磐余(いわれ)・山田の道
磐余道の道標です。
井上靖書として山田寺跡入口の曲がり角にありました。


 今年最後の旅に出ました。もちろん、Nさんとの2人旅です。今回は現在の地名で、近鉄桜井駅からから橿原神宮前駅までの”磐余・山田の道”です。思いもかけず天香具山登山もする事が出来ました。これがこの旅の楽しみの1つですね。
 神武天皇の別名、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)の「磐余」(いわれ)は、この土地とかかわりがり、神功皇后をはじめ、履仲・清寧・継体・敏達・用明などの各天皇、皇后が磐余の地に所在した事と考え合わせると、磐余は由緒深い土地柄であった事が分る。それは飛鳥以前の、大和の中心的地点であったといえるかもしれない。・・・・・飛鳥を古代の陽の部分とするなら、磐余は影の部分だ。けれども私は、磐余には寂莫とした美しさが残っていると思う。(以上、万葉の道より)
磐余の古き宮都
 磐余稚桜宮  神功皇后(203年)
   同
      履仲天皇(401年)
 磐余甕栗宮  清寧天皇(480年)
 磐余玉穂宮  継体天皇(526年)
 磐余幸玉宮  敏達天皇(575年)
 磐余池辺双槻宮 用明天皇(585年)


東光寺跡から若桜神社
 桜井駅から多武峰談山神社へ向う道をたどります。道の左の小高い丘に登りました。ここが山号「磐余山」(石根山)を持つ東光寺跡で、今は小堂が1つ、また、何体もの石仏達がのこるのみとなっています。
   つのさはふ 磐余の山に 白たへに
        かかれる雲は 皇子(すめらみこ)かも 
(巻13・三三二五)
 「つのさはう」は石見、磐余の枕詞、「つの」は蔦(つた)、「さ」は接頭語で、「はふ」は這で、蔦が這う「石」とつづく意と解するようです。磐余の山に白くかかっている雲は、お亡くなりになった皇子であろうか。
 道をはさんだ西側、やはり小高い丘の上に”若桜神社”があります。神功皇后・履仲天皇(17代)の磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)の跡ともいわれています。
「土舞台」遺跡
 若桜神社の丘伝いに、「土舞台」遺跡があります。丘の平地に石碑が立っています。今は木立に囲まれ周囲を見通すことは出来ませんが、南正面に多武峰、その左手に万葉の倉橋山、手前に丘陵状の鳥見山、さらに左に忍坂の山が望まれていたようです。
日本書紀、推古天皇(33代)20年の記事に
「又百済人味摩之(くだらびとみまし)、帰化(まうきおもむ)けり。曰はく、『呉(くれ)に学びて、伎楽(くれがく)の舞を得たり』といふ。即ち桜井に安置(はべ)らしめて、少年(わらはべ)を集へて、伎楽の舞を習はしむ。是に、真野首弟子(まののおびとでし)・新漢済文(いまきのあやひときいもん)、二の人、習ひて其の舞を伝ふ」とみえ、これが土地の伝承と結びついて土舞台遺跡としてこんにちに残ったのであろう。(以上万葉の道より)
阿倍寺跡
 土舞台から坂を降りた所で、道の掃除をしている方に文殊院の方向を聞いた所、”文殊さん”はとの返事が聞かれました。やはり”文殊さん”なんです。”文殊さん”は昨年訪れていますので、本堂にお参りしただけで阿倍寺跡に向います。
(阿倍文殊院の御本尊は巨大な木造極彩色の騎獅文殊像で、快慶の作品とのことです。ほんと、巨大です。)
 阿倍寺跡は広い敷地に2つの基壇が残るだけとなっています。その1部ではゲートボールに興ずる方々も見えます。もともと別院として発足した文殊院がこんにちなお栄えているのに反し、その本寺であった阿倍寺の姿は歴史の長さを感じさせられます。”大化の改新”の折の要人、左大臣阿倍倉梯麻呂の建立と伝えられています。後で訪れた山田寺跡がやはり、その時の要人蘇我倉山田石川麻呂の氏寺であったことで、さらに歴史の面白さが感じられます。
  坂越えて 阿倍(あへ)の田面(たのも)に 居る鶴(たづ)

          ともしき君は 明日さへもがも(巻14・三五二三)
 坂を越えて、阿倍の田圃にいる鶴のように心引かれるあなたに明日も来てほしい。


稚桜神社(わかざくらじんじゃ)から御厨子神社(みずしじんじゃ)
 阿倍寺跡からは山田寺跡への道(飛鳥への山田道)を取らず、古代天皇の宮跡と比定されている神社へ向う事としました。ぽつんとした丸い山が見えました稚桜神社はこの上に鎮座しています。ここは神功皇后(仲哀天皇皇后)・履仲天皇(17代)の磐余稚桜宮跡といわれています。
 さらに、向こうに御厨子神社(清寧天皇・22代・磐余甕栗宮跡)(いわれみかぐりのみや)の丘が見えてきます。その前の田圃はその後に干拓された古代の磐余の池跡地とされています。
 ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を
        今日のみ見てや 雲隠りなむ
 (巻3・四一六)
 万葉集には「大津皇子、死を被(たまは)りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌1首」と題する劇的な挽歌が残されています。大津皇子の辞世の歌です。田畑の向こうに御厨子神社の森が見えます。


万葉の森公園から天香具山へ
 昼食を取る場所はこの”万葉の森公園”ときめていたので、御厨子神社から一直線で食事の場所へ。御握りとお茶だけですが、このよう所では本当に美味しいものです。
 天香具山の山麓の森に囲まれた万葉の森公園には多くの歌碑が整備され、ゆっくりと散策する事が出来ます。ここから20分ほど山登りをすると、天香具山の山頂へ登ることができました。
山田寺跡
 天香具山を降り、道を飛鳥へ取ります。畑のなかの大官大寺跡の石塔横を通り、山田寺跡に着きました。
 山田寺は大化の改新の功労者である右大臣蘇我倉山田石川麻呂が発願し、建設途中の大化5年(649年)蘇我臣日向の讒言により一族が非業の最期をとげた所とされています。石川麻呂の娘で中大兄妃であった遠智娘(おちのいらつめ)が悲嘆のあまり愁死するという二重の悲劇を生みました。持統天皇は大兄と遠智娘との間の娘です。
橿原神宮前駅まで約3キロの道をあるき、今年の歩き納めとしました。Nさんとは来年もこの旅を続けることを約束し、ビールで乾杯!!ホント楽しい散策でした。


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