中世ヨーロッパの歴史・イスラム世界 ローマ亡き後の地中海世界 塩野七生さんの一文 中世とは古代と近世に挟まれた時代を示す呼び名だが、 その名が皮肉にも聞こえるほど長く、前期と後期を合せれば 千年にも及ぶ、この長さに加えて、この時代の研究が専門の 学者たちが気の毒に思えるほどに混迷を極めた時代であった。 群雄割拠と言えば英雄たちが互いにしのぎをけずっていたように 思ってしまうが、実際は「玉」は少ない中で「石」ばかりが、互いにぶつかり 合っていた時代に過ぎない。この中世を系統立てて書くのは神業でも 不可能という思いにさせられる。 読む方がなかなか頭に入らないのは当然です。 形を変えながらながら歴史は繰り返していることは痛感します。 |
イスラム史略年表 1 224年 ササン朝ペルシャ興る。アルダシール、パルティアを滅ぼす。 226年 アルダシール、クテシフォンを都とし、シャーハーンシャー(大王)と称す。 241年 シャープール一世の即位(〜272)。 242年 マーニーの布教はじまる。 260年 シャープール一世、ローマ軍を破り、ワァレリアヌス帝をエデェサでとらえる。 268年 パルミラの女王ゼノビアの全盛時代(〜271)。 272年 ローマ軍、パルミラを滅ぼす(〜273)。 330年 ローマ皇帝コンスタンティヌス、新都を定める(コンスタンティノープル)。 468年 西ゴート族、イスパニアを征服(〜477)。 531年 ホスロー一世の即位(〜579)。マズダクを処刑。 540年 ホスロー、アンティオキアを占領。 554年頃 北アジアを通る東西交通路により、蚕卵が東ローマにはいる。 570年頃 ホスロー、ヤマンを征服、メッカにマホメット生まれる。 590年 ホスロー二世パルウィーズ即位(〜628)。 612年頃 マホメット、はじめて天啓をうける。 |
235年 3月、ライン河防衛線を守るローマ軍団が蜂起、 皇帝アレクサンデル・セヴェルス、殺害される。 241年 ペルシャ王シャプール一世、軍を率いてローマ帝国 東方に侵入、アンティオキアに迫る。 244年 2月、ゴルディアヌス三世、冬営中に軍団兵に暗殺される19歳。 フィリップス(・アラブス)皇帝に即位。 313年6月15日 「ミラノ勅令」が公布されキリスト教が公認される。 476年 西ローマ帝国滅亡。 486年 ソワソンの戦い、フランク族、北ガリアを支配。 498年 メロヴィング王権、全ガリアにおよぶ。 529年 モンテ・カッシーノ修道院、創立。 535年 ユスティニアヌスの再征服 555年 東ローマ軍、イタリアを制圧。 568年 北イタリアにランゴバルト王国建国。 590年 グレゴリウス、ローマ司教(法王)に就任。 593年 聖徳太子摂政となる。 610年 東ローマ帝国ヘラクシウス朝成立。 623年 ビビン一世、宮塞職につく(カロリング家の祖) |
ササン朝ペルシャ 東アジアに秦が興り、ついで前漢と後漢という漢民族の隆盛期が展開していたころ、西アジアには、アルサケス朝のパルティア王国が栄えていた。この時期は西暦前3世紀の中ごろから西暦3世紀の初期にいたっている。後漢は220年に滅び、パルティアも224年には滅んでいるから、東でも西でも時を同じくして新勢力に舞台が変わったものと言ってよいであろう。・・・ パルティアにとってかわったのがササン朝ペルシャである。この王朝はアカイメネス朝ペルシャ(前546〜323)の古都ペルセポリス付近(イシュタフル)のアナーヒタ神殿のつかさをしていたササンの一族が興した国である。アナーヒタは水と豊穣、そして生殖の女神として崇拝されていたが、さらに軍神として性格ももっていたらしい。 マーニーの興した「マニ教」はゾロアスター教とキリスト教を融合したもので、インドから来た仏教、バラモン教も影響を与えています。そして東は中国から大西洋岸まで広がったのですが、厳しい迫害を受け13世紀頃にはほとんど衰えてしまっています。迫害の主はもちろん、キリスト教、イスラム教ですね。 ササン朝ペルシャの29人の王の内で最も偉大な名君は、ホスロー(フスロー)・ヌーシールワーン(531〜579)として知られています。彼の治世の時にマホメットが生まれます。 ローマ帝国の衰退にともなうヨーロッパの情勢は エウロペ(ガリア、ヨーロッパ)は紀元前1世紀にローマ人がくるまでは、ケルト人の世界であったらしい。セーヌ中流の中州はパリッシー族の街であったらしい。パリィシーはケルト人のベルギー諸族の一員であった。その後はローマ人が都市を開発支配し、そして、「ローマ人の物語」では蛮族と称しているゲルマンの諸種族がアジア種族の圧迫を受け、ライン川を渡り、続々と侵入を始めます。 476年頃の支配地域は、東は東ローマ帝国、イタリアはオドアケル(東ゴート族)、フランス内部とスペインは西ゴート族、フランス北部はフランク族、北ヨーロッパにはサクソン族、アングル族となっています。 フランドル地方を支配していたクロヴィス1世が前フランクを統一して481年、メロヴィング朝を開きました。 フランク王国・メロヴィング家の宮塞(宰相)の家系であったビビン3世がメリヴィング朝を倒し、カロリング朝を開きました。 ここで、ゲルマン民族の王権、諸侯成立についての記述を抜粋しておきます。 古ゲルマン時代は、数ヶ村の単位で成立したと思われる城塞の保有者にはじまるゲルマンの支配の体系は、氏族的ないし祭祀的紐帯につらぬかれている。移動、戦争、遠征といった。平時の部族生活の粋を破る非常のさいに、特定の指導者が部族民の自発的服従をひきだす。 タキトゥスが指摘しているように、自発的な従士志願と物質提供がゲルマンの支配権力を作ったのである。この非常時の指導者が、首長、さらには第一の首長として、氏族的紐帯のなかにとりこまれていく。そこに、家柄の持つカリスマ的権威が成立する。クローヴィスの王権は、まさしくゲルマン伝統の権威に基づいていたのである。 しかしながら、この伝統の権威は、メロヴェックの家系のみの独占するところではなかった。ぎりぎりのところまでは権威が煮つめられていって、もはや同等でしかありえない複数の権威、クローヴィスの対決すべき敵がいぜんとしてここにあった。ゲルマン諸族あるいはガリアのローマ人貴族、それ以上におそれるべきがフランク族内部の旧大貴族の家柄であった。 メロヴェックの家系の優位を確立するためにこそ、南ガリアのローマ人貴族、司教層と提携した。・・・ |
622年 マホメット、信徒とともにヤスリブ(メディナ)へ移る。 マホメットの聖還。イスラム歴の元年。 630年 マホメット、教徒とメッカを征服。 632年 マホメッド、メディナで没し、アブー・バクル初代カリフとなる。 アラビアの諸部族の離反(リッダ)。 634年 アブー・バクル、アラビアを再統一したのち死去。 オマル第二代カリフに就任。 633年 アラブ軍、シリア、イラク、エジプト、アルメニア、イラン等を征服。 この間にクーファ、バスラ、フスタートの諸都市を建設。 642年 ニハーワンドの戦い。ササン朝ペルシャ滅ぶ。 644年 オマル暗殺され、オスマーン、第三代カリフに就任。 656年 オスマーン殺され、アリー、第四代カリフに就任。 661年 アリー暗殺され、ウマイア朝はじまる。初代ムアーウィアの カリフ宣言は660年。 673年 アラブ軍、コンスタンティノープルを囲む(〜677)。 680年 カルバラーの悲劇。アリーの子フサイン殺される。 696年 ウマイア朝のアブドル・マリク、アラビア語を公用語とし、 はじめてイスラム独自の金貨を鋳造。 |
630年(日本)遣唐使の派遣開始される。 651年 ササン朝ペルシャ滅亡。 メソポタミア地方がイスラム化される。 中国にイスラム教が伝わる。 687年、ピピン2世、全王国の実権を握る。 697年 カルタゴ陥落、イスラムの西進。 710年 平城京(奈良)に遷都。 |
いよいよ、イスラム教が生まれ、その後の中東世界を作っていきます。 預言者、マホメット教徒 メッカの町 イスラム教の発祥地たるメッカは、荒涼たる裸山に囲まれた谷間に発達した町であるが、アラビアきっての聖地であるとともに、商業の中心であったから、ヒジャーズ地方第一の重要な都市たることを失わなかった。ここから、アラビアが生んだ最も人物マホメット(正しくはムハンマド)が出ているのも、けっして偶然とは思われぬことである。 ・・・マホメットが生まれたころ、カアバにはフバル以下数十の神像が祀られてあった。とのことで、のちにイスラムの唯一絶対の神となったアッラーフ(アッラー)も、そのうちで重要な神のひとうであった。・・・ イスラム教とは イスラム教そのものは、ユダヤ教やキリスト教と同一系統の宗教で、これらと直接、間接に関連がおおいことはいうまでもない。このことは、マホメットが生まれたころのアラビアの事情を考えれば、十分に納得できることである。・・・ マホメットが生まれたころ、メッカにもハニーフという独特の宗教思想を抱いている人びとがかなりいたが、かれらはキリスト教徒でもユダヤ 教徒でもないけれども、ともかく多神教を奉ぜず、神がうひとつであることを信じる人びとであった。・・・ ・・・マホメットは、一群の信徒を率いては、メッカの隊商を襲撃すべく、たびたび出動していたが、624年3月には、メディナ(もとのヤスリブ)の南西、紅海岸から一日行程のところであるバドルの水場で、1000人ほどのメッカ軍と衝突した。・・・ 632年、預言者マホメットの死後、アブー・バクルが初代カリフになります。 ・・・イマームという称号は、元来はイスラム教徒の公式礼拝などのばあいの指揮者のことで、他のひとたちのまえに出る人というような意味から出ている。したがってイスラム教段全般のイマームは、カリフそのひとにあたるわけである。マホメットが在世中は、メディナにあって、つねにイマームとして仰がれていた。マホメットが世を去るまえ、病のため公式礼拝の指揮をとることができなかったさいは、アブー・バクルがイマームの役を代行したが、そのさいはまだカリフではなかった。そういうような点に、カリフとイマームとの意味の差がある。 アリーの余生は、このハリージ派の鎮圧に費やされてしまった。661年2月この派の刺客の為に暗殺されます。享年は60歳。 預言者マホメットの血統は、このアリーと預言者の娘ファーティマとの間にうまれたアル・ハサンとアル・フサインによって後世につたわった。そしてこの血統のひとたちは、現今もシャリーフ、またはサイイドという敬称でよばれている。 マホメットが属する「クライシュ族」の一員による正統カリフ職が続きます「アッバース朝」。初代は「アブー・バクル」、2代正統カリフは「オマル」、3代は「オスマーン」、4代は「アリー」で、全員暗殺されます。 4代アリーが殺された後、ムアーウィヤがカリフに推載されます。クライシュ族は同じですが、ウマイア朝がスタートします。 アラビア半島に生まれたイスラム教は聖戦という進攻思想に基づき中東、ペルシャ、エジプトへの布教を行いました。 マホメットの死後、後継者が競争するかのように布教活動、聖戦としょうする侵略を周囲の地域に広げていくことに目をみはります。キリスト教と同じ所があるのは一神教のなせることですが、一神教は決して平和を求める宗教とは言えないのでは? |
700年 ランベドゥーザとバンテレリアの2島、サラセンの海賊に襲われる。 704年 カイラワンの地方長官、「ジハード」(聖戦)を宣言し、シチリア南岸を襲う。 「カイラワン」とは北アフリカの内陸に作ったイスラム勢の拠点都市。 705年 カイラワンを出発したサラセンの海賊、シラクサを襲撃。 710年 イスラム勢、ジブラルタル海峡を渡りイベリア半島に進攻。 インドの北西部にも進攻。 731年 サラセン人、ピレネー山脈を越えてフランスに侵入するも、撃退される。 734年 チュニスにイスラムの造船所が建設される。 761年 イスラム教、新都バグダットを建設し、ダマスカスから遷都。 827年 イスラム軍、シチリアに上陸、ビザンチン軍に勝利。 829年 イスラムの大軍、ローマの北50キロにある港チヴィタヴェッキアに上陸し、 占拠 以後中伊、北伊も海賊の標的となる。 831年 シチリア パレルモ陥落。 847年 フランク王でイタリア王でもあるルドヴィーコ率いる防衛軍がサラセン軍と 戦う。海上の嵐でサラセン軍壊滅。 868年 エジプト朝にトゥルーン朝独立する。 909年 チュニジアにファーティマ朝独立する。 925年 サラセンの海賊、プーリア地方のオーリアを襲撃。6000人が殺害され、 1万人が北アフリカに拉致される。 969年 ファーティマ朝、エジプトを征服。カイロ市を建設する。 1000年 ガズナ朝のマフムード王のインド侵入はじまる。 |
711年西ゴート王国滅亡。スペイン、イスラム領に確定。 714年 カール・マルテル、宮塞職につく。 751年 宮塞ピピン、フランク王になる。カロリング王家成立。 768年 カール、フランク王位につく。 792年 ノルマン、イングランド東海岸を荒らす。 794年 (日本)平安京に遷都。 800年 フランク王国の王シャルル・マーニュ、アルプスを 越えてイタリアに進軍、ローマにて法王レオ3世により 神聖ローマ帝国皇帝の冠を授けられる。 805年 (日本)最澄、唐より帰朝し、天台宗を開く。 806年 (日本)空海、唐より帰朝し、真言宗を開く。 814年 シャルル・マーニュ死去。 816年 法王レオ三世死去。 960年 (中国)宋成立 962年 オットー、ローマで戴冠。「ローマ人のローマ帝国」成立。 992年 ヴェネツィア・東ローマ通商協定。 |
西暦700年から1000年のイベリア半島・ヨーロッパ、地中海沿岸地区、ペルシャ、インド北西部地方はイスラム勢力の独壇場となります。特に、地中海沿岸地区、イタリア半島、フランス海岸線、はサラセンの海賊に襲われ、大被害を受けます。町は破壊され、殺戮、金目のものは全て略奪、住民の働ける者は奴隷として北アフリカに拉致されました。 「聖戦(ジハード)」と称する「海賊業」は、北アフリカのアラブ人にとっては生業と化しており、欠くことが出来ない行いとなっていました。 「ローマ亡き後の地中海世界」の「イスラムの寛容」という項では、シチリアを占領したアラブ指導者の意向で、キリスト教徒である現地人との融合を図り、その後の海賊の被害は無くなります。その代わりにイタリア半島、フランス南部の被害は逆に増加したとしています。 その後、ノルマンの騎士によるイタリア南部・シチリアの占領、支配の際もキリスト教徒アラブ(イスラム教徒)の融合は維持されます。 |
1031年 コルドバのウマイア朝滅び、小王国乱立時代に入る。 1055年 セルジューク朝(オスマントルコ)、バグダードに入る。 1060年 シシリーのイスラム勢力を追う。 1099年 第一次十字軍、イェルサレムを占領。 1148年 第二次十字軍の失敗。 1171年 サラディン、ファーティマ朝を滅ぼす。 1187年 サラディン、イェルサレムを十字軍から奪還。 1190年 7月第三次十字軍、アッカを囲む。 1192年 アッカを攻略。サラディンと和を結ぶ。 1202年 第四次十字軍起こる。 1206年 デリーの奴隷王朝ははじまる。 |
1016年 デンマーク王クヌート、イングランドを支配。 1035年 クヌート没。アングロ・サクソン王家再興。 1073年 グレゴリウス7世、法王座につく 1077年 カノッサの屈辱。 1095年 クレルモン会議。法王ウルバヌス、十字軍を 唱導。 1096年 パレスチナ方面十字軍(第一回)進発。 1138年 ホーエンシュタウヘン王家成立。 1147年 「聖ベルナールの十字軍」(第二回)発向。 1190年 リチャード獅子心王の十字軍(第三回)。 1203年 第四回十字軍、コンスタンティノープルを占領。 1204年 ジョン王、フランスのアンジュー王家領を喪失。 |
いよいよ、十字軍がヨーロッパからパレスティナへの進発が始まります。 「十字軍物語」を参照してください。 |
1219年 チンギス・ハーンの西征始まる。 1220年 モンゴル軍、サマルカンドを攻略。 1221年 モンゴル軍、インダス河に達する。 1227年 チンギス・ハーンの死。 1232年 アル・ハンブラの造営始まる。 1241年 モンゴル軍、ポーランド、ハンガリアに侵入。 。 1250年 十字軍、マンスーラで敗れ、エジプトにマムルーク朝興る。 1258年 モンゴル軍、バグダードを攻略。 1260年 マムルーク朝、シリアからモンゴル軍を撃退。 1325年 オスマン・トルコ軍、プルサを攻略。 1358年 オスマン・トルコ、始めて海峡を越え、ヨーロッパに進出する。 1381年 ティムール、イラン各地を攻略。 1453年 オスマン帝国のメフメット二世、コンスタンティノープルを攻略。 ビザンツ帝国の滅亡。 1475年 オスマン帝国、クリミアをとる。 1485年 ポルトガル人、喜望峰に達する。 1492年 グラナダの陥落。コロンブスの新大陸発見。 |
1221年 承久の乱。 1226年 聖王ルイ即位。 1227年 道元、宋より帰朝、曹洞宗を開く。 1228年 フリードリッヒ二世の十字軍。 1264年 シャルル・ダンジュー、シチリア王位につく。 1271年 蒙古、元王朝を開く。 1273年 ハプスブルグ家のルドルフ、ドイツ王位につく。 1291年 十字軍最後の拠点アッコン陥落。 1305年 「法王のバビロン捕囚」始まる。 1338年 カペー王家断絶。ヴァロア王家成立。 1340年 「百年戦争の開始」。 1348年 黒死病(ペスト)流行。 1369年 英仏間の戦争再開。 1429年 オルレアンの戦い。シャルル7世、フランス王冠 を確保。 1455年 イングランドでばら戦争開始。 1461年 フランス王ルイ十世答位。 1485年 ばら戦争終わる。チューダー朝成立。 1492年 グラナダ陥落。「レコンキスタ」終了。 |
1201年(13世紀始め)から1500年(15世紀)のイスラム世界、ヨーロッパはやはり、大きな歴史の激流は続いています。 十字軍、モンゴルの侵入、百年戦争、黒死病流行、ビザンツ帝国の滅亡など、一般的歴史エポックがどのような状況のもとに起こり、その後にどのような影響をあたえることになったのか? 黒死病 およそひとつの文化圏の構成員の三分の一が死んだという。この黙示録的な出来事は、1348年という年をその記念とする。「ロンバール人」の貿易船が黒海からイタリアに運んだペスト桿菌は、1348年6月のすえまでに、パリを鋭角の頂点として、ヴェネツィア、ボルドー、コルドバを結ぶ三角地帯に伝播した。その年のうちに、ノルマンディー、イングランド東南部が死の影におおわれた。翌年の夏、フランドルのトゥーネに、はじめての死者が出た。 ペスト桿菌、といってしまっては、アナクロニズムということになるかもしれない。ペスト菌をのみが運び、そののみの乗物が鼠だという知識は、当時、まったく欠落していたのだから、南風にのる汚染され湿った大気、ミアズマ(瘴癘しょうれい)が病気の本体であると、当時の医学は理解し、したがって対策の勧告もその理解にもつづいた。家を北に向けよ、乾燥した香木を焚け・・・・・。 病人が出た家は焼き払った。肉親を生きながら焼く焔をみつめて立ちつくす人々の首もとに、のみがうるさくはいまわらなかったろおうか。数日後には、その人もまた、黒ずんだ屍となって横たわるのであった。清浄の色、白衣に身を包んで、街道を逃れ走る人が、一刻の憩いを求めて修道院の門をたたいても、なんの応答もない。修道士全員、死に絶えていたのであった。 ・・・法王クレメンス6世に、全世界で黒い死の手にとらえられないものの数、4283万6486、ドイツだけでは、124万4434であったと報告したという。・・・ 百年戦争 フランス王国の王位継承をめぐるヴァロア朝フランス王国と、プランタジネット朝及びランカスター朝イングランド王国の戦いで、現在のフランスとイギリスの国境を決定した戦い。1337年エドワード三世のフランスへの挑戦状送付から、1453年のボルドー陥落までの116年の対立状態の事柄。 モンゴルの歴史 1206-1226 チンギス・カン 1260-1294 クビライ 大元ウルス 1351紅巾の乱 (1368明 朱元璋) 北元 1388クビライ王統殺害 (1634北元滅亡 後金) モンゴル国 清朝 チャガタイ・ウルス 1334 東西に分裂 イルハン朝 1335王統が断絶 ジョチ・ウルス 1359バトゥ家王統が断絶 シバン家、トカ・テムル家 ロシア貴族に カザフ (1922 ソビエト連邦) 1115年 女真族が金帝国を建国 1126年 靖康(せうこう)の変(北宋の滅亡) 北方の遊牧民族国家の金によって宋の首都開封が陥落し、黄帝が捕虜とされたばかりではなく、皇族のほとんどすべてや官僚数千人までもが現在の中国東北部である金に連行された。彼らは最終的に故国に帰ることは出来ず、彼らにとっては野蛮人の土地である金で、捕虜のまま死んだ。中でも悲惨だったのは皇族の女性たちで、年長者は金の皇族や貴族の妾にされたり、幼い皇女などは金の官立の妓楼「洗衣院」に入れて育てられて、上流階級を客とする娼婦とされた。・・・ 「野蛮な」遊牧民族による征服そして屈服という屈辱を味わわされた漢民族が、この事件に影響を受けて、その後、どう思想的に変化したも、ある程度推測がつくのではないか。 「新儒教」はこの屈辱を背景にして、創始者・朱子によって生まれ、東洋世界を停滞させました。(以上は伊沢元彦氏「逆説の世界史」から) 1127年 宋の康王趙構(高宗)が南京で帝位に就く(南宋の復興) 1200年 新儒教(朱子学)を完成させた南宋の朱熹が死去 1206年 チンギス・ハンがモンゴル帝国を建国 1234年 モンゴル帝国が金帝国を滅ぼす 1271年 モンゴル帝国が国号を元とする(元王朝が成立) 1274年 元と高麗軍が第一回日本遠征(文永の役) 1279年 元が宋を滅ぼし、中国を統一 1281年 元と高麗軍が第二回日本遠征(]弘安の役) 1314年 この頃から科挙を実施。新儒教が中国の国教となる 1350年 倭寇が朝鮮半島に出没し始める 1368年 朱元璋が応天府(現在の南京)で即位(太祖洪武帝)し、国号を明とする。漢民族による王朝の復活 「ローマ亡き後の地中海世界」の年表による「地中海の西・東」歴史をかくにんします。 1258年 バグダット、モンゴル軍の猛攻の前に陥落 1453年 ビザンチン帝国、マホメッド二世率いるトルコ軍にコンスタンティノープルを攻め落とされ、滅亡。以後、コンスタンティノープルは トルコ帝国の首都となり、イスタンブールと名を改める。 1467・77年 (日本)応仁の乱 1480年 トルコ、ロードス島に進攻するも、聖ヨハネ騎士団(のちのマルタ騎士団)に撃退され、敗戦 1492年 アラゴン王とカスティリア女王、イスラム教徒を一掃し、イベリア半島の再征服(レコンキスタ)が完了。コロンブス、新大陸を発見 1517年 トルコ、シリアとエジプトを征服し、名実ともにイスラム世界の盟主となる 1519年 スペイン王カルロス、カール五世として神聖ローマ帝国皇帝に即位 1520年 スレイマン、スルタンに即位 1522年 スレイマン、ロードス島に進攻し、占領。聖ヨハネ騎士団はロードス島を去り、法王の庇護下に入る 1530年 カルロス、聖ヨハネ騎士団に駐屯地としてマルタ島を与える。以後、聖ヨハネ騎士団の通称はマルタ騎士団に 赤ひげ、北アフリカ一帯をスレイマンに献上し、コンスタンティノープルでトルコ海軍の司令官に任命される 1532年 スレイマン、カルロスの領土ウィーン攻略に着手。同時に地中海に海軍を進める 1534年 赤ひげ、トルコ海軍の新司令官に昇格 1543年 (日本)ポルトガル人が種子島に渡来 1549年 (日本)フランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来 1566年 スレイマン、死去。子のセリムがスルタンに即位 1571年 レパントの海戦。連合艦隊とトルコ軍、ギリシャ西部のパトラス湾外の海上で戦闘。結果は連合艦隊の勝利に終わる 1573年 (日本)室町幕府滅亡 1579年 聖ステファノ騎士団、6隻の海賊船と戦闘し、300人の人質を奪還 1582年 (日本)天正少年使節団ろローマに派遣 1740年 トルコ、海賊行為を全面的に禁じる(海賊禁令)に国として調印 1816年 トリポリ、チュニス、アルジェで、海賊禁止令が実施される 1830年 フランス、アルジェリアに進攻。植民地とする。 1856年 あらゆる海賊行為の厳禁を宣言した「パリ宣言」が成立 ウルグ・アリ(南イタリア、カラーブリア地方の小さな漁村で16歳の折、イスラム海賊に襲われ、父は殺され、自分は拉致され奴隷として海賊船の漕ぎ手となります。そこからオスマントルコの大提督となった人物)、シナム・パシャはもう一度キリスト教徒にもどろうとしなかったのか、と 確かにキリスト教徒側からの誘いはなされたのである。・・・しかし、それは一度も成功しなかった。私がもしも彼らの母であったとしても、帰ってくるな、と言ったであろう。 時代は、反動宗教改革の先兵を自負した宗教裁判が、猛威をふるっていた時代である。そして、異端審問であるこの宗教上の裁判は、もともとから異教徒を裁くのを目的にしてはいなかった。キリスト教徒でも、その信仰が正しいか誤っているか、が問題にされたのである。また、異教徒であったのにキリスト教徒でも、その信仰が正しいか誤っているか、が問題にされたのである。また、異教徒であったのにキリスト教に改宗した人を、その信仰心がホンモノであるか否かを問題にするのが、イタリア語では「インクイジッィオーネ」と呼ばれた異端裁判所の目的であった。イタリアではガリレオ・ガリレイが槍玉にあげられ、スペインでは、「マラノス」と呼ばれた、キリスト教に改宗したユダヤ人に弾圧が集中している。 そしてこれは、常に「サンタ」(Santa)がついて「聖なる異端裁判所」と呼ばれ、ローマ法王の公認を受けた機関であったが、正義を成すと思いこんでいる人特有の残忍な拷問が行われて、心ある人々からは忌み嫌われていたのである。・・・ 以上の例として、十字軍、そして、キリスト教徒の聖地であるイェルサレムを守っていたテンプル騎士団がフランス王家の恣意により異端の罪、秘密結社結成の罪などで、拷問、火あぶりの刑に処せられ壊滅したことがあります。 |
作者近況の欄です9. |