比叡山から坂本へ、今年(2010年)の「もみじ」を愛でます。(1) お山の「もみじ」・坂本の「もみじ」を愛でます。「もみじ」は「紅葉」とも「黄葉」ともなります。 |
背景は「文殊楼」前の階段状からのもみじの「根本中堂」です。 |
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前回は、2008年10月11日、「休暇村近江八幡」への”ジジ蓮の旅”を利用しての、比叡山延暦寺参詣でした。この折は車での登山でしたが、今回は、「エクシブ京都八瀬離宮」からの出発となるため、ケーブルでの登山、参詣となります。 八瀬ケーブルの始発、9時に間に合わせるため、7時前に家を出発します。バスで新田辺へ、近鉄で丹波橋へ、京阪で出町柳へ、京福電鉄で八瀬比叡山口駅へ。連絡が極めてよく、8時過ぎには比叡山口駅へ到着してしまいました。今年一番の寒さは、この地では特に厳しく感じます。折角ですので、高野川沿いの散策をします。「京都の寺社505を歩く」の八瀬の地についての記述です。「八瀬の地は、壬申の乱(672年)のさい、この地で大海人皇子(天武天皇)が敵方の流れ矢背中に傷をおったことから、矢背とよばれるようになったというが、もちろん伝説の域をでない。ただ『都名所図会』などには、『矢背の里』とあって、小さく八瀬とも書くと注記される。矢が背というよりも、このあたりで高野川の流れが速くなり、多くの瀬を形成していたための地名由来と考えるべきであろう。また、八瀬は行幸(ぎょうこう)や還幸(かんこう)の際や大葬のときに天皇の輿(こし)をかついだ八瀬童子と、かま風呂で知られ、近年には八瀬遊園で賑わったが廃園となり、跡地にリゾートホテルが建つ。・・・・ ケーブル、ロープウェーを乗り継いで山頂へ。 駅を出ると、木の橋が架かっています。霜なのでしょうか?滑りそうな板を踏みしめながら渡ります。風情のあるお茶屋さんがあり、「瑠璃光院」の案内板が立っています。川沿いの道を歩き、「瑠璃光院」山門まで行って見ました。開門が10時からとの案内を見て引き返すことになりました。秋の特別拝観中であるだけに、チョット残念ではありました。「八瀬離宮」のケーブル駅口の確認をし、「さば街道」沿いを少しだけ歩き、今度は石橋を渡り、ケーブル駅へ。 今日の行程を駅にある比叡山概略図で確認します。 始発9時のケーブルには、10人ほどの登山姿の一団を含め、20人ほどのお仲間です。ケーブルカーは10分の乗車で、登山姿の一団を除き、12分発のロープウェーへ乗車します。標高差約500メートルを数分で登ります。山頂駅から数分歩くと山頂バス停に。その広い広場からの景観は見事なものです。朝靄が消える前、そして、朝日に反射して輝いている琵琶湖湖面は幻想的です。写真になるとその雰囲気は伝えられません。京都市街地、東山方面。 そして、平安神宮の赤の鳥居を望遠レンズで捉えてみます。10時発のシャットルバスを見送り、少し山頂駅方向に戻り、道案内に従って、延暦寺東塔方面に向かいます。数分歩くと、小さな仏様が並ぶ、展望台に着きました。ここから見下ろせるのは八瀬の村落と思われます。 |
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「浄土院」へ 見事な紅葉のトンネルの下を10分ほど歩きます。黄色に色ずく木々。 そして、一つ一つ彩りの紅葉。川沿いの前回訪問の折に渡ったことのある橋のある風景に遭遇します。西塔地域への橋です。急ぎ旅で、少し険しいごつごつした下り階段の道ですが、伝教大師法然上人(誕生は766年か767年で享年は56歳、822年とされています。ちなみに平安遷都は794年のこと。)の御廟所である「浄土院」をお参りすることとします。御蔭さまで、紅葉に囲まれた静寂の「浄土院」を十分に味わうことができました。浄土院門前。 浄土院内1。 浄土院内2. 2008年10月11日の浄土院内。 |
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東塔地域へ 東塔地域へは「法華総持院」境内から入ることになり、まず、朱色が圧倒的な「東塔」が眼に入ってきます。「法華総持院」は、東塔西谷にあり、中央の東塔を中心に南側に灌頂堂、北側に阿弥陀堂・寂光堂が並び、各堂舎は回廊で結ばれ、他に鐘楼・楼門などの堂塔伽藍からなっている。創建は862年、円仁が唐長安の青龍寺で見聞した鎮国道場の形態を模し、天台密教の根本道場として完成させた。しかし、たびたび焼失・再建を繰り返し、1435年の放火によって焼失して以降、再建されなかったらしい。現在の伽藍の再建は1977年に最澄出家得度千二百年で計画され、80年東塔、84年灌頂堂、86年寂光堂・回廊・楼門など順次完成整備された。(以上、「京都発見 9 比叡山と本願寺」から)なお、阿弥陀堂は1937年、比叡山開創1050年を記念して建立されたものとのことです。 法華総持院の広い境内の北正面に建つ大きな阿弥陀堂を参拝し、「戒壇院」へ向かう大きな階段の上に立つと紅葉の木々がその階段を覆うようです。 「戒壇院」は延暦寺にとって大事な建物であることは確かです。「京都発見」からの抜粋です。 ・・・・私は最澄にはどこかに鑑真の思想の影響があると思う。鑑真の思想は正しいが、鑑真の来日以後に道鏡事件という忌まわしい事件が起こってしまった。それ故、戒師の数を少なくして戒をもっと簡単にして、内面的にせよ、それがかえって戒を厳しく守ることになるのであると考えたのではないか。最澄には痛烈な懺悔の言葉がある。このような厳しい懺悔の言葉を語ったのは、日本の僧では最澄と親鸞以外にはない。この大乗戒の戒壇設立が最澄の悲願であった。しかし、彼の生きている間には大乗戒の戒壇設立の許可が下りず、最澄が56歳にして死んだ弘仁13年6月4日の7日後についに許可が下り、1年後に戒壇院が建てられて以来、現在も比叡山で僧になる者はすべてこの戒壇院で戒を受けることになる。最澄の死後すぐに戒壇院の設立が認められたのは、最澄の悲しいまでの真面目さが多くの人の心をうったからであろう。 (ここで「東大寺の戒壇院」について続いて「京都発見」から 大仏殿の西方にあって、常設の授戒の道場である戒壇堂を中心とする伽藍。戒壇は授戒の式場をいい、日本の戒壇は754年に、伝戒師として来朝した鑑真が東大寺大仏殿前に臨設の戒壇を築き、聖武上皇らに授戒したのが始まり。翌年、大仏殿西方に常設の戒壇を中心とする伽藍が創設され、のち下野国薬師寺・筑前国観世音寺にも戒壇が設けられ、畿内や東西の出身者で官僧となる者の授戒の場となった。戒壇院を覆う黄葉。 戒壇院から道を降ります。大講堂への道の右手は見事なもみじです。大講堂前を通り、「文殊楼」を拝観します。細く急な階段で、入り口で引き返す女性も多く見受けられます。階上の文殊菩薩様にお参りします。「文殊楼」は他寺院の山門にあたるということで、「根本中堂」へ向かいます。階段から見下ろす紅葉に囲まれる「根本中堂」のすがたを撮影します。そして、根本中堂前からも見上げてみます。 「根本中堂」の回廊内の佇まいは厳かでありながら色づいた木々もあり写真撮影のベストポイントではありますが、結界内であることから厳禁されています。根本中堂について、「京都発見」から ・・・最澄が最初に造った堂宇、一乗止観院は、5間・3丈(約9メートル)の薬師堂を中心に、向かって右に5間・3丈3尺(約10メートル)の文殊堂と、左に同じく5間・3丈3尺の経蔵との3堂であったらしいが、それが根本中堂になり、円珍の時に九間四面の巨大な大堂に納められた。さらに良源の時に間口11間の大堂となり、文殊堂は大堂の中にそのままに越されたが、経蔵は他に移して代わりに大師堂とし、伝教大師などの像が安置された。そして織田信長の比叡山焼討ちにあった後に、徳川家光によって復興されたが、そこでは秘仏の本尊である薬師仏の向かって左側に新たに密教の修法のための薬師仏が設けられ、さらに右側の文殊堂が甚だ小さくなり、新たに毘沙門天を祀る堂が設けられた。根本中堂は内陣が低い石畳の土間になっていて、須弥壇の仏の高さがちょうど参拝する人々のいる中陣や外陣と同じ高さになる。 このように根本中堂は密教的な寺院であるが、最澄のときは文字通り一乗止観院という天台の寺院であった。最澄がここに天台仏教の本拠地の寺を建てようとしたのは間違いない。中国天台宗の開祖智は隋の煬帝があつく尊崇した僧であり、天台仏教は隋の時代に流行したが、唐の時代に入るや、華厳宗や真言宗などの仏教に圧倒されがちであった。・・・ 根本中堂には4回ほどお参りしていると記憶していますが、幽遠な雰囲気の堂内の記憶はなぜか判然としません。中央の厨子の内に御本尊の「薬師瑠璃光如来」が秘仏として安置されており、「不滅の法灯」が最澄の時代から現在までを不断に照らしているとのお話のみが記憶に残っています。 次にお参りした大講堂について、やはり、「京都発見」では、・・この建物は天台宗の宗祖最澄ではなく、最澄の弟子で、初代の天台座主である義真によって建てられた。本尊は大日如来であり、この大講堂が建てられた天長元(824)年のころ、すでに延暦寺は密教中心の寺になっていたことを示す。・・・・現在、この大日如来の脇壇に、中国天台宗の開祖智および日本天台宗の開祖最澄の像が、聖徳太子および聖武天皇の像とともに置かれているが、さらに日本仏教の各宗派から比叡山で勉学した祖師たちの像も奉納されて安置されている。年代順にいえば、天台寺門宗祖円珍、融通念仏宗開祖良忍、浄土宗開祖法然、臨済宗開祖栄西、浄土真宗開祖親鸞、曹洞宗開祖道元、日蓮宗開祖日蓮、時宗開祖一遍、天台真盛宗開祖真盛などである。このような開祖たちが比叡山で学んだとすれば、以後の日本のすべても仏教は最澄から、あるいは比叡山から出たといわねばならない。・・・ 下り道を5分ほど歩くと、坂本ケーブル延暦寺駅に着きます。途中、琵琶湖を望める地点があり、駅周辺、そして駅展望台からも琵琶湖の景観が見事に開けています。(橋は、「琵琶湖大橋」、湖の中の島は、「沖島」です。)ケーブルでは比叡山駅から坂本駅まで11分での下山です。 |
![]() 広い日吉大社への参道です。クリックすると坂本の特徴である 穴太積の石垣と水量豊かな側溝の流れです。 |
ケーブル坂本駅を川沿いに下り、左折します。少し歩くと、日吉大社に行き着きます。境内の道を歩き、受付で入苑協賛料を支払います。綺麗なもみじが彩る「大宮橋」を渡ると、神仏習合の信仰を表している独特な鳥居「山王鳥居」(別名 「合掌鳥居」)をくぐります。そして、「西本宮楼門」(重文)に着きます。「西本宮本殿」(国宝)は1586年(天正14年)に建てられたとのことで、「日吉造」という独特な形で、床下にはかって仏事を営んだ「下殿」とよばれる部屋があるとのことです。御祭神は「大己貴神(おおなむちのかみ)」です。境内を「東本宮」へ向かいます。途中に「宇佐宮」、 「白山宮」 そして、 神輿収蔵庫などがあります。 「東本宮楼門」そして「東本宮本殿」(国宝)も西本宮の建物と同様に立派なものです。境内には華やかな新しいお神輿が飾られています。御祭神は「大山咋神(おおやまくいのかみ)」。日吉大社の由緒をパンフレットから 比叡山の麓に鎮座する当大社は、およそ2100年前の崇神天皇7年に創祀された、全国3800余の分霊社(日吉、日枝、山王神社)の総本宮です。東本宮のご祭神である大山咋神は日本最古の書物である古事記にもその御神名が記されている比叡山の山の神様です。 また、西本宮のご祭神である大己貴神は、天智天皇の御代に奈良から大津への遷都が行われた際に奈良の三輪山より御神霊をお迎えし、国家鎮護の神として祀られました。 平安遷都の折には、この地が都の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除・災難除を祀る社として、また伝教大師が比叡山に延暦寺を開かれてよりは天台宗の護法神として多くの方より崇敬を受け、今日に至っています。・・・・ いずれにしても、広大な神域を持つ「日吉大社」には驚きを痛感します。 坂本ではもう一ヶ所「滋賀院門跡」を訪ね、「鶴喜そば」で昼食の「ざる蕎麦」をいただき、30日、本番のの予約を聞いてもらい、急いで、JR坂本駅から帰路につきました。 |
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