京都の旅しおり2 鞍馬寺・貴船神社・上賀茂神社・下鴨神社 梅原猛氏 「京都発見」より |
鞍馬寺・貴船神社は京都の北、山奥の異域、義経天狗伝説の残る不思議は地域です。 社研会では会が始まった頃訪れ、貴船「ひろ文」で涼しすぎる「うなぎ鍋」の川床料理を味わったことを覚えています。
鞍馬寺・貴船神社 鞍馬寺と毘沙門天 鞍馬の毘沙門天様は伏見のお稲荷様や、清水の観音様や北野の天神様とともに平安時代から都の人の尊崇の最も厚かった神仏であり、中世の説話などにはこの毘沙門様の功績がしきりに語られている。 この鞍馬の毘沙門について少し謎がある。それは元の本尊はどのような形の毘沙門天であったかということである。現在の鞍馬寺本堂の本尊はもちろん毘沙門天であり、その両脇に千手観音と魔王尊とが並んでいる。本尊はいずれも秘仏で、その姿は明らかではないけれど、御前立から本尊を推察すると、本尊は鞍馬様といわれる、右手を腰に当てて左手に戟を持った姿の毘沙門天であろう。・・・ 毘沙門天は元々、バラモン教ではクラーベといって北方を守護する神であるとともに財宝を授ける神であった。この北方を守護する毘沙門天は、東方を守護する持国天、両方を守護する増長天、西方を守護する広目天とともに四天王とされ、仏教護持の神として厚く崇拝された。・・・・・・あの左手を額に当てた毘沙門天は何か、私はこの毘沙門天を見ると源義経のことを連想する。・・・ ・・・今も鞍馬寺が多くの信者を集めているのも、主として毘沙門天がこのような性格の神であることによろう。してみると賢い神は時代時代にその姿を変えて人々の願望を満足させるものであると言わねばならない。
鞍馬寺と観音・阿弥陀信仰 鞍馬寺は毘沙門天の聖地として、貴賤の崇拝を集めたが、鞍馬寺に祀られているのは毘沙門天のみではない。現在の鞍馬寺の本尊の中尊は毘沙門天であるが、その向かって右には千手観音が、左には魔王尊が祀られている。・・ここは千手観音について考えてみよう。 ・・・鞍馬と念仏の結び付きは、或いは観音の取り持つ縁といえるかも知れない。なぜなら観音は人間の願いを叶える仏でもあるが、また一方で阿弥陀如来の脇侍であり、勢至とともに念仏行者を極楽浄土の阿弥陀の許に届けるという役を果たすからである。 かくして鞍馬は古代の末期に、浄土念仏の根拠地と化す。鞍馬を阿弥陀念仏の地としたのは重怡(じゅうい)上人であった。重怡は叡山で顕教と密教を学んだが、のちに鞍馬寺に移って丈六の阿弥陀仏を祀る堂内にすんで、大治2年(1127)から13年間、もっぱら弥陀の名号を称えた・・・この丈六の阿弥陀仏が負わす堂が現在の「転法輪堂」である。 鞍馬寺と魔王尊 鞍馬寺は昭和24年(1949)、天台宗から独立して、鞍馬弘教(くらまこうきょう)の総本山となった。初代管長の信楽香雲師は与謝野晶子門下の歌人であり、与謝野鉄幹・晶子夫妻はたびたび鞍馬を訪問し、 何となく 君に待たるる 心地して 出でし花野の 夕月夜かな 晶子 遮那王が 背比べ石を 山に見て わが心なは 明日をまつかな 寛 という歌を歌碑に残している。 この鞍馬弘教は「尊天」を本尊としている。尊天というのは鞍馬山の本殿に祀られる毘沙門天、千手観音と護法魔王尊が合体したものであるというのが、どちらといえば護法魔王尊の性格が強い。鞍馬弘教では、尊天を一目一草にも慈悲を注ぐ宇宙生命そのものと考えている。鞍馬弘教の教えは生きとし生けるものとの共生という現代の思想を先取りしたものといえるが、それは鞍馬の地に誠にふさわしい。・・・
・・・貴船の神が鞍馬の山を支配していたことは明らかである。なぜなら『鞍馬蓋寺縁起』などによれば、藤原伊勢人(いせんど)はこの鞍馬山で最初に貴船の神に出会い、鞍馬寺を建てる許しを得たからである。・・・ この貴船の神は加茂川を遡って、ここにやって来たという伝承がある。貴船というのも神が乗って来た「黄色い船」、或いは「木の船」の名をとったものであるという。・・・ ・・・この貴船に船でやって来た神は玉依姫であるともおわれたが、玉依姫は神武天皇の皇母であり、また下上鴨神社の創建とも関係がある。貴船神社の御祭神は高?神(たかおかみ)を筆頭に、闇?神(くらおかみ)やみずはのめがみ、そして先程の玉依姫であるが、やはり主神は水の神であろう。それは交通を司る神はであるとともに、農耕に最も必要な水を司る神として尊崇されたのであろう。・・・ ・・・表紙にわざわざ「不許他見(たにみせることあたわず)」と書かれた「黄船社秘書」(「黄船社人舌氏秘書」)という書物で、舌左衛門守主(ぜつさえもんもりぬし)という人が書いたものである。それはかってこの貴船神社の宮司でもあり、その後、社人・社家となった舌家の由来である。・・・ 上賀茂神社・下鴨神社 賀茂の神と「風土記」逸文 京都には数々の由緒ある神社があるが、下鴨・上加茂の下上賀茂社ほど由緒ある神社はない。この神社では嵯峨天皇の時から後鳥羽天皇の時まで天皇の時まで天皇の皇女を神に仕える斎王とされたが、これは神に対して自分の最愛の娘を捧げるという行為を意味する。・・・皇女を斎宮に出した伊勢神宮と皇女を斎王に出した賀茂社のみである。こういうことを考えてもいかに賀茂社に対する皇室の尊崇が厚かったかが解る。 賀茂の社についての最も古い文献は『山城圀風土記』逸文である。この『風土記』に依れば、以下のようにある。 賀茂の神というのはもともと日向の曾(そ)の峯(たけ)、即ち高千穂の峯に降臨した賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)という神であった。ところが神武天皇の東征に先立って、この神は大和の葛木(葛城)山の峯に移り、そこからまた山代(山城)の国の岡田の賀茂に行き、更に葛野(かどの)河(桂川)と賀茂河の出会う所に至り、上流の方を見て、「狭く小さいけれど、石川の清川である」とおっしゃった。それでこの川を石川の「瀬見の小川」という。そこからさらに遡って、「久我の国の北の山基(やまもと)に鎮まった。 この一文の依れば賀茂の神は日向の高千穂の峯→大和の葛木→山代の岡田の賀茂→瀬見の小川→久我の国の北の山基というコースをとって放浪した。「岡田の賀茂」とは京都府相楽郡加茂町にある岡田鴨神社、「瀬見の小川」は今の下鴨神社、「久我の国の北の山基」は今の上賀茂神社の所在地であろう。 この話には密かに賀茂の神の功績が語られている。賀茂の神のお使いは三本足の烏であるが、この烏は熊野から大和に出ようとして道に迷っていた神武軍を無事宇陀の地に導くという功績を立てた。・・・ このように見ると、賀茂の神は渡来の農業神であるが、そうとばかりは思えない節もある。なぜならば、古来より神は天神即ち渡来の神と、地祇即ち土着の神に分れるが、「山代の鴨」は伊勢、住吉などの神とともに天神に入れられるが、「葛木の鴨」は大国主や大物主などの神とともに地祇に入れられるからである。葛木にはコトシロヌシやアジスキタカヒコネなどのいわゆる出雲系の神を祀る神社が在り、しばしば土蜘蛛の根拠地とわれる。この渡来の賀茂の神は北へ北へと放浪し最後に京の地に行き、大和朝廷はその神の後を追って京の地に入り、そこを都としたことになる。・・・ 日本が日本になっていくのには長い種々の営みがあったようです。天神と地祇の神々の様々な相克。これによってニッポンが生まれ育ってきているのでしょう。 葵祭と斎王 ・・・京都の三大祭といえば、この時代祭と祇園祭を指すが、祇園祭の方は応仁の乱の乱を挟んで一時中断はあるものの、京都の町衆によって続けられていたのに対し、時代祭は百年前に始められたものであり、葵祭もいったんさびれ、停止していたものが明治17年(1884)に再興されたものなのである。 下上賀茂社に斎院を置き、天皇の皇女である斎王を奉仕させるようになったのは、嵯峨天皇の御代である。嵯峨天皇は同母兄の平城天皇と皇位を争った。・・・嵯峨天皇はこの兄上皇の反逆に対し、カモの神にその乱の調伏を祈り、この反乱が収まれば皇女を奉るとおっしゃった。そしてそのためか、「薬子の変」といわれるこの反乱も無事収まったので、約束通り、カモの神に斎王を奉仕させたというのである。これは下上賀茂社が神の位において斎宮を奉ることになっている伊勢神宮と並んだことを意味する。 ・・・カモの神から「自分は斎王の奉仕を受けたものの、極めて寂しいので、秋にも奉幣画ほしい」との託宣を受けた。即ちこの時より賀茂の臨時祭が始まることになる。臨時祭は中断を挟んで明治3年(1870)まで続く。この託宣によって宇多天皇は即位することが出来た。宇多天皇は嵯峨天皇の曽孫であるが、カモの神は嵯峨・宇多という平安時代を代表する極めて賢明な二人の帝によって、カモの神はその力において、遠くにいらっしゃる伊勢の神より強い神になったのである。この嵯峨天皇の時代から華やかな葵祭の行幸が始まる。 現行の葵祭の次第は大体以下の通りである。まず、「宮中の儀」、即ち勅使役が祭文(さいもん)と幣物(へいもの)を受け取る儀、そして御所を集合場所として行列の支度をする儀、即ち列立(れつだて)・進発(しんぱつ)の儀が主である。次に「路頭(ろとう)の儀」、」即ち斎王代を中心とする一行が御所から出て、下鴨神社及び上賀茂神社まで行列する儀と、「社頭の儀」、即ち下上賀茂社に斎王代がお詣りする奉幣の神事である。・・・ このような儀式はかってはもっと華やかであり、斎王やそれの伴う勅使・検非違使志(さかん)・舞人陪従(べいじゅう)(楽人)などの美しい装束に身を固めた姿を見ようと、都の人は老若男女みなみな祭りを見に集まったのである。
京都の歴史上の奥の深さをしみじみと感じさせられます。 以下は、梅原猛氏の語りたくて語れなかったことを記してみたい。氏は公式な歴史観を述べなくてはならない立場にいますし、神社の歴史については夫々の神社が祭神を始めとしての内容を尊重しなくてはならない立場にいます。 昭和60年(1985年)に氏は「神々の流懺」(流懺のざんの字は元の字とは違っています。)で、出雲神話の舞台は大和ではなかったか!?との仮説を強く主張しました。 しかし、出雲地区に多く出土する銅鐸、銅剣、遺跡を考慮して、平成24年(2012年)になって「葬られた王朝」で過っての仮説を取り消し、出雲神話の重要性を述べ、出雲地区、読者に謝罪しました。 この一文の依れば賀茂の神は日向の高千穂の峯→大和の葛木→山代の岡田の賀茂→瀬見の小川→久我の国の北の山基というコースをとって放浪した。「岡田の賀茂」とは京都府相楽郡加茂町にある岡田鴨神社、「瀬見の小川」は今の下鴨神社、「久我の国の北の山基」は今の上賀茂神社の所在地であろう。 下上賀茂社に斎院を置き、天皇の皇女である斎王を奉仕させるようになったのは、嵯峨天皇の御代である。嵯峨天皇は同母兄の平城天皇と皇位を争った。・・・嵯峨天皇はこの兄上皇の反逆に対し、カモの神にその乱の調伏を祈り、この反乱が収まれば皇女を奉るとおっしゃった。そしてそのためか、「薬子の変」といわれるこの反乱も無事収まったので、約束通り、カモの神に斎王を奉仕させたというのである。これは下上賀茂社が神の位において斎宮を奉ることになっている伊勢神宮と並んだことを意味する。 ・・・カモの神から「自分は斎王の奉仕を受けたものの、極めて寂しいので、秋にも奉幣画ほしい」との託宣を受けた。即ちこの時より賀茂の臨時祭が始まることになる。臨時祭は中断を挟んで明治3年(1870)まで続く。この託宣によって宇多天皇は即位することが出来た。宇多天皇は嵯峨天皇の曽孫であるが、カモの神は嵯峨・宇多という平安時代を代表する極めて賢明な二人の帝によって、カモの神はその力において、遠くにいらっしゃる伊勢の神より強い神になったのである。この嵯峨天皇の時代から華やかな葵祭の行幸が始まる。 私が住まいする南山城地区は、上に述べられている岡田鴨神社のある相楽郡加茂町が含まれています。木津川に沿ったこの地域には、いわゆる饒速日尊系統の神社が多くあります。その祭神は「天火明命」=「天照国照彦櫛玉饒速日尊」などです。 上賀茂神社=賀茂別雷神社の祭神は「賀茂別雷神」で、下鴨神社の祭神「賀茂建角身命」の孫・「玉依姫」の子です。では親父の名はなぜ出ていないのでしょうか?「賀茂の神々と久我(こが)の国」では、御歳神(みとし)・火雷神(ほのいかづち)であろうとしています。 大野七三氏によれば賀茂別雷神社の祭神は 賀茂別雷神=饒速日尊 としています。 過去の天皇は伊勢神宮と上下賀茂神社に斎宮をもうけ斎王を派遣しました。その理由は明らかに上下賀茂神社の祭神を重要視しているということでしょう。 天皇家は過去から天照大神(伊勢神宮)とともに素戔嗚・饒速日(上下賀茂神社・大神神社・石上神宮・春日大社・日吉大社など)を重視してきているのでしょう。 素戔嗚尊が出雲国を創建しその後九州平定→饒速日尊の北九州統治→饒速日尊の東遷→奈良盆地に侵攻→奈良盆地「纏向」を王都に(畿内最初の「ヤマトノ圀」成立)→神武天皇(幼名・狭野尊)の東遷→狭野尊(神武天皇)と伊須気余理比売(饒速日尊の娘)の養子縁組→神武天皇と宇摩志麻治命(饒速日尊の息子)の盟約→神武天皇の即位と皇祖神饒速日尊 神武天皇の即位以前は、皇妃(みめ)であった姫蹈鞴五十鈴姫(「古事記」では伊須気余理比売)は即位の時に皇后となったという。 宇摩志麻治命、天瑞宝(あまつみづのたから)を献(たてまつ)る。 神武天皇から万世一系の皇統が続いている日本の伝統は古事記・日本書紀の記載から明らかですが、その神武天皇の即位時点で素戔嗚から饒速日に続いた王朝との交代があったのです。 天皇家にとって上下賀茂神社は本当に大切なものであったのでしょう!!! |
作者近況 |
鞍馬寺・貴船神社・上賀茂神社・下鴨神社を訪ねました。 風景編 |