2010年の「もみじ」を味わう旅2
11月29日
銀閣寺・法然院・南禅寺を歩き、東福寺の「もみじ」を味わいます。
11月30日
比叡山延暦寺・(坂本)滋賀院門跡と慈眼堂
背景は、坂本・天海大僧正の廟所・「慈眼堂」境内の黄葉



クリックすると「観音殿(銀閣)」の姿が。
 2010年11月29日
 この2,3年、春は松本、秋は京都での集りが定例となっている高校時代からの友人たちとの1泊旅行は、今回、「東福寺」の「もみじ」を愛で、エクシブ京都八瀬離宮で「京懐石料理」を味わい、「比叡山延暦寺」、「坂本の里坊」を訪ねることとしました。
 13時半の集合時間までの時間を使い、今年の春に修復工事が終わっている「東山慈照寺」通称「銀閣寺」を訪ねることとしました。
 9時過ぎに、京阪出町柳駅に到着。今出川通を歩きます。京大キャンパス横を歩き、9時半には、銀閣寺下へ。早くから多数の観光の方々がみえています。以前に、とはいっても、昔のことですが、「観音殿」(銀閣)(国宝)は、本当に古さを感じさせる建物であったと、記憶していますが、修復なった今の「銀閣」はすっきりとした品のある佇まいになっているように感じられました。ここの「もみじ」も完全に見ごろを迎えていました。
 ここでやはり、「京都発見 8 禅と室町文化」の「銀閣寺と義政の東山殿」から。
 
足利義政が応仁の乱の財政の窮乏や民衆の嘆きなど一切顧みず、東山殿建設に全力を尽くしたことは、彼がその建物の命名にひどく神経を使っていたことでもわかる。・・・・また観音殿の二層は金閣に従って潮音閣と名付けららたが、一層については横川景三が「最上乗」「妙高台」の名を献じた。しかし、義政は気に入らず、亀泉集証に命じて南禅寺や天龍寺など五山の僧堂の額名を参考資料とし提出させ、その中から「心空殿」という禅話に基づく名を選んだ。これは彼が禅というものを甚だよく理解していた証拠であり、ここを彼が座禅の間とりて使用していたことを考えると、誠に適当な名称であろう。・・・・
 銀閣寺は応仁の乱の直後に建てられたが、天文19(1550)年と永禄元(1558)年に、13代将軍足利義輝と三好長慶が銀閣寺近くで戦い、戦火に巻き込まれて焼けた。しかし、幸いその中心の建物である東求堂(とうぐどう)と観音殿(かんのんでん)すなわち銀閣はそのまま残された。義政の執念が彼の心魂を傾けたこの寺を守って、東求堂と銀閣を残したというばきか。  東求堂はその名称からいって浄土念仏を表すものであることは間違いない。それは無窓疎石によって造られた西芳寺の西来堂の名にちなんだものであろうが、西来堂が禅宗の始祖、達磨が西から来たという意味の禅寺の名であるのに対して、東求堂という名は東方にいいる念仏者が西方にある極楽浄土を求めるという浄土思想を表している。・・・・
 以下は、カメラによる銀閣寺探索となります。

 1) 朝、9時、慈照寺銀閣総門前を歩きます。      
 
 2) 総門から中門への道には、「銀閣寺垣」と呼ばれる大刈り込みの生け垣が。    
 
 3) 白砂の富士山の型をした「向月台(こいげつだい)」    
 
 4) 波紋を表現した「銀紗灘(ぎんしゃだん)」    
 
 5) 「向月台」と「銀紗灘」の後に「銀閣」が。     
 
 6) 義政公の持仏堂である「東求堂」     
 
 7) 池に映る「東求堂」     
 
 8) 「お茶の井」庭園      
 
 9) 展望台から「もみじ」に囲まれた「銀閣」      
 
 10) 「銀閣」の姿を映す「錦鏡池」  
     
 
 11) 「もみじ」の季節のお庭はもみじ葉が散華となっています。

「法然院」・「安楽寺」・「疎水の流れる哲学の道」・「若王子神社」を歩き、「南禅寺」へ、そして、「知恩院」・「円山公園」・「八坂神社」を通り、JR京都駅までの道のりを歩きました。まだ、「東福寺」が待っています。
 
 1) 「法然院」山門      山門内の「白砂壇」(白砂段)       山門上に懸かる「もみじ」         法要中で静まり返った本堂前のお庭

 2) 「住蓮山安楽寺」の門前      お庭からこぼれ出ている「もみじ葉」

 3) 「哲学の道とともに流れる琵琶湖疎水」     疎水上の「もみじ葉」      「永観堂」門前      「若王子神社」

 4) 「南禅寺」     「水路閣を額縁に」     



「通天橋」からの方丈と「洗玉澗」の眺めです。
 「東福寺」
 13時30分、メンバー7人がグランヴィアホテル・ロビーに集まり、京都駅からは距離としてはわずかでもあり、東福寺へはタクシーで向かうこととしました。タクシーの運転手さんは大変な人出ということも有り、裏道から廻ってくれるとのことになりました。タクシーを下車すると予想はしていたのですが、ホント大変な人、人、人で仰天です。人の流れの中を東福寺入場門へ向かいます。門へ行き着く前に「臥雲橋」を渡ります。ここからは「洗玉澗(せんぎょくかん)」と呼ばれる渓谷の「もみじ」に囲まれた「通天橋」が見渡すことが出来、その見事さにまず初めの感動を覚えます。「京都発見 一 地霊鎮魂」の「聖一国師と禅問答」の書き出しです。
九条道家は摂関家の菩提寺である法性寺(ほっしょうじ)を廃して、禅寺・東福寺を造ったが、その開山を誰にするかに迷いがあったのではないかと思う。なぜならば、道家が東福寺を建立せんとしたのは嘉禎2年(1236)であるが、円爾弁円(えんにべんねん)博多から入洛して道家に会い、道家が円爾を東福寺の開山としたのが寛元元年(1243)であるからである。そして円爾は期待通り、かっての東大寺・興福寺の規模を超える禅の大寺を任せる器量があり、無事東福寺を建立し、開山としての任務を十二分に果たした。・・・・・円爾が道家に知られるようになったのには大変面白い話がある。・・・・かくして円爾は上京し、道家は一目見てこの円爾を気に入り、「これこそ聖人の中の聖人よ」と言って、聖一和尚(しょういちおしょう)という称号を与えた。確かに九条道家にとって彼は待ち焦がれた聖人であったかも知れない。既に建仁2年(1202)に建仁寺が栄西によって建てられていたが、それは鎌倉幕府の力によって出来上がったものである。しかし、長い間、天台・真言をその宗教とした摂関家が禅宗に転向しようとしている。その開山には然るべき人が必要であるが、その人はなかなか見出せなかった。こういう時に円爾が現れたのである。道家が円爾を歓迎し、円爾を聖一として崇拝したのももっともなことである。・・・・(「聖一国師」という国師号は日本の禅僧としてはじめて花園天皇からあたえられた。)
 まずは、人々の流れに沿って「通天橋」に向かいます。左右の「もみじ」を愛でながら、ホント多くの人が感動を口にしています。
  「通天橋」左側の紅葉の木々。       右手の望楼を眺めます。
 回廊を登りながらの「もみじ狩り」でしょうか。    「開山堂」(常楽庵)へ。   庭園の中心に歩道があり、それを渡ってお堂の正面に向かう様式になっています。左は砂の文様のお庭、  右は枯山水のお庭に分かれているのです。不思議な感覚を覚えます。
 「通天橋」に戻り、「もみじ」の木々の間に直接に入ります。順路に従って、「洗玉澗」を渡り、対岸を遊歩しながら、「もみじ」の様々な姿を味わいます。
 境内を奥に歩き、塔頭を訪ねます。「龍吟庵」、「即宗院」へ向かう門前に、真紅の紅葉が1本、感動的な色です。 
 「臥雲山 即宗院」は薩摩藩の畿内菩提所であったということで、大変薩摩藩色のつよいお寺さんです。お庭は「月輪殿」(関白藤原忠道)の山荘跡と言われています。 紅葉にも負けず、こちらも真っ赤な千両が咲いています。  また、庭園の奥には、西郷隆盛関連の遺跡があります。一つは「西郷隆盛密議の地」であり、   いま一つは「薩摩藩士東征戦亡之碑」で、その説明板です。坂上の数基の大きな碑を拝み下り階段を下ります。    
 「龍吟庵」は東福寺塔頭の一つで、東福寺第三世住持・大明国師(無閑普門)の住居跡であり、塔所(たっしょ)(墓地)ということです。国師は建暦2年(1212)信濃国に生まれ13歳で得度。40歳の時に入宋。正応4年(1291)亀山上皇の南禅寺創建にあたって開山に招かれ、12月12日、この龍吟庵で80歳の生涯を終えた。と戴いたパンフレットに記されています。
 「龍吟庵」との扁額(足利義満筆)が掲げられた方丈(国宝・室町時代)は、書院造と寝殿造の名残りをとどめる現存する日本最古の方丈建築です。
 方丈正面(南庭)の「無の庭」      (西庭)の「龍の庭」(龍が海中から黒雲を得て昇天する姿を石組みにより表現している)       (東庭)の「不離の庭」(狼に襲撃されそうになった国師の身を、2頭の犬が守ったという国師幼少の頃の故事に基づいて作庭された)についてはゆっくりと説明を受けました。重森三玲(1896〜1975)の昭和39年(1964)の作とのこと。ある面、大変判りやすさを感じるすっきりとしたお庭です。(重森三玲氏のお庭は春日大社にもあるとのことをこの日曜日朝のテレビで知りました。) その後は、本堂、山門などを眺めていると、日が翳って来たことで、寒さを感じるようになり、ホテルへ向かうこととしました。京都駅まではタクシーで、地下鉄烏丸線で終点の国際会議場へ、ここで、ホテルのシャトルバスが待っていました。            

八瀬離宮・イルミネーションに彩られた夜のテラス
 エクシブ京都八瀬離宮は、縦に大きい都市型の巨大ホテルとは異なり、広さを武器にするリゾート型ホテルと言えます。以前は八瀬遊園であったこの地は、さば街道が山に分け入る、その入り口にあり、京都の奥座敷の一つです。この街道の先には、八瀬の集落そして、大原へと続いています。「京都発見 三 洛北の夢」 八瀬と酒呑童子(しゅてんどうじ)の書き出しです。京の都の近くに鬼の子孫の住む里があるという。このおぞましい話を語るのは日本民族学の創始者・柳田國男である。柳田が言うからには、この話もまんざら根拠のない話ではあるまい。 事実、八瀬童子と称する八瀬の人々は代々鬼の子孫であるということを自らはっきりと公言して来た。八瀬に伝わる『八瀬記』という江戸中期の文書によれば、祖先の鬼というのは鬼といっても角のない鬼で、その字を「頭の´のない鬼(パソコンに文字がありません)」と書くという。・・・・
 故隆慶一郎氏の「花と火の帝」という小説では、駕籠丁である八瀬童子が「天皇の隠密」として大変痛快な活躍をする模様が描かれています。ただ、この作品は氏の絶筆(平成元年11月4日急逝)で、未完のまま終了している大変残念な作品です
 食事までの時間が十二分にあり、やはり広くゆったりとした温泉に浸ることが出来ました。食事処への途中では、イルミネーションでライトアップされたテラスの雰囲気が、これからの楽しみの雰囲気を高めてくれます。別棟の建物となっている、「京都 花暦」では、「京懐石料理 大文字」を頂戴しました。次々と提供される”驚きの作り”(前菜   造り   水菓子)と”繊細で食材の特色を生かした味付け”に舌鼓を打ちながら、お酒と会話のペースを上げてしまいました。あっという間の2時間でした。食後は、カラオケで少しくアルコールをとばし、さらに、部屋では1時半まで美味しいウイスキーを戴きながら、信州人の特色であると言われているあの会話を楽しみました。



八瀬ケーブルの行き違い後の風景です。
 いつもは5時前に眼が覚めるはずなのですが、窓のカーテンの隙間から明るい日差しが差し込んでいることに気がついてびっくりし、時計を確認すると、7時となっていました。朝食予定が8時です。風呂へ急ぎ、髭剃りをしなければなりません。こんな具合な、30日の朝でした。   
 朝食、夜と同じ、「花暦」ですが、個室ではなく、広々としたスペースで、すでに多くの方々が食事を楽しんでおられました。そして、7人のテーブル席が準備され、まず始めにサービスされたものは竹筒に入った「美山の水」でした。酒の飲みの私たちにとっては大変有り難いサービスと言えます。そして、この朝食もたいへん美味しくいただきました
 心配していたお天気は絶好。気温も寒さを感じさせません。9時50分の八瀬ケーブルに乗車。比叡山山頂ガーデンミュージアム比叡前のバス停広場へは10時20分に到着。琵琶湖の唐崎方面を遠望し、42分発のバスで、延暦寺の中心でる「東塔」地区へ向かいます。延暦寺境内に入場すると、30、40人ほどのお坊さん姿の団体さんが比叡山延暦寺全山の大きな地図の前で説明を受けていました。
 「根本中堂」をゆっくりと参拝し、「大講堂」では、前述の団体さんが延暦寺のお坊さんに「大講堂」についての説明を受けているとことに出くわし、傍で拝聴することが出来ました。延暦寺については、11月11日の下見での参拝。    以前、2008年の参拝の折を参照してください。
 12時ちょうどの坂本ケーブルで下山します。ケーブル坂本駅から歩いて数分のところに、「滋賀院門跡」と関連が深い、「慈眼堂」があります。まず、この「慈眼堂」を参拝します。延暦寺の「もみじ」は既に、「落ち葉」となっておりましたが、こちらはそのピークです。「慈眼堂」境内は素晴らしく風情があります。「慈眼堂」は家康・秀忠・家光三代の徳川将軍に仕え、黒衣の宰相といわれた天海大僧正(慈眼大師・南光坊天海大僧正)を祀る廟所です。「京都発見 九 比叡山と本願寺」 比叡山延暦寺と南光坊天海 では 
比叡山延暦寺は最澄、円仁、円珍、良源を四大師といって尊崇するが、比叡山にはもう一人、確かに大師号を下賜された僧がいる。慈眼大師天海である。天海は織田信長の比叡山焼討ちによって、灰燼に帰した根本中堂や大講堂をはじめとする堂塔伽藍を復興した僧であり、その意味では良源と並んで、いや良源以上に中興の祖といわれるべき僧である。しかし、比叡山は天海を四大師並みに尊崇しているとは思われず、天海が住んでいた比叡山東塔の南光坊もいまは残されていない。 確かに伽藍こそ天海の力によって復旧することができたものの、天台宗の中心は比叡山延暦寺から、江戸の東叡山寛永寺に移された。・・・・・家康の意図を理解し、それを実行したのが天海である。・・・
 もう一つ天海にゆかりの寺がある。それは大津市坂本にある滋賀院である。滋賀院も門跡寺院の一つで、江戸に本拠地を移した天台座主が比叡山に来られた場合、居住するための寺としてつくられたものであるり、比叡山延暦寺の運営にあたる拠点になったわけである。ここの建物はもともと天海が、後陽成上皇から京都岡崎の法勝寺の建物を賜り移築したものであったが、明治11(1878)年に火災に遭って建て直された。 この滋賀院で私は甚だ興味深いものを見つけた。それは天海が身につけていたという鎧兜(よろいかぶと)である。鎧は和紙や布、薄い木を漆で固めたものであるという。甚だ華麗であるが極めて軽い。・・・・
 「滋賀院門跡」では沿革、襖絵、書などの説明を受けた後、「天海の鎧兜」・天台座主の「輿」などを興味深く拝見し、「小堀遠州の作庭といわれるお庭」を鑑賞しました。窓からは、琵琶湖をはさんで、近江富士が見えています。
 「鶴喜そば」の予約時間13時に丁度間に合い、込み合う店内で、信州人としてはもちろん、琵琶湖馴染みの子鮎の佃煮、うなぎなど充てに、まずはお酒を頂戴しながら更なる会話を弾ませました。ホント良き旅となりました。お疲れ様でした!!!帰りはJR坂本駅から京都駅まで一直線です。そこから、東京・松本までの旅は更に、お疲れ様です!!!!!


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