コンスタンティヌスの凱旋門
(パッチワークの凱旋門)



背景も凱旋門です。
 昨年11月のイタリア旅行の折に、バスを降り、コロッセウムへ向かう道筋にあったのが、コンスタンティヌスの凱旋門でした。作者は「パッチワークの凱旋門」として、この凱旋門を取り上げていますので、ここで、整理しておきたくなりました。その折の、写真を使うことが出来ます。
 
コロッセウムのすぐ近くに、「コンスタンティヌスの凱旋門」が建っている。イタリア語では「アルコ・ディ・コンスタンティーノ」(Arco di Constantino)だが、古代のローマ人の言語であったラテン語では「アルクス・コンスタンティーニ」(Arcos Constantini)と呼ばれた。紀元312年に元老院が、勝者コンスタンティヌスに送ると決議したことで実現した凱旋門(アルクス)である。現代でもそのままで建っていて、西暦1960年にローマで開かれたオリンピックでは、マラソン競争のゴールになった。・・・ 
 最近の研究によれば、この地にはすでに、ハドリアヌス帝に捧げられた凱旋門があったというのである。科学調査では、基本形に使われている石材は、この凱旋門がつくられた四世紀初めのものではなく、二世紀前半のものだという。・・・
 ・・ローマ帝国最後の建築の傑作として有名な「コンスタンティヌスの凱旋門」は、これが建造された四世紀初めのものであるべきところが、本体・装飾ともに、それ以前の時代に造られたものの集合体になってしまったのである。 トライアヌス帝時代ー紀元98年から117年  ハドリアヌス帝時代ー紀元117年から138年  マルクス・アウレリウス帝時代ー紀元161年から180年まで
  これらに、紀元313年から315年半ばまでの工事期間に成されたものがプラスされてできたのが、「コンスタンティヌスの凱旋門」の実態になる。

 トライアヌス帝時代の彫像凱旋門の正面と裏面の最上階に並び立つ、合計8体のダキア人の捕虜たちの群像。東面の戦いの浮彫

 ハドリアヌス帝時代のもの「門」(アルクス)の本体と、凱旋門の正面裏面の第二階を飾る円形の浮彫彫刻の8面。・・・・馬を駆っていのしし狩りに熱中したり、狩の女神であるディアナに犠牲式を捧げたり、討ち取ったばかりのライオンを足元に、狩猟仲間の家臣に囲まれて、まるで記念写真でもとるかのようなポーズのハドリアヌス帝である。

 マルクス・アウレリウス帝時代の浮彫正面に4枚(1蛮族の代表を引見する皇帝  2捕虜を検分する皇帝     3演説する皇帝   4犠牲式の光景)、裏面に4枚の、桂8枚の浮彫から成るが、そのすべては、哲人皇帝とも呼ばれていたまるくす・アウレリウスの生前の姿を映したものである。壇の上に立って、兵士たちを激励する姿。その他。

 コンスタンティヌス帝時代の浮彫中央と左右に開くアーチ型の入り口の上部に彫られた部分である。ヴェローナ攻防戦に際して馬を駆って進むコンスタンティヌス。とミルヴィウス橋の戦い。 西面の浮彫
 

 この「凱旋門」にも、それを建てて贈った側が彫らせた献呈の言葉が遺っている。正面の上段に、トライアヌス帝のフォールムから取りはずしてもってきた2体のダキア人捕虜の像を両側に立たせた間に刻まれているのがそれだが、それはラテン語で次のように彫られている。「ローマ元老院とローマ市民は、勝利への祝いとしてこの門を、インペラトール・カエサル・フラヴィウス・コンスタンティヌス・マクシムス・ピウス・フェリックス・アウフストゥスに贈呈する。そしてこの皇帝が、神にも等しい感覚の冴えと偉大なる意志力で率いた軍勢による正義の戦争によって、暴君を滅ぼしたことをここに記す」 敗北とは何であるかを考えさせる一文である。昨日までの「皇帝」(インペラトール)が、「暴君」(ティラヌス)に一変するのだから。・・・・



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