吉野の道
飛鳥から吉野への出発点


背景は稲淵(南淵)地区の佇まいです。


 吉野への起点は、飛鳥島の庄(石舞台付近)である。しかし飛鳥から吉野への道は、幻の道といっていいだろう。近江大津宮から、追われるようにして吉野入りした大海人皇子(のちの天武天皇)の辿った苦悩の道は、どこであったろう。神仙思想にとりつかれて、狂おしいばかりに在位中31回もの吉野行幸をおこなった持統天皇(41代)一行の歩いた道はどの道であったのか。
 飛鳥から吉野へ入るコースは、『万葉の旅・上』(犬養孝氏)によれば次の5通りが考えられる。(以上”万葉の道”より)・・・・・
 としているが今回はこのなかで、稲淵(いなぶち)・栢森(かやのもり)を経て芋峠を越え千俣・上市に至るコースの始めの部分、加夜奈留美命神社までの道を歩きました。終わりの部分は”吉野宮滝万葉の道”を覗いてください。  
 


 10時過ぎに近鉄岡寺駅に到着、石舞台下の飛鳥川を目指します。今年最高の気温となるとの予報は久しぶりの2人にはチョット心配です。もちろんNさんとです。
 何回も訪れている 天武・持統天皇陵に登り、橘寺の横を抜け、飛鳥川にたどりつきます。今回もこの歌と万葉碑を紹介します。
 明日香川 瀬々の玉藻の 
          うちなびき 心は妹に 寄りにけるかも
(巻13・3267)
 
明日香川の瀬々(せぜ)の玉藻のように心はすっかりあの娘になびいてしまった。
 アジサイの咲く万葉碑です。


飛鳥稲淵宮殿遺跡と南淵請安の墓
 祝戸、阪田を過ぎ、飛鳥川を遡っていくと、橋のむこうに飛鳥稲淵宮殿跡がありました。この宮跡は孝徳天皇を残し、中大兄皇子が難波宮から間人皇后と幕下百官を率い帰った”倭飛鳥川辺行宮(やまとあすかかわのべのかりみや)と推定されています。水量はすくないのですが、趣のある川の流れです。
 年月も いまだ経なくに 明日香川
               瀬々ゆ渡しし 石橋もなし
(巻7・1126)
 川の反対側の石段を上がった所に請安(じょうあん)の墓がありました。請安は遣隋使小野妹子に従って隋に留学した学問僧で、後にこの地で中大兄皇子や藤原鎌足に周孔の教えを授けたとされています。
 まそ鏡 南淵山(みなぶちやま)は 今日(けふ)もかも
      白露置きて 黄葉(もみぢ)散るらむ 
(巻・10・2206)
 宮殿跡碑の写真をクリックすると稲淵(南淵)地区の佇まいです。

 


式内社飛鳥川上坐宇須多岐比売命(あすかかわかみにますたきひめのみこと)神社
式内社加夜奈留美命
(かやなるみのみこと)神社
 梅原猛氏の『飛鳥とは何か?』のはじめに下記の1節があります。
 
飛鳥川の上流に、栢森(かやのもり)というところがあり、そこに、加夜奈留美命神社がある。それは、「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこかむよごと)」にある「賀夜奈留美の命の御魂を飛鳥の神奈備に坐(ま)せて」とある神社を言うのであろう。カヤは栢森のカヤ、ナルミは鳴る水をいうのであろうか。ここで飛鳥川の2つの支流が合し、水音高く、清々しく聞こえる幽邃(ゆうすい)な神社であり、そして、その下流に飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社がある。つまり、このあたり、川が曲がっているので、水が渦をなしてたぎり流れている。ウスタキヒメという名はそういう意味であろう。カヤナルミ神社も水の神をまつる神社である。
 もう1つの飛鳥という名を持つ有名な神社は飛鳥坐神社(あすかにますじんじゃ)である。
 宇須多岐比売命神社は道路から急勾配の石段を上がった所に鎮座しています。暑さと久しぶりの歩行でフラフラになりながらのぼりきり拝むことができました。
 さらに飛鳥川上流へ、途中、対岸に向けて綱がはられ、その真中に薦包が空中につりさげられています。これは女綱といわれ、神所橋の男綱と対をなし、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する民族行事のようです。下の写真をクリックして下さい。支流が合する栢森集落に入りました。そこに、加夜奈留美命神社が鎮座していました。神社の直ぐ横は支流の流れです。
 ここで、ゆっくりと昼食、休みました。今日は気力も体力も限界と考え、この先は次回の挑戦と決め、引き返すこととしました。


 近鉄飛鳥駅への帰りの道の途中、文武天皇陵に始めて訪れる事が出来ました。