生駒の道 
(八田の野から矢田丘陵を歩きます。)
背景は矢田丘陵展望台からの奈良盆地です。


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 1本の道がある。春日山山頂西真下に鎮座する春日大社から発して興福寺の前を通り、垂仁天皇陵の周濠北側を過ぎて右京四条坊まで至る1本の道である。平城京の三条大路だ。平城京の外京から西へまっすぐ走る三条大路の延長線上に、わたくしたちがこれから歩こうとする「生駒の道」がある。右京四じょう四坊でやや南に角度をふったこの古道は、茶屋なでのあった砂茶屋(奈良市)を経て矢田丘陵に入り、本陣跡の残る追分集落から榁木(むろのき)峠を越え、生駒谷に下る。暗越(くらがりごえ)奈良街道(大阪街道)の序章部分だ。・・・
 生駒谷・平群谷では万葉集に深いかかわりをもった悲劇の皇子、有馬皇子と長屋王(ながやもおおきみ)の伝承墓、遣唐使として派遣された美努連(むぬのむらじ)岡麻呂などを訪ね、生駒谷に眠る彼らへの鎮魂の旅をしてみよう。最後は生駒山へ直登する暗峠(くらがりとうげ)までの山路歩きである。(以上・『万葉の道』の”生駒の道”の書き出しです。
 今日(10月8日)は、暗峠(くらがりとうげ)への道を取らず矢田丘陵を、東明寺・矢田寺・松尾寺をめぐり、法隆寺へ降りる旅となりました。
 


 矢田神社へ
近鉄大和郡山駅には9時半には到着、西の彼方に見える矢田丘陵に向かって歩き始めました。富雄川
(万葉集では”取替川   洗ひ衣 取替川の川淀の 淀まむ心 思ひかねつも 巻12・3019) を渡り、更に西へまず矢田神社へ向かいます。途中コスモスが咲き乱れる風景に遭遇しました。
 矢田坐久志比古神社(やたにますくしたまひこじんじゃ)俗に矢落明神とも呼ばれ、『延喜式』添下(そうのしも)郡登載の式社とのこと。
祭神久志玉比古神は、神武即位前紀に登場する櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひもみこと)と関連づけて、当社には神武天皇より先に天神(あまつかみ)の子孫として天磐船(あまのいわふね)に乗ってあまくだりしていた饒速日命の伝承を伝え、それに因んで矢落大明神の名の名を残すとともに、航空の神として信仰されてきた。書紀は饒速日命を「此物部氏の遠祖(とほつおや)なり」と記している。 この神社を中心にした一帯が、『続日本紀』和銅7年(714年)11月4日の記事「登美箭田二郷」、『和名抄』の「添下郡矢田郷」の地とされ、万葉集の
  八田の野の 浅茅色付く 愛発山(あらちやま) 峰の沫雪(あわゆき) 寒く降るらし (巻10・2331) の八田の野と一般にいわれている。(以上・『万葉の道』から)
 訪れた神社は丁度、秋の大祭(10月第4土日)の為の儀式らしく、祭りの幹事役の思われる方々が神主の御祓いをうけていました。境内のアプローチには子供たちのために、金魚すくいなどの準備が父兄によって整えられていました。


東明寺(鍋蔵山東明寺)へ
 矢田神社からさらに丘陵地帯を登り、矢田寺前から北へ、東明寺への道を取りました。途中には柿の木、竹林があり、また郡山方面が望まれる地点もありました。この間、行き交う人は誰もなく、竹林の中を歩く時などは、山の霊気が全身を通り抜ける、ゾクッとした感覚を覚えました。お寺は山深いなかのひっそりとしたお寺です。
 矢田丘陵には、東明寺、矢田寺、松尾寺の3寺があり、”舎人皇子”の建立と伝えられています。東明寺は持統天皇が眼病にかかったおり、この地の霊泉により治癒したことで、天皇が舎人皇子に建立を命じたと伝えられています。
 
ここで、舎人(とねり)皇子(親王)について
 皇子は天武天皇の第3子といわれ、母は天智天皇の皇女新田部皇女。当時の実力者・藤原不比等の死後、長屋王とともに皇親政権を樹立。長屋王の変では藤原氏寄りの立場をとり長屋王を自害せしめ、藤原4兄弟の政権維持に協力、当時では長生きと言える60歳で生涯を閉じると、太政大臣を贈位された。その後、彼の息子・大炊王(おおいおう)が淳仁天皇となったため、諡号は崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)。日本書紀の編纂を総裁しました。
 あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰 (巻20・4294)
 元正天皇を仙人とみたてて唱和した歌。天武天皇時代、この矢田丘陵に宮古を移す計画があり、結局は挫折したようですが、天皇、舎人皇子ともにこの矢田に縁故があったことが想像されとしています。


矢田寺(矢田山金剛山寺)
 紫陽花のお寺とも愛称されるこの寺の創建の歴史は古く、縁起によれば天武天皇の勅願寺で、もともとは十一面観音を本尊としたが、平安以降は地蔵を本尊としています。

 『万葉の道』でも近鉄郡山駅からはバスを薦めていますが、ゆっくりと歩いてみても決して遠い道とは思えません。お寺で親子連れのお父さんに”子供の森”への道を尋ねられました。東明寺までの道を往復しましたので、その先にある”子供の森”への道は明瞭に答える事が出来ました。ここまでは?との小生の問いかけに、「車で」との答えでした。人さまざま!!


松尾寺へ
 松尾寺までの道は快適でした。丘陵の尾根道を歩く人たちは多くおり、途中の広場では団体で昼食をとっている方々も見受けられました。12時過ぎとなり、小生も展望台の近くのベンチで、オムスビで昼食をとりました。展望台からの奈良盆地の景観です。
 
 松尾寺は養老2年、舎人皇子が『日本書紀』編纂の成就と厄除けを願って開創されたと言われています。依頼「厄除けの松尾さん」として親しまれています。境内の高台には立派な三重塔がありました。


法隆寺へ下りました。
 松尾寺からは丘陵を下り、ゴルフ場の中を横切り、法隆寺への道をとりました。途中からは以前JR大和小泉駅から慈光院を訪ね、法起寺、法輪寺から法隆寺へたどった”斑鳩の道”と同じ道となりました。今回は夢殿を訪ね、法隆寺の境内をとおり、南大門からJR法隆寺駅まで歩き、帰路につきました。久しぶりの散策で、少々疲れましたが、お天気にも恵まれ、気持の良い旅ができました。


作者近況の欄です9。