本願寺 西本願寺・東本願寺はどの様に誕生したのでしょうか? |
東本願寺南側塀沿いの池は見事な蓮が!! |
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本願寺の誕生には、親鸞と蓮如の存在が無ければ語れないようです。「京都発見・9・比叡山と本願寺 蓮如と堅田の本福寺」の書き出しの部分です。 実存哲学の開祖というべきゼーレン・キルケゴールは、イエス・キリストは生涯に13人の弟子しかつくらなかったが、パウロは1日で百人の信者をつくったと言っている。憂愁の人であるキルケゴールは、孤独に伝道をし、孤独に死んだイエス・キリストは高く評価しても、このイエスの教えに基づいてキリスト教を大発展させたパウロは認めることができなかったのであろう。 キリスト教におけるイエスとパウロとの関係が、浄土真宗における親鸞と蓮如との関係に当てはまるかもしれない。親鸞は一生かけて百人ほどの弟子しかつくらなかったが、蓮如は数万人あるいは数十万人の門徒といわれる信者をつくった。ひととき日本の真宗教団においてもキルケゴールのような価値観に従って、親鸞を高く評価しながら、蓮如をあまり評価しない風潮があったが、それは決して正当な評価ではなく、やはり親鸞と蓮如を浄土真宗という大教団を支える二本柱と考えねばならないのであろう。親鸞がいなかったら、浄土真宗は存在しないが、蓮如がいなかったら、浄土真宗は現在のような大教団に成長することはできなかったであろう。 蓮如を語ろうとするとき、親鸞と蓮如をつなぐ人として覚如について触れなければなるまい。・・・覚如(1270〜1351)本願寺の創建者。覚恵の子。園城寺や興福寺で学び、親鸞の孫如信に真宗の教えを受けた。親鸞の大谷廟堂の所有管理をめぐって、父覚恵の異父弟唯善と係争となったが、父没後の1309年青蓮院で門弟とともに唯善と対決し、青蓮院門跡の裁決で唯善を退け、翌年大谷廟堂の留守職となり、これに本願寺の寺号を付して寺院を襲撃され創建し、本願寺を中心とする真宗教団の発展を方向づけた。 ・・・ ・・・覚恵に次いで留守職となった覚如は単なる留守職に満足せず、ここに親鸞の門弟達を糾合する寺を建てようとした。当然、門弟達の反対にあったが、覚如は『口伝鈔』や『改邪鈔』などの書物を著し、浄土真宗は親鸞の血、つまり覚如の血をひく子孫が代々住職をつとめる本願寺とすべきであることを論証した。しかし、覚如の次の善如、そして次の綽如(しゃくにょ)の留守職時代には本願寺はさびれていた。本願寺が活力を取り戻すのは、巧如(ぎょうにょ)の子であり、蓮如の父に当たる存如(ぞんにょ)(1396〜1457)の時代であった。存如は布教に熱心で、親鸞像を安置す御影堂と並んで、阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂の造営を成し遂げ、蓮如による本願寺を中心とする浄土真宗の大躍進の基礎をつくった。・・・ 連如(1415〜1499)は本願寺の留守職になるや、日本各地に出掛け布教するとともに、浄土真宗の独特な教学の確立を図った。布教に当たっては上下の区別を廃止し、親鸞が説いた「信心の人はみな兄弟」という同朋同行の精神に従った。そして蓮如は天台宗を受け入れた善如や綽如の時代の信仰を否定し、浄土真宗の教義にそぐわない仏像を焼いた。また彼は「木像よりは絵像、絵像よりは名号」として「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじつぽうむげこうにょらい)」という十字名号を本尊とすべきであることを主張した。 このような蓮如の努力によって、信者が多くなったが、そのことが比叡山延暦寺の僧徒の反発を買い、本願寺は破却されるという事件が起こった。この時、蓮如が頼ったのは、近江の金森の道西や堅田の法住であった。浮身堂のある堅田は、琵琶湖の湖上交通の要衝であり、堅田衆は関銭と通行船の上乗りの権利を持っていて、経済的にも政治的にも有力であった。・・・・そして2年半の抗争の後に、親鸞の影像が本福寺に移され祀られたのである。・・・ 蓮如は応仁2年(1468)堅田大責(おおぜめ)の折、親鸞の影像とともに大津に移り、文明3(1471)年住まいを吉崎に移しました。以下「蓮如と山科本願寺跡」の記述です。 蓮如の吉崎滞在は4年に及んだが、そこで彼はまた1つの有力な布教の手段を創出したのである。それは『御文章』といわれるもので、旅で過ごすことの多い蓮如が各地の信徒にあてて教義を記した手紙である。(御文章・蓮如が記した消息。西本願寺では『御文章』、東本願寺では『御文』とよんでいる。)・・・ 吉崎を去った蓮如は若狭の小浜に着き、その後は丹波、摂津、河内、大和、紀伊などを転々として布教し多くの信者をつくった。・・・文明9(1477)年の秋、近江金森の道西は出口御坊にいた蓮如を訪ね、「京都の東、山科によい場所があるので、ここに伽藍を営み本寺としてはいかがですか」と勧めた。蓮如は翌10年、山科を訪ね、その土地が気に入って寺を建立することを決断した。こうして文明10年蓮如64歳のときに山科に移り住み、翌々年に御影堂が完成し、三井寺山内の近松御坊に安置されていた親鸞の御影を迎えた。そして、文明13年には阿弥陀堂の建設にかかり、翌々年には屋根瓦をふき終えて、ここに山科本願寺の伽藍は完成した。・・・・ ・・・天文元(1531)年、晴元は南近江の守護六角定頼、京都の日蓮宗徒とともに山科本願寺を攻め、本願寺の堂塔伽藍、家々をすべて焼き払った。このことによって浄土真宗の本拠地は、かねて蓮如が建設していた大阪石山の本願寺に移された。蓮如が山科に本願寺を築いて約50年ごである。・・・ |
石山本願寺以降については「西本願寺と京都移転」で以下のように記述されています。 西本願寺の歴史を考えるとき、二つの大きな飛躍の時があったと思う。一つはもちろん顕如の時である。顕如は親鸞の墓所である大谷廟堂に始まる本願寺の組織を飛躍的に拡大した。比喩的に言えば、それはまさに一つの中小企業に過ぎなかった本願寺を、日本有数の大企業に発展させたといわねばならない。しかし、本願寺は、室町時代から戦国時代を経て安土桃山時代に至るまでは、かなり巨大な軍事力を擁する教団であった。戦国の世には、そのような軍事力が教団を支えたのは致し方ないことであろう。 このような軍事力を持った真宗教団の時代は顕如の時代で終わる。顕如(1543〜1592)の時代、本願寺は正親町天皇によって門跡となったが、大阪石山の本願寺によった顕如は織田信長との戦いに苦労しなければならなかった。顕如は浅井氏や朝倉氏、武田氏、毛利氏などの援助を得て石山本願寺を守り抜き、正親町天皇の仲介で信長と和解し、雑賀衆などの助けで紀伊の鷺森(さぎのもり)に移った。しかし、顕如の長男教如は信長と妥協したこの退去案に反対して、あくまでも抗戦を主張した。本能寺の変で信長が死んだ後に、新しく権力者になった豊臣秀吉は本能寺に対して好意的な態度をとった。秀吉は大阪天満の地に寺地を与えてそこに本願寺を建てさせたが、さらに天正9(1591)年、京都の六条堀川に土地を与え、本願寺を移転させた。 ・・・・この准如およびその子良如、さらに次の寂如の時に西本願寺は大きく変貌したといわねばならない。それはまったく武力を捨てた新しい宗教的権威としての西本願寺の出現である。それは武力を持って日本を支配しようとする幕府とも、古い権威でもってあがめられる朝廷とも違った、一つの揺るぎない宗教的権威を持ち、多くの民衆に支持される本願寺王国の建立といってよいかもしれない。・・・ 西本願寺の白書院、黒書院、対面所、飛雲閣の建物は、まさに江戸城、二条城、あるいは御所に比すべき優美さと豪華さを所有している。私はそこに宗教と文化の統一を象徴的に表現する見事な建物を見る思いであった。・・ |
東本願寺の建立については、「東本願寺と東西の分立」で、以下のように記述しています。 ・・・もともと本願寺が二つに分かれてのは、織田信長の石山本願寺攻めとその和睦に対して、父顕如と長男教如の間に意見の違いがあったからであろう。・・・顕如は石山本願寺を出て、紀州の鷺森に移り、やがて豊臣秀吉から天満の地が与えられ、そして天正19(1591)年に六条堀川に東西三百六十間、南北三百八十間の土地の寄進を受け本願寺を建立した。しかし、翌文禄元年、顕如は死に、長男の教如が門主の地位に就いた。 その後、秀吉の命により?門主の地位を准如に譲っていたが。関が原の戦が終わった翌々年の慶長7(1602)年に、家康は京都烏丸七条に東西四町、南北四町の土地を教如に与えた。(東西四町、南北四町とは烏丸六条から七条の間南北二百四十間、東西二百四十間、つまり約67600坪)ちなみに秀吉が顕如に与えた本願寺の寺地は東西六町、南北四町余であり、その六割程度の寺地が教如に与えられたことのなる。その規模を見ても、東本願寺は最初、教如の隠居寺として造られ、その跡を継いだ宣如の時代に独立したと考えるべきであろう。そして、三代将軍家光が前に教如に寄進した寺地に匹敵する東西百九十四間、南北二百九十七間の土地を東本願寺のさらに東側に与えた。これによって東本願寺は、西本願寺以上の寺域を持った大寺たなったのである。この歴史を考えるとき、西本願寺はやはり豊臣氏、東本願寺は徳川氏という権力者の意向によって造られたといわなけらばならない。・・・・ 先日頂戴した、東本願寺「渉成園」パンフレットに以下のような記述があります。 秀吉を祀る豊国社、秀吉建立の方広寺大佛及び西本願寺は、正面通と呼ばれる東西の道路で直結され、西本願寺が秀吉恩顧の寺院として存在すつことを都市計画上からも示しているといわれています。ここで一つの興味深い説があります。後に徳川家康が天下を掌握した際、豊臣家の保護を受けた西本願寺と、豊臣家の聖地である豊国社と方広寺大佛を結ぶライン、すなわち正面通を断ち切るという意図で、現在に地に建立させたというのです。その意味からいえば、三代将軍・家光による成渉園の地の寄進は、正面通をさらに切断し、西本願寺と豊臣家との関係を念入りに分断しようとした意図があったとの解釈もできます。・・・ |
8月6日、西本願寺を御参りしたおり、阿弥陀堂の説明書を読ませていただきました。そこには、親鸞聖人の崇めた方々として、聖徳太子、龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、法然の御影(おすがた)を御本尊の両側にお掛けしてあるとの説明があります。浄土真宗の京都の本山である”仏光寺””興正寺””西本願寺””東本願寺”はすべて親鸞上人を宗祖として出発しています。現在ではその外面のみの探索となっています。これからのより深い探索が必要になります。 西本願寺:正式名称・龍谷山本願寺 宗派・浄土真宗本願寺派 本尊・阿弥陀如来 別称・お西さん 東本願寺:正式名称・真宗本廟 宗派・真宗大谷派 本尊・阿弥陀如来 別称・お東さん 東本願寺御影堂です。 西本願寺写真集は追加予定です。 |
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