當麻寺(たいまでら)
中将姫伝説のお寺


 「當麻」の地名の由来は、曲がりくねった難路を古語で「タギ」といい、もともとの地名は「當岐麻(たぎま)と書いた。後に「タギマ」が「タイマ」に転訛し、表記も「當麻」の二文字になったといわれている。・・・・いつ訪れても當麻寺には俗化されていない静謐(せいひつ)な雰囲気が漂っている。東西の三重の塔の背後に聳える二上山を仰ぎながら、境内をのんびり散策するのは、大和路の旅のきわめつけにちがいない。その三重の塔も本堂も白鳳から天平にかけての建造物で、もちろん国宝である。それがまるで野の寺のようにいとも無造作に佇んでいる素朴さは、余所の観光社寺とまったく異なる趣がある。・・・當麻寺は天武天皇9年ー681年に起工し、685年に至って金堂、講堂、千手堂、その他主な建物が完成したと伝えられている。
 ところで、天武天皇が崩御したのは686年、つまり當麻寺ができた翌年のことだ。その直後、皇位継承問題を巡って大津皇子が謀叛の嫌疑をかけられ、24歳の若さで憤死させられた。この章の冒頭に掲げた「うつそみの人に〜」という歌は、大津の姉で、当時伊勢神宮の斎王(いつきのみこ)を務めていた大伯皇女(おおくのひめみこ)が弟の死を悼んで詠ったものである。・・・・歴史書などにもあまり触れられていないようだが、移葬の場所を二上山に定めた理由のどこかには、麓に當麻寺があるという意識が働いたのかもしれない。もっとも、二上山は大和王朝時代以前から信仰の山として、人々の心に根ざしていた。(以上、内田康夫氏「箸墓幻想・當麻寺の春」の一部です。)
 「箸墓幻想」の一部を大きく使わせていただいたのは、當麻寺が「万葉の旅」の歌の紹介には直接かかわっていないのですが、大津皇子の悲劇の歌が万葉歌のなかでも特にドラマティックと思われ、これを紹介させていただきたかったためです。
 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟(いろせ)と我が見む  (箸墓幻想では「うつそみの人にある吾れや明日よりは二上山を弟背と吾が見む」としています。)  箸墓伝承のページへ


當麻寺の由来(お寺の小誌によります。)
 推古天皇20年(612年)に、用明天皇の皇子麻呂子親王が御兄聖徳太子の教えによって、河内国交野郡に萬法院禅林寺を草創されたのを、70年後に親王の孫にあたる當麻国見が、役行者
(えんのぎょうじゃ)錬行の地である現寺地に遷造し、天武天皇9年(681年)に起工し、同13年に至って、金堂、講堂、千手堂(曼荼羅堂)が完成した。
當麻寺の概況
 曼荼羅堂・金堂・講堂・東塔・西塔
などの建物と西南院・護念院・中之坊などの塔頭(たっちゅう)があります。

曼荼羅堂(国宝・天平時代)・・・中に蓮糸大曼荼羅(国宝・天平時代、藤原豊成の娘、中将姫が蓮の茎で織り上げたと伝えられる観無量寿経変相)、
曼荼羅を安置する厨子と須弥壇(国宝・天平ー鎌倉時代)

金堂(重文・鎌倉時代)・・・・・・・中に弥勒仏(国宝塑像・白鳳時代と四天王像が居られます。)

講堂(重文・鎌倉時代)・・・・・・・中に本尊阿弥陀如来(重文・藤原時代、と地蔵菩薩、千手観音、多聞天、妙幢菩薩などが居られます。)

東塔・西塔(国宝・白鳳ー天平時代)・塔頭に囲まれてはいますが、美しい三重の塔です。
西南院(當麻寺 塔頭)のお庭
 
當麻寺がこの地に遷造された時、坤(裏鬼門)の守り寺院として創建されたのが始まりとされています。この庭園は江戸初期に作られたものを、中期ころ改造されたとのことです。
 西塔を借景とし山裾を利用し、樹木を植え込み心字の池を配置した大変美しいお庭です。極力写真で紹介します。

曼荼羅堂
クリックすると内陣が現れます。
當麻寺ホームページからです。
手前が西塔、向こうが東塔です。
クリックすると、池に映る西塔
です。
西南院の水琴窟です。
クリックして下さい。
見事なお庭です。