明日香の旅1 (橿原神宮駅より歩きます。) 背景は飛鳥川です。 |
9月27日 絶好の天気に誘われ、明日香への万葉集の旅にでました。 10時過ぎ、橿原神宮駅を東に歩き始めます。歩くこと約15分、剣池へ着きます。この道はを明日香へ向けて歩いたのは何年前になるのでしょうか。記憶も定かでは有りませんが、住宅地が広がり、新しい道も出来ているようです。剣池を一回りしようとしましたが、池の周りを半分ほど新しい住宅が取り囲み、万葉の風情は本当に少なくなっていました。池の土手に曼珠沙華の群生を見つけ、何かホッとするものを感じました。 |
飛鳥は”日本のふるさと”といわれています。なぜなのでしょうか? 1989年版集英社、梅原猛氏の「飛鳥とは何か」を読み返し始めています。より深く何かを感じたいものです。「万葉の旅」によれば、『6世紀から7世紀にかけて、この地には古い皇都が営まれ、政治の中枢として日本国家の形成に大きな役割を果たしてきたからであろうが、確かに5世紀以前の皇都を対象からはずしても、・・豊浦宮(とうらのみや)、小墾田(おはりだのみや)・・板(蓋)葺宮(いたぶきのみや)・・淨御原宮(きよみがらのみや)などのおびただしい宮都が、飛鳥の地に生まれては亡んできた。このあくなき政治的営みに歴史の重みを感じ、「ふるさと」感を覚えるとでもいうのでだろうか』としています。 |
剣の池(石川池) 池の中に島のように浮かぶ森は、孝元天皇(八代)の剣池嶋上陵です。 み佩(は)かしを 剣の池の 蓮葉(はちすば)に 溜まれる水の 行くへなみ 我がする時に 逢うべしと 逢ひたる君を な寝(い)ねそと 母聞こせども 我が心 清隅(きよずみ)の池の 池の底 我は忘れじ 直(ただ)に逢ふまで(巻13・三二八九) 蓮の葉に溜まった水のように、どうなる事かと惑っている時に、逢ってくださったあなたと寝てはいけないと母はいうけれど、清隅の池の底のように深く、私は忘れません。あなたとお会いするまで。 乙女心のいじらしさを、剣・清隅の2つの池を引き合いに出して、表現しています。 畝傍山を背景にした山田池、剣池嶋上陵(つるぎのいけしまのうえのみささぎ)です。 |
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甘樫丘に登る 豊浦寺(とゆらでら)跡を確かめ、甘樫丘に登り始めます。伸びた木々の為周囲の景色を望むポイントは限られています。しかし、明日香を見下ろす大きな丘です。 万葉随一の自然歌人山部赤人の、旧都飛鳥をしのぶ長歌です。赤人が神岳(かむおか)に登って詠んだ歌と題されています。 みもろの 神奈備山に 五百枝(いおえ)さし しじに生(お)ひたる つがの木の いや継ぎ継ぎに 玉葛 絶えることなく ありつつも やまず通はむ 明日香の 古き都は 山たかみ 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづはさわく 見るごとに 音のみし泣かゆ 古(いにしへ)思へば 甘樫丘頂上より北を望んでいます。遠望は耳成山。ポイント後は飛鳥川から丘を見上げています。(二上山のページへ) |
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飛鳥寺へ 甘樫丘を降り、飛鳥寺を目指します。豊に実った稲穂と畦道に咲く曼珠沙華をめでながら、ゆったりした気分で歩くことが出来ました。以下「万葉の道」より 「明日香宮より藤原宮に遷居(うつ)りし後」という題詞のついた志貴皇子の有名な歌に 采女の 袖吹きかへす 明日香風 京(みやこ)を遠み いたづらに吹(巻1・五十一) があります。風が吹き抜けて残るものの無い空虚さと、そのはかなさに中に漂う一点の美しさを、明日香望郷の思いを込めて歌っていいます。 飛鳥寺の西に、改新クーデターによって殺された蘇我入鹿の首が飛んできて落ちたという入鹿の首塚と伝える五輪塔が立っています。飛鳥寺の南に広がる野が真神の原です。 大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに 藤原京時代の舎人娘子(とねりのおとめ)が明日香終焉の感を歌った鎮魂の歌といわれています。真神はおおかみ、大口は枕詞。 曼珠沙華、首を垂れる稲穂の後ろに飛鳥寺が望まれます。ポイント後は甘樫丘、真神が原をバックにした入鹿の首塚といわれる五輪塔です。 |
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