久しぶりの奈良、今回は奈良万葉を離れ
白鷹禄水苑ウォークー歴史探訪ーの旅です。



 6月21日(土)
 友人に誘われて参加する初めての”禄水苑ウォークー歴史探訪ー”です。夜は大変な雨、朝はようやくあがりましたが、大きな傘を持って出かけました。JR大住駅を9時18分に乗車、木津駅に着く前に、「京都と奈良を繋ぐJR奈良線のダイヤが昨夜来の雨のため大幅に遅れている。」との車内放送があり、なにせ初めての参加であり、遅刻はご法度。幸いなことに乗車予定の9時48分発・大和路快速に乗車することが出来、9時56分にJR奈良駅へ到着することが出来ました。10時30分の集合場所である近鉄奈良駅まではゆっくりと歩いても10分ほど、途中で昼飯のおにぎり2個とお茶を購入。万全です。集合場所の近鉄奈良駅前の広場に着くとすぐの友人と会うことが出来、初参加の小生としてはホットする思いです。
 今回は、この旅のシリーズの今年の前期(4月〜9月)の第三回目にあたり、”春日大社とその南・西郊を歩く”として、水野正好先生が案内をしてくれることとなっています。次回7月5日は 山辺の道 (古墳)を歩く [2] 行燈山遺跡などを 金関 恕 先生が案内してくれることになっています。


興福寺
 駅前広場を右に折れ、奈良市随一の繁華街”ひがしむき商店街”南に向かって歩きます。出発にあたって頂戴した立派な資料集を引合に、江戸時代までの興福寺の寺域は広大で、ひがしむき商店街のすぐ東は寺の塀が囲んでおり、従がってその時代のお店は全て、東向きにお店を構えていたことになり、この名前の由来となったとの話を商店街の途中”八ッ足門”(近鉄奈良駅前の東側は過って大きな”八ッ足門”が在り、現在東大寺に向かって在る大通りは存在せずすべて興福寺境内となっていたわけです。)跡の上り道を東に入ったところで水野先生から説明を受けました。明治時代に入り、明治政府の意向と指示による廃仏毀釈の動きために塀が取り壊され、両側にお店が立ち並ぶ様になったというわけです。

 坂を上がるとすぐ左には”北円堂”があります。興福寺は創建以来何遍もの火災に遭い、その度に再建されました。その中では最も古くからのお堂がこの北円堂とのことです。もちろん水野先生からの丁寧な説明はありましたが、ここでは、古寺を巡る5 興福寺 での解説を紹介します。 721年(養老5年)元明太上(げんめいだいじょう)天皇とその娘、元正(げんしょう)天皇が長屋王に命じて、藤原不比等の菩提を弔うために造らせた八角堂である。境内の西の端にあり、かってはここから平城京が一望できた。現在の堂宇は治承の兵火(1180年)後、1210年(承元4年)ごろの再建で、本尊は法相宗の教主、弥勒菩薩。毎年春と秋に一般公開される。 北円堂の南には西金堂の跡地がさらにその南に南円堂があります。
 興福寺の元々の伽藍配置は北向きの正面に南大門、さらに中門があり回廊を廻らせその後ろに金堂が、さらに後ろに講堂が、東に東金堂、五重塔、西に西金堂、北円堂と南円堂となっています。。今回の訪問で驚いたのは中門と回廊の基壇跡の整備がすすみ、中金堂の再建がスタートしていることでした。南大門の跡地で先生から寺の大まかな説明を聞くことが出来ました。資料を元にすると、興福寺は 
1、鎌足の遺言により山科に、山階寺(やましなじ)を建立。壬申乱ご飛鳥の厩坂に移され厩坂寺(うまやさかでら)と改称。 2、平城遷都にあたり外京三条七坊に移る。天皇の寺である元興寺と向かって立つ。不比等が建立。 3、金堂、講堂、回廊、南大門、三面僧坊、食堂などは720年までにが立つ。 3、720年不比等死。一周忌に元明・元正天皇が北円堂(弥勒菩薩)を建立。 4、726年聖武天皇東金堂(薬師如来)、730年光明皇后が五重塔を731年西金堂を建立 ということです。都は平安京に移りましたが、藤原氏を中心とした貴族は氏神である春日大社、氏寺である興福寺のあるこの地に別荘を建てることを望み、多くの塔頭寺院が建てられたようです。その隆盛が江戸時代まで続き、火災焼失、再建の歴史を繰り返しました。。
 五重塔、東金堂の前をを通り、興福寺境内を抜け、次に先生が我々を案内してくれたのは、奈良国立博物館の南にある東西に並ぶ2つの春日塔跡です。東塔は現在地が跡地で、保延6年(1140年)鳥羽上皇が立てたもの。西塔は90メートル西に建てられていたようでが、永久4年(1116年)関白藤原忠実が建てたとされています。天皇家と藤原家が張り合ってこの地に五重塔を建てた理由は現在の我々には想像が出来ません。
 



春日大社
 鷺池の浮御堂で昼食を取った後、春日大社へ向かいます。池を上るとすぐのところにある丸窓梅林との案内板のある丸窓のある古い建物に案内してくれました。元々は春日大社の経庫として鎌倉時代に建てられ移築されたもので、神社にお経の庫、それが何ゆえに丸窓になど不可思議ですね。
 浅茅が原を抜け、飛火野の景色を楽しみながら、春日大社へ向かいます。大社へはもちろん何回も訪れていますが、今回は先生の案内でしたので、いままでとはまったく違った大社を経験することが出来ました。全て重要文化財に指定されている車舎(くるまやどり)・着到殿(ちゃくとうでん)・竃殿(へついどの)
酒殿(さかどの)などの大社に付帯する建物の重要性を紹介していただきました。また今までのお参りでは出口としてしか利用していなかった3つの門についても紹介していただきました。慶賀門・清浄門・内侍門(それぞれ藤原氏一門の門・僧侶の門・内侍の参入口)の三門でいずれも重文に指定されています。本殿のお参りはそこそこに若宮へむかいました。先生からは、春日若宮おん祭りが870年続いてきておりその資料が残っていること、その本殿の屋根裏から近年になって古い宝剣などが発見されたなどの説明がありました。若宮の祭神は本社の天児屋根命と比売神の御子神で平安時代中ごろの(1103年)に出現、1036年にお祭りが始まったとされています。


新薬師寺・大乗院庭園・猿沢池を回り近鉄奈良駅へ
 新薬師寺のご本尊薬師如来像と十二神将像をゆっくりと拝観し、坂を下っている時、猛烈な雨に襲われました。民家のガレージに一時避難しながら、小雨になるのを待ちましたが、丁度そのガレージに車が帰ってきたりして、大雨の中を歩く羽目に陥りました。大きな傘を持参した甲斐がありました。大乗院庭園を望む立派な庭園文化館についたのは雨が小降りになったあと。もう少し早ければ!!その後は、猿沢池の傍を歩き、池のほとりに在る謡曲”采女”の立て看板で、人麻呂の歌を発見し、ひがしむき商店街を北に、集合場所に到着。水野先生の丁寧な解説に感謝、感謝の一言です。あと、友人とビールで、お疲れ様!!の乾杯。有意義な一日となりました。友人にも感謝、感謝です!!


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