京田辺ふるさと講座
1500年前、京田辺は日本の首都だった!
継体天皇の遺跡をたずね、(高槻市)今城塚古墳へ



復元された埴輪祭祀場を持つ今城塚古墳
 山辺の道を歩くと、箸墓古墳、 崇神天皇山辺道匂岡上陵(やまのべのまがりのおかのへのみささぎ)、景行天皇山辺道上陵、継体天皇皇后・手白香皇女(たりらがのひめみこ)衾田陵 等多くの古墳に出会います。これらの巨大古墳が主には、お濠に満々と水を湛え、山のような墳丘部は木々が生い茂る古色蒼然たる姿(箸墓古墳)で昔からあるものと錯覚させられています。各種の仏像を鑑賞する時も同じ様に感じているのです。今でも一部にそのあとが残っているように「伎芸天」は、極彩色だったのです。
 12月3日、「京田辺ふるさと講座・1500年前、京田辺は日本の首都だった!・今城塚古墳見学会」に参加させていただき、恥ずかしながら、目を覚まさせられました。高槻市が設立した「今城塚古代歴史館」と「今城塚古墳(いましろづかこふん)」のセットは、幾つもあるテーマ館の中で、出色のものと感心させられました。有り難うございます。ページで整理をしたくなりました。



復元された今城塚古墳の埴輪たち
 12月3日(土) 13時出発予定jとの案内に従って、歩いて5分ほどの、北部住民センター前へは、10分ほど前に着きました。幸いなことに、このような会(2010年10月3日 継体ウォーク 樟葉宮をたずねる)で出会い、話ができるようになり、その後数回の飲み会を続けているKさんと同行出来ることになりました。
 京田辺から高槻へ行くのは、簡単ではありません。途中に淀川が流れているからですが、そればかりではありません。八幡市で、所謂、三川合流(桂川、宇治川、木津川が合流する)があり、その上流を通る場合はもちろんその3つの川を渡る必要があります。途中、八幡市、久御山町、長岡京市、島本町を経由します。また、下流を通る場合は、枚方市から枚方大橋を渡ってゆくことになります。その複雑な経路のため、万年交通渋滞が起こっているのです。バスは上流を通る道を進みます。チョット雨も降り始めましたので、長岡京市、島本町では、当然のように渋滞が始っています。出発から1時間20分ほどで、「今城塚古代歴史館」へ着きました。
 「今城塚古代歴史館」では、解説員の方2名が、我々を各15名程の二班に分け、古墳部と歴史館を別々に案内してくれることとなりました。私は、古墳の実物を見学する組に入ります。そこで、まず強調されたことは、「宮内庁からは天皇陵と治定されてはいないけれども、多くの専門家がこの「今城塚古墳」が継体天皇陵であると認定している。従って、本物の天皇陵に入れることは、稀有の経験ですよ。」ということでした。ウィキペディアの「太田茶臼山古墳」の項では、はっきりとこのことを記載しています。
(東へ1.5キロ程の所に所在する今城塚古墳は、所在地および考古学的に推定される築造年代が文献に記される継体天皇陵としての条件に合致する上、当該期の古墳の中では隔絶した規模を持っており、こちらこそが真の継体天皇陵と考えられている。)
 展望テラスまでのアプローチに何種類かの説明板がありますが、気になったのはこの掲示板です。  埴輪の残骸と思われる土器類とそれを伝える新聞記事の写真です。テラスからまず眼が行くのは、正面の整然と並べられた埴輪の群れです。そしてその後が、古墳の全容となります。 まず、右手は前方部  左手は後援円部です。    遠くの埴輪をアップで。     眼の下の想像される古墳全容の模型。     埴輪祭祀場へ近づきます。 
 埴輪祭祀場へ登ります。そこで、解説員の方から丁寧な説明を聞きます。ここから、前方部、   後円部の方向を撮影します。  そして、多種の埴輪の姿を鑑賞します。 現在の祭祀場に並べられている埴輪は、昔並べられていたのと同じ向きで並べられているということに驚かされます。  家型、鳥、円筒、その他の埴輪、      鳥、馬、兵士などの埴輪、       滑稽な仕種をした踊り手と思われる埴輪、   など全てレプリカではありますが、その技術に感心させられます。 この祭祀場の漫画交じりの説明板もアプローチに立っていました。   北西の方向には藤原鎌足の墓といわれている阿武山古墳の位置を示す塔が見えています。「時間があり,雨模様でなけらば、天皇陵にのぼっていただけたのに」と、解説員の方が大変に残念がってくれました。
 
 歴史館に入ります。入り口を入ると、古代へのタイムトンネルに入るような不思議なデザインの空間に案内されます。展示室内は「今城塚古墳」を中心として、三島地区の古墳群の有様を、土器、銅鏡、鎧などの展示をまじえて、解説しています。
 後日、K氏からのアドバイスで入手した筒城宮遷都1500年記念シンポジウム資料集の「継体天皇と今城塚古墳 高槻市教育委員会 宮崎康雄氏」の中の一部を紹介します。
 
三島古墳群 大阪平野の一角を占める淀川北岸一帯は、「三島」と呼ばれ、はやくから東西交通の要衝でした。丘陵部から平野部にかけては、前期から終末期にいたる500基を越える古墳が展開し、三島古墳群と総称されています。「青龍三年」鏡が出土した安満宮山古墳をはじめ、弁天山古墳群・闘鶏山・郡家車塚・前塚など、三島の王統を誇る諸古墳、さらには継体天皇陵に治定される太田茶臼山古墳、真の継体陵とされる今城塚古墳、中臣鎌足墓とされる阿武山古墳など、古墳時代を通じて連綿と築かれています。   
 この解説に含まれた参考図       古墳群の分布地図、    三島地域の古墳編年図    は展示品の理解に大変参考になります。
 今城塚古墳については、
 1) 今城塚古墳の1/100模型        2) 三島地区の古墳時代期の想像図          3) 古墳造築作業模型       4) 今城塚復元家型埴輪        5) 今城塚復元人物埴輪
 
 今城塚古墳以外の三島古墳群では、
 6) 土保山古墳から出土した鎧        7) 太田茶臼山古墳の紹介と土保山古墳から出土した土器、弓など         8) この地の埴輪生産をしていた新池遺跡       9) 安満宮山古墳と奈佐原丘陵の古墳の紹介       10) 安満宮古墳から出土した「青龍三年」鏡などの神鏡         11)阿武山古墳から出土した冠や玉枕のレプリカ 
 などの展示を鑑賞することが出来、今までよりも更に古代史への興味を深めることが出来ました。更に、ケースに入れられた一点以外の展示は全て写真撮影が許可されている為、ページへの整理も可能となりました。有り難い事です。帰りは、枚方大橋を渡るルートで1時間くらいで帰ることが出来ました。                


埴輪についてウィキペィアでは以下のように記しています。
 埴輪は、3世紀後半から6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳とともに消滅した。基本的に中空である。造り方は粘土で紐を作り、それを積み上げていきながら形を整えた。時には、別に焼いたものを組み合わせたりしている。また、いろいろな埴輪の骨格を先に作っておき、それに粘土を貼り付けるなどした。型を用いて作ったものはない。中心的な埴輪には、表面にベンガラなどの赤色染料を塗布した。畿内では赤以外の色はほとんど用いられなかったが、関東地方では、形象埴輪にいろいろな彩色が施されている。 埴輪は、古墳の憤丘や造り出しなどに立て並べられた。 埴輪は、大きく円筒埴輪と形象埴輪の2種類に区分される。さらに、形象埴輪を大きく分けると家形埴輪、器財埴輪、動物埴輪、人物埴輪の四種がある。


 このページを考えている時、市立図書館で「新・古代史検証 日本国の誕生2 巨大古墳の出現 仁徳期の全盛」という 文英堂の本(監修 上田正昭氏 著者 一瀬和夫氏 鼎談 一瀬和夫・田中俊明・菱田哲郎の各氏)を発見しました。この中で、「三島地区古墳群」にふれているところがあります。まず、近畿地方の5つの巨大古墳を持つ地域の紹介で、大和東南部の古墳群(崇神陵、景行陵など)、佐紀の古墳群(神功皇后陵など)、馬見の古墳群(乙女山古墳など)、古市の古墳群(応神陵)、百舌鳥の古墳群(仁徳陵別名大仙古墳 履中陵古墳別名ミサンザイ古墳など)の性格を記し、その後で、三島・淡輪(たんのわ)古墳群について触れています。参考:畿内に於ける墳丘長165メートル以上の前方後円墳の変遷
 
以上が畿内の5大古墳群である。ほかに二百メートル前後の墳丘が2基ある古墳群が大阪府の北(三島)と南(淡輪)にある。北にある三島古墳群は6世紀の大王墓を含む。5世紀の大阪府茨木市の継体陵古墳の方は、基本的に地域的で配偶者的な系譜の色が濃い。というのは、この古墳が墳丘長225メートルで、大阪府羽曳野市の墓山古墳や藤井寺市の允恭(いんぎょう)陵古墳と計三基について、上田宏範が同じ古墳設計だと指摘した墓山型に入るからである。その関係からすれば、古市、そして二次的に佐紀との関係が成立する。 一方、6世紀の高槻市の今城塚古墳は190メートルの墳丘長であるが、6世紀代でこれ以上に大きいものは欽明陵と目される310メートルの奈良県橿原市の丸山古墳しかなく、立地においても今城塚古墳は継体陵とみて差し支えない。三島古墳群は、短期的・断続的に複数築造された古墳群である。・・・
 これを機会に、今後は訪れる先の古墳の状況も丁寧な追求を心がけようと考えています。ホントに出来るかな???


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