善峯寺と穴太寺 |
背景は正面に比叡山が望まれる善峯寺からの景観です。 |
![]() 善峯寺山門 |
西山宮門跡 善峯寺 西国二十番札所・洛西一番札所 京都市西京区大原野小塩町 「善峯寺は釈迦岳の東北の支峰(善峰)の尾根と谷に伽藍を展開する。海抜310メートルほどの高さになる。いまは幸いなことに寺の下までバスがあり、また新築の寺宝館の下が大きな駐車場になって、「あるばると」自分の足で登ってくる苦労がなくなったのである。」・・・以上「京都の寺社505を歩く 下 」からの抜粋です。今回も、「西国観音霊場めぐり」のバスツアーにのっての参詣であるだけに、駐車場まではバスでということになっています。続いての抜粋です。「善峯寺は見どころの多い寺で、立地が高所にあって地形も変化に富み、境内からの眺望もすぐれて京都市内の寺とはまるで趣が異なる。しこも、住持らの丹精で四季を彩る花木が多く見られることも訪れる者を喜ばせてくれる。たとえば、桜(4月中)、躑躅(5月初)、紫陽花(6月中〜7月初)、百合(8月)、紅葉(11月初〜末)、南天・椿(12月〜1月)などとなる。」 今回の参詣では、ごく一部の木が赤く色づいていましたが、 紅葉の主体となる木々は青々とした状態で、全山紅葉までは少し時間がかかりそうな気配でした。残念です!!!時期が来ればさぞかし素晴らしい紅葉の景観となることが確信されます。大型バス駐車場から急な坂を登るための赤い橋を渡ります。 この道は「東海自然歩道」の一部でもあるようです。 善峯寺の歴史は平安中期の長元2年(1029)恵心僧都(源信)の高弟源算がこのお山に一宇を構えたことにはじまるとされています。治歴4年(1068)の旱魃のさい源算が祈祷をおこない、その結果、善峯寺の山上から雨が振りだし、京に慈雨をもたらしたことで、「善峯」の勅願を賜ったとの話もあるようです。承久の乱(1221)では後鳥羽上皇の皇子道覚法親王がこのお寺に難をのがれ、以降、法親王が歴代の住持となったため、「西山宮門跡」(にしやまのみやもんぜき)ともよばれるようになりました。 綱吉の生母桂昌院が大原野の出身であったことから、多くの寺領の寄進があり、伽藍の修復、再建がなされ、現在の寺観が整えられたとされています。比叡山を背景とする京都盆地が見下ろすことが出来る高台に位置しています。 1) 桂昌院により元禄5年(1692)に再建された山門(仁王門)。 2) 「遊龍の松」 龍が横に這うようにのびている、樹齢600年の「5葉松」。天然記念物です。元は54メートルあったものが、平成6年松くい虫のため15メートルほど切り取られています。端から端までの3葉です。(T) (U) (V) 3) 「観音堂」(本堂) 元禄5年に再建されました。本尊・十一面千手観世音菩薩は仁弘法師の作。脇立・十一面千手観世音菩薩(ホームページから)は源算上人の作とされています。 4) 「多宝塔」 重要文化財 元和7年(1621)賢弘法師により再建されたとされています。 |
![]() 書院に懸けられていた仁王門の水彩画です。趣があります。 |
菩提山 穴太寺 西国二十一番札所 亀岡市曽我部町穴太東ノ辻 落ち着きのある心が休まるお寺です。お寺から頂戴したパンフレットから穴太寺の縁起を記します。 御本尊 薬師如来と聖観世音菩薩 穴太寺(あなおうじ)は、山号を菩提山と号し、天台宗に属します。古くは「穴穂寺」「穴生寺」「菩提寺」などとも呼ばれていました。創建は、寺伝によると慶雲2年(705)、文武天皇の勅願により大伴古麿によって、薬師如来を御本尊に安置して建立されたと伝えます。その後、平安時代になると、当地曽我部郷の郡司、宇治宮成によって聖観世音菩薩を当寺に奉迎することになりました。これは仏師の身代わりになり、弓矢を受け、その命を救った「身代わり観音」の霊験譚「穴太寺観音縁起」が伝えられています。このお話は「今昔物語」や「扶桑略記」などに語られ、早くから世に当寺がしられるようになりました。・・・御本尊の薬師如来聖観音ともに秘仏で、特に薬師如来は完全な秘仏として御開帳した記録がなく、聖観音は33年毎の御開帳とのことです。 本堂須彌壇の右手の奥に「釈迦如来大涅槃像」(ポスターの写真からです。)が安置されています。肩から下には布団が懸けられていますが、撫でると、お参りする人の悪いところの身代わりとなってくれる有り難い如来さまです。その身はさすられ続けたため、艶々に黒光りしています。ありがたや 諸病悉除の釈迦如来 ねがへ穴太の寺に詣でて |
西国三十三箇所観音霊場の旅 |
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