高校時代からの友人達と今年も紅葉を楽しみます。
京都・大原、「三千院門跡」・「寂光院」
夕餉の席は、銀閣寺道「草喰 なかひがし」
奈良・西ノ京、「薬師寺」・「唐招提寺」を散策し

締めは奈良市内、「霧下そば かえる庵」でのお蕎麦、もちろんお酒も
2012年11月16日、17日
旅のしおりです。

背景は「わらべ地蔵」が遊ぶ三千院のお庭。
11月16日
 マゴッチの梨央ちゃんを保育園、梨央ママを最寄り駅まで送り、9時前には嫁さんと家に帰りました。ホテル・グランヴィア京都での集合時間は12時30分、それまでの時間を、「東寺」探訪に充てることとしました。「東寺」は京都駅に近く、その五重塔は新幹線、近鉄線からはっきりと見えています。弘法大師空海が嵯峨天皇に賜った東寺真言宗の総本山で正式名は「教王護国寺」です。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。東寺に伝わる御詠歌に「身は高野 心は東寺に納めおく 大師の誓いあらたなりけり」とあり、毎月21には「弘法市」開かれます。
 近鉄東寺駅を降り、九条通りを西へ、東寺の南大門へは、ほんの数分です。  南大門を入ると、  正面は金堂が   そして右手に五重塔が眼に入ってきます。金堂、講堂の西側に「灌頂院」、「勅使門」、「本坊」、「御影堂」が並び立っており、「食堂」横の入口から、特別拝観料(「五重塔」初層入場、「宝物館」、「観智院」の拝観)を支払い、入場します。「瓢箪池」を挟んで向こうに「五重塔」が。   五重塔初層を拝観します。  現在の塔は1641年(寛永18)に着工、1644年入仏完成したもので、外観に細かい装飾を付けない古式の姿とのこと。  「金堂」は桃山時代に復興された国宝です。 堂内に「薬師如来坐像、日光、月光菩薩」いわゆる薬師三尊像が安置されています。  「講堂」は東寺を真言密教の根本道場とするべく、弘法大師によって建設が計画されたもので、その堂内には、大師独自の発想にしたがった多数の尊像を配置し、その中心に「大日如来坐像」(国宝)が安置されています。   講堂北側からは駅前の京都タワーが見えています。     「御影堂」  をお詣りし、「南無大師遍照金剛」と口の中で唱えます。宝物館を鑑賞した後、「観智院」を訪ねます。 (観智院の説明)   ご本尊の「五大虚空蔵菩薩像」不思議なお姿を拝むことが出来、「五大の庭」の   前の客殿で、宮本武蔵筆の「鷲の図」を鑑賞することが出来ました。「東寺」については、真言密教を含めて、今一度別ページを作ります。



「有清園」、往生極楽院が木立の間に。
「三千院門跡」へ
 12時20分、グランヴィアのロビーに着くと、既に6人のお仲間は揃っており、チェックインが進行していました。12時35分発の京都バスにタッチの差で間に合わなかった我々7人は、55分発の先頭に並び、好みの席で、大原までの1時間のバスの旅を楽しむことが出来ました。賀茂川、高野川の川堤の木々も紅葉が進んでおり、山近くになると、左手山の中腹に、「大文字焼き・妙法の妙の字形」が見えてきます。
 14時過ぎ、大原バス停に着きます。「志波漬」を始めとするお土産を売るお店が左側に並び、 右側には呂川が流れています。 (律川は三千院境内に流れています。)   その川沿いに見事な色合いの木々が私達の頭に被さってきます。  お城を思わせる石垣の横の石段を上がると、   三千院門跡御御門に着きます。  その横に境内の案内図が置かれています。   

 受付を済ますと履いてきた靴をビニールに入れ、まず、客殿に入り、お抹茶を頂くこととします。緋毛氈の上で、お茶を頂きながら、お庭「聚碧園(しゅうへきえん)」を鑑賞します。その間も、仲間達の会話は止まることはありません。坐って観るお庭の有様は右から 見事な紅葉。  その強い印象。   周囲の緑に囲まれた五輪塔と南天の風景   そのポイントをアップで   翌日の雨予想、今日は好天気の予報に誘われたのか、大変なヒトヒト。お庭の写真は1週間前の下見の写真も混ぜざるをえません。  「聚碧園」です。    「聚碧園」を別角度から    「円融房」への廊下から
  長い廊下を歩き、「宸殿(しんでん)」[後白河法皇により始められた宮中御懺法講(きゅうちゅうおせんほうこう)(声明による法要)を今に伝える道場。御本尊は「薬師瑠璃光如来」。]にお詣り、「虹の間」(下村観山筆)から「往生極楽院」の間の「有清園」を眺めます
 「宸殿」正面の階段を降り、靴を履き、「有清園」を歩きます。 極楽院へ向う道は静寂が   振り返って宸殿方向には色鮮やかな落葉の絨毯が見られます

 「往生極楽院」について、パンフレットでは「寺伝では寛和2年(986)に『往生要集』の著者で天台浄土教の大成者である恵心僧都源信が父母の菩提のため姉の安養尼と共に建立したと伝えられます。お堂に比べて大きい『阿弥陀三尊像』(国宝)を納める工夫として、天井を舟底型に折り曲げています。現在では肉眼ではわかり難いものの、その天井には極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれています。・・・中尊の阿弥陀如来は来迎印を結び、右の観世音菩薩は往生者を蓮台に乗せる姿で、右の勢志菩薩は合掌し、両菩薩共に少し前屈みに跪く『大和坐り』で、慈悲に満ちたお姿です(パンフレットから)」と記しています。
 極楽院内はお説教を拝聴する人が溢れています。三千院のもともとの姿は浄土教の教えにあるようです。
 極楽院前のお庭を歩き極楽院を振り返ります。     「わらべ地蔵」の向こうに極楽院が。     可愛く見えるお地蔵さんの頭部三つが苔に埋もれています
 「観音堂」、「金色不動堂」などを巡り、 「円融房」横の階段を降り、 「円融蔵」で極楽院舟形天井の極楽絵(パンフレットから)を鑑賞します。
 15時50分、「三千院門跡御殿門」を出て、人影が少なくなった坂道を下り、  「寂光院」へ向います。本当は、「京都大原三千院・・・」の歌の雰囲気が味わえる時に案内したいものと残念に思います。     


夕暮れの大原の里、今秋最後のコスモスの花が。
「寂光院」へ
 三千院から寂光院へは、片道約15分から20分、17時の京都駅行きバスに乗車を希望していますので、皆さんに少し急いでくれるよう頼みます。三千院から寂光院への道は、大原の雰囲気を十分に感じさせてくれる道ですので、その気持ちを大切にしながらの急ぎ足です

 道沿いの遅咲きのコスモスの向こうには大原の風情ある景色が、   そして黄葉を愛でながら歩くと、  建礼門院徳子大原西陵の案内が眼に入ってきます。 寂光院には16時15分に到着。 石段を上がり、  ご門前に着きます。  本堂で寂光院についてのお話を伺います。
 寂光院は天台宗の尼寺で、推古2年(594)に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために創建されたとされています。山城、現在の京都市の北に勢力を持っていた小野氏(小野妹子)を寵臣としていた聖徳太子であったことから、その可能性はあると梅原猛氏は「京都発見 3 洛北の夢 寂光院と地蔵信仰」の中で述べています。その書き出しです。
私が寂光院を訪ねたのは1998年の秋、紅葉が美しい頃であった。大原はもともと隠者の住む「寂」という言葉がぴったりと当てはまる所であるが、取り分けこの寂光院はその名の如く、「寂」と「光」が紅葉に照り映えた風雅の趣を見事に作っていた。この寺は、伝承によれば、聖徳太子が母・間人(はしひと)皇后の菩提を弔うために建てられた寺であり、本尊は聖徳太子自らお造りになったというが、この地蔵菩薩は今はなく、現存の本尊は寛喜元年(1229)に造られたものである。ところが、この地蔵菩薩の胎内には三千四百十七体の小観音が納められ、本尊の後の棚には三千二百十体の小地蔵が並んでいる。寺ではこの六千数百体の地蔵を六万体の地蔵という。地蔵は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道にいる衆生の苦しみを救う仏なので、この多くの小地蔵を従えている地蔵菩薩は六道で苦しむ無数の衆生を救う仏であろう。・・・
 この文章そのままの寂光院本堂と平家物語ゆかりの庭園を、  そして、本堂縁側からのお庭の風景を鑑賞し、ました。また、宝物館では火災の際に残った小地蔵を拝むことが出来ました。
 建礼門院徳子は平清盛の娘、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生み、壇ノ浦で入水出来ず、文治元年(1185)9月に入寺。お歌「思ひきや み山のおくに住居して 雲井の月を よそに見むとは」
 バス時間に間に合うよう16時40分、黄葉の下の階段を下ります。   途中、平家物語(建礼門院)ゆかりの泉「朧(おぼろ)の清水」を写真に、 夕暮れの大原の里を急ぎ足で。16時55分にはバス停に到着。17時、無事に、もう一つのメーンである「草喰 なかひがし」へ向うことが出来ました。

これぞ秋の八寸。
「草喰(そうじき) なかひがし」
 予約の取り難いお店として何年も経つ、一見のお客さんを敬遠するお店です。従って、関西に住むものではなく、東京在住の、予約を取ることが出来る友人が半年前に予約を入れてくれ、実現したのです。彼、彼女等とご一緒できるたのは、4回目の「なかひがし」となります。
 このお店で最も感銘を受けるのは、「顧客を大切に考えてくれていることを、ご主人、女将さんはもちろん、店の人全てに感じられることです。」
 お料理、お酒をいただき、〆のめざし付きご飯を済ませ、夜9時半過ぎ、他のお客さんが全て帰った後の一階のカウンターで、小さなグラスのコーヒーと共に、ご主人と我々との会話が楽しめたことは、その最たるものといえます。
 ご主人の中東さんが大原の里などで採集してきた、野に生えた材料を丁寧に処理し、仕上げられたお料理はどれも大変に手の込んだ、他では味わえないものばかりです。そしてさらに、そのお料理達を演出する器(うつわ)はもちろん独創的なものです。
 今回の「八寸」は、盛り沢山の秋です。   「椀物」 椀の裏蓋でお月見が。    「お造り」は辛味大根を添えた鯉を特色ある器で。    こんどの「椀物」はやはり裏蓋で菊花展が開かれます。    我が信州のナイアガラ葡萄酒を添えた鯖寿司。   自家で育てた鶏を使った鶏肉のすき焼き、後で少しのご飯でお出汁を最後まで。   もう一品の後、 〆はめざし付きご飯です。十分にお酒もいただきました。     下に準備が出来たとのご案内で、一階のカウンターに席を移します。そこで本当の〆が。デザートとして濃厚な干しが、枝まで食べられるように細工されています。小グラスには渋いコーヒーが。    ホント満足!!満足!!! 感謝!!!!!してのグランヴィアへの帰還となりました。さらに、グランヴィアでは1時過ぎまで、友人が用意してくれた焼酎を頂戴しながら、4人は、更にアレコレ!アレコレ!!!           



薬師寺・東院堂の聖観世音菩薩。
11月17日
 西ノ京へ
 朝、同室の友人と2人で、7時半過ぎに朝食会場と打ち合わせたある「浮橋」へ降りると、他のメンバー5人は既に食事の真っ最中。前日のアルコールの陰もありません。多少寝不足感がある私も負けずに多くのおかずを平らげます。
 9時23分発の天理行き近鉄急行で、西ノ京へ向います。途中、私が住んでいる「京田辺市大住ヶ丘」を「木津川鉄橋」を渡りながら紹介します。心配していた雨は乗車中はほとんど気になるほどではありません。10時10分、西の京へ到着。「薬師寺」へ向います。
 「薬師寺」
 薬師寺正面はもちろん南門、そして、中門ですが、近鉄電車の西ノ京駅の最寄である「興樂門」(北受付)からの入場となります。境内を一望した後は、「東院堂」の「聖観音菩薩」の拝観へ向います。
 「薬師寺」は680年、天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒のために発願され、藤原京に建立されましたが、710年の平城遷都に伴い、718年現在の地に移されたようです。
 「東院堂」は現在の「薬師寺白鳳伽藍」の中では極めて古さを感じさせてくれるお堂です。東院伽藍は養老年間に吉備内親王(きびのないしんのう)(草壁皇子と元明天皇の次女、文武天皇の姉、長屋王の妃、長屋王の変で自殺に追い込まれた)が元明天皇の冥福を祈り、発願建立されたものですが、天禄4年(973)の火災で焼失、弘安8年(1285)に現在の地に建てかえられた、国宝の建物です。
 内陣の須弥壇の上で、黒漆の大型厨子の中、金色の光背を背に「聖観音菩薩」が美しく、しかも威厳を感じさせるお姿で迎えてくれます。数多い観音様の中で、最も飾り気がなく、清楚なお姿で迎えてくれ、自然に祈りの心が浮き上がって来てしまうのは私だけではないと思われます。銅造、像高は188.9cm、白鳳時代、国宝です。(小学館、古寺を巡る 薬師寺から)  「くりま なぜ、仏像はやせたり太ったりしるのか?」の「理想のバランス完成!」の記事です。雨が少しだけ強くなってきています。ちょっと寒さを感じますが、仏様の前を立ち上がる気は起きません。
 (十一面観音様では、京田辺市内の観音様に同じ感覚をおぼえています。もちろん、国宝です。)
 
 中門への回廊に解体修理が始まっている「東塔」の事前調査報告の写真が貼り出されています。 1)    )     一時、解体修理の為に、その姿を隠していますが、絶対に必要な解体修理であることが解ります。
 「中門」から「金堂」を見渡します。 中門から正面が、金堂、左手に「西塔」、右手はテントで蔽われた修理中の「東塔」があります。西塔は昭和56年に再建されたものです。 塔も相輪も少し時代を感じさせるようになってきています。  雨模様の金堂、西塔です。  それ以外は下見時の写真となっています。
 「金堂」内には薬師寺のご本尊である「薬師如来」が納められています。また、その両脇には向って右手に「日光菩薩」左手に「月光菩薩」が、薬師如来を御守しています。(小学館、古寺を巡る 薬師寺から) 既に拝んだ聖観音と同じに銅造で、安定感があり、調和が取れています。造られた当時は鍍金(ときん)が施されて、黄金の薬師三尊像として、当時の人々は本当に有り難い存在だったことが偲ばれます。現在の黒光りする銅色は現代人には美術的観点からも一層その価値を増しているように思われます。 お堂の外から、各々のお顔をアップしてみます。  薬師如来、   日光菩薩、   月光菩薩 です。金堂内で法話を聞かせていただけるものと思っていましたが、雨のためか?聴衆の集りが悪く、係りの人は時間を限定できないと謝っていました。
 「金堂」の北には「大講堂」が建てられています。伽藍最大の建物で、古代伽藍は金堂よりも講堂が大きく造られています。これは南都仏教は教学を重んじ、大勢の学僧が参集して経典を講讃したためとのことです。内部には「彌勒三尊像」(重文・白鳳時代)が安置されています。この彌勒三尊像は、薬師三尊像として祀られていましたが、かって西院弥勒堂に安置されていた由緒から、大講堂の落慶を期に本来の彌勒三尊像の名に復したとのことです。3像は銅造で、左脇侍は法苑林菩薩、右脇侍は大妙相菩薩とよばれています。
 「興樂門」へ向う途中に、「紫式部」が果実をつけていました。そして、横には、白い紫式部も。   「玄奘三蔵院伽藍」へ向います。
 回廊に囲まれた中央には「玄奘塔」があり、須弥壇には玄奘三蔵訳教像がお祀りされています。玄奘三蔵は経典を求め、西域を通り、インドまで求法の旅をします。そして、「法相宗」の始祖となりますが、その旅をパノラマ風の大壁画として、平山郁夫画伯が目の前に魅せてくれます。「大唐西域壁画殿」が完成した折、押し合いへしあいの人々の中、始めて拝見した時よりも、今回の方がその絵の深みを感じさせられたのは歳のせいなのでしょうか?
 「唐招提寺」
 10分ほど歩き、「唐招提寺」へ着きます。 「南大門」から「金堂」まで、広い砂利道が続いています。周囲は木々に囲まれており、薬師寺の雰囲気とは全く違った重々しい感覚を覚えます。解体修理が済んだ「金堂」の外観は、全く以前の有様と変わりがありません。内部の重要部分のみ新しい材料を使用して完成させたようです。内部の仏像群も各々修理がなされた様子をテレビでは見ていますが、変わったようには見えません。ご本尊の「盧舎那仏坐像」、「薬師如来立像」、「十一面千手観世音菩薩立像」はその大きさに圧倒されます。「講堂」には、薬師寺 講堂と同じ「彌勒如来」がお祀りされています。庭を歩くと、「滄海」と称する池があり、風情ある紅葉が見られます。 「鑑真和上御廟」 を拝し、 「御影堂」を門の外から拝観します。そして最後に、「戒壇」を門外から拝観します。戒壇は僧となるための授戒が行われる場所で、建物は焼失し、現在は石壇のみとなっています。上部の塔は、昭和53年(1980)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔のようです。
 元々、鑑真和上は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招かれました。何回かの失敗の後、天平勝宝6年(754)難波津に上陸。東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙彌、僧に具足戒を授けます。(ウィキペディアより)翌年、東大寺に日本初の授戒の場として戒壇院が建立されます。
 時間は13時、タクシーで奈良市内へ向います。三条通りを東へ、JR奈良駅を過ぎると、日曜日は歩行者天国となる道も今日は車が入ります。大盛のお蕎麦の準備をお願いしている「霧下そば かえる庵」には15分遅れでの到着です。下見の時(ほぼ同じ刻限でしたが、お蕎麦が売り切れで食せませんでした。)と違い、雨のためか、お客さんが少なく、席は準備されていました。お酒を頂かない3名は早速、釜揚げ蕎麦などの注文をしていますが、呑み助4名は早速お酒の注文です。もちろん、お酒はお店のお勧めを頂戴します。まずは「冷や」で、そして「お燗」で。つまみはやはりお薦めの「三種盛り」、「冷奴」、「大根のお漬物」などで、十分に。
 弾む話の中で、次回幹事を考えている松本の友人が、次回の場所の検討を提案。来年は初めて、「東京では」との意見があがり、「鎌倉」、「夕食はイタリアン」が決定しまし、東京在住の友人に幹事をお願いすることとなりました。そこでようやく、4人はご主人こだわりの10割蕎麦、「大盛もりそば」を味わうことができました。私見では、お蕎麦もさることながら、付け出汁が絶品でした。
 14時半、お店を出ると、雨は土砂降りです。近鉄奈良駅へ向う1人とはここで別れ、6人はJR奈良駅から京都線へ乗車。京都駅から東京、松本へ向う4名とは、来年の再会を祈念して、木津駅で別れることとなりました。笑いずめの楽しい2日間、皆様に感謝!!!感謝!!!!!です。


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