4月5日 さくら真っ盛りの哲学の道を歩き
法然院・金戒光明寺を訪ねました。


 2008年4月5日 銀閣寺道周辺を調査する所要があり、京阪出町柳駅からの散策を開始しました。先日歩いた百万遍交差点、智恩寺前を通り、銀閣寺下疎水までやってくるとさすが桜シーズン真っ盛りで、大変なヒトヒトヒトです。この日の目的のひとつは智恩寺に続く浄土宗の本山の1つ”金戒光明寺”の発見です。
 哲学の道の桜のトンネルを歩きながら、2005年11月もみじのシーズンに訪れた”法然院”を訪ねてみることとしました。これが大正解となりました。法然院内には桜は見受ける事が出来ませんでしたが、この日は「春季 伽藍内特別公開」の日にあったていたのです。(因みに4月1日〜7日でした。)哲学の道の人ごみに比べ少ないとはいえ、沢山人々が参拝に訪れています。もちろん小生も伽藍内の拝観をさせていただきました。

 前回訪れた折に本堂前に置かれていた法然院のチラシでは管長の梶田真章氏が浄土教の教えを明快に語っていました。この文は”万葉の旅 作者近況欄”にも全文を掲載させていただきました。その後、梶田管長がさまさまな宗教活動とともに文化活動をされていることを知ることが出来ました。。
 本堂の阿弥陀様と須弥壇の二十五菩薩を象徴する生花の散華を拝み、中庭の三銘椿[花笠椿・貴椿(あてつばき)・五色散り椿]を拝見し更に梶田管長の講和を拝聴することが出来たのです。心を残しながら玄関を後にする折に法然院サンガのチラシ、管長のお話などの新聞コピーを頂戴することが出来ました。小冊子によれば、当院は1953年(昭和28年)浄土宗から独立し、単立宗教法人となり現在に至っている。とのことです。
 法然院貫主・梶田真章氏が1997年5月13日に京都新聞夕刊に載せた”善人悪人”と題する文が紹介されていました。他力本願の信心を簡潔に書いています。以下に紹介しますので、良かったら読んでください。
 
「われらが往生は、ゆめゆめ、わが身のよしあしきにはより候まじ。ひとえに佛の御ちからばかりにて候べきなり。〔私たちが極楽に生まれるかどうかは、全く自分自身の善悪とは関係がない。ただ阿弥陀佛のお力だけにかかっているのである〕」
 これは、法然上人が他力による極楽往生のあり方を端的に示された言葉です。
 善行を積めば善い結果が得られ、悪いことをすれば悪い結果を得るというのが道徳の立場です。佛教を含めて多くの宗教も通常は道徳を説いています。自身の罪の軽重に関係なく、生きとし生けるものを成佛させるという阿弥陀佛の願いを信じて念佛さえ唱えれば、阿弥陀佛が極楽に迎えて下さるという法然上人の教えは道徳を超えたものです。佛の慈悲による救済とは道徳的立場を超えたものであること、宗教と道徳とは違うものであることを宗教史上初めて明確に宣言されたのが法然上人でした。
 自分の中に善と悪を使い分ける力があると考え自己に自信を持つ方は、道徳的立場に強い信頼を置かれます。西国三十三ヶ所観音霊場めぐりが盛んですが、お寺巡りをすれば、しない人よりも観音菩薩が救ってくださると考えて参詣される方は、自力でお寺まいりという善行を積んで佛に近づこうとされる方です。しかし肝腎なのは、寺まいりという行よりも観音菩薩に対する信心ではないでしょうか。
 私は、自分の力だけで善悪を使い分けられたり、他人の善悪について正確な判断ができるとは思っておりません。私たちは自分の意志で思うがままに生きているようでいて、時には無意識の自己が顔を出して全く思ってもみない心が表れ、自分でも不可解な予期せぬ行動をとってしまう誠に危うい生きものだと思いますし、心の状態によって相手の真心や誠実さをそのまま受け止められないというのもよくあることだと思います。
 私たちはよく、あの人は善人だ、悪人だと極め付けます。しかし考えてみると人は生まれてから死ぬまでずっと善人であったり悪人であったりする訳ではありません。
 夏目漱石は『こころ』という小説の中で先生に次のように言わせています。
 「然し悪い人間と言う一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中に在る筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくとも、みんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。」
 阿弥陀佛の本願は、もともと自分の力で往生や成佛ができない人のために発せられたものです。自分に自信のある人、自力で修行を積んで佛を目指そうとされている方が阿弥陀佛の本願のことを聞かされても、にわかに信じる事が出来ないのはあたりまえのことです。他力本願の信心は、自分自身のあり方を深く見つめ、善悪を使い分ける自己の力に絶望したときに初めて得られるものなのです。      合掌

法然院写真紹介です。
 1) 山門を入ります。
 2) 白砂壇(びゃくさだん) 山門をはいるとすぐ眼に入り、その間を通り境内に入ります。 「水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。」(法然院・小冊子)
 3) 方丈庭園 「中央に阿弥陀三尊を象徴する三尊石が配置された浄土庭園である。中興以来、清泉(善気水)が絶えることなく湧き出している。」(法然院・小冊子)  
 4) 三銘椿の中庭  
 5) 散華その1  
 6) 散華その2 
 7) 2005年11月27日 紅葉の山門です。


 法然院から道を南にとり”安楽寺”を過ぎ”霊鑑寺”前を西に進み白川通りを少し南下、岡崎通りを西に進むと、岡崎神社です。神社の境内にもしだれ桜が満開で、望外の素晴らしさです。”金戒光明寺”は神社の左側の小さな道を上がったところからも入ることが出来ました。
 
 金戒光明寺
 巨大なお寺さんです。まず、その威容にびっくり!!
 梅原猛氏「法然」の「法然の弟子たち」の一文です。
 
・・・信空は、戒においてはまさしく法然の正統な後継者であったが、世に処する態度が甚だ常識的であり、本来心の底からの隠遁者であった師・法然とは世に対する態度が異なっていたと言わねばならない。そして性格としても、門徒・弟子たちを糾合してその先頭に立って南都北嶺の仏教と戦えるようね人物ではなかった。この信空は師・叡空の黒谷青龍寺の里房である白川の房を師から譲られたらしく、そこに信空の弟子が代々住職をして、後にその寺を金戒光明寺と名付けた。本寺にある叡山・黒谷青龍寺に因んで、この里房も黒谷とよばれるのである。・・・
 槇野修氏の「京都の寺社505を歩く」では
 
「黒谷(くろだに)さん」と京都の人に親しくよばれている金戒光明寺は、白川通りの西、丸太町通りの北に位置する大きな丘陵地の南面も大伽藍を構えている。  紫雲山と号する金戒光明寺は、知恩院(東山)、智恩寺(百万遍)清浄華院(しょうじょうけいん)(御所の東)とともに浄土宗4ヶ本山のひとつである。 「黒谷」というのは、法然の比叡山における修行の地が黒谷であり、山を下りて小さな庵を開いた当地を「新黒谷」と称し、やがて「新」がとれて、黒谷と通称されたことによる。 源空(法然)が師の叡空から譲られたこの地に、その小庵を開いたのは承安5年(1175)とされ、その後、念仏道場として隆盛して、5世の恵凱が諸堂をととのえて紫雲山光明寺と名づけた。「金戒」と冠すされたのは、8世運空が後光厳天皇に円頓戒(えんどんかい)(天台宗の大僧となるための大乗菩薩戒)を授けたことにより、「金戒」の2文字を賜ったいう。・・・
 山門をくぐり、さらに階段を登ると、正面は巨大な御影堂(大殿)であり、向かって右に”鎧かけの松”(熊谷蓮正房が着ていた鎧をこの松に掛けたとされる松)があり、さらにその右には阿弥陀堂があります。多くの塔頭を含めた寺域は大変大きなものとの感を深くしました。
 下の御影堂写真をクリックしてください。さくらの阿弥陀堂です。


 金戒光明寺の西門を出て、北へ道をとるとすぐに真如堂があります。”もみじの真如堂”としてその季節は大変なヒトヒトヒトとなります。前回の訪問ももちろんその時期でした。今回は図らずもさくらの季節となりました。
 
真如堂こと真性極楽寺は正暦3年(992)比叡山の戒算上人が一条天皇の母、東三条院藤原詮子(せんし)の女院離宮(元真如堂の地)に一宇を建て、延暦寺にあった阿弥陀如来を安置したことによる。その堂宇を建てた地は「仏法有縁真正極楽」のありがたい霊地であるとして寺名になったという。(「京都の寺社505を歩く」から)
 
 真如堂はさくらもすごい!! さくらその1  さくらその2(しだれと塔)  
 真如堂のもみじ 2005年11月27日です。


 帰りは今一度銀閣寺下までもどり、目的であるものを探して京阪出町柳駅まで戻る途中の百万遍交差点でそのものを発見。万々歳で、超満員の京阪特急に乗車くずは駅まで戻りました。


作者近況です。
万葉の旅ホームです。