岩船寺と浄瑠璃寺 |
山辺の道への”万葉の旅”は、ご一緒する人との楽しみに残す事とし、今日(6月8日)は、予てから南山城の旅の最後を飾ろうと思っていた岩船寺と浄瑠璃寺への散策とすることにしました。 岩船寺は花の寺として”あじさい”が有名です。もしかして最盛期か?と期待したのですが、10日ほど早くまだほとんどが蕾の状態でした。残念!! JR加茂駅から登り道を歩き丁度1時間、ようやく岩船寺へたどり着きました。その境内に入ると、その佇まいに身も心もやすらぎを感じました。ありがたいものです。お寺を出た所で、1袋100円の漬物を6種類も買いました。(帰ってから家で食べましたが、本当に美味しいですね。) 池のスイレンの花を望遠で写真におさめ、、取り込んだ所、葉の上にかえるが写っていました。 加茂の田園風景。田植えすんだ水田となだらかな山。清々しい風景です。 下は野仏のひとつ”わらいぼとけ”です。 |
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岩船寺(真言律宗・高雄山)(小誌によります) 創立は天平元年(729年)、聖武天皇が出雲の国不老山大社に行幸の時、霊夢によって、この地に阿弥陀堂の建立を発願、大和国善根寺に籠居(ろうきょ)しておられた行基菩薩に命じて建てられたのに始まる。その後、弘法大師と智泉大徳が阿弥陀堂において伝法灌頂を執せられた為、灌頂堂をなる。 大同元年(806年)智泉大徳、新たに報恩院を建立される。更に嵯峨天皇が智泉大徳に勅命して皇孫の誕生を祈願され、皇子が誕生された。後の仁明天皇である。皇后ご叡信が特に深く、皇孫誕生の事もあって弘仁4年(813年)に堂塔伽藍が整備され、寺号、岩船寺となる。 三重塔は天長2年(825年)智泉大徳入滅の後、十年を過ぎて承和年間(834〜847年)に、仁明天皇が智泉大徳の威徳を偲んで宝塔を建立されたものであると伝えられる。現在の塔は鎌倉時代に再建されたもので、重要文化財です。 本尊阿弥陀如来坐像は平安時代、天慶9年(946年)ケヤキの一木造、高さ:283.5センチの重要文化財です。 普賢菩薩騎象像は平安時代の重要文化財で、象の上に乗る菩薩様はインド的な雰囲気の強い仏さまです。 |
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浄瑠璃寺(真言律宗・小田原山)(小誌によります) この寺は東の薬師仏をまつる三重塔、中央宝池、西の九体阿弥陀堂からなりたっています。 寺名は創建時の御本尊、薬師仏の浄土である浄瑠璃世界からつけられたものです。 薬師仏は東方浄土の教主で、現実の苦悩和救い、目標の西方浄土へ送り出す遺送仏です。 阿弥陀仏は西方未来の理想郷である楽土へ迎えてくれる来迎仏です。 薬師に遺送されて出発し、この現世へ出て正しい生き方を教えてくれた釈迦仏の教えに従い、煩悩の河を越えて彼岸にある未来をめざし精進する。 そうすれば、やがて阿弥陀仏に迎えられて西方浄土に至ることが出来るのです。 この寺ではまず東の薬師仏に苦悩の救済を願い、その前でふり返って池越しに彼岸の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝の形のようです。 九体阿弥陀如来像(国宝)(藤原時代):”観無量寿経”にある九品往生(くぽんおうじょう)、人間の努力や心がけなど、いろいろな条件で下品下生(げぽんげしょう)からはじまり、下の中、下の上と最高の上品上生(じょうぽんじょうしょう)まで9つの往生の段階があるという考えから、9つの如来をまつりました。中尊は丈6像で来迎印(下生印)、他の8体は半丈8像で定印(上生印)をむすんでいます。 この日は三重塔の扉を開けてくれていて、中の薬師如来像を拝む事が出来ました。 薬師如来像(重文)(藤原時代):東の本尊。三重塔内に安置されているこの像は9体阿弥陀仏より60年前に造顕されたこの寺のはじめのご本尊。遠い昔から積み重ねられてきたいろいろ力を我々に持たせてこの現実は送り出し、さらに現実にある四苦八苦を乗り越える力を薬として与えてくれる仏さまです。太陽の昇る東にいて遣送(けんそう)の如来ともいわれています。 子安地蔵菩薩像(重文)(藤原時代):現在、中尊の横に立つ子安地蔵と呼ばれる腹巻をまいた地蔵さま。片手にに如意宝珠を持ち、一方は与願の印を示す。木造で胡粉地に彩色された美しい和様像です。 写真はまず東の三重塔を拝みます。ポイントすると九体阿弥陀堂を拝めます。 下は九体阿弥陀如来像です。 |
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