背景は宇和奈辺古墳から小奈辺古墳方面を望んでいます。 |
路の辺の 壱師の花の いちしろく 人皆知りぬ 我が恋妻を 柿本人麻呂歌集 巻11・2480 (みちのべの いちしのはなの いちしろく ひとみなしりぬ わがこいづまを) |
![]() 不退寺へ向かう路傍の壱師(曼珠沙華)です。 |
わが屋前の 萩咲にけり 散らぬ間に 早来て見べし 平城の里人 作者不詳 巻10・2287 (わがやどの はぎさきにけり ちらぬまに はやきてみべし ならのさとびと) |
![]() 不退寺境内の萩の花です。 |
人皆は 萩を秋と云ふ 縦しわれは 尾花が末を 秋とは言はむ 作者不詳 巻10・2110 (ひとみなは はぎをあきといふ よしわれは おばながすえを あきとはいはむ) |
![]() 平城宮跡の尾花(すすき)です。 |
2009秋 佐紀・佐保路への旅 |
![]() 不退寺門前の「歴史の道」案内版です。クリックすると大判になります。 |
9月21日 好天に誘われてホント久しぶりの”万葉の旅”へ出ました。嫁さんとの二人旅です。過去に嫁さんとの”万葉の旅”はほとんど無かったと思いますが、これからはメインパートナーとなることは間違いありません。花作りが趣味の嫁さんですので、花の名前を教えてもらえる大変なメリットがあります。また、ページ作成にあったては、今回から中西進先生の「万葉の大和路」・「万葉を旅する」「万葉花さんぽ」(入江泰吉・文中西進先生)等を従来からの「万葉の道」と共に参照させていただきたいと考えています。 |
![]() 磐之媛命陵 |
仁徳天皇皇后磐之媛命陵(平城坂上陵)・小奈辺古墳・宇和奈辺古墳へ JR平城山(ならやま)駅を降り、南へ。車が渋滞している国道24号線を潜り少し登るとまもなく、山城国(京都府)との境・奈良山を感じさせてくれる雑木林の道に入ります。静かで、ヒンヤリとした気持ちの良い小道です。そこは既に、磐之媛命陵を始めとした佐紀古墳群の一部と言えます。2003年5月この道を歩いてます。陵の池に咲く紫のカキツバタが印象的でした。 「古事記」仁徳天皇の条は下記の書き出しで始まっています。大雀命(おおさざきのみこと)難波の高津宮に坐しまして、天の下治(し)らしめしき。この天皇、葛城の曾都比古の女、石之日売命(大后)を娶して、生みませる御子、・・・・嫉妬の故か、天皇の許には帰らず、筒木宮で亡くなった媛はこの地に葬られたとされています。 つぎねふ 山城河を 宮上り 我が上れば あおによし 奈良を過ぎ 小楯 大和を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮吾家(わぎえ)のあたり(古事記) 万葉集 巻2・85 87 88 には媛の歌として、仁徳天皇との以下の相聞歌が入っています。 君が行き 日長(けながく)なりぬ 山尋ね迎えか行かむ 待ちにか待たむ(巻2・85巻) ありつつも 君をか待たむ うちなびく 我が黒髪に 霜の置くまで(巻2・87) 秋の田の 穂の上(え)に霧(き)らう 朝霞 いづれのかたにか 吾が恋やまむ(巻2・88) 陵の正面には”水上池”が広々と広がっています。池の向こうには奈良市内が望まれます。 池の横には小奈辺古墳の外周池があり、中心に小奈辺古墳が。全長:204M 高さ:17.5M 5世紀始めに造られたのではないかとされています。 宮内庁陵墓参考地で名称は地名が付けられています。自衛隊幹部候補生学校の正面口を左に見ながら、東へ向かいます。続いて、宇和奈辺古墳が。こちらは全長:205.4M 高さ:19.8M 5世紀中頃に造られたものとされ、やはり、陵墓参考地です。このあたりは「佐紀盾列古墳群」として大小60あまりの古墳があり、磐之媛命陵、日葉酢媛命陵、成務天皇陵、神功皇后陵なこ一応名称が付けられた古墳が点在しています。さらに、平城天皇陵が平城宮跡のすぐ北にあります。この陵が平城天皇のものであることには疑問があるようですが、父・桓武天皇の平安遷都を否定し、平城京への再遷都を試みたこと。在原業平は天皇の孫であることなど大変興味深いものがあります。 |
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平城天皇ウィキペディアより借用の系図です。業平の出自を示しています。 |
不退寺 (真言律宗・仁明天皇御勅願所・平城天皇旧萱御所・阿保親王御菩提所・在原業平公建立) 宇和奈辺古墳から東へ。国道24号線・JR奈良線を渡り、奈良線の線路横を南へ少し下ると、「不退寺」があります。何十年前に一度訪れたことがありますが、その折はこのお寺が「在原業平」ゆかりのお寺であること、業平がどの様な人物であったことなど考えてもいませんでした。また、お堂の中の御本尊「聖観音菩薩立像」(重文)を拝むことはありませんでした。ご本尊は、下半身に彩色花文装飾の残る珍しい仏様です。 51代平城天皇の孫にあたり、「伊勢物語」の主人公に擬されている色事師としての業平は大変有名ですが、「古今和歌集」との関連も大変深いものです。紀貫之「古今和歌集」の仮名序の部分を一部引用します。(岩波文庫 佐伯梅友校注 「古今和歌集」から) 和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。・・・・僧正遍照は、歌のうまさは得たれども誠すくなし・・・・在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくてにおひ残れるがごとし。文屋康秀(ぶんやのやすひで)は言葉はたくみにて、そのさま身におはず。いはば、商人(あきんど)のよき衣(きぬ)きたらんがごとし。宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終わりたしかならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。・・・小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるようにて、強からず。言はば、よき女(をうな)の悩めるjところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。大伴黒主は、そのさまいやし。いはば、薪負へる山人の、花のかげに休めるがごとし。 「古今和歌集」の主たる編者である紀貫之が上記6人を代表的な歌詠み(六歌仙)として取り上げているのは、不思議なことであり、これについて、井沢元彦氏の「逆説の日本史4 中世鳴動編 古今和歌集と六歌仙」のなかで55代文徳天皇からの皇位継承において、既に7歳となっていた第一子の惟喬(これたか)親王を差し置いて、生後9ヶ月の惟仁(これひと)親王(後の56代清和天皇)を皇太子に指名したことで、惟喬親王の周辺にいた上記6人が怨霊となる可能性が高かったことによるとしています。ちなみに惟喬親王の母親は紀静子(きのせいし)であり、惟仁親王の母親は後に人臣として始めて摂政となった藤原良房の子、明子(あきらけいこ)なのです。 渚の院にて桜をみてよめる 在原業平朝臣 世の中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし (巻1・53) 渚の院は河内の国、交野にあった文徳天皇の離宮で、後に惟喬親王のものとなったとの説明が入っています。 不退寺の由緒として頂戴したパンフレットには以下のように記されています。 仁明天皇の勅願により近衛中将兼美濃守在原業平朝臣の建立による不退寺は大同4年(809)平城天皇御譲位の後、平城京の北東のこの地に萱葺きの御殿を造営、入御あらせられ「萱の御所」と呼称せられた。その後皇子阿保親王及びその第五子業平朝臣(825〜880)相承してここに住した。・・・・・ |
![]() 外門から海龍王寺への道 |
法華寺(光明宗 法華滅罪寺)・海龍王寺(隅寺、角寺) 不退寺から西へ、JR奈良線、国道24号線を渡ります。平城宮の東北地域にあたり、藤原不比等の邸宅が立てれてていた地域です。ここに「法華寺」と「海龍王寺」があります。 「万葉の道 佐紀・佐保の道」からです。 佐保道往来 東院跡のすぐ東に隣接して法華寺がある。正式名称は法華滅罪之寺という。左京一条二坊の地にあたり、ここに藤原不比等の旧邸宅が構えられ、のちに光明皇后が皇后宮としたあと、天平17年(745)5月、・・・宮寺にあらためられたのが法華寺のはじまりといわれる。 古(いにしへ)の 古き堤は 年深み 池のなぎさに 水草(みくさ)生ひにけり (巻3・378) 題詞に、「山部宿禰赤人、故太政大臣藤原家の山池(しま)を詠む歌1首」とあって、故太政大臣藤原家とは不比等のこと、養老4年(720)8月に薨じ、10月に追贈されているが、その不比等の家とは現法華寺の前身邸宅と考えていいだろう。・・・・法華寺の東に角寺とも呼ばれる海龍王寺がある。寺伝では光明皇后の本願により建立されたとあるが、発掘結果では平城宮造営以前から何らかの建造物が存在していた可能性が高いと指摘されている。ここに留学層玄坊が帰朝ご居住したといい、また不比等の墓所があった。 中西 進氏「万葉を旅する」では、法華寺の項で、以下のように記しています。 ・・・不比等の死後、三女にあたる安宿媛(あすかひめ)すなわち光明皇后が邸宅を継承して皇后宮とし、のち寺として法華寺と称したのである。赤人は池のほとりにはえた雑草を目ざとく見つけて、そこにあるじを失ったあとの荒廃を感じる。歳月がたって水草をのびるにまかせるというのは、柿本人麻呂のころ以来の伝統的な廃墟のうたい方であり、死者への哀悼をこめた表現であった。・・・法華寺は尼寺だから、たたずまいがやさしい。南門を入ったところにも池があり、また奥書院にも池があって、かりにこれらを手がかりとして赤人の歌をしのぶのもよいであろう。 「法華寺」では、本堂で御本尊「十一面観音立像」(国宝)の御分身を拝見しながら、ゆっくりと時間をとり、さらに、「華楽園」でも草花を愛でながらの散策を楽しみました。曼珠沙華と鶏頭、 むらさきしきぶ、 白いむらさきしきぶ が印象的でした。 人の少ない「海龍王寺」では、やはり、本堂でたっぷりと御本尊「十一面観音」を拝み、西金堂内に置かれた「五重小塔」(国宝、奈良時代)を見学しました。帰りに受付で、 不退寺、法華寺、海龍王寺の御本尊 と 海龍王寺の御本尊の写真を買い求めました。 |
海龍王寺から道を西にとり、平城宮跡への道を進みます。平城宮跡遺構展示室で、第1次大極殿など各種復元模型を見学し、近鉄西大寺駅までの道の途中で、復元建造中の大極殿を写真におさめ、久しぶりの奈良ファミリーで昼食のお蕎麦、衣料品の買い物をして帰途につきました。久しぶりで楽しい散策でしたが、歩くのにはまだまだ日差しが暑すぎるお天気でした。 |
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作者近況です。 |