塩野 七生さん 「ローマ人の物語」 をまとめてみました。 |
作者近況の欄です9. |
2011年9月7日 「ローマ人の物語」の再読は、文庫本3巻から5巻の「ハンニバル戦記」、6巻、7巻の「勝者の混迷」まで進みました。 紀元前264年から241年の「第一次ポエニ戦役」はシチリア島の領有をめぐるローマとカルタゴの戦いであり、ローマにとっては不利と思われる海戦に勝利したローマがもちろん陸上戦闘においては傭兵を主たる兵力とするカルタゴ軍を圧倒し、勝利し、シチリア島はもちろんのこと、サルデールニア島、コルシカ島を支配下とします。 敗れたカルタゴでは、進出派(一方は国内派との抗争)であったハミルカルが息子ハンニバルをつれてスペインに渡り、前228年カルタヘーナを建設します。父ハミルカル、義兄ハシュドュルバルの死後、前221年ハンニバルは総督となります。 紀元前218年から201年の「第二次ポエニ戦役」が書名である「ハンニバル戦役」と呼ばれるもので、主役はもちろんハンニバルとスキピオです。 前218年、アルプスを越え、イタリアは侵攻したハンニバルは、騎兵を有効に使うなどした戦術を駆使し、会戦のおいてローマ軍を殲滅し、ローマ、ナポリ周辺を除く南イタリアを事実上の支配下とします。本国カルタゴからの支援が受けられないハンニバルとローマとの戦いは膠着状態となります。ここで、スキピオはハンニバルの本拠地スペインを攻め、前209年カルタヘーナを攻略します。前206年イリパ会戦で勝利したスキピオはスペインを制圧し、前205年執政官となります。 前203年、ハンニバルはカルタゴに帰還し、前203年、ザマ会戦でハンニバルがスキピオに敗れることで、前201年、第二次ポエニ戦役は終戦となります。ここで、ローマは西地中海の覇権を確定します。 第三次ポエニ戦役が始る前149年まで、ローマは友好国を援助するとしてマケドニアと戦いギリシャ地域を4つの自治国に分割統治することとなります。 前149年から146年の第三次ポエニ戦役によりカルタゴは完全に破壊され、地中海地域におけるローマの覇権が確定します。 1) 第一次ポエニ戦役前のローマとカルタゴ 2) 第一次ポエム戦役前のシチリアの勢力分布図 3) シチリア周辺図 4) 第二次ポエム戦役前の地中海 5) カンネ会戦以降のローマとハンニバル対決の舞台 6) 第二次ポエニ戦役に於ける主な会戦の場 7) ザマの会戦図 8) 第二次ポエム戦役中の有名な会戦と4将の進路 9) 紀元前130年前後の地中海世界 10) ポエニ戦役時の 年表T(前264年から前208年) 年表U(前207年から前146年) |
2010年8月10日 ”イタリア旅行の後遺症”のために読み始めた「ローマ人の物語」の整理をしたいと思いついたのは、「ハンニバル戦記」を読み終えた後です。従って、「都市国家ローマ」の誕生については、触れてきていません。「ローマは一日にして成らず」の部分となります。 伝承によれば、ローマは、紀元前753年「ロムルス」により建国されたとされています。前509年まで、9代の王による「王政」が行われ、前509年ブルータスらにより、「王政」が廃され、「共和制」が誕生します。トップは、毎年選出される2人の「執政官」にゆだれられます。前494年には、「護民官」が設置され、貴族階級と平民階級との抗争の中和が図られます。 前453年前後 成文法制定のため、3人の元老院議員からなる視察団がギリシャに派遣されます。 前449年 最初の成文法「十二表法」が制定されます。 前390年 ケルト族が来襲、ローマは占領され、独裁官カミルスが撃退しますが、ローマは荒廃します。 前367年 ローマの寡頭政体継続と平民階級に対しても政府の要職を開放する「リキニウス法」が成立します。 前287年 平民集会の決議は元老院の承認がなくとも成立すると定めた「ホルテンシュタイン法」が成立し、貴族対平民の抗争が完全に収束されます。 前264年 「第一次ポエニ戦役」が始まります。 「ローマ人の物語」の文庫本を1巻から13巻までを購入し、1、2巻の「ローマは一日にして成らず」を再度、読み進めています。ローマのその後の発展は、隆盛を極めていたギリシャの都市国家であるアテネの民主政を見習わず、ローマ独自の政体を構築していったことに由来するのではないかとしています。政治改革という節で以下のように記しています。 ローマ人の考えを実施した政治システムこそ、ローマを強大にした第一の要因とする歴史家ポリビウスは、その理由を次のように書いている。「われわれの知っている政体には、次の3つがある。王政と貴族政と民主政である。ローマ人に向かって、あなたの国の政体はこの3つのうちのどれかとたずねても、答えられるローマ人はいないであろう。 執政官にのみ照明を当てれば、王政に見える。元老院の機能にのみ注目する者は、貴族政以外の何ものでもないと言うだろう。市民集会を重要視する者ならば、民主政だと断ずるにちがいない。・・・・・(中略)・・・・・ところが、ローマの政体は、この三つをくにあわせたものなのである。」 3種の政体のミックスこそ理想に近い政治システムであると考えた人には、ルネッサンス時代の政治思想家ニコロ・マキアヴェッリがいた。・・・詳しくは後日に。 2011年6月7日 「ローマ人の物語 1,2巻 ローマは一日にして成らず」の最後の部分、「ひとまずの結び」の中で、著者がローマ観を語る意味で重要と思われる要因を3人のギリシャ人歴史家、ポリビウス『歴史』、プルタルコス『列伝』、ディオニッソス『古ローマ史』から4点に要約しています。 第一は、ローマの興隆の因を精神的なものに求めたかった、3人の態度である。・・・・興隆は当事者たちの精神が健全であったからであり、衰退はそれが堕落したからだとする論法に納得できないのだ。それよりも私は、交流の因は当事者たちがつくりあげたシステムにあると考える。・・ 第二は、彼ら三人はキリスト教の普及以前に生きたのだから当たり前にしても、私もまたキリスト教信者ではないということである。キリスト者でなければ、キリスト教の倫理や価値観から自由でいられる。・・・貧しき者こそ幸いなれ、というイエスの教えの優しさはわかるが、「貧しいことは恥ではない。だが、貧しさに安住することは恥じである」としたペリクレスのほうに同感なのだ。また、キリスト教を知らなかった時代のローマ人を書くのに、キリスト教の価値観を通して見たのでは書けないとも思っている。・・・中世時代の考えを色濃く残しているダンテだが、『神曲』の中で、その言行に罪があるとして地獄に落したのは、悪しきキリスト教徒だけである。・・・ダンテでさえ、古代人とキリスト教徒を同列には論じなかったのである。 第三は、これまた知らないで死んでしまった彼ら三人には当然の話にしても、フランス革命によって打ち上げられた自由・平等・博愛の理念に、この人々は少しも縛られていないという点である。理念に邪魔されないですむから、現実を直視することも容易になる。・・・ディオニッソスにいたっては、ペリクレスとアウグストゥスを同列視して賞賛している。英邁な指導者に治められたときの国家は、いかに幸福に運営されたかの例としてである。・・・ペリクレスはアテネの民主政の旗手であり、アウグストゥスは帝政ローマの創始者なのだから、・・・・私などは、この頃、二十世紀末のこの混迷は、フランス革命の理念の自家中毒的状態ではないか、とさえ思うようになっている。 第四にあげる二千年昔のギリシャ人三人の考えに私がなぜしっくり感じたかの理由は、問題意識の切実さにあったのではないかと思う。彼ら三人とも、それぞれの立場はちがっても、あれほども高度な文化を築いたギリシャが衰退し、なぜローマは繁栄をつづけるのか、と問いかけた点では一致していた。・・・ ・・・ローマ興隆の要因について、三人のギリシャ人は、それぞれ次のように指摘している。ハリカリナッソスのディオニッソスは、宗教についてのローマ人の考え方にあった、とする。・・・他の宗教を認めるということは、他の民族の存在を認めるということである。・・・ポリビウスとなると、、ローマ興隆の要因は、ローマ独自の政治システムの確立にあった、と考える。・・・この独自の政治システムの確立によって、ローマは国内の対立関係を解消でき、挙国一致の体制を築くことができたのである。 ・・・一方、プルタルコスとなると、ローマ興隆の要因を、敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方をおいて他にない、と明言している。・・・ ・・・これら三人の史家の指摘は、私には三人とも正しいと思われる。それどころか、ローマの興隆の要因を求めるならば、この三点を全部であると思うのだ。・・・ ・・・古代のローマ人が後世の人々に遺した真の遺産とは、広大な帝国でもなく、二千年経ってもまだ立っている遺跡でもなく、宗教が異なろうと人種や肌の色が違おうと同化してしまった、彼らの開放性ではなかったか。それなのにわれわれ現代人は、あれから二千年が経っていながら、宗教的には非寛容であり、統治能力よりも統治理念に拘泥し、他民族や他人種を排斥しつづけるのもやめようとしない。「ローマは遥かなり」といわれるのも、時間的な問題だけではないのである。・・・ |
2010年1月7日 昨年11月の”イタリア旅行”の後遺症(サン・ピエトロ大聖堂を始めとした巨大で且つ華麗な多くの教会の残像)が残っており、改めて「キリスト教」について勉強してみたいと考えていたところ、樟葉のブックオフで白取春彦氏の「今知りたい世界の4大宗教の常識」を手に入れることが出来ました。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教についての基礎知識を仕入れるのには大変良き手引きとなりました。(仏教についての説明は簡単に済ませています。)また、平行して読んでいる塩野七生氏の「ローマ人の物語]W キリストの勝利」からはどの様な仕掛けでローマ帝国皇帝からの権威の移譲が為されたかの一端を知ることが出来ました。勉強はまだ始まったばかりです。 |
2010年1月26日 「ローマ人の物語 ハンニバル戦記」を読みました。市立図書館から借り出した文庫本上・中・下 です。歴史好きを自負する者が恥ずかしさを最も感じたのが、「カルタゴの将 ハンニバルがアルプス越えをして、イタリア半島に攻め込んだのが、スペインのカルタヘーナという都市からであった」とこの本により知ったことです。自分の頭に刷り込まれていた「ポエニ戦役」のハンニバルのイタリアへの侵入はアフリカ大陸のカルタゴがらジブラルタル海峡を渡り、スペイン、フランス、そしてアルプス越えをしてのものであったのです。アルプス越えをする絵画などで知る、象そして何万人もの軍をつれてのその長途には想像を絶する思いをしてきたものです。ただ、今回ハンニバルがスペインからの長途であったとしてもその壮挙の凄さを減ずるものではありません。 第一次ポエニ戦役はカルタゴとローマの地中海における制海権をめぐる争いです。それはシチリア島の覇権をめぐる争いから始まります。塩野七生さんの「ハンニバル戦記」の書き出しです。 紀元前265年、ローマの元老院は、前例のない難問を前にして苦慮していた。救援を乞うてきたメッシーナの住民代表に、早急に回答を与える必要に迫られていたのだ。シチリア第一の強国シラクサの侵攻の矢面に立たされていたメッシーナでは、自分の力ではこの危機打開は無理と考え、カルタゴを頼るかローマに救援を求めるかで、意見が割れていたのである。それでもローマ派が優勢であったのは、目と鼻の先にあるレッジョの現状に理由があった。現在ではカラーブリア地方の県庁所在地になっているレッジョ・カラーブリアと呼ばれているこの都市は、海峡をはさんでメッシーナと向かい合う位置にある。レッジョも、メッシーナやシラクサ同様にギリシャ人の植民を起源とする都市だ。ローマが、北はルビコン川から南はメッシーナ海峡までのイタリア半島統一を成しとげた頃から、レッジョもローマの傘下に入っていた。「ローマ連合」に加盟する、国内の自治権ならば完全に認められた同盟都市といてである。このレッジョを朝晩眼にしているメッシーナの人々は、カルタゴに支援を求めるよりもローマを頼るほうを選んだ。・・・ 第一次ポエニ戦役の最初の年となる紀元前264年、メッシーナ支援に派遣されたローマ軍を率いていた執政官は、アッピアス・クラウディアスであったのだ。・・・・このローマ軍に脅威を感じたのは、メッシーナに侵攻中のシラクサだけではない。シチリア駐留のカルタゴ軍も同じだった。長年敵対関係にあったギリシャ民族の国シラクサとフェニキア民族の国カルタゴは、ここに至って同盟を結んだのである。シラクサ軍は南から、カルタゴ軍は西から、ローマ軍のこもるメッシーナに迫った。 この戦でシラクサとカルタゴを破ったローマはシラクサと同盟を結びます。この動きに脅威を感じたカルタゴはシチリアの南にあるアグリジェントに4万を越える大軍をおくります。ここに至ってはじめて、ローマとカルタゴは、正面きってぶつかるこのになったのである。フェニキア人との戦争を意味する、「ポエニ戦役」と呼ぶにふさわしい時期に入ったということだった。・・・ 何回かの海戦に完勝したローマは前241年シチリアを属領にし、戦役を終結します。 戦争終了の後に何をどのように行ったかで、その国の将来は決まってくる。勝敗は、もはや成ったことゆえどうしようもない。問題は、それで得た経験をどのようにいかすか、である。後世に生きる私たちは、紀元前241年に終わった第一次ポエニ戦役と、前218年に勃発する第二次ポエニ戦役の間に、23年の歳月があるのを知っている。・・・ 敗戦後、ハンニバルは父ハミルカル、義兄ハシュドゥバルとともに、スペインに渡ります。前228年にはカタルヘーナを建設。そして、ハミルカルの死後、総督となっていたハシュドゥバルが殺された前221年、26歳の時、ハンニバルはスペイン総督となります。 前218年、ハンニバルはアルプスを越え、イタリアに侵攻。戦力は歩兵2万、騎兵6千の2万6千の精鋭です。第二次ポエニ戦役が始まります。 イタリア半島に入っての戦闘はカルタゴ軍の前線全勝。ローマを通り過ぎ半島の中央部を南イタリアへ進軍します。特に、前216年のカンネ会戦などの平地の会戦ではローマ軍を殲滅します。前213年にはナポリ、先端のレッジョなどの大都市国家を除く南イタリアを完全制圧下におきます。しかし、カルタゴ本国からの援助がないカルタゴ軍と会戦を嫌う持久戦法のローマ軍は膠着状態に陥ります。 しかし、持久戦法は、効果があらわれるのが遅いという欠点をもつ。そのうえ、紀元前213年の戦況は、多くの人の眼には、「ローマ連合」の解体を目指すハンニバルの戦略が、最も効果をあげた年に見えたのである。 実際、カプアにターラントにシラクサという、南伊の三大都市はすべてハンニバル下になっていた。ハンニバル軍の中に、南伊のギリシャ人の姿も見られるようになる。そのハンニバルに対し、ローマは目立つ戦果をあげていない。シラクサ攻略に送り込んだ「イタリアの剣」マルケスも、以外に手間どっていた。 だが、よく見れば、状態は良くなっていなかったが、悪くもなくなっていなかったのである。 カルタゴ本国からのハンニバルへの支援は、一度を除いてすべてが不成功に終わっていた。ローマ海軍に行手をはばなれたカルタゴ船団はUターンをくり返し、ついには試みることさえしなくなった。 スペインでも、ハンニバルの弟二人はコルネリウス兄弟に押されがちで、イタリアの兄への支援に馳せ参じる余裕もない。 ハンニバル軍に参戦してローマに勝ち、意気盛んであったガリア人も、カンネ以降はルビコン川の北に押しこまれたままだった。 そして、マケドニア王フィリップス5世も、イタリア上陸どころか、ローマ、アエトリア、ベルガモンと三方から攻められ、マケドニア領内に封じこめられて動けない。 ハンニバルをイタリア内に孤立されるという元老院の戦略は、目立たないにしても効果をあげていたのである。・・・・・ 紀元前210年というこの年を境に、第二次ポエニ戦役の主導権は、これまでの8年間それをにぎりつづけてきたハンニバルから、もはや明らかにローマ側に移っていた。そして、戦役の主導権をこの年以降もローマ人がにぎりつづけることを意図に反して助けてしまったのは、好機と活用することを知らなかったカルタゴ本国の指導者たちである。ローマが執政官を送ってまで心配したシチリアに対し、カルタゴ本国は何ひとつ積極的な行動を起こさなかった。・・・ ローマの優勢は前209年、、敵将ハンニバルの戦略、戦術を習得した26歳のスキピオがスペインに於けるカルタゴの拠点、カタルヘーナを攻略したことにより鮮明になっていきます。前205年、執政官となったスキピオはカルタゴ本国の制圧を目指します。そして前202年、本国に呼び戻されたハンニバルとザマ会戦において戦い勝利をすることで、前201年第二次ポエニ戦役は終結し、地中海は完全にローマのものとなります。 ・・・ハンニバルの自己評価は、アレクサンダー大王まで越えるかどうかは別にして、誤ってはいないと私は思える。 ザマでは、彼は敗将となった。だが、歩兵と騎兵の双方を有機的に活用することによって敵を包囲し全滅にもって行くという彼の考えた戦術は、それを駆使したのがローマ側の武将であったといえ、有効な戦術であったことは証明されたのである。もちろん、それを駆使できなのは、しかもハンニバル相手さえ駆使できたのは、完全にスキピオの才能による。しかし、それを考え出しののは、あくまでもハンニバルであった。 古代のローマでも、ルキアノスただ一人を除くローマ人全員が、武将としては敵のハンニバルを、救国の英雄であるスキピオより上位に置くことでは一致している。ハンニバルの不幸は、優れた弟子が敵方に出てしまったことであった。そして、戦略家としてならば、ハンニバルは大きな誤りを犯している。「ローマ連合」の解体が、容易に可能であると見た点である。社会の階級が固定しているカルタゴの人間であるハンニバルにとっては、かって寛容になり、敗者さえも協力者にしてしまうローマ人の生き方は、理解を越えていたのであろう。 だが、それを、ザマで敗れた直後に、ハンニバル自らが体験することになる。講和の交渉の首席代表は、ローマ側はスキピオだったが、カルタゴ側はハンニバルであったからである。 第三次ポエニ戦役は前149年、カルタゴとヌミディアとの紛争から始まります。講和の条件がローマの許可なしには兵を動かさないことを含んでいたからです。カトーを首領格としたローマの対カルタゴ強硬派の主導権によりカルタゴ制圧が決定され、前146年、カルタゴという都市は地上から抹殺されます。 ・・・「いずれはトロイも、王プリアモスと彼につづくすべての戦士たちとともに滅びるだろう」 背後に立っていたポリビアスが、なぜ今その一句を、とローマの勝将にたずねた。スキピオ・エキリアヌスは、そのポリビウスを振り返り、ギリシャ人だが親友でもある彼の手をとって答えた。「ポピリウス、今われわれは、かっては栄華と誇った帝国の滅亡という、偉大なる瞬間に立ち会っている。だが、この今、わたしの胸を占めているのは勝者の喜びではない。いつかわがローマも、これと同じときを迎えるであろうという哀歓なのだ」− 陥落後のカルタゴは、城壁も神殿も家も市場の建物も、ことごとくが破壊された。そして、石と土だけになった地表は、犂で平らにされ、ローマ人が神々に呪われた地にするやり方で、一面に塩が撒かれた。 草も生えず、人間が住めない不毛時代と断罪されたこのカルタゴに、再び人が住むようになるのは、ユリウス・カエサルが植民地建設を命じ、彼の暗殺で中絶したがアウグストゥス帝によって実現する。百年後になってからである。今に残るカルタゴ遺跡は、それゆえに、ローマ時代のものであって、カルタゴ人のものは少ない。・・・ |
2010年2月10日 「ローマ人の物語 ハンニバル戦記」3巻の後、「勝者の混迷」上下巻を読んでいます。紀元前146年第三次ポエニ戦役が終結した後のローマは、地中海の覇権を握ったことによる勝者の混迷に陥ります。チィベリウス・グラックス、ガイウス・グラックスによる改革の提案。ルキウス・コルネリウス・スッラの反動、保守改革に伴う改革派の粛清。「同盟者戦役」(ローマ連合に加入しているイタリア半島の中部と南部に住む諸部族が同時に蜂起したもの)の結果、全イタリア人にローマ市民権が付与され、ローマは都市国家からローマ国と変化したこと。オリエント制圧完成に伴うポンペイウスの台頭。その活躍に伴っての地中海全地域のローマの覇権。この間に、奴隷の反乱に興味が沸きます。 前135年〜132年シチリア島で第一次奴隷反乱。前104年〜100年シチリア島で第二次奴隷反乱。前73年〜71年スパルタクスの乱が発生しています。日本史の中に奴隷に関する記述が少なく、その真実の姿は全く見えていません。ローマ時代の奴隷はこの物語の中に多く記述され、特に会戦に負けた兵士が死刑または奴隷に落とされること。カルタゴなどの都市国家が敗北した折の市民までが奴隷に落とされること。など、多くの奴隷がローマ国の中に存在していました。「勝者の混迷 下巻」の一節です。 後世に生きるわれわれが古のギリシャ・ローマ文明に接するのは、二千余年を経た今でも残る壮麗な遺跡や、美術館を埋める造形芸術、教養として教えられる哲学や歴史や文学などを通じてである。そして、ひとたびこれら人智の結晶にふれれば、誰もが感嘆する。なんとすばらしいものを創造したのか、と。だが、感嘆すると同時に、疑問もいだく。これほどの洗練された文化文明を築いた彼らなのに、なぜ、非人道的な奴隷制度には疑いさえもたずに生きていけたのか、と。 はじめに断っておかねばならないが、イエス・キリストは、人間は「神」の前に平等であると言ったが、彼とは「神」を共有しない人間でも平等であるとは言ってくれていない。それゆえ、従来の歴史観では、古代より進歩しているはずの中世からはじまるキリスト教文明も、奴隷制度の全廃はしていない。キリスト教徒を信じる者の奴隷化を、禁止したにすぎない。だから、ユダヤ教信者を強制収容所に閉じこめるのは、人道的には非でも、キリスト教的には、完全に非である、と言いきることはできない。アウシュヴィッツの門の上にかかげられてあったように、キリスト教を信じないために自の雑事をする由でない精神を、労働できたえることで自由にするという理屈も成り立たないわけではないからである。 キリスト教を信じようが信じまいが、人間には「人権」というものがあるとしたのは、18世紀の啓蒙思想からである。ゆえに、奴隷制度の廃止を謳った法律は、1772年のイギリスからはじまって1888年のブラジルにいたる、1世紀間に集中している。とはいえ、法律はできても人間の心の中から、他者の隷属化に無神経な精神までが、完全に取り除かれたわけではないのである。 話を古代にもどすが、まず、全盛期である紀元前5世紀当時のアテネを例にとって、学者たちが行った推計を紹介すれば、次のようになる。 市民権所有者ー4万人 両親ともアテネ生まれの自由民で投票権を有する者の数のみであって、アテネ在住でも、他国人や女子供はふくまれない。 店や農園で働く、成年男子の奴隷ー3万5千人。 家事労働に従事する、男女の奴隷ー2万5千人。 奴隷から生まれたり、または買われたりして家庭内の雑事をする未成年の男女の奴隷ー1万人。 鉱山で仕事する奴隷ー2万人。・・・・ アテネとはちがって、都市国家から脱して領土国家へも道をはっきり歩みはじめた紀元前1世紀当時のローマだが、前一世紀前半期のローマの人口を、学者たちは次のように推計している。 ローマ市民権を所有する成年男子数ー90万人。 もはや国家ローマとなったイタリア半島に住む、60歳以上の老人に女子供もふくんだ自由民の総数ー600万人から700万人。 奴隷ー200万人から300万人。 属州民や、とくに奴隷の多かったシチリアはふくめないでこの数である。だだし、200万人は確実にいた奴隷たちの分野ごとの数は、わかっていない。・・・ |
2010年2月24日 「ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前」」上・中・下三巻。いよいよ、カエサルの出番です。上巻では、カエサルの誕生から39歳まで。中・下巻では「三頭政治」と「ガリア戦役」を中心に記述されています。カエサルは紀元前100年、ローマ市街「スブッラ」で生まれます。上巻の書き出しです。 フォロ・ロマーノの南側に横たわるパラティーノの丘に立つと、建物で埋まってしまって明確にたどれなくなっているとはいえ、2千年以上も経った現代でもなお、ローマの七つの丘に位置の見当くらいはつけることができる。古代ローマの心臓部であったフォロ・ロマーノを中心とすれば、すぐ西側にはカピトリーノの丘、そして北から東にクィリナーレ、ヴィミナーレ、エスクリーナ、チェリオとつづき、パラティーノとは大競技場をはさんだ南にアヴェンチィーノのがきて、史上有名な「ローマの七つの丘」が完了する。これら全体を囲いこんだ城壁は。紀元前6世紀半ばに6代目の王セルヴィウス・トゥリウスによってん建設され、この「セルヴィウスの城壁」(ムーラ・セリビアーナ)は、カエザルの時代でも健在であった。 ローマ人が自分たちの首都と考えていた「セフヴィウスの城壁」の内側は、面積にすれば、大手町と丸の内と霞ヶ関と永田町を合わせた程度に過ぎない。・・・・フォロ・ロマーノの遺跡を見物した後でパラティーノに登ると、ここが同じローマかと驚くほど涼しく緑にも囲まれ、低地の喧騒から隔絶した別天地にいる想いにさせてくれる。このパラティーノの丘は、建国の祖ロムルスが居を定めたという理由で、初代皇帝アウグストゥスが屋敷を建てて以後は皇帝たちの宮殿で埋まるようになるが、理由はそれだけではなかったにちがいない。そして、皇帝の存在しなかった共和政時代のパラチィーノは、有力で裕福なローマ人の屋敷が軒を連ねる高級住宅地であったのだ。・・・・その一方で、庶民たちが相当に広い範囲に住んでいた地域もあった。それらの地域の中で都心に最も近い、いやほとんどフォロ・ロマーノと接しているといってよい一帯は、「スブッラ」と呼ばれて昔から有名だった。・・・・ ・・・・ユリウス一門は、コルネリウスにもファビウスにもクラウディウスにも匹敵するほど古くまで遡れる名門貴族である。ローマを建国することになるロムルスの母は、アルバロンガの王の娘で、ユリウス一門は、このアルバロンガの有力者であったからである。・・・・父母の名さえ不明なスッラとちがって一代前ならば家系をたどれるのは、カエサルの父が一応は法務官まで務めたことと、母親の実家が有名であったからである。母アウレリアが、法学者として知れら、執政官も務めたアウレリウス・コッタの妹にあたった。・・・・ 貴族に生まれた男子の必然として成人後は公職に就くことが運命づれられているカエサルはそれなりのエリート教育を受けて育ちます。この時期のローマは「マリウスとスッラの時代」と呼ばれる政敵を殺し合う時代で、カエサルが17歳の折の寡頭政治を是とする元老院派スッラの「民衆派」一掃作戦は特に徹底しており、「処罰者名簿」には、80人近くの元老院議員、1千6百人の「l騎士」(経済人)もふくめて、4千7百人が名を連ねており、その中にはカエサルも含まれていたのです。粛清を逃れ、ギリシャに逃亡します。22歳の折、スッラの死によりローマへの帰国が果たせます。しかし時代はスッラの門下生ポンペイウスとクラッススの時代でした。ロードス島へ再度の留学をします。27歳の折、伯父アウレリウス・コッタの死で空席になった神祇官の地位に任命され、帰国することとになります。ポンペイウスとクラッススの時代は続いています。紀元前67年からの地中海海賊殲滅作戦とオリエント制圧作戦の成功によりポンペイウスは「偉大なるポンペイウス」(ポンペイウス・マーニュス)と呼ばれるまでになります。 紀元前59年、ポンペイウス、クラッスス(カエサルの最大債権者)と提携することにより、執政官(コンスル)に就任します。後に三頭政治と呼ばれる体制が組みあがります。そして、翌年の前執政官(プロコンスル)としての権利である属州総督のしての任地が北伊ガリア、イリリア(現スロベニア方面)、南仏ガリアの3属州となります。紀元前58年、カエサルの『ガリア戦記』が始まります。 『ガリア戦記』は、前置きも導入部も何もなく、いきなり次の一句からはじまる。「ガリアは、そのすべてをふくめて、3つに分かれる。第一は、ベルガエ人の住む地方、第二は、アクィターニア人の住む地方、第三は、彼らの呼び方ならばケルト、われわれの呼び名ならば、ガリア人が住む地方である。・・・ (カエサル著 近山金次訳「ガリア戦記」の記述 ガリアは全部で3つにわかれ、その一つにはベルガエ人、二にはアクィターニー人、三にはその仲間の言葉でケルタエ人、ローマでガリー人と呼んでいるものが住む。どれも互いに言葉と制度と法律がちがう。ガリー人はガルンナ河でアクィーターニ人から、マトロナ河とセークァナ河でベルガエ人からわかれる。なかで最も強いのはベルガエ人であるが、その人々はブローウィンキアの文化教養から遠くはられているし、商人もめったにゆききしないから心を軟弱にするものが入らないのと、レーヌス河のむこうのゲルマーニーに近いのでそれと絶えず戦っているためである。同じ理由でヘルウェティー族も他のガリー人にくらべれば武勇がすぐれ、毎日のようにゲルマーニー人と争い、自分の領地で敵を防いだり、敵の領地に入って戦ったりしている。・・・) 『ガリア戦記』の冒頭にづづく文章で、カエサルは、ローマにとってのガリア問題は、彼がそれを担当とすることになる紀元前58年に始まった問題ではなく、その3年前に兆候が見えていたことであると説明している。 カエサルがガリアと呼んだ地方は、ライン河を境にして西方に広がる地方なので、現代では、南仏を除いたフランス全土、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダの南部、ドイツの西部、そしてスイスまでふくむ広大な一帯である。つまり後代の西ヨーロッパである。 紀元前59年、今のスイス地方に住んでいたヘルヴェティ族の西方への大移動に伴う混乱によってガリア戦争は始まります。ガリア人はライン川の東に住むゲルマン人の進入に常に脅かされていたのです。 紀元前52年、カエサル48歳までの7年間、2度のブリタニア侵攻を含めてガリアを転戦。この年に全ガリアの反乱をアレシテの決戦で破り、一応の決着をみます。ガリア地区を制圧したわけです。この年までの『ガリア戦記』はカエサルが書いたものですが、翌前51年は戦後処理でこの年の『ガリア戦記』はカエサルの秘書官であったヒルティウスが書いたものです。 カエサルの評判に寡頭政体の危機を感じた元老院はポンペイウスを引き込み、カエサルの押さえ込みに懸命になります。紀元前49年元老院は「元老院最後勧告」(カエサルはこの「勧告」が裁判などの手続き無しに従わない者を死刑執行をするものであり、元老院の越権行為として、すでに反対を表明していた。)を可決し、ローマの国賊としてしまいます。ここでカエサルは彼の軍団を連れてルビコン川を渡るのです。 ・・・しかし、カエサルは生涯、自分の考えに忠実に生きることを自ら課した男でもある。それは、ローマの国体の改造であり、ローマ世界に新秩序の樹立であった。ルビコンを越えなければ、「元老院最後勧告」に屈して軍団を手離せば、内戦は回避されるだろうが新秩序の樹立は夢に終わる。それでは、50年を生きてきた甲斐がない。甲斐のない人生を生きてきたと認めさせられるのでは、彼の誇りが許さなかった。しかも、名誉はすでに汚されていた。まるでガリア戦役などなかったとでもいうふうに、「元老院最後通告」に服さなければ共同体の敵、国家の敵、国賊と見なすと宣告されたことで、すでに充分に汚されていたのである。・・・・ ルビコン川の岸に立ったカエサルは、それをすぐには渡ろうとはしなかった。しばらくの間、無言で川岸に立ちつくしていた。従う第13軍団の兵士たちも、無言で彼らの最高司令官の背を見つめる。ようやく振り返ったカエサルは、近くに控える幕僚たちに言った。「ここを越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅」 そしてすぐ、自分を見つめる兵士たちに向かい、迷いを振り切るかのように大声で叫んだ。 「進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」 兵士たちも、いっせいに雄叫びで応じた。そして、先頭で馬を駆けるカエサルにつづいて、一団となってルビコンを渡った。紀元前49年1月12日、カエサル、50歳と6ヶ月の朝であった。 |
2010年2月26日 昨日、まだ2月だとゆうのに4月中旬を思わせる陽気に誘われて、「古代カルタゴとローマ展」を鑑賞がてら、西国三十三ヶ所の第十八番「六角堂」・第十九番「革堂(行願寺)」を訪ねました。もちろん嫁さんとです。お寺参りは「京都の旅」でページを作りたいと考えていますので、ここでは、カルタゴ展に触れたいと思います。 塩野七生氏の「ローマ人の物語」を読み続けてこの作者近況欄で紹介してきています。特に、カルタゴとローマの戦である「ハンニバル戦役」はカエサルの「ガリア戦記」とともに大変興味深い出来事です。こんな時、京都文化博物館で上記展示会が開かれているということで、ワクワクしながら出掛けました。 展示構成は第一章 「地中海の女王カルタゴ」と第二章 「ローマに生きるカルタゴ」。紀元前149年、ローマとの戦により地上からその存在を消滅させられる前とカエサルにより計画され、アウグストゥスにより実行された再建後の精密で巨大なモザイクを中心にした文化財を鑑賞することが出来ました。 第一章では、主として墓所からの出土品を中心として、特別展示として、ポエニ戦役当時のものと推定される金属製の鎧の前後2枚は実用品とはいえ、紀元前2,3世紀の製品とは思えない精密性を有してます。そして、当時の立派な金貨。第二章では、巨大なモザイク画 特に、兎狩りの一部始終を連作した作品に驚かされました。スマートな姿のグレーハウンドが猟犬として活躍している姿までもがモザイクで描かれているのです。また、ポスターにも使用されている浴室の女神像も見事なものです。 カルタゴの歴史については、今一度この欄で触れてみたいと重います。「京都の旅」はこれからです。 |
2010年3月7日 「ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後上・中」 18日のパルティア遠征を目前に控えたカエサルが紀元前44年3月15日、身の安全を保障した「紳士協定」に署名している14人の元老院議員に暗殺されるまでをまとめてみます。 紀元前49年1月12日、「賽は投げられた」としてルビコンを渡ったカエザルの行動についての書き出しです。 「ルビコン」直後 ルビコン川を渡ってから国境の町リミニまでは、ほぼ直線で15キロしかない。時速5キロのローマ軍団の行軍速度では、午前10時には到着していただろう。国境の町といってもリミニは、すでに150年も昔からローマ化が進んでいる北伊属州と本国ローマをへだてる国境の町である。ローマの中央政府はここに、1個大隊(600兵)規模の警備隊すら置いていなかった。このリミニに、カエサルと彼に従う大13軍団は、何の抵抗も受けずに入城する。この町には、現職の護民官であるために国境外に出ることができないアントニウスともう一人の護民官カシウスが待っていた。アントニウスとともに首都を脱したクリオのほうは、1元老院議員であるとことからこの種の制限はなく、ラヴェンナにいたカエサルのものにいち早くゆくこともでき、それゆえカエサルに従ってルビコンもともに越えたにちがいない。 リミニへの無血入城を果たしたとはいえ、カエサルの手元には、第13軍団の10個大隊、それもカエサルは欠員補充をしないので定員6千を大幅にわる4千5百前後の兵力しかなかった。この程度の兵力では、しかも戦闘に不向きな真冬に、国法破りにもなるルビコン越えなどという暴挙には出ないだろうというのが、ポンペイウスと元老院派の予測であったのだ。だが、その予測をくつがえす行為にでたカエサルは、それだけに、国法を破った後の行動には迷いがなかった。 1月7日、元老院は元老院最終勧告とポンペイウスに対する無制限の大権を授与する法案を可決していたことから、カエサルは三頭政治の仲間であったポンペイウスとの全面国内戦争に入ります。 17日、ポンペイウス、キケロ、執政官マルケルス、レントゥルス、ローマを脱出。 3月17日、ポンペイウス、ブリンディシの港からギリシャへ向かう。 4月1日、カエサル、ローマ城壁外での元老院会議に出席。 4月7日、カエサル、ポンペイウス勢力下のスペイン属州制覇に向かう。 12月2日、スペインを平定したカエサルはローマに帰還。独裁官に指名される。 前48年、1月4日、ブリンディシを出港したカエサル、翌日ギリシャ西岸に上陸。 8月9日、ファルサルスの会戦で、ポンペイウス軍に完勝。ポンペイウスはエーゲ海そしてエジプトへ逃れる。 9月28日、ポンペイウス、アレキサンドリアで殺害される。 前47年、3月27日、アレキサンドリアに入城。 6月末、小アジアに上陸し、カッパドキア地方のゼラでファルナケスを一蹴。(「来た、見た、勝った」) 9月末、ブリンディシに帰着。ローマに凱旋し、5年(次いで10年9任期の独裁官に任命される。 12月、北アフリカ属州のポンペイウス派制圧に向かう。 前46年、7月25日、ローマに帰還。8月5日から4回の凱旋式を挙行。改革に着手。ユリウス暦(太陽暦)を採用し、よく45年1月1日から実施。国立造幣所を開設し、造幣権を元老院から移す。10年任期の独裁官に任命される。 前45年 スペインに出撃し、3月17日、ムンダの会戦でポンペイウス派を破る。パクス・ロマーナの確立、民生の充実、帝政化を企画して全面改革に着手。 それまでの カエサルの足跡 です。 「歴史はときに、突然一人の人物の中に自らを凝縮し、世界はその後、この人の指し示した方向に向かうといったことを好むものである。これらの偉大な個人においては、普遍と特殊、留まるものと動くものとが、一人の人格に集約されている。彼らは、国家や宗教や文化や社会危機を、体現する存在なのである。・・・・ 危機にあっては、既成のものと新しいものとが交じり合って一つになり、偉大な個人の内において頂点に達する。これら偉人たちの存在は、世界史的に謎である」 ブルクハルト『世界史についての諸考察』より 塩野さんが文中に挿入してある一文です。カエサルの偉大さを表現するものでしょうか? 国家改造 タブソスの会戦に勝利して旧ポンペイウス軍を一掃し、アフリカを後にした紀元前46年4月をもって、前49年1月12日にルビコンを渡ることではじまった内戦は終わったとカエサルは考えたのではないかと思う。(前45年のスペインへの侵攻はスペイン人との戦いであったとおもっている?)だが、ポンペイウス派との抗争は、「元老院体制派」と「反元老院派」と抗争であったのである。・・・・・ローマ独自の共和制とは・・・行政を担当する人の多くが元老院に議席をもつ人々なので、寡頭政治(オリガルキア)とよばれている。・・・・カエサルは、これからのローマにとっては、元老院主導のローマ型共和制よりも、帝政が適していると考えた。民主制が、それが実施される領域の拡大につれて機能しがたくなるのと似て、寡頭制も、地理的な事情に無縁ではありえないのである。広大な領地の統治が機能的に成されるには、何よりもまず効率性が求められる。・・・ カエサルの特権 紀元前45年から前44年にかけて、五十五歳のユリウス・カエサルに元老院と市民集会が与えた栄誉と権力は、具体的には次の形をとっていた。1、これまで四百五十年間存続してきた共和政体では、六ヶ月と任期が制限されていた独裁官に、この官位に認められた権力はそのままで、任期のみ無制限とした「終身独裁官」(ディクタトール・ペルペトウァ)への就任。2、カエサルが兼務も可能と思った年ならば、執政官(コンスル)との兼務も可とする。3、従来は戦勝後に兵士たちが勝利の将軍に向かって呼びかける敬称であった「インペラトール」を、称号として常時用いる権利。4、「国家の父」(パーテル・パトリアエ)の称号をい受ける栄誉。市民たちは、ローマの建国者ロムルスに対し、カエサルを、ローマの二度目の建国者と呼んでいたのである。・・・・ 帝政は、事実上、成ったのであった。 カエサルはパクス・ロマーナの確立、民生の充実、帝政を企図しての全面改革をすすめます。その改革に対しては政敵であり友人でもある元老院体制派の重鎮、キケロでさえも納得せざるを得ないものであったようですが、暗殺者たちにはそれぞれに自分なりに暗殺実行の理由があったのでしょう。 3月15日の元老院会議は、18日のパルティア遠征出発を直前にしていたカエサルにとっては、妻が悪夢で眠れなかったくらいでは欠席を許されない、重要な会議であった。遠征で留守する二年間にの、本国と各属州の防衛と統治の責任者を公表する、最後の機会であったからだ。だが、カエサルにとっての最後の機会は、陰謀者たちにとっても最後の機会であったのである。 |
2010年3月8日 「ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後 下巻」は「カエサルの遺言状」がガリア戦役の時の部下でありこの時の執政官で、カエサル亡き後最高高位者であったアントニウスの見守る中、カエサルの遺体の前で開封され、この遺言の書かれた内容が実現されるまでの物語となります。 日付は、紀元前45年9月15日、六ヶ月前に書かれた遺言状だった。 1、カエサル所有の資産の四分の三は、ガイウス・オクタヴィウスとアティアの息子、オクタヴィアヌスに遺す。 2、残りの四分の一は、ルキウス・ピナリウスとクイントゥス・ペディウスで二分される。 3、第一相続人オクタヴィアヌスが相続を辞退した場合の相続権は、デキムス・ブルータスに帰す。 4、オクタヴィアヌスが相続した場合の遺言執行責任者として、デキムス・ブルータスとマルクス・アントニウスを指名する。両人は、カエサルの死後に妻カルプルニアに子が生まれた場合、その子の後見人にも指名する。 5、第一相続人オクタヴィアヌスは、相続した時点でカエサルの養子となり、息子となった彼はカエサルの名を継ぐ。 6、首都在住のローマ市民には、一人につき三百セステルティウスずつを贈り、テヴェレ西岸のカエサル所有の庭園も、市民達に寄贈する。このことの実行者は、第一相続人とする。 オクタヴィアヌスは、カエサル暗殺当時は18歳と6ヶ月。・・・「騎士階級」出身ながら元老院議員は務めたガイウス・オクタヴィアヌスと、カエサルの妹の娘であるアティアとの間に生まれている。・・・カエサルの妹の孫にあたるこの若者にとってはカエサルは、大伯父にあたった。ピナリウスとペディウスの二人は、カエサルの姉の息子だから甥になる。・・・オクタヴィアヌスを養子にし、彼にユリウス・カエサルの名を与えることで、後継者を指名した政治上の遺言状なのであった。 これが開封された結果、誰にもまして失望したのは、アントニウスとクレオパトラの二人であったろう。・・・ ここで、暗殺者達の名と経歴を整理しておきます。文中の抜粋です。 マルクス・ブルータス・・・母セルヴィーリアは周囲が認めるカエサルの愛人で、その母のために歯向かってくるこのブルータスを大事にしていた。妻ボルキアは、反カエサルで一生を燃やした小カトーの娘。40歳か41歳 カシウス・ロンジヌス・・・「3月15日」の真の首謀者。年齢はブルータスと同じ。ポンペイウス派としてカエサルと戦い、敗れたがその後は軍団長に任命され、カエサル派となっていると思われていた。 この二人を含め「カエサルに許された旧ポンペイウス派」 9人。 トゥリウス・キンブロ・・・カエサルの推挙で元老院入りを果たした、いわゆるカエサル・シンパの一人。 ガイウス・トレボニウス・・・ガリア戦役時代の軍団長の一人。 デキムス・ブルータス・・・ガリア戦役時代のカエサル傘下の幕僚で、カエサルが最も信頼していた部下の一人。遺言状で第一相続人が辞退した場合の相続人に指名している。当時40歳。「ブルータス、お前もか」の相手は、マルクスでは無く、このデキムスであろうといわれているようで、ローマ市民の怒りも当然彼に集中した。 スルピチウス・ガルバー・・・ガリア戦役、内戦時代もともにカエサル軍の軍団長。 ミヌチウス・バジルス・・・ガリア戦役、内戦時代ともにカエサル軍の軍団長。カエサル派でありながら、キケロの弟子を自認していた。 以上5人がカエサル派のはずであり、4人は共に戦役を戦い抜いた仲間と思われていました。その彼らがカエサルに刃を向けた訳を、塩野氏は以下のように記しています。 私には、カエサルの言った次の一句で、なぜ、への答えを出すしかないように思われる。「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない」 カエサル殺害に直接手をくだしたこれらの人々の動機を追及することも、あまり意味のないことではないだろうか。個々の真意はどうあれ、この14人がカエサルに剣を向けた動機は、王政への移行を阻止し、元老院主導の共和制にもどすことにあった。 カエサルの考えていたのは「帝政」という新体制であったが、それを「見たいと欲しない」彼らが見ていたのは、あくまでも初期のローマの政体であり、当時の他の君主国の政体でもあった「王政」であったからだ。王政がカエサルの究極の意図ならば、それを実現する前につぶさねばならぬ。これで14人は一致したのである。 だが、生前のカエサルは、次のようなことも言っている。「どれほど悪い結果に終わってことでも、それがはじめられたそもそもの動機は善意によるものであった」 カエサルは自分の考え{寛容」(クレメンティア)に忠実に行動し、「マリウスとスッラの時代」のような内戦の結果による反対派殲滅を行うことをしなかった。しかし、アントニウス・オクダヴィアヌス・レプドゥスによる三頭政治では「処罰者名簿」が復活し、スッラ式の恐怖政治が復活します。300人の元老院議員、2千人の「騎士階級」(経済界)にのぼる名簿の筆頭にキケロの名前が記されており、反対派元老院議員など130人が国家の敵として即死刑と決まり、その他のものは財産没収となりました。 カエサルが殺害されたことに対する復讐では一致して行動した、第一人者アントニウスと遺言でカエサルの後継者とされたオクタヴィアヌスは、主導権争いの戦いに突入します。そして、最終的にはエジプトのクレオパトラとアントニウスの連合軍対オクタヴィアヌスの戦いで決着し、エジプトはプトレマイオス王朝が滅びオクタヴィアヌスの領地となります。紀元前30年、ここで、ローマの帝政時代が始まります。この巻(ユリウス・カエサル)のエピローグです。 ローマに凱旋したオクタヴィアヌスは、首都を3日にわたって熱狂させた、壮麗な凱旋式を挙行した。しかし、三十三歳の勝利者に向けられた市民の熱狂は、彼が成しとげた勝利に対するよりも、ついに内戦が終わったことへの歓喜に発していた。オクタヴィアヌスにもそれがわかっていた。彼はヤヌス神殿の扉を閉めさせる。・・・・紀元前44年3月15日に、肉体としてのカエサルは死んだ。しかし、カエサルがほんとに死んだのは。紀元前30年になってからである。この年からはじめて、オクタヴィアヌスの時代がはじまる。いや、もはや、アウグストゥスと呼んでよいであろう。初代皇帝アウグストゥスによって、カエサルが打倒した共和制ローマに代わる、帝政ローマがはじまるからであった。・・・・・ |
2010年3月19日 「ローマ人の物語 パクス・ロマーナ(ローマによる平和)上・中・下」は「アウグストゥス(オクタヴィアヌス)」が「ユリウス・カエサル」の意思を継ぎ、共和制を尊重する振りをすることで元老院との確執を避けながら、実質帝政への足場を固めてゆく過程の物語です。広大になったローマの平和を維持するには、どうしても素早い、そして強力な意志の決定が必要となったのです。以下、年表方式でアウグストゥスの施策をたどります。 紀元前29年8月 オクタヴィアヌス(33歳)壮麗な凱旋式を行い、ローマ市民は熱狂する。9月 神君カエサルに捧げる神殿をフォロ・ロマーノに建てると公表。軍事力を大幅削減。(最終的には、50万人を16万8千人へ) 紀元前28年 48年ぶりの国勢調査を実施。元老院を再編成。千名を越えていた議員を600名に戻す。 紀元前27年1月13日 共和政体への復帰を宣言。 1月16日 元老院はオクダヴィアヌスに尊称「アウグストゥス」を贈ると決議。「内閣」(第一人者の補佐機関)を設置。(紀元前27年は、当時の多くのローマ人にとっては、共和制への復帰を祝った年であった。だが、この同じ年が、後世から、と言ってもわずか半世紀程度の後世から見れば、帝政が本格的にはじまった年になるのである。この年から、オクタヴィアヌスの正式名称は次のように変わる。 「インペラトール・ユリウス・カエサル・アウグストゥス」(Imperator Julius Caesar Augusutus) 紀元前26年 スペインへ 紀元前24年 ローマ世界の西半分の再編成を終え、帰還。 紀元前23年 アグリッパ(軍事面を担当した右腕)と共に執政官を辞任し、以後は毎年市民集会で自由に選出と宣言。「護民官特権」授与を希望し、受け入れられる。 通貨改革に着手。 紀元前22年 東方再編成行はじまり、まずシチリアへ。 紀元前21年 ギリシャに滞在。5月12日、ローマ・パルティア間講和の調印式。 紀元前19年 10月21日 ローマに帰還。 紀元前18年 「ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法」「ユリウス正式婚姻法」を制定。(アウグストゥス、45歳 独身と少子傾向を危惧。) 紀元前13年 「平和の祭壇」建設に着手。レピドゥス没、代わって最高神祇官へ。 紀元前12年 アグリッパ、死す。ローマ軍、ゲルマニアに侵攻開始。 紀元前9年 「平和の祭壇」完成。エルベ=ドナウ防衛線成立。 紀元前8年 マエケナス(外交面を担当した左腕)、死す。 紀元前6年 ティベリウス、ロードス島へひきこもる。 紀元前1年 元老院、アウグストゥスに「国家の父」の称号を贈る。 紀元4年 ティベリウスを後継者に決める。その後継者にゲルマニクスを指名。ティベリウス、ゲルマニア戦線に復帰。エルベを除く重要な河は、すべて制圧。 紀元13年 3年間ゲルマン戦線にいつづけたティベリウスに「最高司令権」を授与。以後のゲルマン戦線はゲルマニクスに担当させる。 紀元14年 共同統治者ティベリウスの連名で国政調査。「業績録」を書き上げ、ナポリに滞在中の8月19日、没す。 死の少し前のアウグストゥスが、ナポリ湾の周遊中に立ち寄ったポッツォーリの出来事である。エジプトのアレクサンドリアから着いたばかりの商船の乗客や船乗りたちが、近くに錨をおろしている船の上で休んでいた老皇帝を認めたのだった。船上から人々は、まるで合唱するかのように、声をそろえて皇帝に向かって叫んだ。「あなたのおかげです、われわれの生活が成り立つのも。あなたのおかげです、わたしたちが安全に旅をできるのも。あなたのおかげです、われわれが自由で平和に生きていけるのも」 予期しなかった人々から捧げられたこの賛辞は、老いたアウグストゥスを心の底から幸福にした。彼の指示で、その人々の全員に、金貨40枚ずつが贈られた。ただし、金貨の使い道には条件がついていた。エジプトの物産を購入してた後で売ること、である。老いてもなおアウグストゥスは、現実的な男でありつづけたのだ。物産が自由に流通してこそ、帝国全体の経済力も向上し生活水準も向上するのである。そして、それを可能にするのが、「平和(パクス)」なのであった。 |
2010年4月10日 「ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち 一 二 三 四巻」を読み終えました。後世に「ユリウス=クラウディウス朝」と称せられるアウグストゥス・ティベリウス・カリグラ・クラウディウス・ネロの内で、創始者アウグストゥスを除いた4人の皇帝についての記述です。以下、末尾に記された年表です。 紀元14年 9月17日 ティベリウス、「元老院の第一人者」(プリンチェプス)(55歳)となり第二代皇帝に。 ティベリウスはアウグストゥスとは血のつながりは無く、名門のクラウディウス一門の直系でアウグストゥスの養子となっています。アウグストゥスは息子のガイウス、ルキウス亡き後、姉の孫に当たるゲルマニクスへの皇位継承を願い、チィベリウスにゲルマニクスを養子にさせています。ローマ帝国の最高統治者には”創業者”である自分の血を引く者が就くとした意志を示したわけです。 紀元19年 10月10日 ゲルマニクス死去。(歴史家タキトゥスはティベリウスの密命をうけたシリア属州総督ピソによる毒殺であったとしているが、現在の定説はマラリアによる死となっているようです。) 紀元21年 ティベリウス、執政官となった息子ドゥルーススに執政をまかせ、ナポリ近郊で一年を過ごす。 紀元23年 ドゥルースス急死。 紀元37年 3月16日 ナポリ湾西端のミセーノ岬のヴィラでティベリウス死去。77歳。 3月18日 元老院、ゲルマニクスの三男カリグラ(小さな軍靴の意味)にすべての権限を付与する決議を行い、カリグラが第三代皇帝に。 紀元40年 ユダヤでギリシャ人とユダヤ人の対立激化。カリグラに捧げられた祭壇をユダヤ人が粉砕、カリグラはシリア総督に対し、イェルサレムの大神殿にユピテル神像を立てるよう命ずる。 紀元41年 1月24日 カリグラ、近衛軍団大隊長のカシウス・ケレアとコルネリウス・サビヌスによって殺害される。38歳。同日、元老院はクラウディウスにカリグラの有したすべての権限を付与する決議を行い、クラウディウスが第四代皇帝に。クラウディウスはティベリウスの甥で、ゲルマニクスの弟、カリグラの叔父。紀元前10年現フランスのリヨンで生まれた。皇帝としての公式名は、ティベリウス・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス。 紀元48年 クラウディウス、国勢調査を実施。ローマ市民権所有者数は約598万人。 紀元50年 アグリッピーナ(カリグラの妹)、息子のドミティウスをクラウディウスの養子に。これ以降、ドミティウスの名はネロ・クラウディウスに。 紀元54年 10月13日 クラウディウス死去、63歳。(アグリッピーナによる毒殺説)。同日、近衛軍団から「インペラトール」の呼びかけを受ける。元老院もネロへの全権付与を決議、ネロ、第五代皇帝に。16歳。 紀元59年 3月21日 ネロ、母アグリッピーナを殺害。 紀元61年 妻のオクタヴィア(クラウディウスの娘)を離婚し、流刑に処したうえ殺害。 紀元63年 南イタリアのポンペイで地震発生。 紀元64年 ネロ、ナポリの野外劇場で歌手デビゥー。7月18日夜、大競技場の観客席下の店から出火。9日間にわたって燃え、ローマの広範囲を焼く大火となる。ネロは消火活動、被災者救済、火災後の再建の陣頭指揮をとる。放火罪、「人類全体への憎悪の罪」などでキリスト教徒を逮捕、処刑するも、「ネロが放火を命じた」という噂は消えず。 紀元65年 年末 20〜30人が加わりネロ暗殺を謀った「ピソの陰謀」発覚。関係者は自死もしくは処刑。ネロの家庭教師で長年の参謀役であったセネカも疑われて自死。 紀元66年 「ベネヴェントの陰謀」が発覚。青年将校は全員処刑。ネロ、歌手としての腕試しのためギリシャ旅行へ出発。 紀元68年 1月、ネロ、ギリシャからイタリアへ帰還、「凱旋式」を挙行。 元老院、スペインで決起したガルバを「国家の敵」とすることを可決。 ローマ市民、「食」の保障に対する不備ときっかけに、反ネロで立ち上がる。 元老院、ネロを「国家の敵」とする宣告を可決。 近衛軍団、ガルバを「皇帝(インペラトール)」に推挙すると決定。 6月9日、ネロ、ローマ郊外の隠れ家で自死。 「悪名高き皇帝たち 四」の最後の部分を抜粋します。 このネロを最後に、アウグストゥスがはじめた、「ユリウス・クラウディウス朝」は崩壊した。百年つづいた後の崩壊である。だがそれは、単なる皇統の断絶というよりも、アウグストゥスが創造した、「デリケートなフィクション」としての帝政の崩壊を意味したと、私には思える。 カリグラ帝殺害のときは、皇統、つまりアウグストゥスの血、をいくらかでも引く者を探し出して皇位に就けることに、元老院も市民も、反撥どころか賛意を示した。クラウディウスの登位が、スムーズに行われたのはそれゆえである。登位には近衛軍団による剣の脅しが効あったのは確かだが、それだけで、元老院と市民と13年間も抑えつづけることはできない。クラウディウスの登位は、現代風に言えばコンセンサスを得ることができたからである。 ネロには、カリグラ同様に子がなかった。しかし、アウグストゥスの血を引く者は、探そうと思えば探せなかったわけではない。・・・・・・・ ・・・しかし、アウグストゥスの「血」と訣別したローマ人も、アウグストゥスの創設した帝政とは訣別しなかったのである。カエサルが青写真を描き、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが磐石にし、クラウディウスが手直しをほどこした帝政は、心情的には共和主義者であったタキトゥスですら、帝国の現状に適応した政体、とせざるをえなかったほどに機能していたからだ。 ローマ人は、イデオロギーの民ではなかった。現実と闘う意味においての、リアリストの集団であった。紀元68年夏からの一年半の混迷も、政体模索の混迷ではない。今後とも帝政で行くことでは、コンセンサスが成り立っている。問題は、誰を「一人の統治」の当事者にするか、であったのだ。だがそれゆえに、アウグストゥスの苦労の結果であった帝政におけるチェック機能の問題は、未解決で残されることになった。いや、チェック機能としての皇帝暗殺が、正当化されるようになったとするべきかもしてない。 |
2010年4月14日 「ローマ人の物語 危機と克服 上・中・下」を読んでいます。その中巻 皇帝ヴェスパシアヌス 教育と医療の中で医療に関してのローマ人の考え方(彼らの死生観)について以下のように記しています。 医療に関してのローマ人の考え方は、彼らの死生観に起因しいていたのではないかた思う。帝国という共同体の平和の維持のために負傷した者には、完璧な治療が保障される。しかし、生命、日本で言う寿命、は甘受する。こうなると病気の治療への努力も、直る可能性があるがぎり、となりはしないか。ローマの皇帝のただ一人といえども、自らの延命に狂奔した人はいない。それどころか、社会的には高い地位にいある高齢者が病に倒れ、もはや寿命と悟った場合に、それ以上の治療を拒否し、食を断ち、自死を選んだ例は少なくない。ローマ人は、自らの生命をいかなる手段に訴えても延長しようとする考えには無縁であったのだ。社会的にも知的にも高いローマ人になればなるほど、頭脳的にも精神的にも肉体的にも、消耗しつくした後でなお生延びるのを嫌ったのである。だからこそ、生命ある間を存分に生きる重要さを説いた、ストア哲学の教えが浸透したのではないかと思う。 それに、ギリシャの医療の祖ヒポクラテスの教えも生きつづけていた。病気になって治療するよりも、もともとからある身体の抵抗力を高めることのほうを重視した考えである。ローマ皇帝たちが、大病院よりも大浴場や水道の建設に熱心であったのも、この考えの帰結かと思われる。 身体を清潔に保つ週間は、免疫力の向上につながる。食を保障するのは、体力を維持することで病気をと遠ざける役に立つ。ヴェスバシアヌス時代のローマにあった公衆浴場としては、アウグストゥス時代にアグリッパが寄贈したものと、皇帝ネロの寄贈による2箇所があった。この二つに加え、ヴェシバシアヌスの後を継いで皇帝になるティトゥスも、コロッセウムを眼下に見る高台に、三つ目の大浴場を建設する。・・・・なるほどと肯けるローマ人の合理性では!!全体の読後感は近々に!!! |
2010年4月19日 「ローマ人の物語 危機と克服 上・中・下」を読み終えました。ここに書かれている内容は、ローマ史のなかでは、初めて知ることばかりです。皇帝ネロは、その後、キリスト教がヨーロッパを席巻するに伴い、より一層悪名をとどろかしていきますが、その後のここに記されている皇帝は、その名前さえも我々の知識の中には入ってはおりません。 この時代のローマ帝国版図はこのようになっています。 上巻では、皇帝ガルバ(在位 紀元68年6月18日ー69年1月15日)、皇帝オトー(在位 紀元69年1月15日ー4月15日)、皇帝ヴィテリウス(在位 紀元69年4月16日ー12月20日)の短命で悲劇的な最後を遂げる3皇帝についての記述。 中巻では、ユダヤ戦役と皇帝ヴェスバシアヌス(在位 紀元69年12月21日ー79年6月24日)の治世。 下巻では、皇帝ティトゥス(在位 紀元79年6月24日ー81年9月13日)、皇帝ドミティアヌス(在位 紀元81年9月14日ー96年9月18日)、皇帝ネルヴァ(在位 紀元96年9月19日ー98年1月27日)の治世。 上巻書き出しの、『ネロの死が、ローマ人に突きつけた問題』 紀元68年6月9日、皇帝ネロが死んだ。スペイン駐屯の軍団によって皇帝に推挙されたガルバが、軍団を率いてローマに進軍してくると聴いただけで元老院はガルバを「第一人者」(プリンチェプス)と認め、ローマ市民も、そっぽを向くというやり方にしろネロを見離したからである。追いつめられたネロは、三十歳の若さで自らの胸を刺すしかなかった。ローマ帝国の2大主権者である元老院と市民の双方から、不信任を突きつけられたということであった。軍団兵も近衛軍の兵士も、ローマ市民権所有者であることが資格の第一条件であった以上、この人々もまた立派な「有権者」であったのだ。 しかし、ネロの排除には成功したものの、元老院も市民も、事態の正確な認識が充分ではなかったように思う。ネロに代わってガルバが皇帝になれば、ローマ帝国の統治は支障なくつづくと思い込んでいたらしい。だが、事態はそれほど簡単ではなかったのである。 人類は現代に至るまであらゆる形の政体、王政、貴族政、民主政から果ては共産主義政体まで考え出し実行もしてきたが、統治する者と統治される者の二分離の解消にはついに成功しなかった。解消を夢見た人は多かったが、それはユートピアであって、現実の人間社会の運営には適していなかったからである。 となれば、政体が何であるかには関係なく、統治者と被統治者の二分離は存続するということである。存続せざるをえないのが現実である以上、被統治者は統治者に、次の三条件を求めたのだ。 統治するうえでの、正当性と権威と力量である。 アウグストゥスが創設したローマ帝政では、「正当性」とは元老院と市民の承認であり、「権威」とはアウグストゥスの血を引くということであり、「力量」とは、ローマ帝国皇帝にとっての二大責務である安全と食の保障をはじめとする、帝国運営上の諸事を遂行していくに適した能力を意味した。「権威」はもっていたにもかかわらず、「力量」を欠くと判断されたがゆえに「正当性」を失ったことが、ネロの運命を決定したのである。そして、ネロ以降の皇帝たちも、右の三条件のすべてを満たすことを求められた点では、ネロ以前の皇帝たちとまったく変わりはないのだった。それどころか、正当性と能力に加えてアウグストゥスの「血」に代わりうる別の権威まで創り出さねばならないのだから、問題はよし深刻であったのだ。 まず、皇帝に名乗りをあげたスペイン北東部の属州総督ガルバが、誰よりも事態の深刻さを認識していなかった。・・・・・ 紀元68年 元老院、ネロを「国家の敵」とする宣言を可決。 近衛軍団、ガルバを「皇帝(インペラトール)」に推挙すると決定。セルヴィウス・スルビキウス・ガルバは首都ローマの上流階級の生まれ。72歳。当時は皇帝管理の属州の一つスペイン北東部の総督。 6月9日、ネロ自死、30歳。 紀元69年 1月上旬、ガルバ、ピソ(ローマの名門貴族。「ピソの陰謀」の一門)を後継者に指名。 1月15日、オトーの命によりガルバが暗殺され、同時にヴィニウス(この年のガルバと並ぶ執政官)とピソも殺される。オトー、近衛軍団の支持を受け、皇帝に。元老院もこれを承認。 ヴィテリウス派のゲルマニア軍団総勢十万が三軍に分かれて南下開始。4月15日、第一次ベドリアクム戦。ヴィテリウス軍、オトー軍を下す。オトー自死、37歳。 4月16日、元老院ヴィテリウスの「第一人者」登位を承認。 7月18日、ヴィテリウスと配下の武装兵6万、ローマ入城。(ローマ帝国では、共和政時代からすでに、その首都であるローマの内部には武装した軍隊は入れないという決まりがあった。) (東方属州では)6月 シリア属州総督ムキアヌス、「ドナウ軍団」から皇帝への推挙打診を受け、「ヴェスパシアヌス」(ユダヤ方面司令官で、ユダヤ戦役中。)を推す。 6月末、ヴェスバシアヌス、ムキアヌス、アレクサンドロス(ユダヤ人・エジプト長官)の三者、ベイルートで会談。三者は、兵士、兵器、軍資金の確保を進める。パルティアとの友好関係も再確認。帝国東方の全軍と同盟諸国、反ヴィテリウスの姿勢を明示。 ムキアヌスは軍勢を率いてイタリアへ向かい、ヴェスバシアヌスはエジプトで待機。アレクサンドリアはユダヤ戦役準備のためユダヤへ向かうティトゥス(ヴェスバシアヌスの息子)に同行。 10月24日、第二次ベドリアクム戦。ヴェスバシアヌス派の「ライン軍団」とヴェスバシアヌス派の「ドナウ軍団」が激突。「ドナウ軍団」が勝利。 12月20日、ローマ市街戦。フォロ・ロマーノでヴィテリウス殺害される。54歳。 12月21日、ヴェスバシアヌスの統治、実質的に始まる。 12月下旬、ムキアヌス、ローマ入城。ヴェスバシアヌス皇帝法成立。 紀元70年春 1月1日、元老院、ヴェスバシアヌスを「第一人者」として承認。ティトゥス指揮のローマ軍、イェルサレム城壁前に布陣。イェルサレム攻防戦はじまる。9月26日、イェルサレム陥落。 紀元71年 ユダヤ戦役を終え凱旋したティトゥス、近衛軍団の長官に就任。ヴェスバシアヌス、コロッセウム建設に着手。 紀元73年 ヴェスバシアヌスとティトゥス、財務官に就任し国勢調査を実施。大幅な税収増加の道筋をつける。 紀元79年 6月24日、ヴェシバシアヌス死去。70歳。ティトゥス帝位に就く。 8月24日、ヴェスヴィオ火山大噴火、ポンペイ他が埋没。 紀元80年 ローマ都心部で大火。コロッセウム完成。 紀元82年 9月13日 ティトゥス死去。40歳。14日、弟のドミティアヌス、帝位に就く。 紀元83年 ドミティアヌス、ゲルマニア防壁の建設に着手。 紀元96年 ドミティアヌス暗殺される。44歳。 元老院、ネルヴァを皇帝として承認、ドミティアヌスを「記録抹殺刑」に処すことを決議。(「記録抹殺刑」、この刑にはネロも死後に処せられている。すべての業績の記録を抹殺される。もちろん銅像なども破壊されるため後世に残る物が少ない。) 紀元98年 トライアヌス、執政官に就任。1月27日、ネルヴァ死去。71歳。トライアヌス、帝位に就く。 下巻最後の部分「ローマの人事」に以下のように記されています。 盛者必衰は、歴史の理(ことわり)です。ローマ人の歴史もまた、この理の例外ではありえない。しかい、ローマ人の歴史を書いていると、盛者必衰を前にして感傷にひたるよりも、別のことを考えるようになる。それは、ローマ史とはリレー競争に似ている。という想いである。既成の指導者階級の機能が衰えてくると、必ず新しい人材が、ライン上でバトンタッチを待っているという感じだ。 権力者が権力を保持し続ける要因には、その人に代わりうる人物がいないからやむをえず続投してもらう、である場合が少なくない。言い換えれば、後継者難のおがけで、機能不調に陥った既成の支配階級でもあいかわらず権力を保持し続ける、という状態である。そしてこの結果は、衰退を止められなくなったあげくにやってくる、共同体そのものの崩壊だ。つまり、バトンタッチする者がいないために走りつづけ、ついにはトラック上で倒れて死ぬ、という図式である。 ローマの歴史は、これとは異なる道をたどったように思う。とはいえ、国家の運営が任務の国政と、体力を競うのが目的のリレー競争はやはりちがう。前者の場合では、次の走者は、今、現に走っている走者自身が選ばねばならない。権力には、後継者人事の決定権もふくまれているのだから。ローマの歴史がリレー競争に似ているのは、現に権力をもっている者が、自分に代わりうる者を積極的に登用し育成したところにある。 ヴェスパシアヌスが、ティベリウス門下の一人としてスタートしたことは知られている。トライアヌスは、父親はヴェスバシアヌスに登用されたが、彼自身はドミティアヌスに抜擢されたのであった。そして、ユリウス・カエサルは広く属州から人材を登用し、アウグストゥスは、騎士階級というローマ社会の第二階層を、帝国運営に活用したのである。いずれも、彼らの後のつづく資質をもつ人材を登用することで、リレー要員、つまり指導者層の育成につながったのだと、言えないであろうか。・・・・そして、結果ならば、ローマのリーダーたちは次世代のリーダー達の育成に成功したとするしかない。なにしろ今や、初の属州出身の皇帝の登場である。属州の人材の登用には誰よりも積極的であった、ユリウス・カエサルやクラウディウス帝がこれを知ったら、何と言ったであろうか、と考えてします。 |
2010年4月25日 気候が大不順で、いつまでも寒さがとれず、「いつ本当の春が来るのかなん」と思っていましたが、さくらは咲き、葉桜となりつつあります。季節はそれなりに移っているのでしょう。嫁さんの丹精による、家の花々も咲き始めました。 今年は『オオデマリ』が見事に咲きました。オオデマリ 1) 2) 昨年、春日大社の神苑で求めるてきた『オダマキ』も大きくなりました。 オダマキ 1) 2) シンビジューム類も。 1) 2) 「ローマ人の物語」は「危機と克服」上・中・下巻の後、「賢帝の世紀」上・中・下巻が貸し出されているため、「すべての道はローマに通ず」上・下巻を読んでいます。この巻はローマの王政・共和制・帝政時代を通じての道路・水道などインフラのについて整理して紹介しているものです。凱旋門やコロッシアム等の大競技場といった施設は別として、特に道路、橋、水道などのインフラの考え方は、現代人が学ばなくてはならないほどのものといえます。 ・・・ローマ街道とは、どのような経路を経て現実化され、維持されていたのであろうか。だだし話は、文字どうりの「動脈」であった、全長8万キロにもおよぶ幹線にかぎるとする。 1、 誰が立案したのか。 2、決定は、誰が下したのか。 3、建築費の財源は、どこに求めたのか。 4、誰が、実際の工事を行ったのか。 5、誰が、メインテナンスをふくめた完成後の運営を行ったのか。 6、そのための経費は、どこが負担していたのか。 7、使用料は。 その答えは 1、 その時期の最高位社 2、 元老院 3、 国庫 4、軍隊 5、 現代ならば、公共事業を担当する省庁の道路局か、でなけらば道路公団のような機関 6、 国か、ないしそれが通る地方の地方自治体 7、無料 ・・・・ ローマ史は、王政、共和制、帝政と進むが、街道や橋の話にかぎれば、共和制と帝政の時代に焦点をしぼればいい。それを軍事面で二分すれば、共和制時代は攻勢の時代、帝政は防御の時代と言えた。帝政時代になってローマの支配圏に組み入れられえた地方は、ブリタニアと呼ばれた現イングランドと、ダキアと呼ばれた現ルーマニアしかない。帝政ローマのモットーであった「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)が示すように、帝政移行後のローマは、征服を目的にした戦争をしなくなっていた。 ところが凱旋門とは、戦いに勝って帰国した将軍と兵士たちを迎えるために考案された、ローマ独自の建築様式である。・・・・かってこの人々の祖国への貢献を後世に伝える目的が凱旋門にあったのに、帝政時代の最高司令官に対しては、戦いの勝者でないという理由で凱旋門を捧げないというのでは、どうにも格好がつかないのである。・・・・これもまた、「パクス・ロマーナ」を政策化したアウグストゥスが先鞭をつけたことなのだが、街道や橋を建設した皇帝も凱旋門を贈られる資格があることとなったのだった。・・・ということでローマ帝国の全域にわたって、凱旋門が多く残されることとなったようです。 |
2010年5月21日 「ローマ人の物語 賢帝の世紀 上・中・下巻」を読みました。紀元98年から117年のトライアヌス帝、117年から138年のハドリアヌス帝、138年から161年のアントニヌス・ピウス帝の時代、同時代の人さえもが「黄金の世紀」と呼んだローマが最盛期を迎えたこの時の、3皇帝の治世が書かれています。 ダキアを征服し、帝国として最大版図を築き上げたトライアヌスについて以下に引用します。大変興味深い部分です。 ・・・いずれにしてもトライアヌスは、元老院の評価がすこぶる高い皇帝であった。元老院はこのトライアヌスに、それまでの皇帝の誰一人として受けたことのない称号を贈るのである。「Optimus Princepus」。意訳すれば「最高の第一人者」、意訳すれば「至高の皇帝」。トライアヌスは、はじめは辞退した。だが、結局は受ける。そしてこの一事は、ローマ人が考える理想の皇帝像とは何であったのか、を探るうえでも役に立つ。 ならば、ローマ人にとっての理想の皇帝は、キリスト教徒に対してはどう考えていたのか。また、法治国家を任ずるローマ帝国で、弁護士や検事を務めることで直接に法に関与した経験のあるプリニウスはキリスト教徒をどう見ていたのであろうか。「小プリニウスとトライアヌス帝との往復書簡」の中で、後世最も有名になった箇所へ、キリスト教徒の処遇をめぐって両者の応答の部分である。ちなみに属州総督(属州ビティニア総督)は、属州民に対しての司法権もあった。 「プリニウスより皇帝トライアヌスへ 主君よ、私が判断を下しかねた場合にはまずあなたのお考えを問うのがわたしのやり方ですが、それはあなたが他の誰よりも迷うわたしを導き、わたしの無知に光をあててくれるに適した方であるからです。・・・・第一に、告発された者でもキリスト教徒ではないと言明した者、または、わたしの一度目の尋問に際して神々に祈願し、あなたの像を敬った者、でなければキリストをののしった者のいずれも、無罪放免にすることにしました。このためにも法廷には、肖像とおれに捧げる香料に葡萄酒も用意させたのです。 第二は、検察官(デラトール)によって告発された者でも、はじめはキリスト教徒であることは認めても後で前言をひるがえした者、以前はキリスト教徒であったが今はそうでないローマ帝国の者、以前と言うのが三年であろうと二十年であろうと関係なく、その全員に無罪を言い渡したのです。とはいえこの部類に属す者の無罪放免の条件は、われわれの神々を敬いキリストの神々をののしることでしたが。・・・・」 トライアヌスよりプリニウスへ 親愛なるセクンドゥス、キリスト教徒として告発された者たちへのあなたの法的な対処は、まことに適切であった。なぜなら、このような問題を、帝国全体を律する規範で処理しょうとすること自体が無理な話だからである。(キリスト教が浸透しはじめていたのは東方で、紀元2世紀のこの時期にはまだ、帝国の西方にまではおよんでいなかった。このトライアヌス時代に殉教した司教が二人いる。一人はイェルサレム、もう一人はアンティオキアの司教である) キリスト教徒狩りのような、罪ある者とはいえ強いて追い求めるような行為はしてはならない。ただし、正式に告訴され自白した者は処罰されるばきである。・・・・」 同じ一神教でも、ローマへの反抗をくり返していたユダヤ教徒とちがって、キリスト教徒は、紀元70年のイェルサレム陥落を境にして、ユダヤ教徒たは一線を画すように変わっていた。深く静かに潜行するやり方を、より強めていたのである。とはいえ、多神教と一神教という、宗教よりも文明観の相違に起因するローマ帝国とキリスト教の対立は、ゆっくりと、しかし着実にはじまっていたのである。 紀元98年、皇帝ネルヴァの死により、トライアヌス第十三代皇帝に。 紀元101年 3月25日 トライアヌス、ローマを発ちダキアに向かう。第一次ダキア戦役開始。ローマの連戦連勝。 紀元102年 ダキアとの講和成立(第一次ダキア戦役終結)ダキアは事実上ローマの属国に。 紀元103年 ドナウ河に渡した「トライアヌス橋」が完成。 紀元105年 第二次ダキア戦役。ハドリアヌス、ボン駐留の第一ミネルヴァ軍団の軍団長として参戦。 紀元106年 春、ローマ軍がドナウ河を再渡河。ダキアに攻め入る。 夏、ダキアの首都サルミゼゲトゥーザ落城。ダキア王デケバロスは自害。一帯のダキア住民は強制的に北部辺境へ移住させられる。(第二次ダキア戦役終結)トライアヌス、ローマに凱旋。ダキアを属州とする。 紀元107年 トライアヌスの凱旋式が挙行される。ハドリアヌス、遠パンノニア属州の総督に任命される。 紀元113年 ダキア戦役を描いた「トライアヌスの円柱」(戦役の展開を描いた200メートルを越える長さの浮彫りがある円柱。114の場面が描かれている。)公開される。トライアヌス、アルメニアとパルティアの対立を機にパルティア遠征を決め、10月27日、ローマを発つ。 紀元115年 ユダヤ一帯で反乱が勃発。 紀元116年 この頃ローマ帝国の版図が最大となる。暮、ペルシャ湾まで達したトライアヌスが冬営のため再びアンティオキアまで戻ると、メソポタミアで一斉に反乱が起こる。 紀元117年 8月9日、トライアヌスが養子に迎えた旨、ハドリアヌスに知らされる。同日、キリキアのセリヌスで、皇帝トライアヌス死去。63歳。 ハドリアヌス第十四代皇帝(41歳)に即位。 ハドリアヌス、皇位継承の後、トライアヌスの幕僚(熟練の武将たち)であった4人の元老院最上級の人々を粛清。その後は公正な政策を実施。立て続けに「銀貨」「銅貨」を発行し、その面に統治のモットーとして以下の言葉をほらせる。「寛容」(Pietas)「融和」(Concordi)「公正」(Iustitia)「平和」(Pax)。 ハドリアヌスの旅 ローマの皇帝たちは、以外にも多くの旅をしている。それは、皇帝に課された責務が、1に安全保障、2に属州の統治、3に帝国全域のインフラ整備にあったので、これを果たすには現地を知る必要があったからである。・・・・視察と、それを基にした整備整頓だけを目的とした大旅行をハドリアヌスは敢行するのである。旅の規模ならば、どの皇帝も比較になりえす、実質上の初代皇帝であったユリウス・カエサルが唯一人比較になりえると言う、長期でかつ広い範囲にわたる旅になるのは避けられなかった。・・・・ 紀元121年 ハドリアヌス、ガリアに向けローマを発つ。最初の巡行開始。リヨンからリメス・ゲルマニクスを経てライン河防衛線を視察。 紀元122年 ハドリアヌス、ライン河口からブリタニアに渡る。夏から秋頃、ドーバーを渡り、ガリアへ。冬にはスペインに達し、タラゴーナで冬を過ごす。 紀元123年 春、パルティアの不穏な動きを知らされたハドリアヌスは、予定を変更しシリアへ。 パリティアとの危機を回避したハドリアヌスは、そのまま小アジアの視察を行う。翌年にかけてトラキアへ向かう。ドナウ河防衛線を視察。ウイーンまで足をのばす。秋から翌年の春にかけ、アテネに滞在。 紀元125年 ギシシャと発ち、シチリアを訪問後、ローマへ帰還。 紀元126年 春、ハドリアヌス2度目の巡行に出発。アフリカに向かう。夏にはローマに戻る。 紀元128年 夏、ハドリアヌス3度目の巡行に出発。(東方視察) 紀元130年 ハドリアヌス、ユダヤを視察。イェルサレム近郊に都市「アエリア・カピトリーノ」を建設。ユダヤ教徒の割礼を禁止。エジプトへ。 紀元131年 秋、イェルサレムを中心に、バール・コクバ、ラビ・アキバが指導するユダヤ教徒の反乱勃発。 紀元134年 年初、ローマ軍によりイェルサレム陥落。ユダヤ教徒の反乱が事実上終結する。ハドリアヌス、反乱に加わったユダヤ教徒をイェルサレムから追放、ユダヤの属州名を「パレスティーナ」に変える。春、ローマに帰還。 紀元138年 1月24日、ハドリアヌス、自らの誕生日にアントニヌスを私邸に招き、養子縁組を申し出る。(皇位継承の申し出) 7月10日、皇帝ハドリアヌス、バイアの別邸で死去。62歳。 アントニヌス、第十五代皇帝に即位。ハドリアヌスの神格化を巡り、アントニヌスと元老院が対立。ハドリアヌスを弁護したアントニヌスは、以降、「アントニヌス・ピウス(慈悲深い)」と呼ばれる。 紀元139年 「ハドリアヌス霊廟」(現在のサンタンジェロ城)完成。 紀元161年 3月7日、皇帝アントニヌス・ピウス、ローマ近郊のロリウムにある別邸で死去。75歳。 皇帝アントニヌス・ピウスについての記述が大変少ないのですが、以下の文章でその治世が偲ばれます。 カルタゴ人でありながらハドリアヌスから、いずれ皇位を継承する若者の教育を託された哲学者フロントは、その若者が成長しマルクス・アウレリウスの名で帝位についた後に、今では故人となったハドリアヌスとアントニヌスの二人を比較して述べた手紙を、かっての教え子に書き送っている。「ハドリアヌスには、親愛の情をいだいていたとはやはり言えない。彼と対したときのわたりは、この明晰な人の意に反しないように注意するだけで精いっぱいだった。まるで、戦いの神マルスか冥界の神プルトンの前にでも出たかのような、緊張した想いになるのだった。なぜ、そのような想いになったかって?親愛の情をいだくには、自信と親密さが不可欠であるからだ。彼とわたしの間には、親密な感情が通い合うことはなく、ゆえに彼の前のわたしは、わたし自身に自信がもてなかった。わたしは彼を、心から尊敬している。だが、親愛の情をいだいていたとは、どうしても言えない。 それでアントニヌスだが、、わたしは彼を、太陽を愛するように、月を愛するように、いや人生を、愛しき人の息吹を愛するように愛していたのだ。そして、わたしが彼に親愛の情をいだいていたように、彼もまたわたしに親愛の情をかんじてくれていたと、常に確信していられたのであった」 この文くらい、ハドリアヌスとアントニヌス・ピウスの、人に与える印象の違いを明晰にのべてくれるものもない。・・・・ ユダヤ教徒の反乱を鎮圧した後のハドリアヌス帝のユダヤ教徒に対する施策、「ディアスボラ」(Diaspora)(離散)についての記述を記しておきたい。 「ディアスポラ」 ・・・ユダヤは、もはやユダヤとは呼ばれず、パレスティーナが公式な名称となった。イェルサレムもその名は消され、アエリア・カピトリーナに変わる。・・・・ユダヤ教徒にとっては聖都でありつづけるイェルサレムの現在の姿が、ユダヤ教徒の反乱を根絶するのに誰よりも過激な方策で対した男のプランによる事実は、歴史の皮肉とするしかないのである。なぜなら、紀元134年に終結したユダヤ民族の反乱は、イェルサレムからユダヤ教徒の全面追放を命じた、ハドリアヌスによるユダヤ人の「離散」(ディアスポラ)をもたらしたからであった。・・・・こうして、ユダヤ人はまたも祖国を失った。元老院の採決を経て公式に発効した紀元135年からの「ディアスポラ」は、20世紀半ばのイスラエル建国までつづくのである。・・・ ・・・ただし、反抗しようとしまいと、ユダヤ教徒に対してのハドリアヌスの感情が冷たかったことは確かだった。ハドリアヌスは、真実は自分たちだけが所有しており、それは唯一無二の自分たちの神のみであるとする彼らの生き方を、多様な人間社会もわきまえない傲慢であるとして嫌ったのだ。そして、それ以外の神々を信仰する他者を軽蔑し憎悪するこの人々に、神を愛するあまりに人間を憎むことになる性癖を見出して、同意できなかったのである。・・・・もしもこの時期にキリスト教徒が、ユダヤ教徒同様にローマに抗して反乱を起こしていたとしたら、迷うことなくハドリアヌスは、弾圧を強行していたと思う。 |
2010年5月31日 「ローマ人の物語 終わりの始まり 上・中・下巻(29・30・31巻)」を読みました。アントニウス・ピウス帝(74歳)がローマで死去し、マルクス・アウレリウスとルキウス・ヴェルスが共同皇帝に即位した紀元161年から、マルクスの子コモドゥス帝、内乱に勝利したセブティミウス・セヴェルス帝がブリタニア(現イギリス)遠征の途中、ヨークで死去し(64歳)、その子「カラカラ」とゲタが皇帝に即位した紀元221年までの5賢帝の最後の皇帝「哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝」の苦心の国政運営もちろん国境の保全の為の戦いを含んだ経過を中心にして記され、セブティミウス・セヴェルス帝が内戦勝利後の「良かれとして始めた各種の施策が裏目となり”終わりの引き金”となっていく過程まで」を記しています。 この巻の「はじめに」の部分です。 五賢帝の最後を飾る人であり、哲人皇帝の呼び名でも有名なマルクス・アウレリウスほど、評判の良いローマ皇帝は存在しない。同時代人から敬愛されただけでなく、現代に至るまでの二千年近くもの長い歳月、この人ほどに高い評価を享受しつづけたローマ皇帝はいなかった。 統治者としての力量ならば、マルクス・アウレリウスをしのぐリーダーは、ローマ史上には幾人もいるだろう。帝政の事実上の創始者であるユリウス・カエサル。その後を継いでローマ帝国を構築した、初代皇帝アウグストゥス。属州出身でありながら生まれ故郷のスペインを優遇するなど毛ほども考えず、帝国全体の統治者であることに徹したトライアヌス。自らの命を縮める結果になろうとも広大な帝国の全域を視察してまわり、それによって帝国の再構成を成しとげたハドリアヌス。共和制時代は除き、帝政時代も盛期までと話をがぎったとしても、ただちにこれだけの名が浮かんでくる。しかし、彼らでさえも、後世の人々の心をとらえるうえでは実に有効な手段となる二つのこと、その人自身の「声」と「肉体」を残すことになると、マルクス・アウレリウスには及ばなかった。哲人皇帝のほうが、その面では断じて恵まれていたのである。 マルクス・アウレリウスは、後世の人が「自省録」と名づけることになる一書を遺している。・・・・・「人間は公正で善良でありうるかなどと、果てしない議論をつづけることは許されなし。公正に善良に行動すること、のみが求められるときが来ている」これが、大帝国ローマの最高権力者の「声」なのであった。 この「声」につづく「肉体」だが、ローマの七つの丘の一つであるカピトリーノの丘に今なを残る、マルクス・アウレリウスの騎馬像がそれである。・・・・ 「ある疑問」の部分で、皇帝アントニヌス・ピウスのローマ周辺のみに居続ける23年の一見平和な治世は、その後のマルクス・アウレリウス帝の苦難に満ちた治世とさらにその後のローマ帝国の衰退の道になんの影響を与えなかったのかという疑問を表明していると思われます。 ・・・・後世が「五賢帝時代」と呼び賞賛を惜しまなかった時代は、ネルヴァ、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピアス、マルクス・アウレリウスの5人の統治がつづいた、紀元96年から180年までの一世紀である。この時代に生きた人ならば、ローマ人もギリシャ人も区別なく、「黄金の盛期」と呼んだ百年だった。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』も、最初の三章で帝政を総括した後ではじまる、衰退と滅亡の時代を本格的に叙述する第四章は、マルクス・アウレリウスの死後で息子のコモドゥスが登位した、紀元180年から筆を起こしている。つまり、ローマ帝国の衰亡は、五賢帝の時代とともにはじまった、とする史観である。・・・・ 紀元161年 アントニヌス・ピウス帝死去。 マルクス・アウレリウスとルイウス・ヴェルス、共同皇帝に即位。8月31日、マルクスの子コモドゥス生まれる。 ローマ悪天候による飢饉やテヴェレ河など、天災に見舞われる。パルティア軍アルメニアに侵入、親ローマの王を廃し、パルティア側のパルコスを王位に就ける。マルクス、カッパドキア総督セヴェリアヌスに鎮圧を命ず。(パルティア戦役開始) 紀元166年 パルティア戦役、ローマの勝利で終結。10月ローマでマルクスとルキウスの凱旋式が行われる。パルティア戦役で持ち込まれた疫病(ペスト)が流行する。 ペスト 戦いで敗れたパルティアは、勝ったローマに、ある一つのことで復讐したのである。それはローマで挙行された凱旋式に参加した帰還兵の間に広まった、疫病の流行だった。ライン河やドナウ河の基地にもどった帰還兵の間にも、同じ病に倒れる者が続出していた。伝染の源が、遠征先のオリエントであることは明らかだった。ラテン語では「疫病」を、「ペスティレンティア」(pestilentia)と書く。「ペスト」の語源になる言葉だが、症状も伝染度も死亡率も一様ではない。古代のエジプト人はすでに、ネズミが媒介することを知っていた。・・・・帝国にとっての最重要防衛線であるラインとドナウの軍団基地でづづいたのが、ローマにとっては痛かった。ローマの防衛力の弱体化に気づいた蛮族が、この北方の前線を脅かしはじめたのである。そしてこの時期、ローマが直面しつつあった新しい問題が、もう一つあった。キリスト教徒・・・・ 紀元167年 ドナウ河防衛線でのゲルマン部族の侵略が始まる。 紀元168年 マルクスとルキウス、ドナウ河前線へ向けローマを出発。 紀元169年 ルキウス、アクィレイアからローマは戻る途中、アルティノで病死。39歳。秋、マルクス、再びドナウ河へ出発。その前にルキウス未亡人ルッチラを、遠パンノニア属州総督ポンペイアヌスと結婚させる。 紀元170年 マルコマンニ、コストボチのゲルマン2部族がドナウを越えローマ領内に侵入。「リメス」が270年ぶりに破られる。・・コストボチ族はギリシャ中央部まで進入する。 紀元171年 マウリタニア人の一部がジブラルタル海峡をを越えイベリア半島へ侵入。ゲルマンのクワディ族と講和を結ぶ。 紀元172年 第一次ゲルマニア戦役開始。エジプトで暴動勃発。シリア総督アィディウス・カシウス、東方全域総司令官として2個軍団を率い、鎮圧。 アルメニアでクーデター。カッパドキア総督マルティウス・ヴェルス、外交で解決。 紀元173年 ゲルマニア戦役続行。 紀元175年 この頃、ペシェンニウス・ニゲル、エジプトの軍団長官に任命される。4月、シリア総督アヴィディウス・カシウス、マルクス死去の誤報を聞き皇帝に名乗りを上げる。元老院がカシウスを「国家の敵」と宣言。カシウス部下の百人隊長に殺される。 紀元177年 マルクス、コモドゥスを共同皇帝とする。ガリアの部族長会議の判決により、リヨンでキリスト教徒の公開処刑が行われる。 紀元178年 第二次ゲルマニア戦役開始。 紀元180年 マルクス、冬営地のウィーンで死去。58歳。コモドゥスが単独皇帝に。戦役の終結を決め、ゲルマン各部族と講和を結ぶ。10月、コモドゥス、ローマに帰還。 紀元182年 コモドゥスの姉ルチィラ、コモドゥス暗殺を企てるが、未遂の終わる。カプリ島に流さた後、殺される。 紀元187年 コモドゥス、義兄弟のマメルティナスとブルスを、皇帝暗殺を図ったかどで処刑。 紀元192年 12月31日、皇帝コモドゥス、召使二人ととレスリング教師に暗殺される。31歳。 紀元193年 元日、ベルティナクス、近衛軍団長官レトーの後援により元老院の賛同を得て皇帝に即位。元老院、コモドゥスを「記録抹殺刑」に処することを決定。(プブリウス・ヘルヴィウス・ペルティナクスは紀元126年北イタリア・ジェノヴァで、毛織の布地を商う開放奴隷の子としてうまれた。軍団叩上げの人。192年は首都長官で、執政官であった。) 3月28日、ペルティナクス、レトー率いる近衛軍団により殺害される。66歳。前アフリカ属州総督ディディウス・ユリアヌス、元老院の承認を得て皇帝に即位。 4月、近パンノニア属州総督セプティミウス・セヴェルス、軍団兵の推挙を受け皇帝に名乗りを上げる。 ブリタニア属州総督クロディウス・アルビヌス配下の軍団兵に推され皇帝に名乗りをあげ、リヨンに向かう。セヴェルス、アルビヌスに共同皇帝を提案。 シリア属州総督ペシェンニウス・ニゲル軍団兵の推挙を受け皇帝に名乗りをあげる。 6月1日 ディディウス・ユリアヌス、近衛兵に殺害される。60歳。セヴェルス、ローマ入城。近衛軍団に解散を命ずる。元老院、セヴェルスとアルビヌスの共同皇帝就任を承認。 紀元194年 10月、セヴェルス、イッソスの平原でニゲルに勝利、ニゲル死去。 紀元197年 2月19日、セヴェルス、リヨン近郊でアルビヌスと対決し勝利。アルビヌス自死し、セヴェエルス単独の皇帝となる。 紀元199年 セヴェルス、妻と息子二人(カラカラとゲタ)とともに、パルティアに遠征。 紀元209年 セヴェルス、妻と息子二人と共にブリタニアへ出発。春、ローマ軍ハドリアヌス防壁を越えて北へ攻め入る。 紀元211年 2月4日、セプティミウス・セヴェルス、ヨークで死去。64歳。カラカラとゲタ、皇帝に即位。カレドニア人と講和を結びローマへ帰還。 紀元212年 2月12日、カラカラ、パラティーノの丘の皇宮でゲタを殺害。 ブリタニアの三個軍団の再編成を終えた後で、セヴェルスは首都ローマに凱旋してきたのはその年の6月である。ただ一人の勝利者、ただ一人の皇帝になってもどってきたセヴェルスは、51歳になっていた。 それにしても、内戦はやはり悲劇である。犠牲になった個人にとっても悲劇だが、「国家」(レス・プブリカ)にとっても悲劇である。これさえ起こらなければ、ローマ帝国の「共同体」(レス・プブリカ)に貢献できた有能な人材が、ただ単に敗者になったというだけで消されてしまう。何であろうと内戦を上まわる弊害はなし、と確信して、それを避けるためには、帝位の世襲という、ローマ人が飲み下すのに慣れていないことまでした、マルクス・アウレリウスの悲劇が今さらのように思い起こされる。内戦とは自分自身の肉体を傷つけ、自らの血を流すことなのだ。出血多量は死に至らなかったとしても、体力の減退は避けられない。「ルビコン」を渡って以降のカエサルの「寛容」(clementia)は、彼に敵対していた元老院体制堅持派にも広く知られていた事実である。・・・・セヴェルスも、内乱によるこの弊害を、頭では理解していたのである。だだし、理解していることと、実際にそれをどう進めていくかは、個人の資質に左右されざるをえない別のことではあったのだが。 |
2010年6月13日 「ローマ人の物語 迷走する帝国 上・中・下巻(32・33・34)」を読みました。皇帝カラカラ(公式名は インペラトール・カエサル・マルクス・アウレリウス・セヴェルス・アントニヌス・ピウス・アウグストゥス)が帝位に就いた時からこの巻ははじまります。ローマ帝国にとって、この3世紀は迷走の3世紀となります。紀元211年から284年までの73年間に22人の皇帝が生まれ、その大部分は元老院議員ではなく、軍団の司令官であったこと、病死はただ一人、その他の皇帝の大部分は不慮の死、多くは部下の反逆による謀殺であったことが、物語っています。そんな中でも懸命にローマ帝国の維持を目指して闘い続ける軍人皇帝の姿を記述しています。 3世紀初めのローマ帝国の版図。 3世紀終わりのローマ帝国の版図。 3世紀から4世紀中頃までの皇帝。 紀元211年2月4日、皇帝セプティミウス・セヴェルスは、遠征先のプリタニアのローマ軍基地ヨークで死んだ。64歳だった。帝位はただちにセヴェルスの二人の息子、23歳のカラカラと22歳のゲタに引き継がれた。父セヴェルスはすでに息子二人ともを共同皇帝にしていたので、皇位継承はスムーズにいったのである。おだやかな性格だけが取柄の弟と権力を分かち合う状態がカラカラには我慢がならなかった。自分の暗殺を謀った言い立て、母の面前にもかかわらず弟を殺したのである。212年2月12日、父の死から1年しか経っていなかった。カラカラは、望んでいたとおりただ一人の最高権力者になったのだ。ゲタの才能に疑いを持っていた元老院は、この弟殺しを、さしたる批判もせずに追認した。その後まもなくして、一通の勅令が、ローマ帝国中の広場という広場、同朋という同朋のすべてに張り出されてた。・・・・「誰でもローマ市民!」 法治国家であるローマでは、政策はすべて法律の形をとる。「アントニヌス勅令」(Constitutio Antoniniana)と呼ばれたこの法は、ローマ帝国内に住む自由な身の人々全員に、もれなくローマ市民権を与えると定めた法律であった。これを決意した理由を、立案者であるカラカラ帝は、布告の中で次のように述べている。「わたしとわたしの臣下たちの間では、帝国を守り立てていくうえで負担を分かち合うだけでなく、栄誉も分かち合ってこそ良い関係を樹立できるはずであり、この法令によってはじめて、これまで長年にわたってローマ市民権者だけた享受してきた栄誉に、今や国民すべてが浴することになった」・・・・ 「取得権」の「既得権」化による影響 これによる影響は、ヒューマンな法と誉めてなどいられない大きなものになる。1)従来のローマ市民権所有者から、帝国の柱は自分たちだという気概を失わせた。 2)旧属州民から、向上心や競争の気概を失わせた。 3)属州税の徴収が不可能になり、戦費調達のための臨時税が恒常化した。 4)ローマ社会の特質でもあった流動性を失わせてしまい、市民階級の中に「ホネスタス」(名誉ある者)と「ウミリウス」(卑しき者)の二分化を起こしてしまった。 皇帝カラカラによる「アントニヌス勅令」はマイナスの意味で画期的な法であったと私は考える。ローマ帝国の一角が、この法によって崩れたのだ。まるで、砦の一つが早くも墜ちた、という感じさえする。しかも、崩壊の端緒をつくったのは敵ではない、ローマ人自身が手を下したのだった。・・・・カラカラ帝に、ユリウス・カエサルの次ぎの一句の意味がわかっていたとは思われない。「どんなに悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によるものであった」 紀元212年 2月12日 カラカラ、パラティーノの丘の皇宮でゲタを殺害。 「アントニヌス勅令」を発布。属州民にもローマ市も市民権が与えられる。 紀元213年 カラカラ、ライン河防衛線に向かう。ライン河防衛線とゲルマニア防壁を再整備。 紀元214年 カラカラ、バルティアに向け出発。 紀元216年 パルティア戦役始まる。 紀元217年4月8日 カッレへの途上で、カラカラ、皇帝警備隊の兵士たちに暗殺される。29歳。4月11日、近衛軍団長官マクリヌス、軍団の推挙により皇帝に即位。カラカラの母ユリア・ドムナ、アンティオキアで自死。 紀元218年 マクリヌス、パルティアと講和を結び、属州メソポタミアを放棄。ユリア・ドムナの妹ユリア・メサ、東方の軍団を糾合しマクリヌスに反旗を翻す。マクリヌス逃亡中ビティニアで捕まり殺害される。53歳。6月8日、ユリア・メサの孫ヘラガバルス、皇帝に即位。 紀元222年 3月11日、ヘラガバルス、皇宮内で殺される。18歳。アレクサンデル(・セヴェルス)(ヘラガバルスの弟)皇帝に即位。 紀元235年 3月、ライン河防衛線を守るローマ軍団が蜂起、皇帝アレクサンデル・セヴェルス、殺害される。トラキア人で新兵訓練の責任者だったマクシミヌス(・トラクス)皇帝に推挙される。 紀元241年 ペルシャ王シャプール一世、軍を率いてローマ帝国東方に侵入、アンティオキアに迫る。 紀元244年 2月、ゴルディアヌス三世、冬営中に軍団兵に暗殺される。19歳。フィリップス(・アラブス)皇帝に即位。 紀元248年 4月11日から3日間、ローマ建国千年祭が祝われる。 ゴート族、ドナウ河を越えてローマ帝国内に攻め込む。 紀元250年 デキウス、非キリスト教徒を証明する書類に携帯を市民に義務ずける。夏、ゴート族とヴァンダル族、大挙してローマ領に進入、属州トラキアに達する。 紀元252年 アラマンノ族、ライン河を渡りローマ帝国内に進入。 紀元257年 皇帝ヴァレリアヌス、暫定措置法を発布し、キリスト教徒の祭儀と集会を禁止。 紀元261年 皇帝ガリエヌス、元老院と軍隊を分離させる法律を制定。 紀元270年 元老院クラウディアスの弟クインティウスを皇帝に指名。将兵たちが騎馬隊司令官アウレリアヌスを皇帝に推挙、クインティルスは自殺。 紀元271年 属州ダキアを放棄し、ゴート族に譲渡。アウレリアヌス、ローマ郊外に「アウレリアヌス城壁」の建設に着手。(完成は276年)(カエサルが一部を破壊したセルヴィウス城壁の後はこの城壁建設まで、都市ローマには城壁は不必要なものであった。) 紀元276年 東方の軍団の司令官プロブス、皇帝に推挙される。プロブス、小アジアに侵入していたゴート族を撃退。 紀元278年 プロブス、ガリア全域から蛮族を一掃。 紀元284年 ディオクレス、ディオクレティアヌスと改名して皇帝に即位。 この間の22人の皇帝はローマ帝国を守るための戦いに明け暮れ、そのうえ、部下の将兵に殺害されるという悲惨な運命を負わされているのです。 この巻の最後に、「ローマ帝国とキリスト教」に触れています。 ・・・・ローマ人の考えるキリスト教徒とは、自分たち全員の「レス・プブリカ」(国家)であるローマ帝国に対する考えや義務を、彼らとは共有していない人々のことであった。キリスト教徒は、聖パウロが『使徒行伝』中で説いたように、ローマ帝国を邪悪で堕落した社会ととらえていたので、このような国家に対しては義務を負う必要を認めなかったのである。このローマ帝国が滅亡した後に現れる「神の国」が、彼らにとっての「レス・プブリカ」(共同体)になるからであった。と言って、テロ行為に出るとかして、積極的にローマ帝国の崩壊を狙うことはしていない。だが、公職や軍務に就くことは避けるという形での、消極的な抵抗はつづけていた。これは、ローマ帝国全体を一大家族ととらえ、その内部に住む人々全員の運命共同体と考えていた歴代のローマ皇帝にとっては、明らかに反国家的行為になる。キリスト教徒の「罪」とは、何を信じていたか、ではなく、それを信ずることを通して反国家的な組織を形成している、ということのほうにあったのである。トライアヌスの言う「罪ある者」とは、この意味であった。・・・・・ キリスト教徒は、ローマ帝国の打倒は意図していなかった。あえて言えば、乗っとりを意図していたのだ。ユダヤの独立のみを願っていたユダヤ教徒が、可憐に思えるほどである。そして、帝国の乗っとりは、着実に進んでいくのである。なにしろ、ローマ帝国のほうが、弱体化し疲弊化する一方であったのだから。・・・・・ |
2010年6月22日 先週から本格的な梅雨空が続いています。庭の紫陽花も満開です。玄関口のアプローチに咲き誇っていたサツキの花は惨めな状態で、いよいよ散髪が必要な時期です。 「ローマ人の物語13 最後の努力」を読みました。近くの市立図書館支所の蔵書では、文庫本は「迷走する帝国 上・中・下巻」までで、「最後の努力」からは単行本です。 ローマ帝国維持の為に多くが軍人皇帝が努力したことによって、版図自体は大きな変化は生じていませんが、この「最後に努力」に登場する2人の皇帝(ディオクレティアヌス、在位、紀元284年〜305年 コンスタンティヌス、在位、紀元306年〜337年)によって、「都市国家ローマ」、「ローマ帝国」は消滅し、別のものとなっていく経過が記載され、その最終項ではその後のローマ帝国(ヨーロッパの歴史)だけでなく、全世界の歴史に大きく影響するキリスト教との関わり(ミラノ勅令、ニケーア公会議)を述べいます。 作者の塩野七生さんはこの巻頭で、「読者に」として、以下のように記しています。 紀元前8世紀からはじまって紀元後5世紀に終わるのがローマ史だとする史観に立つならば、ローマ史は次のような進み方をしたと言えるだろう。 王政→共和制→初期・中期帝政(元首政)→後期帝政(絶対君主制)→末期 この巻でとりあげるのは、歴史上では「帝政後期」の名称で定着している。絶対君主制体に移行した時期のローマ帝国である。・・・・ 迷走からの脱出・・・・ディオクレティアヌスが帝位に就いた紀元284年の時点で、ローマ皇帝が対処を迫られていた問題は多かったが、その中でもとくにディオクレティアヌスが重要視したのは、次の二つではなかったかと思う。 第一は安全保障。 第二は、帝国の構造改革。・・・・ ディオクレティアヌスはローマ帝国の皇帝という最高権力者になると、すぐにマクシミアヌスを「カエサル」に任命し、自分は東方、マクシミアヌスは西方(ガリア、ブリタニア、ヒスパニア、北アフリカ)の統治を決めます。(二頭政)さらに、紀元293年、「四頭政」(「テトラルキア」tetrarchuia)と呼ばれる4人による分割統治のシステムを始めます。ただ、4者は防衛面での責任を分担したのであって、帝国全体の政治はあくまでも、ディオクレティアヌス一人のものであったようです。そして、そのディオクレティアヌスは帝国の安定の為には皇帝の地位の安全の必要性を感じ、絶対君主制へ進みます。 この施策によって、「兵力の倍増」、「官僚大国」、「税金大国」、「統制国家」の道が必然づけられ、キリスト教徒弾圧が行われます。紀元303年ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの正帝二人は、ローマで華麗な凱旋式を行います。これが首都ローマでの最後の凱旋式となります。 紀元305年、ディオクレティアヌスはローマ帝国史上まったく前例のない自らの意志にって引退し、第二次「四頭政」を意図しますが、内戦の末、第二次「四頭政」の西方正帝であった、コンスタンティウス・クロルスの息子、「コンスタンティヌス」が唯一のインペラトールとなり、首都を「コンスタンティノポリス」に定めます。都市国家ローマは消滅ということです。 紀元284年 ディオクレティアヌス皇帝に就任。秋、マクシミアヌスを「カエサル」に指名。「二頭政」(ディアルキア)の開始。 紀元293年 5月1日、第一次「四頭政」の開始。東方は正帝ディオクレティアヌス、副帝ガレリウスが担当し、西方は正帝マクシミアヌスと副帝コンスタンティウス・クロルスが担当。コンスタンティウス(当時18歳)、オリエントに送られ、ニコメディアでディオクレティアヌス帝の下、軍籍に就く。(父、クロルスが副帝になるにあたり強制されたマクシミアヌスの皇女テオドラとの結婚のため、離婚された母、ヘレナと共に、ディオクレティアヌスの下へ) 紀元301年 ディオクレティアヌス、価格統制令を公布。 紀元303年 キリスト教徒弾圧勅令を公布。 11月20日、ディオクレティアヌス、マクシミアヌスとともに、ローマで凱旋式を挙行。 紀元305年 ディオクレティアヌス、マクシミアヌスの退位とともに、第二次「四頭政」開始。東方正帝ガレリウス、副帝マクシミヌス・ダイア。西方正帝コンスタンティウス・クロルス、副帝セヴェルス。 紀元312年 元老院、ローマへ入城したコンスタンティウスの正帝昇格を決定。「コンスタンティウスの凱旋門」の建設を開始。(別ページを作りました。)近衛軍団解散。 紀元313年 6月15日、「ミラノ勅令」が公布され、キリスト教が公認される。 紀元315年 「コンスタンティヌス凱旋門」(パッチワークの凱旋門)完成。ローマ訪問時のコンスタンティヌスの凱旋門。 紀元322年 コンスタンティヌス、軍とともにドナウ河を渡り北方蛮族を撃破。講和を結び、帝国北方の安全確保に成功する。 紀元324年 コンスタンティヌス、唯一の正帝となる。帝国の首都をビザンティウムに移し、新都の建設に着工。 紀元325年 小アジアのニケーアにキリスト教の司祭を集めた公会議を開催。三位一体説を正統とし、アリウス派を異端とする信条が決定される。 ニカイアと呼ぼうがニケーアと発音しようが、歴史上でこの公会議の重要性は実に大きい。キリスト教史では当然だが、キリスト教が世界の三大宗教の一つになる以上、世界史的にも重要事の一つになるのである。なぜなら、ニケーア公会議で決まった「形」でのキリスト教が、今に至るまでの、つまり世界の三大宗教の一つとしての、「キリスト教」になったからであった。・・・ 紀元330年 5月11日、新都コンスタンティノポリスの完成を祝う式典が挙行される。 紀元337年 コンスタンティヌス、対ペルシャへの軍事行動のため、東方へ向かう。5月22日、滞在先のニコメディアで病死。 此の巻の最後の第三部で「コンスタンティヌスとキリスト教」の章をもうけています。(キリスト教徒の分布) コンスタンティヌスが、ローマ史に留まらず世界史のうえでも偉人の一人とされてきた理由は、何と言おうが彼が、キリスト教の振興に大いなる貢献をしたからである。日本語では大帝と訳され、英語ではザ・グレートになる「マーニュス」(Magnus)づきで呼ばれる歴史上の人物は、ただちに頭に浮かぶ人だけでも三人いる。アレキサンダー大王と、コンスタンティヌス大帝とシャルルマーニュの三人だ。ギリシャ語読みならばアレキサンドロスとなる紀元前四世紀に生きた若き英雄を除けば、紀元後四世紀のコンスタンティヌスも九世紀初頭のシャルルも、いずれもキリスト教との関係が深い。コンスタンティヌスはキリスト教を公認した人であり、ローマ帝国が存在していた時代の一部族であったフランク族の王シャルルは、世暦800年にローマを訪れ、ローマ法王の手から、神聖ローマ帝国の皇帝として帝冠を授けられた人である。・・・・ 「ミラノ勅令」 そしてこの翌年の313年、今や帝国西方の「正帝」にのし上がったコンスタンティヌスと東方の正帝のリキニウスがミラノで会い、その首脳会談のコミュニケのような感じで公表されたのが、有名な「ミラノ勅令」である。これによってキリスト教は、実態はいまだに諸神混在の状態ではあるにせよ、宗教の一つとしてはローマ帝国によって公式に認められたことになる。キリスト教を信仰する人々にとっては、画期的な出来事であったはずだ。ただし、この「ミラノ勅令」には、次のようなことも明記されている。 「今日以降、信ずる宗教がキリスト教であろうと他のどの宗教であろうと変わりなく、各人が自身が良しとする宗教を信じ、それの伴う祭儀に参加する自由を認められる。それがどの神であろうと、その至高の存在が、帝国に住む人すべてを恩恵と慈愛によって和解と融和に導いてくれることを願いつつ」 ・・・「キリスト教徒に認められたこの信教の完全な自由は、他の神を信仰する人にも同等に認められるのは言うまでもない。なぜなら、われわれの下した完璧なる信教の自由を認めるとした決定は、帝国内の平和にとって有効であると判断したからであり、それには、いかなる神でもいかなる宗教でも、その名誉と尊厳を損なうことは許されるべきではないと考えるからである」 まったく、文句のついけようがない、自由な精神の昇華である。この精神で現代まできていたとしたなら、民族間国家間の争いは起こったであろうが、その争いとて宗教を旗印とするまでには至らなかったはずだ。宗教を大義名分に使えなければ争いは人間同士のことになり、単なる利害の衝突にすぎなくなる。ゆえに、争うことが損とわかるや自然に納まる。宗教を旗印とすると、問題は常に複雑化するのだった。・・・ キリスト教は公認しても国教にしたわけではなかったのだから。ところが問題は、この勅令を公表して以降のコンスタンティヌスがまるで、勅令の文面は建前であって本音は別、とでも考えていたとしか思えない言行を始めたところにあったのだ。それは、ディオクレティアヌスによる弾圧時に没収されていた教会資産の返還を命じた、勅令の最後の部分に隠されていた。そこには、次のように書かれている。 「没収時に競売に付され、それを買い取って所有している者には、返還に際しては正当な値での補償が、国家によって成される」・・・ コンスタンティヌスはさらに、皇帝の私有財産をキリスト教会へ寄贈、キリスト教の「司教」つまり「聖職者」階級の公務からの独立を許したことなどのキリスト教へのバックアップとしか考えられない施策を行います。この各種の施策は、司教を”味方”にすることが目的といえます。 「支配の道具」 ・・・コンスタンティヌスも、政局安定が帝国維持の鍵であるかとはわかっていたのである。しかしこの皇帝は、彼の治世下では軍事力の配置すらも、国境でもある帝国の」防衛線」(リメス)ではなく、彼自身が直接に率いる軍勢の教化のほうに重点を置くように変えた、といわれた人でもあった。政局安定も、帝国の利益よりも自らの家系の存続を重視したゆえであったとしても、最初の中世人と言われるコンスタンティヌスならばありえたことだと思う。 そして、権力者に権力の行使を託すのが「人間」であるがぎり、権力者から権力を取りあげる、つまり権力者をリコールする、権利も「人間」にありつづけることになる。だが、もしもこの権利が、「人間」ではなく、他の別の存在にあるということになったらどうだろう。 この役割には、ローマ伝来の神々は適切ではなかった。なぜなら、多神教の神は人間を守り助ける神々であって、人間に向かって、どう生きよと命ずる神ではなかったからである。多神教と一神教では、神の性質(キャラクター)からしてちがうのだ。つまり、コンスタンティヌスにとっての必要を満足させる神は、一神教の神しかなかった。そして、四世紀当時のローマ帝国でこの需要を満足されることができる一神教は、ユダヤ教がユダヤ民族の宗教に留まっている以上は、民族のちがいを超越することを布教の基本方針にしていたキリスト教しかなかったのである。・・・・ ・・・司教とは、十二使徒の後継者と考えられており、イエス・キリストとその十二人の使徒から、神意を伝える権利、信徒を教え導く権利、信徒を統合する権利を託された存在とされていたのである。しかもこれらの権利に加えて、キリスト教の教えの拡大に役立つことやそれを行った人に対して、神聖な正統性を授ける権利まで有していたのだった。・・・・このようにキリスト教会では、すべては神の意を汲んで成されるときまっていたので、現実世界の統治も、神の意を得た人によって成されるのも、彼らの教えからすれば当然なのである。そして、神の意を汲んでそれを人間に伝えるのが、司教であったのだった。・・・・ |
2010年6月28日 サッカーワールドカップでの日本テームの予選ラウンド通過、ベスト16は、岡田監督をはじめとする選手達への評価に劇的な変化をもたらしました。サッカー強豪国である、イタリア、フランスが敗退するなかでの通過だけに”なお更の印象”を与えてます。でも、マスコミの有頂天な報道はこれで良いのか?との疑問にぶち当たってしまいます。前回大会における選手達も精一杯の戦いをして、利あらずに3連敗を喫しました。この時の報道はどうだったのか?私たちはどうだったか?通過を喜び、これからのプレーに大きな期待をいだきながら、自己反省をしたいものです。これは、「ローマ人の物語」を読みすすみほどにこの思いを深くしていきます。「「ローマ人の物語 14 キリストの勝利」を読みました。この物語もあと1巻を残すのみです。ローマがローマでなくなっていく姿、塩野七生さん曰く「溶解」していく姿が描かれています。 キリスト教を公認し、皇帝財産の教会への寄付などのバックアップ、死の直前における洗礼などによって後に、大帝の称号を受けることになるコンスタンティヌス大帝が337年、ニコメディアで死去した後、彼が考えていた親族による帝国分割統治の思惑を無にする殺戮が行われ、3人の実子の分割統治が始まります。コンスタンティヌス大帝の系譜です。 紀元337年 コンスタンティヌス、ニコメディアで死去。コンスタンティノポリスの皇宮内で虐殺事件発生。コンスタンティヌスの異母弟やその子などが殺される。幼少であったガルスとユリアヌス(異母弟の一人の子)が難を逃れる。 9月コンスタンティヌスの実子3人、パンノニアで会談し、コンスタンティヌス二世、コンスタンティウス、コンスタンスがそれぞれ「アウグストゥス」に就任。元老院もこれを追認する。 紀元340年 コンスタンティヌス二世とコンスタンスが戦い、コンスタンティヌス二世死去。 紀元346年 コンスタンティウス、キリスト教への免税範囲を教会関係者にまで広げる。 この時のローマ人の階層。 紀元350年 西方皇帝コンスタンス、部下の将軍との戦いに敗れ殺害される。 コンスタンティウス、ペルシャと休戦協定を結び、軍をひきいて西方に向かう。 紀元351年 3月、コンスタンティウス、従弟のガルスを「カエサル」に指名し、東方の統治を任せる。 紀元354年 12月、ガルス、コンスタンティウス殺害を謀った罪で処刑される。 紀元355年 5月、ユリアヌス、アテネで学究生活を始める。 11月、コンスタンティウス、ユリアヌスを「カエサル」に任命。妹へレナと結婚させる。ユリアヌス、ガリアへ向けて出発。 紀元360年 2月、ユリアヌスは以下の軍団によって「アウグストゥス」に擁立される。ユリアヌスこれを受諾。 紀元361年 コンスタンティウス、アンティオキアを発ち、ユリアヌス征伐のため西方に向かう。 11月3日、コンスタンティウス死去。後継者にユリアヌスを指名。 12月11日、ユリアヌス、コンスタンティーノプルに入城。キリスト教の優遇策を撤廃し、ギリシャ・ローマ宗教の再興を図る。 紀元363年 ユリアヌス、アンティオキアに入る。『ミソポゴン』を執筆、刊行される。 ユリアヌス、ペルシャとの戦いにため西へ。 6月26日、ユリアヌス、ペルシャとの戦役中に死去。 将軍や高官の会議で、皇帝護衛隊長ヨヴィアヌス、皇帝に選ばれる。ペルシャとの講和を結ぶ。 秋、ヨヴィアヌス、アンティオキアに入り、ユリアヌスのギリシャ・ローマ宗教再興の政策を取り消す。 紀元364年 ヨヴィアヌス死去。ゲルマン民族出身の将軍 ヴァレンティニアヌス、皇帝に選ばれる。弟ヴァレンスを共同皇帝に任命。 紀元367年 ヴァレンティニアヌス、息子のグラティアヌスに「アウグストクス」の称号を与える。 紀元374年 12月7日、アンブロシウス、ミラノ司教に選ばれる。 紀元375年 11月17日、ヴァレンティニアヌス、急死。帝国東方はヴァレンスが、西方はグラティアヌスが統治。 紀元378年 8月9日、ヴァレンス、ハドリアノポリスでゴート族との会戦で敗北、殺害される。 西方正帝グラティアヌス、テオドシスを招聘し東方正帝に任命する。この頃の蛮族の情勢。 紀元379年 冬、テオドシス、病にかかりキリスト教の洗礼を受ける。 紀元380年 グラティアヌスとテオドシス、キリスト教以外の異教排斥に本格的に乗り出す。 紀元383年 グラティアヌス、配下の反乱により殺害される。 テオドシス、この年から実質的に帝国全土を統治する。 紀元384年 シンマックス、ローマの首都長官に任命される。シンマックスとアンブロシウス、ローマ元老院議場前の「勝利の女神」像を巡り、皇帝へも書簡を通じて論争する。 紀元388年 テオドシス、元老院に対しギリシャ・ローマ宗教の廃絶を発議、元老院もこれを受け入れる。(ローマの神殿は教会に衣替えされるか、採石場と化します。) 紀元390年 4月、アンブロシウス、テッサロニケでの暴動の鎮圧時に起こった、軍による虐殺の謝罪をテオドシスに要求。謝罪がなされるまで教会への立ち入りを禁ずる。 12月、テオドシス、ミラノの教会前でアンブロシウスに公式に謝罪。 紀元393年 オリンピアの競技会、廃止される。 紀元395年 テオドシス、病死。長男アルカディウスは東方を、次男ホノリウスは西方を統治することに決まる。以後、東西分裂が決定的となる。(東ローマ帝国、西ローマ帝国) 後に「背教者」ユリアヌスと呼ばれることになるこの皇帝の戦傷死には不可解な噂があったにもかかわらず、護衛隊長でありキリスト教徒であったヨヴィアヌスの皇帝就任で立ち消えとなります。さらに、ヨヴィアヌスはユリアヌスの発したギリシャ・ローマ宗教への回帰を願う政策すべてを廃棄処分にするのです。そのヨヴィアヌスも7ヵ月後不審死をとげ、その後任の皇帝には、生粋の北方蛮族出身者である、ゲルマン人ではありますが、キリスト教徒であるヴァレンティアヌスが選ばれます。この流れが、テオドシス帝によるキリスト教国教化に繋がっていきます。 「異教」と「異端」 紀元380年から395年までの15年間は、キリスト教の勝利への道の最終段階になる。そしてこの15年は、背後にアンブロシウス、全面にグラティアヌスとテオドシスの両帝が立っての、「異教」と「異端」の双方に対する、全面的な宣戦布告からはじまったのである。 「異教」とは、もはや説明の要もないと思うが、キリスト教以外すべての宗教を指す。ギリシャ・ローマの宗教、シリア生まれの太陽神、同じくシリア生まれのミトラ神、エジプト生まれの諸神、カルタゴ生まれのタニト女神等々への信仰が「異教」と見なされるのは当然だが、これらの多神教に分類される宗教とはちがって、一神教であるユダヤ教も、キリスト教にすれば「異教」の一つであったのだった。 一方、「異端」となると、三位一体説(神とその子イエスは同格であり、これに精霊を加える)を信仰するカトリック派以外すべての、キリスト教内部の宗派が対象になる。神意たされる教理(ドグマ)で成り立つ一神教だけに、教理の解釈は人の数ほどある、としてもよいくらいに多い。・・・・ 「異端」排斥 テオドシス帝は、紀元380年から395年なでの15年間に、「異端」排斥を目的にしたものだけでも、15もの勅令を発布している。・・・・「異端」は、それが何であろうとキリスト教会の団結を崩すゆえに悪である、としたテオドシス帝の決意は、半端ではなかった。・・・・ 「異教」排斥 「最高神祇官」(ポンティフクス・マクシムス)とは、ローマ人とその住民共同体である国家ローマを守るとされてきた、最高神ユピテルとその妻のユノー、そして知の女神アテネの三神を最上位にする、国家ローマの宗教を祭る祭司や神祇官たちの最高位に位置する公職で、その設立は、ローマの建国にまでさかのぼるほどに古い。・・・・グラティアヌス帝による「最高神祇官」就任拒否は、それゆえに重大な意味をもっていた。・・・・このグラティアヌス帝が実施した「異教」排撃を目的とした施策に最後は、共和政時代の昔から元老院会議場の正面に安置されてきた、「勝利の女神」の像を撤去させたことである。・・・神像とは、当時のキリスト教会が厳しく禁じていた偶像崇拝を体現したものであり、邪教の象徴であり、何よりも「アウトロー」の具象化、とされたからである。・・ キリスト教、ローマ帝国の国教に 紀元388年といえは、シンマクスとアンブロシウスが、互いに皇帝テオドシスにあてた書簡という形で論戦を展開した年の4年後にあたっていた。・・・・・この年、41歳になっていたテオドシスは・・・はじめて首都ローマを訪問する。・・・・まっすぐに元老院議場にむかった。そして、集まった議員たちを前にして、形式は質問だったが、内実ならば選択を迫ったのだ。皇帝は言った。「ローマ人の宗教として、あなた方は、ユピテルを良しとするか、それともキリストを良しとするか」・・・・議員たちは、圧倒的多数で、「キリスト」を採択した。・・・ キリストの勝利(皇帝に対して) ・・・・ローマ帝国皇帝とミラノ司教の間に展開したこのドラマは、教会の外でも内でも、大勢の人々が見守る前でくり広げられたのである。これほどに、現世の権力者に対する神の力を誇示したショーもなかった。 まるで、中世を象徴するこのの一つと言われる、「カノッサの屈辱」を想起させる光景だ。世暦1077年、イタリア中部のカノッサで、法王グレゴリオ7世の許しを乞わねばならなくなった神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世が、三日三晩雪の中に立ちつくしたのが、「カノッサの屈辱」に名で知られる史実だが、その前奏曲は、七百年前に始まっていたのである。・・・ |
2010年7月21日 「ローマ人の物語 15 ローマ世界の終焉」を読み終わり、読後感を整理するのに時間がかかりすぎました。時間がかかりすぎたばかりでなく、内容的にも気落ちする事柄ばかりの整理で、気合が入りません。 塩野七生さんの最後の部分の抜粋と、年表の抜粋をします。 地中海は、もはや、ローマ人の呼んでいた「Mare internum」(内海)ではなくなっていた。異なる宗教と異なる文明をへだてる、境界の海に変わったのである。 飛行機を使えば、イタリアの首都ローマからチュニジアの首都チュニスには、ローマからパリへ行くよりも早く着ける。 しかし、空港を出れば、異なる文明圏に来たことを感じないではすまない。優劣ではなく、ただ単に「ちがう」のだ。それなのに、美術館に行ってローマ時代の彫像やモザイクを鑑賞したり、郊外にまで足を延ばし、今に至るも数多く残っているローマ時代の遺跡に立てば、ローマのフォロ・ロマーノやコロッセウムの中にいるのと同じ感じを持つだろう。 古代には、地中海の北も南も同一の文化圏に属していたのだ。分離したのは、7世紀から後なのである。それゆえ、過去ではつながっているが、現在ならば離れている。しかし、それでは、ローマ人が創り出した、ローマ世界ではないのであった。 ローマ世界は、地中海が「内海」(マーレ・インテルヌス)ではなくなったときに消滅したのである。地中海が、つなぐ道ではなく、へだてる境界に変わったときに、消え失せてしまったのである。 その後の地中海は、サラセンの海賊の来襲を知らせて人々を山に逃す役割を果たしていた「トッレ・サラチューノ」(サラセンの塔)が、崖の上となれば必ず立っていた海であり、十字軍の兵士を乗せた船が東に向かうことになる海になるのである。 だがそれも、紀元1千年を過ぎる頃になると、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアという、東方のイスラム世界との交易に向かうイタリアの海洋都市国家の船が行き交う海になっていく。そしてその後ならば、古代復興と人間の復権を旗印にかかげた、ルネッサンス時代の海にもなって行くのである。 盛者は必衰だが、「諸行」(res gestae)も無常であるからだろう。 これが歴史の理(ことわり)ならば、後世のわれわれも、襟を正してそれを見送るのが、人々の営々たる努力のつみ重ねでもある歴史への、礼儀ではないだろうかと思っている。 完 紀元395年 ローマ帝国の東西分離が決定的となる。 紀元401年 アラリック、西ゴート族を連れてイタリア北部に侵攻。 紀元408年 アラリック率いる西ゴート族、バルカン地方がらイタリアに侵攻、協約履行を要求しローマを封鎖する。 紀元410年 8月24日、西ゴート族、ローマ市内に侵入。5日間の「ローマの劫掠(ごうりゃく)」が始まる。 紀元411年 皇帝ホノリウス、劫掠で荒廃したローマの復興を開始。(〜417) 紀元439年 カルタゴが陥落し、北アフリカ全域がヴァンダル族の支配下になる。 紀元444年 アッティラ、フン族を率いて東ローマ帝国内を侵攻、コンスタンティノープルに迫る。 紀元452年 フン族、北イタリアで略奪を行う。 紀元468年 東西ローマ帝国、共闘して北アフリカのヴァンダル族制圧のため、軍隊を派遣する。ゲンセリックの姦計にはまり、ローマ帝国軍、カルタゴで壊滅。 紀元476年 西ローマ帝国滅亡。オドアケル、イタリア王を名乗る。 紀元546年 ゴーと族、ローマを攻略。 紀元553年 春、ビザンチンとゴート族の決定戦が闘われる。ビザンチン軍が勝利し、ゴート族がイタリアから一掃される。 紀元568年 ロンゴバルド族、南下してイタリアを手中に。 紀元613年 預言者、マホメッド、布教を始める。 紀元636年 シリアがイスラム化する。 紀元642年 エジプトがイスラム化する。 紀元670年 北アフリカがイスラム化する。 紀元698年 カルタゴ、イスラムに陥落する。 紀元1453年 5月29日、コンスタンティノープル、オスマントルコの攻撃により陥落。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の滅亡。 |
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2010年7月30日 塩野七生さんは、平成12年1月、第1刷発行で、「ローマ人への20の質問」という本を文芸春秋社より出されていました。「ローマ人の物語」を書いておられる途中でのものと思われますが、その中で、特に興味深い3点の質問とその答えを整理してみました。 質問7 <パクス・ロマーナ>とは何であったか 「ローマ人の物語Y パクス・ロマーナ」で、詳細を語っています。これを整理したものと考えてよいのでしょう。(「ローマ人の物語 パクス・ロマーナ(ローマによる平和)上・中・下」は「アウグストゥス(オクタヴィアヌス)」が「ユリウス・カエサル」の意思を継ぎ、共和制を尊重する振りをすることで元老院との確執を避けながら、実質帝政への足場を固めてゆく過程の物語です。広大になったローマの平和を維持するには、どうしても素早い、そして強力な意志の決定が必要となったのです。) PAX(平和)の定義として 平和は誰でも望んでいると思っているでしょうが、誰もが望んでいるならば戦争は起こらないはずです。ところが、人類の歴史は戦争の歴史としてもよいくらいに、戦争はいっこうに姿を消してくれません。ということは、平和を望んでいる人々がいる一方で、望んでいない人々も常にいたということです。つまり、平和には以外にも利己的な面があるということですね。それで、利己的の面から眼をそらすことなく<平和>を直視すれば、個人でなく部族や民族や国家のような共同体規模の<平和>を直視するとすれば、平和を望む想いには大別して二つあるということがわかります。 第一は、経済活動を主としているために、それが活動しやすい状況ということで平和を望む。 第二は、防衛に適した地域までの制覇は完了したので、以後は平和を国家政策とする。 第二の典型がローマであったのはいうまでもないでしょう。共和政時代に攻勢一方であったローマも、帝政に移行して以後は<パクス>をモットーとするように変わったのです。・・・ 帝国の統治運営に必要な人材を、本国のイタリア生まれに限定せずに、人種も宗教も肌の色も無関係に属州出身者からも広く登用し、安全保障と生活水準の向上に努めることで広大な帝国のローマによる平和を維持することが出来た、と言うことです。 質問9 市民とは、そして市民権とは何か 「市民」とは 「市民とは、国政参加の権利を持ち、国の防衛の義務をもつ存在です。とはいえ、いずれも古代に栄えた文明でありながら、また都市国家という国体でも似ていながら、ギリシャ人とローマ人では、市民ないし市民権に対する考え方が正反対としてもよいくらいにちがっていました。・・・アテネ人の考えた<市民>とは、アテネの領内で両親ともがアテネ人の間に生まれた人間だけを意味していました。・・・一方、ローマ人のほうは、市民ないし市民権を、アテネ人とはまったく反対に考えていたのです。アテネ人の考える市民が<血>であれば、ローマ人の考える市民とは、<志をともにする者>としてよいかもしれません。・・・「ローマはアテネとちがって、階級社会であったのです。双方の社会を比べてみると、 アテネ=市民、他国人、奴隷 ローマ=元老院階級、騎士階級、市民、属州民、解放奴隷、奴隷 となりますが、ローマでは階級が分かれていただけでなく、階級間の流動性も高かった。つまり、平等を大前提としなかったがゆえに、かえって階級間の流動性が高まったのです。元老院議員の少なくない部分が、解放奴隷を祖先にもつと言われたくらいでしたから。・・・ ただ、紀元212年、カラカラ帝が、属州民すべてに「市民権」を与える法律(「アントニヌス勅令」)を実施したために、階級間の流動性が阻害されることとなります。 (「取得権」の「既得権」化による影響 これによる影響は、ヒューマンな法と誉めてなどいられない大きなものになる。1)従来のローマ市民権所有者から、帝国の柱は自分たちだという気概を失わせた。 2)旧属州民から、向上心や競争の気概を失わせた。 3)属州税の徴収が不可能になり、戦費調達のための臨時税が恒常化した。 4)ローマ社会の特質でもあった流動性を失わせてしまい、市民階級の中に「ホネスタス」(名誉ある者)と「ウミリウス」(卑しき者)の二分化を起こしてしまった。 皇帝カラカラによる「アントニヌス勅令」はマイナスの意味で画期的な法であったと私は考える。ローマ帝国の一角が、この法によって崩れたのだ。まるで、砦の一つが早くも墜ちた、という感じさえする。しかも、崩壊の端緒をつくったのは敵ではない、ローマ人自身が手を下したのだった。・・・・カラカラ帝に、ユリウス・カエサルの次ぎの一句の意味がわかっていたとは思われない。「どんなに悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によるものであった」) 質問] 多神教と一神教との本質的なちがいについて 「ギリシャ・ローマの宗教は多神教で、ユダヤ教とキリスト教は、そして中世以降はイスラム教も加わりますが、これらの宗教は一神教です。」 「両者のちがいは、神の数だけではありません。本質的なちがいは、両者それぞれが、神をどう考えていたかにある。言い換えれば、どのような神を求めていたのかのちがいなのです。 ギリシャ・ローマの神々には、人間にどう生きるかを指示する役割はなく、自分で考えて努力しながら生きる人間をサポートするだけが役割でした。それゆえに完全無欠である必要も無く、また人間の願望が多様であるのを反映して、それぞれの面でサポートでくるようにと、神の数も多くなったとさえ考えられます。 反対に、ユダヤ教や、それから派生したキリスト教の神は、人間に、どう生きるかを指示する存在です。援助するのではなく、命令し、従わなければ罰を下す神です。一神教の神が完全無欠であるのは、不完全な人間を超越した存在であることが求められたからでしょう。・・・ ギリシャから導入してローマ人の神にしてしまったユピテル、ユノー、ミネルヴァの三主神は別にしても、これ以外の神々はいずれも、ローマと戦争して敗北した民族の神々でした。そして、神々へのこのローマ市民権授与が有効であったのは、相手側も多神教徒であったからです。もしもカピトリーノの丘のうえに神殿を提供されても、一神教のユダヤ教徒では、受けるわけにはいかなかった。他の神々との共棲を受け入れようものなら、一神教でなくなってしまうからです。そして、一神教が勝利して以後は、他のすべての神々はカピトリーノから放逐される。現代のカピトリーノの丘に建っているのは、キリスト教の教会だけです。」 「ローマ人の物語 14 キリストの勝利」からです。 「異教」と「異端」 紀元380年から395年までの15年間は、キリスト教の勝利への道の最終段階になる。そしてこの15年は、背後にアンブロシウス、全面にグラティアヌスとテオドシスの両帝が立っての、「異教」と「異端」の双方に対する、全面的な宣戦布告からはじまったのである。 「異教」とは、もはや説明の要もないと思うが、キリスト教以外すべての宗教を指す。ギリシャ・ローマの宗教、シリア生まれの太陽神、同じくシリア生まれのミトラ神、エジプト生まれの諸神、カルタゴ生まれのタニト女神等々への信仰が「異教」と見なされるのは当然だが、これらの多神教に分類される宗教とはちがって、一神教であるユダヤ教も、キリスト教にすれば「異教」の一つであったのだった。 一方、「異端」となると、三位一体説(神とその子イエスは同格であり、これに精霊を加える)を信仰するカトリック派以外すべての、キリスト教内部の宗派が対象になる。神意たされる教理(ドグマ)で成り立つ一神教だけに、教理の解釈は人の数ほどある、としてもよいくらいに多い。・・・・ 「異端」排斥 テオドシス帝は、紀元380年から395年なでの15年間に、「異端」排斥を目的にしたものだけでも、15もの勅令を発布している。・・・・「異端」は、それが何であろうとキリスト教会の団結を崩すゆえに悪である、としたテオドシス帝の決意は、半端ではなかった。・・・・ 「異教」排斥 「最高神祇官」(ポンティフクス・マクシムス)とは、ローマ人とその住民共同体である国家ローマを守るとされてきた、最高神ユピテルとその妻のユノー、そして知の女神アテネの三神を最上位にする、国家ローマの宗教を祭る祭司や神祇官たちの最高位に位置する公職で、その設立は、ローマの建国にまでさかのぼるほどに古い。・・・・グラティアヌス帝による「最高神祇官」就任拒否は、それゆえに重大な意味をもっていた。・・・・このグラティアヌス帝が実施した「異教」排撃を目的とした施策に最後は、共和政時代の昔から元老院会議場の正面に安置されてきた、「勝利の女神」の像を撤去させたことである。・・・神像とは、当時のキリスト教会が厳しく禁じていた偶像崇拝を体現したものであり、邪教の象徴であり、何よりも「アウトロー」の具象化、とされたからである。・・ |
作者近況の欄です9. |