。 紀元63年 南イタリアのポンペイで地震発生。 紀元64年 ネロ、ナポリの野外劇場で歌手デビゥー。7月18日夜、大競技場の観客席下の店から出火。9日間にわたって燃え、ローマの広範囲を焼く大火となる。ネロは消火活動、被災者救済、火災後の再建の陣頭指揮をとる。放火罪、「人類全体への憎悪の罪」などでキリスト教徒を逮捕、処刑するも、「ネロが放火を命じた」という噂は消えず。 紀元65年 年末 20〜30人が加わりネロ暗殺を謀った「ピソの陰謀」発覚。関係者は自死もしくは処刑。ネロの家庭教師で長年の参謀役であったセネカも疑われて自死。 紀元66年 「ベネヴェントの陰謀」が発覚。青年将校は全員処刑。ネロ、歌手としての腕試しのためギリシャ旅行へ出発。 紀元68年 1月、ネロ、ギリシャからイタリアへ帰還、「凱旋式」を挙行。 元老院、スペインで決起したガルバを「国家の敵」とすることを可決。 ローマ市民、「食」の保障に対する不備ときっかけに、反ネロで立ち上がる。 元老院、ネロを「国家の敵」とする宣告を可決。 近衛軍団、ガルバを「皇帝(インペラトール)」に推挙すると決定。 6月9日、ネロ、ローマ郊外の隠れ家で自死。 「悪名高き皇帝たち 四」の最後の部分を抜粋します。 このネロを最後に、アウグストゥスがはじめた、「ユリウス・クラウディウス朝」は崩壊した。百年つづいた後の崩壊である。だがそれは、単なる皇統の断絶というよりも、アウグストゥスが創造した、「デリケートなフィクション」としての帝政の崩壊を意味したと、私には思える。 カリグラ帝殺害のときは、皇統、つまりアウグストゥスの血、をいくらかでも引く者を探し出して皇位に就けることに、元老院も市民も、反撥どころか賛意を示した。クラウディウスの登位が、スムーズに行われたのはそれゆえである。登位には近衛軍団による剣の脅しが効あったのは確かだが、それだけで、元老院と市民と13年間も抑えつづけることはできない。クラウディウスの登位は、現代風に言えばコンセンサスを得ることができたからである。 ネロには、カリグラ同様に子がなかった。しかし、アウグストゥスの血を引く者は、探そうと思えば探せなかったわけではない。・・・・・・・ ・・・しかし、アウグストゥスの「血」と訣別したローマ人も、アウグストゥスの創設した帝政とは訣別しなかったのである。カエサルが青写真を描き、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが磐石にし、クラウディウスが手直しをほどこした帝政は、心情的には共和主義者であったタキトゥスですら、帝国の現状に適応した政体、とせざるをえなかったほどに機能していたからだ。 ローマ人は、イデオロギーの民ではなかった。現実と闘う意味においての、リアリストの集団であった。紀元68年夏からの一年半の混迷も、政体模索の混迷ではない。今後とも帝政で行くことでは、コンセンサスが成り立っている。問題は、誰を「一人の統治」の当事者にするか、であったのだ。だがそれゆえに、アウグストゥスの苦労の結果であった帝政におけるチェック機能の問題は、未解決で残されることになった。いや、チェック機能としての皇帝暗殺が、正当化されるようになったとするべきかもしてない。 |
2010年4月8日 3日の「春のハイキング」をアップしてみました。 |
2010年4月4日 3日の互喜会、4日の高校同窓会関西支部の泉南でのハイキングとも、幹事さんのご尽力と、皆様の明るさで、ホント楽しい時間を戴くことが出来ました。まずは感謝!!感謝!!!です。有り難うございました!!!!ハイキングのページを作ります。 |
2010年4月1日 今年も、もう4月です。新入学、新入社など各々、新しい門出の方々も多いでしょうね。爺サマにはあまり縁のあることではなさそうです。そんな関連か?昨日、一昨日の二日間、あと10日ほどで5歳になる孫の美緒ちゃんを預かりました。成長を喜び、一緒の遊んで、疲れました!!! 明日は、東京へ出て学生時代の仲間との会合があります。40数年ぶりにお会いする先生、仲間の顔を思い出すことができるか、大変心配になります。3日は、阪南市方面のハイキングです。丁度、サクラの時機にあたり、中山渓での(花より)団子の会のビールが楽しみです。こちらは、お天気が心配です。 |
2010年3月25日 20日、15時第二京阪道路が全面開通し、私どもが住む京田辺市内にICとPAが出来ました。今日25日からは、関空へのリムジンがその道を通ることになり、そのバス停が誕生しました。京都駅から関空までの便ですので、便数が増え、所要時間が大幅に短縮化します。先日その下見をしてきました。PCは駐車場、トイレ、バス停、自動販売機のみですが、便利になることは確かなようです。 |
2010年3月21日 昨日20日は「阪急交通社」さんの「四国八十八箇所お遍路の旅」の初回に参加してきました。初回のみは今年に因んで、2010円の参加料という安さです。三連休の初日ということもあり、道路、お寺さんは大変な混雑。先達の良きご指導で、無事に「発願の旅」の一部、1番から6番までのお勤めを無事にはたして帰ることが出来ました。「西国三十三箇所観音霊場の旅」と同時進行ですが、「四国八十八箇所お遍路・バスの旅」を別ページで紹介していきます。 |
2010年3月19日 「ローマ人の物語 パクス・ロマーナ(ローマによる平和)上・中・下」は「アウグストゥス(オクタヴィアヌス)」が「ユリウス・カエサル」の意思を継ぎ、共和制を尊重する振りをすることで元老院との確執を避けながら、実質帝政への足場を固めてゆく過程の物語です。広大になったローマの平和を維持するには、どうしても素早い、そして強力な意志の決定が必要となったのです。以下、年表方式でアウグストゥスの施策をたどります。 紀元前29年8月 オクタヴィアヌス(33歳)壮麗な凱旋式を行い、ローマ市民は熱狂する。9月 神君カエサルに捧げる神殿をフォロ・ロマーノに建てると公表。軍事力を大幅削減。(最終的には、50万人を16万8千人へ) 紀元前28年 48年ぶりの国勢調査を実施。元老院を再編成。千名を越えていた議員を600名に戻す。 紀元前27年1月13日 共和政体への復帰を宣言。 1月16日 元老院はオクダヴィアヌスに尊称「アウグストゥス」を贈ると決議。「内閣」(第一人者の補佐機関)を設置。(紀元前27年は、当時の多くのローマ人にとっては、共和制への復帰を祝った年であった。だが、この同じ年が、後世から、と言ってもわずか半世紀程度の後世から見れば、帝政が本格的にはじまった年になるのである。この年から、オクタヴィアヌスの正式名称は次のように変わる。 「インペラトール・ユリウス・カエサル・アウグストゥス」(Imperator Julius Caesar Augusutus) 紀元前26年 スペインへ 紀元前24年 ローマ世界の西半分の再編成を終え、帰還。 紀元前23年 アグリッパ(軍事面を担当した右腕)と共に執政官を辞任し、以後は毎年市民集会で自由に選出と宣言。「護民官特権」授与を希望し、受け入れられる。 通貨改革に着手。 紀元前22年 東方再編成行はじまり、まずシチリアへ。 紀元前21年 ギリシャに滞在。5月12日、ローマ・パルティア間講和の調印式。 紀元前19年 10月21日 ローマに帰還。 紀元前18年 「ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法」「ユリウス正式婚姻法」を制定。(アウグストゥス、45歳 独身と少子傾向を危惧。) 紀元前13年 「平和の祭壇」建設に着手。レピドゥス没、代わって最高神祇官へ。 紀元前12年 アグリッパ、死す。ローマ軍、ゲルマニアに侵攻開始。 紀元前9年 「平和の祭壇」完成。エルベ=ドナウ防衛線成立。 紀元前8年 マエケナス(外交面を担当した左腕)、死す。 紀元前6年 ティベリウス、ロードス島へひきこもる。 紀元前1年 元老院、アウグストゥスに「国家の父」の称号を贈る。 紀元4年 ティベリウスを後継者に決める。その後継者にゲルマニクスを指名。ティベリウス、ゲルマニア戦線に復帰。エルベを除く重要な河は、すべて制圧。 紀元13年 3年間ゲルマン戦線にいつづけたティベリウスに「最高司令権」を授与。以後のゲルマン戦線はゲルマニクスに担当させる。 紀元14年 共同統治者ティベリウスの連名で国政調査。「業績録」を書き上げ、ナポリに滞在中の8月19日、没す。 死の少し前のアウグストゥスが、ナポリ湾の周遊中に立ち寄ったポッツォーリの出来事である。エジプトのアレクサンドリアから着いたばかりの商船の乗客や船乗りたちが、近くに錨をおろしている船の上で休んでいた老皇帝を認めたのだった。船上から人々は、まるで合唱するかのように、声をそろえて皇帝に向かって叫んだ。「あなたのおかげです、われわれの生活が成り立つのも。あなたのおかげです、わたしたちが安全に旅をできるのも。あなたのおかげです、われわれが自由で平和に生きていけるのも」 予期しなかった人々から捧げられたこの賛辞は、老いたアウグストゥスを心の底から幸福にした。彼の指示で、その人々の全員に、金貨40枚ずつが贈られた。ただし、金貨の使い道には条件がついていた。エジプトの物産を購入してた後で売ること、である。老いてもなおアウグストゥスは、現実的な男でありつづけたのだ。物産が自由に流通してこそ、帝国全体の経済力も向上し生活水準も向上するのである。そして、それを可能にするのが、「平和(パクス)」なのであった。 |
2010年3月18日 昨日17日、姫路へ行って来ました。姫路城の改修工事が進んでおり、4月12日以降は大天守素屋根の改修工事が始まり、現在の優雅な大天守の景観が当分間見ることが出来なくなるとのことを知ったためです。4月12日以降徐々に覆いが広がり、3年間ほどは、大天守が隠されるとのことです。イタリアでは、どこの都市でも私たちが訪れる教会などは巨大クレーンが何機も置かれ、修復が行われていましたが、今回、姫路城も搦め手上り口付近にクレーンが置かれ、その部分の見学が不能となっていました。 本当は、もちろん、少し後の桜の時期が良いのですが、その時期はお客さんが多すぎて、とてもお城と桜の鑑賞と撮影は無理と判断したからです。昨日も大変なヒトヒトで、大天守へ登るにも大変な列、最上階は特に、窓からの撮影も押し合いへしあいの状況でした。でも、お天気は最高で、良い写真が沢山撮れました。 この機会にと、西国33ヶ所観音霊場第27番札所「書寫山圓教寺」、第26番札所「法華山一乗寺」のお参りと御納経帖へのご記帳を戴いてまいりました。これについては別ページにて整理していきますが、ここでは姫路城の写真を紹介します。 1) 明治時代始めの姫路城鳥瞰図 2) 堀と石垣の向こうに天守閣が見えます。 3) 南東方面から工事のためのクレーンが天守閣に迫っています。 4) 正面広場からの全景。 5) 三国濠前から大天守、小天守を見上げます。 6) 本丸備前丸から石垣、天守閣を見上げます。 7) 桜の花が満開になれば!!! 8) 最上階から西の丸方面を見下ろします。 9) 西の丸渡櫓(百間廊下)の窓から千姫所縁の化粧櫓の向こうに天守閣が望めます。 20日は、トラピックスで「四国八十八箇所観音霊場めぐり」第一回に参加の予定です。朝は6時前に家を出発する必要があります。また、「ローマ人の物語 パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」のまとめも。読書は、すでにその後のシリーズ「悪名高き皇帝たち」の第一巻に入っています。 |
2010年3月13日 3月15日までの京都国立博物館での「THE ハプスブルグ展」を鑑賞しようと、出かけることとしました。最近、松井山手駅から京都駅まで高速道路を使っての直通バスが運行されることなり、京都駅までは大変便利になりました。バス、近鉄電車を使って京都に出るよりも時間も料金も有利です。来月からは便数も増えるとのこと、嬉しいかぎりです。ついでといっては申し訳ないことですが、何回も訪れながら、納経帖を持たずにお参りしていため、ご記帳が出来ていなかった「六波羅蜜寺」「清水寺」を訪ね、ご朱印を戴きました。 「六波羅蜜寺」「清水寺」にお参りし、一時頃東山一条の「京都国立博物館」に着いたところ、入館を待つ長い列が出来ていましたので、近所で昼食を取ることとしました。朽木に本店がある鯖寿司の有名な専門店「旭屋」を発見、十割そばと鯖寿司のセットメニューを頂戴しました。博物館へ戻ると、待ち時間は60分、長蛇の列が出来ていました。 午後3時に入館。「高嶋政宏氏」ナレーションの音声ガイド機を借り、もちろん沢山のお客さんですが、その割にはゆっくりと会場の美術品を鑑賞しました。 ハプスブルグ家(Haus Habsburg)はウィキペディアによると、現在のスイス領内に発祥しドイツ系貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大の領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国などの大公、国王、皇帝などを代々だした。 「THE ハプスブルグ展」京都国立博物館のホームページからの写真です。 「名画で読み解く ハプスブルグ家 12の物語」 中野京子著 の書き出しです。 青い血の一族 ハプスブルグ家の人々は、自らを神に選ばれた特別な存在として高貴な青い血を誇ったが、その裏付けは、五つの宗教と十二の民族を何世紀にもわたって束ね続け、神聖ローマ帝国皇帝の座をほぼ独占してきたという自信であった。 王朝の支配権は、現オーストリア、トイツ、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダ、チェコ、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ポルトガル、ブラジル、メキシコ、カリフォルニア、インドネシアまで及んだ。ひとりでもっとも多くの国の君主を兼ねたのもハプスブルグ家で、カール五世はヨーロッパ史上最多の七十以上の肩書きを持ったし、マリア・テレジアの正式称号も、「オーストリア女大公、兼シュタイアマルク女公、兼ケルンテン女公、兼チロル女伯、兼ボヘミア女王、兼ハンガリー女王・・・」と、「兼」が延々40以上つらなっていた。またフランツ・ヨーゼフが戴冠した19世紀半ば、帝国末期でさえ、なお領地面積はロシアをのぞいてヨーロッパ最大だった。 かくも強大なこの一族の源流といえば、意外やオーストリアでもドイツでもなく、十世紀末ここスイス北東部の片田舎にあらわれた弱小の豪族でる。その豪族から2,3代経た11世紀初め、「ハービヒツブルグ城 Habichtsburg」が建てられた(城砦の一部がスイスのブルックに現存している)。ハービヒト Habichtは「大鷹」、ブルグBurg は 「砦」「城砦」の意で、ここからハプスブルグHabsburgの名称が生まれたらしい。いずれにせよ12世紀に入り、この城を本拠とする子孫がハプスブルグ伯爵を名乗り、当時点をもってハプスブルグ家の始まりとされる。・・・・ |
2010年3月8日 「ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後 下巻」は「カエサルの遺言状」がガリア戦役の時の部下でありこの時の執政官で、カエサル亡き後最高高位者であったアントニウスの見守る中、カエサルの遺体の前で開封され、この遺言の書かれた内容が実現されるまでの物語となります。 日付は、紀元前45年9月15日、六ヶ月前に書かれた遺言状だった。 1、カエサル所有の資産の四分の三は、ガイウス・オクタヴィウスとアティアの息子、オクタヴィアヌスに遺す。 2、残りの四分の一は、ルキウス・ピナリウスとクイントゥス・ペディウスで二分される。 3、第一相続人オクタヴィアヌスが相続を辞退した場合の相続権は、デキムス・ブルータスに帰す。 4、オクタヴィアヌスが相続した場合の遺言執行責任者として、デキムス・ブルータスとマルクス・アントニウスを指名する。両人は、カエサルの死後に妻カルプルニアに子が生まれた場合、その子の後見人にも指名する。 5、第一相続人オクタヴィアヌスは、相続した時点でカエサルの養子となり、息子となった彼はカエサルの名を継ぐ。 6、首都在住のローマ市民には、一人につき三百セステルティウスずつを贈り、テヴェレ西岸のカエサル所有の庭園も、市民達に寄贈する。このことの実行者は、第一相続人とする。 オクタヴィアヌスは、カエサル暗殺当時は18歳と6ヶ月。・・・「騎士階級」出身ながら元老院議員は務めたガイウス・オクタヴィアヌスと、カエサルの妹の娘であるアティアとの間に生まれている。・・・カエサルの妹の孫にあたるこの若者にとってはカエサルは、大伯父にあたった。ピナリウスとペディウスの二人は、カエサルの姉の息子だから甥になる。・・・オクタヴィアヌスを養子にし、彼にユリウス・カエサルの名を与えることで、後継者を指名した政治上の遺言状なのであった。 これが開封された結果、誰にもまして失望したのは、アントニウスとクレオパトラの二人であったろう。・・・ ここで、暗殺者達の名と経歴を整理しておきます。文中の抜粋です。 マルクス・ブルータス・・・母セルヴィーリアは周囲が認めるカエサルの愛人で、その母のために歯向かってくるこのブルータスを大事にしていた。妻ボルキアは、反カエサルで一生を燃やした小カトーの娘。40歳か41歳 カシウス・ロンジヌス・・・「3月15日」の真の首謀者。年齢はブルータスと同じ。ポンペイウス派としてカエサルと戦い、敗れたがその後は軍団長に任命され、カエサル派となっていると思われていた。 この二人を含め「カエサルに許された旧ポンペイウス派」 9人。 トゥリウス・キンブロ・・・カエサルの推挙で元老院入りを果たした、いわゆるカエサル・シンパの一人。 ガイウス・トレボニウス・・・ガリア戦役時代の軍団長の一人。 デキムス・ブルータス・・・ガリア戦役時代のカエサル傘下の幕僚で、カエサルが最も信頼していた部下の一人。遺言状で第一相続人が辞退した場合の相続人に指名している。当時40歳。「ブルータス、お前もか」の相手は、マルクスでは無く、このデキムスであろうといわれているようで、ローマ市民の怒りも当然彼に集中した。 スルピチウス・ガルバー・・・ガリア戦役、内戦時代もともにカエサル軍の軍団長。 ミヌチウス・バジルス・・・ガリア戦役、内戦時代ともにカエサル軍の軍団長。カエサル派でありながら、キケロの弟子を自認していた。 以上5人がカエサル派のはずであり、4人は共に戦役を戦い抜いた仲間と思われていました。その彼らがカエサルに刃を向けた訳を、塩野氏は以下のように記しています。 私には、カエサルの言った次の一句で、なぜ、への答えを出すしかないように思われる。「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない」 カエサル殺害に直接手をくだしたこれらの人々の動機を追及することも、あまり意味のないことではないだろうか。個々の真意はどうあれ、この14人がカエサルに剣を向けた動機は、王政への移行を阻止し、元老院主導の共和制にもどすことにあった。 カエサルの考えていたのは「帝政」という新体制であったが、それを「見たいと欲しない」彼らが見ていたのは、あくまでも初期のローマの政体であり、当時の他の君主国の政体でもあった「王政」であったからだ。王政がカエサルの究極の意図ならば、それを実現する前につぶさねばならぬ。これで14人は一致したのである。 だが、生前のカエサルは、次のようなことも言っている。「どれほど悪い結果に終わってことでも、それがはじめられたそもそもの動機は善意によるものであった」 カエサルは自分の考え{寛容」(クレメンティア)に忠実に行動し、「マリウスとスッラの時代」のような内戦の結果による反対派殲滅を行うことをしなかった。しかし、アントニウス・オクダヴィアヌス・レプドゥスによる三頭政治では「処罰者名簿」が復活し、スッラ式の恐怖政治が復活します。300人の元老院議員、2千人の「騎士階級」(経済界)にのぼる名簿の筆頭にキケロの名前が記されており、反対派元老院議員など130人が国家の敵として即死刑と決まり、その他のものは財産没収となりました。 カエサルが殺害されたことに対する復讐では一致して行動した、第一人者アントニウスと遺言でカエサルの後継者とされたオクタヴィアヌスは、主導権争いの戦いに突入します。そして、最終的にはエジプトのクレオパトラとアントニウスの連合軍対オクタヴィアヌスの戦いで決着し、エジプトはプトレマイオス王朝が滅びオクタヴィアヌスの領地となります。紀元前30年、ここで、ローマの帝政時代が始まります。この巻(ユリウス・カエサル)のエピローグです。 ローマに凱旋したオクタヴィアヌスは、首都を3日にわたって熱狂させた、壮麗な凱旋式を挙行した。しかし、三十三歳の勝利者に向けられた市民の熱狂は、彼が成しとげた勝利に対するよりも、ついに内戦が終わったことへの歓喜に発していた。オクタヴィアヌスにもそれがわかっていた。彼はヤヌス神殿の扉を閉めさせる。・・・・紀元前44年3月15日に、肉体としてのカエサルは死んだ。しかし、カエサルがほんとに死んだのは。紀元前30年になってからである。この年からはじめて、オクタヴィアヌスの時代がはじまる。いや、もはや、アウグストゥスと呼んでよいであろう。初代皇帝アウグストゥスによって、カエサルが打倒した共和制ローマに代わる、帝政ローマがはじまるからであった。・・・・・ |
2010年3月7日 「ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後上・中」 18日のパルティア遠征を目前に控えたカエサルが紀元前44年3月15日、身の安全を保障した「紳士協定」に署名している14人の元老院議員に暗殺されるまでをまとめてみます。 紀元前49年1月12日、「賽は投げられた」としてルビコンを渡ったカエザルの行動についての書き出しです。 「ルビコン」直後 ルビコン川を渡ってから国境の町リミニまでは、ほぼ直線で15キロしかない。時速5キロのローマ軍団の行軍速度では、午前10時には到着していただろう。国境の町といってもリミニは、すでに150年も昔からローマ化が進んでいる北伊属州と本国ローマをへだてる国境の町である。ローマの中央政府はここに、1個大隊(600兵)規模の警備隊すら置いていなかった。このリミニに、カエサルと彼に従う大13軍団は、何の抵抗も受けずに入城する。この町には、現職の護民官であるために国境外に出ることができないアントニウスともう一人の護民官カシウスが待っていた。アントニウスとともに首都を脱したクリオのほうは、1元老院議員であるとことからこの種の制限はなく、ラヴェンナにいたカエサルのものにいち早くゆくこともでき、それゆえカエサルに従ってルビコンもともに越えたにちがいない。 リミニへの無血入城を果たしたとはいえ、カエサルの手元には、第13軍団の10個大隊、それもカエサルは欠員補充をしないので定員6千を大幅にわる4千5百前後の兵力しかなかった。この程度の兵力では、しかも戦闘に不向きな真冬に、国法破りにもなるルビコン越えなどという暴挙には出ないだろうというのが、ポンペイウスと元老院派の予測であったのだ。だが、その予測をくつがえす行為にでたカエサルは、それだけに、国法を破った後の行動には迷いがなかった。 1月7日、元老院は元老院最終勧告とポンペイウスに対する無制限の大権を授与する法案を可決していたことから、カエサルは三頭政治の仲間であったポンペイウスとの全面国内戦争に入ります。 17日、ポンペイウス、キケロ、執政官マルケルス、レントゥルス、ローマを脱出。 3月17日、ポンペイウス、ブリンディシの港からギリシャへ向かう。 4月1日、カエサル、ローマ城壁外での元老院会議に出席。 4月7日、カエサル、ポンペイウス勢力下のスペイン属州制覇に向かう。 12月2日、スペインを平定したカエサルはローマに帰還。独裁官に指名される。 前48年、1月4日、ブリンディシを出港したカエサル、翌日ギリシャ西岸に上陸。 8月9日、ファルサルスの会戦で、ポンペイウス軍に完勝。ポンペイウスはエーゲ海そしてエジプトへ逃れる。 9月28日、ポンペイウス、アレキサンドリアで殺害される。 前47年、3月27日、アレキサンドリアに入城。 6月末、小アジアに上陸し、カッパドキア地方のゼラでファルナケスを一蹴。(「来た、見た、勝った」) 9月末、ブリンディシに帰着。ローマに凱旋し、5年(次いで10年9任期の独裁官に任命される。 12月、北アフリカ属州のポンペイウス派制圧に向かう。 前46年、7月25日、ローマに帰還。8月5日から4回の凱旋式を挙行。改革に着手。ユリウス暦(太陽暦)を採用し、よく45年1月1日から実施。国立造幣所を開設し、造幣権を元老院から移す。10年任期の独裁官に任命される。 前45年 スペインに出撃し、3月17日、ムンダの会戦でポンペイウス派を破る。パクス・ロマーナの確立、民生の充実、帝政化を企画して全面改革に着手。 それまでの カエサルの足跡 です。 「歴史はときに、突然一人の人物の中に自らを凝縮し、世界はその後、この人の指し示した方向に向かうといったことを好むものである。これらの偉大な個人においては、普遍と特殊、留まるものと動くものとが、一人の人格に集約されている。彼らは、国家や宗教や文化や社会危機を、体現する存在なのである。・・・・ 危機にあっては、既成のものと新しいものとが交じり合って一つになり、偉大な個人の内において頂点に達する。これら偉人たちの存在は、世界史的に謎である」 ブルクハルト『世界史についての諸考察』より 塩野さんが文中に挿入してある一文です。カエサルの偉大さを表現するものでしょうか? 国家改造 タブソスの会戦に勝利して旧ポンペイウス軍を一掃し、アフリカを後にした紀元前46年4月をもって、前49年1月12日にルビコンを渡ることではじまった内戦は終わったとカエサルは考えたのではないかと思う。(前45年のスペインへの侵攻はスペイン人との戦いであったとおもっている?)だが、ポンペイウス派との抗争は、「元老院体制派」と「反元老院派」と抗争であったのである。・・・・・ローマ独自の共和制とは・・・行政を担当する人の多くが元老院に議席をもつ人々なので、寡頭政治(オリガルキア)とよばれている。・・・・カエサルは、これからのローマにとっては、元老院主導のローマ型共和制よりも、帝政が適していると考えた。民主制が、それが実施される領域の拡大につれて機能しがたくなるのと似て、寡頭制も、地理的な事情に無縁ではありえないのである。広大な領地の統治が機能的に成されるには、何よりもまず効率性が求められる。・・・ カエサルの特権 紀元前45年から前44年にかけて、五十五歳のユリウス・カエサルに元老院と市民集会が与えた栄誉と権力は、具体的には次の形をとっていた。1、これまで四百五十年間存続してきた共和政体では、六ヶ月と任期が制限されていた独裁官に、この官位に認められた権力はそのままで、任期のみ無制限とした「終身独裁官」(ディクタトール・ペルペトウァ)への就任。2、カエサルが兼務も可能と思った年ならば、執政官(コンスル)との兼務も可とする。3、従来は戦勝後に兵士たちが勝利の将軍に向かって呼びかける敬称であった「インペラトール」を、称号として常時用いる権利。4、「国家の父」(パーテル・パトリアエ)の称号をい受ける栄誉。市民たちは、ローマの建国者ロムルスに対し、カエサルを、ローマの二度目の建国者と呼んでいたのである。・・・・ 帝政は、事実上、成ったのであった。 カエサルはパクス・ロマーナの確立、民生の充実、帝政を企図しての全面改革をすすめます。その改革に対しては政敵であり友人でもある元老院体制派の重鎮、キケロでさえも納得せざるを得ないものであったようですが、暗殺者たちにはそれぞれに自分なりに暗殺実行の理由があったのでしょう。 3月15日の元老院会議は、18日のパルティア遠征出発を直前にしていたカエサルにとっては、妻が悪夢で眠れなかったくらいでは欠席を許されない、重要な会議であった。遠征で留守する二年間にの、本国と各属州の防衛と統治の責任者を公表する、最後の機会であったからだ。だが、カエサルにとっての最後の機会は、陰謀者たちにとっても最後の機会であったのである。 |
2010年3月2日 明日3日は梨央ちゃんの初節句ということで、鳥取からママの御両親、関空近くからお姉さん夫婦が息子夫婦、梨央ちゃんの家に集まってくれることになっています。鳥取から贈って頂いた雛壇は既に飾ってありますし、雛壇を前にしての宴会は、なんとしても楽しみなことです。 西国三十三箇所観音霊場巡りのベージを作り始めました。どんな程度にまとまっていくのか心配です。 |
2010年2月26日 昨日、まだ2月だとゆうのに4月中旬を思わせる陽気に誘われて、「古代カルタゴとローマ展」を鑑賞がてら、西国三十三ヶ所の第十八番「六角堂」・第十九番「革堂(行願寺)」を訪ねました。もちろん嫁さんとです。お寺参りは「京都の旅」でページを作りたいと考えていますので、ここでは、カルタゴ展に触れたいと思います。 塩野七生氏の「ローマ人の物語」を読み続けてこの作者近況欄で紹介してきています。特に、カルタゴとローマの戦である「ハンニバル戦役」はカエサルの「ガリア戦記」とともに大変興味深い出来事です。こんな時、京都文化博物館で上記展示会が開かれているということで、ワクワクしながら出掛けました。 展示構成は第一章 「地中海の女王カルタゴ」と第二章 「ローマに生きるカルタゴ」。紀元前149年、ローマとの戦により地上からその存在を消滅させられる前とカエサルにより計画され、アウグストゥスにより実行された再建後の精密で巨大なモザイクを中心にした文化財を鑑賞することが出来ました。 第一章では、主として墓所からの出土品を中心として、特別展示として、ポエニ戦役当時のものと推定される金属製の鎧の前後2枚は実用品とはいえ、紀元前2,3世紀の製品とは思えない精密性を有してます。そして、当時の立派な金貨。第二章では、巨大なモザイク画 特に、兎狩りの一部始終を連作した作品に驚かされました。スマートな姿のグレーハウンドが猟犬として活躍している姿までもがモザイクで描かれているのです。また、ポスターにも使用されている浴室の女神像も見事なものです。 カルタゴの歴史については、今一度この欄で触れてみたいと重います。「京都の旅」はこれからです。 |
2010年2月24日 「ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前」」上・中・下三巻。いよいよ、カエサルの出番です。上巻では、カエザルの誕生から39歳まで。中・下巻では「三頭政治」と「ガリア戦役」を中心に記述されています。カエサルは紀元前100年、ローマ市街「スブッラ」で生まれます。上巻の書き出しです。 フォロ・ロマーノの南側に横たわるパラティーノの丘に立つと、建物で埋まってしまって明確にたどれなくなっているとはいえ、2千年以上も経った現代でもなお、ローマの七つの丘に位置の見当くらいはつけることができる。古代ローマの心臓部であったフォロ・ロマーノを中心とすれば、すぐ西側にはカピトリーノの丘、そして北から東にクィリナーレ、ヴィミナーレ、エスクリーナ、チェリオとつづき、パラティーノとは大競技場をはさんだ南にアヴェンチィーノのがきて、史上有名な「ローマの七つの丘」が完了する。これら全体を囲いこんだ城壁は。紀元前6世紀半ばに6代目の王セルヴィウス・トゥリウスによってん建設され、この「セルヴィウスの城壁」(ムーラ・セリビアーナ)は、カエザルの時代でも健在であった。 ローマ人が自分たちの首都と考えていた「セフヴィウスの城壁」の内側は、面積にすれば、大手町と丸の内と霞ヶ関と永田町を合わせた程度に過ぎない。・・・・フォロ・ロマーノの遺跡を見物した後でパラティーノに登ると、ここが同じローマかと驚くほど涼しく緑にも囲まれ、低地の喧騒から隔絶した別天地にいる想いにさせてくれる。このパラティーノの丘は、建国の祖ロムルスが居を定めたという理由で、初代皇帝アウグストゥスが屋敷を建てて以後は皇帝たちの宮殿で埋まるようになるが、理由はそれだけではなかったにちがいない。そして、皇帝の存在しなかった共和政時代のパラチィーノは、有力で裕福なローマ人の屋敷が軒を連ねる高級住宅地であったのだ。・・・・その一方で、庶民たちが相当に広い範囲に住んでいた地域もあった。それらの地域の中で都心に最も近い、いやほとんどフォロ・ロマーノと接しているといってよい一帯は、「スブッラ」と呼ばれて昔から有名だった。・・・・ ・・・・ユリウス一門は、コルネリウスにもファビウスにもクラウディウスにも匹敵するほど古くまで遡れる名門貴族である。ローマを建国することになるロムルスの母は、アルバロンガの王の娘で、ユリウス一門は、このアルバロンガの有力者であったからである。・・・・父母の名さえ不明なスッラとちがって一代前ならば家系をたどれるのは、カエサルの父が一応は法務官まで務めたことと、母親の実家が有名であったからである。母アウレリアが、法学者として知れら、執政官も務めたアウレリウス・コッタの妹にあたった。・・・・ 貴族に生まれた男子の必然として成人後は公職に就くことが運命づれられているカエサルはそれなりのエリート教育を受けて育ちます。この時期のローマは「マリウスとスッラの時代」と呼ばれる政敵を殺し合う時代で、カエサルが17歳の折の寡頭政治を是とする元老院派スッラの「民衆派」一掃作戦は特に徹底しており、「処罰者名簿」には、80人近くの元老院議員、1千6百人の「l騎士」(経済人)もふくめて、4千7百人が名を連ねており、その中にはカエザルも含まれていたのです。粛清を逃れ、ギリシャに逃亡します。22歳の折、スッラの死によりローマへの帰国が果たせます。しかし時代はスッラの門下生ポンペイウスとクラッススの時代でした。ロードス島へ再度の留学をします。27歳の折、伯父アウレリウス・コッタの死で空席になった神祇官の地位に任命され、帰国することとになります。ポンペイウスとクラッススの時代は続いています。紀元前67年からの地中海海賊殲滅作戦とオリエント制圧作戦の成功によりポンペイウスは「偉大なるポンペイウス」(ポンペイウス・マーニュス)と呼ばれるまでになります。 紀元前59年、ポンペイウス、クラッスス(カエサルの最大債権者)と提携することにより、執政官(コンスル)に就任します。後に三頭政治と呼ばれる体制が組みあがります。そして、翌年の前執政官(プロコンスル)としての権利である属州総督のしての任地が北伊ガリア、イリリア(現スロベニア方面)、南仏ガリアの3属州となります。紀元前58年、カエサルの『ガリア戦記』が始まります。 『ガリア戦記』は、前置きも導入部も何もなく、いきなり次の一句からはじまる。「ガリアは、そのすべてをふくめて、3つに分かれる。第一は、ベルガエ人の住む地方、第二は、アクィターニア人の住む地方、第三は、彼らの呼び方ならばケルト、われわれの呼び名ならば、ガリア人が住む地方である。・・・ (カエサル著 近山金次訳「ガリア戦記」の記述 ガリアは全部で3つにわかれ、その一つにはベルガエ人、二にはアクィターニー人、三にはその仲間の言葉でケルタエ人、ローマでガリー人と呼んでいるものが住む。どれも互いに言葉と制度と法律がちがう。ガリー人はガルンナ河でアクィーターニ人から、マトロナ河とセークァナ河でベルガエ人からわかれる。なかで最も強いのはベルガエ人であるが、その人々はブローウィンキアの文化教養から遠くはられているし、商人もめったにゆききしないから心を軟弱にするものが入らないのと、レーヌス河のむこうのゲルマーニーに近いのでそれと絶えず戦っているためである。同じ理由でヘルウェティー族も他のガリー人にくらべれば武勇がすぐれ、毎日のようにゲルマーニー人と争い、自分の領地で敵を防いだり、敵の領地に入って戦ったりしている。・・・) 『ガリア戦記』の冒頭にづづく文章で、カエザルは、ローマにとってのガリア問題は、彼がそれを担当とすることになる紀元前58年に始まった問題ではなく、その3年前に兆候が見えていたことであると説明している。 カエサルがガリアと呼んだ地方は、ライン河を境にして西方に広がる地方なので、現代では、南仏を除いたフランス全土、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダの南部、ドイツの西部、そしてスイスまでふくむ広大な一帯である。つまり後代の西ヨーロッパである。 紀元前59年、今のスイス地方に住んでいたヘルヴェティ族の西方への大移動に伴う混乱によってガリア戦争は始まります。ガリア人はライン川の東に住むゲルマン人の進入に常に脅かされていたのです。 紀元前52年、カエサル48歳までの7年間、2度のブリタニア侵攻を含めてガリアを転戦。この年に全ガリアの反乱をアレシテの決戦で破り、一応の決着をみます。ガリア地区を制圧したわけです。この年までの『ガリア戦記』はカエサルが書いたものですが、翌前51年は戦後処理でこの年の『ガリア戦記』はカエサルの秘書官であったヒルティウスが書いたものです。 カエサルの評判に寡頭政体の危機を感じた元老院はポンペイウスを引き込み、カエサルの押さえ込みに懸命になります。紀元前49年元老院は「元老院最後勧告」(カエサルはこの「勧告」が裁判などの手続き無しに従わない者を死刑執行をするものであり、元老院の越権行為として、すでに反対を表明していた。)を可決し、ローマの国賊としてしまいます。ここでカエサルは彼の軍団を連れてルビコン川を渡るのです。 ・・・しかし、カエサルは生涯、自分の考えに忠実に生きることを自ら課した男でもある。それは、ローマの国体の改造であり、ローマ世界に新秩序の樹立であった。ルビコンを越えなければ、「元老院最後勧告」に屈して軍団を手離せば、内戦は回避されるだろうが新秩序の樹立は夢に終わる。それでは、50年を生きてきた甲斐がない。甲斐のない人生を生きてきたと認めさせられるのでは、彼の誇りが許さなかった。しかも、名誉はすでに汚されていた。まるでガリア戦役などなかったとでもいうふうに、「元老院最後通告」に服さなければ共同体の敵、国家の敵、国賊と見なすと宣告されたことで、すでに充分に汚されていたのである。・・・・ ルビコン川の岸に立ったカエサルは、それをすぐには渡ろうとはしなかった。しばらくの間、無言で川岸に立ちつくしていた。従う第13軍団の兵士たちも、無言で彼らの最高司令官の背を見つめる。ようやく振り返ったカエサルは、近くに控える幕僚たちに言った。「ここを越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅」 そしてすぐ、自分を見つめる兵士たちに向かい、迷いを振り切るかのように大声で叫んだ。 「進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」 兵士たちも、いっせいに雄叫びで応じた。そして、先頭で馬を駆けるカエサルにつづいて、一団となってルビコンを渡った。紀元前49年1月12日、カエサル、50歳と6ヶ月の朝であった。 |
2010年2月15日 13日、14日は、9回目に当たるジジ連5人による一泊旅行に行ってきました。その度毎に、この欄で紹介してきています。小豆島への旅では、その景色を紹介しましたし、琵琶湖畔への旅では、比叡山延暦寺の紹介をしました。また、昨年は”三朝温泉を訪ね、三佛寺へのお参りもできました。今回は鳥取県の”はわい温泉への蟹食べ放題の旅”で、梅田から”かにバス”での出発となりました。こうゆう旅の快感は、朝からの一杯です。一番後ろの席に割り当てられた我々は、朝からの宴会を楽しみ、いつの間にか鳥取砂丘の昼食場所に着いていました。この時期には珍しい快晴の空は海を群青色に染めています。そして、幾重もの白波が海岸に打ち寄せています。その景色を写真に収めることが出来ました。 みずうみと見間違うほどの東郷池周囲には、「東郷温泉」と「はわい温泉」があります。かにバスはまず東郷温泉に何人かのお客さんを降ろした後、我々を”はわい温泉千年亭”に。温泉をゆっくり楽しんだ後、更なる楽しみの夕食は文字どうり”かに食べ放題(かにすき食べ放題が正式なのでしょうが、かにすき用の蟹を「焼き蟹」で食べることが出来、自然に蟹の食べ放題となるわけです。)とお酒の飲み放題”を存分に楽しむことが出来ました。前週の土曜日の家でのカニカニパーティーに続いてのであっただけに、今年はもう蟹は十分との思いを強く感じました。 翌14日は、11時から2時15分まで、旅館の大広間での昼食付きの観劇です。芸達者の集りであるメンバーの1時間のお芝居と1時間15分の歌謡ショーをこちらも十分に楽しむことが出来ました。常任幹事のSさん。いつもお世話になっています。次回も宜しくお願いします。 |
2010年2月10日 「ローマ人の物語 ハンニバル戦記」3巻の後、「勝者の混迷」上下巻を読んでいます。紀元前146年第三次ポエニ戦役が終結した後のローマは、地中海の覇権を握ったことによる勝者の混迷に陥ります。チィベリウス・グラックス、ガイウス・グラックスによる改革の提案。ルキウス・コルネリウス・スッラの反動、保守改革に伴う改革派の粛清。「同盟者戦役」(ローマ連合に加入しているイタリア半島の中部と南部に住む諸部族が同時に蜂起したもの)の結果、全イタリア人にローマ市民権が付与され、ローマは都市国家からローマ国と変化したこと。オリエント制圧完成に伴うポンペイウスの台頭。その活躍に伴っての地中海全地域のローマの覇権。この間に、奴隷の反乱に興味が沸きます。 前135年〜132年シチリア島で第一次奴隷反乱。前104年〜100年シチリア島で第二次奴隷反乱。前73年〜71年スパルタクスの乱が発生しています。日本史の中に奴隷に関する記述が少なく、その真実の姿は全く見えていません。ローマ時代の奴隷はこの物語の中に多く記述され、特に会戦に負けた兵士が死刑または奴隷に落とされること。カルタゴなどの都市国家が敗北した折の市民までが奴隷に落とされること。など、多くの奴隷がローマ国の中に存在していました。「勝者の混迷 下巻」の一節です。 後世に生きるわれわれが古のギリシャ・ローマ文明に接するのは、二千余年を経た今でも残る壮麗な遺跡や、美術館を埋める造形芸術、教養として教えられる哲学や歴史や文学などを通じてである。そして、ひとたびこれら人智の結晶にふれれば、誰もが感嘆する。なんとすばらしいものを創造したのか、と。だが、感嘆すると同時に、疑問もいだく。これほどの洗練された文化文明を築いた彼らなのに、なぜ、非人道的な奴隷制度には疑いさえもたずに生きていけたのか、と。 はじめに断っておかねばならないが、イエス・キリストは、人間は「神」の前に平等であると言ったが、彼とは「神」を共有しない人間でも平等であるとは言ってくれていない。それゆえ、従来の歴史観では、古代より進歩しているはずの中世からはじまるキリスト教文明も、奴隷制度の全廃はしていない。キリスト教徒を信じる者の奴隷化を、禁止したにすぎない。だから、ユダヤ教信者を強制収容所に閉じこめるのは、人道的には非でも、キリスト教的には、完全に非である、と言いきることはできない。アウシュヴィッツの門の上にかかげられてあったように、キリスト教を信じないために自の雑事をする由でない精神を、労働できたえることで自由にするという理屈も成り立たないわけではないからである。 キリスト教を信じようが信じまいが、人間には「人権」というものがあるとしたのは、18世紀の啓蒙思想からである。ゆえに、奴隷制度の廃止を謳った法律は、1772年のイギリスからはじまって1888年のブラジルにいたる、1世紀間に集中している。とはいえ、法律はできても人間の心の中から、他者の隷属化に無神経な精神までが、完全に取り除かれたわけではないのである。 話を古代にもどすが、まず、全盛期である紀元前5世紀当時のアテネを例にとって、学者たちが行った推計を紹介すれば、次のようになる。 市民権所有者ー4万人 両親ともアテネ生まれの自由民で投票権を有する者の数のみであって、アテネ在住でも、他国人や女子供はふくまれない。 店や農園で働く、成年男子の奴隷ー3万5千人。 家事労働に従事する、男女の奴隷ー2万5千人。 奴隷から生まれたり、または買われたりして家庭内の雑事をする未成年の男女の奴隷ー1万人。 鉱山で仕事する奴隷ー2万人。・・・・ アテネとはちがって、都市国家から脱して領土国家へも道をはっきり歩みはじめた紀元前1世紀当時のローマだが、前一世紀前半期のローマの人口を、学者たちは次のように推計している。 ローマ市民権を所有する成年男子数ー90万人。 もはや国家ローマとなったイタリア半島に住む、60歳以上の老人に女子供もふくんだ自由民の総数ー600万人から700万人。 奴隷ー200万人から300万人。 属州民や、とくに奴隷の多かったシチリアはふくめないでこの数である。だだし、200万人は確実にいた奴隷たちの分野ごとの数は、わかっていない。・・・ |
2010年2月4日 プロバイダーの京都アイネットさんからの郵便が届きました。早速にID、パスワードを入れてみましたが接続しません。今一度、京都アイネットさんに電話を入れ確認しました。そんなことをくり返し、今一度データを入れなおしたところ、表示が変わり、接続したと思われる画面が現れました。結局これでOKでした。その後は、溜まっていたメールの整理でした。 |
2010年1月31日 28日からインターネット接続が不可能になりました。NTTへの電話、プロバイダーへの電話で埒が明かないため、接続の全てをしてもらった娘にたのむこととし昨日チェックを依頼しました。結果、物理的障害は無いはずとのことになりましたが、結果はリンク不可能は変わりません。プロバイダーへアクセスのためのID,パスワードが必要になりましたが、行方不明です。息子が1昨年結婚別居のため別居したのですが、それまでは息子の家族会員として私が入っており、私の名義に変更をしましたが、その折の必要事項の確認をしてきていません。それが仇となってしまいました。再発行の為の手続きがすみ、書類が届くまではアクセスは出来ません。メールなどが届かないことに不安があります。いつの間にか、完全にそれ人間になってしまっているのでしょうか?心配です!! |
2010年1月26日 「ローマ人の物語 ハンニバル戦記」を読みました。市立図書館から借り出した文庫本上・中・下 です。歴史好きを自負する者が恥ずかしさを最も感じたのが、「カルタゴの将 ハンニバルがアルプス越えをして、イタリア半島に攻め込んだのが、スペインのカルタヘーナという都市からであった」とこの本により知ったことです。自分の頭に刷り込まれていた「ポエニ戦役」のハンニバルのイタリアへの侵入はアフリカ大陸のカルタゴがらジブラルタル海峡を渡り、スペイン、フランス、そしてアルプス越えをしてのものであったのです。アルプス越えをする絵画などで知る、象そして何万人もの軍をつれてのその長途には想像を絶する思いをしてきたものです。ただ、今回ハンニバルがスペインからの長途であったとしてもその壮挙の凄さを減ずるものではありません。 第一次ポエニ戦役はカルタゴとローマの地中海における制海権をめぐる争いです。それはシチリア島の覇権をめぐる争いから始まります。塩野七生さんの「ハンニバル戦記」の書き出しです。 紀元前265年、ローマの元老院は、前例のない難問を前にして苦慮していた。救援を乞うてきたメッシーナの住民代表に、早急に回答を与える必要に迫られていたのだ。シチリア第一の強国シラクサの侵攻の矢面に立たされていたメッシーナでは、自分の力ではこの危機打開は無理と考え、カルタゴを頼るかローマに救援を求めるかで、意見が割れていたのである。それでもローマ派が優勢であったのは、目と鼻の先にあるレッジョの現状に理由があった。現在ではカラーブリア地方の県庁所在地になっているレッジョ・カラーブリアと呼ばれているこの都市は、海峡をはさんでメッシーナと向かい合う位置にある。レッジョも、メッシーナやシラクサ同様にギリシャ人の植民を起源とする都市だ。ローマが、北はルビコン川から南はメッシーナ海峡までのイタリア半島統一を成しとげた頃から、レッジョもローマの傘下に入っていた。「ローマ連合」に加盟する、国内の自治権ならば完全に認められた同盟都市といてである。このレッジョを朝晩眼にしているメッシーナの人々は、カルタゴに支援を求めるよりもローマを頼るほうを選んだ。・・・ 第一次ポエニ戦役の最初の年となる紀元前264年、メッシーナ支援に派遣されたローマ軍を率いていた執政官は、アッピアス・クラウディアスであったのだ。・・・・このローマ軍に脅威を感じたのは、メッシーナに侵攻中のシラクサだけではない。シチリア駐留のカルタゴ軍も同じだった。長年敵対関係にあったギリシャ民族の国シラクサとフェニキア民族の国カルタゴは、ここに至って同盟を結んだのである。シラクサ軍は南から、カルタゴ軍は西から、ローマ軍のこもるメッシーナに迫った。 この戦でシラクサとカルタゴを破ったローマはシラクサと同盟を結びます。この動きに脅威を感じたカルタゴはシチリアの南にあるアグリジェントに4万を越える大軍をおくります。ここに至ってはじめて、ローマとカルタゴは、正面きってぶつかるこのになったのである。フェニキア人との戦争を意味する、「ポエニ戦役」と呼ぶにふさわしい時期に入ったということだった。・・・ 何回かの海戦に完勝したローマは241年シチリアを属領にし、戦役を終結します。 戦争終了の後に何をどのように行ったかで、その国の将来は決まってくる。勝敗は、もはや成ったことゆえどうしようもない。問題は、それで得た経験をどのようにいかすか、である。後世に生きる私たちは、紀元前241年に終わった第一次ポエニ戦役と、前218年に勃発する第二次ポエニ戦役の間に、23年の歳月があるのを知っている。・・・ 敗戦後、ハンニバルは父ハミルカル、義兄ハシュドゥバルとともに、スペインに渡ります。前228年にはカタルヘーナを建設。そして、ハミルカルの死後、総督となっていたハシュドゥバルが殺された前221年、26歳の時、ハンニバルはスペイン総督となります。 前218年、ハンニバルはアルプスを越え、イタリアに侵攻。戦力は歩兵2万、騎兵6千の2万6千の精鋭です。第二次ポエニ戦役が始まります。 イタリア半島に入っての戦闘はカルタゴ軍の前線全勝。ローマを通り過ぎ半島の中央部を南イタリアへ進軍します。特に、前216年のカンネ会戦などの平地の会戦ではローマ軍を殲滅します。前213年にはナポリ、先端のレッジョなどの大都市国家を除く南イタリアを完全制圧下におきます。しかし、カルタゴ本国からの援助がないカルタゴ軍と会戦を嫌う持久戦法のローマ軍は膠着状態に陥ります。 しかし、持久戦法は、効果があらわれるのが遅いという欠点をもつ。そのうえ、紀元前213年の戦況は、多くの人の眼には、「ローマ連合」の解体を目指すハンニバルの戦略が、最も効果をあげた年に見えたのである。 実際、カプアにターラントにシラクサという、南伊の三大都市はすべてハンニバル下になっていた。ハンニバル軍の中に、南伊のギリシャ人の姿も見られるようになる。そのハンニバルに対し、ローマは目立つ戦果をあげていない。シラクサ攻略に送り込んだ「イタリアの剣」マルケスも、以外に手間どっていた。 だが、よく見れば、状態は良くなっていなかったが、悪くもなくなっていなかったのである。 カルタゴ本国からのハンニバルへの支援は、一度を除いてすべてが不成功に終わっていた。ローマ海軍に行手をはばなれたカルタゴ船団はUターンをくり返し、ついには試みることさえしなくなった。 スペインでも、ハンニバルの弟二人はコルネリウス兄弟に押されがちで、イタリアの兄への支援に馳せ参じる余裕もない。 ハンニバル軍に参戦してローマに勝ち、意気盛んであったガリア人も、カンネ以降はルビコン川の北に押しこまれたままだった。 そして、マケドニア王フィリップス5世も、イタリア上陸どころか、ローマ、アエトリア、ベルガモンと三方から攻められ、マケドニア領内に封じこめられて動けない。 ハンニバルをイタリア内に孤立されるという元老院の戦略は、目立たないにしても効果をあげていたのである。・・・・・ 紀元前210年というこの年を境に、第二次ポエニ戦役の主導権は、これまでの8年間それをにぎりつづけてきたハンニバルから、もはや明らかにローマ側に移っていた。そして、戦役の主導権をこの年以降もローマ人がにぎりつづけることを意図に反して助けてしまったのは、好機と活用することを知らなかったカルタゴ本国の指導者たちである。ローマが執政官を送ってまで心配したシチリアに対し、カルタゴ本国は何ひとつ積極的な行動を起こさなかった。・・・ ローマの優勢は前209年、、敵将ハンニバルの戦略、戦術を習得した26歳のシキピオがスペインに於けるカルタゴの拠点、カタルヘーナを攻略したことにより鮮明になっていきます。前205年、執政官となったスキピオはカルタゴ本国の制圧を目指します。そして前202年、本国に呼び戻されたハンニバルとザマ会戦において戦い勝利をすることで、前201年第二次ポエニ戦役は終結し、地中海は完全にローマのものとなります。 ・・・ハンニバルの自己評価は、アレクサンダー大王まで越えるかどうかは別にして、誤ってはいないと私は思える。 ザマでは、彼は敗将となった。だが、歩兵と騎兵の双方を有機的に活用することによって敵を包囲し全滅にもって行くという彼の考えた戦術は、それを駆使したのがローマ側の武将であったといえ、有効な戦術であったことは証明されたのである。もちろん、それを駆使できなのは、しかもハンニバル相手さえ駆使できたのは、完全にシキピオの才能による。しかし、それを考え出しののは、あくまでもハンニバルであった。 古代のローマでも、ルキアノスただ一人を除くローマ人全員が、武将としては敵のハンニバルを、救国の英雄であるスキピオより上位に置くことでは一致している。ハンニバルの不幸は、優れた弟子が敵方に出てしまったことであった。そして、戦略家としてならば、ハンニバルは大きな誤りを犯している。「ローマ連合」の解体が、容易に可能であると見た点である。社会の階級が固定しているカルタゴの人間であるハンニバルにとっては、かって寛容になり、敗者さえも協力者にしてしまうローマ人の生き方は、理解を越えていたのであろう。 だが、それを、ザマで敗れた直後に、ハンニバル自らが体験することになる。講和の交渉の首席代表は、ローマ側はスキピオだったが、カルタゴ側はハンニバルであったからである。 第三次ポエニ戦役は前149年、カルタゴとヌミディアとの紛争から始まります。講和の条件がローマの許可なしには兵を動かさないことを含んでいたからです。カトーを首領格としたローマの対カルタゴ強硬派の主導権によりカルタゴ制圧が決定され、前146年、カルタゴという都市は地上から抹殺されます。 ・・・「いずれはトロイも、王プリアモスと彼につづくすべての戦士たちとともに滅びるだろう」 背後に立っていたポリビアスが、なぜ今その一句を、とローマの勝将にたずねた。スキピオ・エキリアヌスは、そのポリビウスを振り返り、ギリシャ人だが親友でもある彼の手をとって答えた。「ポピリウス、今われわれは、かっては栄華と誇った帝国の滅亡という、偉大なる瞬間に立ち会っている。だが、この今、わたしの胸を占めているのは勝者の喜びではない。いつかわがローマも、これと同じときを迎えるであろうという哀歓なのだ」− 陥落後のカルタゴは、城壁も神殿も家も市場の建物も、ことごとくが破壊された。そして、石と土だけになった地表は、犂で平らにされ、ローマ人が神々に呪われた地にするやり方で、一面に塩が撒かれた。 草も生えず、人間が住めない不毛時代と断罪されたこのカルタゴに、再び人が住むようになるのは、ユリウス・カエサルが植民地建設を命じ、彼の暗殺で中絶したがアウグストゥス帝によって実現する。百年後になってからである。今に残るカルタゴ遺跡は、それゆえに、ローマ時代のものであって、カルタゴ人のものは少ない。・・・ |
2010年1月12日 9日は、学卒後、52歳まで働いていた会社の方々とホント久しぶりの会合の機会に恵まれました。お世話になった方々が大半です。翌、10日は昨年5月に上京した折のメンバーが大半で、同じ会社ですが、より遠慮の無いお付き合いしてきた方々との集まりでした。いずれにしても、どちらの会合も会話が弾み、終わりのゴングのきっかけが掴めがたいほどのものでした。どちらの幹事さんにも、感謝!!感謝!!!です。 9日の会場が、JR上野御徒町駅前であったところから、上野「国立西洋美術館」を訪ねることとしていました。9日から14日まで、一部の常設展が無料で鑑賞できることの情報を掴んでいたからです。 松方コレクションを中心とした絵画が中心で、特に「モネ」の作品の12点ほどは十分時間を掛けて鑑賞しました。この美術館は写真撮影が可能であったため、何枚かを撮影することが出来ました。以下に紹介します。 1) 「悲しみの聖母」 カルロ・ドルチ 1655年頃 2) 「帽子の女」 ピエール=オーギュスト・ルノアール 1891年 3) 「舟遊び」 クロード・モネ 1887年 4) 「睡蓮」 クロード・モネ 1916年 5) 「アトリエのモデル」 パブロ・ピカソ 1965年 前庭のロダンの彫刻作品を鑑賞し、「寛永寺」、「不忍池」、人通りが著しい「アメ横」を通り、会場へ向かいました。 |
2010年1月7日 昨年11月の”イタリア旅行”の後遺症(サン・ピエトロ大聖堂を始めとした巨大で且つ華麗な多くの教会の残像)が残っており、改めて「キリスト教」について勉強してみたいと考えていたところ、樟葉のブックオフで白取春彦氏の「今知りたい世界の4大宗教の常識」を手に入れることが出来ました。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教についての基礎知識を仕入れるのには大変良き手引きとなりました。(仏教についての説明は簡単に済ませています。)また、平行して読んでいる塩野七生氏の「ローマ人の物語]W キリストの勝利」からはどの様な仕掛けでローマ帝国皇帝からの権威の移譲が為されたかの一端を知ることが出来ました。勉強はまだ始まったばかりです。 友人達との新年会が始まります。今日は久しぶりに「美々卯本店」。9日、10日は東京で2つ。23日は難波の「がんこ寿司」が予定されています。楽しみです!!!でも、4日と今日は歯医者さんへ行くことになりました。歳のせいでもあるのでしょうが、年初めにはよくあることです。 |
2009年12月30日 2009年、平成21年という年も明日一日となりました。今夕からは、近所には住んではいますが年に何回かとなった美緒ちゃんがお泊りにきてくれることになっています。おそらく大晦日の夜までは居てくれることでしょう。代わりに、梨央ちゃんは息子夫婦とともに鳥取のジジババの所へ。年越し、新年の準備に何かと忙しい嫁さんを横目で見ながら部屋の簡単な掃除と、最終のページ書き換えをしています。御蔭さまで、ゆったりとした年越しの風景です。 今年はどんな年だったのでしょうか?来年はどの様な年になるのでしょうか?人それぞれの感慨を持っているでしょう。67歳のジジサマにとっては、「良い年」であったことは確かです。 |
2009年12月16日 ようやく「イタリア紀行」を完成、アップすることが出来ました。楽しみながらの作業でしたんで、その分時間が掛かったようです。ボチボチ、年賀状の作成に入らなければならない時期となってしまい、内心は多少あせっていました。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」には力が入りすぎたきらいがあります。今年もあと半月です。忘年会のお誘いも入っています。今年の京都の紅葉も少し紹介のページを追加しておきたいとも思っています。 |
2009年12月9日 師走ももう三分の一を過ぎようとしています。今年もあと20日。現業の皆様は益々大変な時期となっているでしょう。陰ながら「がんばって」と言葉のみの声援です。6日は梨央ちゃんの「お食い初め」を家で楽しみました。本人より我々の飲み理由なのでしょうか。申し訳ないことです。「イタリア紀行」を楽しみながら仕上げています。写真のスライドショーを眺めながらの構想作成ですので、楽しい分、時間がかかります。ヴェネチィアまで行きましたので、後、ベローナ、ミラノのみとなりました。あと少しです。 |
2009年11月27日 24日、25日の友人達との大阪・京都での交歓会は無事に終えることができました。というのは、もちろんお天気が最大の要素です。24日、13時に大阪グラんヴィアに集合し、淀屋橋で水上バスに乗船。水都大阪を満喫。岸辺の桜の木々はまさに紅葉。(友人の一人が「セーヌ川の船による遊覧よりもこちらが上とのコメントまでありました。)大阪城に登り、やはり周辺の紅葉の景色を楽しみ、大阪城の歴史も詳しく知ることが出来ました。お城を下りた時と、雨が振り出した時が同時というぐありです。その後は車で、岸里にある天然鳥獣料理のお店「山女庵」でマスターが仕留めてきた鹿肉の三種のお刺身と塩茹での骨付き肉、その茹で汁をベースにしたお出しによるお鍋など、珍しく、しかも大変美味しいお料理を戴きながら、お酒、ホント活発な会話を存分に楽しみました 翌、25日は予報が大はずれ、朝から好天気です。10時ころ「光悦寺」に到着。熱いくらいの日差しが照っています。紅葉の最盛期からはチョット遅れたようですが、それなりの風情はもちろん十分です。嬉しいことに、「源光庵」の紅葉はまさに真っ盛り。「迷いの窓」「悟りの窓」を通しての情景、庭園、鷹ヶ峰三山を借景としたお庭の情景はこの時期の他には無い素晴らしいものです。自然とお手入れをしてくれている人たちに感謝!!感謝!!!です。もちろん、我々と同じ感動を味わっている方々はホント、ギョウサン居られました。この日のお昼は京都駅八条口にあるのホテル内の「京料理・山水」で京料理の真髄をコンパクトにまとめた「御所弁当」を美味しくいただき、来春の再会を約して、京都駅で解散しました。よかった!!よかった!!! 今年の京都の紅葉も、「京都の旅」にまとめたいものです。「イタリア紀行」の完成を早めなければなりません。 |
2009年11月23日 イタリア紀行はようやくポンペイまで進みました。その前に、「21日の生駒縦走」をアップしました。24日、25日は友人達との大阪、京都での交歓会です。25日の天候が心配です。 |
2009年11月18日 番外・イタリアの旅を鋭意作成しています。進みが遅いようです。こんな折、興味深い本が見つかりこちらも読書進行中です。「日本とヨーロッパの同時勃興1 地球日本史」西尾幹二氏編集です。この中の興味を引いた部分を引用させてもらいます。 A モンゴルから始まった世界史(岡田英弘氏) ユーラシア大陸を横切って、1本の幅広い道が東西に通じている。「草原の道」である。・・・この草原の道は、東の端は中国文明圏に接し、西の端は地中海文明圏の入り口に開いている。歴史が始まるよりずっと以前から、この草原の道を通って、多くの人や物が、ユーラシア大陸を横切って移動した。そのなかでも、もっともまざましかった移動は、紀元前3千年紀(前3000から前2001年まで)に起きた、インド・ヨーロッパ語を話す人の移動であった。現在、南アジアのインド亜大陸、西南アジアのイラン高原、それとヨーロッパ全体にかけて、同じ系統のことはを話す人々が住んでいる。今は多くの国語に分かれていても、もとをだどれば、古くは同じことばであったらしので、「言語の家族」という意味で、「インド・ヨーロッパ語族」と呼ぶ。・・・・・ 現在のユーラシア大陸の国々の大多数は、モンゴル帝国の生み出した、いわゆる「継承国家」である。そのなかには、中国も、ロシアも、インドも入る。・・・・モンゴル帝国が生み出したもう一つの大国は、ロシアである。・・・モスクワ大公イヴァン4世は、母方でチンギス・ハーンの血を引いており、自分もハーンの称号がほしかった。・・・そこで、1575年、チンギス・ハーン家の皇子シメオン・ベクブラトヴィッチをモスクワのクレムリン宮殿の玉座につけて「前ルーシのツァーリ)として、これに忠誠を誓い、それからあらためて譲位を受けてツアーリ(ハーンのスラブ語訳)と称した。これがロシアの起源である。・・・・・インドもモンゴル帝国が生み出した国である。13世紀の中央アジアに、チンギス・ハーンの二男チャガタイの所領があった。・・・テムルの子孫バープルは、南下してインドに入り、1526年、デリーでインド王となった。これがムガル帝国の起源だ。ムガルはモンゴルのことである。 E 西欧の野望・地球分割計画(西尾幹二氏) この一帯の海域をめぐるポルトガル、スペイン両国の15,16世紀の争いの中から地球を二分割して征服する計画が持ち上がる。・・・いったい何が彼らの海外発展を支援し、他民族の征服や占有の事業を正当化したのだろうか。それはカトリックの大本山であるローマ法王(教皇)庁であり、そこから出された教皇大勅書である。異教徒の征伐と改宗に努力する両国王の事業を支援し、征服、領有、貿易や漁労の独占を認め、原住民の奴隷化を許したのも法王庁である。・・・・・・ イタリア各都市の目を見張る教会の華麗さは、このあたりに資金源の一部があるのか?との思いが生じてきます。 |
2009年11月10日 1日、”阪急トラピックスさんのイタリア10日間のツアー”に参加し、今日、午後4時過ぎの帰宅しました。”29名の素晴らしいメンバー”と”連れて行ってくれた姉御S女史”の御蔭で我々夫婦は、ホント素敵なイタリア南部「アルベロベッロ」から北の「ミラノ」まで、もちろん『ローマ」は含みますが、イタリア実質7日間の旅を経験させていただきました。感謝!!感謝!!!です。時差ぼけでこれ以上の書き込みが不可能な状態です。明日から番外”歴史散歩イタリアの旅”を仕上げたいものです。さて、何時になるやら心配ですが!!! |
2009年10月26日 書き忘れていました。10月始めの土曜日、3日は孫の美緒ちゃんが通う保育園の運動会でした。心配されていたお天気は、深夜に雨が上がり、ぎりぎりの状況です。この日に挙行されることは、関係者全員の願です。美緒ちゃんとの約束もあり、少々地面が湿っていようと挙行されることと考え、家を出発。無事に運動会は開催されることとなりました。1歳からの保育ですから、今回で4回目の運動会です。この行事に参加すると、美緒ちゃんの年々の成長がはっきりと確認でき、ジジババとしては、これ以上の喜びはありません。年配者参加種目へ出場し、美緒ちゃんからの声援を楽しませてもらいました。 昨日、25日は高校の関西支部総会が中ノ島のリーガロイヤルホテルで行われました。総会・懇親会の前に、『「邪馬台国」はなかった』・『失われた九州王朝』等の著作で、「通説となっている日本の古代史」への疑問を投げかけておられ、また、大学卒業後、我々の高校で、教鞭を取れれた古田武彦先生の講演を2時間以上にわたって拝聴することが出来ました。齢、八十幾つかになられる先生の気迫と語り口、そのお話の内容に魅了され、時間を忘れることが出来ました。先生およびこの講演会をセットしてくれた幹事さんがたに、感謝!!かんしゃ!!!です。 今まで、古田先生の著作、九州王朝説についてはもちろん知らないわけではありませんでした。このページの内容は、『万葉集』は犬飼孝先生、中西進先生、扇野聖史先生、『古事記』・『日本書紀』は梅原猛先生を中心としての「通説となっている日本の古代史」に近い線での各事項の解釈であり、今後もその方向での記載となりますが、古田先生の著作についての研究も進める楽しみが出てきました。ひょんなことで、市立図書館で目にすることが出来た『芸術新潮』10月号で梅原猛先生が「古代出雲王朝」として記事を書かれており、その最後の部分で、1985年初版の著作『神々の流竄』(出雲神話として書かれていることは全て、大和地方の出来事であった。)の内容を自ら否定しているからです。楽しみです!!! |
2009年10月14日 昨日は歩きました。もちろん、嫁さんとです。京都地下鉄北大路駅から、「上賀茂神社」、鷹ヶ峰の「源光庵」、紫野の「大徳寺」をまわり、北大路駅へ。途中、「泉仙 大慈院店」で鉄鉢料理の昼食を摂りましたが、歩数計では1万8千歩の距離を歩いたことになります。この時期はお天道様がでていると、ドット汗が出る気候です。しみじみ「よく歩いた。」との感慨を覚えます。賀茂の起源を訪ねる旅の更新が遅れています。今回「上賀茂神社」を中心にまとめてみたいと思います。 |
2009年10月8日 久しぶりにしかも十分にあの独特な台風の雨と風の音の凄まじさを味わいました。3時頃目が覚め、吹き荒れる音を聞きながら、伊勢地方の海上を北上する台風18号の現況をテレビで知ることとなりました。今は14時半をまわりました。風は少し強いですが、台風一過とはよく言ったもので、既に晴れ渡っています。 昨日は、鳥取から帰った”梨央ちゃん”の”お宮まいり”を伏見の”御香宮”で、送ってきてくれたご両親と共に無事に済ませることができました。腹帯をお借りしたのが御香宮でしたので、お礼参りを兼ねています。 お祝いの席は、御香宮のすぐ近くの「梅の花」を予約していました。お豆腐料理で有名なお店です。予約の時に”お宮まいり”ということは一応知らせておきましたが、お部屋の中には乳児の為のお布団も用意されており、室温、他の心配りも十分なものがあり、もちろんお料理は大変美味しく、新しいパパママ、ジジババともに本当に満足させてもらいました。 |
2009年9月29日 先週の21日の”佐紀・佐保路の旅”をまとめてみました。中西 進先生の「謎に迫る古代史講座」を始めとして万葉集に関する本何冊か、八木荘司氏の「古代天皇はなで殺されたか」などを興味深く読んでいるとページの完成が遅れます。今日は頑張ったつもりです。でもここで「古代天皇はなぜ殺されたのか」の最後の一部を紹介したいと思います。「古事記」「日本書紀」に記されている事柄を否定してきた戦後の古代史学の風潮についての肯ける言葉と思われます。 第21代雄略天皇の名は、日本書紀では「幼武(わかたける)」と記録されているが、鉄剣銘文にはワカタケル(獲加多支鹵)としるされていて、これもぴったり一致している。考古学的成果をこうして、ずっとならべただけで、4世紀の始めの崇神天皇のころから、5世紀の雄略天皇の時代をへて、6世紀の継体天皇の時代まで、歴史の流れは日本書紀が記録しているとおりだったことがわかる。少なくとも、日本書紀の記述に反するような考古学上の証拠はこれまでのところ、一つもみつかっていない。にもかかわらず、戦後の考古学学界がことごとく日本書紀を否定してきたのは、なぜだったのか。おそらくそこに、学問的なこととは異なる次元の問題が、入り込んできているからだろうと考えられる。 「一億総ざんげ」といわれたように、敗戦後は戦時中のすべてを否定して出直さなければならなかった。戦前の価値観は軍国主義として断罪され、一掃された。皇国史観の聖典といわれるような歴史書は、いっさいこれをみとめてはならず、神武天皇や神功皇后は軍国主義の象徴とみなされ、史上からは抹殺されねばならなかった。こうして、日本書紀の内容を否定し、その記述の反対の説をとなえることが古代史学界の主流となっていく。実際、そのような流れに沿った説でなければ評価されず、注目をあびるこものないとなれば、すべての研究が一定の方向性をおびるのはやむをえないことであったろう。 しかし、ここで考えてもらいたい。近代の戦争は、当然ながら日本書紀のせいではない。古代において大和民族が大陸に進出した事実が、近代と似たかたちで日本書紀に記録されているからといって、日本書紀を否定しなければならない理由は、まったくないということである。日本書紀をみとめることは、近代の戦争をみとみることにつながらない。近代については、近代を生きた者が責任を負うべきであって、仮にあやまちがあったとしても、古代の人々にそれをなすりつけるのは、とんでもないおかどちがいというものである。・・・・ 大君は 神にし座(ま)せば 天雲の 雷の上に 廬(いほ)らせるかも (巻3 235) という人麻呂の歌があります。雷とは雷丘のことであろうこと十分に想像できます。現在の雷丘は道路に削りとられ小さな古墳のような有様です。横にある甘橿丘(あまかしのおか)に蘇我氏の邸宅が建てられていたとされていることとの対比はどの様に考えてみればよいのでしょうか?思わず現在の視覚のみでの判断をしてしまいがちですが、何時の時代かに畑などとする都合で雷丘がすっかり削り取られてしまっていたと想像するほうが、正しいのではないかと思われます。畑となり、家が建ち、いつの間にか整地されている古墳はいくらでも存在しています。 |
2009年9月26日 昨日25日は隣町、城陽市の城陽カントリークラブで開かれている男子プロゴルフツアー”パナソニック・オープン”の観戦に息子と出掛ける羽目になりました。目当ては、もちろん”石川 遼”すなわち”遼ちゃん”です。1組のティーオフが7時、遼ちゃんは7時45分ということで、息子の車に乗り6時に家を出発。遠くのギャラリー駐車場から送迎パスでクラブについたのは6時45分。良い場所で各選手の1番ホールでのティーオフを見ることが出来、45分の”遼ちゃん”とこの日のパートナー”丸ちゃん”・台湾の”林さん”のティーオフをじっくりとマナコに刻むことが出来ました。その後は、大変な数の”遼ちゃん親衛隊”の一人として、18ホールをお付き合い。前日の2オーバーからのスタートでなんとか予選ラインを突破することを願いながら、3選手のプレーを十分に楽しみました。”丸ちゃん”の円熟味溢れるプレー、林選手の絶妙な寄せ、さらになんといっても”遼ちゃん”の若さ溢れるスイングからの飛距離抜群のドライバーショットを存分に味わうことが出来ました。この日はOBの危険性が高い、12番ホールでのOBによるトリプルボギーのゆえに予選通過が心配されましたが、無事に予選通過を果たすことが出来たようです。若いながらもこのオープンのホストプロとして不名誉な予選落ちのプレッシャーを感じながら、あまりにも多い我々ギャラリーの心無い所作に気を配ってのプレーには本当に感心させられました。 久しぶりの”佐紀・佐保路の旅”は独りよがりなのですが、念入りに作成しています。 |
2009年9月22日 昨日21日には、お天気と「ボチボチ萩は?曼珠沙華(マンジュシャゲ)は?」という心の問いかけに誘われ、嫁さんと”万葉の旅”再開の旅に出ました。JR大住駅を8:47に出発、木津駅で乗り換え、JR平城山(ならやま)駅には9:45に到着。佐紀路の一部への散策に出発です。季節が益々良くなってきます。”万葉の旅””京都の旅”への機会も増えることでしょう。更新が大変です。まず、”佐紀路の旅”をまとめます。最近、中西進先生の『万葉集』4冊、『万葉を旅する』、『万葉花さんぽ』等を入手し、益々、”たび”の楽しみが増えそうです。2003年5月には”佐紀路・佐保路への旅”そして”海龍王寺・法華寺”を”万葉の旅”の始めとして、アップしています。 |
2009年9月20日 今年は、9月では始めてのシルバーウィークということで、19日の土曜日から5日間の連休が始まっています。そんなこととは関係なく、ウィークデイに出掛けることが出来るようになった割には出掛ける頻度が上がりません。従ってページの更新はやはりポチポチです。 10日は申し込んでいた、阪急トラピックスの海外旅行説明会に参加することとし、嫁さんと二人で、御堂筋の朝日ホールへ出掛けました。一応の計画はイタリアを考えていましたので、13時20分に始まるイタリアの説明会を聞き、11月1日出発・10日間のプランを申し込みました。全食事つき・OP無しですので、ジジババには丁度良いのではないかと考えたわけです。会場からの帰りに、大阪市庁舎、府立図書館、中ノ島公会堂の横を歩き、お初天神(正式には露天神でした。)を参拝して帰りました。公会堂横の川べりが京阪新線の開通の為か?一新されており、チョットびっくりです。 16日は、秋の散策への足慣らしとして、木津川堤の自転車・歩行者専用道路を歩きました。今まで下流の流れ橋方向への散策は何回かしていましが、上流・泉橋方向へは初めてのことです。終点の泉橋までと思って家を出たのですがが、道半ばの「玉水橋」までとなり、JR三山木駅から帰ることとなりました。再度挑戦です。 速いもので、あと半月で、梨央ちゃんが鳥取から帰ります。 |
2009年9月9日 昨日、鳥取の”梨央ちゃん”が誕生1週間検診のために病院へ行ってきたとのメールが入りました。益々元気で、生後500グラムもの体重増との連絡に嫁さんともどもニコニコ顔です。今日は「鳥取・松本への旅」を纏めてみました。 |
2009年9月5日 9月に入りました。ボチボチ「万葉の旅」、「京都の旅」に出掛けたいとは思いますが、今だ日中の日照りは8月と変わっていないところから、のびのびになっています。3日・木曜日は嫁さんが希望している、京都市美術館で開かれている「ルーブル美術館展」の「17世紀ヨーロッパ絵画」の鑑賞に出掛けました。ウイークデーであり、それほどの混んではいないと予想していましたが、なんのなんの大変な混雑で、入場に20分ほどの列が出来ており、場内もヒトヒトヒトです。 ポスターに使われているフェルメールの「レースを編む女」は意外な小品(24×21cm)(1670年頃)ですが、さすがのものでした。巨大さに圧倒されるのはフランス・ブルビュス(子)の「マリー・ド・メディシスの肖像」(312×185.5cm)(1610年)です。一方「女王マルガリータの肖像」(70×58cm)(1654年)小品ながら肖像画として、現在の写真の要素を重視しているこの頃の絵画の特徴を表しています。 宗教画ではカルロ・ド・ルチの「受胎告知 天使」「受胎告知 聖母」(52×40cm)(1655年頃)の清潔感あふれる表現と「法悦の聖フランチェスコ」2点の不可思議な暗い雰囲気、「大工ヨセフ」のローソクの光と影が大変印象的でした。 美術館を出た後、平安神宮東の「阿国」というお蕎麦屋さんで出雲そばを食し、久しぶりに南禅寺方面へ歩き出しました。途中、山県有朋の別荘であった「無鄰菴(むりんあん)」に立ち寄り、東山を借景とし、琵琶湖疏水の流れをふんだんに使用した小川治兵衛作庭のお庭で一休み。 1) 無鄰菴1 2) 無鄰菴2 3) 無鄰菴3 南禅寺水路閣の上の流れの道を歩き、蹴上船溜りへ。インクラインの様子をつぶさに見学。線路の中を歩き下り、 南禅寺船溜りへ到着。大変面白い体験をすることが出来ました。”琵琶湖疏水””インクライン”については”京都の旅”で今一度紹介したいものです。 |
2009年8月25日 昨日(24日)、16時42分、孫の梨央(りお)ちゃんの産声を鳥取で聞くことができました。予定日が11日でしたので、大分遅れており、初産はこんなものかなと思っていました。それでも心配で、陣痛が始まったとの知らせを待っていたところ、23日2時頃に息子のところへ連絡が入り、6時に車で家を出発。高速道路はスムースで、途中朝食を摂りましたが10時前には実家に到着しました。夕方に入院。分娩室へは翌24日の15時半頃。そして、上記時間の嬉しい産声となりました。その元気な産声を聞いた瞬間、安堵感と伴に、誕生までの長い道のりを耐え抜いた”新しいお母さん”に『お疲れ様!!有難う!!!』の気持ちが沸きあがり、思わず皆で拍手。感動の瞬間を味わうことが出来ました。夕食時にはホント美味しい鳥取の地酒をご馳走していただきました。出産までのご両親のご苦労には、感謝!!感謝!!!の気持ちしかありません。 出産までの待ち時間に鳥取市内を嫁さんと歩きました。別ページでその写真を紹介したいと思います。 |
2009年8月18日 先週14日、パスポートの受け取りに京都へ出ました。お盆が始まるということで、再度、本願寺をお参りしました。今回は、西本願寺、渉成園、東本願寺へ。渉成園内の写真を2点紹介します。 1) 前回紹介できなかった「臨池亭」と「滴翆軒」です。 2) ”さるすべり”と「回棹廊」です。 |
2009年8月13日 本願寺の歴史について整理してみました。宗祖としての親鸞聖人から東西本願寺・興正寺・仏光寺などの本山が生まれてきています。その誕生には種々の歴史と理由があります。まだまだこれからの研究が必要です。 |
2009年8月6日 朝、核廃絶を求める広島での記念式典をNHKのTV放送で見ることが出来ました。広島市長、子供達の感銘あふれる宣言には本当に感動しました。でも、その後の方のは? 京都駅ビル内にある旅券発行事務所へ嫁さんとともに行きました。ついでにと考えていた、近くの「真宗本廟 東本願寺」へはもちろん行くことが出来ました。工事中で、御影堂の内部を参詣することは出来ませんでしたが、阿弥陀堂はゆっくいと参詣することが出来ました。さらに、近代的設備のギャラリー、視聴覚ホールにはびっくり仰天。劇場のように立派で、冷房の十分すぎるほど利いた館内で本願寺の1年の行事、帰教式(ききょうしき)の内容などを映像で、勉強することが出来ました。本願寺についてのページを作る意欲が湧いてきました。 |
2009年8月4日 昨夜、懸案にしていた、ソネットさんとの契約を解約しました。従って、今月末で、「歴史散歩万葉の旅」は改定版のみとなります。ソネットさんはプロバイダーとしての役割は全くしてもらっておらず、ホームページの為にのみのお付き合いでした。その容量も50メガのみでしたので、ヤフーさんの1ギガをお借りすることとした訳です。プロバイダーは始めから京都アイネットさんですし、Bフレッツ契約も行っておりますので、心配はいりません。さて、ボチボチ工事中のページの完成を目指します。 |
2009年8月1日 歴史散歩万葉の旅改訂版に重大な故障が発生しました。リンクが正常に働かなくなりました。懸命に修理を行っています。 現在15時です。ようやくリンクの復旧に成功しました。ホームページビルダーのリンクがうまく作動しない為、HTMLで修正してみました。 67歳を考え、現在まで続けていた銀行でのフルタイムパートの仕事を引退することとし、昨日7月31日で、出勤を止め、有給休暇に入りました。昨夕は支店の皆様が送り出しの会を催してくれ、暖かい言葉とともに立派な花束とフォトスタンドを贈ってくれました。ジジイとしては望外の喜びで、家に持ち返ると嫁さんが更に喜んでくれました。支店の皆様には、心から感謝!感謝!!です。 これからの自由な時間をどのように使っていくか?もちろんこのページの更新を頻繁に行っていきますが、他にすることを整理したいと思います。とりあえず部屋も掃除ですが!! |
2009年7月20日 今日は小生の67歳の誕生日です。この歳では誕生日を祝う気持ちにはなりませんが、子供達は飲み会の機会と勘違いしてか、美緒ちゃんを中心に楽しき夕食会のひと時を過ごしてきたところです。「滋賀、小豆島の旅」をまとめました。ギリシャ風車の写真を背景としました。 |
2009年7月18日 今月は4日、5日と11日、12日の土日が1泊どまりのお出かけであった為、久しぶりのホントの休日になりました。恒例の図書館通いをして図書館の前で営業している大住野菜の販売所でトマト、なす、きゅうりなどを購入してきました。これも恒例です。13日、息子の嫁さんが出産のために鳥取に。朝、息子が今日帰るとの電話があり、その折、ご両親が新鮮な魚を昨日宅急便で送ってくれたとのことでしたが、先ほど配達されました。一緒に松本の兄貴から信州名産の”おやき””信州そば””漬物”が配達され、今夜は孫の美緒ちゃんの家族とともに家で食事会となりそうです。 午後からは修理に出していた、ニコンの一眼レフデジカメが出来上がったとのことで、近くのMIDORI電化へ。最初は高い修理代を知らせてきていたのですが、その後、MIDORIさんのご努力で、修理代が無料との連絡がありました。感謝、感謝です。それぞれの旅のページはその後になります。まず、滋賀の旅と小豆島の旅を作り、本願寺などのページはその後ゆっくりと仕上げたいと思います。 |
2009年7月10日 ”京都の旅”がなかなか進みません。4日5日は、美緒ちゃん家族にお供して、彦根城の”ひこにゃん”を楽しんできました。彦根市、近江八幡市を回り、某社の宿泊施設のバンガロー風の建物に5人で宿泊。2日間の楽しくも大変疲れる旅をしました。こちらも別ページにまとめます。 さらに、明日、明後日はジジ連で、小豆島へ行きます。楽しみが続きます。その分、ページは遅れます。 |
2009年6月19日 13日の土曜日は高校の関西支部新人歓迎会に参加してきました。昨年は6月7日に同じイベントがあり、やはり参加しました。(これについたは、京都の旅・作者近況欄で紹介しています。)夜の食事会は同じリーガロイヤル京都でのバイキング料理、飲み放題で、昨年を上回る本当の若手が集まり、楽しい時を過ごさせていただきました。昼の散策は東本願寺別邸”渉成園”(枳殻邸)を中心としたものでしたが、この機会にと浄土真宗の京都における本山の”仏光寺”、”興正寺”そして”西本願寺”を訪ねてみました。別ページで紹介します。 |
2009年5月31日 今月初めの連休が終わり、スケジュールが重なったこの月の土日は今日で終わりとなりました。ようやく作者近況の更新をする時間が取れ、パソコンの前に座りました。10日は母の日ということで、娘夫婦が住んでいる城陽市の天麩羅割烹でもちろん孫の美緒ちゃんを中心とした3家族でのお食事会。16日(土)は恒例の高校関西同期会。今年はこの会の幹事をずっとしてくれている友人が川西市に事務所ビルを新築したことのお祝いを兼ねて、松本、東京から駆けつけた20名以上の友人たちと関西在住の者たちを含め30名がリーガロイヤルホテルで”なだ万”のお料理、お酒、会話、そして最後に応援歌、とんぼ祭記念歌、校歌の斉唱と本当に楽しい時間を味わうことが出来ました。 23日(土)に予定されていた東京での中学の同級会(いつもは10月第4週松本で))が新型インフルエンザの流行により、急遽中止となりましたが、24日日曜日に、ついでにと計画していた学卒後始めて勤めた会社で同じ寮で生活した親友など5人との会食の為、東京への日帰り旅をしました。11時半に東京駅に到着。会場が1時銀座の”木曽路”であるため、久しぶりに皇居前広場から、二重橋そして銀座通りを散策しました。1時から7時まで、若い日々の逸話が途切れることもなく、再会を約束し、東京を後にしました。 27日は息子夫婦が購入しており、やはりインフルエンザを心配して諦めた阪神・西武戦を嫁さんと二人で観戦に出かけました。新装成った甲子園球場は大変綺麗で、7回に逆転し、勝利した阪神応援団の球場全体を揺るがす応援にはホント感動しました。 |
2009年5月4日 連休です。昨日は嫁さんと約束していた家中の網戸の取替えをしました。昨年5月、家の改装が完成した時からの約束事をようやく実らせたということです。2月始めから4月の12,13日までの東山・祇園界隈のページを今日ようやく完成させました。ちょっと長丁場過ぎたきらいがあります。反省です!! |
2009年4月26日 東山・祇園地区のページもようやく完成に近づいています。12日、13日を残すのみとなりました。今ひとふん張り頑張ります。 最近読み返している「仏像のこころ」(梅原猛先生著 初版は1987年) 釈迦如来の項の最後のところに現在の世界の情勢を悲しいかな予測している文章があり、何回も読み返してしまいます。 (仏教では、死ー悲しみー諦めー微笑という感情の理論。 キリスト教では、死ー絶望ー怒りー復讐ー審判という感情の論理が成立する。) このように、死をめぐる仏教とキリスト教の対立は、考えれば考えるほど大きな問題をわれわれに与える。釈迦ばかりでなく、東洋の多くの聖者は自然死である。東洋では殺された人間は、おそらく聖者の名に値しない人間なのであろう。しかし、西洋では、殺されたのはイエス・キリストばかりでなく、ソクラテス(前470−前399)も毒殺されたのである、ヨーロッパ文化圏では、どうして殺された人間ばかりを聖者とするのか。この殺された人間を聖者とするのは、ヨーロッパ文化圏の特徴ではないか。そこにあるのは正義という根本思想である。不正に殺された人間に対して、正義のために復習しようとする論理である。従ってそこには憎悪や怒りが存在し、その憎悪や怒りが、人間を激しい行動に駆りたてる。それに対して釈迦の語るのはただ慈悲である。人生は悲しくて、慈悲に満ちている。ここでは行動は外より内に向く。正義の文化と慈悲の文化、この二つの文化は相対立し、現代の世界では、正義の文化の行動性が、慈悲の文化の内面性をはるかに圧しているかにみえる。しかしどうなのだろう。今の世界には、あまりにも自己の正義の尺度のために、相手を裁こうとする思想がおおすぎはしないであろうか。現在の世界を支配するのは、人種においては必ずしもヨーロッパ人ではないが、思想のおいてはやはりヨーロッパ的思想である。このようなヨーロッパ的正義では、世界を指導することのできない時代が来ているのではないか。正義は、世界の破滅という大いなる危険を背負っているのではないか。正義の思想の危険さが世界の人の実感となる時、再び慈悲の思想が忘却の中から現れて、世界の指導原理となる日がくるのではないか。 |
2009年4月18日 12日、13日、2日間の友人達6人との京都旅行が終わりました。ソメイヨシノは1週間前に満開となっていましたが、枝垂桜と八重桜は満開、特に「平安神宮」の「八重紅枝垂桜」は本当の見ごろを迎えていました。良かった!! 12日、3時に京都グランヴィアホテルに集合し、「平安神宮」・「金戒光明寺」・「真如堂」を回り哲学の道へ。銀閣寺下の「草喰なかひがし」で6時からの懇親会。食材に拘ったこのお店の美味しい懐石とお酒に酔いながらの会話は時間を忘れるほどのものでした。ホント小生は飲みすぎてしまったようで、友人たちがホテルの15階で再度の会話を楽しんでいる頃、部屋のベッドで気を失っていたようです。面目ない!! 翌13日も好天気。錦小路で買い物をし、青蓮院で11時に落ち合う約束をした2人を残し、タクシーを使い5人で「将軍塚」へ向かいます。こちらの枝垂れ桜、八重桜ともに見事な満開。展望台からは多少春霞でもやっていましたが、京都市内を十分に堪能することが出来ました。山を下り時間があるようなので、「長楽寺」で一息入れることが出来ました。7人のメンバーが揃ったところで「青蓮院」「知恩院」をゆっくりと参詣し、1時過ぎに「豆皿懐石汁る椀豆寅」到着。「豆ずし膳」コースの舞妓さんの口にも合う大きさのお寿司と鯛の薄作り、筍の付け焼きをお酒のお供にゆっくりと会話を楽しみました。天気に恵まれホント良かった!! ページは「東山・祇園界隈」として纏めてゆきます。今夕は4月生まれの孫の美緒ちゃんと息子の為のお誕生会が「ハレトケ」(近くのお料理が評判のお店)で計画されています。これからローソク4本のバースデーケーキの注文に出かけます。 |
2009年4月4日 今年も4月のお花見の時期が到来しました。このところの寒さで、少し桜の開花が遅れ、今日も気温があまり上がっておらず、間もなく雨が降り始める兆候です。明日は好天気が予想されていますので、お花見に出かける気持ちにはなっています。どうかな?”京都の旅”のページで東山界隈のお寺周りを作成中ですから、今年の桜の写真もその中に取り込んで行く予定です。雨の午後はページ作成が進みそうです? |
2009年3月7日 2月はついに、ページの更新が出来ませんでした。京都の東山界隈、祇園界隈を歩き回っていたこと、そして、先週の土日は、最近は3ヶ月のペースとなりつつあるジジ連の旅行に”三朝温泉”へ行ってきたことによります。京都の散策については、「京都の旅」に纏めます。三朝温泉への旅はここで少し触れてみます。 還暦を越えた5人のジジがお値打ちの1泊旅行に出かけ、英気を養っています。いつもお値打ちな旅行を探し出してくれている幹事さんのお陰で、今回もホント、料理に、サービスに、そして観光にと十分に楽しませていただきました。感謝!!感謝です!!! 三朝温泉へは宿泊先である”清流荘”まで直通のマイクロバスで行くことになりました。我々5人を含め、21人の相客です。9時に梅田を出発。途中、”鳥取砂丘”で昼食とチョットだけの観光。2時前には清流荘へ到着しました。夕食予定時刻の6時まで時間があることから、ゆっくりと2箇所の温泉に入り情報交換会です。 鳥取には07年4月、この年に結婚が決まっていた息子の嫁さんの実家へのご挨拶にお伺いし、大変お世話になった時以来ですが、その折も鳥取砂丘と”投入堂”そして三朝温泉のホテルでの昼食、入湯を経験しました。 翌日はタクシーの1時間コースで、”投入堂”までは解禁されていませんが、三徳山三佛寺のお参りに出かけることが出来ました。ズワイガニ1杯と焼きガニ、甲良焼き、ビール、焼酎の飲み放題とアマエビ食べ放題の夕食は十分に満足が行くものでしたし、朝食のパイキングの品数と美味しさ、特に山芋掛けご飯がセレクトのなかにあったことには感激しました。出発までの清流荘での気配りも十分なもので感謝、感謝です。 前回は厳しい山道を”投入堂”まで登りましたが、今回は冬場で入山禁止となっていることから、本堂のお参りと、宝物殿で御本尊と諸物を拝むこととなりました。 向かいの見晴台からの右・地蔵堂 左・文殊堂です。 遥拝所からの「投入堂」です。 以下紹介パンフレットによる「三徳山三佛寺」そして国宝「投入堂」の紹介です。 三徳山は平安時代、山岳仏教の霊場として信仰されてきました。その中心となるのが山麓にある天台宗の古刹三徳山三佛寺です。霊山としての特徴は朱塗りの宿入橋と入口にした奥山。ここは三徳山法流修験道の修行場として知られたいます。豊かな自然と山中に点在する諸堂は往古のまま今に残されています。 三徳山のはじまり その開山は慶雲3年(706)にさかのぼります。役(えん)の行者が3枚のハスの花びらを散らし、「佛教に縁のあるところに落ちるように」と祈ったところその1枚が伯耆(ほうき)の三徳山に落ち、この地を修験道の霊場として開いたのははじまりとされています。その後、嘉祥2年(849)慈覚大師によって阿弥陀如来・大日如来・釈迦如来の三尊が安置されたので、天台宗三徳山三佛寺と称し、堂舎38宇・寺三3千軒・寺領1万町歩・3千石を領していました。 国宝 投入堂 投入堂2 706年の昔、役の行者が法力で岩屋に投げ入れたと言われるお堂でこの名がついています。標高520メートルのところ、後部を岩屋にすえ、前面は断崖に向けての舞台造り。近づく道すらない垂直な崖に浮かぶとも建つとも表現しがたい優美な姿をかもしています。 蔵王権現立像(投入堂正本尊・重文) お顔です。 慶雲3年(706)役の行者により末法の世の衆生済度せんがため三徳山修験道の中心的な建物である投入堂の本尊として安置された。体内から発見された願文により庚慶の作と判明した。 |
2009年1月25日 歩くことが好きな夫婦は沢山おります。”万葉の旅”、”京都の旅”へ行くと、必ずそれらの方々と行き違います。それらの方々と一緒なのでしょうか?木津川の土手道を歩いてきました。10時に家を出発。一応の目的地である”木津の流れ橋”まで約一時間強。橋を折り返すつもりで向こう岸近くの流れの多いところに行くと、空手の寒稽古と思われる一団が冷たい流れに入り大騒ぎをしていました。橋の近くに”四季彩館”という流れ橋の関連施設があります。お風呂、売店、そば打ち体験道場などが出来る施設などがあり、そこでお蕎麦を食する食堂があります。いまひとつの目的であるお蕎麦を食し(10割そばを食しました。美味しかった。)、更に歩いて1時に帰宅しました。丁度良い散策ですね!! |
2009年1月12日 昨日訪ねた木津川市のカモの神および地祇の神をページとしました。万葉の旅で取り上げた高鴨神社などとも関連してくる興味深い事柄です。これからの勉強も必要になってきます。 |
2008年12月28日までを ”作者の思い出5へ移しました。 |
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