古代歴史散歩 饒速日(ニギハヤヒ)は? |
伊邪那岐・饒速日の王朝は? 原大和王朝は存在したか? 欠史8代の王君は饒速日王権であったのか? 崇神天皇・神宮皇后・応神天皇は新王朝の創始者か? |
古代関連年表(逆説の日本史・消された大王饒速日から) |
BC3世紀 この頃、弥生文化成立 各地に環濠集落が出現 BC2世紀 この頃吉野ヶ里栄える AD57年 倭奴国王が後漢に朝貢、 金印を受ける (漢委奴国王印) AD107年 倭国王師升ら後漢に朝貢 AD158年 紀元後第1回目の皆既日食 この頃、倭国大乱 AD239年 卑弥呼、魏へ使者を送り、 親魏倭王の称号と金印及び 銅鏡100枚をうける AD247年 邪馬台国、狗奴国と交戦。 魏、応援の為張政を派遣 AD248年 第2回目の皆既日食 卑弥呼死す 400年頃 河内平野に巨大古墳出現 421年 倭王讃(仁徳天皇?)宋に朝貢 471年 埼玉県稲荷山古墳の鉄剣作られる (ワカタケル大王=雄略天皇の名あり |
「消された大王饒速日」年表 BC1世紀頃 唐古・鍵遺跡 (青銅器国家) AD120年 スサノオ誕生 ニギハヤヒ誕生 アマテラス誕生 150年 スサノオ一族 九州遠征 170年 スサノオ九州席巻 180年 ニギハヤヒ物部部族東征 生駒山タケルガ峯到達 物部王国創立=原大和王国 210年〜220年 アマテラス独立 出雲侵攻 220年 ニギハヤヒ崩御 240年 日向御子即位して神武天皇 となる 葛城王朝成立=新大和王国 纏向遺跡(石塚古墳) 313年 崇神天皇東征 318年 崇神天皇崩御 三輪王朝 |
AD 25年後漢建国 399年 高句麗広開土王 朝鮮半島に侵入した倭(日本) 軍を撃退 |
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スサノオ・ニギハヤヒ、そして物部氏の活躍を読み進めるに従って、日本列島(以後は、「列島」)そして中国、朝鮮半島を中心とする北東アジアとの関連を確かめる必要を感じました。それは文字として歴史を確認するのには、中国の王朝史が不可欠だからです。それに応えてくれたのが、豊田有恒氏の「本当は怖い韓国の歴史」・「歴史から消された邪馬台国の謎」、室谷克実氏の「日韓がタブーにする半島の歴史」などです。もちろん、梅原氏の「古代出雲の謎を解く 葬られた王朝」も再読の必要が生じました。 「消された大王饒速日年表」では、AD120年頃から、スサノオ、ニギハヤヒ、アマテラスが誕生し、150年頃スサノオ一族が九州を支配下に、180年頃、ニギハヤヒ物部一族が大和地方に進出し、原大和王国を建設したとしています。 さらに、210年〜220年、アマテラスがスサノオ一族から独立し、出雲へ侵攻、220年にはニギハヤヒが崩御、240年日向御子が即位して神武天皇となり、「新大和王国」が誕生したとしています。 この頃の資料に残る大陸との関連は、AD57年の「漢委奴国王」の金印紫綬、 AD107年の「倭国王後漢に生口160人献上、 184年頃、倭国乱れる、 239年「卑弥呼」、魏の帯方郡に使者を送る、 243年「卑弥呼」、魏に朝献、といったものです。 以上の列島内での出来事はどのように繋がっていくのでしょうか? 後漢はAD36年(光武帝全国を平定)から、AD220年までであり、卑弥呼の時代は三国時代(魏・蜀・呉)の時代、そして、半島では三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の時代、歴史書では「魏志」で著されている時代です。 また「後漢書」は、こうも言う。 「建武中元2年(AD57年)、倭の奴国が、貢物を献上するため、朝廷にやって来た。使いの者は自ら大夫と称した。倭国の極南界である。光武帝は、印(しるし)と綬(ひも)を賜った」 |
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「歴史から消された邪馬台国の謎・三国志に遺された古代日本の姿」から「当時の 倭(日本)」の姿を読んでゆきます。この中には、 上掲の図のように、「三国志」は「魏志」(30巻)・「呉志」(20巻)・「蜀志」(15巻)ですが、魏が最も北に位置していた関係で、「烏丸(うがん)伝)・「鮮卑(せんぴ)伝」・「東夷伝」(扶余・高句麗・東ヨクソ・ユウロウ・ワイ・韓・倭人の条)があります。 (いま伝えられている魏志は、陳寿の編纂した書物そのものではない。魚けんという人が撰した「魏略」という文献があり、それを参考にして、のちの南北朝時代の「松之(はいしょうし)というひとが、加筆した部分もふくまれている。また、王沈という人の「魏書」も参考にされているという。) 「倭人条」へ入る前に、「三韓」に於ける記載に以下のものがあるようです。? 辰韓について、・・・「国は、鉄を産出する。韓・ワイ・倭は、、みな勝手に鉄を採る。あち長髪をし、こちの支払いは、鉄でおこなうが、中国で銭を用いるようなまのだ。また、鉄を2軍郡に供給している。・・・弁辰は、辰韓と入り交じりあって暮らしている。ここにも城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じである。言語習慣も、よく似ている。・・・弁辰のトク廬国は、倭と境界をなしている。12国にも王がいる。その住民は背が大きく、衣服は清潔で広い幅の細布を作る。掟や定めは、ことのほか厳しい。・・・辰韓というのは、もともと秦からの亡命者が多かった地域だったからだろう。楽浪、帯方の2郡と関わりが深かった馬韓にいては、身の危険を感じたから、かれらは、辰韓に逃げてのであろう。・・・ 倭人ーなぜ抜群の待遇をうけていたのか 倭人は、帯方郡の東南の海上にいる。山ばかりの島で、国や集落を営んでいる。昔は百国ばかりあって、漢の時代には、貢物を持ってくる国もあった。現在、使節や通訳がやってくるのは、30国ちょっとである。郡から倭の国へ行くためには、海岸に沿って航行していく。韓国を通るあいだ、南へ行ったり東へ行ったりするうちに、その北岸の狗邪(くじゃ)韓国へ到着する。・・・もうひとつ外洋を渡ると、千里ちょっとで末廬(まつら)国に着く。・・・東南に向って陸上を行くと、五百里ほどで伊都国に着く。・・・東南へ行くと奴(な)国に着く。・・・東へ行くと、不弥(ふみ)国に着く。・・・南へ行くと、投馬(とうま)国に着く。・・・ 南へ行くと、邪馬台国に着く。女王の都があるところである。・・・女王国から来たの国々については、その戸数や道程は、簡単ながら記録することができるが、それ以外の国々は詳しく調べることができない。・・・次に奴(な)国がある。ここが女王国の境界の尽きるところである。この南に狗奴(くな)国があり、男子を王としている。・・・女王国には所属していない。 帯方郡から女王国に着くまで、一万二千里である。・・・・・ 景初2年(238年)6月、倭の女王は、大臣の難升米たちを派遣してきた。かれらは帯方郡にやってきて、皇帝のところに貢ぎ物を持って行きたいと、申し出た。そこで、太守の劉夏は、部下に命じて、かれらを送らせ都へ行かせたのである。 その年の12月、皇帝の命令書が、倭の女王に与えられた。「親魏倭王の卑弥呼に勅命をくだす。・・・正始元年(240年)、太守弓遵(きゅうじゅん)は、命令書、金印などを持たせ、倭国は行かせた。・・・同4年(243年)、女王は、また大臣・・・などを派遣した。・・・・・同6年(243年)皇帝は、倭の難升米に黄色い軍旗を与えるように命令し、帯方郡を通じて授けた。・・・ 248年頃、狗奴国との戦争により卑弥呼は死亡。その後、男王を立てたが国中が従わず、卑弥呼の縁続きの壱与(いよ)という13歳の女を立てて王とした。・・・この頃に、倭国(邪馬台国の卑弥呼)と魏との交流があったことは、間違いない。倭国の極南界、つまり南の果ての金印をもらった奴国180年後の女王卑弥呼の時代も、福岡あたりにあったことも確かのようです。 つまり後漢の時代、倭人は北九州の僅かな地域しか進出していなかったことになる。倭人の勢力は、主として楽浪郡の支配下の韓国南部にいたのである。 だが、180年後の邪馬台国の時代になると、倭人は三十国あまりに統一され、邪馬台国を中心として、まとまりつつある。この時代の倭人の勢力圏は、明らかに日本列島に移っている。もはや北九州が極南界ではない。朝鮮半島のほうが、むしろ極北界になっていたのだろう。狗邪韓国は倭人伝で扱われ、その(つまり倭の)北岸と書いてあるから、倭人のテリトリーだったのだろうが、それとは別に弁辰狗邪国という国名が韓伝にでているから、狗邪(=加羅)は、倭人と韓人のあいだで分裂していたのだろう。その狗邪韓国は、弁辰とうろ国と対峙していたことになる。 つまり、後漢書の時代には、いまだに朝鮮半島の南部を主たる勢力圏としていた倭人は、ほぼ2世紀の後には日本列島に本拠を移し、韓半島には足掛かりをのこすだけになっていたと考えるべきである。 ・・・・・倭人が残した半島の足掛かりは、その後どうなったのであろうか。「三国史記」によれば、新羅の法興王(ポブンワン)の19年(532年)、金官加羅国の金仇亥(きむくへ)王は・・・降伏してきたという。これによって加羅国は、滅亡したのである。また、「日本書紀」によれば、欽明天皇の23年、562年に、任那が滅亡したとされる。・・・欽明天皇も、その子の敏達天皇も、任那の奪回を遺言している。・・・ やはり、「邪馬台国」は九州にあったことは間違いないようです。北東アジアのなかで、位置づけると、朝鮮半島を経由する、あるいはダイレクトに黄海、東シナ海を渡り、行ける場所でなければならないのです。 付け足しとして、記憶しておきたいのは、「三韓時代の朝鮮」の図にある「扶余」は民族移動して、後の三国時代(百済・加耶・新羅)の「百済」となっていることです。 倭人が抜群の待遇をうけた理由は、「海を渡った遠くにあるにもかかわらず、使者を送ってくる力をもつ倭人の国に対して「遠交近攻」の策を使う価値を認めた」ということではないのでしょうか。 さて、ここから、大和、出雲地方との関連を探っていきます。この頃の、これらの地域はどうだったのでしょうか?出雲、近畿地方、そして関東、奥州地区まで、列島には、思いも寄らない大陸との行き来があったのではないにでしょうか? |
ここで、神一行氏が「消された大王 饒速日」の執筆にあたって参考にした、小椋一葉氏の「消された覇王 伝承が語るスサノオとニギハヤヒ」の「はじめに」の部分を引用します。この中には、「熊野」についての記述もあります。 私は、ヤマトタケルに近づくほど、彼が仰ぎ見てやまないその神々について語る声を聴いた。彼が生きていた時代ー古事記も日本書紀もまだ出現していなかった4世紀初頭は、天皇はもとより、雄々しい武将から名もない民衆に至るまで、あらゆる人々が熱い祈りを捧げ、絶対の崇敬を寄せていたその神々の熾烈な生の炎に、私はヤマトタケルを通して、たびたびふれた。 古代の国と民の上に聳えたち、大らかな翼ですべてを包む偉大なる神々。彼らはいったい、何ものなにか。これは、ぜひとも取り組まねばならぬ課題として、ヤマトタケルを書き終えた私をしきりに衝き動かしてやまないものである。 こうして、この衝動に導かれて誕生したのが、本書である。 栄光の神々ー。彼らは、日本の曙の覇王であった。もちろん、私がいう覇王とは、スサノオと、その子供ニギハヤヒのことである。 日本という国が、いまだ無数の集落に分かれ、国家を形成する夜明け前のまどろみの中にいた時、天は、選ばれた父と子をこの地上に遣わした。日本列島の開拓と統一という大きな使命を担わせて。・・・・・私は今、彼らにもまして鮮やかな天の意思の刻印を、スサノオ・ニギハヤヒ父子に見たと思った! ところが、伝承を通して私が知ったスサノオ・ニギハヤヒは輝かしい覇王であるのに、古事記や日本書紀に描かれた彼らは、あまりにもみじめで、異様な姿をしていた。 小椋氏は、まず、スサノオ(素盞鳴)について全国の神社の祭神から解明していきます。 スサノオは「牛頭(ごず)天王」と呼ばれていたこと。天王社の総本山は、愛知県の「津島神社」であること、それより馴染みの深い京都の「八坂神社」は、姫路市の「広峯神社から平安時代の初期に勧請されたことです。「津島神社」は大同5年(810年)嵯(峨天皇により、「素(すさのお)尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」と称され、「日本総社」の号を奉られています。祇園祭に際して語られる「蘇民将来伝説」はよく知られています。 スサノオ=オオヤマツミ(大山祗神)=タカオカミ(高寵神)=イカズチ(雷神)=オオワタツミ(大海津見神)=カグツチ(迦具土神)であること。 スサノオはその偉大さを物語るように、たくさんの神名を持っていた。・・・山と、海と、水と、雷と、火と。 また、面白い伝承として、『尾張名所図会]などの資料によると、朝鮮半島に祀られていた素戔鳴尊の御魂が七代孝霊天皇の時に西海の津島に遷された。そしてその後、欽明天皇の540年、さらに尾張に津島に奉還された。・・・ 次に、ニギガヤヒ(饒速日)について 幾多の子供の中から一人、あたかも龍が天に昇るように、薄明の中からそのひめられた姿を見せはじめたニギハヤヒ。かれは、すでにクラオカミ(闇竃)・ワケイカズチ(別雷)の名で偉大な父と方を並べるように登場し、ある大いなる予覚をわれわれに投げかけていた。 日本の曙のもう一人の覇王ニギハヤヒー記紀によって消された彼を得、われわれは今、真実の光の中へ甦らせることにしよう。 充分に意欲が感じられる書き出しです。京都に住む私たちがよく言っているのは「上賀茂さん」・「下鴨さん」で、賀茂川に沿って、たまに散策することが出来るだけで幸せを感じさせてくれます。 「上賀茂神社」は正式には「加茂別雷神社」、「下鴨神社」は「賀茂御祖(みおや)神社」で、合わせて「賀茂神社」といっています。山城国の一の宮で、全国の賀茂神社の総本社です。 兵庫県御津町の賀茂神社の記録から、ニギハヤヒ=ワケイカズチ=「大歳御祖皇大神(おおとしみおやすめおおかみ)」である確信を得ています。また、宮津の「籠(この)神社」の祭神は「天火明命(あめのほあかりのみこと)」で、相殿は「天照大神」・「豊受大神」。もちろん、主座は、ニギハヤヒ=天火明命である訳です。 ・・・大歳御祖神は、そもそもの始まりはどの社も「大歳御祖皇大神」という正しい新名で祀られていたはずである。ところが記紀の成立前後、アマテラスが皇祖とされるに至って「「皇大神」の称号を消すように中央官庁から指令がだされた。・・・ アマテラス=オオヒルメ尊=大日霊女(おおひみこ)=撞賢木厳御魂天疎向津比売命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと) ニギハヤヒ=ワケイカズチ=大歳御祖皇大神=天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるあめのひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと) 上の各々の配列を考えると、「もともと国の御祖は饒速日であった」との考えが正解と思われてくる。 更に、大和地方、三輪山の神を祀る「大神神社」、その多くの摂社、そして、天理市のある「大和神社(おおやまとじんじゃ)」、「石上神社(いそのかみじんじゃ)」、奈良市内にある「漢国神社(かんごうじんじゃ)」などの考察から、「大神神社の祭神大物主大神」はニギハヤヒであり、配神 大己貴神はオオクニヌシと、少彦名(すくなひこな)神であることを解き明かしています。記紀ではオオクニヌシを際出させてニギハヤヒの活躍を消し去ろうとしているようです。 さてここで、このページを作ることを気づかせてくれた「熊野古道歩きの発心門王子での出会い」の解明が出来そうです。 「謎の熊野詣」 歴代の天皇がたがしばしば行幸された神社というと、どこだろうか。奈良の大神神社、大和(おおやまと)神社、石上神社、京都の加茂神社、それに大津にある日吉(ひえ)大社へもよく出かけられている。明治以降は皇族がたの参拝が恒例となっている伊勢神宮へは、昔の天皇はあまり行っていない。 これらの神社へ出かけられる意味は、よくわかる。いわば都の守護神ばかりである。また日吉大社は桓武天皇の時代になると平安京の鬼門除けとして崇敬されている。 ところがここにもう一社、天皇がたがこぞって行幸された驚くべき神社がある。都を遠く離れた和歌山県の北端にある熊野本宮大社と熊野速玉大社、通常本宮・新宮と呼ばれている両大社だ。 調べてみると、歴代の天皇・院の御幸は実に百数十回に及んでいる。京都から熊野までの参詣は距離にして300キロ余り、日数にして1ヶ月はかかる。まるで陸の孤島にも等しい熊野まで、百数十回も上皇や天皇が足を運ばれたということ。これは実にただならぬことである。いったいなぜ彼らは、これほどまでに熊野本宮・速玉大社へ参詣されてのであろうか。われわれは深い驚きとともに発せずにはいられない、彼らを駆り立てる何が、熊野にはあったのか、と。 理由はいろいろ考えられる。まず熊野は、早くから仏教者によって注目され、信仰道場が開かれていたということだ。・・・・・そうした都の人々の眼に格別の光明を帯びて映じていた熊野本宮・新宮へ始めて行幸されたのが、延喜7年(907)の宇多上皇であった。さらにその後、鳥羽上皇、花山法王がそれぞれこられているが、・・・寛治4年(1090)正月、始めて来られた白河上皇であった。・・・白河上皇は10度も参詣されたのであった。・・・・・ 「神の心」への歌 熊野へ詣でたまひける道に花のさかりなりけるを御覧じて 咲き匂ふ花のけしきを見るからに神の心ぞそらに知らるる 熊野に参らせ給ひける時よませ給へる 山の端にしぐるる雲をさきだてて旅の空にも冬は来にけり 以上 白河法皇 よをてらす影とおもへば熊野山心の空にすめる月かげ みくま野の山路に名のる時鳥神も初音やうれしかるらむ 以上 鳥羽上皇 はるばるとさかしき峰をわけ過ぎて音無川を今日みつるかな 後鳥羽上皇 みくま野や苔ふみならす苦しさも見にかへてこそ世をいのりけめ よる波の音無川に影見えて氷をみがく冬の世の月 以上 後柏原天皇 ・・・ここで、私に浮かんでくる一つの光景がある。白河上皇が、鳥羽上皇が、後鳥羽上皇が、後柏原天皇が、はるばる熊野に辿り着き、神殿にぬかずかれた時、そうした彼らの祈りを受け、彼らの心に真の生の道を語りかけた「神々の顔」である。 いったい、彼らがその人たちの前で「神の心」に立ち返ろうとした、その者達ーすなわち熊野本宮・新宮に鎮座する神々は、誰だったのか。 代々の天皇や上皇がたが、その前にひれ伏し、己れを正す拠り所とされたいわば彼らの生の支えであった偉大なる神々、それは何ものだったのだろうか。 答えから先に言おう。 熊野速玉大社 (新宮) 速玉男命(はやたまおのみこと) (スサノオ) 熊野本宮大社 (本宮) 事解男命(ことさかおのみこと) (ニギハヤヒ) 那智大社 伊邪奈美命(いざなみのみこと) 現在の神社の由緒書では、公式祭神名は 速玉大社 速玉大神(いざなぎの尊) 本宮大社 家津美御子(ケツミミコ)大神(素戔鳴尊) 那智大社 熊野夫須美(フスミ)大神(いざなみの尊)となっている。 それにしても、熊野本宮・新宮を調べてみて思いを新たにしたのは、スサノオ・ニギハヤヒ父子を消すために、いかに隠微な工作がなされてきたかということだ。・・・ 「発心門王子」の祭神 「饒速日」は本当のものであった証拠であろうと考えることとしました。 |
スサノオ・ニギハヤヒの活躍については、大野七三氏「日本国始め 饒速日大神の東遷」、神尾正武氏「大和の大王 ニギハヤヒ尊」、もちろん「消された覇王」も、スサノオが出雲を、北九州を支配し、そのスサノオの命をうけたニギハヤヒが大和を支配し、ニギハヤヒの死後、南九州を拠点としていたアマテラス一族のカムヤマトイワレヒコに大和の支配を譲ったとしています。 ニギハヤヒが物部一族を率いて、大和に進出し、物部王国(原大和王国)を創立したのが、この本の年表によれば、AD180年頃。 210年〜220年 アマテラス独立 出雲侵攻 220年 ニギハヤヒ崩御 240年 日向御子即位して神武天皇となる 葛城王朝成立=新大和王国 纏向遺跡(石塚古墳) 大和地方の、巨大古墳群の推定制作時期は(ウィキペディア 日本の大規模古墳一覧によると) AD250〜300年 奈良県桜井市 全長276M 箸墓古墳 (オオヤマト古墳集団) AD300〜350年 奈良県天理市 全長234M 西殿塚古墳 (オオヤマト古墳集団) AD300〜350年 奈良県桜井市 全長230M メスリ山古墳 (オオヤマト古墳集団) AD300〜350年 奈良県天理市 全長242M 行燈山古墳 (柳本古墳群) AD300〜350年 奈良県桜井市 全長208M 桜井茶臼山古墳 (オオヤマト古墳集団) AD350〜400年 奈良県天理市 全長302M 渋谷向山古墳(オオヤマト古墳集団) AD350〜430年 奈良県奈良市 全長276M 五社神古墳 ((佐紀盾列古墳群) とされており、AD250年頃には、大和に強い支配者を持つ、国があったことがうかがえます。 ここで、1世紀から6世紀にかけての列島の歴史を判り難くしている「日本書紀」について、関裕二氏の「『日本書紀』は古代史を偽装したのか?」の最後のところで以下の記述をしています。 ヤマト建国の歴史を抹殺した『日本書紀』 纏向遺跡の発見によって、3世紀から4世紀にかけてのヤマト建国と、ヤマト朝廷の黎明期の様子が、次第にはっきりとしてきた。そして、纏向遺跡に各地の土器が集まり、しかも前方後円墳というヤマト朝廷のシンボルも、いくつかの地域の埋葬文化をまとめて作られたことがわかってきた。しかも、纏向に集まってくる順番は、北部九州が最後だった疑いが強くなっている。 そうすると、『日本書紀』の記述の中に、ヤマト建国の再現記事がのこされていたことになる。 たとえば、『日本書紀』の中で、ヤマトの三輪山で祀られる大物主神は、出雲の国譲りの直前、出雲からヤマトに遷し祀られたと記している。さらに、神武東征の直前のこと、物部氏の祖・饒速日命は、いずこからもなくヤマトに舞い降り、ヤマトに君臨していたという。 神武天皇のヤマト入りは、このあとの出来事であり、仮に神武東征を「ヤマト建国の神話化」と捉え直すことができるならば、各地から人びとが順次集まり、そして最後の最後に、九州からヤマトの王がやってきたということになる。・・・ つまり、「纏向遺跡の発見」は、これまでの古代史観を根底から覆すものであり、要するに、『日本書紀』の読み方の変更を迫っていることに早く気づく必要がある。 『日本書紀』が隠匿してしまった真実 ・・・すでに触れたように、考古学の進歩によって、ヤマト建国の過程はかなり克明に再現できるようになってきた。そして神話の世界の絵空事と思われてきた「出雲」が、実際には、ヤマト建国の一つの要因として、大きな地位を占めていた疑いはつよくなってきたのである。・・・・・藤原氏が「史上最大の悪人」に仕立て上げた蘇我氏が、神話の世界の出雲と接点を持っていて、「正統な血脈」と「輝かしい歴史」を持った曽我氏の正体を、『日本書紀』は抹殺しなければならなかったのである。 蘇我氏と出雲がどこでつながっているというのか。もっともわかりやすい例は、出雲大社の真裏の、スサノオを祭る摂社の名が、「素鵞社」(そがのやしろ)であることだろう。 なぜスサノオが「ソガ」なのかといえば、出雲に住みついて最初の宮が「須賀」で、「スガ」が「ソガ」に音韻変化したから「素鵞社」となったのだろう。 その証拠に、スサノオの子・清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがは、「のゆやまぬしみなさろひこやしましの)を、『粟鹿大明神元記』(あわがだいみょうじんげんき)は、「蘇我能由夜麻奴斯彌那佐牟留比古夜斯麻斯奴」(そがのゆやまぬしみなさむるひこやしましぬ)と記している。ここには、「清=スガ」が「蘇我=ソガ」と書かれている。・・・・・ 「壬申の乱」により天皇位を得た「神武天皇」の為に『日本書紀』は書かれたとのいままでの通説を抜け出し、「持統天皇」・「藤原不比等」の連合によるクーデターがなされ、持統天皇の血脈のみを皇位に、不比等は蘇我氏を悪者にすることで、その権力維持法(藤原氏の娘を天皇に嫁がせ天皇を産ませる)を奪い去ることとなったというのです。 「壬申の乱」については、豊田有恒氏の「大友の皇子東下り」を読書中です。小説とは言え、大海人皇子の素性など、氏の洞察力豊かなお話が続いています。 「大海人皇子」は「皇極天皇=斉明天皇」と「高向王」との間の子で、中大兄皇子(後の天智天皇)の父親違いの兄に当たること。高向王の父「高向の村主」は東漢直(やまとあやのあたえ)と同族の百済系の人であること。 「大化の改新」のきっかけとなる宮殿内で「蘇我入鹿暗殺」時の、「古人大兄の皇子」の証言 「韓人(あやひと)が、鞍作の臣を殺した。悼(いたま)しいことである」 は大海人皇子がその場にいて、彼が入鹿に刃を向けたことの傍証となる。 「大海人皇子」が「中大兄皇子」の弟ではなく、兄であるはずだ、とのことは、井沢元彦氏の「逆説の日本史」でも指摘しています。 |
梅原猛氏の「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く 」第一章 出雲王朝はスサノオから始まった」の中で、「・・・つまり、スサノオを祖とする出雲王朝とアマテラスを祖とするヤマト王朝の関係は、同じ誓約(うけい)によって深くつながっていることになる。・・・このように、イザナギ、イザナミはその子孫によって2つの系統の神々に分かれた。一つはイザナギ、アマテラス、ニニギのヤマト王朝の系統である。そしてもう一つは、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシの出雲王朝の系統である。前者はまさに日本を支配する光の神であり、後者は一旦は成功をおさめるが、最後には悪神となり、根の国へと行かざるをえない神である。ヤマト王朝と出雲王朝の神々はもともと親戚であったが、ヤマト王朝の神々はすべて光の神、善神であり、出雲王朝の神々は結局闇の神、悪神である。・・・・・ 悪神となってしまった出雲の神々(イザナギ・ニギハヤヒなど)の、「記紀」によって隠された活躍を活き活きと物語りしているのが、神一行氏らの著作です。氏の「消された大王 饒速日」、「日本国始め饒速日大神の東遷」の目次で、このページを閉めたいと思います。 プロローグー発掘された古代史 衝撃の事実 弥生中期にも大和にも”クニ”があった! 纏向遺跡は大和朝廷発祥の地か? 仕掛けられた ”もう一つの日本誕生”を追及する 第一章 『古事記』『日本書紀』は改竄されていた! 「記紀」はどこまで信用できるか 「稗田阿礼」は歴史上の謎の人物 虚構と矛盾に満ちた天地創造の神々 神話の神々は誰から実在したか 「天孫降臨」は持統天皇と不比等のシナリオ 「記紀」に仕組まれたもう一つの陰謀 「日向三代神話」にトリック 謎を解く鍵を握る古代神社の伝承 第二章 大神神社に隠された驚くべき真実 2人の「ハツクニシラススメラミコト」の謎 古代史の中で異彩を放つ「邪馬台国東遷説」 三つの説がある纏向遺跡の征服移住者 唐古・鍵遺跡を築いたのはだれか? 古代信仰をとどめる日本最古の大神神社 「記紀」が語る大神神社の伝説 朝廷の守護神オオモノヌシを取り囲む神々 オオモノヌシはスサノオの息子・大歳だった! さらなる別名・ニギハヤヒとは? 第三章 謎に満ちた大王ニギハヤヒの正体 深いベールに包まれたニギハヤヒ ”謎の神社”に隠された重大な秘密 ニギハヤヒの末裔・物部氏と尾張氏 「記紀」の中で歪曲されたニギハヤヒ ニギハヤヒ降臨の地を追跡する 続々とあらわれるニギハヤヒの飛来地跡 ニギハヤヒと物部集団はどこからきたのか 第四章 史実が裏づけるニギハヤヒの”東征” 二つある”日本の呼び名”の謎 確かの実在した”欠史八代”の天皇たち 九州勢力の大和入りへ神武天皇だけだはない 九州から移住してきたニギハヤヒ物部一族 ”日下”に本拠地をかまえた物部王国 「ヒノモト」の命名者はニギハヤヒだった 「倭国」から「日本国」への変遷 邪馬台国一派に滅ぼされた銅鐸王国 第五章 幻の大王ニギハヤヒの秘めたる系譜 大神の尊称をあたえられたニギハヤヒ 大和神社が祀る謎の三祭神 石上神宮の祭神の招待をさぐる 石上神宮はニギハヤヒ四代を祀る宗廟 「記紀」とちがう神武天皇即位の過程 「石上神宮」の埋蔵品が語る真実 第六章 太陽神として君臨したニギハヤヒ大王 皇祖神アマテラスにまつわる不可解な謎 太陽神アマテラスは男性だった! 「天照神社」は物部氏の重要拠点跡 三輪山は太陽信仰の中心だった 鏡作郷は物部氏の銅鐸・銅鏡製作の中心地 「日読み」として機能した他田坐天照御魂神社 アマテラスにすりかえた「記紀」の大陰謀 第七章 出雲王国と覇王スサノオの実像 「天王」と呼ばれた英雄スサノオ 神武即位の年代が示す大いなる矛盾 中国文献による古代日本の姿をさぐる スサノオのオロチ退治は本当にあったのか 八重垣神社の壁画に描かれた謎 スサノオの出雲支配の本拠地跡 スサノオの子供たちを祀る八坂神社 第八章 スサノオ出雲族と日向族の九州覇権戦争 スサノオ一族、九州遠征を開始 九州の大王・統一者となったスサノオ 高良神社は初期邪馬台国の王城か? スサノオ一族の九州遠征の範囲 九州支配の本拠地・宇佐八幡の謎多き三祭神 第九章 つくられた女王アマテラスの原像を追う 皇祖神アマテラスは卑弥呼だった!? アマテラスの出自と出雲軍の日向侵攻 スサノオの現地妻だったアマテラス 傀儡政権となったオオクニヌシ オオクニヌシの死で始まった相続権争い アマテラスの子供たちの行方 「記紀」とはちがう’日向三代’の真相 第十章 出雲王国の滅亡と新大和王国の誕生 九州の完全独立を果たしたアマテラス 狼煙を上げた日向族の出雲侵攻 日向王朝と大和王朝の大同団結を画策 神武天皇の大和への”東遷”始まる 日向御子の大和入りで”新大和王国”成立 連合政権の間で交わされた重大な契約 エピローグ 「記紀」に抹殺されたニギハヤヒ大王 「記紀」がつくりあげたオオクニヌシ 出雲大社はなぜ創建されたか 仏教の伝来は神道を衰退させた 物部氏と蘇我氏の熾烈な宗教戦争 饒速日の活躍を克明に記した大野七三氏の「日本国始め 饒速日大神の東遷」の目次を記してみます。 まえがき 饒速日尊(大神)現世に実在 饒速日尊の史実は『古事記』『日本書記』によって消された 伊勢神宮(内宮)の創建と歴史改竄 第一章 国の始まり 須佐之男尊の出雲国創建と九州平定 饒速日尊の北九州統治 不弥国 吉野ヶ里遺跡 第二章 饒速日尊の東遷 饒速日尊の東遷決意 饒速日尊の御神宝、天璽瑞宝 饒速日尊の東遷出立 最初の寄港地、愛媛県松山市三津浜と大三島 香川県多度津付近に寄港 摂津三島地方に逗留 北河内交野と岩船神社 中河内石切箭(いしきりつゆぎや)神社 奈良盆地に侵攻 第三章 饒速日尊の東遷当時の大和 長髄彦(ながすねひこ) 長髄彦の本拠地・磐余邑 磐余の古代遺跡と長髄彦 メスリ山古墳 桜井茶臼山古墳 宇摩素志麻治命と桜井茶臼山古墳 物部神社 葛城氏 葛城氏と尾張の姻戚関係 第四章 饒速日大王の王都纏向 纏向遺跡造成年代と饒速日尊東遷年代一致 饒速日尊の御神陵(墓)三輪山と纏向 穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)は纏向王都の守護神 纏向が畿内最初の「ヤマトノ国」 纏向下社の祭祀と鎮魂蔡 物部神社 鎮魂蔡式次第 第五章 饒速日尊の東遷従者の配置) ○饒速日尊の東遷に従った従者名(「先代旧事本紀」による) 1 32人の重要な従者(神)の配置 ○饒速日尊の東遷に従った32人の従者の配置表 ○饒速日尊の従者32人の国別ひ配置表 2 饒速日尊の東遷に従った「五部人」 3 五部造伴領 4 25部の物部(軍団)の配置 二十五部の物部(軍団)の類別 ○北九州に残留した物部(軍団) 嶋戸物部/筑紫贄田(にえた)物部/筑紫聞物部 ○瀬戸内で饒速日尊に服属した物部(軍団)で、現地で瀬戸内海防衛にあたった物部 赤間物部/久米物部/讃岐三野物部/播磨物部/布都留物部 ○北九州より饒速日尊の東遷に従った物部(軍団)と、畿内各地で尊に服従した物部で、饒速日尊の王都纏向の防衛にあたった物部(軍団) 二田物部/当麻物部/芹田物部/馬見物部/横田物部/浮田物部/巷宣物部/疋田(足田)物部/酒人(須尺)物部/田尻物部/狭竹物部/大豆物部/肩野物部/羽束物部/尋津物部/住跡(住道)物部/相槻物部 第六章 神武天皇(幼名・狭野尊)の東遷 竹角身(たけつぬみ)命 狭野尊(神武天皇)と伊須気余理比売の養子縁組 神武天皇と宇摩志麻治命の誓約(うけい) 神武天皇の即位式と皇祖神饒速日尊 朝廷祭祀の鎮魂蔡 饒速日尊は皇祖神 第七章 饒速日尊を祭る主な神社 多坐弥志理都比古神社(おおますみしりつひこじんじゃ) 大神神社(おおみわじんじゃ) 大和神社(おおやまとじんじゃ) 石上神社(いそのかみじんじゃ) 日吉大社(ひよしたいしゃ) 熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ) 賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ) 鹿島神宮(かしまじんぐう) 香取神宮(かとりじんぐう) 春日大社(かすがたいしゃ) その他の饒速日尊を祭神とする神社 松尾大社 大原野神社 梅宮神社 吉田神社 北野天満宮 貴船神社 籠(この)神社 住吉大社 石切剣や神社 新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ) 磐船神社 丹生川上神社 真清田神社 高良大社 金刀比羅宮 藤白神社 印旛鳥見神社 唐松神社 封印された古代史を明らかにしたいと考え、その主役たるスサノオ・ニギハヤヒに命と与えたいと考える人たちの努力の結晶の書物類でした。 今回は、折角の多くの著作を読みながら、「著者の意図する事柄」は、ほぼ判りながら、なかなかまとめることが出来なかったことは、残念でした。再度の読み返しが必要なのでしょう!!!!!ただ、(日本)列島と(朝鮮)半島の関わりについて、それに伴う「邪馬台国」について、勉強できたのは幸いでした。 参考文献 「消された大王 饒速日」神一行氏 「天皇家の”ふるさと”日向をゆく」・「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」梅原猛氏 「逆説の日本史1 封印された[倭]の謎」井沢元彦氏 「消された王権・物部氏の謎」・「日本書紀は古代史を偽装したのか?」関裕二氏 「消された覇王」小椋一葉氏 「日本国始め 饒速日大神の東遷」大野七三氏 「大和の大王 ニギハヤヒ尊」神尾正武氏 「日韓がタブーとする半島の歴史」室谷克実氏 「古代 天皇の都」鈴木亨氏 「歴史から消された邪馬台国の謎」・「聖徳太子の悲劇」・「大友の皇子東下り」豊田有恒氏 |
作者近況の欄です9. |
熊野古道への旅 |