御所そして宇治
平等院鳳凰堂へ


 4月13日、14日は、高校時代に同じクラブで学んだ友人達など8名(松本は2名、東京は2名、関西は2名と関西在住であった故人の奥方2名)の京都での集まりでした。目玉は、予約の取りにくいお店で有名な”草喰なかひがし”で天然素材での美味しい懐石のお料理とお酒です。残念なことは、昨年11月に突然に亡くなってしまった仲間の不参加。また、半年前”なかひがし”を苦労して予約してくれた仲間がけがで不参加となってしまったことです。
 夕方6時から珍しい素材でのお料理が次々と提供され、その豊富さ美味しさに驚きあきれながら、お酒と会話が弾み、気がつけば時間は9時半となっていました。見事なお料理とこれぞ京都と言える雰囲気を提供してくれた、”なかひがし”のご主人、女将さん、またお店の方々に感謝、感謝です!!



 通常は入場予約の必要な”京都御所”ですが13日はその必要のない一般公開の最終日となっていました。入場門の閉門時間が3時となっている為、宿泊する御所横のホテルに2時に集合し、ゆっくりと御所内を見学しました。
 御車寄、紫宸殿、清涼殿、小御所、御池庭、御学問所、御常御殿などを見学。所どころに在る、王朝時代御殿内での衣装、遊びの人形展示などを楽しむことが出来ました。
 以下は御所小冊子の説明です。
 
794年(延暦13年)桓武天皇が遷都された平安京の大内裏に中ほどに天皇のお住まいである内裏(皇居)があった。内裏が火災に遭った際など、天皇は貴族の邸宅を仮皇居とされた。これは里内裏と呼ばれるが、平安時代の終わり頃になると、再三の火災や相次ぐ戦乱のため元の内裏は使用されなくなり、里内裏が日常の皇居とされるよになった。
 現在の京都御所は、土御門東洞院殿といわれた里内裏の一つである。光厳天皇が1331年(元弘元年)ここに即位されて以後、明治初めまでの永きにわたり皇居とされた。その間には火災による焼失と再建が繰り返され、現在の建物はほとんど、1855年(安政2年)に再建されたものである。
 京都御所では、紫宸殿、清涼殿等の平安時代の寝殿造りから、御学問所、御常御殿等の室町時代の書院造りへと移り変わる建物の様式の変遷をつぶさに見ることができるほか、源氏物語などの王朝文学の世界を偲ぶことができる。
 築地塀fで囲まれた京都御所の面積は約11万uである。
 1) 承明門(じょうめいもん)から紫宸殿(ししんでん)を
 2) 王朝時代の遊びと  3)その説明です。
 3) 御池庭


 宇治へ
 14日は朝から宇治へ向かいました。心配されていた前夜の雨があがり、ゆっくりと宇治を楽しむことができました。
 京阪宇治駅を出て、宇治橋の東詰のお店間を歩くとすぐに、橋寺でした。門を入り、短い石段をあがるとお寺らしくない建物と「宇治橋断碑」の説明書きがありました。「京都の寺社505を歩く」では下記のように記されています。

 橋寺は放生院ともまた橋寺放生院とも通称されるが、正式には雨宝山放生院常光寺といい、真言律宗に属する寺である。その名のとおり、宇治橋の守り寺としてしられる。 聖徳太子が発願して秦河勝が推古天皇12年(604)に創建したとか、僧道登が大化2年(646)に宇治橋を架け、あわせて寺を開創したとか伝えられるが、詳らかではない。

 道を宇治川の川上に少しいくと”さわらびの道”に入ります。
 この道は宇治神社、宇治上神社へ続いています。

 以下はは梅原猛氏の「京都発見」に基づいています。
「宇治は今では京都の郊外のようね感を呈し、京都見物にきた観光客がたまたま訪れるという有様であるが、京都がまだ町として発展しない前から重要な場所であった。ここに5世紀前半頃、応神天皇の皇子・菟道稚朗子(うじのわきいらつこ)の宮があった。応神天皇は大和から近江へ行幸の途で、宇治・木幡の里に住していた古代豪族和珥臣の祖・日触使主(ひふれのおみ)の娘・宮主宅媛(みやぬしやかひめ)を見初めて、二人の間には稚朗子が誕生したという。(古事記)・・・・宇治 井上頼寿「京都民族史」では「ワキイラツコが、この地は来られたところ、茨が繁茂し、道がわからなくなった。そこへ一匹の兎が現れて、道案内をしたので、兎の道→菟道といった。」という。

 川の激しい水の流れをおのれの心に写して歌った人麻呂の歌2首

宇治川の 水泡(みなわ)逆巻き行く水の 事返らずそ思ひ始めして(巻11・2430)

もののふの 八十氏河の網代木に いさよふ波の行く方知らずも(巻3・264)

宇治神社

現在の主祭神は菟道稚朗子で応神天皇からの王位継承の折、兄大山守皇子を宇治川の急流を利用して倒し(古事記)、長兄であるオオサザキ皇子(仁徳天皇)に己が自殺することにより、王位を譲ったとされています。(日本書紀)しかし、どうしてこのように厚く祀られる必要があるのか。強い武人でありながら母の出自・和珥氏を考え皇位継承をあきらめた彼は聖徳太子の御子山背大兄王を思わせます。そのような霊こそ深く鎮魂されるべきものであったようです。

宇治上神社

1995年、京都の文化財(17の寺社とお城)が「世界遺産」に登録されました。その中に比叡山延暦寺とともに宇治上神社と平等院が含まれます。

宇治上神社と宇治神社はもともと離宮明神の上社と下社と呼ばれ1体であったはずなのに、国宝であった宇治上神社の拝殿と本殿のゆえに宇治上神社のみが世界遺産とされたようです。その拝殿と本殿は関白頼道によって平等院建造のおり鎮守社として建造され、そのままの姿をいまも残しているとされています。

「離宮明神」の明神はもともと怨霊で、江戸期の地誌では、菟道稚朗子を若宮としています。若宮というのは多く、新たな怨霊を鎮魂する神社であるようです。離宮明神にはさらに桓武天皇を皇位に就かせた影の権力者・藤原「式家」の百川の4代の孫である藤原忠文の怨霊を祀っているともいわれています。
 
発電所から排出される水泡逆巻く水流は人麻呂の歌そのままです。


 平等院鳳凰堂
 
・・・平等院は源融(みなもとのとおる)の別荘・宇治院を六条左大臣源重信の未亡人から藤原道長が譲り受けたのを、道長の子・頼道が寺にしたものであった。頼道が寺にしたのは永承7年(1052)であり、まず法華三昧を修する所として建てられた訳であるが、翌年、今もここに現存する、近世に入ってからは鳳凰堂と呼ばれる阿弥陀堂が建てられ、そこに定朝の丈六の阿弥陀如来像が運び込まれたのを見ると、最初からこの平等院という寺は、阿弥陀如来の坐す阿弥陀堂即ち鳳凰堂をその建物の中心としていたことは間違いない。・・・
 ・・・浄土教は源信、さらに法然において純粋化され、一仏への信仰がだんだん強くなってくるが、頼道は父・道長より遥かに強い阿弥陀仏への信仰をここに表現したともいえよう。頼道はこの地に鳳凰堂というこの上なき優美な建物を建て、その堂を池で囲み、流れの強い宇治川を前面にしてこの世のもとのは思えない美しい極楽世界を創り出した。・・・
 ・・・道長は恵心僧都源信(942〜10179と同時代の人で、源信の浄土教の影響を受け、経典に描かれるような華麗な極楽世界をこの世に創り出しなのである。この仏像の製作を指導したのは最初は庚尚(こうじょう)で、後に弟子でもあり、子でもある定朝に引き継がれた。
 この鳳凰堂には頼道独自の思想がみられる。それはこの寝殿造りの御殿を鳥の形にしたことである。それは南北翼廊を左右の翼に準(なぞら)え、中堂の阿弥陀堂を正に鳥の顔に見立てているのである。・・・(以上は『京都発見』より抜粋です。)
 本当に久しぶりの平等院への入場です。何年間か鳳凰堂、阿弥陀如来像が修復をされており、昨年の夏に修復が完了し、現在の一般公開となっているようです。幸いなことです。
 このどっしり安定感のある大きな仏様を拝むと、頼道の時代だけではなく、今日のわれわれをも極楽浄土へ楽々と運んでくれそうな信頼感が与えられます。


 平等院鳳凰堂の写真5景
 1)阿字池越し1   2)阿字池越し2   3)阿字池越し3   
 4)鳳凰堂正面の丸くえぐった格子越しの阿弥陀様    5)鳳凰堂から対岸を


 昼食は黄檗山 万福寺の普茶料理のお弁当とお酒を存分にいただき、さらに十分な会話を弾ませ、JR京都線で京都駅まで。次回の松本での再会を約束し、3時過ぎには駅にて解散としました。
 独特の卍くずしの文様で欄干が造られている法堂(はつとう) と 普茶料理のお弁当
作者近況の欄です9