雄略天皇と武烈天皇 |
雄略天皇(ワカタケル大王)は有徳か大悪か? 第21代雄略天皇は19代允恭天皇(16代仁徳天皇と磐之媛の皇子)と忍坂大中姫(おしさかのなかつひめ、15代応神天皇の孫)の皇子であり、皇位継承の正当性を備えていたが、即位にあたって血なまぐさい歴史を残しています。允恭天皇は群臣(まえつきみ)の推挙によって皇位についたが、雄略は20代安康天皇を暗殺したマヨワ(眉輪)王とツブラノオオキミ(円大臣)を殺害し、兄たち(黒彦、白彦)を殺害、さらに17代履中天皇の皇子市辺押磐皇子(いちべのおしはのみこ)を淡海の狩場で謀殺し、皇位についているのです。この覇王としての雄略を日本書紀は大悪の一面として、表記ているようです。書紀はまた、有徳の例として、一言主との対面の折の逸話を挙げています。 一方、古事記は歌謡物語を中心とした、妻訪(つまど)いの遍歴を重ねる「色好みの英雄」に仕立てられているようです。 万葉集初卷の「籠もよ み籠持ち・・・・」の歌が、その例といえます。 大泊瀬幼武(オホハツセワカタケル)の名は、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘に表記されていますが、真実の解明はやはり難しく、仮説の域をでないようですね。でも、彼の宮が、泊瀬朝倉宮であるとすれば、その権力はけっして強大なものではなかったのではないでしょうか? それが、この泊瀬を訪れたものの実感です。 |
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泊瀬朝倉宮跡とされる、白山比盗_社横、万葉集発耀讃仰碑です。 クリックすると、写真内の万葉碑が大きく現われます。 |
武烈天皇 中国王朝交代の理由である典型的暴君とされるのが、この25代武烈天皇です。 26代は継体天皇ですので、王朝交代は事実に近い事柄と考えられます。ただ、継体天皇の皇后は武烈の姉の手白香皇女(たしらがのひめみこ)で、その皇子である、27代安閑天皇(あんかんてんのう)・28代宣化天皇(せんがてんのう)の旧王朝との血筋は繋がっています。(”山辺の道”で紹介した衾道陵はこの手白香皇女の陵とされていますが、なぜここに?との疑問はやはり残ります。) 書紀に書かれたこの天皇の本来の名は「小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせわかさざきのすめらみこと)で、泊瀬は雄略の「大泊瀬」、稚鷦鷯は仁徳の「大鷦鷯」と対応しており、聖帝仁徳と覇王の雄略を継承する人物として位置づけられているようです。 (以上雄略天皇、武烈天皇の記事は「歴史読本」1月号”『古事記』『日本書紀』と古代天皇家”を参考にしています。) |
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出雲・十二柱神社境内の泊瀬列城宮(なみきのみや)跡碑です。 クリックすると、宮跡正面です。 |
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