近つ飛鳥・太子町へ |
聖徳太子年表 (聖徳太子の年齢を入れています。) |
畦道の花々です。 |
”万葉の旅”とは少し趣きを異にしていますが、梅原猛氏の『聖徳太子T〜W』を読み、また、ニ上山への登山の折、ご夫婦が武内峠を越え”武内街道”を太子町の方へ歩んでいかれた姿を思い出し、今回は”王陵の谷”といわれ、あの聖徳太子の眠る地である太子町を訪ねることとしました。もちろん、Nさんとです。 |
近つ飛鳥とは ”近つ飛鳥”という地名は『古事記』に記載があるようです。反正天皇(はんぜいてんのう、第18代、松原市の丹比(たじひ)柴垣宮に都。兄、履中天皇から皇位継承)が、難波から大和の石上神宮へ参向する途中で2泊し、近い方を”近つ飛鳥”(羽曳野市飛鳥を中心とした地域、太子町の北に位置しています。)と名付け、遠い方を”遠つ飛鳥”(高市郡明日香村飛鳥、いわゆる飛鳥)と名付けたようです。この地は難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道である武内街道が通っていました。 また、太子町の磯長谷(しながだに)には、敏達・用明・聖徳太子・推古・孝徳の各陵墓指定地があり、”王陵の谷”とも呼ばれています。 |
磯長山叡福寺(しながさんえいふくじ)・聖徳太子御廟 近鉄南大阪線・上ノ太子駅で下車。住宅団地の中の道を登り、叡福寺につきます。途中、今まではずっと奈良方向からの二上山でしたが、始めて大阪方向からの姿に接する事が出来ました。 叡福寺は推古天皇が聖徳太子の墓を守る香華所として建立し、後に聖武天皇の勅願で伽藍が整ったとされています。戦国時代に兵火で焼失したものを、秀頼が聖霊殿が再建された後、次第に同等伽藍が整備され現在にいたっているとのことです。 石段を上がった所に聖徳太子御廟(磯長陵・しながりょう)があります。 以下、『聖徳太子W』”開かれた太子廟の内奥”での文章を紹介します。 この太子の葬られた磯長陵は、間人皇后(はしひとのこうごう)と膳部妃(かしわでひめ)との合葬陵であったことは伝承によって伝えられたことではあるが、中世にはこの墓の内部は開かれ、太子尊崇の気が盛んになるとともに参拝者は御廟内に入って御棺を拝しえたらしい。・・・・それを実際に見た人達の記録が残されている。・・・ 記録により再現されたものが、近つ飛鳥博物館に展示されています。三角形の頂点の位置に穴穂部間人皇后、向って右に太子、左に膳部妃の御棺が安置されているようです。 まちがいなくこの陵は間人皇后のためにつくられたものであり、推古29年12月21日、間人皇后は死に、皇后を葬るために磯長陵はつくられたのであろう。なぜ磯長の地が選ばれたのであろうか。それは崇峻4年、敏達帝がその母・石姫の磯長原陵に葬られ、用明帝が推古元年(593)に磯長原陵に改葬されたことにならって、間人皇后も夫の御霊が鎮まります磯長の地に御陵がいとなまれたのであろう。・・・・・ |
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西方院 叡福寺の直ぐ南に西方院があります。こじんまりとした静かなお寺で、現在は浄土宗の尼寺とのこと。以下、西方院の説明文です。また、写真は三尼公の墓と伝えられる五輪塔が納められるお堂です。 622年(推古天皇30年)に聖徳太子御薨去のあと、月益(つきます、蘇我馬子の娘)・日益(ひます、小野妹子の娘)・玉照(物部守屋の娘)の三姫は剃髪され、その名も善信・禅蔵・恵善と称されて(三人を総称して三尼公と呼ばれている)、太子御廟の前に一宇を建立して、太子の御遺髪を納め、太子御作の阿弥陀如来尊像を安置した。 |
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用明天皇陵へ 西方院から町内を歩き、横道のような参道に入ったと感じた所に用明天皇陵があります。さすが天皇陵です。陵の前は緑深い谷状になった静かなたたずまいです。 第31代用明天皇は磐余池辺双槻宮(いわれいけのべのふたつきのみや)に宮古し、穴穂部間人皇女(稲目の娘である小姉君と欽明天皇との皇女)との間に聖徳太子を誕生させます。 用明天皇が崩御したあと、その遺言をもとに、蘇我・物部の決戦が起こり、蘇我氏が勝利し、崇峻、推古と蘇我氏を外戚とする天皇が誕生します。もちろん聖徳太子もその中の一員です。 |
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推古天皇陵 用明天皇陵を南へ緑に囲まれた丘陵地になんとも幾何学的で不可思議なコンクリートの建物があり、これが”府立近つ飛鳥博物館”でした。Nさんとソフトクリームを食べ、何回も訪れているNさんを置いて、小生だけは見学に入ります。聖徳太子の磯長陵内部を原寸大で再現した見事な展示物、仁徳陵古墳の150分の1の模型、巨大な”修羅”(しゅら)(長さ8.8m・重さ約3.2tの古墳時代の木製そり)など興味在るものにとっては面白いものでした。 参道にみごとな曼珠沙華が咲いています。 ちょうどその時期です。昨年は聖林寺への道で写真を撮ったと記憶しています。この花の赤い色は強烈です。 第32代崇峻天皇が暗殺された後、第33代推古天皇が即位し、小墾田豊浦宮(おはりだとゆらのみや)に宮古します。欽明天皇の皇女で、異母兄の敏達天皇の皇后であった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が即位し推古天皇となるわけで、聖徳太子のおばさんにあたります。聖徳太子19歳の時です。翌年の推古2年聖徳太子は摂政となります。崇峻の後、何ゆえに推古という女帝をたて、聖徳太子は天皇とならなかったのか?については諸説があります。馬子の意志であったようにおもえます。 |
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小野妹子の墓、科長神社(しながじんじゃ)を経て上ノ太子駅へ 聖徳太子3・第5章 遣隋使の派遣 小野妹子の登用から 小野一族は和邇氏と同じく、今の奈良市付近に本拠に本拠があった古代豪族・春日氏の一族であり、近江国滋賀群小野村、琵琶湖の西岸に住んでいた一族であろう。場所柄、多少帰化人の血を引いている春日氏の一族だと思われるが、ここで聖徳太子に推薦されて,我が国はじめての遣隋使の大使となった。大礼(だいれい)とあるので、当時まあ妹子は第五番目の位であったが、後に大徳(だいとく)すなわち第一番目の位に到ったことが、『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)の文章からしられる。 太子のあの有名な書簡(日出る処の天子、日没する処の天子に致す、恙きや)に対する隋の煬帝の返書を百済で紛失したとされる妹子が何ゆえ再度遣隋使にえらばれているのか?など、興味ある事柄が多くあります。 久しぶりの散策で少々疲労を感じながら、上ノ太子駅に戻りました。 |
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