二上山(ふたかみやま)への旅。
(竹内街道から山頂へそして當麻寺へ)

飛鳥の甘樫丘から二上山を望んでいます。

明日香の旅1へ
畝傍山山頂から二上山を望んでいます。

大和三山へ


竹内街道を登る
”万葉の道”の’竹内の道’章書き出し「大和・河内の国境に葛城山系が立ちはだかる。この北端に、古代から大和びとに神聖視され、崇敬された特異な山容をもつ二上山(ふたかみやま)が屹立している。」
 
近鉄線新田辺から橿原神宮前駅で乗り換え、約70分近鉄南大阪線磐城駅で下車しました。駅のすぐ南、長尾神社を訪ねました。今日の旅のはじまりです。古代大和の重要な直線官道横大路は、この長尾神社を基点にして、東へ桜井市仁王堂まで約13キロの区間を横断しています。ここから西が竹内街道です。
 古くからの街道を登っていくと、竹内集落のほぼ中央に「綿弓塚」標があります。
 芭蕉の旧跡「綿弓塚」は1684年(貞亨元年)秋、「野ざらし紀行」で、芭蕉が門人「苗村千里」の案内で、この竹内に滞在した折に詠んだ 綿弓や琵琶に慰(なぐさ)む竹の奥 を記念し1808年(文化5年)に建てられたものとされています。(綿弓とは、木綿綿を作るときに使う用具のようです。)
 此の先の道、峠までは歩道も無い自動車道路を登る事となり、かなり危険で、排気ガスをたっぷり浴びる事となりました。この路は峠を越へ、太子ゆかりの叡福寺がある太子町へ続いています。(近つ飛鳥のページへ戻ります。)
 大坂を 我が越え来れば 二上に もみぢ葉流る しぐれ降りつつ  (巻10・二一八五) 箸墓伝承で紹介している大坂をこの竹内峠(289m)と考えています。
竹内街道、両側は綺麗な民家です。 芭蕉旧跡「綿弓塚」です。
二上山、雄岳山頂へ
 
古代の石窟寺院史蹟鹿谷寺(ろくたにじ)をとおり、文字どうりの急坂をはい登り、岩屋峠へ。ここから道を左にとり、雌岳の裾をまくようにして登ると、雄岳と雌岳の鞍部に着きます。ここまででスッカリ息切れ状態です。雌岳への路を右に見ながら雄岳への道を登ります。途中木の間がくれに雌岳の頂上が望めます。そろそろ限界かな?と感じた時二上山雄岳頂上(515M)に到着。時は12時50分。自動車道路から登山道へ入り急坂を登り始めたのが11時45分。ざっと1時間の山登りでした。
 軽いサンドイッチでの昼食の後、念願の大津皇子陵の参拝です。
 
  大津皇子の屍(かばね)を葛城のふたがみやまに移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女(おおくのひめみこ)の哀しび傷みて作らす歌
  うつそみの 人なる我や 明日よりは 
     二上山(ふたかみやま)を 弟(いろせ)と我が見む 
(巻2・一六五)
  伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)の任を解かれ、大和に帰った姉大伯皇女が弟の死を哀しんで詠った歌と素直に思いたい。

クリックすると、太子町方面を望めます。
薄くPLの塔が写っています。
クリックすると、陵の全景です。
當麻寺(たいまでら)へ
 山を降りると、景色の好い水鳥が憩う溜池につきます。さらに、山口神社、傘堂をへて、中将姫の墓、そして當麻寺へたどり着きます。
 當麻寺は前身を禅林寺といい、聖徳太子の弟麻呂子(まろこ)親王が二上山の西に草案し、のちに親王の孫、當麻国見(たいまのくにみ)が現在のちに移したと言われています。

 鎌足の血を引く中将姫の哀しい伝説と、蓮糸曼荼羅織成説話(はすいとまんだらそせいせつわ)が綾なす寺伝の在る素晴らしいお寺です。
 以下は、水鳥の憩う溜池から、二上山を望む風景と、中将姫のお墓です。
 當麻寺については別ページで紹介します。