2017年6月15日、16日 春の京都 「山ばな平八茶屋」へ泊り 鞍馬寺・貴船神社・上賀茂神社・下鴨神社を訪ねました。 風景編 |
岩上を少し戻ると清流が流れています。「明神川」です。褐色の葉・水中の白い花の風景を。 |
2017年6月15日 12時30分、今回は宿泊をしないのですが、解り易いようにグランヴィアのロビーをお借りし集合場所としました。25分には8名全員が集まり、タクシー2台に分乗し「叡山電車出町柳駅」へ向かいます。 13時丁度の鞍馬寺行きに辛うじて間に合い、「叡電」に乗車しました。 総本山鞍馬寺 13時30分には「叡電 鞍馬寺駅」に到着しました。 駅前広場で、「巨大な天狗面」が迎えまています。 「鞍馬寺」への登り口に着きました。 仁王門(山門)を見上げます。 仁王門(山門)です。 「御手洗い」横にある「童形六体地蔵尊」 鞍馬山案内には以下のように記されています。 鞍馬山は、すべてのいのち輝く世界のために、明るく暖かく力強く生きるための活力を、本尊「尊天」からいただくための浄域です。 尊天とは、この世に存在するすべてを生み出す宇宙生命、宇宙エネルギーで、その働きは慈愛と光明と活力とあなって現れるので、 慈愛ー月の精霊ー千手観世音菩薩 光明ー太陽の精霊ー毘沙門天王 活力ー大地(地球)mp霊王ー護法魔王尊 三身一体尊天 として、「月のように美しく、太陽のように暖かく、大地のように力強く・・・すべては尊天にてまします」とお唱(とな)えします。そして、尊天の心をわが心として自身の心華(しんげ)(純粋無垢な心)に気づき、いのちを輝かせながら明るく暖かく力強く生きることを見ざし、宗派、人種、国境などの垣根をとり払って、ひとりひとりの真のめざめと万物の調和を祈るのです。・・・ なんとも難解な説明です。 普明殿(ケーブル山門駅)でケーブルで途中まで行く2人と別れ、他の6人は急な坂を歩き始めました。 登り道の右手に「魔王の滝」があります。 「魔王の碑」です。 「由岐神社」が見えてきます。 石段を上がって行きます。 石段の上に大きな神木が見えてきます。 「大杉」です。 「由岐神社」本殿 由岐神社横の「鹿子の木」 毎年10月22日には「鞍馬の火祭」が行われます。 「由岐神社」の由来は 由岐神社は鞍馬寺の鎮守社で、大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)を主祭神とし、八所大明神を相殿に祀る。 「古事記」・「日本書紀」では「大国主神」の別称として「大己貴命」その他、多くの別称がウキィペディアに記されています。以下に記してみます。 「大物主神」・「大国魂大神」・「蘆原醜男(あしはらのしこお)」・「八千矛神(やちほこかみ)」等ですが、古事記・日本書紀では大国主は天照大神の弟・素戔嗚命の6世の子供としています。 奈良にある「大神神社(おおみわじんじゃ)」の祭神は「大物主大神(おおものぬしのおおかみ)」、配祀として大己貴神・少彦名神とされ、倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまみこと)のことであるとしています。神一行氏の「消された大王 饒速日」では、全て「饒速日尊」のことであり、記紀時代から彼を大国主命として神話の世界を作ってしまった。としています。 今回の旅は「鞍馬寺」・「由岐神社」・「貴船神社」・「上賀茂神社」・「下鴨神社」ですが、お祀りしている祭神は「大物主神」に関連していると思われます。 別資料も参考にしてください。旅のしおりとして作ったものです。 「双福苑」 この辺り一帯を双福苑と呼び、天に聳える杉を「玉杉大黒天」と尊崇し、傍らには、福徳の神である「玉杉大黒天」「玉杉恵比寿尊」の祠があります。 「碑句」「つづらをり まがれるごとに水をおく やまのきよさを 汲みてしるべく」 香雲 「貞明皇后行啓御休息」 大正13年、貞明皇后(大正天皇の皇后)が行啓の際、休息された場所です。 巽の弁財天社 学芸・財宝を司る福神、弁財天を祀る。水琴窟も付設されている。 転法輪堂 転法輪堂、伝重怡上人礼拝之仏、木造阿弥陀如来座像(江戸時代)平安時代に13年間も堂内に籠り、毎日12万遍の弥陀宝号を唱え続けた重怡上人が、6万字の弥陀宝号を書いて法輪に納めたのが、転法輪堂の名の由来。 阿弥陀h如来坐像 転法輪堂からの景観1) 2) 義経公供養塔 供養塔をアップすると 本殿金堂・金剛床 宇宙の大霊、尊天のお働きを象徴する千手観音菩薩・毘沙門天王・護法魔王尊(脇侍、役行者・遮那王尊)を奉安する中心道場。御本尊は秘仏で、60年に一度、丙寅の年に開扉されます。本殿の地下は、宝殿で信徒の清浄髪が厳かに祀られています。 狛犬ならぬ「阿吽」の虎は、本尊毘沙門天のお使いである神獣。毘沙門天の出現が、寅の月、寅の日、寅の刻とされていることによります。五十音が「あ」から始まり、「ん」で終わることから「阿吽」は、宇宙の全てを包含すると言われています。 本殿金堂前の金剛床は、宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく広がる星曼荼羅を模し、内奥に宇宙の力を蔵する人間が宇宙そのものである尊天と一体化する修行の場となっています。 本殿金堂 ケーブルで登った2人はすでに着いていました。 左手の建物は本坊(金剛寿命院)で光明心殿との間には「奥の院」へ向かう道が通じています。 霊宝殿(博物館)へ向かっての石段。 霊宝殿(鞍馬山博物館) 霊宝殿(鞍馬山博物館)の1階は、自然科学博物苑展示室。2階は、寺宝展観室と與謝野寛・晶子の記念室。3階は、仏像奉安室です。鞍馬寺では、霊宝殿(鞍馬山博物館)だけでなく、鞍馬山全体を自然ミュージアムと、捉えています。 「毘沙門天三尊像』(国宝) 聖観音立像(重文) とばつ毘沙門天 などがおかれています。 畳にすわりゆっくりと出来ました。 冬栢亭(与謝野晶子書斎) 義経公息つぎの水 霊宝殿を出て、小さな門をくぐると、険しい奥の院参道となります。牛若丸は、天狗に兵法を習うために深夜、独りで奥の院道を急ぎ、途中で息つぎのために湧水を飲んだ場所とされています。 奥の院への道(14時20分) 1) 2) 「木の根道」 「木の根道」 根が地表面でアラベスク模様を描くのは、この辺り一帯の砂岩が、灼熱のマグマの貫入によって硬化したために根が地下に伸びることが出来なかったため。牛若も「木の根道」で兵法修行をしたと伝えられています。「下に這う鞍馬の山の木の根見よ 耐えたるものはかくのごときぞ」 與謝野寛(鉄幹) 不動堂 大杉権現社」前方の小径を行くと、「背比べ石」から直進していた道と合流し、「不動堂」に出ます。ここには、伝教大師、最澄が天台宗立教の悲願に燃え、一刀三礼を尽くし刻んだ不動明王が奉安されています。 謡曲 「鞍馬天狗」と僧正ヶ谷 大杉 15時10分 「大杉権現」への分かれ道です。 「義経公背比べの石」 平家が父仇であることを知った牛若は奥州平泉の藤原秀衡を頼って鞍馬寺を出奔します。その際、名残を惜しんで、この石と背比べをしたと伝承されています。 義経堂 奥州で非業の死を遂げた義経の御魂は、懐かしい鞍馬山に戻り安らかに鎮まっていると伝えられ、遮那王尊として祀られています。この辺りは、牛若が天狗に兵法を習った「僧正ガ谷」です。 奥の院魔王殿 「魔王殿」は太古、護法魔王尊が降臨した磐坐・磐境として崇拝さ れてきましたた。「木太刀もて岩を斬りたる遮那王の やという声に似る歌無きか」與謝野寛(鉄幹)「太刀跡の岩 義経が裂きたるや 杜鵑の声が紋を残すや」與謝野晶子 魔王堂 奥の院拝殿内 下りの道に川音が聞こえてきました。 15時20分、「鞍馬寺西門」に着きました。 10分後、一同も無事に山越えができました。 貴布禰総本社貴船神社 由緒です。 貴船神社(きふねじんじゃ)は水を司る高竈神(たかおかみのかみ)を本宮に祀っています。鞍馬寺西門をでて貴船川沿いに上ると、 左手に料理旅館、右手の貴船川には川床が並んでいます。 神社の鳥居に着きます。 赤い灯篭台が続く石段はなかなかの風情です。1) 2) 貴船神社です。 貴船神社概況です。 拝殿でお詣りします。 水の神様、「水占いおみくじ」の為の水だまりがあります。 1枚お預かりして占ってみました。「小吉」でした。 5月25日、嫁さんとの下見の際は「奥宮」へも足を延ばしました。日曜日でしたから、多くのお客さんが歩いています。 「相生の杉」(御神木) 奥宮への鳥居です。 奥宮拝殿です。 奥宮をお詣りします。 奥宮からの帰りの途中に、過って泊まった「ひろ文」の前を通りました。 昼の懐石を知らせる右源太・左源太のポスターです。 左手の貴船川の中に設置されている川床です。 貴船口までバスで下り、叡電で修学院駅まで、10分ほど歩いて、17時20分、今日のお宿「山ばな平八茶屋」へ着きました。 「山ばな平八茶屋」 「騎牛門」をくぐり、風情のあるお庭を通り、離れとなっている建物へ向かいます。大広間では舞妓さんを含めた一団が宴会を開いていました。 離れまでのお庭1) 2) 3) 17時30分、部屋の下には「高野川」が流れています。 歴史を感じる部屋への通路です。 階段の突き当りに昔の平八茶屋を描いた絵が掛けられています。 別棟のお風呂は2戸あり、男女に分かれていますが、この日は宿泊客が我々だけのため、両方を使うことが許されました。風呂は通常の風呂の他に「かま風呂」が備えられていました。サウナと違い、畳敷きの部屋の中で安らげます。 18時30分からは、お待ちかねの夕餉の宴です。やはり、別棟です。 夕餉の部屋はやはり、由緒深い「奥の間」でした。大女将がこの御部屋の特色を説明してくれました。 床の間の書 天然の木を使った部屋の造り 木肌を使った天井の造り 大女将からは特に「書」の説明がありましたが、その後のお酒の為、遠くに飛んで行ってしまいました。 今回は「川魚料理」をお願いしていました。 この時期しか味わえない「鮎の背越し」です。もちろん、酢味噌でいただきます。 お吸い物 「八寸」 鯉の甘煮 天婦羅 平八茶屋の名物「麦飯とろろ」が〆として食すことができました。 もちろんその後にデザートはでましたが、十分すぎるお酒の為、記憶が薄れています。ごめんなさい。 部屋に戻り、話したりなく思っているメンバーは、お宿へ来る途中でセブンイレブンで購入したサントリーオールドで更に憂さを払いました。 「平八茶屋」のパンフレットによる「平八茶屋の歴史」抜粋 安土桃山じだいより、今に伝える雅の心 天生年間、安土桃山時代、初代平八は、若桜街道(京都ー小浜を結ぶ街道の一つ、鯖街道ともいう)の街道茶屋として小さな茶店を始めました。東に比叡山、西に高野川の清流を望む山端(やまばな)の地にて、京を出る旅人は、わらじの緒を締めなおし、「麦飯とろろ」をかき込んで旅路につき、京に入る旅人は、傘の紐を緩め、一服のお茶を飲み、都へ上がっていきました。・・・ 明治に入り鉄道が開通すると、少しずつ街道は廃れ、日本海の海産物が手に入りにくくなった当家では、高野川や鴨川、琵琶湖などでとれる新鮮な川魚を仕入れ、街道茶屋から川魚料理専門の料理屋へと変わっていきました。それから、百年。・・・四百三十年の時を経て、今もなお、名物として伝え続けてきている「麦飯とろろ)。昔から変われぬこの京都洛北の地にて、心の茶屋としてあり続けます。 |
2017年6月16日 朝、8時から前夜の宴会の場での朝食に向かいます。 朝、ビールを全員で。 出汁巻き卵・焼き魚・冷奴・海苔・漬物 出汁巻き卵の味が抜群でした。 賀茂別雷神社(上賀茂神社) 神社全景 9時に予約をお願いしたジャンボタクシーで、まず、上賀茂神社へ向かいます。 9時30分、神社正面の大鳥居前に着きました。 広い広場を歩き、「二の鳥居」をくぐり、更に、「茅の輪くぐり」(6月に行われる神事です)を行い、拝殿前に着きます。 拝殿前には2つの砂の円錐(砂盛)が造られています。 本殿内の特別拝観が行われており、折角ですからお詣りすることとしましたが、10時からということで、神社の境内内を拝観に向かいました。 右手奥の神社の古く、不思議な、木々に囲まれた建物を撮ってみました。 「岩上」とは 結界に囲まれた「岩上」 岩上を少し戻ると清流が流れています。「明神川」です。褐色の葉・水中の白い花の風景を。1) 2) 「睦の木」(スダジイ)です。 1) 大木の横側から 2) 「はな菖蒲」が咲き乱れる地域がありました。 花をたどりながら、歩いていきます。心が落ち着きます。 願いが叶うと記された「願い石」(陰陽石)1) 2) 紫式部歌碑が。(ほととぎす 声をまつほどは 片岡の もりのしずくに 立ちやぬれまし) 10時となり、社務所で申し込みをします。「浄掛」(御社殿の御屋敷檜皮古材が含まれています)を拝受します。 修学旅行の生徒たちが説明を受けている回廊から外を撮りました。その後は神社内ですので撮影は遠慮しなくてはなりません。回廊からの撮影。 客殿部屋内で解説とお祓いを受け、拝殿を抜け、本殿・権殿をお詣りします。通常神様は本殿に居られるが、何かの時に権殿へ仮に移られるということでした。 その為の2殿式ということです。 本殿・権殿をお詣りし、下鴨神社へ向かうこととしました。 賀茂御祖神社(下鴨神社) 11時、下鴨神社に到着し、鳥居をくぐり「糺(ただす)の森」を歩きます。深い木々に囲まれた神域と実感できる雰囲気を味わいます。 左手に「河合神社」の鳥居が見えました。 河合神社に入りました。 河合神社の御祭神は「玉依姫命」、上賀茂神社の御祭神賀茂別雷神の母堂とされた方です) 鳥居をくぐります。 御門内には珍しいものもあります。 「鴨長明の」方丈とされる建物 その説明版 「糺の森」を歩き、二の鳥居に着きます。 御門との間に「さざれ石」が置かれていました。 御門内の「毎殿」です。 正面右手には 御門を入ります。 干支別のお詣りの拝殿 我々、午年の拝殿 井上社(御手洗社) 御手洗社からの流れ(みたらし川) 「輪橋と光琳の梅」と御手洗川 阿闍梨餅本舗 京菓子司 満月 「糺の森」を歩き、11時30分、ジャンボタクシーに戻ります。12時予約の「葵匠」さんへはチョット早いかなと思っていたところ、運転手さん(萩原さん)から京都のお土産として人気の「阿闍梨餅」(東京でのゼミ仲間の集まり・松本での中学の同級会などには必ず持参します)の本店へ案内しますと、との嬉しい話があり、もちろん、大賛成で、店に向かいました。試食で納得の皆はほゞ全員購入!!! 京の老舗処 田辺宗 一階は 京つけもの・味噌の 田辺宗 二階は 植字処 旬彩ダイニング 葵匠 12時丁度、「葵匠」に到着しました。 お昼の反省会は「月替わり会席」(昼)を依頼していました。銀鱈西京焼きは大変美味であり、漬物のお寿司も納得のお料理でした。お酒は冷酒が美味しく、もちろん、飲みすぎとなりました。 今秋、次回は信州でとの話がありましたが、奈良・吉野の旅館を知っているとの話が宮さんからあり、皆さんの意向がその方に傾いて行きそうです。 |
改めてここで「賀茂別雷神社」と「賀茂御祖神社」について なぜ、皇室は両神社を大切にし、 例祭 賀茂祭「葵祭」の折に、勅祭として勅使が使わされるのか? この理由について「賀茂別雷神社」のパンフレットでは面白い説明が記されています。以下です。 今より凡そ一四〇〇年前、農水害が続き、農作物も実らなくなり庶民大いに嘆いた。時の欽明天皇が占いをさせ原因を訊ねたところ賀茂大神の祟りであると判り、賀茂社に使いを遣わし、祭りを行った。すると、風雨治まり五穀豊穣・天下泰平となったのが賀茂祭の起源で、以降毎年国家的な行事として行われるようになった。・・・ この記載は奈良「大神神社(おおみわじんじゃ)」について「古事記」が語っている以下の文言を参考としていると考えられます。 この神社が、いかに古代から”大神”の住む神社としてあがめられていたかは、『記紀』に述べられている多くのエピソードからもわかる。単独の神社でこれほど多くの挿話が記された神社は、他に類がないのである。 たとえば、その創祀について『古事記』はこう書いている。 「崇神天皇の時代に疫病が大流行した。人々がつぎつきに死に絶えるのをみて、天皇が悲しんでおられるとき、天皇の夢枕に三輪山の神である大物主大神があらわれ、「(意富多多泥古(おおたたねこ)(『日本書紀』では大田田根子)という者を探しだし、自分を祀らせよ。さすれば、神のたたりである疫病もおさまり、国も安泰となるであろう。」と告げた。 そこで天皇が近隣の国へ使者を出して探しだしたところ、河内国に住んでいた。「いったい、そなたはだれの子だ」と天皇が聞くと、 「大物主大神が活玉依比売(いくたまよりひめ)をめとって産んだ子、櫛御方命(くしみかたのみこと)の末裔でございます」 と、答えた。そこで天皇が、この意富多多根子を祭主として御諸山(みもろやま)(三輪山)に大物主大神を祀ったところ、たちまち疫病がなくなった。意富多多泥古は「神君(みわのきみ)、鴨君の始祖なり」と記している。・・・ 崇神天皇は第10代、ハツクニシラススメラミコトの名がとおり、神武天皇と2人で一役といわれているほどの日本の皇室の元ともいわれています。また、欽明天皇は、継体天皇と手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇の皇女)との皇子です。 奈良の3つの神社、「大神神社」・「大和神社」・「石上神社」はその祭神として、素戔嗚命、饒速日命、宇麻志麻治命(饒速日の男子)、御歳(饒速日の女子、神武天皇の正妃となった「姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)」(日本書紀)、「比売多多良伊須気余理比売」(古事記)が祀られており、その子孫は、物部、賀茂(鴨)一族となっていきます。 「賀茂御祖神社」(下鴨神社)祭神は「賀茂建角身命」と「玉依姫命」で、「賀茂別雷神社」(上賀茂神社)の祭神「賀茂別雷大神」の両親として説明されています。 「古事記」、「日本書紀」の作成以後、多くの歴史が塗り替えられ、神社の由緒の多くが書き換えられてきました。上賀茂神社のパンフレットもそのようなものと考えられます。 京都の祭りは「葵祭」、「祇園祭」、「時代祭」です。5月の「葵祭」は上下上賀茂神社のお祭り、7月の「祇園祭」は「八坂神社」のお祭りで「素戔嗚」をお祀りしています。両祭は「素戔嗚」一族をお祀りする為のもののようですね。 10月の「時代祭」は「平安神宮」が明治28年に創建されたことをお祝いして始まったお祭りです。平安神宮は桓武天皇・孝明天皇をお祀りしています。 別資料も参考にしてください。旅のしおりとして作ったものです。 |
作者近況 |
仲間の写真集です。 |