明日香の旅 3 飛鳥とは何か? |
11月1日、壺阪寺・桧隈の地、キトラ古墳・文武天皇陵・高松塚古墳・飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)・岡寺を訪ね、帰りがけに、犬飼万葉記念館を訪ねる事が出来ました。橿原神宮前駅は既に夕闇に包まれていました。でも、今回は妻と娘の三人旅でした。 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り なびかひし 夫(つま)の命(みこと)の たたなずく 柔膚(にきはだ)すらを 剣太刀 身に副へ寝ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 玉垂(たまだれ)の 越智(おち)の大野の 朝露(あさつゆ)に 玉裳(たまも)はひづち 夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故 (巻2・一九四) 河島皇子(川島皇子・天智天皇の第2子、大津皇子の叛意を密告したとされている。享年35歳)を越智野に葬ったとき、人麻呂が泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)に奉った歌と左注にあります。葬送の越智野にでむいて朝露に裳裾を濡らし・・・続けて読んでいくだけで感情移入ができる素晴らしい歌です。 飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや) 板蓋宮皇極天皇が新しく皇居とした宮で、従来の茅(かや)・柿葺(こけらぶき)と違って板で屋根を葺いた珍しいものだったので、この名前が付けられたようです。 皇極4年(645年)6月、しのつく雨の中、蘇我入鹿はここ板蓋宮で暗殺され、大化の改新へと続いていくのです。 |
桧隈(ひのくま)の里 さ桧隈 桧隈川の 瀬を速み 君が手とらば 言寄せみかも(巻・7・一一〇九) 桧隈の野を流れる桧隈川の川瀬が早いので、あなたの手を取って渡ったらみんなに噂されるでしょうか?という相聞歌。 古代の桧隈の地は、後漢霊帝の曾孫(ひまご)という伝承をもつ東漢(やまとあや)の祖阿知使主(あちのおみ)が、応神天皇(15代)のとき、渡来し、定住した所と伝えれれています。力の弱い政権と蘇我氏はこの東漢の力を借りる為、飛鳥に宮古を移したようです. 梅原猛氏は”飛鳥とは何か”の中で次のように締めくくっています。 『飛鳥は日本の故郷であるといわれる。しかし、それはけっして、永久の昔から日本の故郷であったわけではない。これは、むしろ6世紀末から7世紀末にかけて、にほんが、大いなる変革をものを求めた時代の政治的な拠点なのである。そして、その拠点は、政治革新を進めようとすれば、そこから逃げねばならぬという大きな矛盾を含んでいた。そして、その矛盾によって、5回にわたって都は飛鳥に入り、そして飛鳥を出た。そして5回の遷都の後に、日本の政治は大きく変貌したのである。』 |
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飛鳥板蓋宮跡。後ろは甘樫丘です。 クリックすると取り入れの終った田圃を 背景にした橘寺の遠望です。 |
飛鳥の夕暮れです。クリックするともう 1枚の写真をお届けします。 |