初夏の鎌倉を旅しました。
逗子マリーナに泊まり
「RIVIERA GRAND BLUE」
でのイタリア料理も楽しみました。

2013年5月13日、14日
「長谷寺」から、鎌倉市内、「逗子マリーナ」を眺めます。

 13日朝、9時27分、予定通りの「700系 ひかり514号」9時29分発が定刻に入線してきます。横浜まではもちろん「のぞみ号」が速いわけですが、「ジパング倶楽部」での3割引きにはかないません。先日、富士山が世界遺産に登録されそうだ!との報道に接し、再度、新幹線の中から1ショットを!と考えE 席を指定し購入していたのですが、残念ながら雲の中!上空は晴れているのに!
 新横浜駅のホームで、関西からの友人1人と合流し、「横浜線」で横浜駅へ。横浜駅からは逗子行きの横須賀線で鎌倉へ。13時5分前には鎌倉駅に到着し、松本、東京のメンバー4名と合流できました。

 「高徳院」鎌倉大仏
 鎌倉駅からは「江ノ島電鉄」通称「江ノ電」で長谷へ。長谷駅から15分程歩き、「高徳院」(大異山高徳院清浄泉寺)通称は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」「露座の大仏」に着きます。この「阿弥陀如来坐像」は国宝です。ここに在る、 「鎌倉観光案内図」で   鎌倉市全体を      「鎌倉大仏」周辺      「鶴岡八幡宮」「北鎌倉」方面      を確認します。     また、境内にある 「高徳院境内図」を。   「鎌倉大仏由来」     「その英語版」  で、大仏様の概要を知ることが出来ます。ただ、創建とそれ以降の事柄について、必ずしも正確な資料が残っていないようで、諸説がささやかれているようです。「高徳院」の説明文には、「・・・北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252(建長4)年。製作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたものとも伝えられています。もっとも、創建当時の事情には不明な点が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていません。・・・」と記されています。

 境内に入ると、木立と観光客に囲まれた「大仏様」が見えてきます。      与謝野晶子の詩「かまくらやほとけなれども釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」(境内の歌碑)に詠まれている「大仏様」を撮ります。       1) 正面全体      2) お顔のアップ      3) 横顔も    4) 後へ周ります。     大仏様の胎内に入ります。恐れ多いことです。    「胎内の説明」      「胎内写真1」      「胎内写真2」
 鎌倉大仏回廊裏手の与謝野晶子歌碑の横に「観月堂」があります。朝鮮李王朝の月宮殿を移築したものといわれています。

 「鎌倉長谷寺」
 13時50分 「高徳院」を出て、「長谷寺」へ向います。江ノ電長谷駅へ戻る道を10分ほど歩き、右折すると、「長谷寺」の前にでます

 ここでふと、奈良の初瀬(泊瀬)の私には馴染み深い、長谷寺と鎌倉の長谷寺は関係があるのだろうか?という疑問がわき、ネットで検索してみました。その疑問にベストアンサーがありました。 
開基のなる道明上人が、奈良の初瀬の山中に楠の巨木に出会い、その巨木で2体の観音像を刻み、1体は奈良の初瀬に安置し(奈良の長谷寺)、もう1体を祈祷のうえ、海に流すと15年後に三浦半島に流れ着き、そちらを安置したのが鎌倉の長谷寺であるとの伝説があります。 おとき話の「わらしべ長者」の舞台が奈良の長谷寺です。  ということです。
 
 お寺で頂戴した冊子では
 正式には、「海光山慈照院長谷寺(かいこうざんじしょういんはせでら)」と号します。往古より「長谷観音」の名称で親しまれる当山は奈良時代の天平8年(736)開創を伝え、寺伝に曰く、聖武天皇の御代より勅願所と定められた、鎌倉有数の古刹であります。本尊の十一面観音菩薩像は像高三丈三寸(9.18m)にも及ぶ本邦最大級の木彫仏で、東国を代表する観音霊場の象徴でもあります。・・・
 
 本堂(観音堂)について 
本尊である十一面観世音菩薩像について、当山の伝える縁起によれば、養老5年(721)、大和(奈良県)長谷寺の開山である徳道上人の本願に元づき、稽文會(けいもんえ)、稽首勲(けいしゅくん)と名乗る二人の仏師(不空羂索観音と地蔵菩薩の応化身)により楠の巨木な霊木から二体の観音像が三日三晩にして造顕されたといいます。そのうちの一体が大和長谷寺の本尊となり、残る一体は有縁の地における衆生済度の誓願が込められ、開眼供養を修した行基菩薩によって、海中へ奉じられました。その後、天平8年(736)に至り、尊像は相模国の長井浦(横須賀市長井)の洋上に忽然と顕れ、その旨を受けた大和長谷寺の開基藤原房前(藤原鎌足の孫)によって尊像は鎌倉へ遷座され、当山開創の礎となりました。錫杖を右手に執り、岩座(金剛宝盤石)に立つ尊容は長谷寺に祀られる十一面観音像特有の姿として「長谷寺式」と呼ばれます

 「長谷寺」の山門を入り、石段をあがり、「阿弥陀堂」、続いて、本堂の「観音堂」へお詣りします。観音堂内からは宝物館へ行くことが出来ます。 冊子に載せられた境内の全容です。    ご本尊の「鎌倉長谷寺の十一面観世音菩薩」  お顔は    「奈良長谷寺の十一面観音菩薩」   お顔は  と同様に、巨大なお姿です。宝物館内に、  「十一面観音懸仏(かけぼとけ)」が置かれています。珍しい仏様です。説明書を拡大してみます。  懸仏(かけぼとけ)は神仏習合の象徴で、神鏡という依代(よりしろ)に神が自分自身の本来のお姿(本地仏)を現したものと説明されています。「長谷寺の開創と大仏、そして円応寺」というコラムが掲示されています。    「経蔵」前のこじんまりしたお庭の横から、「眺望散策路」に入ることが出来ます。登り道です。徐々に眺望が開けてきます。  地蔵菩薩の背後に長谷の町並みと海が見える光景      「経蔵」の背後に鎌倉の山の手が見える光景      今夜のお宿となる「逗子マリーナ」が望まれます。      この紫陽花園はあと半月で満開となるのでしょう。      「見晴台」まで降りてきます。     ここからの眺望図が置かれています。      階段下の池に「海芋(かいう)」という白い花が咲いています。池の赤い鯉との対比に興味が湧きました。海芋(カラー、Calla,Calla liliy)はサトイモ科の植物で、南アフリカ原産、江戸末期にオランダから渡来したとのこと。花はメガホン状のところではなく内側真ん中の黄色い棒部分でメガホン状の部分が内側の花を守っているのだそうです。面白い!!!
 14時40分、山門前のこぶこぶが不気味な椨(たぶ)の巨木(クスノキ科の常緑高木)の横に海外からの学生と思われる団体が集まっていました。    長谷駅に向う途中に
「日蓮宗 収玄寺」という門があり、その内に「四條金吾邸 東郷平八郎書」(四條頼基は鎌倉時代の武士で、日蓮の有力壇越。官位が佐衛門尉であったことから唐名である金吾と称され四條金吾ともいわれているようです。)と記されら大きな石碑が立っていました。    
 15時丁度に「江ノ電」鎌倉駅に戻り、「鶴岡八幡宮」へ向うため、「小町通り」に入ります。   「小町通り」はヒトヒト人。    15分ほど歩いて、神宮前の鳥居に着きました      「鶴岡八幡宮の鎌倉における位置関係は」 このようなものです。

 鶴岡八幡宮
 相模国一宮。祭神は応神天皇・比売神・神宮皇后(応神天皇の母)の3座を祀っています。1063年(浩平6)源頼義(よりよし)が鎌倉由比郷に岩清水八幡宮を勧請(現在の末社由比若宮)し、1180年(治承4)源頼朝が挙兵し鎌倉に入ると、社を小林郷北山の現社地に遷し、都市鎌倉の中心に据えました。鎌倉八幡宮とも呼ばれ、武家源氏、鎌倉武士の守護神。近年では三大八幡宮(宇佐神宮・岩清水八幡宮)とされている。(筥崎宮に代えて)また、八幡社の比売大神は宗像三女神とも卑弥呼とも言われています。

 丸橋の左側を抜け、     境内に入ります。     正面の「舞殿」。      倒伏した大銀杏。    その説明板。      階段から大銀杏と若木の様子を。     急な階段を上がり、楼門(隋神門)へ向います。       「本殿」です。朱塗りの社殿は見事な造りといえます。      「本殿」にお詣りし本殿内へ入ります。     楼門前から境内その他を俯瞰します。 
 
 15時50分、お宮を後に、16時、鎌倉駅に戻りました。駅前で翌日の朝食などを各自購入し、路線バスで「逗子マリーナ・カトレア館」へ向いました。


 18時23分、「逗子マリーナ・カトレア館」玄関前に到着しました。 ここはリゾートマンションタイプで、オーナーズ会員である友人が利用できるかたちとなっています。今回は4部屋の利用となりました。  17時、部屋の窓からの眺めです。     部屋で一休みし、シャワーをあびます。 18時、夕食の為「逗子マリーナ」敷地内のイタリアンレストラン「リピエラグランブルー」へ向います。途中、川端康成が自殺したというマンション前を通ります。  夕暮れです。右手に、多数のボートが係留されたマリーナが見えてきます。    「リビエラグランブルー」の玄関。    その右手は南国リゾート気分満点の雰囲気です
 
 丁度この時間、夕暮れ、レストランの窓からの景観に遭遇、暫しこの景色を楽しむこととします。新幹線から見えなかった富士山が江ノ島とともに映っているのです。



18時23分

18時25分

18時25分

18時27分

18時27分
 RIVIERA GRAND BLUE
 今日のメニューが紹介されます。   Antipasto ゼッポリーネ・ペペロナータ・たことセロリのサラダ・ナポリのサラミ・いわしのマリネ Primo piatto ズィーティのナポリ風ラグー Pesce アクアパッツァ Carne 仔牛と水牛モッツァレラチーズのピッツァイオーラDOC Dolce オレンジのババ ズィーティのナポリ風ラグーはズィーティパスタのごった煮。 ドルチェですから「ババ」はもちろんケーキです。
 
友人のお勧めで、ワインはシチリア産の白を頂くこととします。各々、変わった味を楽しみながら、我々の主采はやはり、会話ということになりました。


 21時に「カトレア館」に戻り、関西からの友人が持参してくれた焼酎2本を味わいながら、いつものように日付が変わるまで、、話に興ずることとは、なりました。


 14日。

 起きると、同室の友人が朝の散歩に出かけています。体調保持の為、昨夜の2次会を避け、部屋で先に休んでいた為です。昨日買って来ていた朝飯を食べます。7時半には友人が戻ったので、変わりに出かけることとします。マリーナ方面へのお出かけです。

 7時45分、我々が宿泊している「カトレア館・7号棟」を振り向きます。  「リヴィエラ 逗子マリーナ」の全体図です。    本館西側のヨット、ボートが陸揚げされている地点でボートを眺め、   試乗艇の値段に驚きます。    ヨットハーバーの突堤先から江ノ島を眺めます。   前夜の「リヴィエラグランブルー」をボート越しに     ヨットハーバーの最先端の突堤風景      係留されているヨット。カタマラン型のヨットもあります。   
 
 部屋に帰ると、友人が、朝の散歩の時、地元の漁師さんに貰ったという、「さくら貝」をみせてくれました。さくらの花の色、手の爪ほどの大きさで、持てば潰れそうです。
 9時過ぎにカトレア館をタクシーで出発します。JR北鎌倉駅構内の一時預けロッカーに荷物を預け、円覚寺へ向います。

 「円覚寺(えんがくじ)」
 

 昔から、国宝「円覚寺舎利殿」は一つ言葉になっていました。切り離して考えてことはありません。でも、円覚寺は舎利殿ばかりではなかったようです。
 正式には「瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)」。臨済宗円覚寺派の大本山。鎌倉五山第2位に列せられています。御本尊は「宝冠釈迦如来」、開基は北条時宗、開山は無学祖元です。
 鎌倉時代の弘安5年(1282)、鎌倉幕府執権北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧無学祖元を招いて創建しました。北条得宗家の祈祷所となり、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されました。

 9時半、「円覚寺総門」の石段の下に着きました。   石段を登り、「総門」へ。周囲は新緑に蔽われています。      総門内に案内板があります。     説明板で建物の理解をします。      三門(山門)、天明5年(1785)に再建されたといわれています。「円覚興聖禅寺」の額字は伏見上皇の
勅筆とされています。      仏殿、昭和39年(1964)、コンクリートで再建されています。      中に安置してある御本尊は「宝冠釈迦如来像」です。     「妙香池」、無窓祖石作と伝えられている庭園の遺構とのこと。     「舎利殿」、「開山堂」などが境内にある塔頭・正続院の門前にでます。      説明板を読みます。     門から遠くに唐風門が見え       その奥に「舎利殿」があるはずです。(ヤフー画像から借入)      「仏日庵」は開基北条時宗を祀る塔頭寺院で境内には時宗、定時、高時の木像を安置する開基廟があります。     開基廟です。      松嶺院は遍路道を歩くと、いろいろな花があり、奥の墓所には開高健、田中絹代などのお墓があります。坂本弁護士のお墓は見つけられませんでした。お墓の撮影は遠慮し、花を撮影しました。「牡丹」で有名ですが、野に咲く小さな花々に安らぎを感じます。     「つゆくさ」     「ひめごばんそう」     です。

 10時15分、円覚寺をあとに、「東慶寺」へ向います。

 「東慶寺」 
 
 「東慶寺」は「縁切寺(駆け込み寺)」として古来から有名で、様々な歴史、逸話があり、時代小説にもしばしば登場します。「縁切寺法」というものがあり、江戸時代は幕府公認の縁切寺の立場を維持したようです。
 臨済宗円覚寺派の寺院で、山号は「松岡山」、寺号は「東慶総持禅寺」、御本尊は「釈迦如来」。鎌倉幕府第9代執権・北条貞時が 父時宗死去の翌公安8年(1285)覚山尼を開山として建立したお寺です。覚山尼は時宗の夫人で、定時の母にあたります。
 明治36年(1903)までは代々尼寺で、尼五山の第二位のお寺であったようで、江戸時代初期豊臣秀頼の娘(奈阿姫)、秀頼の正室である千姫の養女に当たる「天秀尼」が20世住持として入山しています(天秀尼頂相(ちんぞう))。
 
 10時20分、「東慶寺」前に着きます。  入り口手前右側に東慶寺案内板が置かれています。     入り口を入ると、「夏目漱石参禅百年記念碑」があり、    その説明板です。     「山門」は萱葺きの質素なものです。      山門を入ると、真直ぐに伸びた道の両側は緑に蔽われています。隠れ里の趣は、「縁切り寺」の趣きと一致するのでしょう。     本堂のお庭に「植村宗光和尚(日露戦争で戦死)の宗光塔」があります。     「さざれ石」(長い年月のうち雨水に溶解し、小石を集結して大きくなり、やがて苔が生じるという「君が代」にあると同じ巌。)      後醍醐天皇の皇女「用堂女王」の墓の石碑(東慶寺が「松岡御所」と呼ばれる所以の後醍醐天皇皇女は五世住持)      階段を上がると岩窟とその墓所がありました。      菖蒲池に黄色の花をつけた花が咲いています。周辺は寺内とは思えません。寺域内で、自給自足のための農作業もしていたのかも知れません。
 昨日からの飲食と朝からの散策でチョットつかれを感じた様子の5人は、「宝蔵」前の椅子に腰掛け一休み。私のみ、丁度、開かれていた「天秀尼展」へ入り、展示されていた「天秀尼 木像」に思わず手を合わせてしまいました。

 10時45分、「東慶寺」を出て、「建長寺」へ向います。途中、昼食をお願いしている「精進料理 鎌倉梅の木」の前を通ります。昼食の為の開店時間が来ていません。

 「建長寺」
 
 
建長寺は、正式には「巨福山(こふくさん)建長興国禅寺」と言い、鎌倉五山の第一位、臨済宗建長寺派の大本山です。建長5年(1253)に鎌倉幕府第5代執権北条時頼(1227〜1263)により建立されました。開山は「蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)」で、南宋から来日しました。蒙古襲来の折、元からの密偵との疑いをかけられたようです。諡号は「大覚禅師」。「蘭渓道隆」の後嗣として「無学祖元」が来日しました。

 10時50分、「建長寺西外門(天下門)」前につきます。    「天下禅林」の巨大額を見上げます。「人材を広く天下に求め育成する禅寺」と言う意味とのことです。     横に立つ「境内図」を確かめます。      沢山の観光バスが駐車している駐車場を通り、「総門」へ向います。扁額の「巨福山」から「巨福門(こふくもん)」と呼ばれています。第十世一山一寧(いっさんいちねい)の筆この額は、「巨」の字に点が加えられて、百貫の価をそえたものといい、この点は「百貫点」と呼ばれているとのこと。      境内に入ると、更に巨大な「山門(三門)」(三解脱門)(重文)が聳え立っています。      「建長興国禅寺」(後深草天皇の宸筆)は大扁額をかけるために上層に「軒唐破風」が設けられました。       山門右手に、国宝の「梵鐘」が見えています。建長7年(1255)に関東の鋳物師の筆頭であった物部重光によって鋳造されました。「円覚寺の梵鐘」とともに昭和28年国宝に指定されました。      山門を抜けると正面は「仏殿」です。現在の仏殿は、正保4年(1647)、芝増上寺の二代将軍秀忠夫人(崇源院)の御霊屋が移築されたもので、寛永5年(1628)の建物であり、重文にしていされています。      「仏殿」についての説明書。       ご本尊「地蔵菩薩坐像」です。       仏殿前に巨大な老木、柏槇(びゃくしん)が立っていました。その表面がいかにもそれらしく変化してしまっています。その保護についての説明です。      「法堂(はっとう)」(法を説くためのお堂)現在の法堂は文化11年(1814)再建されたもののようです。    堂内には「千手観音像」と「釈迦苦行像」(模造・パキスタンから寄贈されたものとのこと)が置かれ、天井には「雲龍図」(平成15年、建長寺創建750年を記念して、画家小泉淳氏によって描かれたもの)が画かれています。      「法堂」の後は大きな寺域があり、その先に、金ぴかの「唐門」(「勅使門)(中国風ということではなく、屋根が唐破風になっている門)が見えています。「方丈」の正門です。この唐門は仏殿と同様に崇源院の中門が移築されたもののようです。     右手「大玄関」から入ると、門の内側は「方丈」のお庭となっています。       方丈は「龍王殿」と呼ばれています。総門と同じく昭和15年(1940)京都の「般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)」から移築されたもの。    内部には大きな「龍の襖絵」が描かれています。      方丈裏は「庭園」、開山大覚禅師(蘭渓道隆)作庭の「庭園」と言われていますが、現在は江戸時代の作庭と言われています。      庭園左手、池は「心字池(さん碧池)」。      庭園右手、建物は「得月楼」。   

 11時30分、建長寺を出発、15分ほどで「鉢の木・北鎌倉店」へ到着しました。「かえる」が迎えてくれました。案内された部屋には既に沢山のお客さん(私達以外は全てご婦人方のグループでした)が食事を楽しんでおられました。
 まず、地ビール「鎌倉ビール」で乾杯。 「精進料理」を楽しむ時には、やはり、お酒のぬる燗。いつものように会話を弾ませ、最後に今年の秋の計画案を協議します。秋は「信州、白馬高原」方面、若干の登山を含むとのことで決着。

 北鎌倉駅から帰りの東京方面への電車に乗車後、私が荷物を北鎌倉駅で忘れていることに気づき、一人引き返したという「トンマ」な出来事以外は、ほぼスケジュール通りの「初夏の鎌倉」への旅でした。大変な時期、案内をしてくれたM氏、と各々大変なことを抱えながらの参加の皆様に感謝!!!感謝!!!!!です。


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