三室戸寺・醍醐寺へ



階段を上がると本堂前です。
 西国33ヶ所観音霊場10番札所 「三室戸寺」
 5月4日、西国33ヶ所観音霊場めぐりの旅を「歴史散歩京都の旅」で紹介したくなりました。「三室戸寺」(みむろとじ)の躑躅(ツツジ)が余りにも見事であったためです。三室戸寺は紫陽花で特に有名で、以前この時期には訪れたことがあります。ですが、「花のお寺」の看板にうそはありませんでした。宇治はお茶の産地です。その景色を詠んだ句の 山吹や宇治の焙炉(ほいろ)のにほう時(芭蕉) があります。
 JR宇治駅から相変わらず水量が豊かな宇治川の宇治橋を渡り、京阪電車宇治駅前を通ります。連休のせいなのでしょうか?ここにも多くのお客さんが押し寄せています。「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子のお墓」、  宇治十帖二「椎本(しいがもと)」の旧跡 の前を通り、歩きます。(京都の旅・宇治も参照してください。)15分ほど歩くと三室戸寺の石碑に到着します。やはり多くの人が参詣に来ています。参道の右手には緑豊かな紫陽花畑の向こうに色とりどりのツツジが咲き茂っています。石段を上がり、本堂前に着きます。お参りの後、御記帳をお願いします。朱塗りの三重塔が緑の中で大変印象的です。
 例によって、梅原猛氏の「京都発見・1・地霊鎮魂・かぐや姫と宇治」の書き出しです。

 
宇治は「物語の揺籃の地」という説がある。これは「物語」が生まれた所というより、地方から伝えられた物語が、この地で「揺籠」に揺られて、一人前の物語に成長した所という意味である。・・・・平安時代の初期に作られたと言われる日本最初の物語として「竹取物語」がある。・・・・「竹取物語」の中に、「この子いと大きに成りぬれば、名を三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきたをよびつけさす」とある。この「三室戸」は、宇治の三室戸の地と考えられる。そこにある三室戸寺は「西国三十三箇所巡礼」の観音霊場である。「三室戸斎部あきた」が名をつけたのだから、この物語は宇治で揺籠に揺られて成長した物語である、と思われるのである。・・・・   

 「京都発見・1・地霊鎮魂・隆明上人と三室戸寺」からの抜粋です。

 
三室戸寺(御室戸寺とも。天台宗。明星山。山号の由来は明星天子が天降った故という。)は西国三十三観音霊場の第十番札所であるが、今は花の寺として有名である。花の寺といっても、4月になると満山桜が匂うという寺ではなく、四季それぞれ華麗な花を咲かせる寺である。冬は椿、早春には梅、春には石楠花(しゃくなげ)・躑躅・桜が、梅雨になると紫陽花(あじさい)が咲き、花のない夏にも様々な蓮(はす)と秋明菊(しゅうめいぎく)が見事な花を咲かせる。秋は全山紅葉し、その紅葉の美しさは花の美しさに決して劣らない。 これは主に住職の伊丹光恭師の努力による。伊丹師によれば、三室戸寺の本尊である観音さまは、ものもと花のお好きな仏様であり、その浄土を花で飾ろうという訳である。例えば椿といっても、こちらの椿は酒中花(しゅちゅうか)椿・古金襴(こきんらん)椿・光源氏椿・空蝉(うつせみ)椿など、色も形も異なる様々な種類があり、蓮にしても巨椋池(おぐらいけ)にあった蓮を中心に、世界各地の百種類以上の蓮ー魚山紅蓮(ぎょざんこうれん)・酔妃蓮(すいひれん)・紅鷺蓮(べにさぎれん)・小椋二本柳蓮などの珍しい種類がある。・・・・
 三室戸寺の中興の祖は、隆明(りゅうみょう)上人という。彼は、叔父・藤原道長と激しく対立した隆家の子であった。それ故、政治的栄達は閉ざされたが、それが却って、彼を当代比類のない傑僧にした。この隆明について『宇治拾遺物語』は、隆明即ち三室戸の僧正は「居行いの人也」と語る。山野を歩かず、籠居して修行をする人という意である。
 私は三室戸寺の御本尊が千手観音と言われながら「二臂の観音」の観音であることに疑問を持った。千手観音は40本の手を持っていらっしゃるのが普通である。・・・「二臂の観音」は秘仏であって拝見できない。しかし、ここに文政元年(1818)に光格天皇の弟の聖護院宮盈仁(えいにん)親王によって造られたという御前立(おまえだち)がある(像高八十八センチ、木造金箔)。私はこの御前立を見て驚いた。それは法隆寺の夢殿におわします救世観音もそっくりなのである。・・・・(法隆寺・夢殿・救世観音)
 室町時代は盛んにキリスト教の布教が行われた時代である。その時代に、こういうマリア観音を思わせる像を三室戸寺の御本尊としたとすれば、この寺は或いは隠れキリシタンの寺であったのではなかろうか。隠国(こもりく)の泊瀬(はせ)にどこか似ている「花の寺」はその内にまだまだ深い深い秘密を籠めているような気がする。

 「花の寺 三室戸寺」を写真で紹介していきます。
 
 1) 参道を歩きます。

 2) 右手に満開のツツジの花が目に入ってきます。

 3) 本堂を正面から。

 4) 謡曲「浮舟」古跡碑が緑の木々の中に。    その解説文です。

 5) 池泉庭園・湧き水池の周辺は種々の木々が。

 6) 山懐に包まれた感の深い三室戸寺です。

 7) 満開のツツジに囲まれています。

 8) 緑の木々の中に朱色の三重塔が。

 9) 梅雨時になれば花に埋まる紫陽花畑の向こうが満開ツツジ園です。
 
 朝、1時間ほどのJR電車の遅れが無ければ、もっとゆっくりと花々を鑑賞できたのでしょうが、心を引かれながら、三室戸寺を後に、京阪電車三室戸駅へ向かいます。




醍醐寺の象徴とも言えます。
 「醍醐寺」・西国33ヶ所観音霊場第11番札所 「上醍醐寺」
 京阪電車六地蔵駅で京都市営地下鉄に乗り換え、醍醐駅で下車します。団地を抜け、坂を上がります。広大な「醍醐寺」境内が見えてきます。総門から境内へ。左に「三宝院」入り口を見ながら、西大門まで歩き、さらに「上醍醐寺」の御朱印をいただくため、「下醍醐寺」の右手を巻くように、「上醍醐寺女人堂」へ。「女人堂」にお参りし、御記帳をいただいた後、ゆっくりと「醍醐寺」を参拝することとしました。
 「醍醐寺」は頂戴した小史によると、「真言宗醍醐派の総本山。醍醐寺は弘法大師の孫弟子、理源大師・聖宝(しょうほう)が、貞観16年(874)に創建した。山岳信仰の霊山であった笠取山(醍醐山)に登った聖宝は、白髪の老翁の姿で現れた地主神・横尾明神より、こんこんと水(醍醐水)が湧き出るこの山を譲り受け、准胝・如意輪の両観音を刻み、山上に祀った。それが醍醐寺の始まりである。」と記されています。

 醍醐天皇の諡号の由来として、「京都発見・7・空海と真言密教 醍醐寺と醍醐天皇」の項で以下のように記しています。
 
この一帯を領有していたのは、醍醐天皇の母胤子(いんし)の祖父宮道弥益(みやじのいやます)であったと思われる。聖宝がこの地を自分の仏教の根拠地としたのは、宮道氏の縁であろうが、醍醐天皇は宮道氏との関係で聖宝と知り合いになったのであろう。そして醍醐天皇は聖宝が開いた醍醐寺の近くに葬られた。しかしなぜか醍醐天皇には諡号がなかなか定まらず、やむなく寺の名をとって醍醐と名付けられたという。・・・・「醍醐寺縁起」によれば、醍醐天皇は上醍醐の准胝観音(じゅんていかんのん)をあつく信仰し、聖宝に皇子誕生の祈願を命じたところ、めでたく穏子(おんし)との間に寛明(ゆたあきら)親王すなわち朱雀天皇と、成明親王すなわち村上天皇が生まれたという。・・・
 
准胝観音は胎蔵界曼荼羅の一尊ではあるけれども、日本では滅多に祀られない観音であり、聖宝が多くの仏から准胝観音を選んで、ここに祀ったことは、聖宝の仏教に対する深い知識を示すものであろう。准胝観音は七倶胝仏母(しちぐていぶつも)と称され、多くの仏の母であり、子を求め安産に効験があるとされる。このような准胝観音のおかげで醍醐天皇と穏子は無事朱雀天皇と村上天皇をもうけ、醍醐王朝とともに藤原忠平の子孫の支配する摂関体制を確固不動のものにすることができたのである。・・・

 醍醐寺五重塔について、「藤原穏子と醍醐寺五重塔」では、
 
・・・・醍醐寺の塔は東寺の塔の高さ約55メートルなのに対して約38メートルで、東寺の塔より約17メートル低いばかりか、高さ51メートルの奈良の興福寺の五重塔よりも約13メートルも低い。しかし東寺が巨大な金堂や南大門に近接する塔であるのに対し、醍醐寺の塔は金堂が比較的小さく距離がはなれていて、塔の西方にも広いスペースがあるため、塔が誠によく眺められ、どっしりした存在感を与える。・・・・藤原穏子は基経の娘であり、時平、忠平の妹に当たるが、大変賢い女性で、摂関家の百年の栄華の基礎をつくった女性であるといわれる。何分、山に登るのは高貴な女性の身では困難である。それで山の下に立派な寺院をつくろうとしたのであろう。・・・・

 醍醐寺の再興について、「義演准后(ぎえんじゅんごう)と醍醐寺」では、
 
応仁の乱によって五重塔を残してほぼ全焼し荒廃の極みにあった下醍醐をいまのように立派に再建したのは、ひとえに豊臣秀吉およびその子秀頼の力である。そして豊臣氏の絶大な援助を招いたのは、当時の醍醐寺座主、義演准后であった。・・・
 ・・・この秀吉による花見の跡をとどめるのが三宝院であろう。特にその庭はまさに雄大で華麗な桃山時代の名残りをとどまる庭である。この庭のほほ正面奥に、もともと秀吉を祀った豊国大明神の社があり、徳川時代には豊国稲荷明神と呼ばれた小さな社があった。醍醐寺は江戸時代になっても、豊国稲荷明神と名を変えながらひそかに秀吉を祀り続けたのであろう。・・・・

 「醍醐寺」を写真で。説明は醍醐寺小史によります。
 1) 金堂(国宝)  秀頼の時代、慶長5年(1600)に完成。この金堂が醍醐寺の中心のお堂であり、安置されている薬師如来は醍醐寺の御本尊。

 2) 五重塔(国宝) 
 醍醐天皇の菩提を弔うため、朱雀天皇が承平6年(936)に着工し、村上天皇の天暦5年(951)に完成。相輪が13メートルで、塔の高さの三分の一を占め、安定感を与えている。     正面からは。

 3) 不動堂・護摩道場・真如三昧耶堂(しんにょさんまやどう) 

 4) 弁天堂  赤いお堂と橋が緑の木々を背景に。水面にもその影が映り風情を増しています。

 5) 清瀧宮本殿(重文9)  醍醐寺の鎮守社。永長2年(1097)に最初に建立された上醍醐から分身し、祀ったお社。      その説明文。

 西大門(仁王門)(慶長10年、秀頼の再建。)を背景にした見事なイチョウのトンネル。

 三宝院玄関口。内部は写真撮影が禁止されているため、その見事なお庭などを、ゆっくりと目に焼きつけました。  

 



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