多武峰(とうのみね) 談山神社(たんざんじんじゃ) (10月20日) |
談山神社を語るとき、中臣鎌足(後の藤原鎌足)・定慧・不比等との関連を明らかにする必要があります。 まずは、談山神社由緒書を以下に記してみます。 舒明・皇極2代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていた。この時、鎌足公は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていた。たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠の会があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子に見える事が出来、西暦645年の5月、2人は藤の花の咲き乱れる多武峰(いまの本殿裏山)に密かに登って、「大化改新」の談合を行ったのである。後にこの山を、”談(かたらい)山、談所ヶ森、と呼び、また神社の社号の起こりとなった。・・・天智天皇8年(669)10月鎌足公の病重しと知った天皇は、みずから病床を見舞い、後日、大織冠(たいしょくかん)を授け内大臣に任じ、藤原の姓を賜わった。藤原氏はここに始まるのである。・・・・その没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐の国より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立した。大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭して今日に至る。 有力な豪族のバランスに乗った大王(おおきみ)としての立場から、天皇を頂点とした律令国家への始めての革命である「大化改新」の主役はもちろん中大兄皇子ですが、そのように皇子を仕向け、成功への道を導いたのは、鎌足であったと思われます。これは、その後、藤原氏が天皇制の摂関家として、長く栄えた歴史を見れば、主役は鎌足であったとしても不思議ではありません。 以下は「塔」梅原猛氏によります。 鎌足の子・定慧が出家して遣唐使一行に加わって入唐したのは白雉4年(653)のことである。定慧は時に齢11歳であった。その時まだ彼の弟不比等は生まれていない。つまり彼は、当時最大の権臣、藤原鎌足の一人息子だったのである。(そんな彼がなぜとの疑問は自然に生まれてきます。)・・・・ 定慧が強制送還のなって都へついたのは、天智4年(665)9月24日であるが、それより、ちょうど3ヵ月後、12月23日の定慧は死んだ。23歳の若さであった。ところで、この死因について疑問がある。大切なとこえろなので、「定慧伝」の原文を引用する。「百済の士人、窃かに、其の能を妬み、之を毒す。すなわち、其の年十二月廿三日を以て大原の第に終る。春秋廿三.道俗涕(なみだ)を揮ひ、朝野心を痛む。」 百済で毒を盛られ、大原で死んだとの記事ですが、大変不思議な話です。・・・定慧は帰国後、天智天皇の監視の下に置かれたようです。そして、突然に彼の死がやってくるのです。 梅原氏は定慧は孝徳天皇の息子であるとする説を、極めて可能性が高いとしています。鎌足の死は、天智7年(669)とされています。死んでいる息子が親の鎌足を祭るわけがありません。事実は不比等が父釜足の意思を継ぎ、定慧のため十三重塔を建て、菩提寺をつくり、後に、神社となったと考えるのが、無理のない考えのようです。 |
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十三重塔です。小さく小生が。 木造の十三重塔は日本で唯一のものです |
本殿です。朱色が鮮やかですね!! |
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