歴史散歩番外・イタリア紀行 周遊10日間の旅 (南のアルベロベッロ・ローマ・北のミラノまで) |
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背景は南イタリア・アルベロベッロのトゥルッリと快晴の空です。 |
アルベロベッロ郊外。トゥルッリと牛が放牧される農園 |
ヴェネチィアの夕暮れ |
8月24日誕生の梨央ちゃんが少し落ち着いた、11月1日、嫁さんと二人で念願の、「イタリア10日間の旅」に出ることになりました。この数年、一年に一度、一週間の休みを取る必要のある職場であったため、その折はトラピックスさんの国内旅行(日光・善光寺 北海道 東北地方 九州 北海道)に出掛けていました。その旅は全て快適なものでしたので、そんな安心感と親近感から今回もトラピックスさんの説明会に参加し、旅の計画を決めました。この旅も、素晴らしいお仲間と添乗員さん、バスの運転手さん、そして、各地のガイドさんの御蔭で、大変楽しく、興味深い旅を満喫させて頂きました。有り難うございました。少々疲れましたが!! 旅は、ローマ、南イタリアのマテーラ・アルベロベッロ・ポンペイ・ナポリ・カプリ島、北イタリアのフィレンツェ・ピサ・ベネチア・ベローナ・ミラノのイタリア国内7日間の長丁場でした。 |
このページが「歴史散歩」と名ずけている以上、イタリア・ローマの歴史に触れないわけには行きません。ただ、その歴史は大変長く、また、大変複雑なもので、簡単に記述出来るものではありません。ローマ帝国以前、古代ローマ帝国時代、東西ローマ帝国時代、各都市の分裂時代、他国による各都市の統治時代、ナポレオン統治時代、イタリア統一後の時代など各々の歴史があり、文化財的には313年のキリスト教公認、380年テオドシス1世の国教化、ローマ教皇の誕生(495年?)、ルネッサンス期などを経過して、現在残されている教会を始めとする施設、絵画、彫刻などが存在しています。 まず、ローマの歴史は、紀元前8世紀、イタリア半島中部、テヴェレ河の7つの丘に人々が住み着いたのが、都市ローマの発祥である。その成り立ちは、ことわざの通り「一日にして成らず」であったという。ローマ人たちは内紛や周囲の民族との抗争に明け暮れながら、たゆまぬ歩みを続け、次第に国としての枠組みを固めていく。それは、一千年以上に及ぶ繁栄の土台作りでもあった。・・伝承によれば紀元前8世紀、トロイ戦役の勇者アエネアスの末裔であるアルバロンガ族の王女と、軍神マルスの間に双児が生まれロムルスとレムスと名ずけられたが、アルバロンガ族の王により、テヴェレ河に流され、これを拾った狼により助けられる。後にレムスを殺めた王ロムルスはパラティーノの丘の周辺に城砦をめぐらせ、都市建設の意思表示の儀式をを紀元前753年4月21日に行った。その年、ロムルスは18歳、この若者と彼に従ってきた3千人のラテン人によって、ローマは建国されたのである。(以上、塩野七生氏『ローマ人の物語』スペシャル・ガイドブックを参考にしています。) その後、紀元前509年、ルキウス・ユニウス・ブルータスにより、王政から共和制への移行、カルタゴとの地中海覇権戦役(ハンニバル戦記)、紀元前100年、あのガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリウス・シーザー)の誕生を経て、古代ローマ帝国が形ずけられていきます。 |
![]() 16時48分、シベリア上空を飛行しています。 |
11月1日 美緒ちゃん一家の車で関空まで送ってくれることとなり、美緒ちゃんと空港でバイバイ出来ることとなりました。ほんの10日前に保育園で蔓延中の新型インフルエンザに感染し、少々の発熱ですんでいたため、送ってもらえることとなったわけです。5人で早めの昼食をし、展望ロビーでの大型旅客機発着の見学と、近くのアウトレットに行くことを希望している美緒ちゃん一家とは12時過ぎには別れ、出国ロビーへ。約13時間の空の旅です。 アリタリアAZ793(B777)便は、ほぼ、定刻14:00に扉が閉められ、滑走路に向かいます。離陸後の空路はシベリア上空です。離陸後約2時間、夕日に映えるツンドラ地帯上空を飛行しています。北への航空路のため、すぐに夕闇が迫っています。 ローマ/レオナルド・ダ・ビンチ国際空港には予定時刻の19:00より1時間近く前に到着。入国審査も何事もなく終わり、空港からバスで約5分のホテル「ヒルトンガーデン イン ローマ エアポート」に到着。この日、家を出発してからの20時間近い長い移動の旅は終了しました。 |
![]() サンピエトロ広場、寺院を遠望しています。 |
![]() クーポラ はミケランジェロ設計 完成は1590年 |
11月2日 イタリア観光初日、バチカン市国・サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietoro)へ 6時からの朝食の時間を待ちきれないメンバーは私ども夫婦だけではありません。その後のホテルの朝食時間が7時からだったのをみれば、6時からの食事時間は空港に近い為かとも思われます。 7時45分、ホテルを出発し、ローマ市街へは週初めと高速道路の修理による車線減少による大渋滞を乗り越え、バチカン市国城壁横には9時には到着しました。 日本人である我々は、まず、この巨大な石の城壁にとまどいます。日本の城の石積は大きな石を積み上げてはいますが、そのゆえに、必ず傾斜を必要とします。こちらの城壁は垂直の本当の壁です。まず、北側入口から、ヴァチカン美術館へ入場します。沢山の人の列が出来ていましたが、予約入場のため、入口で待たされることはありません。エレベーターで4階へ、まず、広い中庭にでます。ここには巨大な古い松かさ状のモニュメント、新しい奇怪ともおもわれる地球型のモニュメントがあります。「ダ・ヴィンチの最後の審判」の写真を貼った掲示板を参考に、ガイドさんから説明を受けます。 (ピーニャの中庭 ピーニャの中庭には高さ4メートルほどの巨大な青銅の松ぼっくりが置かれている。元々はローマのパンテオンにあったものだが、中世の時代に旧サンピエトロ大聖堂のアナトリウムに移され、その後1608年になって、現在の位置に落ち着くこととなった。松ぼっくりの両側には青銅のクジャクのコピーが2羽置かれている。オリジナルは2世紀の作品で、ブラッチョ・ヌオーヴォに展示されている。中庭の中央にある直径4メートルの球体は、彫刻家アルナルド・ポモドーロが1990年に制作した作品で、世界をあらわしている。以上 ats ヴァチカンより) ヴァチカン美術館(Musei Vaticani)へ入場すると、まず、その天井装飾に驚かされます。回廊に展示されている彫刻、絵画、そして特に巨大タペストリーの精密さに更なる驚きを感じます。写真撮影が出来るのはそれまで。続いて、撮影が禁止されているシスティーナ礼拝堂(Cappella Sistina)への入場です。実物、「最後の審判」・「天地創造」の天井画を見上げる感激を十分に味わいました。 (天井 総面積800平方メートルのフレスコ画は、ミケランジェロ最大の傑作であり、最も重要な文化遺産の一つでもある。この作品は1508年5月8日に描き始められ、1510年9月から翌年8月までの1年間にかかわる作業の中断を経て完成、1512年11月1日、教皇ユリウス2世により、荘厳な献堂式が執り行われた。両壁面のフレスコ画のテーマを受け継いで、キリストの到来を待つ人類の長い長い歴史が描かれている。それは、創世記の天地創造から預言者の物語に及ぶ歴史だ。ここでは人物像のすべて地味な色彩の建築構造にはいされており、構成上一つの中心点というものが置かれていない。従って、彫塑的で構成的な人物像という独特な特徴が最大限に引き出されているのである。物語は3つの部分に分かれている。・・・・ 最後の審判 天井画を完成してから20年後、ミケランジェロは1532年、教皇クレメンス7世(1524−34年)の依頼を受けて、同じくシスティナ礼拝堂の奥の壁面にフレスコ画を描くことになった。しかし、実際に作業を開始してのは後継者であるパウルス3世(1534年ー49年)の時代、1536年のことである。壁画が完成を見たのは1541年、同年10月13日の献堂式の際には、壮麗なフレスコ画がお目見えした。1527年、ルターの改革を受けローマの教会の権威を認めないドイツ人傭兵がローマを略奪するという悲劇的な出来事の後だっただけに、この礼拝堂は教皇の優越性の象徴とまでなった。・・・「最後の審判」は黙示録を中心に聖書やダンテの神曲から題材を取っているにも関わらず、ミケランジェロ自身の悲劇的な哲学感が全体を支配している。画面の中央には聖母マリアに付き添われたキリストが、シンプルな腕の動きで人類の死後の運命を決めている。ある者にとってはそれは救済であり、また、ある者にとっては地獄の責め苦である。・・・以上atsヴァチカンより) 内部写真は不可のため、ガイドさんが説明をしてくれている間に、解説版の写真を撮影しました。「天地創造」 「最後の審判」 です。また、以下は2005年大塚美術館を訪ねた折に撮影した、陶板画の「最後の審判」です。 システィーナ礼拝堂内の感激を引きずりながら、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San pietro)正面に向かいます。 大聖堂の内部の巨大さ、壮麗さにはまったくもって言葉はありません。 (この大聖堂の建っている辺りは古代ヴァチカンとよばれていた所で、湿原になっていたので不健康な場所とした余り人々の行き来しない場所であった。 そこが1世紀に灌漑され皇帝領地に含まれると、カリゴラ帝(37年-41年)はそこに競技場を建てさせたが、それはネロ帝(54年-68年)に完成された。伝説によればネロ帝によって64年のローマに起こった壊滅的な大火災の火をつけた罪を着せられた多くのキリスト教徒が迫害されこの競技場で処刑されたと言われ、その時使途ピエトロも同様に処刑され、競技場の東側のヴァチカンの丘の斜面と平行に沿った、細い街道沿いの貧しい異教徒の墓地に埋葬されたと言う。4世紀の始めコンスタンティヌス帝(306-337年)は墓地の広がっていた丘の斜面を整地させ、この墓地を蓋った上に使途の長サン・ピエトロを祭るおおきな聖堂を造らせた。この大聖堂は349年に完成された。 以上 VISIONガイドブックより) (キリスト教世界でもっとも聖なる場所の一つであるサンピエトロ大聖堂には、18世紀もの長い歴史がある。歴代教皇が尽力し、さまざまな文化的影響が混ざり合った歴史を体現するような建物だ。私たちの目の前にそびえる大聖堂は、主にルネッサンスとバロックの時代のスタイルを見せているが、それでも過ぎ去った歴史の記憶を思い起こさせる足跡が到る所にしっかりと顔をのぞかせている。 大聖堂内部は、1506年にブラマンテが、さらに1547年以降はミケランジェロが携わり、1600年代のはじめになって、マデルノの手で縦軸が伸ばされた。広々とした壮大な内部は、おびただしい数のストウッコ、モザイク、彫像などで装飾されたバロックの世界だ。ここを訪れる者はそんな中で一瞬我を忘れたような感覚に襲われる。・・・大聖堂の長さは187メートル身廊の幅は58メートル、翼廊部分の幅は140メートルになる。中央身廊部分の高さは最大のところで46メートルになる。16階建ての建物に相当する高さだ。・・・以上 ats ヴァチカンより) 1) 大聖堂内部 正面右を 正面左を 2) クーポラ内部 3) 聖ペテロ 「祝福する聖ペトロの像」 4) ミケランジェロ作 「ピエタ」 ミケランジェロ24歳の時の作品 大聖堂の右手出口に衛兵溜まりがあり、人々の整理をしながら、我々カメラマンの相手をしてくれています。サンピエトロ広場に歩を進め、周囲の回廊の柱が前後1本に見えるという地点を探します。 (広場 ベルニーニが1656年から1677年にかけて、教皇アレクサンデル7世(1655−1667年)のもとで完成させたこの広場は、二つの部分からなりたっている。まず、大聖堂に近い台形の部分。ここはミケランジェロ設計のカンピドーリオを手本としている。マデルノのファサードから距離を取る形で、宗教儀式が行われる大聖堂の全体像を見渡せるように斜面がついている。もう一つの部分は、円柱列で囲まれた楕円形の空間だ。ベルニーニ自身が語るように、「サンピエトロ大聖堂は全ての教会の母として、両腕を広げて信者たちを受け入れるような柱廊を備えていなければならない。信仰に篤いものたちは教会に集うために、信仰の薄い者たちは、真の信仰に照らされるために、暖かく迎えられなければならない・・・」・・・・ サンピエトロ広場は幅240メートル、奥行き340メートル。円柱列には284本の円柱が4列になって並ぶ。それぞれの高さは15メートルだ。欄干の上に、140体の聖人像が並ぶ。それぞれ3.20メートルの高さがあり、ベルニーニの弟子たちが仕上げた。同心円状に並ぶ敷石はあたかも大勢の人たちが中心に向かっているようだ。広場の中央には、オベリスクがそびえている。日時計にもなっているこのオベリスクはその昔、ネロの競技場を飾っていたが、1585年、教皇シクストゥス5世の命を受けた建築家ドメニコ・フォンターナの監督で現在の場所に移された。右側の噴水はマデルノの(1613年)、左側の噴水はベルニーニの(1675年)作品だ。 以上 ats ヴァチカンより) 1) 大聖堂正面 中央に、教皇がクリスマスや復活祭に祝福を与える窓、バルコニーがあります。 2) ネロの競技場にあったとされるオベリスク。 3) 4本の柱が1本に やはり4本あります。 広場前には自動車道路と分離する柵があり、市国を出国したこととなりました。 |
真実の口へ 12時丁度、ヴァチカン市国を出国し、市内観光に向かいます。「サンタンジェロ城」(Castel Sant'Angelo)を左に、さらに、テヴェレ川を左に見て進み、「真実の口」を目指します。テヴェレ川のパラティーノ橋を渡るとすぐに駐車場につきます。歩き始めると、交差点の向こうに茶色の鐘楼を持つ教会が見えてきます。「真実の口」はこのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の外壁柱廊の奥にあります。映画「ローマの休日」のシーンを真似るべく写真を撮る行列が出来ており、20分後にようやく嫁さんと。教会内部は大変厳かな佇まいで、信仰の原点を感じます。 テヴェレ川を左に見て、プリンチペ・アメデオ橋を過ぎると左手川向こうに、サンタンジェロ城が再度見えてきます。ウンベルトT世橋を渡ります。左手遠くに、サンピエトロ寺院が見えています。 イタリア最初の昼食となりました。カルボナーラ、サルティンボッカ、ケーキをワインハーフボトルで食す事となりました。その後の食事に於ける飲み物はワインのハーフボトルが大体7ユーロ、水は3ユーロ(大ボトル)というところでした。せっかくなので、極力ワインを飲みました。 (ハドリアヌス帝霊廟=サンタンジェロ城=聖天使城 アウグストゥス帝がカンプル・マルツィウスに霊廟を建てた例に倣って、約1世紀半後にハドリアヌス帝は自分と後継者のための新たな壮大な霊廟を建てようと考えた。130年に建てられたこの霊廟は、堂々とした円錐形で高さ21m、直径64mの規模を持ち、全体を大理石で蔽われた四角形の防壁で囲まれていた。上部には盛り土がしてあり、糸杉などの植物がそこに植えられ、頂上には4頭立ての馬車に乗った皇帝のブロンズ像が飾られていた。・・・・10世紀以降は城砦(サンタンジェロ城)に改築されてヴァチカン宮殿を守る役割を果たした。城砦と宮殿は秘密の通路によって繋がっている。 以上 VISIONガイドブックより) |
![]() コロッセオの横道を車が疾走しています。 |
コロッセオへ 再再度、「サンタンジェロ城」を車窓越しに眺め、車は「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」前を過ぎ、「フォロ・ロマーノ」横を抜け、「コロッセオ」に着きます。コロッセオを半周し駐車場へ。 小雨が振り出してしまいました。巨大円形競技場が目の前に聳え立っています。コンスタンティヌス帝の凱旋門の大きさもコロッセオの前では目立つことはありません。ガイドさんの案内で、コロッセオを一周します。左手には「ヴィーナスとローマの女神の神殿」の址の柱が見えます。 (コロッセオ 正確にはフラフィウスの円形劇場と呼ばれた建物はパラティーノ、チェリオ、エスクイリーノの三つの丘に囲まれた谷の中央部の、ネロ帝のドムス・アウレア(黄金宮殿)の庭の人口湖の在った場所に建てられた。その大きさは外壁の高さ50m、長軸188m、短軸156mと言う巨大な楕円形の建物で、10万立方メートルものトラバーチン大理石が使用され、そのいしのブロックを連結するために300トンの鉄材が用いられた。建築は70年代始めウェスパニアヌス帝の時代に始められ、80年にティトウス帝の時に竣工した。・・・・立見席も含めて全収容能力は約7万人で、剣闘士と呼ばれる闘奴同士の闘いや闘奴と猛獣との決闘等の他に様々な余興が行われた。 コロッセオ広場 威容を誇る巨大な円形劇場の前のコロッセオ広場は、そこに「ヴィーナスとローマの女神の神殿」が建てられたことで一層その重要さを増した。この広場は基本的には現代に到るまでほぼ当時の様相を保っている。・・・・ コンスタンティヌス帝の凱旋門 同帝がマクセンティウスをミルヴィオ橋の戦で破り、その専制からローマを開放したことを讃えて元老院とローマ市民とのよって寄贈された建築物で、・・・門の両側の小アーチの上に横に並んでいる小さいパネルと、門の側面の彫刻のみがこの皇帝の戦のエピソードえお物語るために彫られたものである。 以上 VISIONガイドブックより) 1) 「凱旋門」の左手後方に「ヴィーナスとローマの女神の神殿」址が 2) 凱旋門側面 トラヤヌス帝のダキヤ戦役浮彫り 3) コロッセオは大きい 4) コロッセオを時計回りに T U V W X |
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トレヴィの泉へ 15時半。トレヴィの泉に到着しました。雨が強くなってきています。でも、もちろん大変な数の観光客です。もちろん、後を向いてのコインの投げ入れは必須行事です。夫婦ともに笑い顔の投げ入れシーンの撮影に成功です。泉の横に「サンタ・マリア・イン・トリヴィオ教会」があります。 (トレヴィの泉 ローマにある最も巨大なバロック時代の泉で、ローマでも有数の観光名所として賑わっている。「トレビの泉」とも。 ポーリ宮殿の壁と一体となったデザインで、中央に水を司るネプトゥヌス(ポセイドーン)が立ち、左に豊饒の女神ケレス(デメテル)、右に健康の女神サルース(ヒュギエイア)が配置されている。これらはサルヴィの原案でブラッチが製作した。 元々は古代ローマ時代に皇帝アウグストゥスが作らせたもので、ヴェルジネ水道(ウィルゴ水道、乙女の水道の意)の終端施設としての泉が場所を替えた後、今の位置になった。その後、泉はローマの建築家ニッコロ・サルヴィの設計で改造、彼の没後の1762年に完成した。 以上 ウィキペヂアより) 1) 泉の全景です。 2) 泉3景 T) U) V) 3) ライトアップされた泉 大粒の雨が白く光っています。 |
雨がさらに強くなってきました。「トレヴィの泉」からその中を歩き、「スペイン広場」に着いたのは16時となっていました。ガイドさんの説明を聞いた後、皆、階段をあがる気力はありません。自由時間の計画を温めていた私達も、この雨の激しさにはお手上げです。大抵のお仲間は「カフェ・グレコ」へ直行です。私達もご同様。薫り高い「エスプレッソ」を頂戴し、会話を弾ませました。 19時からは ワイン飲み放題、カンッオーネ付きのディナーを楽しみました。 |
![]() 13世紀に建てられた大聖堂の鐘楼 |
11月3日 南イタリア マテーラ・アルベロベッロへ 今日は、まず、南イタリア マテーラまでの長いバスの旅です。7時半の出発です。雨は落ちていませんが、はっきりしないお天気であることは間違いありません。添乗員さんの口癖は、晴れか、曇りか、雨のどれか?で折りたたみ傘はいつも!!です。 車は高速道路で、まず、南へ向かいます。途中山頂に修道院とおぼしき建物郡の見えるドライブインで買い物です。 ヴェスビオ火山がだんだんと大きくなり、山裾の建物郡がはっきりと見えてきます。そして、車は山の東側を回ります。ここで、高速道路の交通規制とのことで、一般道に入ります。このあたり、南イタリアの地形は、北海道の大地をさらにダイナッミクにした形状で、11月で収穫の終わった畑、不可思議な丘の上(山の上という方が実体と思われます。)のみの都市集落が続きます。(この山の上の都市集落は衛生上、防衛上の故との説明あり)、さらに、南イタリアは明らかに農業が主体の産業で、景観は北海道と似通っています。 一般道への迂回の為、マテーラ到着後の昼食は15時を過ぎていました。予定からは1時間以上の遅れです。少し雨も降り始めました。昼食はパスタ、タコのトマトソース煮、アイスクリームで、タコのトマトソース煮は大変美味でしたが、添え物として付いていたジャガイモが塩辛すぎて口に入らなかったのは残念でした。 食後、16時過ぎからは、雨もよいの曇り空のため、日没が早まりそうな中を「サッシ」と呼ばれる世界遺産、岩穴住居郡の見学です。その光景は異様な興奮と興味をそそられます。 (マテーラの洞窟住居は、イタリアのバジリカータ州の町(マテーラ)にあるユネスコの世界遺産です。サッシ サッシ(岩壁を意味するサッソの複数形)とは、洞窟住居のことである。マテーラのあるグラヴィナ渓谷は石灰岩の侵食により造成され、渓谷にはこのサッシが何層にも重なって存在している。そのサッシがいつ頃から作られたかについては不明だが、8世紀から13世紀にかけて、東方からイスラム勢力を逃れた修道僧が住み着き、130以上の洞窟住居を構えていたといわれている。マテーラ周辺からは、旧石器時代の出土品も発見されているため、かなり古くから住んでいたと考えられている。 世界遺産登録外であるが、グラヴィナ渓谷を挟んでマテーラの反対側には、ムルジェッキアという旧石器時代の集落跡が発見されている。 以上 ウイキペディアより ) 1) サッシの町T) U) V) W) 2) 住宅内部T) U雨水を溜める地下タンク ライトアップされた聖母像に見送られて、マテーラを後にし、すっかり暗くなった道をアルベロデッロへ向かいます。19時半ホテルアストリアに到着。夕食は、シーフードパスタ、魚とやさいのソテー、フルーツを美味しく頂きました。 |
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11月4日 アルベロベッロ市内、バスで移動しポンペイへ 嬉しいことに、夕べと違い、快晴の朝を迎えることが出来ました。朝食後8時、トゥルッリの町の観賞に出かけます。トゥルッリとは漆喰塗りの白壁に円錐形のとんがり屋根が特徴的な、この地方のみでみられる一風変わった建物です。もちろん文化遺産です。ホテルを出て坂をあがると、町の中心とおぼしき広場があります。小さいといえども大砲が1門置かれています。日本人としてただ一人この地に根を下ろして、現地の方と暮らしている女性のトゥルッロをお訪ねすることができました。もちろんお土産屋さんをされています。家の内部、屋上からの撮影、また、この地の名産の試食など親切に対応していただきました。感謝!!感謝!!!です。もちろんお土産は購入しました。写真では実際の美しくそして楽しくなる風景を表現することは難しいことです。それほどに、目新しい、楽しい経験でした。 (アルベロベッロ(Alberobello)(「美しい樹」)は人口10030人のイタリア共和国プッリヤ州バーリ県のコムーネ(イタリアの自治体の最小単位)の一つである。ここにはトルッロ(「部屋一つ屋根の一つ」の意)という建物が約1000軒ある。16世紀半ばに約40軒のトルッロが建てられ、以後100年の間に土地開墾のため集められた農民が住むのにこの家屋を作らせた。 以上 ウィキペディアより ) 1) 展望台となっている場所からは T) U) V) 2) 町の通りは T) U) 3) 屋上からの眺めは T) U) V) 4) 屋根の外観は T) U) おとぎの国の散歩から帰り、9時半にホテルを出発、一路、ナポリ近郊経由でポンペイへ向かいます。 |
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11月5日 カプリ島 そして ユーロスターでフィレンツェへ 8時35分発の カプリ島行きのジェットホイルに乗船のため、8時35分にホテルを出発。今朝も快晴です。車はヌオーヴォ城などがあるナポリ歴史地区を通り、埠頭へ。巨大観光船が何隻も停泊しています。車内では添乗員さんからカプリ島で下船してから、「青の洞門」へ行くための舟に乗り換える手順を懇々と聞かされます。沢山の観光客が一斉に小型船さらにボートへ乗り換え「青の洞門」を目指すわけで、当然先陣争いにならざるを得ません。敗れれば洞門への突入時間が遅れ、海上で長時間待たねばなりません。その為の、丁寧な説明です。でも!!でも!!!でも!!!! 「本日天気晴朗なれど波高し」(ロシアバルチィック艦隊を迎え撃つ連合艦隊が日本海海戦に於いて、大本営に打電した電文)の言葉通りの状況の中、水中翼船であるジェットホイルは防波堤を出て高速運転に入ると大揺れに揺れ、何人ものエチケットスタッフが袋を持って飛び回る事態となりました。こんな状況です。「小型船への乗り換えはお断りしよう。」と心に決めていましたが、もちろん洞門への小型船は船出できる状況ではありませんでした。マリーナ・グランデ到着後、見晴らしの良い地点まで、ケーブルカーで登る観光への変更です。これはヨッカッタ。 ケーブルカーの到着地点はカプリ地区で高級ブティック、ホテルが立ち並んでいるリゾート地区となっています。細い道を歩くと、島の反対側の海岸線上の展望台に到着。ここからの眺めは絶景です。この景勝地で、ゆっくりと船での苦痛を癒すことが出来ました。 1) カプリ島のマリーナ・グランデをケーブルカーから。出航していく船と向こうのヴェスビオ火山が印象的です。 2) 展望台からの景観、何もコメントを挟む勇気はありません。 T) U) V) W) Y) ナポリへの帰りの船は11時35分です。若干心配しながらの乗船です。ジェットホイルが静かにカプリ島を離れます。防波堤外に出て高速運行に入って始めて安堵感が湧き起こりました。 3) 安定航行で船上から写真撮影が出来るようになりました。ようやく頂上付近まで望めるようになったヴェスビオ火山。 T U 4) ナポリ港からのヴェスビオ火山。 13時、港近くのレストランでリゾットと魚の食事を摂り、ナポリ中央駅へ。イタリアの駅は出札改札口は無く、ターミナル形式となっていることに特徴があります。 我々の乗車したユーロスター(15時15分発)は最終目的地はヴェネチァで、ローマ、フィレンツェに停車してゆきます。もちろんローマ駅、フィレンツェ駅、ヴェネチァ駅はターミナル形式となっています。線路は日本の新幹線のように完全に分離、設定されたようには見えませんが、乗り心地はそれほど悪いものではありません。 18時半、フィレンツェに到着。朝、港で別れ、ナポリからフィレンツェまで回送してくれていたバスに乗車し夕食のレストランへ。野菜スープ、ビーフ、ケーキを食し、シェラトン・ホテル・フィレンツェに到着することが出来ました。 |
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11月6日 ピサ フレンツェ市内・ウフイッツィ美術館へ ガリレオの逸話と写真では馴染みの深い「ピサの斜塔」を自分の目で確かめられるという記念すべき日となりました。まだ薄暗く感じられる7時45分ホテルを出発し、ピサまでの約80キロ、高速道路を疾走し、9時15分に到着しました。駐車場からはシャトルバスが。寺院の内外を分ける城壁にそって三角屋根の土産物屋さんが並んでいます。そして、半円形の小さなくぐり戸と感じられる入り口からその姿が浮かび上がって来ます。お!!あれが斜塔だ!!! ピサの斜塔はピサ大聖堂の鐘楼として1173年建設が始められ、14世紀前半に完成されたとされています。途中、地盤沈下による傾斜が始まったため、工事中止。3回までの傾斜した部分の上に、角度を修正したような形で上部を建設したということをガイドさんが説明してくれました。見た目には言われればそのようかな?とも思いますが、一番斜頚を感じられる角度から眺めると「なぜ、倒れないのかな?」という疑問のほうが大きいのではないでしょうか? 斜塔ばかりが有名ですが、この大聖堂は素晴らしく感じられます。広い敷地の中に点在する「大聖堂」・「洗礼堂」・「納骨堂」は「斜塔」とあいまって素晴らしい景観を作り出しています。 1) 大聖堂(ドゥオモ)は1063年建設が開始され、12世紀始めに完成されたとされています。ピサ地域の勢いが大変良い時代に建設されたものと思われます。 全景です。 正面を見上げています。 左部分をアップで。 扉上のモザイク模様を。 マリア像のモザイクをアップで。 大聖堂内は華麗な中にも厳かな雰囲気が充満しています。 正面祭壇に近ずきます。 上部肖像画 キリストの磔刑像 見事なステンドグラスの聖母像。 天井に目を向けると。 円形部の天井画。 正面祭壇のほかにもミサが行われるであろう礼拝所があります。 2) 洗礼堂 1152年建設が開始され、14世紀中ごろに完成。高さ85m。1階がロマネスク様式、2階より上はゴシック様式と時代背景による融合が見られ、ピザロマネスク様式と呼ばれているようです。クーポラが大変印象的な建物です。 洗礼堂全景 正面入り口方向から 中段部分の彫像 クーポラ上部 頂上の聖使徒 正面入り口上部聖母像 3) 納骨堂 回廊上部の塔に特徴がみられる様に、イタリアゴシック様式の代表的建物といわれています。 4) 鐘楼 ピサの斜塔です。高さは約55m。その傾斜は? 近くから見上げてみます。 斜塔へ登ることはチケット時間の関係で出来ませんでしたが、域内の佇まいと大聖堂内の素晴らしい雰囲気を味わうことが出来、十分満足させられました。 |
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11時ピサを出発し、フィレンツェへ戻ります。途中、やはり山の上には建物が在りますが、農耕地が無く、また家の様子など、明らかに南部とはことなる風景となっています。フィレンツェの町に入り、アルノ川のたもとにバスを留め、市内は歩くことになります。まず、連れて行かれたのは革製品の販売店。ここで、娘夫婦、息子夫婦へのお土産の革製品を購入、ついでに自分のお土産も。細い道を歩いて、「サンタ・クローチェ教会」の広場へ。そして、昼食の日本料理店に着いたのは13時半でした。久しぶりのお米にめぐり合い、感激です。お寿司、更にはかき揚うどんまでついています。そして、このお店のマスターからイタリアでの生活について話を聞かせていただきました。一階は回転寿司となっており、イタリア人が食しています。1時間ゆっくりと食事をした後、「ドゥオモ」に向かいます。細い道、 突然のように彫刻像の素晴らしい教会が現れます。また、沢山の人々が行き交う細い道 そして目の前に巨大なクーポラが載る建物が現れます。「ドゥオモ」です。 「ドゥオモ」(Duomo)(Basilica di Santa Maria del Fiore)(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)の外観は巨大で、華麗です。高さ91m、「花の聖母教会」という美しい名前は伊達ではありません。 正面です。T U V 右手に回り込むとクーポラが現れます。T 壁の色彩が豊かに。U 壁の彫刻です。V 正面左から堂内に入ります。ピサの大聖堂に比べて華麗さはありませんが、その分厳かな雰囲気です。正面の壁を見上げると、24時間時計が。(文字盤の[T]はミサが行われる日没を表し、通常とは逆回転し、ミサが行われる時間までを表している。ということです。) 正面祭壇に近づきます。 上方クーポラ内部にはフレスコ画「最後の審判」が描かれています。 そして、各所に華麗なステンドグラスが 床面は色の違う大理石を使った幾何学模様が作られています。 ここまで「サンピエトロ大聖堂」「ピサ大聖堂」「フィレンツェ大聖堂」を経験しました。全て、巨大で華麗です。「これは何なのだ?」との疑問が起こり始めています。 ドゥオモの正面右に鐘楼があります。「ジョットの鐘楼」名付けられています。高さ84.7mのゴシック様式で、ジョット、ピサーノ、タレンティの手により、1359年に完成しました。 また、正面向かいには「サン・ジョヴァンニ洗礼堂」があります。聖ジョヴァンニを祀る八画形の聖堂が、1128年洗礼堂となったとされています。正面扉は「天国の門」と言われ、10枚のパネルに旧約聖書の逸話が描かれています。現在の物はレプリカのようです。扉の上にはやはり彫像が置かれています。 |
![]() ヴェッキオ橋からウフィッツィ美術館を(クリックすると3階、明かり部分からの撮影) |
![]() 「ヴィーナス誕生」大塚美術館の陶板画です。 |
15時過ぎにドゥオモを出発。5〜6分ほどで、シニョリーア広場に着きます。正面に14世紀に建設され、現在は市庁舎として使われている「ヴェッキオ宮」があり、広場の中ほどには、「メディチ家の初代トスカーナ大公コジモ1世の騎馬像」、ヴェッキオ宮左には「海の神ネプチューンの噴水」、正面と右手屋内には 「ダビデ像」、 「サビニ女の略奪」 などの彫刻(レプリカ)が無造作に置かれています。 ウフィッツィ美術館(ウフィッツィの起源は1560年に遡り、メディチ家のコジモ1世(1519-74)の要請で、トスカーナ大公国の行政管理・司法オフィス(=ウフィッツィ)のために、”川沿いに空中に建つかのような”二つの翼廊持つ宮殿をヴァザーリが設計したことに始まる。公認ガイドブックより)に入ります。3階に上がると、そこは通路兼彫像の展示場です。絵画は各入り口から入る部屋に展示されています。メディチ家が集めた、ルネッサンス期を中心としたダ・ヴィンチ、ポッティチェリ、ラファエロなどの芸術家の作品が多くの部屋に所狭しと展示されています。一応ガイドさんに案内された後、館内の団体観賞が終わり、自由時間となったので、私達は今一度ゆっくりと観賞することができました。特にポッティチェリの「春」、(意味するところについては今日でも論争中の有名な作品。・・・この難解な寓意画はクレッツオとオヴィディオの古典著作と、花で飾られた三美神とフローラルを追いかけるゼフュロスのいる庭園の様子を叙述したメディチ家やポッテイチェリと交友のあったアニョロ・ポリツキアーノの詩篇(1475ん年)からとられた。公式ガイドブックより) 「ヴィーナス誕生」 (当作品については出所も発注者が誰だあったかも未だ不明であるが、16世紀には、メディチ家のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ(1503年逝去)のカステッロ邸に飾られていたことがわかっている。・・・古代の作家ホメロスとヴィルジニアから、あるいは、彼がよっく引用した友人ポリツィアーノの詩作からのインスピレーションを受けたと考えられ、キュロス島かキプロス島にたどりつく神話の女神の別のエピソードが表現されている。・・・公式ガイドブックより)の大作の前の腰掛に座り、ジックリ味わいました。館内はもちろん撮影禁止です。写真は大塚美術館を訪れた折に撮影したものです。館内で写真撮影が許されている箇所が2箇所あり、そこから「ヴェッキオ宮」・「ドォウモ」方面を眺めたもの、 「ポンテ・ヴェッキオ」方面 その夜景 なども楽しむことが出来ました。ガイドブックを読みながらこのような美術館の絵画、彫刻を観賞するとすれば、何時間あっても足りるとは思えません。 19時、レストランで夕食を摂り、シェラトン・ホテルへ。 |
![]() 夕暮れです。右から「サンタ・マリア・デッレサルーチ教会」・レデントーレ教会・ ズィテッレ教会が遠く見えています。 |
11月7日 ヴェネッチアへ 朝、ホテルを出発。高速道路をヴェネチィアに向かいます。快晴です。途中、イタリア半島の背骨の部分の当たるアペニン山脈を越えます。イタリアの紅葉もあちらこちら見受けられます。本島に繋がる橋を渡ります。11時半頃、ヴェネチィア・サンタ・ルチア駅前のバス駐車場に到着。今日のホテル”ホテル・プリンチペ”は駅近くで、荷物はバスを降りた場所で、ポーターさんに渡すことが出来ました。 我々は、水上タクシーで、 ドゥカーレ宮殿近くの船着場へ向かいます。まず、小運河に入り、右手にナポリと同じように巨大客船が停泊しています。大きなジュデッカ運河を航行中右手には、「レデントーレ教会」、 「ズィテッレ教会」、と続き、 「サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会」の鐘楼とクーポラが望めます。25分ほどで、サン・マルコ広場、寺院、ドゥカーレ宮殿が集まっている船着場へ着きます。 (ヴェネツィアは5世紀にアドリア海の干潟(ラグーナ)に築かれ、10世紀には強力な海運共和国として貿易で栄えた。街は118もの小島から成りドゥカーレ宮殿やサン・マルコ大聖堂、大運河沿いに連なる貴族の館はもとより小さな建物に至るまでヴェネツィアの街全体が建築的の大傑作とも言うべき美しさである。・・・) (以上 イタリアの世界遺産 イタリア政府観光局より) サン・マルコ広場を横切り、例によって、細い道を歩き、ゴンドラの乗り場へ着きます。これからがお楽しみのゴンドラです。新婚さんは二人だけの思い出を持ちたいでしょうが、我々は3夫婦6人の思い出で十分です。 この日は水位が上がっており、ゴンドラからその状況が一目にわかります。サン・マルコ広場にも水が上がって来ていました。 ゴンドラ風景です。 T) U) V) W) ゴンドラからの「リアルト橋」です。 昼食を摂り、再びサン・マルコ広場に戻ります。 広場にも、 サン・マルコ寺院前まで水がきています。 鐘楼(98.6m 1514年に完成していたが、1902年に崩壊、1912年に再建されたもの。尖塔の頂上の像は大天使ガブリエル ) ドゥカーレ宮殿(共和国の総督邸兼政庁だった建物。8世紀に創建され、14〜16世紀に賭けて現在の形に。 )を眺めた後、サン・マルコ寺院(828年、聖マルコの遺体を祀るため建造。ビザンチン建築で有名な寺院ですが、開創のたびにロマネスク、ゴシックなどの要素が加わりました。マルコはキリスト教における4福音書の記者の一人で、使途として認められてます。象徴はライオン。因みに、マタイは天使、ルカは雄牛、ヨハネは鷲。寺院の建物には各所に象徴である羽根のあるライオン像があります。 )に入ります。寺院内は写真撮影禁止のため、記憶がたよりですが、内部の記憶は飛んでしまっています。残念です!! サン・マルコ寺院です。T) U) V) W) 寺院参拝の後、ヴェネツィアン・ガラスのお店へ。その場での馬の製作実演の後、素敵なグラス類のお勧めをため息混じりに拝聴することとなりました。 その後の自由時間は運河が縦横に走る細い路地を歩きウインドウショッピング(カーニバルのための仮面のお店が目立ちます。)、 リアルト橋を自分の足で渡ります。 18時半、イカ墨パスタ(お店のメニュー)・魚介のフライとサラダ・チーズケーキの夕食を摂り、船着場から来た時と同じように駅近くの桟橋へ。20時過ぎにホテルプリンチペへ到着しました。 |
![]() ジュリエット像。右胸に触ると幸せになるとして。 |
11月8日 ヴェローナ ミラノへ 7時の食事、7時半出発までの時間、ホテルの近くを散策します。ホテル裏手は大運河(Canal Grande)で、歩いてすぐにスカルツィ橋があり、橋の上からホテルプリンチペの運河に面した玄関(ヴェネッチァでは運河に面したほうが主玄関との話があったと思いますが。)がサン・ジェレミア教会を後に望めます。7時半ホテルを出発。サンタ・ルチア駅裏を通り、ヴェネチィアでの運河の最後の風景を楽しみながら、バス乗り場の”ローマ広場”へ向かいます。 ヴェローナへ向かう途中に雨が降り出しました。Verona (歴史都市ヴェローナは紀元前1世紀に誕生し、13〜14世紀にはスカラ家統治下、15〜18世紀にはヴェネツィア共和国の一部として栄えた。古代ローマ時代の円形闘技場アレーナや、中世に城ステル・ヴェッキオ、ルネッサンス期の建築物等を多く今に残している。ロミオとジュリエットの舞台ともなっている美しい街はまた、芸術をとりいれながら2000年に渡りたゆまず発展し続けた要塞都市の好例である。以上 イタリアの世界遺産より) ヴェローナ市街へ入る前で渋滞に巻き込まれます。添乗員さんが「日曜日だし、こんなことは無いはず?」との独り言。この原因は展示会会場の 「International Horse Festival」の最終日にあたっていたのです。この渋滞がヴェローナを出る時に我々の車に直接被害がでるとは、「神のみぞ知る」ことがらでした。凱旋門らしき建築物を回り込むように、旧市街地へ入ります。この日は、「イタリア軍の記念日」にあったていたらしく広場には各種兵器の姿がバスの窓から眺められます。このための交通渋滞も含まれていました。 駐車場から「ジュリエットの家」に向かいます。途中、「古代の遺跡」を道路に穴を開けて展示している所、貝の化石が刷り込まれた大理石の道路石などを見ながら目的地「ジュリエットの家」へ。やはりわたし達と同様の観光客が群れを成しています。雨が激しくなり、「ジュリエット像」での撮影もそこそこに。古色蒼然たる市街地を歩き、「エルベ広場」などを経由して、「アレーナ」(円形闘技場)前広場へ。ここは各種兵器が展示され、雨の中ですが、市民の見物客も多数楽しんでいます。 雨の中をバスまで急ぎます。町をめぐる河を渡り、郊外へ。ヴェローナの市街地へ向かう時に渋滞に巻き込まれた博覧会場の前で、バスは会場から出庫しようとする車に当てられます。災難です。双方に怪我人は無く、非は100%乗用車でしたので、運転者同士の話し合いで解決し、ミラノへ向かうことが出来ました。大きな事故であれば多くの時間がとられた事でしょうが、不幸中の幸いということで終わりました。 |
![]() 綺麗に修復されたドゥオモ正面。クリック後は上部尖塔部分。 |
12時過ぎに、ミラノへ向かうために、高速道路に入ります。車の右側遠くに、アルプス山脈の雪を冠った山々と北へ通じる道が在ると思われる山々の狭間の部分が見えます。14時頃、ミラノ市街に入ります。さすがに商業、工業の町らしい雰囲気があります。今まで回って来て始めてといっていい雰囲気です。(北部イタリア最大の都市。人口は130万人。ミラノ・コレクションで知られるように服飾・繊維産業、そして自動車・精密機器工業などがイタリア随一とされる都市)この日の昼食は中華料理(台湾料理)です。馴染み深い感じがします。丸テーブルへ大皿が出されますが、やはり、パスタと同じように、量が多すぎるきらいがあります。 食事後は、ツアー最後のお土産店。そして、バスで「ドゥオモ」近くの駐車場へ。町の建物の屋根の上にゴシック様式独特の尖塔が見え隠れしてきます。 街角を回り、ドゥオモDuomo di Milano 全体の華麗な巨大さと尖塔の数の多さ、壁面の彫刻の数と精密さが見えた時の衝撃は言葉に出すことは出来ません。Duomo (街を代表する教会堂。大聖堂と同じで、カテドラルCattedoralと呼ばれることも。フィレンツェ大聖堂(サンタマリア・デル・フィオーレ教会)・ピサ大聖堂・ヴェネチァ大聖堂(サン・マルコ寺院))の着工は1386年それから500年以上の歳月を要してこの巨大なゴシック様式の大聖堂が出来上がりました。壁面は最近の修復で綺麗になったようですし、今も上部は修理が行われているようで、クレーンや足場が見て取れます。この日我々は、正面右後からのご対面となりました。 最も高く伸びた尖塔(108.5m)の先には「マドンニーナ」と呼ばれる黄金のマリア像が。 マリア像の周囲には135本の尖塔とその先には聖人が。 正面に回ります。。 細部の彫刻はカメラに収められましたが、雨が降るなかでのドゥオモ全体の撮影は諦め、聖堂の中へ入ります。 サン・ピエトロ大聖堂に次ぐ広さを持つという内部。その広さを実感するように、遥か彼方、内陣でミサが行われています。 その高さ。 そして、天井部分。 横壁の祭壇。 壁部分に掛けられた聖書に基づく絵画。 そして、周囲の明り取りとして機能する多彩な多くのステンドグラス。 これでもかという宗教的圧迫感を感じざるを得ません。ヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂を始めとしたイタリア各地の大聖堂を訪ねその華麗な素晴らしさに感動を覚えながら、若干の違和感を持たざるを得ないのは、わたしがキリスト教徒ではない故なのでしょうか? ドゥオモを出ると雨の故もあるでしょうが、夕闇が迫っています。ドゥオモ広場 の右手には「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア」の大きな門が そしてその概況です。 Galleria Vittorio Emanuele U は1878年に完成した、ドゥオモ広場とスカラ広場を結ぶ十字型の巨大なショッピングアーケードで、四辻の美しいドーム型天井の壁面には、4大陸を表すフレスコ画が描かれています。ガッレリア内の4景です。T) U) V) W) アーケードの各種お店をを抜け、スカラ広場に出ます。「スカラ座」の前 (Teatro alla Scala ミラノ大公の命により着工し、1778年完成したオペラ劇場)には、 「ダ・ビンチの彫像」が立っています。雨そしてすっかり暗くなりました。「最後の晩餐」の予約時間18時が迫ってきました。歩いて「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」(Chiesa di Santa delle Grazie 15世紀半ばに建てられたドミニコ派の修道院を、1492年にスフォルツァ家のイル・モーロが建築家ブラマンテに命じて改築させたもの。))へ向かいます。 |
![]() ウィキペディアから |
予約時間15分ほど前には、教会の前に到着できました。すっかり暗くなった状態で、この教会の全容は見分け出来ません。ライトアップされた正面のみが見分けられるほどです。わたし達は絵を保護するための人数制限の関係で、18時と18時15分の入場に別れ「ダビンチの最期の晩餐」に対面することとなります。嫁さんとは15分のグループです。ガイドさんの解説を聞きながら、わくわくする思いで待合室で待ちます。時間が来てまず廊下への自動ドアが開きます。廊下をしばらく進み、壁に「最後の晩餐」が描かれている食堂の玄関に当たる一室へのドアを入り、今一度前のお仲間が全員退室するまで待って、ようやく自動ドアが開けられました。 係りの女性2名のみが残る適度の明るさで広く感じる、本当に静かな、静かな一室に歩を進めると、右手正面に大きく、迫力に圧倒される「最後の晩餐」が描かれていました。皆、各々の思いからでしょうか、長く、深いため息から鑑賞が始まったように思われます。その後は各々が胸に秘めていた細部の確認作業。15分の鑑賞時間が過ぎようとする時、今一度、「最後の晩餐」を目に焼き付ける作業をしての退室となりました。感動!!!の一言です。 |
「最後の晩餐」(Cenacolo Vinciano)(460cm×880cm 油彩・テンペラ) 以下は、教会の売店で入手した『レオナルド・ダ・ヴィンチ』からの抜粋です。また、部分写真はこの本からのお借りしました。 ミラノ領主ロドヴィコが自分の礼拝堂および霊廟として選んだサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂では、1492年に建築家ブラマンチ(1444−1514年)によって円蓋と内陣の改修が行われた。そしておそらく1494年にレオナルドはこの教会から<最後の晩餐>の製作を依頼された。この絵は食堂内の北側の壁を飾るもので、以後レオナルドは1495年から1498年までの3年を越す年月にわたって、一連のスケッチ、習作および準備素描に専心することになる。 「最後の晩餐」という主題はキリスト教美術のなかでも古いものだが、もっぱら修道院、とくに修道士らの食堂を飾る絵として典型的な主題であり、通常は食堂内の壁に大きく描かれる。初期の準備素描においてレオナルドは、裏切り者ユダをキリストの反対側に坐らせるという伝統的な構図を受け入れようとしていたと思われる。しかし、すでに当初から「この主題についての彼の考えは、裏切りが行われるというイエスの予言を悲劇の中心的なモチーフとして扱うという構想にすっかり支配されていた」(ハイデンライヒ)。したがって、<最後の晩餐>の構想においてレオナルドを支配しているものは、起こりつつある悲劇にまつわる人間模様であり、けっして聖体拝受の制定という純粋に宗教的神秘的な瞬間、すなわちキリストがパンと酒杯を使徒たちに授けつつ「取って食しなさい」(「マルコ福音書」第14章22−23節)と言う場面なのではない。 この作品の製作途上で、食卓の向かい側にいたユダ(デッサンの段階のこと)は、壁面においてはキリストやほかの使途らと同じ側に越しかけることになる。ただ、キリストの声が響きわたるとき、ひとりユダだけが他の者とはっきり異なる態度を示す。すなわち、使徒らがみなイエスの方に身を乗り出したり、あるいは師の予言について論じあったりしているときに、ユダは自らこの場面の悲劇から身を遠ざけようとしているかのように見え、みなから孤立し、重い背信行為をうかかわせる怪しげな様子を見せているのである。・・・・・ <最後の晩餐>に描かれた人物の運動表現は合唱のように響き合う。すなわち、キリストの放った「あなたがたのうちひとりがわたしを裏切ろうとしている(「マタイ福音書」大26章21節)という驚くべき言葉は烈風のごとく使徒たちの間を吹く抜け、使徒たちは3人一組となってその意味を理解しようと話し合う。古典的な建築と均衡からなるこの部屋の平穏が、居合わせた者たちの中央に坐るイエスの、恐ろしい予言によって一瞬のうちにかき乱され、そこから、やがて徐々に悲劇的な結末が訪れるであろうという自覚がうねるように伝わっていく。背後にある三つの開口部の向こうには、夏の日暮れの明るい空が広がっている。それは、本質的に人間の悲劇という主題を表現するさいにレオナルドが導入する自然界の描き込みなのである。・・・・ 以上が元々からわたし達が学んできた内容に近いものですが、「ダ・ヴィンチ・コード」(ダン・ブラウン著)はこの「最後の晩餐」という絵画に更なる興味とミステリーを付与してくれました。「ダ・ヴィンチ・コード」の一節を別ページで紹介します。 |
雨が止みました。「サンタ・マリア・グラツィエ教会」から少し歩くと、「スフォルツェスコ城」に着きます。幾重にも吹き上げる噴水のバックには、ライトアップされた「スフォルツェスコ城」(Castello Sforzesco)が幻想的に映し出されています。(14世紀に、当時ミラノを支配していたヴィスコンティ家が建てた巨城を、1540年にミラノ公爵スフォルツァが改築、設計にはダ・ヴィンチやブラマンテらも携わったということです。) 19時半を過ぎました。この日、わたし達は今回のイタリアの旅での「最後の晩餐」となります。”DA CECCO” 有名人の利用もされているとのスナップ写真が沢山張ってあるお店です。その中には”ショーン・コネリー”の顔も。乾杯のための赤ワインのハーフボトル、リッゾト、 ミラノ風カツレツ、 ティラミスで旅の夕食を締めくくりました。ミラノのホテルは「フィエラミラノ」でした。 |
11月9日 ミラノからローマそして関空へ ミラノは朝から雨です。ミラノからローマへは12:00のフライトなので、ゆっくりの出発です。ホテルは9時に出発。空港での荷物のチェックインは免税品の申請なども含み、結構時間が掛かりました。スーツケース1個20キロの制限はお土産物が多い場合は若干オーバーすることが多いようです。お仲間は各々の制限重量に上下があり、全員無事にパス。 空港内にトヨタの新プリウスが展示されていました。なるほど!! ローマへの飛行中雲の切れ間に、西海岸が見えています。イタリア中部は晴れています。。 ローマ空港での出国手続きが済み、最後のお土産を購入。搭乗機AZ−0792(日本航空共同運航JL5068)(B777)は定刻にはやや遅れて出発。一路関空へ。 |
11月10日 関空到着 到着予定時間である10時40分には無事に関空に着くことが出来、松井山手駅行きのリムジンバスを待つ間、お蕎麦の昼食を摂ることが出来ました。ホント、ホツとする時間とお蕎麦を味わいました。片道12時間のフライトは大変シンドイものですが、次回はローマ市内の行くことが出来なかったところへ、パリの美術館めぐりへの旅をしてみたいものとの気持ちも湧いてくるほどでした。 今回の旅には、車椅子を使用するお仲間が居りました。この旅を通じて、ご本人の旅を楽しもうとする強い意志と、ご両親の心遣い、車椅子にはけっして良いとは言えないイタリア各地の道路状況に対応してのお仲間、添乗員さん、運転手さんのバックアップにはほんとうに頭が下がりました。和気藹々と楽しく、また、学ぶことが多い旅が出来、無事に帰国することが出来たのは、皆様の御蔭と心から感謝します。有り難うございました。 |
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