古代出雲の面影を味わいたくて 出雲大社へのお詣りと 古代出雲歴史博物館を訪ねます。 そして、美保関灯台、美保神社、水木しげる記念館も |
背景は風土記時代の出雲です。 |
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11月1日、ジジ連5人組は、6時30分、JR星田駅に集合、一路、島根県出雲市「出雲大社」を目指します。「中国自動車道」に入るのに少し時間が掛かり、「西宮名塩SA」に入り休憩できたのは、8時となっていました。乗り換えに若干のミスがありましたが「米子自動車道」に入り、米子からは高速道路と一般道路が交互にある「山陰自動車道」を抜け、「出雲IC]で高速道路を走り終えることが出来ました。13時10分過ぎには、日本海の荒波が我々を迎えてくれます。「出雲大社」駐車場横にある「食事処 いずも」でお昼のありつけたのは13時40分となっていました。なんと、星田からは7時間経っていました。さすが、遠い!!!!! |
出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ) 「週刊朝日百科 国宝の美 22」からの「出雲大社本殿」 「正面及び側面」 「出雲大社全景」 14時丁度に、鳥居前に着き、一礼後、大社のお詣りを始めます。ゆっくりと参道を歩くと、右手に奈良の三輪山を思い出させる山容が眼に入ってきます。さらに、 大国主神と幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)の像 (解説板) 等拝見観ながら、 大社境内前の鳥居に着きます。本殿は改装中のため、御仮殿でのお詣りとなります。出雲大社だけの参拝方法である「2拝・4拍手・1拝」を行います。テントの向こうに屋根葺きが成った本殿の千木が見えています。 別方向からの本殿千木の様子を1) 2) 出雲の神在月に全国から集まる八百万の神様達の宿泊施設、「十九社」など多数の摂末社をお詣りし、 門をくぐると「神楽殿」に出ます。 こちらには正面破風の下に長さ13M、周囲9Mの大注連縄がさがっており、さすがの迫力です。 千家国造家の屋敷の門にも注連縄が。 「古代出雲歴史博物館」へ向う道は宮司達が住まう地域のようで、上賀茂神社横にもこの雰囲気の地域があります。そこに、「北島国造館」があります。門にはここにも立派な注連縄が掛けられています。15時、博物館敷地内に入ります。周囲の景観を損なわぬためか、上品な建物です。「神話博しまね」が開催中で、大きな「神話影像館」のテントが見えています。 博物館内の本殿の模型を確認しながら、。「週刊朝日百科 国宝の美 22 特集 出雲大社」での記事で整理します。 高大な神殿を示唆する柱の発見 大社造の代表である出雲大社は、平成12年(2000)に巨大神殿であったことを窺わせる柱が発見された。しかしその高さをめぐっては、いまだ決着がついていない。 出雲大社の本殿は、神社建築のなかでとびぬけて大きい建築として知られている。伝承ではその高さは16丈(約48b)、さらに32丈ともいう。現在の本殿でも礎石から千木の先端までの高さは8丈ある。(鎌倉時代の出雲大社本殿 5人の建築史家が復元した出雲大社本殿の50分の1の模型。右の二つが高さ16丈、左の三つが高さ16丈未満の吹く原案) 平安時代の出雲大社本殿(縮尺10/1 10世紀) 現本殿は延享元年(1744)の造営である。出雲大社の建築は延享の遷宮造営のひとつ前に行われた寛文7年(1667)の造替で大きく変容した。寛文造替以前は境内に三重塔や鐘楼が立ち、本殿も朱塗りで全体に仏教色の強いものであった。 (説明板) 寛文度の造営ではその仏教色を排除して神仏分離を建築面で実現し、景観は一変した。・・・本殿は南面して立ち、切妻造、檜皮葺の妻入である。・・・ 巨大神殿の大きさ、残る謎 ところで、かっての出雲大社本殿はどのようなものであったのだろうか。「日本書紀」によれば、天日隅宮(あまのひすみのみや)と呼ばれた宮殿は柱が高く、海浜に立地し、海に遊ぶための高橋、浮橋、天鳥船が備わっていたといい、「古事記」は、柱は太く、地中深く据えられた礎に立ち、氷木(ひぎ)(千木のことであろう)が高くそびえていたという。平安時代以降の諸資料にも高大な神殿であることを窺わせる記述は多い。 天禄元年(970)に源為憲が著した『口遊(くちずさみ)』に「大屋を誦していう」という一節があり「雲太、和二、京三」とみえる。これには注釈が加えられ「雲太は出雲国城築明神(いずものくにきづきみょうじん)(出雲大社のこと)神殿をいい、和二は大和国東大寺大仏殿をいい、京三は大極殿をいう」とあって、城t築明神の神殿の高さが一番であることを意味する「雲太」であった。当時、東大寺大仏殿の棟高はおよそ15丈であったから、出雲大社本殿の高さはそれよりも高かったか、それに匹敵するような高さであったのいうのである。 ここで、出雲地方、そして、出雲大社について整理してみます。 「古事記」の始まりです。 天地初めて発(ひら)けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき。・・・神代7代の最後に、「伊邪那岐神」、「妹伊邪那美神」が生まれ、国生み、神生み、が始まります。伊邪那美神が隠れた黄泉の国から逃れたあと、伊邪那岐神の禊(みそぎ)から「天照大御神」、「月読命」、「建速須佐之男命」が生まれます。伊邪那岐神は天照大御神に「高天原」の支配を任せます。須佐之男命は姉天照大御神に逆らい、高天原を追放され、「出雲国」へ流されます。ここから「出雲神話」部分が始まります。 スサノオは蚕と5穀(稲、粟、小豆、麦、豆)を作り、八俣の大蛇を退治してクシナダヒメを娶り、出雲の国、須賀に宮を構え、子を生します。その子ヤシマジヌミから4代で大国主神、別名、大穴牟遅神(オオナムチ)、葦原色許男神(アシハラシコオ)、八千矛神(ヤチホコ)が生まれ、出雲国が栄えます。オオクニヌシはコトシロヌシ、タケミナカタを子に持ちます。その後に、国譲りの物語が始まります。 以上が「古事記」の流れですが、「出雲風土記逸文」、「播磨風土記逸文」には出雲王国の発展、衰退の詳しい状況が記されているようです。 以下、梅原猛氏の「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」からその目次のみを紹介し、詳しくは後段ですることとします。 はじめに 出雲へ 第1章 出雲王朝はスサノオから始まった 第2章オオクニヌシー王朝を繁栄させた大王 第3章 考古学が語る出雲王朝 第4章 記紀の謎 おわりに 出雲大社の構造 博物館の別室には「荒神谷遺跡」、「加茂岩倉遺跡」から出土した「銅鐸」、「銅剣」が多数展示されています。第3章 「考古学が語る出雲王朝」では詳細を説明しています。 下の写真は全て拡大します。
「荒神谷遺跡」、「加茂岩倉遺跡」などから発掘された多くの「銅剣」、「銅鐸」その他の発掘物から、出雲は大きな主権国家であったことが証明されるようになりました。「古事記」、「日本書紀」、「出雲風土記」、「播磨風土記」等で神話、もしくは、昔の物語として記述されていることが、現実にあったこととして研究されるようになりました。しかしながら、「記紀」の神話はなお、お伽話の世界であるという根強い観念は残ったままのようです。出雲神話の本当の主人公であるスサノオが地理的関係からも朝鮮半島との強いつながりがあることも障害の一つと考えられるのではないでしょうか。「銅鐸」はもともと朝鮮半島の「馬錫」であり、祭祀用に大型化されたものといわれています。 開始時間の関係で、出雲歴史博物館の観覧を中断し、「神話博しまね」の特設会場・テント張りの「神話映像館」で、スサノオが主役の迫力ある映像劇世界を堪能しました。その後は、ゆっくりと時間を掛けて、銅剣、銅鐸などを鑑賞し、勉強しました。時間はすでに16時半です。皆生温泉までは、2時間近く考えなければなりません。車が海岸線の三つ角にでたところで「稲佐の浜」の「弁天島」を撮ることができました。時間は16時42分です。雨が強くなっています。 18時30分、ようやく、「愉快リゾート かいけ彩朝楽」に到着。夕食の時間が19時30分からと決まったことから、ゆっくりと温泉に浸かります。夕食はバイキングですが、特別料理として、「島根牛とマツタケのしゃぶしゃぶ」をお願いしています。もちろん「飲み放題」も。 9時半からは2時間、例によって、カラオケ大パーティで、今日を〆ました。 |
![]() 島根半島の先端までの旅です。 |
11月2日、 朝6時50分、砂浜に沿って建つ、ホテルの部屋からは波の高い海が目の前です。防波堤の隙間から入り込んでくる黒く淀んだ潮が不気味です。雨模様の空は暗く、夜明け前の姿です。正面遠くに、「美保関灯台」、「美保神社」がある「島根半島」の突先の「地蔵崎」がうっすらと見えています。7時半から朝食。 出発前、8時10分に、もう一度窓から島根半島方面を撮影します。波飛沫が防波堤を乗り越えてきていますが、空は雲の切れ間が見え出しています。9時にホテルを出発し、「境港」への道を取ります。天候によって島根半島の先っちょまでは諦めて、「妖怪の里」へ向うつもりにしています。 |
![]() 日本海に向って建つ、「美保関灯台」ですクリックすると拡大します。 |
「美保関灯台」、「美保神社」 「431号線」を「境港」方面に向います。前方右手、島根半島の先端、「地蔵崎」方面は晴れ間が覗いています。「好し!!!半島先端まで行こう。」と決断します。境港市から島根半島(松江市)へは巨大な「堺水道大橋」を渡る必要があります。 9時45分、地蔵崎駐車場に到着します。駐車場本土側の展望デッキに案内板が設置されています。本土方面は雲が懸かり、大山は見えていません。でも、冬の北陸地方特有の雲の切れ間から神幸の光が指している光景が撮影されます。 駐車場奥には古代の「嶋根郡(しまねのこおり)」の説明文があります。国引き神話では、越の地から切り取ってこられた土地と記されているようです。 日本海側展望デッキには「地蔵崎」の説明板があり、日本海の荒波を受けるこの岬の絶景を展望をします。 西側方面 正面 東側灯台があります。 灯台の周囲を一周します。 「美保関灯台」は、明治31年(1898)に初めて点灯されました。北緯35度33分51秒、闘鶏133度19分41秒に位置し、光達距離は23.5海里(約43.5キロメートル)と記されています。 「灯台ビュッフェ」に入り、お茶をすることとします。広い日本海を端から端まで我々だけで眺望できる喫茶室になっています。正面には快晴であれば観ることが出来るであろう「隠岐の島」の案内があります。ということは、この灯台の光は隠岐の島でも見ることが出来るということです。 右手沖には、暗礁の上に小さな灯台があるのが見えます。 「沖の御前」と呼ばれています。 ビュフェ内に、灯台の初代レンズが展示されています。 レンズはプリズム状にになっており、光の撹散を防ぐ構造になっているのでしょう。 駐車場に戻ると。大山が中腹まで見えかかっています。 10時35分、「美保神社」に向けて、出発します。 「美保神社」についてより調べようと、「葬られた王朝」を読み返していたところ、「消された大王 饒速日(ニギハヤヒ)」に関連して、大変面白い部分があることに気づきました。少し長いくなりますが、転記します。 「第2章 オオクニヌシー王朝を繁栄させた大王」の一部です。 ・・・私は『播磨風土記』を読み、そしてそこにオオクニヌシの伝承が詳しく語られていることに興味を覚え、播磨の国を訪ねたのであるが、この国に、出雲の国にもないような巨大で華美な「一つ山」「三つ山」という神事が残されていることに驚いた。播磨には、深くオオクニヌシの影が差し込んでいる。そしてそこには、オオクニヌシ王国滅びの原因が密かに語られている。 さて、このように内部分裂とアメノヒボコといわれる韓の国から来た強力な神の出現によって追い詰められたオオクニヌシのもとに、ついに国譲りの使者がやってくるのである。 古代出雲王朝が、どのように滅びたか、史実として確かなことはまったくわからない。しかし、オオクニヌシ王国を滅ぼしたのは、物部氏の先祖神であるという説がある。その点についてはっきりとしたことはいえないが、『古事記』では国譲りの使者はアメノトリフネを副えたタケミカヅチであるのに対し、『日本書紀』では主なる使者は物部氏の神を思わせるフツヌシであり、タケミカヅチは副使者にすぎないのである。『出雲風土記』にも、ところどころにフツヌシの話しが語られているのをみると、出雲王国を滅ばしたのはニニギの一族より一歩先にこの国にやって来た物部氏の祖先神かもしれない。 『古事記』によれば、オオクニヌシは国譲りを承諾して、この国をニニギに譲って自らは稲佐の海に隠れたという。出雲大社の本殿にはオオクニヌシが祀られているが、オオクニヌシは人が手を合わせる方角に鎮座しておらず、社殿の右端にいて、海のほうを向いている。海はオオクニヌシがお隠れになったところで、オオクニヌシは自らお隠れになったところを悲しい思いで眺めておられるのであろうか。 建築史家の福山敏男氏の説によれば、出雲大社本殿には巨大で長い階段がついていたという。その階段はおそらく、オオクニヌシのお隠れになった海に向うものである。オオクニヌシの魂はその宮殿と海の間を行き来して、宮殿に押し込められた自らを慰めていたに違いないと思われる。 この国譲りの神事を象徴しるような祭りが、島根半島の東端、美保神社の「諸手船(もろたぶね)神事」と「青柴垣(あおふしがき)神事」である。・・・(「青柴垣神事」は毎年4月7日に行われる。国譲りに際してコトシロヌシの死と再生を象徴する祭り。 「諸手船神事」は12月3日、稲佐の浜でタケミカヅチがオオクニヌシに国譲りを迫った際、美保で釣りをしていたコトシロヌシに急をしらせた「熊野の諸手船」を再現したもの。 「消された大王 饒速日(ニギハヤヒ)」で神氏は大神神社の祭神である「大物主大神」は、スサノオの息子「大歳」であり、「倭大物主櫛瓶魂命」、物部氏の祖「フツヌシ」、「饒速日」である、としています。 改めて、「美保神社」、別称「美穂両社大明神」は、社伝では、創建は孝霊天皇(在位紀元前290〜215)の御宇。主祭神は「美穂津姫命」・「事代主神」。海に近いという地理的条件もあり、海上安全や豊漁への信仰をあつめた。後世、祭神が恵比寿神と同一視されるようになり、全国のエビス社の総本宮として知られるようになった。とされています。出雲大社と共通参詣が勧められ、大いに栄えた歴史もあるように、大社とは繋がりが深い。 10分ほど走ると、小さな漁港の直ぐ前に「美保神社」があります。 門には、やはり、立派な注連縄があります。 拝殿は、広い空間が造られており、お祭の折などに使用されているのが想像されます。 拝殿にお詣りします。 「美保関灯台」、「美保神社」へ足の延ばしたことは大正解。島根半島の両名所を訪れている際には、雨の心配は全くありませんでした。これこそ、出雲の神々の御蔭と信じて、境港へ戻りました。 |
![]() 境港駅前にある概略図でクリックすると拡大します。 |
水木しげる記念館へ 11時15分、境港市街に入ります。早速、「目玉おやじ」の風船が舞っている公園内に群れる子供達を発見します。駐車場に車を入れ、フェリーターミナル方向へ歩きます。そこが「みなとさかい交遊館」であり、境港駅です。早速、水木しげると妖怪たちの世界を発見します。 「水木しげる氏の顕彰碑」を皮切りに、水木しげるロードには次々と妖怪たちの像が続きます。 「鬼太郎と目玉おやじ」 「ねずみ男」 など多くのキャラクターを楽しんで歩いていると、11時45分、「水木しげる記念館」に到着します。ねずみ男が迎えてくれます。 記念館に入ります。 「水木漫画ワールド」への入館です。 2階へ上がると、早速、妖怪たちが迎えてくれます。 「鬼太郎の秘密・生まれと暮らし」 「目玉おやじの秘密」 「ねずみ男の秘密」 「子なきじじい&砂かけばばあの秘密」 などを勉強します。 また、多くの妖怪キャラクターの元となっていると思われる冒険家・水木氏の世界を紹介しています。 さらに進むと、妖怪の世界だけに、一部にはジジ連の肝さえも冷やしてくれる、幽霊屋敷を思わせる展示もあります。大人も子供も楽しめる展示品の数々と言えるでしょう。 「地域再生事業」の一環として境港市と市民が取り組んでいる「水木ワールド」盛り上げ活動は成功しているようです。各種の特色あるお店、食べ物屋、そして、妖怪神社までが、多少悪乗り感はありますが、お客さんを楽しませてくれています。「河童の泉」で妖怪たちに別れを告げ、「堺水産物直売センター」を覗き、帰路につきました。 途中、高速道路の事故渋滞で、予定より2時間ほど遅くはなりましたが、無事に帰着することが出来ました。家の前まで送ってくれた幹事Sさんには感謝!!!感謝!!!!!です。また、楽しい旅を共にしてくれたジジ連の皆さんにも感謝!!!感謝!!!です。 |
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