2019年4月11日、12日
高校時代からの仲間8人で

「琵琶湖周航の旅」

彦根城・長浜・竹生島(法厳寺)・さくらの海津大崎へ
背景は梅津大崎の桜です。


平成31年(2019年)4月11日
 
 集合場所はJR米原駅でした。11時50分着のひかり号の迎えが出来るように少し早いのですが、7時24分発の家から5分の停留所からバスに乗車しました。このバスは高速道路を使って40分程で京都駅まで行くことが出来るからです。京都駅からは快速電車を使わず、普通電車で米原駅へ向かいました。
 11時には米原駅に到着し、皆さんの到着を待ちました。7名は無事に新幹線出口から出てきましたが、降りてきた乗客の数が多く、全員を把握するのにしばらく時間が取られました。米原駅発10時59分の電車で彦根駅に向かいます。(車窓からは川岸の桜が望めます。)

 11時5分には彦根駅へ到着し、昼食場所として予定している彦根城近くの「献上伊吹そば つる亀庵」へ向かいました。14日までのさくらの季節は昼食時の電話予約を受けてもらえないとのことで、少し心配していました。11時半開店より10分ほど前に店前に到着、開店を待つお客さんは2組で、安心することができました、店前で全員、撮ってもらいました。    桜は満開ですが冷たい風が吹いていました、  10分前には店内に案内してもらいました。待合場所・椅子が用意されていました。   

 11時半、席に案内され、まずは8本のお燗付きのお酒ででした。もちろん乾杯です。 1)         2)          もちろん追加のお酒。お蕎麦もいただきました。

 姫路城域地図            琵琶湖八景月彦根古城の碑

 12時40分、つる亀庵前でお城をバックで撮影。       絶景のお城とさくらの景観         

 「埋木舎(うもれぎのや)」へ行く途中の「井伊大老歌碑」前で。         解説版          「埋木舎」前の道路左右 1)         2)    
  お城と桜は見事な景観といえます。
 
 12時55分 「埋木舎」前で、管理のオジサンに全員を撮ってもらいました。         「埋木舎」内1)          2)          3)          

 管理のオジサンがどうしてもということで、1)           2)           お濠と石垣と撮影。松本城との違いは彦根藩との石高の違いでどうしようもありません。      
 

 『「埋木舎」を見ずして井伊直弼は語れない。』 パンフレットから抜粋しました。   
 【井伊直弼と埋木舎】 
井伊直弼は文化12年(1815)11代藩主井伊直中の14男として誕生。5才で母を、17歳で父を失ったので藩の掟に従い300俵の捨扶持で彦根城佐和口前の公館で、32歳までの15年間を暮らすことになる。
    世の中をよそに見つつも埋れ木の 埋もれておらむ心なき身は      
直弼は和歌を詠じて、この館を「埋木舎」と号した。    
 直弼は「茶、歌、ポン(鼓・能)」とあだ名があったごとっく、茶道、和歌、能は達人の域で、また国学、書、禅、湖東焼、楽焼などのほか、さらに武術、馬術、柔術、弓術など、文武両道の修練を一日4時間眠るだけで足ると埋木舎で励んだ。・・・・・

    茶の湯とてなにか求めんいさぎよさ 心の水をともにこそ汲め  埋木舎 
 埋木舎の庭中の柳の風に逆らわぬを範として「柳王舎」「緑舎」ともいった。 
    むっとしてもどれば庭に柳かな    
    
 
直弼の一生の親友、国学者・長野主膳と三晩、人生論を語り合ったのも埋木舎であった。・・・

 現在の「埋木舎」の当主は「大久保家」のようで、展示品にはその説明が記されていました。

 井伊直弼年表 
 文化12年(1815)10月29日 彦根城槻(けやき)御殿で誕生・・・・・弘化3年(1846)1月 世子直元死去(37歳) 2月「埋木舎」を出て江戸へ向かい、兄、直亮の養子となるー直弼36歳ー・・・・・嘉永3年(1850)9月 直亮死去(57歳) 11月 直弼襲封 掃部頭と称すー直弼36歳・・・・・

 嘉永6年(1853)6月 アメリカ・ペリー軍艦4隻で浦賀に来航。8月 直弼「別段存寄書」で開国を説く・・・・・安政元年(1854)4月京都御所炎上、彦根藩京都守護に専念・・・・・安政5年(1858)4月 直弼 大老に就任 6月 日米修好通商条約調印  将軍継嗣、紀州慶福に決定・・・・・安政6年1859)安政の大獄、(第三次断罪迄)・・・・・安政7年(1860)3月3日 桜田門外の変 水戸浪士らのテロに会い死去ー直弼四十六歳ー


 12時55分 「玄宮園」前で全員。1)          2)         
 昨年秋、紅葉狩りの折り、いわゆる「猿まわし」を楽しんだ記憶があり、ここにもか?といった気持で撮りました。     

 下見の折りには「魚躍沼(ぎょやくしょう)」は水が抜かれた状態で、見た目の悪い景観でしたが、全て改良されていました。


 遠くに姫路城が望まれる地点での全員            宮さん、倉科さん、向こうに傳田さん   

 「玄宮園」内 1)            2)            3)            4)           天主を見上げる景観を撮りました。

 「楽々園」 1)           2)             3) 宮さん、二木さん、高田さん           

 「名勝 玄宮楽々園」のチラシから
 沿革  江戸時代には「槻御殿」と呼ばれた彦根藩の下屋敷です。槻御殿は、延宝5年(1677年)、4代藩主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと伝え、昭和26年には国の名勝に指定されています。現在は、槻御殿の庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園と称しています。
 玄宮園  中国唐時代の玄宗皇帝の離宮となぞらえて命名されたと考えられ、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)あるいは近江八景を模して作庭されたといわれる回遊式庭園です。池に臨んで臨池閣や鳳翔台(しょうほうだい)などの建物が設けられ、彦根城を借景とする江戸初期の大名庭園として鑑賞できます。
 楽々園  玄宮園とともに彦根藩4代井伊直興により建立された彦根藩の下屋敷です。幕末の大老・井伊直弼もここで生まれました。楽々園は造営後、時代の流れとともに建物の増減が著しく、11代藩主井伊直中の隠退時には、現在のおよそ10倍もの規模がありました。

 
「玄宮楽々園」の概要 (パンフレットから)
 名勝玄宮園は、大規模な池泉回遊式庭園である玄宮園と御殿に臨む池泉・枯山水庭園である楽々園の総称です。江戸時代には、楽々園部分は「槻御殿(けやきごてん)」、「黒御門前御屋敷(くろごもんさきおんやしき)」等の名で呼ばれ、玄宮園は当初は「御庭(おんにわ)」や「槻之御庭(けやきのおんにわ)」という名で呼ばれていました。「玄宮園」の名は、10代直幸(なおひで)の頃の史料に初めて確認することができ、江戸時代中期以降に定着する呼称と考えられます。
 なお、この「玄宮園」の名の由来については、「荘子」に、古代中国の皇帝「せんぎょく」が、退位して都の北の玄宮に住むという記事あり、藩庁である「表御殿」の北にある御殿(宮殿)で、しかも退位した者が住む隠居所であるという共通性から命名されたのではないかと考えられます。・・・

 13時35分、「玄宮楽々園」をでて「彦根城黒門」へ向かいます。お城の池には白鳥2羽が戯れていました。 1)          2)          

 天主へ登る道です。 1)          2) 登りのメンバー         3)          4)            天主です。1)          2)         

 3) オリンパスカメラによる天主          

 「彦根城博物館」 1)御庭          2)            3)玄関前           4)          

 15時18分の電車で彦根駅を出発。

 15時35分、長浜へ到着し、「曳山博物館」へ向かいました。          長浜は北國街道が通っています。         

 「長浜曳山祭」(ユネスコ無形文化遺産です。)は今年は、4月13日(土)から16日(火)行われました。(以下パンフレットから)
 
長浜曳山祭は、長濱八幡宮の春の祭礼です。社伝によると延久元年(1069)平安時代の武将・源義家(1039−11069の提案に酔って八幡宮が建立されたといわれています。
 曳山祭の歴史は、のちに戦国の乱世を統一する羽柴秀吉(1537−1106)によって始まります。秀吉は、湖北を統治すると長浜城とその城下町を建設します。この時に秀吉が再現させた源義家の武者行列が、曳山祭で執り行われる「太刀渡り」のはじまりといわれます。
 その後、男子が生まれた際に、秀吉は長浜の町の人々に祝いとして砂金を配り、町人たちはこれを元に曳山を造り八幡宮の祭礼に曳き出しました。これが、長浜が世界に誇る「長浜曳山祭」の始まりと伝わっています。

 「長浜の曳山」 長浜には町を13に分けた山組ごとに13基の曳山があり、毎年4つの曳山が順番に曳山祭に出場するようです。見物は曳山ばかりでなく「子ども狂言が演じられる」ことです。「長刀山」(長刀組)は別行動をとる大きな3つの車輪がついています。

 今年「子ども狂言が演じられる山組は 「常盤山(とこわざん)」・「孔雀山(くじゃくざん)」・「翁山(おきなざん)」・「萬歳楼(ばんざいろう)」のようです。

 「曳山博物館」 1)           2)           3)           4)            5)        
   
  詳しくは「下見ページ」で紹介します。

 JR長浜駅から「長浜ロイヤルホテル」へはホテルのバスを利用しました。17時にはホテルに到着し、ゆっくりと温泉に浸かりました。

 夕方の宴会は「住茂登(すみもと)」。18時には店に到着し、恒例通り、たらふくの飲み、食べ、語りました。料理は琵琶湖の魚、鴨を主体としていました。

 18時15分、宴会開始です。          料理 1)           2) この鴨鍋は美味しかった!!!          3)          

 9日〜12日に行われると聞かされている「裸参り」を見ようと出かけましたがこの日は終了ということで、タクシーでホテルに戻り、カラオケ希望者は早速会場へ。皆さん十分に楽しみました。
2019年4月12日

 9時出航の琵琶湖汽船の「竹生島」行き船乗り場には8時半には到着しました。
 船はすでに接岸していますが、9時前まで待合室で待機します。 1) 峰田さん、中嶋さん、倉科さん          2) 宮さん、傳田さん、二木さん    
 9時30分、竹生島に上陸。上陸を記念して皆さんを撮影しました。1)          2)          

 「深緑 竹生島の沈影」の碑。 (近江七景の一つ)            「西国33観音霊場30番札所 法厳寺」はさくらが満開でした。     

 月も日も 波間に浮かぶ竹生島 船に宝をつむ心地して    

 竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。
行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)をご本尊として本堂に安置。翌年には観音堂建立を発案しました。後年、その遺志を継いだ浅井の大領が千手千眼観世音菩薩像を安置しました。

 9時40分、拝観料400円を支払い、厳しい石段を登ります。          法厳寺・本堂(弁才天堂)1)         本堂 2)傳田さん         

 不動明王像 竹生島流棒術発祥の地の碑          本堂内は           島の景観を背景にして7人で撮ってもらいました。            
 港方向を見下ろします。          朱色が見事な三十塔          傳田さん、高田さん、峰田さん          船廊下         
 
 都久夫須麻神社本殿(竹生島神社)ご本殿(国宝)             傳田さん、中嶋さん         中嶋さん        八大龍王拝所         
 拝所に祀られた龍神の両脇にある「阿吽の龍」         海に向かって建てられた鳥居          船廊下・観音堂下の懸造(かけずくり)または舞台造           

 10時丁度 港に戻り、10時10分発の今津港行きの船に乗船することが出来ました。    

 10時丁度、近江今津港行きの船が出航します。近江今津までは30分の船旅です。      船内で1)          2)         

 船内の解説で、「琵琶湖周航の歌」についての説明がありました。松本からのプメンバーから「二木紘三の歌物語」プリントを貰いました。以下、一部です。

 1 われは湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと のぼる狭霧や さざなみの 志賀の都よ いざさらば
 2 松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は 赤い椿の 森陰に はかない恋に 泣くとかや
 3 浪のまにまに 漂えば 赤い泊火 なつかしみ 行方定めぬ 波枕 今は今津か 長浜か
 4 瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの 竹生島 仏の御手に いだかれて めむれ乙女子 やすらけく
 5 矢の根は深く 埋もれて 夏草しげき 堀のあと 古城にひとり 佇めば 比良も伊吹も 夢のごと    
 6 西国十番 長命寺 汚れの現世 遠く去りて 黄金の波に いざ漕がん 語れ我が友 熱き心

 10時40分 近江今津港に到着しました。1)         2)         3         

 お目当ての「日本のさくら100選 梅津大崎お花見」のためにはJRマキノ駅へ移動しなけれななりません。近江今津港からJR今津駅へ歩きました。
 
 マキノ駅への電車は1時間後と知れたためタクシーで行くこととしました。

 マキノ駅で昼食を摂ることになり、タクシー運転手のアドバイスで「ととろ」を勧められ、歩きました。

 11時30分、「ととろ」へ到着。桜見物の昼食メニューは1点(桜弁当?)でしたので、その料理を戴くことにしました。  恒例の「ご苦労さん」乾杯です。   
 まず。ビールを、そして御燗のお酒を頂戴しました。銘柄は「竹生島」で、その酒造メーカーは桜狩りの帰りの道にありました。
 
 料理のうち、お造り、てんぷらが美味で、お酒も十分に楽しめました。 料理 1)         2) 桜餅のデザートです。         
 
 12時50分、昼食を終わり、「梅津大崎」へ向かいました。

 暁霧海津大橋の岩礁(ぎょうむかいずおおさきのがんしょう)

 13時、「梅津大崎の桜を」を俯瞰できる湖畔にでました。           ここで皆で写真を撮りました。1)          2)          

 昼のお酒が効いてしまったのか、花見の場所まで行く体力、気力のある方は少なく、ここで一応の解散となりました。残念です。

 私は岬の先端までの桜を写真に収めることを約束しました。倉科さんのみ途中まで桜見物に行くことになりました。        海津浜の石垣です。1703年西与一左衛門が築いた石垣        西与一左衛門の碑の説明版     

 「海津大崎のお花見」のさくら         さくらをアップをアップすると      
 
 13時20分、「よくこそ海津大崎へ」            さくら 1)           さくら 2)           さくら 3)           さくら 4)     
 さくら 5)           さくら 6)            さくら 7)           さくら 8)         さくら 9)       

 「大崎寺」解説版           大崎寺登り道            「海津大崎港」はここに          

 色調が異なるオリンパスカメラで撮影すると以下のようになります。参考までに  1)            2)            3)           4)       5)           6)           7)          

  14時25分「大崎並木口」へもどりました。     


 滋賀県は寺密度が日本一のようです。海津大崎から、マキノ駅への帰り道の「浄土真宗」のお寺が連なっている状態(蓮如の努力によります)を撮ってみました。      1) 14時31分 真宗大谷派 福善寺          2) 14時34分 真宗大谷派 寳珠山 誓行寺          3) 14時35分 真宗大谷派 西栄寺        4) 14時36分 真宗大谷派 蓮光寺           5分間で4寺の真宗大谷派寺院を通過しました。                 
寺密度とは、人口10万人当たりにお寺がいくつあるか?一番は滋賀県というのが、「百寺巡礼」の第4巻に載っていた。調べて見ました。五木さんの資料とは違いがあるので数値は違うが大勢は同じ。

 14時52分、マキノ駅前へ帰ってきました。 京都駅への快速電車は1時間待ちでした。15時50分の電車で京都へ戻ることとしました。

 ページがアップされているホームが変更されましてのこの旅の記録一覧を掲示します。典さんのページは再構築する必要があり、後日に再起させていと思っています。
                                  
 2018年11月6日、7日 安芸宮島、江田島への旅  
https://indigobear6.sakura.ne.jp/018_11_6_7_8_hirosima_miyajima_etasima_nadohe.htm

 2018年4月19日、20日 小豆島への旅        
https://indigobear6.sakura.ne.jp/018_4_19_20_syoudosimahe.htm

 2017年11月16日、17日 秋の吉野山への旅    
https://indigobear6.sakura.ne.jp/017_11_16_17_yosinoyamahe1.htm
                                  
 https://indigobear6.sakura.ne.jp/017_11_16_17_yosinoyamahenotabi1.htm

 2017年6月15日、16日 春の京都 平八茶屋    
https://indigobear6.sakura.ne.jp/017_6_15_16_kyoto_fukeihen.htm
                                  
https://indigobear6.sakura.ne.jp/017_6_15_16_kyoto_jinbutuhen.htm



 2015年11月10日、11日 秋の北陸金沢、福井へ 
https://indigobear6.sakura.ne.jp/015_11_10_11_akinokanazawa_fukuihe.htm 

 2015年4月7日、8日 春の京都 菊乃井       
https://indigobear6.sakura.ne.jp/015_4_7_8_harunokyoto_oryouri.htm

 



2019年3月9日
 
 「琵琶湖周航下見の旅」
 4月11日、12日に予定されている「琵琶湖周航の旅」の下見に嫁さんと出かけることとしました。何かと予定が詰まっており、この日しか出かけることが出来ませんでした。本番とは違いが出てしまう旅となってしまいました。

 9時40分、JR安土駅へ着きました。もちろん、「安土城跡」への下車駅ですが、今回は「安土城天主 信長の館」、「県立安土城考古博物館」を目指しました。
 駅に貼られた地図2葉    1)         2)          「安土城天主 信長の館」への道のり   1)          2)         

 「安土城考古博物館」は確かに充実した展示品でしたが、時間を考え、急ぎ足の鑑賞となってしまいました。   「観音寺城跡」     「安土城跡」     
 「安土城天主 信長の館」 10時40分

 
「安土城天主 信長の館」では、スペインビクトリア万国博覧会(平成4年)に出展された安土城天主の最上部5・6階部分の復元を、博覧会終了後に解体移築し庇屋根、金箔約10万枚貼りの外壁、5階部分の天井、最上部大屋根を増設し当館にて展示しています。
 1579年(天正7年)に織田信長の居城として築かれた安土城の壮大で爛熟豪華な様は、人々の驚きと共に、当時日本を訪れてきたキリスト教宣教師たちによって遠くヨーロッパにまで伝えられたと言われております。
 しかし、本能寺の変の約半月後、築城わずか3年で焼失し、その全容は長年明らかにされていませんでした。
 残された資料が少なく幻だった安土城は、近年、日本建築史学における第一人者故内藤昌氏の「天主指図」発見により復元監修され、当館に天主や狩野永徳が描いたと伝えられている極彩色の金碧障壁画や、発掘された金箔瓦とともに展示されています。(以上 パンフレットから)

    1)          2)           3)           4)          5)          6)           7)        

    8)          9)           10)           11)           12)           
 
 11時05分、信長の館を出て、JR安土駅へ向かいます。

 安土駅横には「安土城郭資料館」があり、電車の時間待ちを利用して鑑賞することとしました。

     1)          2)           3)           4)          5)           

 「彦根城}

 12時15分 JR彦根駅に到着。お昼を食べ、彦根城に向かいます。 彦根城周辺地図です。        お濠沿いを歩き、埋木舎へ向かいます。      

 13時、埋木舎(うもれぎのや)門前です。         埋木舎内1)          2)           

 玄宮園へ向かって歩くと「二季咲桜(にきざきさくら)」(冬:11月〜1月 春:4月〜5月)がありました。          「二季咲桜」です。       

 13時20分 「玄宮園」門前に。         玄宮園とは          玄宮園 1)          2)          3)          4)     

   5)          

 13時50分 黒門から彦根城へ入ります。          

 彦根城天主へ登ります。 1)           2)            3)            4)            5)            6)          
  7)           8)            9)            10)            11)           12)           

 「彦根城博物館」 1)           2)           

 15時18分、彦根駅を出発、15時35分、長浜駅へ到着しました。到着して気が付いたのは翌日まで「第68回 長浜盆梅展」が開かれていたことです。関西では有名なイベントの一つです。嫁さんが庭木花の世話が趣味と分かっていますから、外すわけにはいきませでした。

「長浜盆梅展」


 15時40分、会場へ向かいます。          会場の「慶雲館」の解説
明治20年、明治天皇の京都行幸に際し、お立ちよりなられた長浜での休息所として建てられました。当時の総理大臣伊藤博文が慶雲館と名付けたと伝わっています。庭園は、明治45年に平安神宮や円山公園など多くの作庭を手掛けた、七代目小川治兵衛の作で、国の名勝に指定されています。

 慶雲館の敷地に入ります 1)          2)            

 多くの見事な「盆梅」が展示されていました。パンフレットで見ると、2月に展示されたものと、3月9日に展示されていたものとは違っているようです。最盛期の花が展示されいるのでしょう。  1)          2)          3)           4)           5)          6)         

 7)            

 目の保養をさせてもらいました。    帰りの折り、大変な梅花の育て方を記した説明版です。    

「曳山まつり」

 16時20分、「曳山博物館」に到着。館内に入り展示されているもとをサッと見るだけで、「おー」という声が出てきました。「ユネスコ無形文化遺産」に登録されているだけの価値があることを実感しました。ぜひ、皆さんを案内したいと決めました。

 パンフレットによる「曳山まつり」の解説

 長浜曳曳山まつりの由来
 
長浜曳山まつりの歴史は、豊臣秀吉公が長浜城主だった時代に始まります。待望の男子誕生の祝いとして秀吉公から砂金を与えられた町衆が、そらを基に曳山を造り、秀吉公が再興した長濱八幡宮の祭礼で引き回したことが起こりとされています。
 長浜の発展に伴い、江戸中期から各山組で競って曳山を改造し、豪華な装飾を用いるなど贅を尽くしました。また舞台の上では子ども歌舞伎が上演されるようになり、今に伝わる形へと発展していきました。

 長濱の真髄に触れる子ども歌舞伎の見どころ
 
長浜曳山まつりの最大の見どころはなんといっても子ども歌舞伎。各曳山組の5歳から12歳の男の子が役者となり演じします。その大人顔負けの熱演は、見物客の拍手喝采を浴びます。
 毎年舞台付き曳山12基の内4基が交替で出場します。15日は、長濱八幡宮での奉納狂言の後、御旅所までの道中でも披露します。御旅所に着くころ、提灯が灯り、とても幻想的な光景です。子ども歌舞伎は、13日の夜、14日の午前、16日にも各町でも披露します。

 動く美術館と呼ばれる曳山の魅力
 
長浜の曳山は、約4畳半の「舞台」、大夫と三味線方によって浄瑠璃が演じられる「楽屋」、囃子(はやし)を行う楼閣造り「亭(ちん)」の3つの部分からなります。その見事な建築美とともに、金箔、朱や黒なその塗り、錺(かざり)金具、重要文化財指定の見送幕をはじめとした毛綴(けつづれ)や綿、刺繍の胴幕などによって美しく装飾され、動く美術館とも呼ばれます。
 
囃子と人が溢れる路地を、絢爛豪華な曳山が行く風景は、見るものを魅了します。

 長浜曳山まつり の 主な行事
 
4月第一土曜日 「曳山博物館 曳山交替式」    9日 「線香番」      9〜12日 「裸参り」    12日 「神輿渡御(みこしとぎょ)」       13日 「御幣迎え」  「籤(くじ)取り式」      14日 「登り山」 「夕渡り」       15日 「朝渡り」 「太刀渡り」 子ども歌舞伎」       17日 「神輿還御」 「戻り山」 「御幣返し」 


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 長浜ロイヤルホテルへの道を確認するため、まず、  「住茂登(すみもと)」を確認、  長浜城前を歩き、   ホテルまで歩きました。



作者近況の欄です9.