泊瀬の道・長谷寺へ 2011年元旦
 
2003年12月20日の旅を思い出しながら
冬の長谷寺・冬牡丹が藁帽子をかぶっています。



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 2003年12月20日、雪が舞っている中を近鉄大阪線・大和朝倉駅から長谷寺までの「泊瀬の道」を旅しました。今回、初詣を兼ねて長谷寺駅に下り立った時の厳しい寒さで、その時を思い出しました。
 近鉄大阪線は大阪からほぼ西に、大和八木、桜井、長谷寺、榛原を経て、松坂、伊勢神宮へ通じている古代では最重要な道を通っています。線路とは並行するように国道165号線(初瀬街道)が走っており、やはり、お伊勢さんへつながっています。桜井からすぐ北には、三輪山・大神神社が、南は飛鳥への道があります。桜井で分かれる、もう一本の西へ行く道は166号線で、こちらは宇陀からお伊勢さんへの道をたどります。
 初瀬(はせ)の追分 東はお伊勢 西はなにわで 北は奈良  万葉の道 飛鳥編 泊瀬の道 の書き出しです。 
 
追分の元祖とも伝えられる「初瀬追分節」の一節だが、追分の地を実にうまくいいあらわした歌の道標だ。 「泊瀬の道」は、この追分の地である桜井市朝倉を基点に、出雲・初瀬(はせ)を経て吉隠(よなばり)から宇陀郡榛原町西峠を越え萩原に入り、福地・山辺三(やまべさん)・篠畑(ささはた)に至るまでの区間として、飛地として都祁(つげ)など一部大和高原地方や、巻向山中、額井岳(ぬかいだけ)山麓周辺をとりあつかう。・・・時代がさがると、泊瀬の道は、熱狂的な観音信仰にささえられた長谷詣の道として、平安時代から中世にかけてにぎわう。長谷寺の名が、『源氏物語』や『枕草子』にもみられるし、『更級日記』、『蜻蛉日記』の作者などは、みずから長谷詣をした。この道はやがて、伊勢参りの伊勢本街道と重なり発展していく。こんにち初瀬峡谷は国道165号線が貫き、初瀬川南岸山腹には近鉄大阪線が特急電車を走らせる。・・・・・
 前回、2003年の12月は、朝倉駅から北、三輪山山麓方面へ向かい、「玉烈(列)神社(たまつらじんじゃ)」にお参り、道を東にとり、「万葉集発燿讃仰碑」石碑の建つ、雄略天皇(21代)の泊瀬朝倉宮の跡、 武列天皇(25代)の泊瀬列城宮(はつせまみきのみや)跡といわれる十二柱神社(じゅにはしらじんじゃ)、そして、線路の反対側の急坂を登り、もうひとつの雄略天皇朝倉宮の跡といわれる十二神社を訪ねま、長谷寺へ向かいました。
 
泊瀬とは、瀬のはじまるところか、瀬の果てるところか、その地名語源は不透明だが、いずれにせよ泊瀬というひびきからは、最果ての地域が想像されてならない。日本書紀天武2年(673年)の記事には、大来皇女(おおくのひめみこ)を伊勢に巫女として赴任させるにあたって、泊瀬斎宮(はつせいつきのみや)で潔斎させてこと、また同8年(679年)の記事には、泊瀬迹驚淵(とどろきのふち)で供奉した処女たちを饗宴させたことが記録されており、天武天皇と泊瀬の地との古いゆかりをしのばせるが、・・・・



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長谷寺へ
 12時過ぎに、長谷寺駅に着きます。階段道を降りて、国道165号線を渡ります。ホント寒い!!!初瀬川を渡ります。門前町の町並みを歩き、「法起院」に着きます。法起院の裏庭に沿って、初瀬川が流れています。昔は初瀬川は川幅が広く、舟便もあったようですが、現在の流れからは想像できません。

 泊瀬川 夕渡り来て 我妹子(もこ)が 家の金門(かなと)に 近付きにけり (巻9・1775)  
 泊瀬川 早み早瀬を むすび上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも (巻11・2706)
 ある本の藤原京より寧楽宮(ならのみや)に遷れる時の歌  天皇(おおきみ)の御命(みこと)かしこみ 柔(にき)びにし 家をおき 隠国の 泊瀬の川に 舟浮けて 我が行く川の・・・・(巻1・79)


 法起院から町並みを少し進むと、正面川向こうに「與喜天満神社」の鳥居と旗が見えてきます。チョット興味を引かれるものがあり、初瀬川を渡ります。橋からは長谷寺の本堂と五重塔が望まれます。  杉並木に囲まれた石段を275段上がり、神社にお参りします
(菅原道真を祭神としていますが、もともとは長谷寺の地主神といわれ、古い太陽祭祀の土着的な天神信仰にささえられていた。との解説がついています。)
 長谷寺は新義真言宗豊山派総本山で、末寺は3000余を数える。西国三十三ヶ所八番札所としてあまねく知られた寺院だ。 創建は天武天皇の病気平癒を祈願して、飛鳥川原寺の僧道明が西岡に三重塔(多宝塔とも)を建立したのにはじまるという。これを本長谷寺といった。その後聖武天皇(45代)の時代に、徳道上人が東岡に十一面観世音菩薩を本尊とした一寺を建ててのが現在の長谷寺の草創といわれるが、正史の上ではいずれも明らかではない。しかし霊験高い観音信仰の中心地として平安時代以降殷賑をきわめ、熱狂的な長谷詣の人がきをつくっていく。 この寺は何度も大火にあい、本尊も創立のときのものではない。しかし創建以来の欠を補う貴重な資料として、有名な銅版法華説相図[国宝、千仏多宝仏塔銅板ともいう。銘文は39文字でしかないが、長谷寺草創の有力資料となっている。朱鳥元年(686年)天武天皇病気平癒のため、この銅版が製作されたと、一般には解釈されている。]など文化遺産も数多く保存されている。 108間、399段、上・中・下の3廊にわかれた仁王門がら本尊に通じる登廊は有名で、とくにその両側に段丘をつくって植えられた数千株のボタンは、「長谷牡丹」として全国にその名をとどろかせている。
 駆け足での泊瀬の道、長谷寺のお参りとなったのが心残りで、再度、奈良万葉の道への旅を再会したい思いにかられる2011年元旦となりました。


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