明治維新からの半島との歴史
呉善花(O Sonfa)さんの本の読後感


 「韓国併合への道」

 この本の末尾に置かれた「日韓併合関連年表」を転記します。
 
1853年 (嘉永6) ペリー浦賀へ来航。

1858年 (安政5) ロシア、アムール地域を獲得。

1866年 (慶応2) 米商船シャーマン号、朝鮮に侵入。また江華島にフランス艦隊が侵入。日本の将軍徳川慶喜は朝鮮と欧米諸国の仲裁使節を送ることを計画。

1868年 (明治1) 明治維新。12月、日本の新政府樹立を告げる日本の書契の受理を朝鮮が拒否。明治天皇を「皇」と表現して朝鮮国王の上位におき、臣下に向ける「勅」という用語を用いたため。

1873年 (明治6) 5月、釜山でのトラブルから「征韓論」が起こり、征韓論派が敗れる。大院君、政権の座から追放。国王高宗の親政となり閔氏政権が成立。

1875年 (明治8) 日本の軍艦雲揚が朝鮮沿海を測量中、江華島守備兵と交戦。日本とロシア、樺太と千島を交換。

1876年 (明治9) 日朝修好条約締結(朝鮮を独立国として扱う)。

1879年 (明治12) 朝鮮、日本に対して釜山を開港。

1882年 (明治15) 壬午の軍乱。開化派に動かされていた閔氏政権が近代的軍隊として別技軍を新設し、日本教官を招いて教練を開始。それに反撥した旧式軍隊が官庁や閔氏一族の屋敷や日本公使館を襲撃し王宮に乱入、閔氏は王宮から脱出。閔氏政権が倒れ大院君が政権掌握。日本は軍艦4隻と千数百名の兵を仁川に派遣。アメリカも軍艦を派遣。清国も宗主国として属領保護を名目に軍艦3隻と3千人名の兵を派遣。清国が軍乱を鎮圧、ソウル市内に清国兵を配置。大院君が捕らえられ天津へ拉致される。清国の庇護のもと閔氏政権が復活。清国軍は朝鮮政府に外交顧問を送り、袁世凱が事実上の国王代理として実権を握る。清国が3千名の軍隊をソウルに駐留。日朝で済物浦条約。

1883年 (明治16) 朝米修好条約。朝英修好条約。朝独修好条約。日朝貿易章程。

1884年 (明治17) 朝露修好条約。7月、清仏戦争のため清国が千五百名の軍隊を撤退。12月4日、甲申政変。金玉均ら開化派が閔氏政権の要人1名を負傷させて国王に日本軍の出動を要請させる。日本公使館守備の百五十名の日本兵と朝鮮政府軍の一部で王宮を固め、閔氏政権の要人を殺害して5日に開化派を中心とする新政府を組織。閔氏政権の生き残りが清国に軍隊出動を要請。6日、清国軍と政府軍が開化派軍を攻撃。日本公使は日本軍の撤退を命令。金玉均ら首謀者は日本公使とともに仁川から日本へ脱出して亡命。

1885年 (明治18) イギリス軍、巨文島を占領しロシア艦隊へ対処する。日朝講和(漢城)条約。日清間で天津条約調印。日清の両軍とも朝鮮から撤退すること、今後出兵することがあらば互いに事前通告することを取り決めた。朝露秘密協定を清国が撤回させる。清国、米人アンダーウッドを朝鮮に政治顧問として送り込む。

1886年 (明治19) 高宗は再びロシアと秘密協定を結ぼうとしたが、清国の袁世凱によって阻止される。

1887年 (明治20) 清国はイギリスとロシア双方と交渉し、3月に巨文島からイギリス軍を撤退させる。(清国に朝鮮の宋主権があることを世界にみせつけた)。

1888年 (明治21) 朝鮮はロシアとの間に陸路通商条約を結び、咸(かん)鏡北道の慶興をロシアに開放した。ロシアはまた元山・慶尚南道の絶影島に貯炭場を建設しようとしたが、清国の干渉によって阻止された。

1889年 (明治22) 日朝防殻令事件。朝鮮の穀物輸出禁止で紛争、翌年解除。

1890年 (明治23) 日本の内閣総理大臣山県有朋は、第一回帝国議会の施政方針演説において、「国家独立自衛の道に二途あり。第一に主権線を守護すること、第二に利益線を保護することである。其の主権線とは国の疆城(きょうじょう)を謂い、利益線とは其の主権線の安危に、蜜着関係ある区域を申したのである」と発言。利益線は朝鮮半島を意味する。

1891年 (明治24) ロシア、シベリア鉄道建設に着手。

1894年 (明治27) 甲午(こうご・きのえうま)東学党の乱。東学農民軍が政府軍を破り全羅道中心の全州を占領。国王高宗と閔氏政権は清国に鎮圧を要請。清国は軍艦を仁川に派遣し6月12日頃に集結を完了。日本は日本公使館と日本人居留民の保護を理由に仁川に軍艦を派遣し、6月10日に一部の兵力を漢城に入れる。朝鮮政府の和平提議を入れて東学軍が全州から撤退。  朝鮮政府は両国軍に撤収を要請。清国は共同撤退を日本に提案。日本はそれを拒否し、朝鮮の内政改革を行うための共同干渉を提案。清国はこれを拒否。日本は単独で朝鮮政府に内政改革を早急に行うように要請。朝鮮政府はまず日本軍の撤収することが先と要求。日本は朝鮮政府が内政改革を行わなければ内乱が再発する、したがって改革をしなければ軍隊を撤収しないと応じ、あくまでも内政改革を要求。その間、日本は漢城・釜山間に軍用ケーブルを架設し、また朝清通商貿易章程の破棄を朝鮮政府に要求。  7月23日、日本兵が王宮に侵入して景福宮を占拠。国王は大院君に政事を移譲して閔氏一族を追放。漢城の朝鮮軍隊を武装解除。  7月25日、日本海軍が牙山沖で清国の軍艦を砲撃。日清戦争勃発。翌年2月日本の勝利。朝鮮政治制度、経済体制、地方制度の改革が行われる。東学軍の第二次蜂起。日本・李朝政府連合軍に鎮圧される。

1895年 (明治28) 日清間で下関条約調印(朝鮮の独立を明記)。   三国干渉。   ロシア・ドイツ・フランスは日本が日清戦争で得た遼東半島の清国への返還を要求。大国の圧力を前にして、日本は仕方なく遼東半島の領有を放棄。後に三国は日本への干渉の代償として、遼東半島をはじめ各地の利権を獲得する。   日本が三国に屈したため、親日的官僚が政府から排除され、親露派が入閣。   10月、日本軍の守備隊と訓練隊を排除し親日派を中心とする内閣を組閣。日本政府は閔氏殺害事件に関与した者のうち48名を広島刑務所に収容し裁判に付したが、証拠不十分で釈放。

1896年 (明治29) 親露派官僚たあちが元ロシア公使ウェーバーとはかって国王をロシア公使館に移す。各国公使の兵力がロシア公使館を護衛する。ロシア公使館の中で親露政権が成立。    6月、李鴻章ーロバノフ秘密協定。清国はシベリア鉄道に通じる西シベリア鉄道(満州横断鉄道)を建設する権利をロシアに与え、両国は日本を対象にした攻守同盟を結ぶ。清国は日清戦争の日本への賠償金2億両をフランスとロシアから借りたため、その代償としてロシアに権利を与えた。日本はこの賠償金をもとに翌年金本位制を施行した。     同月、山県有朋ーロバノフ協定。日本とロシアは朝鮮での電信架設権を相互に認め合い、朝鮮人による軍隊が組織されるまで両国の軍隊を朝鮮に駐屯させること、両国軍隊の衝突を避ける緩衝地帯を設けることなどを合意。   「独立新聞」創刊。独立協会設立。義兵の蜂起。

1897年 (明治30) 国王、ロシア公使館を出て国名を大韓帝国と改名する。    台湾総督府設置。

1898年 (明治31) 独立教会が政府批判を激しくするようjになり、強制解散される。   ドイツが膠州湾を占拠して清国から99年の租借権を獲得。ロシアの太平洋艦隊が旅順に入り、清国から遼東半島(旅順・大連)とその沿海の25年の租借権を獲得。フランスが華南の利権を獲得。イギリスが九竜半島と威海衛(いかいえい)を租借。     満韓交換論。 西徳二郎外相がロシア公使に対して、韓国に対する助言・助力を一任すれば、満州は日本の利益線外と認めると通告。     4月、西・ローゼン協定。日露両国は韓国の独立を認め、直接の内政干渉を行わないこと、軍事教官・財政顧問を送るときは両国で事前に協議すること。ロシアは朝鮮における日本の商工業の活動を認め、その発展を阻止しないこと。この協定によってロシアは日本の朝鮮における経済発展の自由を認めたが、一方で日本がロシアの旅順・大連租借を黙認する結果となった。    9月、ソウルー釜山鉄道敷設に関する日韓条約調印。

1899年 (明治32) フランスが広州湾を99年租借。ロシアが関東州を設置。

1900年 (明治33) 清国に義和団事件(北清事変)。日英米露仏伊墺の連合軍が鎮圧。ロシアは四千の兵力を満州に駐留させたまま撤兵せず。

1901年 (明治34) 清露、満州に関する密約が成立。ロシア、満州からの撤兵特約撤去を宣言。

1902年 (明治35) 日英同盟(ロシアを対象とした攻守同盟の性格をもつ)。    シベリア鉄道はほぼ完成。ロシア、清国に満州返還条約を強要。

1903年 (明治36) 8月、日露協商会議のさい、日本は満州からの撤兵をロシアに要求。ロシアは拒否。ロシアは日本に対して、北緯39度線で韓国を分割しそれぞれの勢力下に置くことを提案。日本は拒否。ロシア、満州を占領。

1904年 (明治37) 2月、日露国交断絶。日本が旅順港を攻撃し日露戦争勃発。韓国は中立宣言をするが、日本軍が仁川に上陸し漢城へ入城、日本に協力するよう要求し日韓議定書調印(攻守同盟の性格をもつ。韓国は侵略・内乱・皇帝の危機に対する日本の行動への便宜を与える。韓国政府は日本の承認なしに第三国と自由に条約を締結することができない)。事実上、日本の保護国となる。    8月、第一次日韓協約(日本政府の推薦する日本人1名を財政顧問とし顧問の意見に従って外務事務を施行する)。実際には、宮内部・軍部・警察部・学務部にも日本人顧問が置かれた。

1905年 (明治38) 日本海海戦。日本、日露戦争に勝利。日本、樺太占領。    日米の間で、アメリカがフィリピンを支配すること。日本が韓国を支配することの相互承認がおこなわれた(桂・タフト協定)。日英の間で日本の韓国に対する指導・監理・保護の権利が承認された(第二次日英同盟)。見返りとしてイギリスはインドへの支配権確保を狙う)。    9月、アメリカの斡旋で日露間にポーツマス条約が締結。そのなかで、日本はロシアから韓国における政治・軍事・経済上の特権を認められた。さらに日本は、遼東半島の租借地と長春・旅順間の鉄道をロシアから受け継ぐことが承認された。また樺太南半部を日本の領土とし沿海州の漁業権を獲得した。    10月、アメリカの鉄道王ハリマンが南満州鉄道共同経営を日本に申し込み、日本は仮契約したが、日露講和会議から帰った小村寿太郎外相が強力に反対し、仮契約取消となる。     11月、第二次日韓協約(乙巳保護条約)。日韓のポーツマス条約に基づいての協約。日本政府は日本の外務省を通じて韓国の外交関係とその事務を監督・指導し、外国在留のかん韓国人の利害を保護する。韓国と外国との条約は日本政府の仲介を経なければならない。日本政府の代表者として一名の統監を置く。統監は韓国の外交n関する事務を管理する。12月、韓国統監に伊藤博文を任命。韓国統監府を設置。満州に関する日清条約調印。

1906年 (明治39) 1月、日本公使館を統監府に改め、国内12ヶ所に理事庁を、11ヶ所に支庁を設置。3月に伊藤博文が統監府に入り諸外国に公使たちが撤収。日本は、宮城を守護する1個大隊の陸軍兵力を除いてすべての韓国軍隊を解散させた。    李完用(学務大臣)・李根沢(軍務大臣)・李趾鎔(内務大臣)・朴斉純(外務大臣)・権重顕(農務大臣)などが条約締結に賛成。閔泳煥(侍従武官長)が自殺。  高宗皇帝は米人ハルバートを通じてアメリカ大統領に条約無効を訴えたが回答を得られなかった。    11月、南満州鉄道株式会社設立。

1907年 (明治40) 6月、ハーグ密使事件。オランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に高宗が密かに特使を派遣し、日本が韓国の主権を侵害していると訴えようとした。ロシア代表の平和会議議長は韓国に外交権がないからと韓国人の出席を拒否。日本は韓国政府に抗議し、高宗は自ら退位。高宗は7月に譲位し皇太子の順宗が皇帝となる。各地で反日暴動が起こり、日本は歩兵1個旅団と騎兵隊を派遣。    第三次日韓協約。統監は韓国政府が行なう施設の改善を指導し、法令の制定や行政上重要な処分について監督することができ、官吏の任免にも干渉することができる。従来からの日本人顧問を廃止し、統監府参与官の日本人を韓国政府の各部の次官に任命させる。次官以下日本人官吏の総数2千余名。数千の群集が宮門前で日本兵と衝突。

1908年 (明治41) 東洋拓殖株式会社設立(土地の買収)。韓国銀行設立。反日義兵運動、愛国啓蒙運動勃興。

1909年 (明治42) 6月、伊藤博文が統監を辞職。副統監の曾禰荒助が第二代統監に就任する。    7月、韓国の司法警察事務を日本に委任。9月、満州間島で日本と清国が衝突。日清協約。10月、安重根、伊藤博文をハルピン駅で暗殺。日本、反日義兵討伐作戦展開。

1910年 (明治43) 5月、大逆事件。7月、日英同盟更新(軍事義務の解除)。第二次日露協約調印(満州の現状維持)。   8月22日、日韓併合条約調印。李完用内閣決議。8月29日、併合発布。韓国皇帝は韓国王となり大韓帝国の称号が再び朝鮮となる。10月、朝鮮総督府設置。寺内正毅が総督に就任。

1911年 (明治44) 辛亥革命。朝鮮教育令発布。日米・日英・日独修好通商航海条例(関税自主権の確立)。

1912年 (明治45) 清朝滅亡。中華民国成立。孫文臨時大統領就任。袁世凱大統領就任。明治天皇逝去。寺内朝鮮総督暗殺未遂事件。

1914年 (大正3) 第一次世界大戦勃発。

1915年 (大正4) 日本、中国に対支21ヵ条要求。

1917年 (大正6) ロシアにボルシェビキ革命成立。

1918年 (大正7) 日本、シベリアに出兵。朝鮮の土地調査事業完了。

1919年 (大正8) 朝鮮三・一独立運動。上海に排日運動。中国五四運動。ベルサイユ条約。高宗死去(暗殺説)。上海で大韓民国臨時政府樹立。朝鮮総督府の官制改革により文化政治はじまる。

1920年 (大正9) 国際連盟設立で日本常任理事国。朝鮮日報、東亜日報、時事新報を創刊。

 
 明治維新を挟んで、日本は欧米列強の圧力に目覚め、開国富国強兵へとまっしぐらに突き進んだのに対して、李朝の朝鮮は事大主義を堅持、日本を始めとする欧米列強からの開国の要請を頑なに拒否、宗主国と仰ぐ、中国(清)へ依存することを続けるだけであった。
 この時期はいわゆる「帝国主義」の時代であり、英・米・仏・独逸・ロシアなど欧米列強は清への侵食を強めていました。清の力が弱まると、ロシアは中国満州地区、朝鮮への進出を強めます。之に対して、日本は日英同盟を結び、これに対抗します。この流れが、「日清戦争」、「日露戦争」へ、「韓国併合」への道となります。
 平成12年、初版のこの書は、終わりの部分で以下の記述をしています。
 
 
現在の韓国は、ようやく対外的にも対内的にも近代民族国家の体裁を整えたところであり、金大中政権の成立によってさらなる改革が推し進められている。日本に対する姿勢も徐々に変化しつつある。   とはいえ、先に述べたように、いまだ併合をもたらした自らの側の要因への徹底的な解明への動きがはじまっていない。それは韓国がいまなお、「李朝の亡霊の呪縛」から完全に脱することができていないことを物語っている。
 韓国が自らの側の問題解明に着手し、さらに反日思想を乗り越え、小中華主義の残存を切り捨てたうえで、日本統治時代について徹底的な分析に着手したとき、韓国にようやく「李朝の亡霊の呪縛」から脱出したといえる状況が生まれるだろう。
 私がいうのもおごがましいが、日本はそうした方向へと韓国が歩むことに期待すべきであり、その方向にしか正しい意味での日韓の和解はないことを知るべきだろう。

 金大中政権以降、親北朝鮮、反日の動きが活発化するに従って、「李朝の亡霊の呪縛」は、更に強固になっているようです。現、朴槿恵(パク クネ)政権は本来、韓国保守政党であるハンナラ党であるにもかかわらず、反日政策のみで、政権の維持をしているようです。

 


反日・愛国の由来  韓国人から見た北朝鮮」(韓国に入国拒否された著者が半島の呪縛を語る 韓国人が囚われるイデオロギー  親北朝鮮=反日=民族主義)
には、大変興味深い記述があります。また、我々が高校時代に馴染み深かった「マルクス主義」についての説明が、北朝鮮の「チュチェ・主体思想」についての説明の一部分として記されていることです。以下に、取り出してみました。

 中華帝国の庇護を受けた李朝と、ソ連の庇護を受けた北朝鮮の   部分で
 (「朝鮮」の国号について)  
北朝鮮の国のはじまりは、李朝とよく似ているところがある。  高麗の将軍だった李成桂(イソンゲ)は1392年に実権を掌握して王位につくと、まず当時の中華王朝の明に使節を派遣し、明国皇帝に自らの即位の承認を仰いだ。このような皇帝の臣下となる形態を東アジアでは「冊封(さくほう)」、といった。 次に李成桂は、再び明国に使節を派遣し、「朝鮮」と「和寧(ファリヨン)」(李成桂の生誕地)のうち、いずれかを国号に選んで欲しいと要請した。そこで明の太祖が、由緒正しくまた優雅であるとして、「朝鮮」を国号に定めたのである。・・・

 (現在の北朝鮮を建国したといられる「金日成」について)  
・・・ソ連の後押しで北朝鮮の最高権力者となった人物は、北朝鮮では抗日ゲリラ戦の勇士、金日成将軍とされているが、事実はまったくそうではない。その人物の正体は、満州で抗日ゲリラ活動を展開していたが、日本軍に攻められ、1941年、29歳のときにソ連領に逃れたのち、ソ連極東軍第88特別旅団(在ハバロフスク近郊ヴァツコ村)に身を投じた金聖柱にほかならない(その翌年に、金正日がハバロフスク近郊で誕生している)。 北朝鮮では、金日成の幼名を金成柱(キムソンンジュ)といい、成人して金日成と名乗ったとしているが、それが真っ赤な嘘であることは、日本でも知られている通りである(本当は幼名は金聖柱であった)。
 金聖柱は、韓国が日本に併合された1910年以降に、満州・シベリア一帯で抗日武装闘争を展開し、世に「金日成将軍」と呼ばれて有名を馳せた伝説的な人物である。この本物の伝説的英雄、金日成は1937年に三十六歳で死んでいる。・・・
 
北朝鮮の金日成は、抗日ゲリラ戦を戦った勇者ではなく、情報収集にあたるソ連軍の一大隊長(大尉)として1945年8月15日の開放の日をソ連で迎え、その一ヶ月後に祖国へ帰還した。そして、朝鮮半島に進駐したソ連軍の支援を受け、さらにはスターリンが直接面会することによって「承認」を得て、北朝鮮の最高権力者になり得たのである。・・・

 専制主義国家の政治を色濃く反映する社会主義国家   の部分で
 
北朝鮮は、単に強圧的な政治支配に都合がよいから、李朝の専制主義政治やイデオロギー政策を真似たわけではない。北朝鮮が採用した社会主義国家の制度そのものが、李朝をはじめとする東洋的専制主義国家の政治制度ときわめて似ているからである。それについて述べる前に、マルクス主義がいう社会主義の考え方を簡単に眺めておこう。

 マルクス主義によれば、近代以降の社会は資本主義、社会主義、共産主義の順で段階的に発達を遂げていく。社会主義社会は階級も私有もない社会で、土地を含めたすべての生産手段が社会によって共有・共同管理され、すべての人々に対する分配の平等が達成された社会である、 この社会主義社会が計画的に生産を進めていくことによって、人々の生活に不足のない豊かな生産が実現される。やがてすべての人々が「働きたいときに働き、欲しいものを得たいときに得る」ことのできる、共産主義社会への移行が可能となる。 そして、資本主義社会から社会主義への移行は、資本主義的な生産力が最高度に発達した段階でその物質的な基礎が得られ、実現可能な道が開かれる。また社会主義社会では階級がなくらるため、支配階級の利益を守るためにあった国家はその必要性を失って死滅していく。・・・資本主義国家を打倒して労働者(プロレタリア)独裁の国家を打て立て、これによって計画的に社会主義社会をめざしていかなくてはならないー。  これが、一般的なマルクス主義が主張する社会主義革命論だといってよいだろう。・・・
 この労働者独裁国家が社会主義国家と呼ばれるものである。ところが、社会主義革命によってこのような国家を最初に打ち立てたソ連にしろ、あるいは第二に世界大戦後の中国にしろ、北朝鮮にしろ、その政治システムは頂点にレーニンやスターリン、毛沢東、金日成などのカリスマ的指導をいただき、その下で事実上の特権階級として国家官僚が政務を執り行い、人民を一律平等に支配すという、東洋専制主義国家と酷似した国家形態を作り上げてのである。・・・・

 チュチェ思想は儒教の社会主義版である    の部分で
 私の考えでは、金日成がはじめたとされる北朝鮮のチュチェ思想(主体思想)は、まさしく儒教の考え方の社会主義版である。  その第一は、何よりもその内容が儒教と同じく「自然の頂点に立つ人間中心の世界観」に満ちていることである。・・・
 金正日がチュチェ思想について述べた一つの談話を例にとってみると、「チュチェ哲学は」を主語とする「人間中心の世界観」が至るところで強調されている。

 「チュチェ哲学は、世界における人間の地位と役割に関する問題を哲学の根本問題として提起し、人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定しるという哲学原理を解明しました」
 「チュチェ哲学は人間中心の世界観、チュチェの世界観を解明した哲学なのです」
 「チュチェ哲学は、自然と社会は人間が支配し、人間によって改造されるという、世界にたいする新たな見解を示すことにより、人民大衆が自己の運命の主人、歴史の主人公として登場したわれわれの時代の哲学的課題をりっぱに解決しました」
 「チュチェ哲学は人間の本性と世界の支配者、改造者としてのその地位と役割を新たに解明することにより、人間の尊厳と価値をもっとも高い位置におし上げました」 (金正日「チュチェ哲学の理解で提起される若干の問題についてー党の理論宣伝活動家との談話」1974年4月2日ー日本語訳版)

 金正日氏は哲学者であったようですね?こんなことは、北朝鮮人民には全く関係がないことで、それよりも日々の飢えの解決を求めていることでしょう。そんな国を信用し、反日をすすめる韓国の動きに疑問を持たざるを得ません。


「韓国の暴走」 (「反日・親北」をやめられない   親日派一掃と南北国会連合に突き進む 韓国は金正日と中国の思うツボではないか!)

 「親日反民族法」の狙いは何か  の部分で
 
親日派を国内から一掃するために制定されたのが、2004年3月に成立した「親日反民族行為真相究明特別法」、いわゆる「親日反民族法」である。・・・日本でも報道されたように、「改正案の狙いの一つは明らかに政敵ハンナラ党潰しにある。改正案で、旧日本軍人の範囲を中佐以上から少尉以上に拡大していることが、その狙いを露骨に物語っている。故朴正照(パク チョンヒ)元大統領は旧日本陸軍の中尉であった。そしてハンナラ党の現在の代表者は、その娘の朴槿恵(パク クネ)である。・・・ここへ来て、ハンナラ党は見事なばかりにウリ党の仕掛けた罠にはまり込んでしまったのである。・・・しかもハンナラ党は、ウリ党の親北政策に、核問題の解決などでは一定の批判は示しながらも、これまで世論の動向に沿おうとして強い批判をしてこなかった。それどころか、朴槿恵はわざわざ北朝鮮に出向いて金正日と会見し、「お互いに二世としてがんばりましょう」と励ましあったとか、「金正日はとても立派な人物だった」とかのお世辞を振りまき、親北世論に迎合していったのである。・・・「朝鮮日報」の社説を揚げておこう。タイトルは「この国の与党は過去担当政党なのか」というものである。
 「・・・与党の議員らが、国政のパートナーである野党第一党を清算対象と見なすこと自体が、常識外れの行動である。しかも、大韓民国の国会議員が、大韓民国の現代史を導いて来た勢力を、侵略国の協力して国土分離の先頭に立った『反民族・反統一・反民主勢力』に追いやるとは、ここは果たしてソウルなのかピョンヤンなのか。・・・」

 「七十年戦争」史観   の部分で
 
朝鮮開国も朝鮮独立も日本によって成し遂げられた。    朝鮮は開国直後から、日本に使節・留学生・視察団などを活発に派遣しはじめる。・・・しかしながら、国内の独立への動きを朝鮮王朝は執拗に摘み取っていった。そして日本が日清戦争に勝利して朝鮮の独立が達成されると、後ろ盾の中国を失った朝鮮は、日本と提携してロシアの進出を排除しようとするのではなく、逆にロシアの保護下に入って日本を排除しようという動きが出る。・・・
 日本人は韓国人のいう「七十年戦争」をご存じだろうか。ほとんでの日本人は首を傾げるに違いない。また、欧米の歴史学者に聞いても、「その七十年戦争とはいつのことですか」と聞き返されるに違いない。しかし、韓国の歴史学者たちは通常、韓国は1875年(明治89以来日本と「七十年戦争」を戦ったと主張する。その七十年とは、日本による韓国江華島砲撃(1875年=明治8年)にはじまり、・・・1945年8月に終わるまでの70年間である。その全期間を、日本がしかけた侵略戦争に対する韓国の反侵略戦争の歴史と位置づけるのである。北朝鮮でもこれとまったく同じ考えをしている。・・・
 私の受けた歴史教育の体験からいえば、歴史そのものよりは、あるたった一つの歴史について観点を学んだのである。それは、弱者が貶められた怨恨・遺恨を、身内正義・絶対善の立場から描いていこうとする歴史の観点にはほかならない。生徒たちはこの観点で歪曲を施された虚偽の歴史を、正史として教わるのだ。

 「自由主義左派」とはいわれる政権支持勢力の実態    の部分で
 与党ウリ党・廬武鉉(ノムヒョン)政権の性格は、韓国では一般に「自由主義左派」といわれている。しかしながら、彼らが親北民族主義者でもあることを忘れてはならない。支持戦力を含めて全体の性格を眺めれば、明らかに急進的な「左翼民族主義」である。・・・与党ウリ党・廬武鉉政権は明らかに親北政権である。・・・

 386世代と「ウリ」の情緒   の部分で
 386世代とは「現在三十代、八十年代に大学生生活を送り、六〇年代に生まれた世代」のことを指す。・・・
 ・・・ウリ党の正式名称はヨルリン・ウリ党、日本語にすれば「開かれた我々党」となる。ハンナラ党は「一つの国党」だ。いずれも外来の漢字語ではなく韓国の固有語を用いており、ハングルでしか書き表せないものだ。外国人には意味不明の身内にしか通用しない比国際的な名称となっているのは、国際性よりも民族性を強く意識してのことである。・・・

 解説で  
 よく韓国は日本に対して「日本は歴史歪曲をしている」と抗議する。そして多くのマスコミはその抗議自体は報道するが、その中味については詳しく触れない。また、当の韓国ではどのような歴史教育が行なわれているかについても触れようとはしない。いや、わかっていないのだ。
 韓国の歴史教育の内容を一言で言えば「わが韓民族は有史以来、独立自尊の民族であったが、それを日本帝国主義だけが汚し、日帝36年(1910〜45)の屈辱を味あわせた。日帝時代は搾取と弾圧のみの反進歩の時代であった」
 大うそである。朝鮮半島の国家は新羅以来、その元首は「国王」と名乗った。高麗であれ李氏朝鮮であれ同じだ。そして国王と名乗ることは実は中国皇帝の臣下になったということなのだ。つまり属国である。・・・
 一つだけ付け加えておけば、その「属国」が中国から独立できたのは、日本が日清戦争に勝ち、その講和条約「下関条約」の第一条で朝鮮の独立を清に認めさせたからである。だからこそ彼等は朝鮮国から大韓帝国に国名を変え、有史以来初めて元首が「皇帝」を名乗れるようになった。
 ちなみに、この下関条約締結時の日本の総理大臣は伊藤博文だ。すなわち伊藤は「韓国独立の大恩人」ということになるはずだが、韓国の歴史教科書はこの下関条約をいっさい載せていない。そして伊藤博文を暗殺した安重根が英雄として賞賛されている。・・・



「ワサビと唐辛子」 恨(ハン)の国・韓国から見た「受け身文化」の国・日本   「ワサビー沈静好き」の日本人   「唐辛子ー興奮好き」の韓国人
 この本の内容の要約は少し、時間が掛かるようです。

 


作者近況の欄です9.