十字軍物語 塩野七生 |
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2012年1月26日 「十字軍物語」を一応読み終えました。十字軍(ラテン語で cruciata)は どのようにまとめていくかを考えるのあたって、まず、帯符と巻頭の部分を書き出してみます。 真の勝者は誰なのか 戦争、外交、共生、そのすべてがここにある 圧巻の筆致で迫る、塩野七生の「戦争と平和」 サラディンによって聖地イェルサレムを追われた危機から、ヨーロッパからは十字軍が陸続と起こった。「獅子心王」の異名をとったリチャード1世。十字軍を契機に飛躍するヴェネツィア。巧みな外交戦術で聖地を一時的に回復したフりードリッヒ2世。しかし、各国の王の参戦もむなしく、最後の牙城アッコンが陥落すると、200年に及ぶ十字軍遠征に終止符が打たれることとなったー。中世最大の事件がその後の時代にもたらしたものは何か、そして真の勝者は誰か。歴史に敢然と問いを突きつける、・・・ 「聖都」を失う 西暦の1187年は、文字どうり、「サラディンの年」であった。 長い歳月のわたって分裂していたスンニ派とシーア派を統合することによっで初めてイスラム世界の一本化に成功したサラディンは、それによって使えるようになる大軍勢を率い、1187年の7月4日、ハッティンの野で闘われた戦闘で、十字軍側に壊滅的な打撃を与える。その後も攻勢に次ぐ攻勢をゆるめず、十字軍側の主要都市であるアッコン、シドン、ベイルート、ヤッファと、息つく間もないという感じで手中のしていった。・・・・・「ハッティンの戦闘」で防衛力の大半を失い、そのうえパレスティーナ地方の海港都市のほとんどを失ったことで援軍到着の望みまで断たれたイェルサレムは、1187年9月20日、勝者サラディンの前に城門を開く。第一次十字軍によって「解放」されて以来キリスト教徒のものでづづいてきたイェルサレムも、八十八年が過ぎた後に再びイスラム教徒の手に帰したのだった。 二十一世紀に入ったいまでさえも、信仰厚いキリスト教徒にどこに巡礼に行きたいかと問えば、ローマやスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラよりも断じて高い率で、「イェルサレム」という答えが返ってくるはずだ。今から一千年は昔になる中世では、イエス・キリストと信者をへだてる距離はずっと近かった。・・・・・法王庁の記録では、法王ウルバン3世は、ショックで死んだ、とされている。・・・・・代わってローマ法王に選出されたのはグレゴリウス8世だが、この法王も一年後に死ぬ。・・・ローマ法王庁が新たな十字軍の遠征を正式に提唱するのは、づづけて死んだ二人の法王の後にローマ教会の長に就任した、クレメンス3世になってからである。聖都イェルサレムを失ったという衝撃的な知らせを受けたときから、一年以上もの時が過ぎていた。ローマ法王庁のこの対応の遅れが、第三次十字軍の性格を決めることになる。 第一次十字軍は、法王ウルバン2世が提唱し、実際にもリードすることで始った。 第二次十字軍は、ローマ法王庁の実働部隊、としてもよいかんじでの修道僧ベルナールが、ヨーロッパの皇帝や王たちを精力的に説いてまわったことで実現したのである。十字軍遠征の司令塔はローマ法王庁であり、第一次でも第二次でも、オリエントに向う十字軍には必ず、「法王代理」の格で、ローマ法王が任命した高位聖職者が同行していたのだった。 ところが第三次十字軍には、このたぐいの人物がいない。ドイツの皇帝にもフランスの王にもイギリスの王にも、「法王代理」は同行していない。この一事からも、「世俗(ライコ)の人々による十字軍」としてもよいのが、第三次十字軍になるのである。・・・・・ 第三次十字軍(1188年〜1192年)の主役はイギリス王リチャード1世(綽名は「獅子心王」ライオン・ハート)、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ帝国皇帝フりードリッヒ1世(綽名は「バルバロッサ」赤ひげ)の名が一応挙げられますが、実際はイギリス王リチャード一人といえるようです。フランス王フィリップ2世は「アッコン」攻略後に早々にフランスへ帰国してしまいます。フりードリッヒ1世は遠征1年と1ヶ月の1190年6月10日、戦場遥か遠くの小アジアで65歳の生涯を閉じてしまうのです。帰国したフリップ2世は十字軍に参戦している公達の領土を目標に、自国の領土拡大を目論見ます。当時のフランスの領土分布は図のようなものです。この図を見ていると、ふと、100年も続いたという「100年戦争」という言葉が頭に浮かんできました。フランスの多くの部分がイギリス領であるからです。そこで少し寄り道をしたくなりました。 父王ヘンリー2世(プランタジネット朝創設)との戦いに勝ったリチャードは1189年11月にウェストミンスター寺院でイングランド王リチャード1世として即位した。この時リチャード1世は、ノルマンディー公、アンジュー伯、アキクィテーヌ公、ガスコーニュ公、ポアティエ伯であり、イギリス、フランスに大領土を持つプランタジネット朝・イングランド王なのです。リチャード1世の死後、フィリップ2世との抗争でアンジュー、ノルマンディー等の大半の領土を喪失します。フィリップ2世は逆にフランス王国の領土を広げたことによりのちに「尊厳王 オーギュストAuguste」と呼ばれるようになります。これによりプランタジネット家の大陸に保有する領土はガスコーニュだけとなり、その後の「百年戦争」(1337年〜1453年までのフランス王国の王位継承を巡るヴァロア朝フランス王国とプランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国との戦い)の原因となったようです。 第三次十字軍はサラディンがティロスのを攻めたことから始まり、モンフェラート侯コラードを指揮官として、テンプル、ホスピタル騎士団などの奮戦で防御がなり、サラディンがティロス攻略を諦め撤退する事から始まります。1189年8月、十字軍側はイェルサレム王ルジニャンの下、逆にイスラム側に占領されているアッコンを奪回する戦いを始めます。サラディンは神聖ローマ帝国皇帝フりードリッヒ1世の死により10万の軍が消えたことを知り、ティロスを攻撃している十字軍を包囲し攻撃を開始します。この戦闘に、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ帝国の辺境伯などの諸侯が加わっていきますが、決着はリチャード1世の到着を待たねばなりません。 シチリア島で戦い、キプロス島を占領したイギリス王リチャードは1191年6月8日にアッコンに到着します。フランスを後にしてから1年が過ぎています。(リチャードによるキプロス制圧後のキリスト教勢力)しかしここで初めて十字軍はイスラムのスルタンであるサラディンに対抗できる最高指揮官を得たことになります。 1189年8月、十字軍側のアッコン包囲から2年、リチャードの参戦から1ヶ月、海からはジェノヴァ、ピサの海軍による包囲、リチャード指揮下の活発な攻勢によって、アッコンは降伏の申し出をし、サラディンもこれを受け入れます。そして、リチャードは、地中海を右に見ながら南下することで、イェルサレムを目指します。1191年9月7日、「アルスーフの戦闘」の名で史上に残ることになる戦闘(バトル)で十字軍側が完勝し、リチャードは「メレク・リチャード」、「獅子心王」と呼ばれるようになります。15日にはヤッファ(現在のテル・アヴィヴ)に入城。さらに、エジプトからパレスティーナへの補給線の最終港であったアスカロン(現在のアシュケロン)を手中にします。 1192年8月の「ヤッファ前の戦闘」でサラディン率いるイスラム側の大攻勢を跳ね返すことで、リチャードとサラディンの間の講和が進みます。ここで、イェルサレムのキリスト教側への解放(イスラム領土ではあるが、キリスト教徒の巡礼たちの安全と自由を、完璧に保障するもの)、ティロスからヤッファまでとその周辺一帯の地が、十字軍に属するようになり、アンティオキア公領、トリポリ伯領まで加えれば、シリア・パレスティーナ地方の海側は、ほとんどキリスト教徒のものとして残ることになったのです。 (第三次十字軍ごのキリスト教勢力) 本国の不穏な情勢を伝えられていたリチャードは10月9日にアッコンを出発し、本国へに帰路につきます。 ダマスカスにもどって以降のサラディンは、日毎に体力が衰えていった。。もはや、好きだった馬を駆ることもしなくなる。 1193年と年が代わった2月の21日、ついに病に倒れた。その後一進一退でつづいたが、3月1日、昏睡状態に陥る。そして、3月4日の朝、息を引きとった。五十五歳の死、であり、リチャードが発って行ってから、5ヶ月もしないで訪れた死、でもあった。 講和で終わったこの第三次十字軍を、現代の研究者の多くは、状況は以前と少しも変わらなかった、と評する。 たしかに、イェルサレムを再復することはできなかった。ゆえに、それをかかげて遠征してきて以上、軍事的には第三次十字軍は失敗したのである。 しかし、リチャードとサラディンの間で成立した平和は、講和の条文で明記された3年と8ヶ月という期間を越えて、時折の事故はあったとしても、1218年までづづきのである。26年間とは短い、と言う人には、仮りに今、イスラエル人とパレスティーナ人との間に26年間の平和が成り立った場合を考えてほしい、と言いたい。たとえ26年間でも、あの時期の中近東の十字軍勢力を思えば、断じて短くはなかったのだ。 ちなみに、1218年とは、アラディール(リチャードと和平交渉を行ったサラディンの弟で、当時のスルタン)が死ぬ年である。そして、これを機に平和が破られるのは、キリスト教側が、第五次の十字軍を起こしたからであった。 リチャード獅子心王は、聖都イェルサレムの再復はできなかた。しかし、キリスト教徒にとっての「聖都(ホーリー・ランド)」に、26年間の平和と安全は与えて去って行ったのである。・・・ リチャードは帰国の途中、船の難破で、オーストリア公レオポルド(アッコン奪還の折、オーストリア公の旗をかかげられなかったことの恨みをのこしていた)に捕らえられ、監禁されることになる。多額の身代金の支払いで解放されたのは、1194年3月、1年3ヶ月ぶりの出来事であった。帰国後、弟ジョンとの王位争いを片付け、フランス王フィリップとの領土争いにも連戦連勝中、城壁の上から放たれた石弓の矢の傷により亡くなります。1199年4月6日、41歳と7ヶ月の生涯でした。リチャードが自分の紋章として作らせたという金地に黒の3頭の獅子は、今なお英国王の紋章としてつづいているようです。 第四次十字軍(1202年〜1204年)はローマ法王インノケンティウス3世の主導で始められたものですが、主体となったのはシャンパーニュ伯ティボーを始めとしたフランスの諸侯によるものです。十字軍の目的地をエジプトとし、すべての輸送事業をヴェネツィアに依頼します。集合場所ヴェネツィアに到着した軍勢は輸送契約時の3万5千名にはとても及ばない約1万名で、契約金額の支払いが出来ない事態となります。支払い猶予の条件として、ヴェネツィアはアドリア海の東岸沿いにヴェネツィアが組織していた海の”高速道路”の一つであったガーラがハンガリー王の先導によって離反するのを阻止する軍を組織することを求めます。 1202年10月8日、ヴェネツィアの元首(ドージョ)であるエンリコ・ダンドロとフランス側の総大将であすモンフェラート侯に率いられた十字軍とヴェネツィア連合軍が出帆します。ザーラは10月16日には降伏し、ヴェネツィアに恭順を誓います。この、キリスト教徒の都であるザーラ攻略を知った法王インノケンティウスは激怒し、十字軍全員を破門に処すと通告してきますが、結局は通告は解除されることになります。 目的地であるエジプトへの道はさらに方向転換がされます。なんと、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルの攻略に向うことになります。1203年4月6日、復活祭を期して、ザーラを後にし、コンスタンティノープルへ向かいます。6月24日からコンスタンチノープル攻略戦が始まります。10ヶ月間の戦いはヴェネツィア勢の活躍で十字軍の勝利に終わり、コンスタンティノープルの攻略を希望したビザンチン帝国皇子などの死により、「ラテン帝国」が建国され、ヴェネツィアは交易面で他のイタリア都市を圧倒することに成功します。(このあたりは「海の都の物語」の要約を後日に記したいと思います。) 第四次十字軍の攻撃によってビザンチン帝国が崩壊した1年と2ヶ月後の1205年6月、エンリコ・ダンドロは、祖国ヴェネツィアに帰ることなくコンスタンティノープルで死に、聖ソフィア大聖堂の内部に葬られた。・・・このエンリコ・ダンドロに対して、母国ヴェネツィアは、勲章も与えず銅像を立てて記念することもしていない。ヴェネツィア人の考えでは、共和国の一員として共和国のために貢献した人、の一人にすぎないからであった。 第五次十字軍(1218年〜1221年)「御当地十字軍」 「聖地」の状況 14年がすぎる。1204年から1218年までになるその14年は、サラディンの後を引き継いで中近東のイスラム世界をまとめてきた、弟アラディールの死までの歳月でもあった。・・・ すでに存在した聖堂(テンプル)騎士団と病院(ホスピタル)騎士団に加え、「聖地」での三大宗教騎士団の一つになるチュートン騎士団の公式の創設は、1199年である。この年、ローマ法王インノケンティウス3世は、ドイツ生まれの騎士団で編成されたこの騎士団を公認し、ドイツ人の貴族のみで成るこの「チュートン騎士団」が、制服と盾を、白地に黒の十字とすることも認めた。 フランス生まれの一般の騎士が主の「聖堂騎士団」が、白地に赤の十字。 ヨーロッパ全域の貴族の子弟を集めた「病院騎士団」を示すのが、赤地に白の十字。 そして、ドイツの騎士のみで成る「チュートン騎士団」が、白地に黒の十字。 これで、「聖地」での三大宗教団が、いずれも一眼わかる色とともに勢ぞろいしたことになる。 この男たちの当初の目的は、聖地を訪れるキリスト教徒の巡礼たちを守ること、にあった。・・・・・ 情報には、遠隔の地になればなるほと、理解しやすいこどだけが伝わるという性質があす。ヨーロッパに住むキリスト教徒にとって最もわかりやすいことは、聖都イェルサレムはいまだにイスラム教徒の支配下にある、という一事だった。この一般の民衆の感情に加えて、民衆の導き手を自認するローマ法王も、十字軍んの主導権をローマ法王庁は取りもどすべき、との考えを、ますます強めていたのである。「少年十字軍」と呼ばれる動きも、この中で起こった。・・・この動きは法王の説得により中止されましたが、少年達が無事に生地に帰れたとはかぎらない多くの悲劇が生じたようです。 ヨーロッパの有力者たちが領地争うに明け暮れ、法王の十字軍参加に消極的な中、第五次十字軍は中近東に住むイェルサレム王ブリエンヌ傘下のキリスト教徒が背負うことになり、出陣は、1218年5月と決まります。ローマ法王庁は「法王代理」にベラーヨを派遣し、主導権を回復をめざします。「御当地十字軍」の目標はナイル河河口のダミエッタで、攻撃開始から三ヶ月後の8月24日、ダミエッタの城塞が陥落します。イスラム側はスルタンのアラディールの死による混乱で、反撃が十分に出来ない情勢のため、父の後を継いだアル・カミールは十字軍に対して十字軍にとって好条件の講和を申し出ます。法王代理ベラーヨは「不信仰の徒」との講和などは絶対にありえないとし、戦線は継続します。1221年夏、ナイル河の洪水によって壊滅状態となった十字軍に対してアル・カミールは3度目の講和(ダミエッタを放棄し、エジプトから完全撤退する。この講和の有効期間は8年とする。)の使者が送られます。 第三次十字軍は、キリスト教徒側イスラム側おともに正面から激突し、「花の第三次」と呼ばれるくらいに華々しく戦い合った十字軍であった。しかし、闘い合った後にリチャードとサラディンの間で結ばれた講和は、その後四分の一世紀つづいたのである。そして、第五次十字軍による3年間の中断の後も、さらに8年間はつづいたのだ。合計すれば、33年間になる。 もちろん、イスラム側に、サラディン、アラディール、アル・カミールと、賢明で現実的なアユーブ朝のスルタンがつづいたという利点は大きい。また、アル・カミールは、現にスルタンの地位にある。 もしも、この33年間をさらに延長したければ、キリスト教側に、「不信仰の徒との講和はまかりならぬ」とか、「聖都イェルサレムはキリスト教徒が血を流すことで奪還さるべき」という激しい言葉に影響されない指導者が、出てこなければならないのであった。 第六次十字軍(1228年〜1229年) 「赤ひげ」の綽名で知られるフりードリッヒ1世の直孫であり、母方からは、シチリア・ノルマン王国を相続していたフりードリッヒは1220年11月22日、26歳のフりードリッヒは神聖ローマ帝国皇帝となります。ローマの聖ピエトロ大聖堂で帝冠を授けたのは、ローマ法王ホノリウスです。イェルサレムを奪還する為の十字軍を率いることが出来る指揮官を求めていたローマ法王庁は帝冠の代償として十字軍遠征を要求しています。 ホノリウス法王、グレゴリウス法王の執拗な十字軍遠征要求に対して、準備はしていても遠征を引き伸ばすフりードリッヒに業を煮やした法王グレゴリウスは2度の「破門」(スコムニカ)、周辺には「聖務禁止」(インテルデッド)の処置をとります。 出発 こうして、破門された者の率いる第六次十字軍は、南伊第一の海港ブリンディシから出港していった。1228年6月28日、フりードリッヒは、満年齢ならば33歳になっている。とはいえ、フりードリッヒとは、法王とのケンカするだけの33歳ではなかった。すでに以前から、万全の準備は整えていたのである。 ブリンディシから発ったフりードリッヒが率いたのは、40隻のガレー船と百を越える輸送用の帆船だが、それには大量の兵糧と武器と馬が積みこまれており、シチリアと南伊から集めた百人の騎兵に三千の歩兵を乗せていた。だがこれは、彼が直接に率いて出発した兵力であって、これ以外にもすでに先行させていた兵力があった。疫病で延期せざるをえなかった前年に、チュートン騎士団の団長へルマンに託して出発させていた、800人のドイツの騎士たちである。単なる騎兵ではなく「騎士」となると、補助役の歩兵や馬丁も加えて総勢はこの三倍以上の数になる。 この先行部隊は前年の秋にはすでにパレスティーナに到着しており、フりードリッヒが命じてあったとおりに、シドンの港の整備とこの海港都市を守る改造工事を終えていた。・・・・・ キプロスでの紛争を解決したフりードリッヒは9月7日、アッコンに到着します。この遠征に対して法王は破門されたフりードリッヒに対してキリスト教徒の不協力をまた、宗教騎士団に対しては皇帝に旗の下での戦闘を禁じています。そこで、フりードリッヒは第六次十字軍の名目上の総指揮官にチュートン騎士団長のヘルマンをつけます。 フりードリッヒは、アッコン到着後すぐにアル・カミールとの交渉再開を始めます。 講和締結 講和のための交渉が、ヤッファとガザの間で行われるようになったのは、1228年の11月からである。 それからだけでも3ヶ月が過ぎた1229年2月、交渉はついに妥結した。その内容を見れば、軍配は、この間ずっとねばり強く交渉をつづけた、フりードリッヒに上がったとしてよい。・・・・・ 1、イスラム側は、イェルサレムを、キリスト教側に譲り渡す。・・・ 2、イェルサレムは、「イスラム地区」を除いた全市はキリスト教側に譲渡されたが、そのイェルサレムの周辺一帯は、イスラム側の領土として残る。・・・ 3、ベイルートからヤッファに至るパレスティーナの海沿いに連なる、海港都市とその周辺地域のキリスト教側の領有権を、イスラム側は認める。・・・ 4、キリスト教側の領土であろうとイスラム側の領土であろうと関係なく、巡礼と通商を目的とする人々の往来は、双方ともがその自由と安全を保証する。・・・ 5、双方ともが”保管”している捕虜たちの全員を交換する。 6、この講和の有効期限は、書名捺印後から始まる10年間とする。 1239年2月まではつづくということであり、その後の更新の可能性も否定されていなかった。・・・・・ この講和に対して、聖地パレスティーナも聖都イェルサレムも、キリスト教徒の血を流すことによって、「解放」されねばならないと考えるローマ法王庁はまったくの評価を与えませんでした。もちろん、「破門」を解くことはありません。キリスト教領の保全の為の手当てをした後、南イタリアへの法王軍の進入を阻止しるため、1229年5月1日、アッコンを出発します。 (第一次十字軍後の十字軍国家) (ネットワークかられたキリスト教側の城塞ネットワーク) 「平和の接吻」 1230年9月1日、「仲直り」のセレモニーは、60歳の法王グレゴリウスと36歳のフりードリッヒが、互いに肩を抱いて接吻することで終わった。・・・・1238年、アル・カミールが死んだ。・・・彼がアル・カミールとの間に結んだ講和の有効期間が切れた後も、中近東の地でのキリスト教とイスラム教徒の間の共生は、完全とはいえなかっとしてもつづいたのであった。 この状態が決定的に変わるのは、1248年になってからである。 この状態が決定的に変わるのは、1248年になってからである。 1248年8月、フランス王ルイ9世の率いる第七次十字軍が、南フランスの港エーグモルトから、エジプト目指して出港する。だが、2年後の季節も同じ夏、そのルイが捕虜になった。・・・ 1250年12月13日、死のほうがフりードリッヒを訪れる。56歳を迎える、2週間前のことであった。・・・・・ ここで、十字軍前の神聖ローマ帝国(西暦800年頃)の様子についての記述を紹介してみます。菊池良生氏の「神聖ローマ帝国」(講談社現代新書)からです。 フランク王国成立以前の古ゲルマンでは公爵はゲルマン各部族の軍隊最高指揮官であった。公爵をドイツ語でヘルツォークというが、このドイツ語は、「軍隊」を意味する。「ヘール」と「(引っ張って)移動させる」という動詞の「ツィーエン」からできあがっている。まさしく公爵は地方部族の兵を率いる武人族長であった。それが王権に臣従し、改めて公爵という官職を得たのである。それだけに公爵は王権には常に面従腹背で、隙あらば自立を狙っていた。 王権は公爵階級を牽制するために、征服した地方に軍事と民生を司る官職として伯爵を配備した。ところが公爵はもとより、その伯爵までが土着勢力となり、彼らはいつのまにか伯爵位の被任免権を独占し、国王に委託された地方の統治を世襲化させ、国王の権威をないがしろにするようになってくる。これに対して、カール大帝はその圧倒的な軍事力を背景にこれらの大貴族をねじ伏せた。 フランス王ルイと、第七次十字軍(1248年〜1254年) 歴史上では「聖王ルイ」といわれるルイ8世の第7次十字軍を編成し、エジプトのダミエッタを攻略した後、 イスラム側の本拠であるカイロを目指す途中のマンスーラにおいてイスラム側の下級兵士を率いていたマメルーク(奴隷市場に売り出されいたのを買い取られ、兵士として訓練された人)の長であるルクール・アディンの奇策により、先駆の騎士部隊を壊滅させられ、さらに本体まで敗走させられます。さらに、撤退の途中、全軍がイスラム側の捕虜となり、身代金の支払いで釈放されるという経過をとります。(ダミエッタからアッコンへの道のり) 第七次十字軍の「成果」 フランス王ルイが、王妃ともどもヨーロッパに向けてアッコンを後にしたのは、1254年の4月25日である。1248年の8月にフランスに発ったのだから、ルイにオリエント滞在は6年間にもなったことになる。フランスへの帰着は、同じ年の7月10日であった。そして、エジプトにいた期間だけでも2年間におよんだこの第七次十字軍の「成果」をあげれば、次のようになる。 第一に、ヨーロッパ・キリスト教世界の強国フランスの王が率いてきた大軍にもかかわらず、完膚なきまでの敗北を喫したことによって、イスラム側に、もう二度とヨーロッパの王侯は、十字軍遠征という軍事行動には出てこないと思わせてしまったことだ。・・・ 第二の「成果」は、中近東在住のキリスト教徒にとっては常備戦力であった、宗教騎士団の決定的に減退させてしまったことである。 300人の騎士を一度に失った聖堂騎士団はもとより、病院騎士団もチュートン騎士団も、ルイに従ってエジプトに侵攻したおかげで、人と資力の双方ですさまじい打撃をこうむったのである。 第三だが、同じく中近東在住のキリスト教徒勢力の核をなしてきた、中近東に住みついて長い封建諸侯たちの力も、弱めてしまったこと。 第一次からこの第七次までの十字軍の中で、ルイが率いたこの第七次くらい、中近東のキリスト教勢力にとって害をもたらした十字軍はなかった。第七次十字軍は、ヨーロッパ人が今なお「聖地」と呼んでいるシリア・パレスティーナ地方を、軍事的には空白状態にして帰国したのである。・・・・・ 最後の半世紀(1258年〜1291年) モンゴルの脅威 1258年2月10日、バクダッドのアッバス朝カリフであるアル・ムスタシムがモンゴルの前に降伏し、殺されるのです。もちろん、住民8万人も同様に殺され、スンニ派の信仰の拠りどころであった、アッバス朝は滅亡します。1260年早春、シリア第二の都市アレッポが陥落、1260年3月1日、ダマスカスも陥落します。 モンゴル対マメルーク アユーブ朝最後のスルタンを殺すことで、エジプトの主権はマメルーク朝に移ったときの最大の功労者であるバイバルスがマメルーク主体の3万五千の戦力でモンゴル軍に対したのはガリラヤ湖西のアイン・ジャルーでした。この戦いは、イスラム側の勝利となり、モンゴル軍はユーフラテス河の東まで後退してしまい、ダマスカスもアレッポもモンゴル側に戻ります。 聖王ルイと、第八次十字軍 「内政」と「外政」は、同じく政治ではあっても性質がちがう。 内政の政治では、まじめに心をこめて行えば、多くの場合は良と出る。なぜなら、既得権益の反対を無視して強行しても、結果が良ならば多くの人は納得するからで、それは利害が国益という形で一致しているからである。 しかし、国外との政治になると、利害が不一致であるほうが当たり前の国や人が対象になってくる。この場合、まじめに心をこめたからと言って、結果が良と出るとはかぎらない。いや、しばしば、反対の結果に終わってしまう。 ゆえに外政の担当者には、内政を担当する者以上の賢明さが求められてくる。悪賢さ、悪辣、といってよいくらいの知力(インテリジェンス)が求められるのである。フランス王ルイ9世は、内政ではなかなかの実績をあげた君主であった。だが、このルイが、外政に手を出したときは・・・・・ 1270年、56歳になっていたルイは、二度目の十字軍遠征に発つ。・・・・・ 遠征地はチュニジア。チュニジアの太守(エミル)に勝ってキリスト教に改宗させ、北アフリカ勢を率いて、エジプトを攻めるという戦略があったのかなかったのか?下手な考えだったのか?7月17日カルタゴ近くに上陸します。真夏の太守に手紙を送り、降伏と改宗を要求しますが、もちろん、拒否され、会戦を目指しますが、太陽が照りるける中、水も食料も不足し、疫病が襲い、ルイは8月25日に「イェルサレムへ、イェルサレムへ」という言葉を最後に息をひきとります。 神がそれを望んでおられる、と固く信じてパレスティーナまで遠征して行った十字軍としては、聖王ルイの率いたこの第八次が、最後の十字軍になったのであった。 この最後の十字軍を遠く聴きながら、パレスティーナに住むキリスト教徒たちは、最後のときに近づいていくのである。 マネルーク朝のスルタンはキリスト教徒との共存は望まず、アンティオキア公領、トリポリ伯領などを飲み込み、そのたびに、キリスト教徒はキプロスへ移住していきます。そして、キリスト教側の最後の拠点アッコンが攻略されます。 1291年5月18日のことです。 こうして、第一次十字軍によるイェルサレムの「解放」から始まった十字軍運動も、アッコンの攻防戦を最後に終末を迎えた。1099年に聖都イェルサレムを「解放」したときからアッコンが陥落した1291年までの、正確に言えば百九十二年間の後に、カトリック・キリスト教徒は、シリア・パレスティーナ全域から一掃されたのである。 イェルサレムの「解放」は、イスラム教徒・キリスト教徒双方の血を流すことで実現したが、アッコンの陥落も、双方とも血をながしたことでは同じだった。 それでいながら、この二百年の間には、幾度となく双方からの共生の試みは成されたのである。だが、そのたびに、破られてきたのだった。 長期にわたって展開された戦争(ウォー)の歴史とは、戦闘(バトル)の連続のみで成る物語ではない。たびたびの共生の試みと、そのたびに起る破綻と、それでもなおそこに生きようとした人々の物語でもあるのである。 十字軍後遺症 ここでは、騎士団のその後を主体にして記述しています。聖トーマス騎士団はイギリスへ戻り、チュートン騎士団はドイツへ戻りますが、「聖地」が存在したからこそ存在理由を持てた、聖堂(テンプル)騎士団と病院(ホスポタル)騎士団でした。 病院騎士団はキプロス島からロードス島に移り、「ロードス騎士団」と呼ばれるようになります。ここで、彼らは病院の経営と同時に、イスラム所属の商船に対して攻撃を加え、掠奪の海賊行為を行い、イスラム教徒に言わせれば「咽もとに引っかた骨」となります。正式名称ならば「聖ヨハネ病院騎士団」とよばれるこの組織は、後にロードス島をトルコ帝国により追われ、マルタ島へ追われます。また、マルタ島では、スレイマン大帝が送ったトルコ帝国最盛期の大軍を向こうにまわして、壮絶としか言いようがない攻防戦に勝ち抜くことになります。この詳細は、「ロードス島攻防記」に記されています。 一方、「聖堂(テンプル)騎士団」は、1306年フランスに帰ることに決めましたが、多くの騎士たちは多くの戦闘で戦死ししており、63歳の団長ジャック・ド・モレーを始めてして老齢に騎士になっていたようです。フランス王は謀略をめぐらし、テンプル騎士団を「異端裁判所」で裁く方向にもっていきます。当時のフランス王である美男王フィリップは十字軍遠征嫌い、その実現しか生きる道がない聖堂騎士団を邪魔な存在と考えていたようです。聖堂騎士団の騎士たちは1307年に逮捕され、団長ジャック・モレーと今一人の2人は1314年に火刑により処刑されます。 逮捕から5年が過ぎた1312年、「聖堂騎士団の壊滅とその全面的な解消」を宣言したローマ法王クレメンス5世の教書が公表された。キリスト教徒であれば誰であろうと、聖堂騎士団への入団を望むだけでも罪になり、白衣に赤の十字の騎士団の制服を持っているだけだも罪とされた。聖堂騎士団の名を口にするのも、キリスト教徒のやるべきことではない、とされたのである。 聖堂騎士団がフランスに所有していた資産はすべて没収されてフランス王の金庫に収まり、そのうちの八分の一金額は、裁判費用ということで、異端裁判所に支払われた。・・・・・聖堂騎士団に対する裁判は、カトリック教会と王が組んでの「でっとあげ裁判」という点で、この一世紀後に起るジャンヌ・ダルク裁判と双璧を成すと言われている。ジャンヌ・ダルクのほうは近年いなって、ローマ法王庁は名誉を回復したばかりか聖女にもしたが、聖堂騎士団に関しては、今もなお知らん顔をつづけている。・・・・・ その後の歴史上に世界史の教科書で取り上げられるのは、「カノッサの屈辱」、「十字軍遠征」、「アヴィニョン捕囚」ですが、取り上げられない重要な事柄は、イタリア諸都市の通商の活発化(ヴェネィツアの通商路 ジェノヴァの通商路 ピサの通商路)と、巡礼たちであったようです。 結び として 十字軍時代の終焉後も、キリスト教側とイスラム側は、幾度となく戦闘をくり返した。歴史上で特筆される戦闘をあげるだけでも、次のようになる。 1453年ーコンスタンティノープル陥落。 ビザンチン帝国は滅亡し、その首都であったコンスタンティノープルはイスタンブールと名を変え、トルコ帝国の首都になった。 1492年ーグラナダ陥落。 イスラム教徒はスペインから一掃され、キリスト教側による「再征服(レコンキスタ)」は完了する。 1522年ーロードス島攻防戦。 1529年ーウィーン攻防戦。 トルコ帝国の西進は、ウィーンまで軍を進めながら撤退をせざるをえなくなったことで中絶を強いられる。 1565年ーマルタ島攻防戦。 「マルタ騎士団」の活躍。 1571年ーレパントの海戦。 ヴェネツィアと法王庁とスペインの連合艦隊とトルコ艦隊がギリシャのレパントの沖合いで激突し、キリスト教側の大勝利で終わる。トルコの西進は、海上ではこのレパントで、阻止されたのであった。 1645年ークレタ島攻防戦。 25年もつづいたこの攻防戦の末、ヴェネツィア共和国はついに、この”地中海の空母”を手離すことになる。 1683年ー再度のウィーン攻防戦。 このときの敗北を最後に、陸上でもトルコ帝国は西進をあきらめたのであった。 もしもキリスト教側が、レパントでもウィーンでも敗れていたのならば、ヨーロッパはあの時点でイスラム化していたかもしれないのである。 しかし、これらの戦争はもはや、宗教戦争とは言えなかった。領土や利権をめぐる抗争を宗教で色づけしただけで、実態は普通の戦争であったのだ。・・・・・ 正しいことしか言わない神が望んだのだから、正しい戦争に決まっていたのだ。ゆえに神が後退した後でも、「正しい戦争」だけは残ったのだろう。いや、人間が、せめてはこれくらいは残したいと思ったから、残ったのかもしれない。 しかもそれは、二十世紀に猛威をふるい、二十一世紀の今なお残っており、戦争に繰り出す側も駆り出される側も、正しいか正しくないか、で悩みつづけているのである。 完 日本の宗教戦争の歴史は、聖徳太子の時代、外来の仏教を輸入しようとする者対古来の八百万の神を尊ぶ者たちの争い。いつの間にか神仏混交の本地垂迹説が生まれてきます。次には、信長による比叡山延暦寺への掃討作戦、そして、一向一揆を指導した一向宗と武家の頭領との争い、本願寺と信長との石山本願寺城包囲戦などがありますが、一神教どうしの長期にわたる壮絶な戦争はなかったように思われます。 いずれにしても、ヨーロッパからの十字軍とイスラム教徒による聖地イェルサレム領有戦争は日本人には理解しがたい出来事と言えます。でも、この戦いは今も続いています。難し過ぎる問題です。 |
![]() テンプル騎士団 |
2011年5月26日 「十字軍物語 2 」は、第一次十字軍がイェルサレムを「解放」し、その維持の為。「イェルサレム王国」、「エデッサ伯領」、「アンティオキア公国」「トリポリ泊領」を建国し、統治してから、サラディン率いるイスラムにより再び、イェルサレムが「解放」されるまでの物語です。 第2巻 帯符には、 第一次十字軍の奮闘により、聖地イェルサレムに打ち立てられた十字軍国家。だが、イスラム側に次々と現れる有能なリーダーたちによる猛反撃の前に、防衛の側に回ったキリスト教勢力は、苦境に立たされることとなった。ヨーロッパから神聖ローマ帝国皇帝とフランス王が参戦した第二次十字軍は古都ダマスカスを攻めるも、なす術なく敗走。孤立した十字軍国家を束ねる若き癩王は、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団の力を借りながら総力を結集し、ジハードを唱えるイスラムの英雄サラディンとの全面対決を迎えることになったー。とあり、 巻2の巻頭部分には。 人材とは、なぜかある時期に、一方にだけ集中して輩出してくるものであるらしい。だがこの現象もしばらくすると止まり、今度は別の一方のほうに集中して輩出してくる。 これより始る第二巻は、キリスト教側に輩出していた男たちを描いた第一巻に次いで、イスラム側に輩出してくる男たちを中心に物語る巻になる。なぜ双方とも同時期に人材は輩出しないのか、という疑問に明快に、答えてくれた、哲学者も歴史家もいない。人間は人間の限界を知るべきという神々による配慮か、それとも、これこそが歴史の不条理なのか・・・・ 十字軍遠征とは、中世に生きるヨーロッパのキリスト教徒にとっては、神が望まれたことをするという、信者にしてみればこのうえもなく正当な行為であった。 それゆえに、何が起ころうと神が守ってくれると信じて、遠いオリエントに向かったのである。 実際は、「十字軍物語T」の全巻を通じて叙述したように、第一次十字軍の成功はそれに参加した人々の労苦と犠牲の成果であったのだが、これも神の助けがあったからこそ、と思い込んでいる人々は、この成果を維持する段階に入っても、以後も必ず神さまは助けてくださる、と信じて疑わなかったのである。 1095年、フランス中部のクレルモンで開かれた公会議で、十字軍の遠征を宣言する。 1096年、十字軍参加を誓った諸侯たち、ヨーロッパを後に中近東にむかう。 1097年、イェルサレムへの道に立ちはだかっていた最大の難関、シリアの大都市アンティオキアの攻防始る。 1098年、アンティオキア攻略成功。 1099年、イェルサレム「解放」。 実働期間ならばここまでのわずか3年で、第一次十字軍は、「異教イスラムのくびきに苦しんでいた聖都イェルサレムの解放」という大目的を達成したのである。これを知って、ヨーロッパ中が熱狂した。 「キリストの墓所の守り人」と名乗りはしたものの、実質的には初代イェルサレム王を務めたロレーヌ公ゴドブロア。 この3主要人物のすぐ後につづくという感じで、初めにエデッサ地方を征服してエデッサ伯に収まり、次いでは兄ゴドフロアの後を継いでイェルサレム王になったボードワン。そして、ボエモンドの片腕としてかならず大活躍したテンクレディの、若き将2人。 十字軍第二世代のそれなりの努力、 テンプル(聖堂)騎士団、 聖ヨハネ(病院・ホスピタル)騎士団 の協力による「城塞」の建設などで、かろうじて領地の維持は出来てきたものの、イスラム側に有能な指導者(ゼンギ)が現れると、兵力の大きな差はいかんともし難く、1144年「エデッサ」が陥落し、さらに「アンティオキア公領」も脅かされます。ここで、「イェルサレム女王 メリゼンダ」は法王「エウゲニウス」に救援を要請。法王は「修道士ベルナール」に「第2次十字軍」の派遣をドイツ皇帝、フランス王などに説得する役を負わせることとなります。 イェルサレム、再びイスラムの手に サラディンが自ら考えを押しとおしたことによって、彼によるイェルサレムの「解放」は、第一次十字軍による「解放」とはまったくちがう様相で、つまり殺戮をともなくこともなく実現したのであった。イェルサレムはこうして、八十八年が過ぎた後に、再びイスラム教徒のとしのもどったのである。 |
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![]() 十字軍騎士 |
2010年10月28日 塩野七生さんの「十字軍物語 1 」を読みました。本の表紙には完全武装した十字軍の騎士が十字軍の赤い十字の描かれた旗を持ち疾駆している姿が描かれています。背景は暗く、遠く、そして近くには城塞が浮き出ています。 「十字軍」という言葉は子供の頃から、そこはかとないロマンを感じる言葉で、その言葉だけで、キリストの聖都イェルサレムを奪回するために、身の危険をかえりみず突き進んだ騎士達の勇姿が目蓋に浮かんできまたものです。本当の姿はどのようなものだったのでしょうか?興味深く読み進むことが出来ます。 本の帯符です。長らくイスラム教徒の支配下にあった聖都イェルサレム。1095年、その奪還をローマ法王率いるカトリック教会が呼びかける。「神がそれを望んでおられる」のスローガンのもとに結集したのはキリスト教国の7人の領主たち。ここに第一次十字軍が成立した。さまざまな思惑を抱えた彼らは、時に対立し、時に協力し合いながら成長し、難事を乗り越えていく。ビザンチン帝国皇帝との確執、小アジア横断、大都市アンティオキアを巡る攻防・・・・そしてイェルサレムを目指す第一次十字軍の戦いはいかなる結果を見たのかー。(当時のキリスト教、イスラム教の世界) 書き出しです。戦争とは、諸々の難題を一挙に解決しようとしたときに、人間の頭の中に浮かび上がってくる考え(アイデア)である。と、ビザンチン帝国の皇帝からの救援の要請をもって西欧を訪れた特使を引見した後に、法王ウルバン二世も考えたかもしれない。・・・・ 十字軍の仕掛け人であるウルバン二世(シャンパーニュ地方の貴族の家に生まれ、グレゴリウス七世と同じクリュニー修道院で学んだ)は、1077年の「カノッサの屈辱」で神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒをへこませ、法王の権威を示したかわりに、その軍事力によってローマから追い払われ、南イタリアを転々としていた法王グレゴリウス七世の真の後継者と言えます。ハインリッヒに対する直接的な方策ではなく、法王権を高める方策として「十字軍」と言う「戦争」を仕掛けたのでしょうか? 聖戦への呼びかけ 1094年の秋、法王は中部イタリアのピサにいた。そこから法王の一行は、フィレンツェを通って北イタリアのピアチェンツァに向かう。ピアチェンツァで、グレゴリウス七世派、つまりキリスト教世界の改革に賛同する派の司教たちを集めて公会議をひらくことになっていたのである。・・・・世暦1095年11月、クレルモンの地で開催された公会議の主要舞台は、屋内ではなく屋外であった。・・・・「アピール」は、前半と後半に分かれて成されたようである。五十三歳になっていたかってのクリュニー修道院の修道僧は、彼のとっては生涯の勝負の場になるこのクレルモンで、聴く者の全員に向かって力強く語りかける。 まず、前半では、現在のキリスト教世界をおおっている倫理の堕落を嘆く。神の教えに反する利己的な行為が横行している現状を糾弾し、このまま放置しておいては神の怒りが下されると叱責する。そして、そのような事態に陥らないためにと、「神の休戦」を提唱した。キリスト教徒同士なのだから、領土保全であろうと領土拡大であろうと、戦争はやめにすべきだと説いたのである。 演説の前半ではキリスト教徒を非難したローマ法王だが、後半ではそれが異教徒に向かう。キリスト教徒の間で「休戦」が実現したとしても、キリスト者にはまだ重要な仕事が残されている、とつづけるのだ。そしてそれは、東方に住み、絶えずお前たちの助けを求めている「兄弟」の許に駆けつけて、この信仰上の同胞に助けの手をさしのべることである、と。・・・・イスラム教徒は地中海まで勢力を拡大し、お前たちの兄弟を攻撃し、殺し、拉致しては奴隷にし、教会を破壊し、破壊しなかったところはモスクに変えている。彼らの暴行を、これ以上許すべきではない。今こそ彼らに対し、立ち上がるときがきたのだ。・・・・なぜならこのことは、わたしが命じているのではない。主イエスが命じているのである。かの地へ向かい、異教徒と闘い、たとえそこで命を終えたとしても、お前たちは罪を完全に許されて者になる。わたしはそれを、神から授与されている権限をもって、はっきりとここで約束する。・・・・ 聴いていた人々は、一人残らず感動した。群集の間からは自然に、「神がそれを望んでおられる」(Deus livult)の声がわきあがり、その大歓声の中で、聖戦に志願する最初の一人が、演説を終えたばかりの法王の前に進み出た。・・・・ それにしても法王ウルバン二世は、アジテーターとしてもなかなかの巧者だったが、オーガナイザーとしても一級の才能を示すことになる。いっときの感激や興奮は、すぐに消えることを知っていたのであろう。この後の10日を費やして討議し公会議で決定したのは、次の諸項であった。 1、十字軍に参加する者は、完全免罪が与えられる。 人間は生まれたときから原罪をもつ身であるとはカトリックの教理の基本だが、その原罪に日々の生活で犯す小さな罪が加わると、特別に悪いことをしていなくても死後の天国行きが不安になってくる。そう思う善男善女が大半であったのが、中世であった。それを、参加さえすれば天国行きは確実だと言われたのだから、この人々が救われたと喜んだのも当然であったのだ。 また、完全免罪とは、殺人などの凶悪な罪を犯した者にも「免罪」を与えるということである。つまり、十字軍に参加さえすれば、これまでの悪行もすべて帳消しにするというのだから、アウトローたちまでが競って十字軍に参戦することになったのである。 2、 病気中とかのやむおえない理由によって参加が無理な者は、他の人々の参加に要する費用、衣服や武器を買い求めるための費用を献金すること。 このことの決定は、貧民たちにも十字軍参加への道を開くことになった。 3、 発つ者後に残していく資産、動産、不動産の別なく資産の帰国までの保全は、ローマ法王が保証人になり、その者が属する教区の司祭が実際の監視の責任を負う。 4、 十字軍参加に要する費用捻出のために資産を売る必要のある場合、またはその資産を担保にして借金する場合は、それが正当な値で成されることを法王が保証し、実際の監視は司教や司祭が責任を持つ。 5、 十字軍に参加したい者はまず、その者が属す教区の司祭に申し出、その許可を得た後で十字架に誓い、その後初めて出発することができる。 6、 十字架に誓った後でも出発せず、または出発しても途中から早々にもどってきたりした者は、だだちに破門に処せられる。・・・・ 「貧民十字軍」 粗末な僧衣に身を包み、ろばに乗って村々をまわる巡回説教僧である隠者ピエールに先導された十万人とも言われる?騎士、兵士、農民、都市の下層に属する人々の「貧民十字軍」は、諸侯たちの十字軍に先立ってコンスタンティノープルから小アジアへ渡りますが、イェルサレムへ着くことが出来たのは極少数の人たちだけだったようです。 「諸侯たちの十字軍」 その主要メンバーは トゥルーズ伯サン・ジルと法王代理の司教アデマール。 ロレーヌ公ゴドフロアと、その弟のボードワン。 プーリア公ボエモントと、甥のタンクレディ。 の三組6人となり、兵力は約5万と推定されています。 諸侯たちの十字軍は、西暦1097年の春に小アジアに渡り、ビザンチン帝国のアレクシオス皇帝の数々の企み、妨害を受けながら、セルジューク・トルコとの戦いを進めます。ニケーアを攻略、ドリレウムでトルコ軍の大軍を破り、西暦1097年10月20十字軍の最初の兵士が、アンティオキアを遠望する丘に姿を現します。そして、長い攻城戦の結果、西暦1098年6月3日アンティオキアは陥落します。城内では、異教徒に対する殺戮、略奪が行われます。 アンティオキアから聖地イェルサレムの解放へ向かう十字軍の諸侯の顔ぶれは、ロレーヌ公ゴドフロアと弟ユースタス トゥルーズ伯サン・ジル タンクレディ ノルマンディー公 フランドル伯 となります。兵力は1万5千に減っています。 その他の方々は ボードワンはエデッサとその周辺一帯の堅持のため 司教アマデールはアンティオキア陥落後疫病で死去 ボエモントはアンティオキアとその周辺一帯の堅持のため フランス王弟ユーグは十字軍からの皇帝アレクシオスへも提案を持ってコンスタンティノープルへ ブロア伯は北ヨーロッパの自領へ として、イェルサレム解放には向かえぬこととなります。 「聖都イェルサレム」 西暦1099年6月7日、十字軍はイェルサレム遠望する地に到着します。その部分のを抜粋します。 西暦1099年6月7日、十字軍はついに、イェルサレムを遠望する地に到達した。諸侯たちは馬から降り、甲冑のたてる金属音の中で、まるで教会の中にでも入ったかのように、うやうやしく片ひざをつき、兜を脱いだ。騎士たちも馬を降り、それのつづく。 兵士たちに至っては思わず両膝をついてしましい、両手を上にあげて泣き出す者もいた。誰もが感動に震え、感涙にむせんでいた。生まれてときからくり返し聴かされてきた聖都イェルサレムが、今や彼らの目の前にある。おりからの夕日を浴びて、静かにそこにあるのだった。ついに来たのだ、という想いが全員の胸を満たし、それがあふれてくるのを甘美な想いで受けとめていたにちがいない。 第一次十字軍の戦士たちは、この瞬間、謙虚な巡礼者になりきっていたのである。・・・・・イェルサレムは、このような想いを人々に感じさせる都市なのである。だが、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の別なく、同じたぐいの想いを抱かせてしまうのところが、一神教で摩擦を産む原因でもあるのだった。・・・ 「イェルサレム」解放 7月15日の朝の攻撃で、イェルサレムは解放されます。イェルサレムの市内では、その間、アンティオキアの陥落時にも優るとも劣らない残虐さで、惨劇がくり広げられていた。 アンティオキアのとき同様に、十字軍は、市内にはイスラム教徒しかいないと思いこんでいる。キリスト教徒はいなかったが、ユダヤ教徒はいたのだ。だが、ヨーロッパから来たキリスト教徒にしてみれば、ユダヤ教も異教徒である。それで十字軍の兵士たちは、人と見るや殺しまくったのである。捕らえて奴隷に売ることでさえ、その日の彼らの頭にはなかったようであった。聖なる都イェルサレムには、異教徒は一人でも残っていてはならないのであった。・・・・ ・・・・第一次十字軍によってシリア・パレスティーナの地に打ちてた十字軍国家は、これら第一世代が創り上げたのであった。ヨーロッパを後にした1096年からイェルサレム陥落までの3年間で征服をし、その後の18年間を費やして確立して行ったのである。皇帝や王も参戦していなかった第一次十字軍の主人公たちは、ヨーロッパ各地に領土を持つ諸侯たちであった。彼らは、ときに、いやしばし、利己的で仲間割れをくり返したが、最終目的の前には常に団結した。この点が、利己的で仲間割れすることでは同じだった、イスラム側の領主たちののちがいであった。そして、それこそが、第一次十字軍が成功した主因なのである。 十字軍は第八次まで行われ、200年後、1291年には十字軍国家が消滅します。信心深いキリスト教徒にとって、主イエスの足跡をたどる巡礼行が不可能ななり、それによって与えられる免罪に手が届かなくなってしまったのです。ローマ法王庁は「ローマに巡礼してもイェルサレムに巡礼すると同じ神の許しが得られる」と、決めました。このローマ巡礼が「聖年」で、1300年に始まり、原則的には25年ごとで、2000年は「大聖年」ということのようです。(以上、「絵で見る十字軍物語」から) 第二次十字軍以降の状況は次号からの楽しみです。「十字軍物語 1 」の発刊の前に、「絵で見る十字軍物語」が刊行されており、十字軍の概略は読み取ることが出来ます。でも、本編が待ち遠しい想いです。 |